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13章 ジークフリート・イェルザレム -1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-1

 コロの主要な同僚のひとりで、コロと同じようにリリック・テノールの声質で非常に多くのレパートリーをコロと共有しているテノールが、ジークフリート・イェルザレムである。イェルザレムのヘルデンテノールとしてのキャリアをさかのぼると、十二年をちょっと過ぎたばかりのところである。その前に、彼はプロのバスーン奏者だった。彼は短期間のうちに、ペーター・ホフマンとルネ・コロに伍して、ドイツ物のレパートリーの大部分で、世界的名声を得るにまでの上昇を果した。
 イェルザレムは1940年4月17日にライン河畔のObernauserで生まれた。戦後の少年時代、彼は家庭で歌とピアノが主要な出し物であった音楽会を楽しんだ。彼は音楽教育を受けて、優秀なバスーン奏者になった。この楽器は、彼の父親が、主要なオーケストラの楽団員になりやすいだろうという理由で認めたものだった。これに対して、声楽はお金がかかりすぎるし、歌手という仕事はオーケストラ団員ほど安定していないという理由で、声楽のレッスンは受けさせてもらえなかった。
 フォルクヴァング学校(Folkwangschule)と大学での正式な勉強のあと、テノールはロイトリンゲン(Reutligen)のシュヴァーベン(Swabian)オーケストラに採用され、ここで1962年から、有名なシュツットガルト・ラジオ・オーケストラに採用された1971年まで、バスーンを吹いた。この間、イェルザレムは自分自身の楽しみのために声楽のレッスンを受け、度々、おじでオペラ歌手のヘルベルト・ベッカーHerbert Becker の伴奏をし、それによって、声との関わりと興味を持ち続けた。シュツットガルトのオーケストラの団員だったころ、バス歌手のマンフレート・シェンクが彼が歌うのを耳にして、本気で勉強するように励まし、教師として Herta Kalcher を推薦した。イェルザレムはシェンクの助言を受け入れ、バリトンのレパートリーの準備を始めたが、ヴォータンが歌えないということに気がついたとき、Kalcher夫人は代わりにジークムントを歌うことを提案した。イェルザレムの声質がテノールの声域に合っていることは明らかだったので、次の一年間ゆっくりと再訓練した。彼は、将来の展望のない歌のために安定を捨てるつもりはなかったので、その間もしばらくは、フルタイムのオーケストラ団員としての立場を維持していた。

video120n.jpgシュツットガルト・ラジオ・オーケストラがジプシー男爵(Der Zigunerbaron)の録音のために演奏していたある日のこと、イェルザレムが待っていたチャンスがやってきた。この話は、楽しいことわざ的な「一大幸運」だった。イェルザレムはこの話をするのが好きで、生き生きと話す。この録音に予定されていたテノールのフランコ・ボニゾッリ Franco Bonisolli が現れなかったので、プロデューサーは絶望的な気分だった。イェルザレムはクルト・アイヒホーン Kurt Eichorn を説得してオーディションのチャンスを得た。アイヒホーンは十分な感銘を受け、イェルザレムに対してこの仕事の契約を申し出た。そこで、イェルザレムはオーケストラでバスーンの演奏を続け、後でテノールの役をアフレコした。イェルザレムはあの時点で彼の声はAls flotter Geistの終りの高いCを自由に響かせるのに必要な音域ではなかったので、納得できる音程を歌うためにエンジニアとテノールは27回の録音したと打ち明けている。数年後、この企てについて冗談めかして、自分でもいらだたしくて、何度目かの失敗の後で、どんな具合に「くそ!」と呟いたかを話している。プロデューサーは優しくなだめて、それは十分手に入れました。とにかくその音程を歌ってくださいと言ったそうだ。
 それでも、出来上がった録音は、テノールが望んでいたオペラの世界への入場権を提供することになった。1976年には、シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ Silvio Varviso によるオーディションの後、シュツットガルト・オペラのいくつかの公演が提示されたし、アーヘンとハンブルク(ハンブルクではルネ・コロとのダブルキャストで交互に歌った)ではローエングリンとして客演した。ダルムシュタットではピンカートン(蝶々夫人)とアルヴァーロ(運命の力)も歌った。テノールは、伝統的な地方経由のキャリア形成をするには年を取り過ぎていることがわかっていたし、多忙をきわめながらも維持してきた二重の仕事は彼に損失をもたらしはじめていた。ほんの少しではあったが、成功に勇気を得て、オーケストラのほうは休暇を取り、ベルリン、ミュンヘン、ウィーンの大オペラ劇場で自分を試すことを決意した。
 1977年、イェルザレムは、バイロイトに招かれ若い水夫の役(トリスタンとイゾルデ)でデビューし、シェローのリングではフロー役を歌い、そしてコルンゴルトのヴィオランタとフロトーのマルタの録音を依頼されたとき、最終的に歌手になることに決めた。オーケストラ団員の職を辞め、国際的なオペラ歌手の道を歩みはじめた。
 1978年はテノールにミュンヘン音楽祭のローエングリンとして、ベルリンでタミーノ(魔笛)として成功をもたらし、1979年にはウィーンに、その後バイロイトにパルジファルとしてデビューした。1980年にはペーター・ホフマンと交互に歌うダブルキャストのローエングリンとしてニューヨーク・デビューを果し、その夏のバイロイトでも白鳥の騎士(ローエングリン)と純粋な愚か者(パルジファル)をこのドイツ人仲間と再び分け合った。
 イェルザレムは過去12年間、毎夏バイロイト祝祭劇場に出演し、ワーグナー好き達の気に入りの歌手となった。彼は自分は怠け者で学ぶのが遅いのだと自嘲的に言っているが、ドイツ・オペラの役を少しずつレパートリーに加えた。1981年にニューオーリンズでフィデリオをはじめて歌い、同年にベルリンで再び同役、それからベルナルド・ハイティンク Bernard Haitink の指揮で魔笛を録音した。それから、彼の同僚がピーター・ホール Peter hall演出、ゲオルグ・ショルティGeorg Solti指揮のバイロイト・リング、1983年の新演出のジークムントを辞退したとき、ジークフリート・イェルザレムは説得されて、舞台でこの重いテノールschwer Tenorの役に挑戦することになった。彼はウェルズングWaelsungの双児役で大喝采を受け、このプロダクションの三年間を通してこの役を演じ、ドレスデンでマレク・ヤノウスキ Marek Janowskiの指揮でこの役の録音もした。
 他のワーグナーの役は、1986年にコヴェントガーデンでエリック(さまよえるオランダ人)、バルセロナとバイロイトでシュトルツィング(マイスタージンガー)、1987年にメトのシェンク演出、シュナイダー・シームセン美術担当のリング(ジェームズ・レヴァイン James Levine 指揮で録音も)で初ローゲ(ラインの黄金)、そして、ハリー・クプファー Harry Kupfer演出、ダニエル・バエンボイム Daniel barenboim指揮で、大成功の初の若きジークフリートがある。
 だが、イェルザレムは、重めの劇的な役を引き受けるのは慎重であるべきだから、ワーグナー以外のものにレパートリーを広げ、幅広い抒情的な役を保有し、重い役との均衡をはかるべきだと考えていた。1983年以降、歌曲 Leiderの歌手としての名声も確立しており、いくつかのリサイタル録音があるし、加えてコンサートにも度々出演している。モーツァルトの役もいくつかやっている。例えば、イドメネオの題名役は1984年にジュネーブで、1988年から1989年にかけて、メトで歌った。イェルザレムは、録音によってもそのレパートリーの幅を広げてきた。例えばシバの女王 Die Koenigin von Sabaといった多くの無視されているドイツ・オペラを取り上げ、その魅力をよみがえらせた。
 将来の予定は一杯で、1988年から1989年にかけてだけでも、メトでローゲとイドメネオ、ベルリンでジークムント、パリでフロレスタン、バイロイトで両ジークフリートをどれも複数回。客演は、ヨーロッパとアメリカ全域にわたり、彼の才能が紹介されるや、彼に惚れ込む聴衆は増えるばかりである。ジークフリート・イェルザレムの歌手としての成功は、非常に短期間に確立した。彼の特有の本質的には抒情的なベル・カント的テノールの声でドイツ・オペラの相当多くのレパートリーをこなすことができたのは、そのよく考えられた慎重なキャリアの進め方のためだ。これを書いている現在、彼はまだ絶頂期にあり、声的にもなお成長を続けている。この注目すべき芸術家の将来にはまだ多くの発見と成果があることは間違いない。
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 芸術家、ジークフリート・イェルザレムを理解する鍵は、彼のしっかりと根を下ろした音楽的才能である。彼の充実した音楽教育と若いころの楽器演奏経験のキャリアは彼の歌唱スタイルと発声決定の基礎となった。彼のテクニックは安定しており、テクニックに対する信頼感は非常に高い。私が歌えるのなら、モーツァルトとワーグナーを一緒に歌えるということだ。両者に違いはない。 と彼は断言するが、これはある意味、彼の好みの普遍性と、声の他目的使用に関する洞察を示している。彼の声は生来英雄的ではなくむしろ抒情的であるという認識に基づいて、イェルザレムはレパートリーを慎重に構築してきた。常に自分の決定を再検討する余地を残すようにしている。例えば、1983年にインタビュアーに、ワルター・フォン・シュトルツィングが私が歌うもっとも重い役になるだろうと話した。しかし、1988年には、若きジークフリートを歌った。そして、彼の声が自然に暗く、重くなっている今、オテロとトリスタンでキャリアを締めくくりたいと話している。同時に、イェルザレムは、コロと同じように、「ヘルデンテノール」というレッテルに異議を唱え、ただのテノールであると主張し、あまりにもドイツのレパートリーに限定されることが多いテノールであることを遺憾に思っている。(イタリア・オペラの役が好きなのに、歌うチャンスがないのだと主張する)彼は、非常に幅広い興味を満たすために、非常に多くのリサイタルとコンサートを計画してきた。これは自由自在な選択することをかなえてくれるし、全部ワーグナーの役ばかりという重いメニューから声を護るのに役立っている。彼が自ら告白したところによれば、レパートリーに関する彼の好みは年々広がっているということだ。(若いころ、ワーグナーは好きじゃなかった)彼の好みは、今なお、クラシック以外のジャンルを含むまでには広がっていない。この点で、彼はコロとも、特にホフマンとは、違う。ホフマンがロックを歌うことについて、イェルザレムは好意的にではあるが、彼のように売れるロックなら少しは歌ってもいいかもしれないが・・・私の考えではこの音楽には表現するものがあまりにも少ししかないから、どっちみち、私には歌えないんじゃないかと思う。と率直に述べている。それでも、彼はインタビュアーに対して、自分の音楽を愛する気持ちは深く喜びに満ちており、あらゆる形式における音楽制作に対する尊敬の念はうそ偽りのないものであることを、急ぎ再確認した。
 イェルザレムが自らの職業について話すのに耳を傾ければ、それが彼にとっていかに重要かということがわかる。それにしても、彼が達成した驚異的な成功に関して、実際のところ、なんと謙虚で、なんと無頓着なことだろうか。彼は自身の栄達、あるいは、他の仲間たちとの競争を、露ほども感じさせずに話すことができる。いつだって主要なヘルデンテノールは少ししかいないものです。それどころか、彼はこんなふうに何気ない感じで力説することができる。
 ひとつの高音が100%正確に出ないからといって妨げられるなどということはありません。
 だが、その後に彼は、まるでそれが物凄く簡単に手にした成功だったかのように、付け加える。
 私の職業においては全ての音符を100%完璧に出すことではなく・・・むしろ全ての音符が総合的概念を表現することのほうが重要だ。つまり、役を心理的かつ演劇的に確実に理解し、音楽的に表現可能なように理解することこそが重要なのだ。
 イェルザレムの自分自身に対する期待は常に過酷であると同時に現実的である。おおらかさ、正直さ、穏健な知性、あけっぴろげなところなどが独特に入り交じり融合している。多くのオペラ歌手仲間ほど追い立てられているようにはみえない。彼は健全な精神を維持するためと、テニス、写真、ウィンドサーフィンの趣味を楽しむために、そして、ジェット機時代の歌唱を離れて休息するために、年に三度休暇を要求していることをあっさりと認める。より深い意味での安定と幸福をまもるために、彼は妻と二人の子どもたち、エーファとダヴィッドを常に一緒に移動させている。娘が学齢に達すれば、これは確かに難しくなることを認めながらも、いつもみんな一緒にいられるように家を借りるのですと彼は言う。
 そして、こういう単純で優れた感覚の考え方によって、イェルザレムは、その成功と人格の中心を成す分別や、ユーモアの感覚、自意識を維持している。このひとりの個人としての完璧な自然さと友好的な気のおけなさは、彼の芸術において、人間性の大きさを表現する際の、大きな要素である。ジークフリート・イェルザレムにあっては、人間と芸術家は同じものである。どちらも第一義的に人生と音楽に対する愛に深く根ざしている。
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 ジークフリート・イェルザレムは基本的な声楽的分類という観点からルネ・コロとの共通性が非常に高い。どちらも本質的に、モーツァルトやイタリアのベル・カント的レパートリーに適しているリリック・テノールである。それにもかかわらず、二人ともそのリリックな声に潜む可能性を探究する道を選び、声の成熟に伴って劇的な役の分野を拡大している。
 ドイツの伝統的用語では、ジークフリート・イェルザレムは軽めの英雄leichter Heldに耐える真のテノールecht Tenorである。いわゆる若々しい英雄jugendlicher Heldの音色を得て、イェルザレムはより重めのワーグナーの役の声質をうまく達成することができる。彼の声は、コロやトーマスといったその前世代の幾人かの歌手より、暗い響きと豊かな彩りを感じさせる。声の規模から言えば、イェルザレムの声は本質的に中規模である。だが、その独特の特質のおかげで、実際以上の重さと迫力を伝えることができる。イェルザレムの場合、キャリア開始以降、高音域も柔軟性を増してきてはいるけれど、中音域が最も強く豊かで変化に富んでいる。いきなり高いAの音をだしたり、あるいは、音域の転換点(passaggio:註、人間の声の音域の移行のこと、テノールの場合、E、F、G で中音域(胸声)から高音域(頭声)に移行する)に長く留まっているようなワーグナーの役では、イェルザレムは、多少、そこのところで喉が締められた音をだすことがある。尤も、声の成熟に伴い、年々気にならなくなっている。例えば、声に優しい、モーツァルト、コルンゴルトkorngold、ゴルトマークGoldmark、レハールでは、豊かでのびやかな声を出すのは、彼にとって何の問題もない。
 実際のところ、生来の資質にある限界はテノールのすべての歌唱の底にあるしっかりとした音楽理解によって見事に補われて、ないも同然である。イェルザレムの生来の音楽性と訓練によって身についた音楽的能力の両方が彼の歌には表れている。彼の発声は完璧だし、歌い回しは洗練されており、彼の起伏に富んだ躍動感は説得力があるし、彼のレガートは優雅で、めったに声を無理に押し出したりはしない。
 ステレオ批評 Stero Review誌は、1984年のシュトラウス・アルバムの批評で彼の声を正確に記述した。
 抒情的だが、疑いなくドイツの伝統の中で、彼はなめらかな歌唱を行っている。彼はすばらしい息づかいでフレーズを持続し、見事な様式感で、やわらかいメッツァ・ヴォーチェmezza voceを用い、真の音楽を見いだしている・・・
このような純粋に音楽的美徳に加えて、彼には優れた朗唱感覚がある。実際のところ、抒情的な声を劇的なものに変化させるのに役立っているものは、英雄的な歌い回しと歌詞の扱い方、そして、ぴっりっとした辛みのきいた語り口なのだ。
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13章 ルネ・コロ -4/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ -4
Opernwelt誌は、これはコロのキャリアの頂点であった・・・・熟考された、知性あふれた歌唱であったと書いた。この録音で、コロはパルジファルを、最初から繊細で優しい若者として描いている。彼は夢見がちに森をさまよう人で、グルネマンツが白鳥を殺した乱暴な彼と対決するやいなや後悔する。第一幕は古今未曾有の静けさである。極めて詩的で、表現は柔らかく、極端に感傷的にさえ聞こえる。きらきらときらめく、印象派的な、楽譜の扱い方を強調する繊細な感情が存在するが、一方で、時に、この役に要求される力強い緊張感や情熱を創り出せていない。この若者は非常に柔和で、多感な音色のうちに、ヘルツライデを思い出し(Ich habe eine Mutter 私には母があった)、母の死という事実に直面すると正真正銘失神してしまう(Ich verschmackte 気が遠くなる)。コロは第一幕の最後で、穏やかにWer ist der Gral? グラールとはだれですか と尋ねが、それは、本当に知りたがっているという印象を与える。これに対する評論家の考えは、テノールの精神的探求への熱望が生じるのが早すぎて、第二幕の演劇性をある意味で奪うことになっているということだ。
 第二幕でテノールは弱音pianoを多用する。(実際のところ、トーマス、ホフマン、コロは楽譜に記された弱音pianoと最弱音pianissimiに注意を払っている珍しいヘルデンテノールたちだ)コロの花の乙女たちとの会話は優しく内省的であり、クンドリーのキスの後に彼が感じる良心の呵責は、原罪に対する青年の衝撃的な認識である。アンフォルタスという叫びにおいてだけは、コロの明るく軽い声はショルティの大胆な指揮に圧倒されているようにみえる。だが、テノールは槍を受け止める、二幕の終りを手堅く響き渡らせてうまく締めくくっている。
 第三幕でも、このパルジファルは悔恨にくれる若者のままである。そのへりくだった様は感動的ではあるが、純粋な愚か者の新たな成長を示す暗めの声質を何度も期待してしまう。テノールは、du weinest のところにおける本物の弱音piano、歌い終りのOeffnet den Schrein での安定した漸次弱音楽節diminuendoなど、いくつかの秀逸な技術を示すが、Mein erstes Amt verricht ich somezza voce メッザ・ヴォーチェ (半分の声での意味) で歌うところでは、奇妙なヴィッカーズ風の低くささやくような歌い方(crooning)になってしまうこともある。しかし、三幕でのコロの最大の欠点は、奇跡的な変容の感覚を創り出せていないことである。彼は聖餐の奇跡によって新たな力を与えられ、変容を遂げ、決定された英雄というよりはむしろ、崇高な聖杯に奉仕する、畏れに打ち砕かれ、震えおののく、謙遜な若者である。
 この十年、コロはより重いワーグナーの役を歌うことが多くなっている。今日、タンホイザー、トリスタン、リングの英雄たちを歌うことができるまさに選ばれたテノールの一人になっているのだ。1987年のはじめの気乗りがしない弱い声のウィーンでの公演の後、同年9月29日にはコヴェントガーデンでモシンスキー Elijah Moshinsky 演出のタンホイザーは、最近におけるすばらしい勝利であった。
 ルネ・コロ以上のタンホイザーを今日想像することは不可能だ。彼は全力投球でこの役に挑んでいる。耳障りだったり、不安定な瞬間はあるかもしれないが、そんなことは、躍動感と、目的をもって言葉を発すること、それから、透徹した力強さ、そして、全体として彼の演奏のもつ説得力によって補われて余りある。ローマ語りは圧倒的だった。
 この役に対するかかわり方は、1980年代のより暗くなった音色のほうが、この人物の苦悩を表現するには相応しいにしても、初期の1972年の、ヘルガ・デルネシュ、クリスタ・ルートヴィッヒ、ハンス・ゾーティンと共演のショルティ指揮の録音のころ同様に明確である。この初期の録音で、コロは、特に第一幕で高音域(tessitura)の続くこの難役に取り組み、これを抒情的に歌うことに成功している。ヴェーヌル讃歌はあざやかな精密さである。最初の節は精力的に激しく軽々と流麗に歌い上げられる。自分を去らせてくれろ懇願する次の節は、よりエロチックに輝く。そして、続く各節は次第にしつこさを増す。女神との口論が激しさを増すにつれて、時に濁った耳障りな音色が彼の声に混じり、Mein Heil ruht in Maria! (我が救いは聖母マリアにある!)のクライマックスを形成する。これはワーグナーが望んでいたことではないかもしれないが、コロはこの叫びをこの後に続く場面の外枠と見なしている。つまり、この叫びは、衝動的に口をついて漏れた確信的なフレーズで、魔法を打ち破る力があるということだ。
 第二幕のホールでの歌で、彼はその響き渡る、若々しく確信に満ちた音色によってタンホイザーの熟練した宮廷歌人(Minnesaenger)を彷佛とさせることに成功している。刺激的な朗唱と二幕のフィナーレはコロの若い声が英雄的な響きを生み出すために苦悩していることを示している。
 この初期の録音の第三幕のローマ語り(Romerzaehlung)もテノールの抒情的能力にのみよっていることは間違いない。コロはこの究極のモノローグに歌い回しの明確さ、抒情性を与えており、
これらは疲れ果て、やつれ果て、傷つきやすくなっている巡礼を彷佛とさせる。彼は長い苦痛に満ちたフレーズを完璧に持続するレガートで歌っているが、劇的効果を上げるために時に応じて声をふりしぼることも辞さない。それにしても、この初期の録音においてでさえ、聴き手はテノールの人物との同一化を感じ取る。コロは、1972年にはタンホイザーをヴェーヌスとの子どもっぽい戯れによって、その魂を、高潔さと下劣さの間で鋭く引き裂かれた温和な青年として捉えた。1987年にはタンホイザーをアポロン的要素とディオニソス的要素の間で引き裂かれる成熟した大人、二分法を解決することができない悲劇によって破壊される成熟した大人として、より深い洞察と受容の感覚で歌った。
 タンホイザーの官能性に対して、コロのもっとも有名な人物描写のひとつ、トリスタンは、彼自身の言葉によれば、もっとも理想的な、純化された、肉体的でない愛の形にかかわっている。それは、内面にのみ生じ、時空を超越する愛である。コロはトリスタンで、彼のローエングリン的オーラ、神秘的な、この世のものではない、現実を超越した雰囲気を示す意義を強調する。テノールはこのオペラに関して、最小限の動きしか要求せず、もっぱら内面性にこだわるヴィーランド・ワーグナー風の演出を好ましく思っている。彼はこのオペラには、退廃と同時に無気力感があるのだから、演出家も歌手もロマンチックで魅力的な官能性に陥らないようにすべきだと感じている。この役に対するコロの頑固な見解のせいで、様々な演出家と意見が合わないことが多く、1980年にはミュンヘンのエファーディング(Everding)の演出を降りという結果になった。1981年のバイロイト音楽祭はコロのトリスタンで幕を開けたが、彼はこのまさに殺人的で明らかに英雄的な役で、そのスタミナを示し、多くの評論家を驚かせた。アラン・ブリス(Alan Blyth)は次のように書いた。その音色はどうしようもなく単色であったけれど、全体的に力強く直進する声は、どちらかと言えばヴィントガッセンの声のようだった。1985年パリでのトリスタンの後で、チャールズ・ピット(Charles Pitt)は、似たような条件付きの意見を述べた。声は本質的に美しいとは言えないにもかかわらず立派な公演だった。 不本意ながら認めざるをえないという感じだった。しかし他の批評はそれほど条件付きというわけではなかった。1980年6月、チューリッヒで、コロは持続する力強さ無理のなさで賞賛されたし、1983年ボンでの公演後、カール・ヒッラー(Carl H. Hiller)は、テノールは彼の一挙手一投足にいたるまで完全に役に成り切る誠実な役者だったと評した。Opernwelt誌はテノールの1982年のカルロス・クライバー指揮の録音をこの録音でルネ・コロはトリスタンとして他のどのテノールも達成しなかったことを成し遂げた。 と賞賛した。イゾルデのマーガレット・プライスとの共演で、コロはこのオペラは諦観的コンセプトを持つと述べた通りの内省的なトリスタンを歌っている。第一幕では、主人公の男らしい騎士的な側面を強調している。第二幕では最高の歌唱を行っている。音楽的にも律動的にも正確で精力的でありながら緻密で美しく聞こえる。つかみどころのない愛の内的様相を巧みに浮かび上がらせる。しかし、二幕の終りと途方もない三幕では、時として彼の超然とした様子が彼の意図に反してトリスタンの人間的苦悩の表現を妨げている。Ah, Koenig のモノローグは歌詞(Das Wunderreich der Nacht すばらしい死の王国)の不可解な感情を捉えているが、音楽にその魅惑的な下位的な意味合いを与えるのを拒否している。彼の自己告発、den Koenig den ich verriet(私が裏切った国王)も奇妙に外向的かつ怒りに満ちている。フォルテ(forte)のフィニッシュはこの幕の前半の繊細な感受性にあふれた扱い方と著しい対照を示している。三幕の重い朗唱的部分でコロの音色はひどく頻繁に情感に欠けた陰影のないものか、あるいは荒々しく耳障りなものになり、苦悩の色を納得させ得ない。彼は弱音(piano)を多用することによって主人公の肉体的衰弱を強調し、忘れ難い抒情的な一節に表現されているイゾルデに対する純愛のうちに、瀕死の騎士の高貴さを示す。それは、例えば、弱音から最弱音のIsolde lebt und wacht(イゾルデは生きて、目覚めている)のような一節、あるいは、物凄いクレッシェンド(crescendo)とディミヌエンド(diminuendo)の箇所、Ach Isolde! Wie schoen bist du! (ああ、イゾルデ! 貴女はなんと美しいことか!)といった旋律である。しかし、第三幕第二場、トリスタンの熱にうかされたうわごとのところで、コロは彼の抒情性を放棄し、何か荒々しい、耳障りにさえ感じられる、音(例えば、飲み物を呪うところ)を出すことで、身体を貫く毒による肉体的苦痛を表現している。結果としては、ヴィッカーズの場合のように、奇妙に分析的で、苦悩を埋め合わせるべき官能性が欠落している。最後のトリスタンが包帯を引きちぎる場面、すさまじい狂乱振りではあるが、全然官能的ではなく、むしろ自暴自棄の自殺行為のようだ。
 コロの概念的解釈は、ヴィントガッセンとヴィーラント・ワーグナーの人物観に近いものを感じさせるが、ヴィントガッセンよりコロの歌唱のほうが声は軽いし、ヴィントガセンほど朗唱的ではないし、かわいた調子?(dry-toned)でもなく、よりダイナミックな陰影に富んでいる。コロにとってトリスタンの大成功はこの批評家の見解によれば、声の管理と知性によるものである。声自体はこの役の要求するものに理想にかなっているわけではないのだが、コロは、その音楽的、演劇的人物描写を調整して、彼の力に適合させ、彼の解釈理論を推し進めると同時に、その持久力と強度を立証することによって、私たちを唖然とさせたということだ。
 同様の自己認識が、テノールをして、リングの諸役での独特のアプローチを編み出すことを可能にした。コロはキャリアの初期にリングの登場人物(例えば、フローとローゲ)をいくつか歌い、ごく最近の1988年にはオランジュで、ローゲを再演して深い感銘を与え、聴衆を驚かせた。残念なことに、コロのローゲもジークムントも全曲録音が存在しない。テノールはワルキューレを舞台やコンサートで何度も歌っている。一番最近のは1988年のリンツである。しかし、彼は最近まで、重いテノール(schwer Tenor)のジークムントよりジークフリートを好んでいた。多分、この役の低い音域(tessitura)と暗い響きの必要性が、この役で1976年のコヴェントガーデン・デビューの際、コロに挫折感を味わわせたのかもしれない。マイク・アシュマン Mike Ashman はルネ・コロのジークムントについて、音符から離れるメロドラマ感覚で歌詞の流れを崩していると書いた。だが、十年以上後、テノールがこの役の戻ったとき、目もくらむばかりだと言われた。
 だが、コロは、若きジークフリートと大人のジークフリートの両方でこそ、この二つの役の最高の歌手のひとりとしての足跡を残している。1985年、ベルリン、ゲッツ・フリードリヒ演出の若きジークフリートの後、ジェームズ・ヘルメ・ズートクリッフェ James Helme Sutcliffe は、テノールは、今まで通り、あらやる感情において、尋常ならざる持久力となんとも言えない繊細な発音と子どものような無邪気を示したと書いた。ミュンヘンのレーンホフ Lehnhoff の新演出、1987年4月に初日を迎えた、原子力時代のリングで、コロは若いジークフリートとしては、よく計算された声の効率的な使用によって、神々の黄昏のジークフリートでは非常にすばらしい呼吸によって賞賛された。彼の瀕死の英雄の表現に心を動かされない者はひとりもいなかったOpernwelt誌は書いた。
 テノールは自ら、第一幕は野獣の如く、第二幕はシューベルトの歌曲のように美しく歌うべきであり、第三幕は問題無しと言った。コロはこの英雄を若き野蛮人、原罪に陥る前のアダムと考える。だから、彼には知識を持った大人の男にしてくれるイヴであるブリュンヒルデ、つまり、りんごを与えてくれる女が必要なのだ。コロがヘレナ・マテホプーロス Helena Matheopoulos に話したように、臨終のジークフリートは原始の罪を知らない無邪気さの人格化だが、神々の黄昏のジークフリートは演劇的により興味深い。ジークフリートは最終的にその無邪気さを失い、知識を獲得する。
 Eurodisc、マレク・ヤノウスキ Marek Janowski指揮、ドレスデン・シュターツカペレリングの録音は、ジャニーヌ・アルトマイヤーのブリュンヒルデに両ジークフリートとしてコロを配している。このオペラにおける二つの重要な場面、鍛冶の場と目覚めの場において、テノールは驚くべき持久力とよく響く声を示している。鍛冶の歌は心地よい高音は安定しており、間合いの取り方は柔軟で、笑い声は明るい。この笑い声が魅力的に思えるのは、コロ以前にはマックス・ローレンツだけだった。全体的を通じて、輝くような、無邪気な新鮮さがある。森のささやきの場ではコロの自然なフォルテ、柔らかく、内省的な歌唱が表情に富んだ演技に存在する。それから、ブリュンヒルデとのクライマックスで、コロは畏れに打たれた無邪気な喜びを伝えるエネルギーにあふれた力強い音色を創り出す。テノールの響きはとりたてて熱烈でも豊かでもなく、実のところ、多少陰影に欠けるのだが、あくまでも抒情的に響き渡る。このジークフリート執拗である。彼はSangst duの軽快な旋律を室内楽的気楽さで歌ってブリュンヒルデに自分を愛させようと頑張る。コロとヤノウスキによれば、この二重唱は熱狂的な対話ではなく、気楽な会話だということだが、そういう親密さを感じさせるという点で成功している。
 同録音の神々の黄昏も同様の音質である。実際のところ、現代のデジタル録音技術とマイクロフォンのバランスの良さによって、非常に聴きやすいレコードになっている。アルトマイヤーとコロによって歌われる序唱は非常に力強く、声の混じり具合も満点である。ここには成長したジークフリートがおり、愛に高められ、冒険に出発する準備ができている。彼は若く理想主義的だが、ギービヒの館で運命の杯を飲みほし、変貌する。男っぽい単細胞的英雄が、感受性が強く詩的だった若い頃の姿に取って変わる。彼がグートルーネに魅力を感じるのはひとえに官能的な側面であるから、コロはグンターの妹に話しかけるとき、彼の声には普段以上に官能的な情熱が加わる。血の義兄弟の誓いには、往々にしてそういうことにまつわる暗い色合いというものはなく、そこにはひたすら無邪気な英雄的気分が響きわたっている。岩山の場でのコロは、本来的に単色的声質のせいで極端に豊かな多様性の表現は無理なため、グンターの暗い音色のまねはできないので、歌い方の野卑な荒々しさで残忍さを(Goenne mir nun dein Gemach お前の部屋へ案内しろ)、あるいは、スタッカートの発声で冷酷さを(Du Nacht bricht an  夜になった)表現したりする。ここで再び私たちはコロが弱さを最小限にし、技術的に強さを獲得している例に出会う。
 しかし、死の場面では、単なる手際のよさは問題にならない。ここではコロの知性と感受性の良さが声の美しさと相俟って圧倒的な大成功をもたらしている。死の予感のごくはじめで(erschlagen wuerd' ich noch heut もっと獲物が必要だ)彼の声には不安を示す響きtremoloがあるが、すぐに立ち直って物事に対する強い好奇心と強がりの性格を取り戻し、ラインの乙女たちにちょっかいを出す。それから、彼はグンターの一行に、物語をするが、これはブリュンヒルデを思い出すときだけ詩的な傾向をしめすが、それ以外はむしろ単なる事実を早めのテンポで語られる。schlafend eine wonniges Weib(すばらしい女性が横たわって眠っていた)という部分は絶妙な美しさで、様々な色合いを示す弱声pianoの典型的見本である。これと同じ柔らかで精力的なものが、残酷に槍で貫かれた後にも波及していく。こうして、心の優しさと共に身体的衰弱が伝わってくる。臨終を迎えるジークフリートの歌を、彼は意識的にスタッカートで歌い、時に応じて、痛みに震えるかのようなトレモロ tremoloで彩る。激しい本物の輝きを発散しつつ、コロはブリュンヒルデの記憶をゆっくりと、辿りはじめる。彼の情熱の全てが da lacht ihm Bruennhildes Lust (そのとき、ブリュンヒルデの愛が私に微笑みかけた)の部分で爆発し、そして、あたかも記憶が彼から悪を追い払うと同時に彼を救済したかのように、繊細につむがれた澄みきった最弱音で、 Bruennhilde bietet mir Gruss (ブリュンヒルデが挨拶を送っている)と締めくくる。最後の次第に消えていく拍はほどんど聞こえないが、うっとりするほど演劇的である。
 実際コロのジークフリートは彼の業績の頂点を成すものである。彼の歌う人物像の新鮮さはワーグナーのスコアから忘れられていた精妙さの多くの部分を復活させた。トリスタンとタンホイザーと共にワーグナーの諸役のなかで最も難しい役が、リリック・テノールによってこんなにも見事に歌われることになったというのは、つまり巨匠Meisterhochdramatisch(最もドラマチックな)レパートリーがベル・カントbel cantoとして演じられることになったということは、皮肉としか言えないのではないだろうか。でも、コロのヘルデンテノールとしての成功の特殊性とはこういうことにあるわけだ。ヴィントガッセンと同じように必須条件である持久力、集中力、こういう役の危険性を中和できる声に生まれながらにして恵まれていた上、彼は、音楽の精妙な美しさを表すことができるし、すでにそこに存在する軽めの英雄 Leichter Held的声の洗練された優雅さを強調することができる。コロにとって、ヘルデンテノールにいたる奇跡とは、抒情的な声を劇的な声に変えることではなく、むしろ劇的な役を彼固有の能力に取り込むことだった。そういう役に新たな解釈を与え、その活力、あるいは衝撃的なものを失わずにそのやわらかな精妙さを探究することだった。
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 今日の三人の世界的レベルのヘルデンテノール、ペーター・ホフマン、ジークフリート・イェルザレム、ルネ・コロの仕事に関して、賛同する現代の評論家たちを見つけるのは、容易ではない。コロの場合は、特に主要な批評文献が英雄的レパートリーに対する抒情的な取り組みを受容するかしないかという問題に論点が集中している。このことに対する見解は、先行のヴィントガッセンの場合でもわかるが、アメリカやイギリスに比べて、ヨーロッパ大陸では、概してより肯定的である。ドイツのマスコミは、シュトゥッケンシュミット H.H. Stuckenschmidt といった評論家がワルキューレにおける彼の見事さについて、彼こそ我々全員が待ち望んでいた英雄だとしか考えられないと書いたように大体において、コロが達成した世界的地位を誇りに思っており、キャリアのごく初期から彼を擁護している。多くの評論家が、コロこそ今日最高のワーグナー・テノールであるという主張を支持し続けている。1988年4月ボンでのマイスタージンガーの初日のような公演では、評論家たちはテノールは若きコロを有名にした輝きを放つ音色で歌ったと大喜びだったものだ。お気に入りが年をとったとき、彼はもはや新人ではないとして(悲しいことだが、よくある現象だ)厳しい見方をするようになる者は少数にしろ存在するもので、最近では、冷酷な批評も見られる。1988年ベルリンでの魔弾の射手は、コロは調子が悪かったという事実があるにもかかわらず、彼の声帯と高音の調子はブーイングの合唱に迎えられた といった批評が目を引いた。
 マスコミに対するコロの態度は率直で、挑戦的でさえあって、全く懐柔的なところはない。コロの大ファンで、コロのポートレートを書いたイムレ・ファビアン Imre Fabian は実際に彼に会う前には、インタビューをするのは難しいというコロの評判を心配していたと打ち明けた。
 けれども、会ってからは、テノールが芸術家としても人間としても楽しい人だということがわかった。何年にもわたって、コロはマスコミに対して自分の考えを率直に語ってきた。時にはやりすぎて率直すぎると思われるような描写をされたり、明らかに事実に基づいているにもかかわらず、誤解されたりすることもある。例えば、ヴォルフガング・シュマーフェルトWolfgang Schmerfeld との過去のヘルデンテノールに関する議論で、コロはメルヒオールに関して次のように発言したと言われた。最高に偉大なメルヒオールに対して、私としては何も言いたくないが、人々は空前絶後の最も偉大なヘルデンテノールだなどという馬鹿げた発言をするのだ。まあいいだろう。だが、あれはあの戦争と関係がある。メルヒオールに対する要求はプロパガンダ以外の何ものでもない。しかし、会話の流れの中で、私には彼の言葉の前後関係は明瞭であるように、彼はただ単にあの戦争によって芸術家たちが置かれた困難な状況と、あのようなひどい時代がいかに不均衡な批評を生み出すことになるかということを示そうとしただけなのだ。彼は自分たちの政府の政策にからめ取られた(ローレンツのような)ドイツ人の芸術家たち、国家のために働いたために、もはや一民間人ではありえず、ある意味で、時代の犠牲にならざるを得なかった芸術家たち、について語っているのだ。このように詳しく見ていけば、テノールの発言は、この歴史書ではすでに詳細な比較検討をもって例証した、第二次世界大戦時代の芸術家たちに対する批判的な見方に関して、全く別の事実に基づく的確な見解を提示しているのだ。
 批評家について、コロは、今私が立っている場所を文書にして他人に教えてもらう必要はない・・・が、彼らに協力しなければならないのはもちろんのことだと、自主独立の立場を取っている。宣伝効果があるからだ、と彼は抜け目なく付け加える。コロはその鋭いビジネス・センス故に、より実利的な気持ちから言えば、オペラを売り物と見なしていると告白すること、あるいは、オペラを歌うということに関して使命感など持っていないということを認めることを躊躇しないし、むしろより幅広い聴衆のためにオペレッタを歌って人気を得るように頑張りたいと思うということは、コロが自ら助長したぴかぴかのイメージと非常に相関性が高い。つまり、時たま世界的スターとしての自意識を発散する隣の男の子みたいな友好的なイメージだ。それは、つくられたものなのだけれど、しっかりと真実に根ざしたイメージなのだ。

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13章 ルネ・コロ -3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ-3

 一方、ウェーバーの魔弾の射手のマックスは、フィデリオのフロレスタンほど、苦痛に満ちた大袈裟な感情を持たないため、コロの声及び演劇的素質により適合している。1980年、ヒルデガルド・ベーレンス、ヘレン・ドナート、クルト・モルと共演、ラファエル・クーベリック指揮のデッカの録音では、恋に悩む、純真で魅力的な狩人を描き出している。コロはこの若い主人公を世間知らずの温厚な村人と捉えており、意気消沈した雰囲気ではなく、むしろ太陽のように輝かしく歌っている。彼の歌い回しは終始一貫して叙情的で優雅である。Durch die Waelder(森を抜けて)は、暗めのヘルデンテノール的響きで歌われることも多いアリアであるが、彼は、むしろ軽やかなベル・カント的アプローチで歌っている。これは、クーベリックの洗練されたテンポと透明な響きにふさわしい。このアリアのカバレッタは、コロの純粋で、軽やかな華やかさを展示している。たとえホフマンがこの役に持ち込んだ奔放さと狂乱も多少はあったほうがいいと思っても、だれもがこの歌唱の美しさに感嘆する。台詞の部分では、フィデリオの場合と同じように、コロは自然に話す才能を示している。カスパールと弾丸について議論するところでは、その抑揚には真実味がこもっている。アガーテとエンヒェンとの三人での絡みの部分は、もっと暗い予感を感じさせることもできたと思うが、コロは完璧な様式感と優雅な台詞回しで、この二番目の節を歌っているため、聴き手は完全にロマンチックなマックスの魅力を楽しむことになる。狼谷の場で、コロは演劇的に最善の状態に至り、本当の恐怖感を伝える。このマックスはとても人間的で、傷つきやすく、だまされやすく、軽率だ。同じ気持ちで、テノールはオットカールへの嘆願に素朴な悲哀感を漂わせる。彼から刑の軽減を得て、コロのマックスはフィナーレの合唱を新たな威厳と高貴さと賢さを得て歌う。概して、この録音はテノールの声域にぴったり当てはまる役の、非常にスマートに、うまくいったものである。

 魔弾の射手がドイツ物のレパートリーの中で、ある意味百戦錬磨のオペラなら、ダルベール Eugene d'Albert  は新しい物といってよい。コロはダルベールの低地地方のペドロの勇気も試した。マルタにエヴァ・マルトン、セバスティアーノにベルント・ヴァイクル、マレク・ヤノフスキ指揮の1983年の録音は、このドイツのポスト・ヴェリズモの曲の説得力あふれる演奏になっている。コロのペドロは声は優雅で演劇的には天真爛漫な雰囲気を醸している。マルタに対する激しい愛によって、男らしい行動に走ったあげく悲劇的結末を迎えことになる単純な羊飼いをコロは描き出している。
 スタジオ録音では大概そうであるが、コロの響きはたっぷりとして豊かである。彼の発声法(diction)はいつものように正確である。歌詞の扱いは知的で、朗唱法(declamation)はこの録音では、普段以上の効果をあげている。金持のセバスティアーノが衆人環視の中でペドロを殴り、今はペドロの妻になっているマルタのことを自分の愛人にしようとした、その後、セバスティアーノを絞め殺す第二幕の終りは特に強烈である。挑みかかった領主に応戦し、(Da bin ich  俺はここにいるぞ)自分を守るための恐怖と誇りが激しく交錯するささやくような一節(Hier steht mein Weib これは私の妻だ Nun ist er tot  彼は死んだ)をうなるように言うとき、コロは、暗めの威嚇的な音色を駆使する。テノールは、終幕の合唱の主導権を握っている。
Hinauf in die Berge, hinauf zu Licht und Freiheit (山に登ろう、光と自由をめざして昇ろう)と、自由独立の人間として堂々と、安全な自分の山の家へマルタを連れていく。コロがこの二十世紀のオペラと相性がいいことは実に明白である。彼はこのドラマを、確信と熱意をもって、生き生きと表現している。

 低地地方が歌唱も演技も同じように要求するのに対して、シュトラウスのバッカス(ナクソスのアリアドネ)は主として声楽的挑戦である。コロは1979年にナクソスのアリアドネを、ゲオルグ・ショルティの指揮、レオタイン・プライスのアリアドネで、録音し、同年、同役で、メtロポリタン歌劇場の新演出に臨み、成功した。この役の声域はコロにとって何の問題もない。彼の何の苦労もなく高音域に向って伸びていく真のテノール(ect Tenor)は高い音域を軽々と突き抜けるが、時たま、ショルティのオーケストラの攻勢に負けないだけの声量を出そうと、意識的に多少声をふりしぼることがある。(例えば、Lass mich die Hoehe deiner Scherzen 貴女の地獄の苦しみを私に委ねてください は叫んでいる)登場するときの、チェルチェ、チェルチェ Circe, Circe は甘く魅惑的に歌われる。そこには、自身誘惑者でありながら、それ以上に、うっとりしている神がいる。コロのバッカスには、神の変容によって示唆されるべき形而上学的なエクスタシーは感じられないが、優雅な神秘感と、アリアドネの美しさに対する畏敬の念がある。コロの響きの純粋さ、声そのものの持つ水晶のような輝き、ひどく過酷な要求をする役を英雄的に(heroically)ではなくむしろ抒情的(lyrically)に歌う勇敢さに感嘆させられるレコードである。コロ以前ではトーマスがそうだが、コロはシュトラウスに不思議な叙情性(lyricism)をもたらすことができたということは、アリアドネに限らず、影のない女の成功も保証し、この二つのオペラへの出演をしばしば望まれた。後者の録音は1988年に発売されたが、熱烈な批評を得た。グラモフォンは、彼の二つの大きなアリアにある、極めて重要なところは、予想を超えたすばらしさである と書いた。ヴォルフガング・サバリシュ指揮で皇帝役を歌ったこのレコードで、彼は英雄的な力をはっきりと示している。声は以前に比べて暗めで、より充実しており、鋭い朗唱力で、声を用いている。はじめのアリアで、皇帝が狩りについて描写するとき、コロの皇帝は、ジェス・トーマスに比べてあまり詩的な皇帝ではないような印象を与えるが、ジェームズ・キングに比べると、より神秘的で、より瞑想的な感じがする。鷹のアリアでは、甘いノスタルジアを込めて、この鳥に託す個々の祈願を自己探求という新たなレベルのものにしている。彼は懐疑心に支配されており、人間になるという考えをまだ良しとしていない。O weh, Falke (ああ、鷹よ、なんと嘆かわしいではないか)は、悲しみの調子を含んでおり、Menschendunst haengt an ihr (人間らしさが彼女にまとわりつく)は、気高くも悲しい軽蔑の念が感じられる。彼が彼女の死を思うとき(der sie toeten darf 彼女を殺さねばならない男)、彼は自らの考えの凶暴さに直面して、悩み苦しみ、痛々しく傷つく。そして、力強い、一節、Weh, o weh! 悲しいことだ! で締めくくる。しかし、フィナーレでこそ、コロは最高にすばらしい歌唱に到達する。石に変わるという試練が彼を変える。Wenn das Herz aus Kristall 心臓が水晶でできていれば を、まるで彼の声もまた閉じ込められた身体からむりやり逃れようとするかのように、ちょっとスタッカート気味の英雄的響きで始める。ゆっくりと、抒情性と英雄的な薬味を加味していく。これが終幕の合唱を信じられないほど力強いものするという効果をあげている。彼の声は他の人たちの声と共にしっかりと響き渡り、コロの皇帝は、その人物の偉大さと新たな運命を再確認させる。
 しかし、近年、コロが一番多く配役されているのはワーグナーの役である。その声とレパートリーの非常に広範な多様性にもかかわらず、彼がワーグナー・テノールとして達成したことこそが、おそらくオペラ史におけるコロの特殊な位置付けを納得させるものにしたと言えよう。
 スヴァンホルム、ヴィントガッセン、ローレンツと同じように、コロは、リエンチからリングまでの主要なワーグナーの役を舞台で歌っており、録音技術の進歩によって、ローゲとジークムント以外の正規録音を残すことができた。実にコロはワーグナー・テノールのなかで一番録音が多い。
 彼の最初のワーグナーの役は、舵取り(さまよえるオランダ人)といった小さな役だった。これは1968年にリスボンで歌い、ルネ・コロは小さいが極めて重要な役である舵取りを非常によく捉えていた と評された。舵取り役は1969年のバイロイト・デビューの役だった。そして、この成功が次のシーズンの印象的なエリックにつながった。1972年3月4日、フェニーチェ座でのエリックは、コロはこの役をすばらしい精妙さと貫禄で表現した と評された。1977年にこの役をゲオルグ・ショルティ指揮、ノーマン・ベイリーのオランダ人、ジャニス・マーチンのゼンタで録音した。
 この役はコロの高度に抒情的な感性に合っていて、この猟師役を、ある意味マックス(魔弾の射手)やペドロ(低地地方)と共通する性格を備えた、温和な人物として描いている。彼はこの役に、マックス・ローレンツの持つ攻撃性や、ペーター・ホフマンにある強烈な自尊心ではなく、多様に変化する声の色合いと強力に訴えかける独特の親近感を付与している。最初のゼンタとの対立で、夢の話をはっきりとして無気味な感じの弱音(piano)で始め、ゼンタがオランダ人の膝にしがみついてキスした様子を物語るとき怒りと嫌悪感をあらわにする。ゼンタの悪魔的な情熱にたいするキリスト教徒らしい恐れを感じる保守的なエリックだと言えるだろう(Satan hat dich umgarnt ゼンタは悪魔にとりつかれている)そして、彼の怒りはそういうことに対する独善的な態度を暗示している。おそらくはこういう一面的な解釈が終りのカヴァティーナ cavatina  から傷つきやすさと豊かな感情を奪っているのだろう。例えば、Was seh'ich, Gott!  おお、神よ! 私は一体何を見ているのか! は一般的反応として発せられる。高飛車でなんとも信じ難いほどだ。アリアドネと同様に、コロのエリックは、旋律線の美しさと結びついた壮烈なスタミナを伴った、その抒情性と流麗さに非常に感動させられる。
 この本質的に抒情的な声の特質は1970年、ハインリッヒ・ホルライザー指揮によるリエンチの録音で厳しく検証された。ワーグナーの初期のオペラとしては初の全曲正規録音はそれ自体注目に値する仕事だったから、大いに注目された。コロはこの役を1983年にミュンヘンの舞台で歌い、絶賛された。アラン・ブリス Alan Blyth はその公演についてこう書いた。テノールは、以前に私が聴いたのと比べて、より自由で、より充実した声だった。コロは、本物のヘルデンテノールに至るかすかな徴候があるという段階を超えるレベルで、ヘルデンテノールの必要条件を満たしていた。こういうことだから、1970年の録音は、時として、ワーグナーの最初の主要なオペラのグランド・オペラ的主人公には軽すぎる、コロの初期の声を映していると結論づけられる。1970年には(1983年の報告に対して)テノールの抒情的な声は、いまだその成熟は可能性の範囲にあり、それほど暗くなってはいなかったから、ローレンツに見られるような本物のトランペットのような重量感はない。しかし、コロはこれを安定して心地よい最高音、アンサンブルの中で明るく的を得て発せられる響き、朗唱の特有の激しさなどで補っている。彼は執政官役により思索的な光を当て、露骨な軍国主義的側面より、むしろ深く豊かな精神生活に重きを置く宗教的な人間として表現する。
 テノールの出だし、Zur Ruheは、緊張が感じられるが、アドリアーノとイレーネとの第二場は楽々とこなしている。Ersteh, hohe Roma neu はメタリックに明るく響きわたりはしないが、Schwoert freier Roemer, heil'gen Schwur (自由なローマ人たちよ、聖なる誓いをたてよ)での、高い音程の移動に何の問題もない。第二幕での暗殺計画の場では、このリエンチは冷静沈着に、Was willst du, duestre Mahnng mir (あなた方の陰鬱な警告が私に何の関係があるのか)を運命論的響きで彩る。それから、謀反人たちに刑の宣告をするときが来るが、コロのリエンチはその任務を厭っているよう見える。この任務は明らかに彼の人間性に反している。この解釈は美しく歌われる Almaecht'ger Vater(リエンチの祈り)を強調している。コロの演唱は記録された最も抒情的なものの一つであり、彼はフレーズを長く持続する能力をひけらかすのを楽しんでいる。終幕の瓦解の前に妹のイレーネと再開したとき、このリエンチは死を前にしながら、柔和さと親密さを奮い起こし、極めて穏やかな愛情で心を満たす。In unserem treuen Bunde (私たちの忠実な絆のうちに)の二重唱は、穏やかで、喜びにあふれている。コロのリエンチは誇りを持って死と向き合う。これだけが唯一現実的な抗弁である。彼の無理やりがんばっているような、Sollt ihr Rienzi wiederkehren sehn (あなた方はリエンチが戻ってくるのを見るだろう)は、スヴァンホルムやローレンツの持つ恐ろしいほどの威厳には欠けているが、それでもやはり説得力のある劇的効果をもたらしている。コロは、あまり良心的ではない社会と争った結果、犠牲になる、若々しく、誇り高く、柔和な古代ローマの護民官を描き出している。
 リエンチのグランド・オペラ様式が、理想的な形では、コロの生来の能力に必ずしも合っていなかったとすれば、マイスタージンガーとローエングリンの抒情的英雄性は彼にぴったり合っていた。1973年に彼がバイロイトでの初シュトルツィングを歌ったとき、彼の声は清澄にかつ誇らしく鳴り響いた とある評論家は書いた。それにごく最近の1988年4月、ボンで、彼に対する賞賛が読める。
 ルネ・コロは、以前と変わらぬ新鮮さと絶頂期のコンディションで戻ってきた・・・ 彼は公演を通してその役の直面する数々の苦難と共に成長しているようにみえた・・・ 高い音域で楽々と朗々と響き渡り、若いコロを最初に有名にした鳴り響く音色を聴かせてくれた。 
 でも、ハロルド・ローゼンタール Harold Rosenthal は、コロはまるでぴかぴかに磨き上げられた少年のように見えたのはあんまりだという表現で、1974年ザルツブルクでのテノールのシュトルツィングの欠点を指摘し、コロのスタジオ録音と生の舞台での響きの不一致に異議を唱えた。ローゼンタール氏はまた1970年代のはじめのゲオルグ・ショルティとの録音(ショルティ指揮の録音は1976年<75年?> LONDON(Decca) だと思われます。コロの自伝のディスコグラフィーには1986年と書いてありますが、1976年の誤記かしら?)におけるコロのシュトルツィングに対してもいろいろ問題があるとして、批判的である。オペラ誌 Opera の1976年11月号で彼は否定的な批評を書いた。彼は気ままに標準音高から逸脱する歌い方(off-pitch singing)をしている。こういうのはオペレッタのやり方だ。 しかし、コロの非常に軽い、ベル・カント bel canto 的アプローチに反応を示した他の評論家たちからは、彼は絶好調であり、彼独自の演劇的表現をこの役にもたらすことができたという、コメント、あるいは、ヴィントガッセン評をしのばせるような言葉で彼を呼んだペーター・ダネンベルク Peter Dannenberg が書いたような熱烈な賛辞を得た。
 ・・・全体として理想的なシュトルツィングだ。抒情的な主人公、彼の表現に富んだ豊かな声の響きと優勝の歌の最後の部分を歌い抜かせるスタミナからうまれる、洗練されたレガート、しなやかさ、繊細なニュアンスに満ちた音楽性を伴った英雄的な詩人(叙情詩人 Lyriker)
 ハロルド・ローゼンタールは、マイスタージンガーの二つの録音(この二つが何を指しているのか不明です)に対する意見にもかかわらず、1976年版のカラヤン指揮、ヘレン・ドナート、テオ・アダム、カール・リッダーブッシュとの共演による録音(カラヤン指揮の同キャストの録音は1970年EMIしかないようです。但し、コロの自伝のディスコグラフィーには1973年と書いてあります)は完全に満足のいく仕事だと認めている。声は非常に軽いけれど、コロはこれを逆に、浮揚する旋律、際立つ彼の響きの新鮮さ、軽々とした最高音、そして彼の自然なレガートといった、優美な利点にしている。この演奏のハイライトは透明にきらめく五重唱、ロマンチックな Am stillen Herd と、無理なく夢のように歌われる優勝の歌 Preisliedを含んでいる。何よりもコロは殊更に若く聞こえる(舞台では若く見える、現在、もう五十代なのに)、そして、厚かましくなく、優雅な、極めて詩的なシュトルツィングを創造している。
 コロのローエングリンとパルジファルには二つながら詩情があふれている。この二つのワーグナーの登場人物で彼の抒情的な声は輝くことができる。テノールはそのローエングリンの様々の国際的上演で幅広い賞賛を受けている。1977年、モシンスキー Elijah Moshinsky の前期ラファエロ的演出はあの懐疑派ハロルド・ローゼンタールでさえ、ついにロンドンの公演は彼の評判にふさわしいものとなった・・・彼の登場は衝撃的で、第一幕及び最後の幕における彼の歌唱は、音色の美しさはもちろんのこと、真に英雄的な響きを有していたと報告した。これこそ、テノールの国際的キャリアの開始に当たって、コロの声が我々が待ち望んでいるようなヘルデンテノールのなるなどということは想像だにできないと宣言した評論家の言葉なのだから、非常に大きな賞賛だったと言えよう。1972年のカラヤンとのローエングリンの録音について、カール・H.ヒッラー Carl. H. Hiller が賞賛した。彼は月並みな音は出さない。彼は歌っていることを理解している。誰もがすべての言葉を理解することができる。この役で彼にかなう歌手はまもなくいなくなるだろう。 最後の予言は、だいたいにおいて、実現した。実際、ペーター・ホフマンとジークフリート・イェルザレムを除けば、1980年代にはどのテノールも一人として、白鳥の騎士の役で、コロの優越性を超えることができなかったのだ。
 エルザ、アンナ・トモワ・シントウとの録音はテノールの銀鈴のような清澄な抒情性を映している。彼の登場は、舞台を横切って煌めくような、エネルギーに満ちた最高の柔和さを伴った、光を放つ小さな頭声に彩られている。ここでも、In fernam Land (遠い国に)やAbschied (別れの歌)のときと同じように、その声は紛れもない無垢の声である。この役に対するコロの考えでは、この身体から分離したような音色こそが神の声である。コロはローエングリンを別世界からやってきたこの世のものならぬ人物、人間との接触で傷つけられる、人間たちの疑いと暴力の世界を変えるには無力な、地上に降り立った神、と捉えている。テノールはこの悲劇を主として神話的な観点から見ている。つまり、純粋な救済者の循環する物語、人間は彼の試験に不合格となり、彼の悲劇は人間の苦しみを見ながら、それから手を引くことであると考えている。
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13章 ルネ・コロ -2/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ -2

 コロの仕事に対する姿勢は、自発性と抑制、穏やかさと信念、実際的冷静さと情熱などをないまぜに反映している。彼は、一方では、センチメンタルなところのない現代人であって、全ての成功は芸術家に犠牲を強いている。スターに多大な要求するもので、有名になること、賞賛されることは、表に現れない重労働という犠牲と表裏一体である。と冷静な率直さで断言する。しかし、同時に、繊細で柔軟な彼は舞台への畏敬の念を打ち明ける。舞台負けからアドレナリンを引き出せない者は舞台で説得力のある雰囲気を創り出すことができない。私も内心舞台ではあがる。決してそれを見せないだけだ。 そして、謙虚に付け加える。私は何かにつけてとても運がいいと思うことがあります。コロの実存的人生観と芸術に対するロマンティックな観念は明らかに対立している。宗教について、イムレ・ファビアンImre Fabianにこう語った。教会の言うような意味では神を信じていません。存在することは間違いない、私たちにはどうやったって永遠に説明がつくはずのない、超自然的な力は信じます。そして、その力と自分の関係を明らかにするかのように付け加えた。芸術の実践は、愛の神へ至る道です。彼はさらにもうひとつの信仰を告白する。私は魂のよみがえりを信じています。しかし一方で、録音によって永遠性を獲得しようという考えにとらわれず超然としていることで、復活への希望を抑えているかのような発言をしている。死んでしまえば、・・・人間としても、芸術家としても忘れられるでしょう。再現芸術からは数十年後何一つ残りません。 コロはヘルデンテノールの中で、もっとも録音の多い者の一人であるから、これは彼の矛盾した発言がまたひとつ増えたに過ぎない。ここでもまた、悲観主義と楽観主義が衝突している。つまり、(録音は有益であるという)現実的な考えと理想主義が対峙している。
 それでは、コロの個人的かつ芸術的生き方にある多くの逆説を、どう説明すればよいのだろう。あるいは、なんとしても説明しなければならないことだろうか。この現代の主要な芸術家を理解するための最も簡単な方法は彼自身の発言に耳を傾けることではないだろうか。私は自分の人生を好きなように生きる。未来に対する責任感はない。 こうコロは宣言する。しかし、責任感というものをまったく持たずに、コロが彼の芸術にすでに与えたものを与えたり、彼がすでに達成したことをやり遂げたりすることは不可能である。コロの直感力の中では、言葉の定義がおどろくほど独立しているだけなのだ。このテノールが非常に独特のキャリアを築いたのは、その猛烈に大胆な独立心に負っていることは間違いのないところだ。
 うわべの軽卒さ、率直さ、ぞんざいさなどを超えたところに、その人の全体像を知るために絶対不可欠な部分である芸術的な心が存在する。イムレ・ファビアンの言葉を借りれば、
 全く少年っぽい自然さを備えた、光を放つ、単純な人です。全然スターらしくありません。偉大な芸術家特有の知的な能力を感じさせると同時に、ごく自然に人生を愛している印象を与える人です。そこにいるだけで、『友よ、人生は生きるに値するよ!』と言っているように見える人です。

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 多くの評論家や声楽史の専門家は、コロを「本物のヘルデンテノール』と考えていない。その声は、暗さが足りないと彼らは言う。その音色は多少色合いに欠け、音程は優れており、焦点も合っているが、声は小さく軽い。極端な大劇場では、聞こえないことがある。それにもかかわらず、コロには、独特に再定義された英雄的性質に加えて、スタミナがある。これが、hochdramatisches Fach(高度にドラマチックな役)で彼を成功させている原動力である。
 軽めの英雄の役柄を歌う真のテノール echt Tenor のコロは、彼の偉大な先輩ヴィントガッセンより自然な抒情的な声(a naturally lyric voice)を持っている。美しい、透明な、甘い響きを自由に操り、声区間を切れ目なく移動し、心地よいハイCを含む声域を駆使し、最弱音と弱音の微妙な違いを際立たせて、広範囲にわたって使うことができる。発声とフレージングは明らかにbel canto(ベル・カント)の伝統に従っているし、その優雅なlegato(レガート)は、本質的にドイツの直線的なスタイルでありながら、前の時代の流麗さと伸びやかさを保っている。

 コロの場合、彼の朗唱力は、それ自体、必ずしも最強の部分ではないけれど、その並外れた音楽性に、傑出したディクション(diction)と、歌詞の知的な発音が加わる。コロの演奏に何よりもうっとりさせられるのは、むしろ音の響きの美しさ、優雅な音楽性と、大抵の場合、演劇的説得力の強さによる。
 コロは、本来オペレッタに理想的だった声を、その生来の柔軟性を保持しつつ、より暗く、より劇的な声へと育てることによって、驚くほど多方面に渡る幅広いレパートリーを確立した。テノールはまた、スタイルの柔軟性を保持するために、ドイツ・オペラ、イタリア・オペラ、フランス・オペラ、そしてロシア・オペラにおいて多様な役を維持しようとしている。彼は言う。

 ドイツ・オペラの役はイタリア・オペラの役とは別の歌い方をしなければならない。これはドイツ・オペラの役は怒鳴らなくてはならないという意味ではない。ドイツ・オペラの役も、美しく歌われなければならない。ただ、イタリア・オペラとは技術的に全く違うアプローチをしなければならないということだ。

 実にコロは、多く人が弱い叙情的な声として最初から排除したかもしれないものを、無理をせず、厳しく限界を守り(私はもっぱら生の声に頼っている)、潜在能力を開発し、信じられないような使い方をし、持って生まれた素材を音楽性と鋭い知性によって磨きあげたのだ。J.B.Steane がコロについて語ったところによれば、歌手、ルネ・コロの喉のすばらしさの源は、正しい場所、つまり、彼の頭の中に置かれている のだ。コロの場合は、その声がヘルデンテノールの偉業を成し遂げたのは、困難を乗り越える意志の勝利だと屁理屈をこねる人もいるかもしれない。私はむしろクルト・ホノルカ(Kurt Honolka)の、コロの声は、bel canto(ベル・カント)のワーグナーの可能性を示す魅力的な例だという判断に同意する。

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 ルネ・コロは俳優として少なからぬ評判を得ている。実際、彼の演劇的な才能は、登場人物の心理的探求と新世代の演出家の作品に供されるべき、戦後世代のヘルデンテノールのものである。若々しく美しい外見は、柔軟な動きと繊細な表情表現と共に、間違いなく彼の長所である。絶好調の時は、徹頭徹尾意図的な、完璧にリハーサルされた、深い感動を与える、観客を瞬時にして反応させる描写ができる。大体において、彼のトリスタン、ジークフリート、タンホイザーは繊細な陰影をもつ、極度に綿密な、不朽の人物描写として認められている。コロは、演出家に好感を持っている場合、演出家の意図を高度に実現できる。シェローは「リングの経緯」の中で、ジークフリートを創造する際のコロとの知的な議論と、納得した指示に対するコロの積極的な対応について、述べている。コヴェントガーデンでのローエングリンの成功した共働のあとで、モシンスキー(Elijah Moshinsky)はコロについて、以下のように述べた。 コロは強権的な演出をひどく嫌う。彼は創造的なアイデアの交換を生き甲斐にしている。彼は極めて協力的であり、決して自分の立場をかさに着るようなことはなかった。

 一方、共感できない演出だと、精彩を欠くことは有名だ。ヘレナ・マテオプーロス(Helena Matheopoulos)は、著書 ディーヴォ(Divo)で、コロは、舞台で、自分の周囲で起こっていることに対して、明らかに無関心で、いわゆる無感動(apathy)に陥っているように見えることがままある との観察を記している。

  気乗りしない公演の場合に限らず、ひとつの上演中においても終始一貫した関わり方をしていないという興味深い癖も観察されている。その好例が録画も録音もあるあの有名なバーンスタイン指揮によるウィーンのフィデリオである。フロレスタンとしてのテノールには、観客が深い感動の渦に巻込まれる、髪の毛が逆立つほどの最高の強烈さを示す瞬間があるが、奇妙におざなりな演技をみせる舞台から撤退したかのような瞬間がある。後者のような瞬間は主として他の歌手が歌っているときや、音楽的要求が、納得できる演劇的一貫性をしのいでいるようなときに起こる。例えば、地下牢の場面を締めくくる喜びにあふれた二重唱で、それまで見せていた肉体的に衰弱した様子を放棄して、力強い歌唱と身振りを優先する。別の時には、激しい飢餓状態を演劇的に表現するのを忘れて、レオノーレとロッコの二重唱の間、いかにも冷淡に、彼らとは無関係という感じで立っている。また、別のところでは、いわゆる紋切り型の一般化されたオペラ的な身振りに頼っている。だが、ピツァッロと対決するアリアを歌う時には、音楽、歌詞、身振りの全てが調和して進むばかりか、それを超えて、完璧に登場人物と同化した説得力あふれる人物像が伝わってくる。

 コロが演劇的な強度を終始一貫して維持するには、シェローやポネルのような演出家に触発されること、あるいは、バイロイトでの、1976年のリングや1981年のトリスタンのときのような、たっぷりと時間をかけた、創造的で共同作業的なリハーサル期間が不可欠なのかもしれない。最近、コロが、ますます仕事を選ぶようになり、また、共感と自負を感じうる人物の性格描写に一層専心するようになったのは、おそらくこういう理由ではないだろうか。なぜなら、全てが心にかない、意気投合するとき、ルネ・コロは忘れられない音楽劇の夕べを提供することができるのだから。そして、彼の24年の舞台の中で、こういう公演が無数にあったのは確実である。
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 ルネ・コロは、音楽に関する見解や、現代におけるオペラの仕事に関して遠慮のない発言をしている。自分自身の声の特性に関する厳然とした自覚によって、また、本来抒情的な(lyric)声を、リリックなレパートリーとドラマチックなレパートリーの両方に使用していることに対する防御の必要から、コロは現代の歌手が陥りがちないくつかの危険を避けるべくベストを尽くしている。歌手というものを理解しない指揮者、音響効果の悪い環境、大急ぎの長距離移動、言い尽くされていることだが、「あまりにも多く、あまりにも早く歌うこと」といったことの危険性を強調しつつ、年間、平均50回の出演のうち、オペラはおよそ30公演に限定するように注意している。彼は重いワーグナーとシュトラウスの役と、より軽く、叙情的な役のバランスをとるという観点から、レパートリーを選んでいる。また、音響をコントロールでき、最高に結果が得られるという理由で、かなりの時間を録音スタジオで過ごしている。
 ヘルデンテノールの分野について質問されたとき、コロはこう答えた。ヘルデンテノールはヘルデンテノールに生まれついているのではありません。ヘルデンテノールはこの役を歌うための種を持っているかもしれないが、リリック・テノールとして出発するのです。その後、無理したり、声の使い方を間違えたりしなければ、本当に種をもっていれば、徐々にヘルデンテノールに育っていくわけです。 コロの場合は明らかにこの通りだった。コロは32歳にして、ワーグナーの小さな役を歌いはじめ、ゆっくりとこの巨匠の高度にドラマチックな全ての役をひとつずつ付け加えて行ったのだ。トリスタンに取り組んだ時には、40歳を過ぎていた。 メルヒオール型のヘルデンテノールは絶滅種です とコロは言う。同時に彼は、この種であることを測る新しい指標を、皮肉を込めて提示する。

 あるテノールがワーグナーを歌って、どんどん音が大きく、分厚くなるオーケストラも舞台上の歌手たちに全くとんじゃくしない指揮者をもものともせず、そして、徐々に、自分の声を聞かせることができるようになったとき、彼はヘルデンテノールなのです。

 よく通る声とワーグナーの役でそれ自体が持つ本質的な輝きを発する明るい音色によって、こういう芸当をコロは確実にやり遂げた。声が存在しなというのは正しくない。声は存在するし、これから先もずっと存在しているだろう。しかし、同時に彼は注意を促す。こういった繊細な声は、将来のために、ゆっくりと、注意深く、そして、あえて言わせてもらえば、愛情を込めて、育成されなければならない。

 しかし、コロは時にオペラの将来に絶望する。オペラ界はまさに死んでいる。私たちは博物館を存続させている と、彼は嘆く。オペラで、価値のあるレパートリーはせいぜい80か90しかないと断言する。この作品不足の中で、このジャンルが生き延びるためには、古いオペラの新たな解釈が不可欠だ。コロは、この創造的な再解釈のうちに、新鮮な発想によって、観客に触れ、彼自身の芸術家魂を育む機会を見い出す。彼としては、毎度同じ八つないしは十の役(たいていワーグナー)を何度も繰り返し、要求されるという事態は気にいらないのであって、もっと変化に富んだ仕事をするのが好ましいといつも思っている。しかし、彼はあきらめの境地で、付け加える。今日、世界中さがしても、トリスタンは多分五人しか存在しないだろう。
 それでも、コロはワーグナーの専門家としての需要の多さにもかかわらず、公演の数、条件、場所に関してヘルデンテノールの分野には制限を設けるようにしている。こうして、彼は、非常に幅広い音楽的体験を含む息の長いキャリアを築くことに成功している。

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 ルネ・コロのキャリアはポップス歌手として始まったのだが、このレパートリーにおける彼の才能のサンプルは彼の選集であるPortraet eines Weltstars(ある世界的スターの肖像)の残されている。ここではSchlaeger(流行歌)の他に、ドクトル・ジバゴのテーマや、エーデルワイズを、優れた発声法と、洗練された繊細な感受性と、旋律に対する感嘆すべき感覚で歌っている。しかし、この選集の中でも最高なのは、自由にアレンジして、英語で歌っているバーンスタインのマリアである。オペラのような歌い方ではない。まさに、それはマイクを口元に近付けて、ほとんどささやいているが、若々しい情熱を表現している。このレコードは、キャバレーで好んで歌われるロマンチックな歌に対するこのテノールの好みのショーケースになっている。
 コロのオペレッタにも優雅さと軽さに対する同様の繊細な感受性がはっきり表れている。彼はそのキャリアにおいて、このジャンルで、非常に多くの役を演じ、録音しており、オペレッタ史におけるテノールのなかでも非常に優れたオペレッタらしいスタイルを示している。屈託のなく旋律を表現する才能、明るく、柔軟で、よく通る声、情熱的な音楽的力強さなどが、このレパートリーにおける彼の適性を決定付けている。彼のメリー・ウィドウの録音は、ハロルド・ローゼンタールの意見によれば、彼のマイスタージンガーよりよかった。先に挙げた選集にも六つの有名なオペレッタのアリアが入っているが、ぞくぞくするような音楽性と生き生きとした性格描写が伝わってくる。ミレッカーの 乞食学生からの 言うべきか黙っているべきかの新鮮な歯切れのよい発声、同じ作品からの  私は一文無しの陽気さ、レハールのフレデリケからの 娘さん、娘さんの輝かしいレガート唱法などはこのテノールの技術を物語る好例である。
 このレパートリーの全曲録音、ロシアの皇太子 Der Zarewitschこうもりもオペレッタの聴衆を引き込む才能の例証となっている。レハールの作品(Eurodisc 共演はルチア・ポップ)は気のきいた粋な演奏で、コロは彼の音楽的優雅さ、熟練したダイナミックなコントロール、美しい発声などを示している。コロはこのレパートリーでは、ジークフリート・イェルザレムのように、勇ましかったり、「ヘルデンテノール風」だったりはしない。むしろ、最弱音やふわふわした感じの頭声を多用して、名状しがたいスタイルを目立たせ、甘くとろけるような音を作り出している。ヨハン・シュトラウスの最高のオペレッタにおけるアルフレートとして(舞台ではアイゼンシュタインもうたっている)コロは、明るくこっけいで気のきいた演奏を披露している。ユリア・ヴァラディ、ルリア・ポップ、ヘルマン・プライと共演したドイツ・グラモフォン、カルロス・クライバー指揮のこの録音を、ヴィントガッセンがキャリアの終りごろにこの作品にちょっと手を出しているのと比べてみるとよい。この年配のテノールは驚嘆にあたいするテクニックを駆使して知的なアルフレートを歌った。それに対してコロは音楽のために生まれた者の喜びと気楽さで歌う。彼の性格描写からは、ロザリンデを征服して悦に入る救い難いほどの魅力をもった悩殺的誘惑者が創り出される。無邪気さの中にある悪意が暗示されている。絶対に納得させられるアルフレートがいる。
 第一幕の二重唱、Trinke, Liebchen, trinke schnell は本物のコメディ感覚で軽く歌われる。Gluecklich ist, wer vergisst は、豊かで、暖かい、官能的な色合いがある。これこそはシュトラウスの楽譜のもつ旋律的息づかいに完全にふさわしいものだ。コロは一貫して確かなリズム感と驚くほど陰影に富んだ表現を維持している。遊びの感覚を失うことなく、共感が持てると同じぐらい悪魔的なところのあるアルフレートを創り出している。コロがかかわった全てのオペレッタに見られるのと同じように、この録音にも、コロのこのレパートリーをやるのに好ましい素質がはっきりと表れている。このジャンルのこうもりでもその他の作品でも、コロの声にはきらめくようなシャンパンの泡立ちがある。
 コンサートの舞台でも、コロは特別の輝きを放つ存在感があることを証明している。その明るい、本物の響き故に、オーケストラと共演するソリストとして好まれ、コンサートの標準的レパートリーを幅広く歌っている。その中には1972年のレナート・バーンスタイン指揮、ボストン・シンフォニーとの オイディプス の公演のような冒険的な現代作品も含まれているし、歌曲 のコンサートもたくさん行っている。ワーグナー・リサイタルのレコードに関する批評で、評論家のロドニー・ミルンズが、コロの声は、音色の多様性とダイナミックさが欠けており、音符にたいするむとんちゃくさが見られる と批判したことがあるが、歌曲の歌手としてのコロの演奏には、このような欠点は全く表れていない。例えば、1982年の Irwin Gage ピアノ伴奏による、ヴィーゼンドンクの歌 の録音は、印象的である。コロがリサイタルの常道を心得ており、こういうレパートリーにおいて不可欠な、最弱音と弱声の部分のつむぎ方、歌い回しのち密さ、優雅なロマンティシズムといった
繊細で微妙な音楽性を提示できるということを示している。この歌曲の、Schmerzen(苦悩)もTraeume(夢)もどちらも珠玉である。後者は神秘的な非常に美しい弱い三連符で終る。
 コロのコンサート・レパートリーのうちで、もうひとつ有名な録音は、1975年のヘルベルト・フォン・カラヤンとの、マーラーの 大地の歌 の三つのテノールの歌である。コロの歌い方は、劇的ではなく、より叙情的で、ジェームズ・キングの演奏の勇ましさとは際立った違いがある。Das Trinklied von Jammer der Erde は、低めの調子で歌いはじめるが、この音楽に存在する美しさと残酷さの融和を、彼の声は捕らえている。コロとカラヤンは、オーケストラと声の進行に揺れるような動きを取り入れて、歌手の酩酊状態を示している。コロは弱声から強声までのクレッシェンドを繰り返すが、これは酔っぱらいの千鳥足を彷佛とさせる。この世に倦み疲れた賢者の静かだが断固とした述懐のうちに歌を締めくくる。Dunkel ist das Leben; ist der Tod.(人生は闇であり、それは死である) Von der Jugend と Der Trinkene im Fruehling  は、二人にとって、だまされたように軽い雰囲気の歌だ。この一連の作品の他の箇所で同じように、頭声や falsetto(裏声) までを、相当多く用いて、この作品の持つ、異国的な雰囲気をとらえている。三つ目の歌では、音階は思ったほど新鮮に響かず、内面から湧き出る音楽性よりは、研究効果というものを感じさせられる。それにもかかわらず、コロはマーラーの皮肉な音楽に対する確かな解釈を示している。彼は、この作品にある深い絶望感を無視して、肉体的酩酊感が生み出す激しいよろめき感を強調している。しかし、この録音はコロの初期のオペラ的な声の優れた見本でもある。コロのキャリアの初めには、純粋に甘い音色の、透明な叙情性が、その声の極めて顕著な特徴だったのだ。暗めで劇的な傾向は後に加わったのである。
 キャリアの初期に、コロは非常に多くのフランス・オペラ、イタリア・オペラ、そしてロシア・オペラの役さえも、たいていはドイツ語訳で歌った。こういうものから選んだものが、Portraet eines Weltstars(世界的スターの肖像)の一枚目に保存されている。コロのイタリアやフランスのクラシック音楽の解釈はどれも似通っている。そして、だれもが、彼がワーグナーの諸役でやるような、そんな種類の個別的な性格描写を、ヴェルディやプッチーニやマイヤーベーアでもしてくれることを望んでいる。例えば、トロヴァトーレの Ah si, ben mio は、明るい響き、なめらかなレガート、軽々と出す高音、柔軟な華やかさといった、純粋に音楽的観点からは非常によく歌われているが、マンリーコに必要な火のように燃える激しさが欠けている。Nessun dorma  も本当にトランペットのような最後のハイCは、コロの高音に対する才能を示しているが、これもまた、性格描写が不十分である。修業時代に度々歌ったオペラである 蝶々夫人からのピンカートンの Addio, fiorito asil  はコロの最良のものである。ここで、プッチーニのメロディー・ラインの屈託のなさとそれを支えるのに必要な深い感情のほんとうのに感覚が表現されている。一番最近に加わったイタリア・オペラの役は1988年2月にフランクフルトで歌ったオテロである。種々雑多な批評が制作コンセプトをそれとなく問題にしていた。コロは、声の威力とスタミナで観客の心を奪ったが、このオテロは何の感銘も与えなかった。それはコロがほとんどタッチしなかったためと、なお悪いことに、没個性的に歌ったためである。 それでも、コロは確かに、独特のドイツ系ムーア人を創造した偉大な先輩、ヴィントガッセンの後に続く可能性を持っている。だから、だれもが、この役でコロが成熟するのを楽しみに待っている。
 コロのフランス・オペラの様式を録音で知ろうと思えば、マイヤーベーヤのアフリカの女からのおう、パラダイスを聞けばよい。これは1981年の録音でかなり成功している。その響きは鮮明で良く通るが、マックス・ローレンツの持つ劇的な勢いや、レオ・スレザクの信じられないほどの高度な技巧には欠けている。フランス・オペラでも、特にグノーやマスネのロマンチックな作品には、コロの興味をひかなかった。コロはこういう作品は、あまりにも甘ったるく感傷的すぎると思っており、ビゼーのカルメンのような、声だけでなく演劇的な手ごたえのある、ドラマチックな作品のほうを好んでいた。コロはドン・ホセを今までにかなりの回数歌っており、この人物を、ジプシーに無頓着なラテン系の人とは全く相容れない道徳感を持つ北方人的タイプにしてしまっている。
 コロはまたロシア・オペラも舞台で演じている。1973年にソ連への客演と西ベルリンで、ボロディンのイーゴリ公のウラジミール、1978年ケルンでのチャイコフスキーのエウゲニー・オネーギンの大成功だったレンスキー、1983年、ウィーンでの スペードの女王 でヘルマン。彼はこれらのオペラについて、演劇的な手ごたえを感じられる場だと考えている。

 しかし、コロのキャリアの中心ななんといっても広範囲にわたるドイツ・オペラの諸役である。ワーグナー以外では、タミーノ(魔笛)、ティート(皇帝ティートの慈悲)を歌ったモーツァルト、ベートーベン、ウェーバー、ダルベール、リヒャルト・シュトラウスなどである。これらのなかで、フィデリオのフロレスタンと魔弾の射手のマックスの二つの役は最初からずっとコロのレパートリーに入っている。非常に感動的だと評判が高かったウィーンでのバーンスタインとのフィデリオだけでなく、コロはフロレスタン役では、非常に広い範囲にわたって肯定的な評価を得ている。最も最近のものとしては1987年にこの役で客演している。 V. Ehrensberger が批評を書いた。ルネ・コロによって、力強く、味わい深く歌われた。彼はこの公演で彼がドイツ人ヘルデンテノールの第一人者だということを確認させた。

 オットー・シェンクの演出による、バーンスタインのフィデリオは、コロには、たまに演劇的集中の喪失がみられたにしても、最高に優れた歌唱だった。テノールはあのアリアで彼自身忘れられないほどの歌唱を示す。彼は、Gott という言葉を、ものすごく弱い、ぞっとするようなpianissimo(最弱音)ではじめ、ゆっくりと、大きなcrescendoクレッシェンドに開放する。傷ついた動物の振り絞るような叫びで始まり、はじめて懐疑心に襲われた宗教的な人間の強烈な嘆きで終る。華やかに移行する部分は流麗である。音階は整然として正確である。最高音のBは軽々と出ている。最後の himmlische Reich は楽々として輝かしい。演劇的には、テノールは時々オペラの定石的な身体表現に頼ってしまうことがあるが、例えばアリアの終り近く、レオノーレの姿が熱にうかされた彼の空想から消えて行くとき、彼の目にはほんとうに涙が浮かんでいる、そういう瞬間もまた複数箇所存在する。
 このアリアに続いて、レオノーレとロッコとの会話があるが、コロの台詞は皮肉のきいた辛辣さと飢えによって完全に自尊心を剥ぎ取られた者の絶望感を伝えている。三重唱ではコロの声が輝かしく鳴り響くが、初めにに彼が示していた身体的衰弱からすれば、多少元気するぎるかもしれない。トランペットがピツァッロの登場を告げるとき、テノールは、Ist das der Verbote meines Todes? (あれは私の死の宣告か?)と叫び声を上げる。 それは、パニックの襲われた者の叫びだ。傷つきやすく繊細な人間らしい叫びだ。他の一部の歌手たちほどの気高さはないけれど。ピツァッロが脅しながら迫ってくるとき、コロのフロレスタンは壁で身体を支え、もがきながら立ち上がり、恐怖と死を喜び迎える思いとが入り交じった気持ちで彼に復讐しようとする男と対峙する。レオノーレが割って入ると、彼は、まるで彼女を盾にするかのように、彼女にしがみつく。これもまた、彼の身体的、精神的弱さを強調する身振りである。しかし、トランペットがドン・フェルナンドの到着を告げるとき、コロは再び目をみはるような演劇的ひらめきを見せる。彼はレオノーレのうなじに頭をうめて、まさしく本物の安堵感で、涙するのだ。
 O namenlose Freude の二重唱は、心からの敬虔な感謝と二人の愛の再生の若々しい喜びのうちに輝かしく歌われる。コロのダイナミックなコントロールはすばらしい。そして、彼とグンドラ・ヤノヴィッツはこの部分を非常に音楽的に表現する。フェルナンドの前にレオノーレが鍵を手に現れ、夫の鎖をはずすとき、このフロレスタンは大きく目を見開き、少年のような畏敬の念で彼女をみつめ、 彼女の肩に頭をうずめるという感謝の身振りをする。その後、彼は時間きっかりに立ち上がる。彼女が泣きはじめると、彼は自分自身の苦痛を忘れて、彼女を慰める。一瞬二人は互いに親しく抱き合うとすぐ、このフロレスタンは囚人たちと喜びを分かち合うために、囚人から囚人へと走り回る。終幕の合唱は歓喜にあふれ、フロレスタンとレオノーレは感動に酔いしれているように見える。それにしても、歌唱ははちきれんばかりに感激的で、歌唱こそが劇場で聴衆がこの公演に熱狂的な大喝采を与えた大きな理由だったことは間違いない。
 コロのフロレスタンの人物描写には時々当惑させられる。彼はおおかたは本当に、牢獄につながれ、酷い扱いのせいで無気力になり、飢えに苦しめられている衰弱した人物に見える。彼は多くのフロレスタンに比べて受動的で、レオノーレの大きな力に臆面もなく依存している。しかし、この弱さは、身体的にも感情的にも終始一貫していない。問題点の一部は録画映像にも見られる。この公演におけるコロの人物描写は、熱意と洞察力が分離する瞬間が、精神的持久力に取って代わるせいで、焦点が定まらないように見える。
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13章 ルネ・コロ -1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ -1


   ヘルデンテノールというレッテルを貼られたくない。
   たまたまワーグナーの役をいくつか歌っているテノールだというだけだ。
              〜ルネ・コロ 音楽のために生まれたテノール


 ヘルデンテノールというレッテルを貼られたくない。たまたまワーグナーの役をいくつか歌っているテノールだというだけだ。

 これはルネ・コロのことばであるが、ジークフリート・イェルザレムも同じことを頻繁に言っている。二人ともレッテルを貼られることを非常に嫌がったが、英雄的な役で広範なキャリアを維持している。ペーター・ホフマンと共に、この二人の歌手は世界中の主要なオペラハウスにおいて、ドイツのドラマティックな役を事実上独占している。それでも、コロとイェルザレムはヘルデンテノールのレパートリーを主としてリリック・テノールの範囲にとどめている。いわば、かつてのベル・カント・スタイルの声楽家である。
 ヘルデンテノールの伝統において、ルネ・コロとジークフリート・イェルザレムの声の登場は、ヴォルフガング・ヴィントガッセンが先駆者だったが、特にサンドール・コンヤとジェス・トーマスによる60年代の声の多様性が道をつけたものだ。しかし、コロとイェルザレムは「真のテノール echt Tenor」つまり「軽めの英雄」の伝統を極限近くまで推し進めた表現をしている。この二人の歌手は「若々しい英雄」の響きと同時にレパートリーを成功させるスタミナと存在感によって、ヘルデンテノール分野に対する抒情的なアプローチを再評価した。彼らは、歌手というものが、19世紀的多才多芸を保ちつつ、つまり、狭い専門分野のレッテルを貼られることを否定しながら、「スペシャリスト」として、すなわち「ドイツ・テノール」として知られることが可能であるということを明確に示した。こうすることで、逆説的に言えば、彼らが拒否しようとするまさにその専門分野それ自体を変化させたのである。1970年代と1980年代にまたがる十年の間にヘルデンテノールが、新たなイメージを獲得したのは、多くの部分をルネ・コロとジークフリート・イェルザレムに負っている。
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   1937年11月20日、ベルリン生まれ、ポーランド系(かつて、この一族の姓は kollodzieyski  コロジエフスキーだった)のルネ・コロは音楽家の家系である。祖父、ワルターは、Einst in Mai を初めとする 四十曲以上のオペレッタを書いた有名な作曲家だったし、父のヴィリーも、作曲家、作詞家、キャバレー経営者として名を成していた。こういうわけで、仕事と家庭はきちんと分離されていたにしても、音楽教育は、ルネと姉のマルガリーテの初等教育においては当たり前の分野だった。ルネは一時指揮者になりたいと思っていたほどだが、家族はこういう限定的な将来への希望を重視しなかったので、コロは純粋に楽しみのためだけに歌のレッスンをしながら、彼の家庭にある音楽的雰囲気の中につかっていた。少年時代の静けさはベルリン爆撃によって破られ、家族は、はじめシュレージェン地方にそれから、ハンブルクに避難した。結果的に、ルネは北海に浮かぶFoehre島のWykの寄宿学校に入れられた。

  家族はコロが15歳になった1953年までベルリンには戻らなかった。そのころまでには、ドイツの音楽状況は戦争によって大きく様変わりしており、若いコロはアメリカのビッグ・バンド・ミュージックにのめりこんだ。彼はオランダでダンス・バンドの演奏に加わった。後に、コロはそれが自分のやるべき仕事ではないと確信していたと明言しているが、この仕事のお陰で、特に経済的に自立できたことがうれしかった。

  1957年二十歳のとき、アメリカ風のロック・シングル、Hello, Mary Lou によって、ドイツのポピュラー界の注目の的となり、一夜にして十代の少女たちのアイドルになり、このシングルは、125,000枚売り上げた。彼は演技の勉強を始め、ヴィリー・コロのキャバレーに正式に出演しはじめた。ここであるとき、この若い歌手はピアニストのグレーテル・ハーティング(Gretel Hartung)の注意をひいた。彼女は彼に本気で音楽を勉強することを薦めた。彼女にせき立てられて、声を聴いてもらったヴォイス・トレーナーのエルザ・ヴァレーナ(Elsa Varena)は、即座にコロのクラシックに対する適性を認めたのだった。コロは、1965年の最初の主要な役での出演契約までの七年間、ヴァレーナ女史について勉強した。

 その間、彼は音楽劇の仕事でますます活躍し続けていた。1958年には、父のヴィリー監督の、祖父ワルターの人生を描いた映画 So lang noch untern Linden に出演 した。1960年には、テレビ映画 So liebt und kuesst man in Tirol を制作した。ポピュラー歌手(Schlaegersaenger)としてのキャリアは、全ヨーロッパ、特にベルギー、オランダ、スカンジナビアに渡っている。そこで、最初の妻、デンマーク人のポピュラー歌手、Dorth と出会い、1967年に結婚した。ポピュラー・エンターテナーとしての横顔を維持しながらも、コロはクラシックのレパートリーの勉強を続けていた。彼は、クラシック音楽と軽音楽を区別するのはばかげている というヘルデンテノールの間では珍しいが、ペーター・ホフマンとは同じ、見解を今日に至るまで持っている。

  彼の最初のオペラの仕事は、1965年に、ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)というドイツの小さな町で始まった。そこで、彼は専属のリリック・テノールとして、二年間、ピンカートン、ティート、ラツァなどの役を歌い、その後、デュッセルドルフに移った。この初期の修業期間は、コロにとって無意味ではなかった。コロ自身、のちに、この四年間は、芸術的成長にとって重要だったと断言している。全ての演目をそのようにして学ぶわけです と彼は回想している。彼は地方での年月がオペレッタを含む広いレパートリーを身につけ、歌う役者として成長するためのよい経験の場になったことに感謝している。

  彼の職業的飛躍の年は、バイロイトでさまよえるオランダ人の舵取り役で注目を浴びた1969年だった。彼の声のみずみずしさと容姿端麗な若々しさは、エリック役のそれをしのいで、注目の的になった。オペラ誌のアラン・ブリス(Alan Blyth)は、コロの輝かしくのびるテノールは、エリックのジャン・コックス(Jean Cox)のつまったような声より好まれたのだろう と書いた。その結果、1970年には、エリック役とフロー役でバイロイトに再出演した。これより前に、彼はシュトラウスのアラベラで、スカラ座にデビューし、1970年末には、ゲオルグ・ショルティ指揮のタンホイザーを録音した。彼の声質と初期のレパートリーからすると驚くべきことだが、ワーグナー歌手としての国際的キャリアが始まった。

 1971年、コロはローエングリンとしてバイロイトに戻り、パルジファルで、ウィーンにデビューした。1972年、再びショルティと、マーラーの大地の歌で、アメリカ・デビューを果し、1973-1974年には、シュトルツィング(マイスタージンガー)としてバイロイト、ミュンヘン、ザルツブルクに出演し、同時にマイスタージンガーのレコード録音もした。ヘルベルト・フォン・カラヤンにザルツブルク復活祭音楽祭に招かれたのは、彼のキャリアにとっては重要なステップだった。歌手と指揮者の共働関係は短かったにもかかわらず、1974年にカラヤンは、ワーグナーに好ましいカラヤン好みの軽めの若々しい英雄(jugendlicher Held )の響きをコロの中に認め、一方、コロはカラヤンを世界的な大指揮者の一人として認め、カラヤンとローエングリンを歌いたいと望んだ。この願いはザルツブルクの美しいオペラ録音を生み出すことになったが、1976年に指揮者とテノールの間に、ひどい騒ぎになった残念な出来事も引き起こした。

  1976年はテノールの人生のおいて、職業的な大成功と個人的混乱の年であった。娘のオリヴィア・ナタリーをもうけた、彼の九年に渡るDortheとの結婚生活はこの年離婚という結果に終った。この苦い経験について、コロは後にインタビューでこう語っている。もう一度結婚するとしたら、私のために時間を割ける女性としたい。 結婚生活が破綻した理由が何であれ、コロは、間違いなく、加速的に増大するオペラの仕事とそれに伴う猛スピードで変化するライフスタイルのプレッシャーに苦しんでいた。慢性化した喉頭炎によって、彼は緊張感を募らせていた。このようなわけで、1976年の春、カラヤンのためにローエングリンを演じるべくザルツブルクに行ったときには、彼は感情的にも、おそらくは声も、絶好調ではなかった。リハーサル期間は荒れ模様だった。カラヤンもまた病後で、いらいらしやすい状態だった。カラヤンの専横的なやり方は縛られることの嫌いなコロの神経に障った。後にコロは、この申し出を引き受ける前に、注意深くよく考えた上で彼自身の解釈を指揮者に話してあったにもかかわらず、カラヤンがコロの考えに同意していないということがリハーサル期間に明らかになったのだと明言した。指揮者と話し合うことができないなら、家に帰るしかない  とコロはオペラ界誌に話した。 初日の批評は良くなかった。コロは、二回目の上演の二時間前に、「喉の不具合」という理由で、残りの契約をキャンセルし、荷物をまとめたときには、かなり動揺しており、シュツットガルト・ニュースに連絡して、事の経緯に関して自分の立場を弁明した。彼は、スター指揮者兼演出家がしゃしゃり出るのにはうんざりだ。ドイツ語圏にはローエングリンを歌えるテノールは五人しかいないが、ローエングリンを指揮できる指揮者は五千人はいるだろう と言った。マスコミにとって、この一件は、すばらしい出来事だった。二人の音楽界の巨匠の騒動は、大分冷静になったコロがあるインタビュアーに、私はカラヤンがとても好きだ。ただ単に仕事は一緒にできないというだけだ との、もってまわった賛辞を付け加えつつ、カラヤンの話はマスコミによって大袈裟に吹聴されたものだ と語るまで数カ月も荒れ狂った。

  この事件はコロのキャリアを傷つけることはなかったようだった。彼はその年自分の解釈によるローエングリンをドイツ・オペラのワシントン公演や、メトロポリタンへのデビューで歌った。ゲッツ・フリードリヒのリングでジークムントとしてコヴェント・ガーデンにデビューしたし、パトリス・シェローの記念碑的バイロイト百年祭のリングにジークフリートとして出演し、大成功をおさめた。カラヤンの誤解のあとだったから、今回は十分用心して、引き受ける前に、自分自身のジークフリートに対する考えを非常に細かい点までシェローと話し合い、このフランス人演出家の革新的なコンセプトに大いに同意できることを確認した。コロはイムレ・ファビアン Imre Fabian に、シェローは優れた才能をもった、魅力的な演劇人だ と語った。

 1977年、モシンスキー(Elijah Moshinsky)演出の美しいラファエロ前派的ローエングリンで、コヴェント・ガーデンに再登場し、オートバイの大事故で八ヶ月間キャリアを中断する羽目になったペーター・ホフマンの代役として魔弾の射手のマックスを歌った。レナート・バーンスタインも、あの有名な1977年のウィーンのフィデリオで、コロをフロレスタン役に選んだ。この演出は録画と録音が残された。

  1970年代に、コロは世界的ワーグナー・テノールとして認められると同時に、違うレパートリーにも出演し続けた。例えば、1978年には、ケルンで、チャイコフスキーのスペードの女王でヘルマンを、1979年には、ベルリンでドン・ホセ(カルメン)、メトロポリタン歌劇場で、バッカス(Rシュトラウス:ナクソスのアリアドネ)を歌った。それから、世界的なオーケストラとの共演で、リサイタルを行い、オペレッタを歌い、猛烈なスピードで録音をした。その上、大物テレビタレントとしても登場し、特に1977年には、Ich lade gern meine Gaeste ein.(お客さま招待) という番組が成功した。

  コロは1980年代には世界中で最も求められるドイツ人テノールの一人としての地位を確立した。演出家たちとの口論の歴史は続いていたが、そういうことも彼のキャリアにかすり傷さえつけられなかった。例えば、1979年にヴォルフガング・ワーグナーと衝突してコロがバイロイトを去ったとき、マスコミは、カラヤン事件後の騒ぎに比べると抑制が効いていた。そして、ヴォルフガング・ワーグナーさえも、1981年には、あの大成功だったトリスタンで、このテノールを「追放」から呼び戻すという方向に動いた(但し、このバイロイト総監督は、1985年タンホイザーを開演直前にキャンセルされるという悔しい目に遭うことになるわけだ)似たような事件としては、ミラノでのローエングリンでのジョルジョ・ストレーラーとの意見の不一致によるものがあるが、世界的に卓越した白鳥の騎士としてのコロの経歴に傷がつくことはなかった。

ローエングリン ルネ・コロ@スカラ座

  そうこうするうちに、コロの私生活は新たな幸福と秩序を得た。成功のうちにキャリアを重ねた結果、彼は仕事を選べるようになり、飛行機やヨットといった余暇を楽しめるようになり、娘のナタリーとの時間もとれるようになった。そして、1979年に、若いフランス人バレリーナのベアトリーチェ・ブケーと出会った。彼女はコロとの生活のために、仕事をやめ、1981年9月3日に結婚した。この関係はコロに安定とやすらぎをもたらし、二人の間の子どもが生まれたことで、最近ではハンブルクの家族のもとにいることが多くなった。

 1980年代、コロはワーグナーの全ての役を演じ、録音することを追求すると同時に、シュトラウス・テノールとしての名声も確立しようとしていた。1980年にはジュネーブで新演出のマイスタージンガーの初日を務め、パリでは影のない女、1983年にミュンヘンでリエンチ、1987年にウィーンとコヴェント・ガーデンで、タンホイザーという具合だ。彼のはじめてのトリスタンは、前述のジャン・ピエール・ポネル演出による1981年バイロイト、彼のジークフリートは、ヨーロッパ中で、一連の新演出リングで、高く評価された。サンフランシスコ(1983-1985)とミュンヘン(1987-  )のニコラス・レーンホフの他とは並外れて異なる演出では、特に優れていると認められた。同時に、1987年、フランクフルトでのオテロのような新たな役も加え続けている。そして、彼は別の演劇関係の仕事も探り始めている。1986年にはダルムシュタットで最初のパルジファルを演出し、さらにドイツの劇場で新演出をするのを楽しみにしている。

  かつて五十歳で舞台から引退すると宣言したにもかかわらず、幸いなことにコロの予定表はこの宣言を否定している。彼の先輩ヴィントガッセンと同じように、コロは海外での契約は減らしている(アメリカの大劇場で歌ったり、長期間家を開けたりするのは好まない) オペラとコンサートの、およそ、37ないし50の定期的な出演というスケジュールを続けるという活動計画だ。1987-1988年のシーズンは、忙しかった。一連のトリスタン、ジークフリート、パルジファル、タンホイザー、シュトルツィング、さらに7月はじめ、オランジュでの大成功だったローゲ (ラインの黄金)の再演、リンツでのコンサート形式のジークムント(ワルキューレ)。1989年には、はじめてのピーター・グライムズをコヴェント・ガーデンで歌う予定だ。将来的には、ポール・ネフ出版社と、すでに部分的には書き終えている回想録の契約を結んだ。

  オペラ界では二十年以上にわたって、劇場生活は三十年以上、ルネ・コロは驚くほど広範囲な音楽的かつ演劇的経験を探索してきた。そして、現代の最も多角的なテノールのひとりとしての名声を確立した。彼は、その活動において、ヘルデンテノールの芸術に大きな貢献を果し、たいていのジャーナリストは、彼を現代世界における主要なワーグナー解釈者の一人と認めている。
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 ジークフリート・イェルザレム、ペーター・ホフマン同様、ルネ・コロはヘルデンテノールの伝統に新たな声質のみならず、新たな個性をも与えている。コロは現代的な流れの中にある英雄的テノールである。スレザーク(Slezak)のTenorissimo というフォームとは、非常に違っている。舞台上での常に変わらぬ集中度、舞台の外での親しみやすさなど、コロは現代的歌手世代の新たな感覚を放射している。

 現代のオペラの仕事のスピードの速さは、コロのライフスタイルでは、飛行機乗りとヨットという、どん欲な余暇の過ごし方で埋め合わせがされている。飛行機操縦がもたらす解放感、長期間のヨットでの航海の静けさにわくわくしながら、コロはジェット機で飛び回る豪快なジェット族的休暇とプロに要求される規律ある節制を両立させている。芸術家の健全さにとって不可欠なそれは仕事と休養のバランス感覚であるとコロは思っている。コロは、禁欲生活ではなく、普通の生活をすることにこだわっている。少なくとも公演の二日前からは、酒を飲み過ぎないとか、タバコを吸わないとか、睡眠を十分にとるといった賢明な決断をしているということだが、隠遁生活をする必要はないと思っている。彼は家族と過ごすために少なくとも5週間の年次休暇をとるように計画している。カレオールのヨットで過ごすことが多い。コロが維持しているこの自由時間は充電期間として重要であり、成熟した大人としての平静さを保つために大いに貢献している。

  ペアトリーチェ・ブケーとの関係も彼の生活に落ち着きをもたらしている。コロはベアトリーチェが、家族のために仕事をやめる決断をしたことを感謝しているとイムレ・ファビアン Imre Fabian に語った。お互いにぬくもり、愛情、友情などを共有することはコロの考える幸福な生活には不可欠である。

 コロのイメージを、前の時代のヘルデンテノールより親しみやすいものにしているもうひとつの要素は、彼のポップス歌手としてのバックグランドである。それでも、Schlaegersinger(ポピュラー歌手)に対する偏見の故に、クラシックの契約の際、初め頃は問題がないわけではなかったとテノール自身が認めている。(例えば、カールスルーエ歌劇場は彼を受け入れなかった)しかし、歌う喜びがあれば、歌わない理由はない という考えをコロは持ち続けている。だから、ペーター・ホフマンもそうだが、彼もポピュラー音楽はより広範囲の聴衆を獲得するのに効果的だと考えている。実際、コロは、そのキャリアを通して、幅広く音楽制作に関わっている。特にテレビ番組と録音を重視しており、両方とも莫大な聴衆を得ており、多様なファン層を獲得している。

  しかし、コロが聴衆から得ている幅広い人気と尊敬にもかかわらず、彼の芸術家としての人格に関するインサイダー的評論家の見方は一致していない。彼のことを、気分屋で気難し屋だと言う者は多い。彼の豊かな才能を認めながらも、「気紛れ」あるいは「怠惰」といったレッテルを貼る者もいる。一方で、芸術家としても人としても「最高にすばらしい」と断固として主張する者も多い。あの有名なカラヤン事件が、気難しいディーヴォ(divo)というコロの評判を高めたのは間違いのないところだ。この件に関しては、カラヤンの演出にあのような反応を示したのはコロだけではないということにも注目するのがフェアというものだろう。つまり、カール・リッダーブッシュも同じように不愉快な気分になり、カラヤンとは二度と仕事をしないと宣言している。無謀なことだと思った人が多かった、この有名な指揮者と絶縁するというコロの決断を評価するに当たって、コロに対して公明正大でなければならないし、芸術家の独立性と誠実さを熟慮し、むしろ勇敢に表明するという彼の選択を、少なくとも部分的には、認めるべきだ。しかし、コロの振るまいを正当化してもなお、キャンセルの経緯に関してマスコミに延々と不愉快な見解を述べるためには「喉の不具合」は妨げにならなかったというマレー・レズリーがオペラ誌に書いた批評がいかに皮肉たっぷりだったかは容易に想像できる。

  実際、コロのキャンセルには情状酌量できる状況があり、熟考した上での決断なのだ。1985年に、芸術的誠実さ(演出に対する不同意)及び家庭の事情(最初の子どもを産んだばかりのベアトリーチェと一緒にいたい)と体調不良という複合的理由で、バイロイトのタンホイザーをキャンセルした。1979年のジークフリートに出演しなかったことについては、次のように説明している。

 一年前に、ヴォルフガング・ワーグナーには、音楽祭期間中に、テレビのライヴ・ショー(Ich lade gern meine Gaeste ein)の録画撮りがあることを知らせてあった。私はその録画のために、バーデン・バーデンに行った。一週間ライヴの仕事をしたので、とても疲れて、その週末には調子がよくなかった。これはジークフリートのおよそ一週間前のことだった。そこで、私はヴォルフガング・ワーグナーに、調子がよくないので、次の公演に限って、代役を見つけるのがいいのではないかと思うと、電報を打った。ジークフリート役を見つけるのは難しいことは分かっている。だからこそ、私はこのように丁重に提案したのだ。数時間後、ヴォルフガング・ワーグナーから、気が動転するような失礼な電報を受け取った。その電報はショックだった。私は家に帰った・・・私たちは、相談し、いろいろ検討した結果、もう全部歌わないでキャンセルすることに決めた。彼はちょっと悲しそうに付け加えた。バイロイトで歌うのは好きだが、ああいう状況でやる必要はない。どこか他の場所で歌えるのだから。


 そして、確かに彼はそうやって、成功した。この件に関するこういう見方に賛成しない人(ワーグナー氏も多分そうだろう)も、いるかもしれないが、誰一人、ジークフリートをはじめとするヘルデンテノールの諸役には、コロが不可欠だという、コロの断言に反論することができる人はいない。
 コロは、その決断が時には過激で、劇場監督との関係が過熱することがあるのと同じくらい、高度に創造的な演出家に対して尊敬を失うことは稀である。パトリス・シェローは1976年のリングで、コロは終始変わらずサポートしてくれ、他のキャストたちの模範になってくれたと断言しているが、そのシェローでさえ時には、コロの気紛れで、気分屋的な態度を嘆いた。彼には演劇的な才能がある(そのことがむしろ彼を発作的怠惰にさせたり、不機嫌にさせたりするのだろう) コロは、このリングで、私がうまくやっていけた歌手の一人だった。五月下旬のジークフリートのリハーサルでのコロは、ほんとうに美しかった。
 1980年代の初め頃、コロ自身、自分の行動について、イムレ・ファビアンに、次のような説明を試みた。以前、私は文句言いで、難しい人間だった。時が経つとともに、私は変わった  続けて、彼は海との付き合いがより穏やかな性格を築くのに役にたったと付け加えた。しかし、コロの「気分屋振り」は、人間関係だけではなく、時には舞台でも感じられる。演出家の性格付けによっては、あるいは、演出コンセプトに刺激されれば、物凄く深く没入できる。そうでない場合は、もがいたり、抵抗したり、無感動になったりしたあげく、声的、演劇的、人間的エネルギーを消耗してしまう。しかし、コロの芸術性は、彼の傑出した公演は、気の抜けた公演よりはるかに勝っており重要であるという事実によって測ることができる。そして、そのどちらもが、彼の仕事を比類ないものにしている極めて人間的な洞察力に由来している。

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12章 ジョン・ヴィッカーズ [WE NEED A HERO 1989刊]

12章:多様化
シャーンドル・コーンヤ、ジェイムズ・キング、ジョン・ヴィッカーズ
ジョン・ヴィッカーズ

   ジェイムズ・キングとまさに同時期に活躍したジョン・ヴィッカーズは、英雄的テノールとして国際的に認められた最初のカナダ人になった。ジェス・トーマス、ジェイムズ・キングと同じように、彼は同胞のために道を拓いた。1926年10月26日、プリンス・アルバートの大家族に生まれ、保守的な原理主義的キリスト教徒として育った。貧しい学校長だった父親は、子ども達を職業倫理を大事にし、神に対する義務を信じるように教育した。
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   この本で取り上げた全ヘルデンテノールの中で、ヴィッカーズがもっとも率直に物を言う人物のひとりであることは間違いない。とりつくろうことなく自分の見解を表明し、自らのキャリア形成に際して妥協しない。5フィート9インチのたくましい体格。妻と五人の子どもたちとカナダ西部の人里離れた場所にある農園に住んでいる。テノールにとってここは、国際的なスターの地位に伴う厳しく、時には、不快な義務からの避難所なのだ。ヴィッカーズは家にいるときは農場生活をしている。ここで、自分の手をつかって仕事をし、土を耕し、木工を楽しみ、ポール・ティリッヒといった宗教哲学者の著作を読んで過ごすことが彼に満足感を与える。歌っていないときはここに引っ込んで、全てのパーティー、そして、ほとんどのインタビュー拒否を貫いている。この安住の地から出る時はすなわち、舞台に立ち向かうときなのだ。彼にとって、舞台に立つことは倫理的聖職であり、またそうでなければならないものだ。舞台から旧約聖書の預言者的確信を持って強烈な叫び声を浴びせるのだ。
(中略)

 彼の芸術における完全主義は当惑するような極端な行動をとらせることも少なくなかった。 1975年ダラスでヴィッカーズは死に瀕したトリスタンとして舞台に横たわっていた。観客のざわつきと咳が彼の集中を著しく妨げた。彼はいきなり起き上がり背筋をピンと伸ばすと、「Shut up your damned coughing!」と、観客を怒鳴りつけ、指揮者のニコラ・レシーニを仰天させた。そして、すぐに落ち着き払って、その烈しさで名高い演技に移った。 そして、「私が四時間半もの間、咳払いひとつせずに、やり通すことができるのなら、観客だって、咳などせずに静かに座っていられるはずだ」と悪びれもせずに主張した。この実力行使は当然のこととして正当化され、観客に対して有効に作用したが、同時にそれは舞台の魔法を解き、一瞬にして、彼の名高い演劇的資質が舞台にもたらしていたものが幻影だったことを暴いてしまった。だがまた、完璧に感嘆すべき職業的献身を証明するエピソードも少なくない。サンフランシスコでのある夜のこと。庶民的な移動手段、つまりバスを使って劇場に向かっていたところ、渋滞に巻き込まれてしまったテノールは、公演に間に合うように劇場に着くために走っていくので、バスを止め、自分の途中下車を許可するように運転手に断固として命令した。
  ヴィッカーズがおこりっぽかったのは間違いないところだが、彼の怒りの発作は全てきちんと説明できる主義主張によるもので、気まぐれが原因ではない。彼は、オペラのスター歌手というよりは、むしろ厳格な道徳主義者だった。彼はオペラを非常にまじめで神聖な、真剣な努力に値するもので、軽々しく受け止めるべきものではないと考えていた。彼にとって、舞台は聖餐式のように共同体としての意識を通わせ、説教し、回心する場所だった。「人生において意味のあることは唯一他者と深く関わることだという結論に達した」と彼は言う。
舞台こそが、ヴィッカーズをして、他者の人生とその感情に自分自身を内包させ、その人物をまとい、身につけて生きることを可能にした。彼は言う。「自分のことを、エンターテイナー(エンターテーナー entertainer)、人を楽しませる芸人だとは思っていない」彼は「パルジファルやリングに娯楽としての価値があるとは思わない」と宣教師的情熱を込めて、主張する。彼は世俗の富に奉仕し、強いドルを追い求めることを、彼のミューズ、音楽の女神を冒涜することとして、拒否する。そして、オペラ歌手は孤独であることを悲しみと共に受け入れ、自らの道、すなわち、自らの意志によって、荒々しく、堂々と自らの表現手段と個人的メッセージを信じ続ける道を行くことを選択する。
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11章 ジェス・トーマス-4/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

11章:
彼のようになりたい:輝かしい存在感を放つアメリカ人:ジェス・トーマス -4

   ことばはそれにふわわしい行動を求める。歌唱において言語はまず歌手の心から湧き出る。心できくことこそが何よりも重要だ。
   これらのことばは、ジェス・トーマスの音楽劇に対する信念を表わしている。現代的な歌手、まさしくスヴァンホルムとヴィントガッセンの後継者であるトーマスは、その知性と詩情あふれる演技によって知られた。そのキャリアを通じて、声と演劇的な才能を結合して、洗練された人物像を創造した。1971年12月のトリスタンに関して、批評家のアラン・リッチはトーマスの演劇的な才能を評して、「この役において私が初めて目にした天才的俳優」という熱狂的な言葉を繰り返し発した。
   トーマスの貴族的な雰囲気、すらりとした体型、若々しく、男らしい外見は、温和な父親的雰囲気の英雄に慣れた人々にとって、すがすがしく新鮮な変化だった。トーマスはこういった利点を彼の舞台の真実性を増すために役立てる方法を知っていた。常に自分の外見に注意を払った。衣装のデザインや化粧を自分ですることも少なくなかった。自分が創り出す全体的な視覚効果に責任をもったのだ。時には非常に大胆でさえあった。たとえば、メトロポリタン歌劇場での最初のラダメス(ヴェルディ作曲 アイーダ)で、きわめて写実的なスタイルの短い丈のチュニックの上に数枚の長い外衣(ローブ)を羽織った。4幕までに、一枚ずつ脱いでいったものだから、ルドルフ・ビングは、5幕がなくてよかったとつぶやいたものだ。1970年代のトリスタンでも、3幕で、水泳パンツのようなブリーフを身につけたので、イゾルデ役のニルソンは、手の置き場に困ると笑いながら言った。こういう男らしさの誇示を自己顕示欲だと言った人たちもいたが、大概の人は、トーマスが演じる英雄たちが、トーマスが彼らに付与した適度な性的魅力によって、存在感を増したことを否定できなかった。威厳と気品しかないトリスタンよりも、ロマンチックで情熱的に見えるトリスタンのほうが納得しやすいのは間違いない。
   トーマスにとって視覚要素と聴覚要素の完全な合体によって納得できる全体像を描き出すことこそが重要関心事だったのは間違いない。舞台での動作は、ヴィンドガッセンに比べても、より写実的だった。トーマスもヴィーラント・ワーグナーと共に仕事をし、この演出家から教えられた優美さと貴族的な節度を身につけていたけれど、トーマスは様式化よりは、演技を重視する方向へ向かう傾向がはるかに強かった。少年ジークフリートの歩き方を再現するてめに、幼い息子の歩行を注意深く観察したことがあった。人物を表現する身体の動きを常に追究していた。そして、身体の動きを細部まで写実的に示すスヴァンホルムのやり方とヴィントガッセンのやり方の心理的な要素を結合し、現世代歌役者へのスムーズな橋渡しをした。これこそがトーマスのすばらしい業績である。
   スヴァンホルムもそうだったように、トーマスも自分の演技のやり方に独自のものを持っていた。もの凄く知的、かつ分析的で、ヴィーラント・ワーグナーのような演出家と議論したり、パトリス・シェローのような専門家と本気で対話したりすることをいとわなかった。しかし、そういった議論が、共同作業の一員として彼に求められることを全うするのを妨げることはなかった。彼は、最も現代的な意味で、自主的に参加するタイプの演技者であり、仲間と協調して行動するチームプレーヤーだった。
   トーマスの演技法はその心理学の知識とその深い音楽性によるところが大だった。彼が言うには、ひとつの役は常に音楽から始める。つまり、台本に集中する前に、その全体像と声楽的条件とを研究する。これこそがおそらくトーマスの描き出す彼独自の人物像が、まず第一に叙情的歌唱の美しさ、それから、写実的な動き、所作、そして、心理学的表情づけ、最後に歌詞の朗唱という優先順位を持っているということの理由といえよう。卓越した歌手ならだれでもこの三つの要素を合体させなければならないが、その混合の具合は個々に違うもので、これこそが歌手たちの個性になるのだ。トーマスのやり方は、言葉は彼にとって重要でないという意味ではない。むしろ、彼の仕事が与える衝撃は、聴覚と視覚が互いに呼応しながら合体するところから発しているということだ。(まず第一に言葉、次に動作、最後に音楽的美しさに重きをおいたため、一番強い印象が知的ということだったスヴァンホルムのような歌手と対照的である) トーマスの舞台での特性は、外見のスマートな活発さ、男らしさ、性的魅力と、対照的に天上的な純粋さと輝きを持った声の合体から生じている。トーマス自身、ワーグナーの作品の官能的側面を認めて、こんな冗談を言っている。「もしリヒャルト・ワーグナーが、彼の音楽で示した半分程度、ベッドでもよかったとすれば、やはり彼は巨人だったにちがいない」 しかし、さらに彼はまじめな調子で付け加えた。「ワーグナーの音楽は満たされない憧れを含んでいる。この憧れのせいで、彼は性的な気まぐれより精神的な情熱に身を任せたのだと思う」 実際のところ、肉体的情熱と精神的情熱、この二つの間の緊張関係こそが、ワーグナー理解には肝要で、ジェス・トーマスこそがこの逆説を見事に伝えたと言える。
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11章 ジェス・トーマス-3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

11章:
彼のようになりたい:輝かしい存在感を放つアメリカ人:ジェス・トーマス -3

   Kein Schwert verhiess mir der Vater(父は私に剣を約束してはくれなかった) ジェス・トーマスは自伝の題にジークムントのモノローグの最初の語句を皮肉って、このようにもじって使っている。ヘルデンテノールとしての成功は現実的なあらゆる予想に反したことだった。
   ワーグナーの専門家、ドイツ物のテノールになるという決断は、ジェス・トーマスにとって意図的なものだった。若々しい英雄jugendlicher Heldの響きを持つ彼の声は、イタリア物にも同様によく合っていたし、やすやすと出せる高音、声楽的才能、抒情的フレージングはスピントのレパートリーでも間違いなくやっていけただろう。少なくとも、トーマスの同僚であったサンドール・コーンヤが選んだように、ヘルデンテノールの役とベルカントやヴェリズモの役を同時にやっていくというキャリアは可能だったと思われる。これこそが、まさにルドルフ・ビングが彼に望んだ方向だった。では、ジェス・トーマスがドイツオペラの分野で英雄的歌手となろうと決断したのはなぜなのだろうか。
   単なる運命的決断というほど単純な理由ではなかったし、オットー・シュルマン Otto schulmann の、ドイツには若い歌手にとって非常に多くの公演というチャンスがあり、それを生かすにはドイツに行くべきだという助言があったという理由だけでもなかった。クナッパーブッシュやヴィーラント・ワーグナーとの幸運な出会いだけでもなかった。むしろ、テノールの役に関する意識的な選択だった。1960年代にあった、より有利で旨味のあるイタリア・オペラのレパートリーに対する申し出を拒否したのは、彼自身の選択だった。
   その明確で知的な分析的手法は、スヴァンホルムのそれを彷彿とさせるが、ジェス・トーマスはその自伝とインタービューにおいて彼の選択についてはっきりと語っている。彼はまず音楽の心理学的効能の理論を説明することから始める。 音楽は脳に化学的反応を引き起こす。音を感情と結びつけるきっかけを与える。それは、懐古的なものではなく、まさにそのときの感情である。 続けて、彼は、音楽に対する人間の反応は、まずはじめは、素朴で本能的だと言う。次に続く反応は知的であり、その次の融合的な段階では、頭と心、過去と現在が互いに関連して結合し、情緒的な絆が生まれる。この感情と思考の結合、多角的な次元の表現の可能性を、トーマスは何にもまして、ワーグナーの音楽に発見したのだった。ワーグナーこそが、私の魂を開放し、そうでなければ絶対に気がつかなかったと思われる表現能力を発見させたのだった。
   ワーグナーに登場する心理的に複雑な人物像こそが、ナイーブなロマンチストであると同時に、高度な教育を受けた臨床医であり学者であったトーマスを魅了したのだった。
芸術的な仕事の価値は、なによりも、異なる見解を混合し、可能な行動と反応を示す事にある。(芸術家と観客に)自身の考えを反映するように導くことができる異化作用への可能性を示すことにある。
   トーマスは自分自身をワーグナーの影響を受けた人々の長い鎖の一つの輪と見ていた。初期のローエングリンとシュトルツィングでの経験が彼をワーグナーの世界へと導いた。彼にとって挑戦的だったこれらの役を彼は心を込めて追究した。彼にとってワーグナーは常に彼の頭と心の両方に関わるものだったし、技術的にもスタミナ的にもまさに挑戦的だった。
    ワーグナーの役柄は非常に深い感情を引き起こしました。ワーグナーが生み出した人物像と解釈は私の思考と魂の非常に深い部分に呼応しました。ワーグナーは、伝統的なオペラをそのつまらなさから解放し、芸術家に観客にも問題を突きつけ、彼らを芸術作品に取り組ませたのです。
   ワーグナーの諸役で経験したダイナミックな論争はトーマスをわくわくさせた。全ての公演が、何らかの発見であり、自分以外の存在に無意識に深く関わる旅だと感じられた。逆説的に言えば、それはとりもなおさず、自分自身を発見する旅になっていた。ジェス・トーマスのように人間の魂を追究しようとする芸術家にとって、ワーグナーは最高に解放的な体験であった。リヒャルト・ワーグナーから私が学んだ全てのことをひとつのキーワードに集約するとすれば、それこそ、まさしく、自由 freedom である。 トーマスのようにきわめて知的に行動する人にとって、そして深い感情を持ち合わせている人にとって、ワーグナーこそは両者の緊張状態を全体論的な創造物に統合する道を提供するものだった。なによりも、ワーグナーは私の知性を情緒化してくれました。そして、自然に近づく第一歩を私に示してくれました。  このようなわけで、ジェス・トーマスが究極的にワーグナー専門になる決心をするに至った事は間違いないと思われる。トーマスは、ワーグナーが芸術家と聴き手にもたらすものがほとんど宗教的な要求であることに気がついており、彼の役柄が、その要求を満たさなければならないこと、そしてそれができるということをはっきりと感じていた。自分の内的渇望は、これらの役を解釈し、演じ、歌うことのよってのみ癒されうることが私にはわかっていた。   

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このテノールをはじめて耳にした多くの人々がヘルデンテノールとしてのキャリアを予想しなかったであろうことは疑いようがない。ジェス・トーマスの声は、典型的なテノールecht Tenorで、軽めの英雄役にふさわしいものだった。サイズ的にも、抒情性においても、心理学的な陰影付けの能力からも、その声は、ヴィントガッセンの後継者であると同時に、レオ・スレザクの響きにある純粋さと甘さを受け継いでいた。(カール・ベームはかつてトーマスにこう語った。トーマスは最盛期のスレザクを思い出させると。) 抒情的かつ英雄的な声を受容することは、ヴィントガッセンというドイツ人テノールによってすでに道筋がつけられており、ジェス・トーマスがこのレパートリーを自分のものとするのを明らかに支援するものであったにもかかわらず、ヴィントガッセンの場合と同様に、トーマスのヘルデンテノールたらんとする希望を認めようとしない批評家もいた。否定的な人々に対して、トーマスは1969年に自分の声楽的願望をこう説明している。
   私としては、従来のような最大声量を誇るヘルデンテノールになろうとは思わない。声質的、声楽的に、そして、完全に役になりきるという、新たな局面を示したい。これは自己弁護のへりくつではない。なぜなら、抒情的な瞬間においても劇的な瞬間においても表現し歌う事、個々の役を歌うことこそがより重要なことだからである。
   彼は続けてこう反論する。
   特にアメリカの観客は典型的なヘルデンテノールとは大声で咆哮する声だと考えているのは間違いない。私は声楽的にも精神的にもそういうことができる器ではない。抒情性を犠牲にして力だけを示したいとは思わない。
   実際、トーマスの声の規模は(ヴィントガッセンとほぼ同じ)中程度であるが、優れた求心力と前方へ飛ぶ力によってより大きな力を印象づけることに成功していた。その明瞭で突き通すような透明感のある声はメトロポリタン歌劇場のような3900人収容のオペラハウスの天井桟敷に到達し、聴衆を響きの中に包みこんだ。声の音色は純粋に澄んでおり、甘く優雅だった。そのイントネーションは驚くほど正確で、他の歌手仲間に比べて幅が小さいビブラートを用いていた。トーマスの声域は広く、ジークフリートで聞かれるように高いCの音を楽々と出せた。彼にとって、バッカスやタンホイザーといった高い音域の役はいつだって自家薬籠中の物だった。その音量の幅の大きさも驚くほどで、mezza voce メッツァ・ヴォーチェ や弱音を よく用いた。だから、彼の音楽的才能とフレージングが優雅だったこともあって、最終的には流れるような音楽性を得た。そのレガートはドイツ的訓練の結果だった。そして、イタリア物の役でさえ、明確なドイツ的流れで歌ったことが、次のような批評に示されている。トーマスは強い声を持っている。彼のラダメスはメトの他のラダメスに比較するとイタリア的でない。『清きアイーダ』を不適切なグリッサンド唱法で歌わない唯一人のテノールである。加えて、トーマスの知的な朗唱と的確なディクション(歌唱発語)が彼の音の持つ聴覚に訴える力に独特の風合いを付け加えていた。いったん必要な外国語をマスターしたあと、彼はくせのないイタリア語やドイツ語で歌い、言葉を際立たせる技を見せつけた。心理学用語で適切に定義された彼の人物描写は常に声楽的かつ演劇的細やかさの結合したものであった。
   しかし、こういった技術的完成度以上に、トーマスの音色は独特の曰く言いがたい輝きを発散していた。1971年ハワード・クライン Howard Klein はニューヨーク・タイムズでこのように述べた。ワーグナー唱法に対する彼の貢献は、彼の歌唱に備わっている独特の詩情である。 トーマスは、個々の音は精神的概念であるから、全ての音符がきこえなければならないという、シュルマン Schulmann先生の教えを忘れなかった。彼は説明しがたいオーラを生み出そうと努力した。
トーマスの歌唱にはある種の説明しがたいエネルギーがあった。聴き手の心を揺り動かす音そのものにある明白な躍動感だ。彼が歌うのを聞いた人はだれもが彼のこの世のものならぬ神秘的な音色の魅力に心を奪われた。特にローエングリンならなおさらだった。肉体を超越した、青みがかった銀色に輝く音色は、まるで月の光で織られたようだった。シェリー Schelley のひばりのように、トーマスの声は「非物質的喜び」という特質を有していた。
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11章 ジェス・トーマス-2/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

11章:
彼のようになりたい:輝かしい存在感を放つアメリカ人:ジェス・トーマス -2

   私は人生の本質的な真理を芸術のうちに見つけた。ジェス・トーマスは自分の職業について、こう述べている。彼は、劇場での三十年を越える年月を振り返り、ローエングリンをその音楽の道程のシンボルと捉えている。作曲家の音楽に生命を与え、聴衆に喜びをもたらすという、歌手の使命を、聖杯の騎士の聖なる責務に比している。個人的幸福を軽視し、それを失う悲しみさえも含む、芸術的苦悩を、ローエングリンの地上の至福に対する個人的な夢の喪失の間には類似点があるとし、音楽を、エルザ、すなわち、深く、霊感を持って、愛する芸術の女神、ミューズであるとする。トーマスがこの役に感じている親近感は、当然、彼自身とひいてはその観客が、彼をこのテノールの役と同一視する傾向を助長した。ローエングリンを演じるトーマスの放つ神秘的な輝きは、彼自身の音楽そのものに対する尊敬の念による部分が大きい。彼は、大自然、人類、そして音楽の中に、私は私の神を見い出す。芸術の中に、神と強烈に引き合う個々の関連性を確信する。 と述べている。音楽のキャリアを追求しようと決心したことによって、彼の人生は変容を遂げ、豊かなものになった。そして、彼は芸術の女神、ミューズの前で、芸術と観客に対する責任を喜びとして感じつつ、寛大な心を持って、謙遜に感謝を表す。
   ヘルデンテノール専門のアメリカ人として、たまたま住むことになった環境とは文化的に大きく異なる環境の中で育った子どもとして、比較的遅くこの職業についた歌手として、ジェス・トーマスは克服すべき幾多の障害を抱えていた。彼が大きな決断力とエネルギーをもって成し遂げたこと、そして、他の若いアメリカ人歌手に対する予断と認識を大いに変えたことは、彼の個人的な勇気に対する見返りだった。トーマスの目的に対する熱意は芸術全般に対する関わり方に非常によく示されており、新世代の歌手を形成した総合芸術への取り組みとその人間性が、おもいやりのある歌手仲間との関係にあらわれている。バイロイト仲間であり友人であったヴォルフガング・ヴィントガッセン同様、ジェス・トーマスもアンサンブルを重視し、公平さや協力関係、そして思いやりを尊重した。こういうことは、あの偉大なドイツ人テノール、ヴィントガッセンが常に実践したことだった。トーマスは自伝の中で、ヴィントガッセンのトーマスに対する寛大さをいくつかの例を挙げて語っている。ヴィントガッセンが、ヴィーランド・ワーグナーがトーマスに約束してあったテレビ放送されたマイスタージンガーの公演でそれと知らずに歌ったことに気がついて、後で、タンホイザーと他のもっと重い役に取り組もうというトーマスの決心を支援したことがあった。何が起こったかに気がついたヴィントガッセンはすぐにトーマスのところに来て、知らずに悪い事をしてしまったことを謝った。トーマスはヴィントガッセンの真摯な態度に応えて、(他の人たちがやったように)抗議のキャンセルをせず、残りの契約を守った。二人のテノールはこの出来事の結果、親友になった。ヴィントガッセンと同じように、トーマスも信義に厚い人間だった。殊に契約に関してはそうだった。そして、仲間が芸術的にしろ、個人的にしろ困っているときには喜んで手助けを買って出た。トーマスは何度かトリスタンのカバー歌手をすることによって、ヴィントガッセンの親切に報いた。彼は病気の仲間にも気を使った。例えば、いつだったか、腕を骨折したにもかかわらず、彼女の同僚のせいで神々の黄昏を歌わざるをえなかったビルギット・ニルソンに、ルーネ文字を刻んだ槍の代わりにこの腕輪をおくりますという言葉を刻んだブレスレットをおくったとき、そうすれば、ジェスの責任になるだろうと妻に話した。 共演者に対して、親切で楽しい存在、鑑賞眼のある人、彼のキャリアに関わり、支えてくれる全ての人たちに対する感謝を言葉と行動で積極的に表現する。トーマスは手に入れた名声と幸運を感謝していた。さらに、彼は苦労している他の芸術家を援助するのは義務だと感じていた。一番劇的な例は勉強の終わりの時期のペーター・ホフマンに対する援助だった。トーマスは謙遜にもこの話を自伝に書いていないが、ホフマンはトーマスがホフマンの音楽学校終了から最初の仕事までのしばらくの間、どんなにかホフマンと妻と二人の幼い子どもたちを支えてくれたかを語っている。
   ホフマンは、彼の才能に対するトーマスの信頼を回想して感謝すると同時に、勉強が終わって、軍隊の退職金も使い果たして、最初の契約を待っており、もうどうやったら家族を養えるかわからなかったとき、ジェス・トーマスはアメリカから毎月送金してくれたと語った。トーマスは、はじめからうまくいくという勘が働いていたのだ。しかし、私にとって、それは非常に強力な予言であると同時に責務だった。
   このような寛大さこそがジェス・トーマスの性格だった。正直で、剛毅、明快な自意識の持ち主。自分自身の苦労を忘れない人。自分を助けてくれた人を忘れることがない。関わった仲間たちを大事にすることを忘れない。その非常に開放的な性癖は、小さな町の出身という親しみやすく、気のおけない率直さと、その頭の回転の速い、鋭い知性と分析的な素質に由来することは疑いない。その「隣の男の子」的人格の持つ誠実な人柄の暖かさは人間の行動、すなわち、彼自身の行動、彼の知人たちの行動、彼の演じる役の行動に対する心理学的洞察と結びついて、非常に明確で、近づきやすい、非常に鮮明な個性を形作っている。少年時代の彼の、芸術、スポーツ、学問に対する強い関心のありかと才能のいぶきが円満な大人となる基礎となっている。そして、力強い、感動をもって反応する人生の捉え方が彼の芸術を彩っている。
   ジェス・トーマスの陽気で機知に富んだユーモアのセンスは、そのキャリアにも、自伝にもあふれている。彼は好んで自分を笑い飛ばす。自伝は、彼の劇場での失敗話でいっぱいだ。多くは舞台上のちょっとした災難もどきが中心だ。ジークフリートがさすらい人の槍じゃなくて、ノートゥングを壊してしまったときのこととか、アントニオとクレオパトラで、馬が舞台中央のプロンプターボックスの上に立たないようにするために孤軍奮闘した話などだ。他には、キャリアの初期に経験した滑稽な言語上の苦労を自嘲する話の数々だ。トーマスは中西部出身者として、短期間にドイツ語を習得するのは容易なことではなかったと自ら認めている。一度ならず、フロイド的な意味を持つ発音間違いで、共演者や指揮者を当惑させた。例えば、カールスルーエのワルキューレのリハーサルで、トーマスのジークムントは、フンディングにすごむのに、Seine Schneide schmecke jetzt du! (さあ、剣の切れ味を知るがいい!)と言うかわりに、Seine Schnecken schmecke jetzt du!(さあ、カタツムリをたっぷりくらえ!)と言ってしまった。別のところでは、Sank auf die Lider mir Nacht(夜が私のまぶたを覆った)というところが、彼の発音では、Sank auch die Glieder mir nackt(私の仲間たちも裸で沈んだ)と聞こえた。そして、トネリコの幹からノートゥングを引き抜いて、ジークムントが勝利の言葉を歌ったとき、まさに自己同一性の崩壊を示唆してしまった。つまり、Siegfried heiss'ich und Siegmund bin ich!(今こそジークフリートと名乗ろう。我こそはジークムント!)と宣言してしまったのだった。それでも、どんなに苦労しても、時にはへまをしても、最終的に正統的なドイツ語の発音とイントネーションを身につけたからこそ、トーマスは世界的なヘルデンテノールになれたのだ。
   トーマスが成功したもうひとつの要素はその断固とした性格にあった。協調性と頑固さの結合した忍耐強さである。トーマスは、自尊心と本質的な公平に関わるとあれば、難しい取引を遂行することができた。ウィーンの提示した最初の契約を、最高の地位を約束するものではないということ、そして、彼の目標と彼が達成する用意があった水準は彼をその仕事において最前線に置くべきものだという理由で辞退した。ルドルフ・ビングとも、長い時間をかけて話し合い、一級のヘルデンテノールとして自分が選んだレパートリーを受け入れさせることに成功した。しかし、役と契約内容を思い通りにすることが、トーマスの芸術に対する愛を損なうことは決してなかった。喜びの瞬間は、金銭によっては報われないこともあると、テノールは述懐する。そして、時にはベストではなかったときに、報酬を返すべきだと思ったこともあると控えめな態度で付け加える。そして、考えてみれば、芸術の女神から非常に多くの恵みを得たのだから、報酬など全然もらうべきではないのかもしれないとも言う。カールスルーエでの最初の重要な役だったフロレスタンを歌ったときの気持ちを、トーマスは謙虚に回想している。
   (フロレスタンの最初のアリアのあと)床にうつ伏せに横たわりながら、涙が流れるに任せていた。誰一人私の感謝の気持ちの大きさを知らなかった。それは、この音楽を感じ、表現する事ができるという、そして、ほんの少数の人間にしか与えられない成功を共有するという、大きな恩恵に対する感謝の気持ちだ。

   こういう不思議の感覚は彼の職業生活を通じて消えることがなかった。そして、これこそが、その輝きを生み出すのに必要な、ある種の精神性を彼に付与したのだった。
   6フィート3インチ(約190cm)、190ポンド(約86キロ)のスポーツマンタイプの魅力的なテノールは、その優雅さと外見の良さを、その才能と共に、すばらしい贈り物として、フットライトを通して観客に届けた。スヴァンホルムと同じように、トーマスの歌唱への取り組み方は、知的かつ完璧だったが、スレザクと同じように、独特なあたたかみを発散していた。歌手は皆、拍手喝采と賞賛を必要としていると、トーマスは書いている。私たちは皆子どもだが、それは観客とのコミュニケーションの輪の中に入るのに必要なのだ。カーテンコールは、トーマスにとって、特別の儀式だ。彼は一人ずつの挨拶を認める劇場が好きだ。そして、そこで、彼は、花や贈り物を投げる無数のファンたちと深い愛情を交歓する。生の舞台における思いやりのある、双方向的な交歓のエネルギーあふれる応酬こそが、トーマスのオペラへの愛情をかき立てるものだった。
   舞台で演じることを観客が共感するものにするトーマスの能力は、おそらく何にも増して、彼の統一がとれた人間性によっている。トーマスは、自分の強さと弱さを批判的にみることができる、現実的な自己認識のできる、地に足のついた芸術家だった。自信をもって、心を開き、経験から学ぶ、本質的な関係と事柄に集中する人間だった。様々な関係の中でもっとも重要なものは家族との、すなわち、三人の子どもと、何よりもヴィオレッタとの関係だった。トーマスの二度目の結婚が彼にもたらした幸福と安定が精神的よりどころを成した。レオ・スレザクの妻エルザに対するあふれんばかりの愛情告白と同じように、トーマスの自伝の中でも、ヴィオレッタとの関係に関するロマンチックな話が、繊細かつ深い感情をもって語られている。
彼自身が認めているように、彼の二度目の結婚は彼の人生に全く新たな次元をもたらした。そしてそれは彼の舞台と人間性を豊かにするものだったのだ。
   彼の話と仕事仲間や友人たちの話から判断すると、トーマスの感情にある非常に活気にあふれた性質は、職業生活で生き生きとしたコミュニケーションを実践したのと同様に私生活の特徴でもあった。キャリアを通じて本質を見失わないという能力を持ち続けた。感情を共有すること、自己の心理的鋭敏さをより普遍的な経験と結びつけることができた。一貫性のある人間、演技者、個人、仮面をつけた人物であることがトーマスの歌唱に、人間的な深みを与えていた。
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11章 ジェス・トーマス-1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

11章:
彼のようになりたい:輝かしい存在感を放つアメリカ人:ジェス・トーマス -1


   あのころは、彼のようになりたいという、ただひとつの考えしかなかった
 ペーター・ホフマン
Singen ist wie Fliegen (歌うことは飛ぶこと)

歌唱は身体のみならず、  心にも依存する。
ジェス・トーマス
 Kein Schwert verhiess mir der Vater(父は私に剣を約束しなかった)


  あの頃は、彼のようになりたいという、ひとつの思いだけが私を駆り立てていた。テノール、ペーター・ホフマンは、歌うことは飛ぶこと  Singen ist wie Fliegenの中で、1967年バイロイトでのジェス・トーマスとの最初の出会いをこのように語っている。その時、ジェス・トーマスの教師だったエミー・ザイバーリッヒ Emmy Seiberlich の生徒だったホフマンは、ヴォルフガング・ワーグナー演出のユーゲントシュティール様式のローエングリンを目撃するという夢のようなバイロイト音楽祭への旅をし、ザイバーリッヒ先生を通じて憧れのジェス・トーマスに紹介されたのだった。およそ16年後にも、ホフマンにとって、その記憶は鮮明だった。マリールイーズ・ミューラー Marieluise Mueller のインタビューに対して、畏敬の念をもって打ち明けている。はじめて舞台の彼を目撃したとき 、私はまさに真ん前に座って、完全に心を奪われていた。舞台から放たれる輝きは信じがたいほど強烈だった。  
   声楽的、身体的輝かしさ、純粋な音色、若々しい新鮮さ、そして、ジェス・トーマスが舞台上で発散していた、独特の言葉で言い尽くすことのできないオーラ、すなわち ausstrahlung こそが、歴史上の偉大なヘルデンテノールたちの中において、彼に永遠の地位を与えるものだった。ヘルデンテノールがキャリアの中核をなしている最初のアメリカ人テノールのひとり、ジェス・トーマスは、アメリカ人ワーグナー歌手たちの前にあった国際的なオペラ劇場における障壁を打ち壊し、この分野にアメリカ人は適していないという偏見を粉砕した。サウス・ダコタ出身のトーマスは控えめな人だが、この専門分野の第一人者となった。彼は1960年代と1970年代に興奮を巻き起こした。彼のキャリアはめざましく、その知性、音楽的才能、そして、彼の舞台の演劇的説得力などは、現代のヘルデンテノールの伝統に新たな輝かしさを添えたのである。
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   私のオペラでの成功は、あらゆる現実的な考え、あるいは、打算に反して生じたことであり、私にとって全く予期せぬものであった。テノールが後に認めているが、それは彼が育った「なんであれ欲すれば可能である you can do anything you want」というアメリカン・ドリームの考え方による部分もあった。 
ジェス・トーマスは、1927年8月4日、サウス・ダコタの Oral、50人の小さな中西部のコミュニティで、チャールズ・アルフレッド・トーマスとハッティー・エレン・ヨカム Hattie Ellen Yocamの息子として生まれた。彼の子ども時代は、まさに保守的で狭いアメリカの田舎の生活だった。音楽はその子ども時代に一定の役割を果たしたが、それはあくまで全般的な学校生活、スポーツ、アルバイト、教会活動、勉強などの中で、バランスのとれたものだった。トーマスの記憶によれば、父方の祖父も母方の祖父も、その地方では fiddle と呼ばれたバイオリンを弾いた。そして、よく家庭音楽会をして、静かな長い夜を過ごした。そこでの音楽は、モーツァルトではなくて藁の中の七面鳥のようなものだった。テノールの考えによれば、最初の先生は、本気でピアノを習ったアンナ・V・ブレイ Anna V.Brayで、6歳のときからメソジスト教会の聖歌隊で歌っていたことが音楽への興味を深めた。
   1937年、Oralの七倍は大きな町、サウス・ダコタのホット・スプリングスに引っ越し、ジェスは高校時代をここで過ごした。学校では、フットボールをやったり、学校新聞に記事を書いたり、食料品店でアルバイトをやったりする一方で、演劇をやり、学校のバンドではコルネットとトランペットを演奏し、学校と教会の聖歌隊で歌った。この頃、彼は初めて楽譜を読むことを覚え、声楽の勉強をはじめ、家族の友人を通じてオペラのレコードを初めて聴いた。トーマスは、アリス・グラスゴーのコレクションにあった、カルーソーをはじめ「黄金時代」の歌手たちの声に感銘を受け、土曜日の午後のメトロポリタン歌劇場のラジオ放送を熱心に聴くようになった。彼の父親はオペラ嫌いだったので、トーマスはラジオをガレージに持ち込み、車の手入れをするふりをしながらこの番組に耳を傾けた。そして、家に彼しかいないときに、ピアノをひきながら、聴いたことを再現してみたものだった。テノールは、愉快な逸話を披露している。ある午後学校から帰ったとき、家にだれもいないと思い込んで、ちょっとピアノの前に座って楽しむことにした。ところが、父親は地下室で眠っていたのだった。彼が大声でアリアを歌いはじめたとたん、怒り狂った父親が、いったい何事だ! What in God's name is going on?と叫びながら階段を猛烈な勢いで駆け上がってきた。その後、トーマスはこっそりと練習した。トーマスにとって、歌うことは、大学教育の学資の工面に悩む、「安定した」職業訓練にこだわる現実的な両親には理解してもらえるはずのない夢だった。その夢は虹色の憧れにすぎなかった。
   ジェス・トーマスは、高校時代、すべてにおいて優秀な生徒だった。そして、卒業時には音楽に関して賞を与えられ、フットボールの奨学金を提示されたが、彼は医学の道を行きたいと考えていた。奨学金と無数のアルバイトの稼ぎで、トーマスは1944年にパート・タイムの学生(聴講生?)としてネブラスカ大学に入学したが、二年後、学費不足と父親の病気療養中、家族を支えるために実家に戻らざるを得なかった。彼は実家の近くで全教科を担当する小学校教師として働き、1947年に大学に戻るまで、家族の大変な時期を支えた。1949年6月に心理学のB.Aを得て大学を卒業し、カリフォルニアに引っ越し、大好きになったこの地に終世居を定めることになる。オレゴン州のHermistonで三年間ガイダンス・カウンセリングの仕事をした。ここで、彼は地域の合唱団を主宰し、仕事の傍ら、声楽の勉強をした。1952年、スタンフォード大学の奨学金を得て、心理学のPh.D.を目指した。1953年に修士(Master's degree)を取得し、再び仕事につかざるをえなかったが、今度はカリフォルニアのAlamedaで学校のサイコロジストとして働いた。サンフランシスコ地方で過ごす間、トーマスはサンフランシスコ・オペラの可能な限りの最安席のチケットを買って、オペラの楽しみにふけった。できる限りたくさんのオペラを見た。また、オットー・シュルマン Otto Schulmann に声を聴いてもらい、本気で声楽の勉強をするようにと励まされた。Alameda高等学校での三年間、トーマスはフルタイムの仕事をしながら、声楽のレッスン、イタリア語の勉強、シナゴーグの仕事の準備、そして、夜はナイトクラブでの演奏という殺人的スケジュールをこなした。この時期に、彼はウッドミンスター・ライト・オペラ・カンパニー Woodminster Light Opera Company にデビューを果たし、キャスティングコールで知り合ったダンサー兼女優のベッティ・リー・ライト Bettye Lee Wright と結婚した。
   シュルマン先生との勉強のお陰で、トーマスはサンフランシスコ・オペラのオーディションに合格し、そこで1957年、マクベスのマルカム役でデビュー、ばらの騎士の執事役を歌い、主役級や準主役級の役を幅広く勉強し始めた。シュルマン先生のアドバイスを受けて、ヨーロッパで経験を積むことが必要だと決心した。1958年、彼は妻と共にドイツに向けて出発した。ドイツでの最初の冬はトーマスの気を滅入らせた。彼は友人もほとんどなく、言葉もわからず、はじめて国外に出た一アメリカ人として、大きなカルチャーショックを感じていた。オーディション、声楽とドイツ語の勉強と、自分と妻ベッティのためのわずかな生活費を稼ぐのに、悪戦苦闘した。それに、1958年には娘のリサ・ベットが生まれた。一連の長い不本意な経験の後、1958年8月、カールスルーエで新人契約を勝ち取った。トーマスは現実的な目標を持ってドイツに来た。それは三年のうちにオペラ・ハウスで主要な役を獲得し、五年のうちにこの職業で第一線に立つという目標だった。これを達成できない時には、アメリカに戻ってPh.D の勉強を続けようと心に決めていた。カールスルーエの契約はこの目標への第一歩だった。
   彼は、カールスルーエで、声を磨き、必要なレパートリーを身につけるためにエミー・ザイバーリッヒ Emmy Seiberllich に師事した。彼女のアドバイスのお陰で、常に適切な役を準備することができた。1958年初のフィデリオの第一の囚人役や、数多くの小さな役での登場後、トーマスにいわゆる「好機到来」の幸運が巡ってきた。カナダ人テノールのケン・ニート Ken Neate  がカールスルーエのローエングリンのリハーサルに間に合わなかったのだ。ザイバーリッヒ先生は三幕のリハーサルでトーマスに歌わせるよう劇場監督(Intendant)を説得した。トーマスが 遥かな国に In fernam Landを歌い終わったとき、オーケストラ団員たちから拍手喝采がわき起こった。結局、プレミエにはケン・ニートが登場したのだが、劇場監督はトーマスの才能を認め、トーマスの助力に感謝し、三回目とそれに続く公演でこの役にトーマスを起用することにしたのだった。1958年11月23日、トーマスのカールスルーエでのローエングリン・デビューは、恍惚感にあふれた数々の批評を得て、シュツットガルトやミュンヘンからの客演への招待が洪水のように押し寄せた。そして、ヴィーラント・ワーグナーからバイロイトでのオーディションの招待までも届いた。
   1959年、長男ジェス・デーヴィッド Jess David が生まれ、フロレスタン、マンリーコ、ホフマン、サムソン、ファウスト、タミーノ、ヒュオン(ウェーバー作曲「オベロン」ヒュオン・フォン・ボルドー…ギエンヌの侯爵(T))、ドン・カルロ、そして、ローゲ等々の、様々な役での、ドイツのオペラ・ハウスとの契約リストは長くなるばかりだった。そしてまた、彼はヴィーラント・ワーグナー Wieland Wagner のためにはじめて歌った。彼の自伝 Kein Schwert verhiess mir der Vater (父は私に剣を約束してくれなかった)の中で、トーマスはワーグナーの孫の前での最初と二度目(1961年)のオーディションでがっかりしたことを回想している。バイロイトにたいする尊敬の念と希望に燃えていた若いテノールは冷たく無関心に感じられたヴィーラント・ワーグナーの態度に深く傷ついた。トーマスは、ヴィーラント・
ワーグナーの最初のオーディションの冷淡な応対と二度目の無礼で対抗的な接し方について語っている。1961年、ヴィーラント・ワーグナーはトーマスをオフィスに呼んでこう言った。トーマスさん、私は非常に多くの筋から、あなたに関して良いことしか聞いていませんが、私としては非常に失望したと言わざるをえません。トーマスは、猛烈に気後れしたが、勇気をふりしぼり、彼のドイツ語の限りを尽くしてついにこう反論した。私としてはひとつのことしか言えませんが、それはあなたに面と向かって言う価値があると思います。すなわち、あなたが天才的芸術家であることは疑いようのないことですが、あなたの人間に対する理解力は怪しいものだと思います。怒りに燃えたテノールがドアに向かったとき、ヴィーラント・ワーグナーが叫んだ。よろしい、トーマスさん。すくなくとも君は激しい気性は持ち合わせているようだ。 それでも、ヴィーラント・ワーグナーはすぐにはトーマスと契約を結ばず、最終的にパルジファルの契約をすることになる前の1961年6月に再度のオーディションを要求した。この不愉快な経験(そして、似たような他の体験)は、感じやすいテノールにこう結論付けさせた。オーディションは野蛮だ。 しかし、彼はそれを頑張ってやり続け、強烈に対決することによって、そのキャリアを急速に加速的に上昇させた。
   1960年クナッパーブッシュ指揮のローエングリンでミュンヘンにデビューし、そこでフロレスタンとドン・カルロを歌った。1961年今度もまたクナッパーブッシュ指揮のパルジファルで、長い間待たされたバイロイト・デビューを果たし、同年、ヴィーラント・ワーグナー演出のベルリン・プロダクションのアイーダローエングリンが続いた。1962年、今やヴィーラント・ワーグナーとの間には生産的な仕事上の関係が確立され、トーマスはこの演出家のローエングリンをバイロイトで再演し、1963年にはマイスタージンガーをやった。
   シュトルツィングはトーマスにメトロポリタン歌劇場との契約をもたらした役だった。彼は、1962年12月11日、マイスタージンガーで、この劇場にデビューし、この後この劇場で、ドイツおよびイタリアの両レパートリーで広範囲に多くの役を演じるようになった。トーマスはメトで15の役(8つはワーグナーの役)を14シーズン以上にわたって歌った。最後の出演は1983年百年記念ガラの舞台だった。1960年代には、彼がますます専門的に関わるようになっていた、彼がもっとも好んだワーグナーの英雄役を歌わせてもらうために、彼はビング氏と闘った。あるとき、夏にはバイロイトとの契約があるというテノールの話に対して、ビング氏はふざけて聞き返した。トーマス、バイロイトってどこですか?ビング氏はトーマスの広い声域と、抒情性、激しい性格などを重視しており、彼にはトーマスをメトのイタリア・オペラの代表的テノールの一人としようという熱烈な思いがあった。そして、トーマスもニューヨークにおける、カラフ、カヴァラドッシ、ドン・カルロ、ラダメスなどの成功を喜んでいた。中でもラダメス役は予期せぬプレミエで歌ったものだった。デビューの数週間後のある朝、ナクソスのアリアドネの新演出でバッカスを成功裏に演じ終えた後だった。その晩、不調のフランコ・コレッリに代ってラダメスを歌ってもらいたいとヒステリックに懇願するビング氏の電話に起こされた。その時喉に炎症を起こしていたトーマスは、こういう状況で、やる気はなかった。彼は、病気だし、衣装もないし、それにこの役はドイツ語でしか知らないと言い張った。何を言ってもビング氏は引き下がらる気はないようで、特有の辛辣な機知に富んだ答えを返した。トーマス、中国語で歌ってもいいし、君さえよければ裸で出てもかまわない。とにかく今晩ラダメスが必要なんだよ!トーマスはビング氏からは永遠に感謝を、そしてメトの聴衆からは賞賛を得ることになった。
   メトで歌うことは、テノールにとって一流であることの証明であり、楽しいことであった。それは、要するに、同国人からの至極当たり前の評価だった。その後も引き続き、トーマスの予定表はヨーロッパでの仕事でいっぱいだった。彼をメトの専属テノールにしようというビング氏の度重なる企てを彼は拒絶した。彼は国際的なキャリアを望んだ。30以上のレパートリーで、ウィーン、ザルツブルク、コヴェント・ガーデン、そしてスカラ座にひっきりなしに招かれた。1963年、バイエルン宮廷歌手の称号を与えられた。ウィーンとはファーストクラスの契約でなければ妥協せず、それを勝ち取った。1965年にミラノとザルツブルクにデビュー。一方でシュツットガルトとミュンヘンと以前に結んだ契約をかたくなに守った。この決心はヴィーラント・ワーグナーとの新たな対立を引き起こした。ヴィーラント・ワーグナーはトーマスを1964年のバイロイトのパルジファルに望んでおり、テノールがこれらのオペラ・ハウスとの約束を撤回するのを断ったとき腹を立てた。しかし、この悪感情はすぐに解消し、ヴィーラント・ワーグナーは1965年ウィーンのローエングリンに再びトーマスを起用し、死の床に着く直前、トーマスに対してタンホイザーの指導を始めた。トーマスがタンホイザーを演じたのはバイロイトがはじめで、それから1966年にサンフランシスコで、そして1967年に再びバイロイトで、そして、この後、同じ年にバイロイトの日本引っ越し公演で、この役を演じた。
   この時期にテノールは名声の頂点を極めた。次の十年、軽めの英雄役 jugendlicher Held と徐々にレパートリーに加えはじめていたより重いヘルデンテノールの役の両方を盛んに求められた。卓越したアメリカ人芸術家としての彼の才能はサミュエル・バーバー Samuel Barber に委託されたオペラ、アントニオとクレオパトラでのジュリアス・シーザー役で認識された。これは1966年9月リンカーン・センターの新メトロポリタン・オペラ・ハウスの開幕を飾った。フランコ・ゼッフィレッリの豪華な演出のオペラ自体はなんと言うか完全な失敗作だったが、トーマスの歌唱は賞賛され、現代のアメリカ人芸術家としてトップの地位を確かなものにした。
   1967年、脚の手術のよるキャリアの中断の後、トーマスはサンフランシスコで、はじめてのトリスタンを演じ、成功した。ドイツ物のなかで最も難しく、最も求められるこの役でセンセーションを巻き起こしたことは、まさにニュースというにふさわしかった。彼の軽めの英雄的 jugendlicher Held 響きがトリスタンに要求されるところまで行くとは期待していなかった人々は、彼が示したスタミナ、音楽性、演劇的痛烈さに驚愕した。この役は1968年から1974年にかけての彼のレパートリーのなかで代表的なもののひとつとなった。実際1971年から1972年にかけてだけでも、23回トリスタンを歌った。
   この時期、彼はジークフリートとして有名になり、非常に多くのニーベルングの指環を世界中で歌った。1969年にはザルツブルクでカラヤンのために、そしてその夏のバイロイトでもジークフリートを歌った。1970年にはウィーンでニーベルングの指環の四つのテノール役を全部歌った。1972年には同じような全四作上演がサンフランシスコであったし、1970年代を通して、メトでは、ジークムントと二つのジークフリートを頻繁に歌った。
   この目覚ましい成功の時期は、皮肉なことに、妻のベッティ・リーとの離婚という個人的な喪失の悲しみの時と一致していた。トーマスの分析によれば、彼も彼女も気違いじみた猛烈な競争やあまりにも多くを要求される厳しいオペラの世界に対する心構えが全然できていなかった。 成功するための悪戦苦闘は結婚生活に
犠牲を強いた。夫婦は離婚したけれど、トーマスは子どもたちとは関わり続け、子どもたちと共にすごした年月をうれしく思っている。1971年、トーマスは、彼の熱烈なファンだったアルゼンチン人の未亡人、ヴィオレッタ・フォン・ベルニク Violeta von Bernick と出会った。二人の二年にわたるロマンティックな恋愛が始まった。これについて、トーマスは自伝の中で愛情を込めて物語っている。1974年12月23日、彼は「 Veilchen(すみれ)」と結婚した。彼女との結婚は優雅で芸術的な生活をもたらした。彼女とトーマスは互いに同じ深さで、支え、敬愛し、分かち合った。そして、息子のヴィクターが夫婦にいっそうの喜びをもたらした。   
   1973年、トーマスは初めてのピーター・グライムスを歌った。ジョン・ヴィッカーズがほとんど独占していたブリテンの主役への挑戦だった。1970年代を通して、トーマスはワーグナーの役を演じ続けた。1976年、トーマスは、パトリス・シェロー演出のバイロイト百年記念リング神々の黄昏のジークフリート役として、ヴォルフガング・ワーグナーによってバイロイトに呼び戻されるという栄誉を得た。テノール自身の告白によると、この経験は彼にとって複雑なものだった。彼はもう六年間バイロイトに
出演していなかったから、この時々刻々と変化しつづけるワークショップの雰囲気の中で、多くのことが変わってしまったと感じざるを得なかった。この四部作において、かつてのファンであり被保護者であったペーター・ホフマンと同じ舞台に立ったことは、49歳のテノールを、ノスタルジアと誇らしさの入り交じった気持ちでいっぱいにしたのではないだろうか。トーマスの業績に関して、マスコミの意見は分かれたが、パトリス・シェローはトーマスと共働してはじめてジークフリート像をいかに実現すべきか完璧に理解できたと断言した。
ジェス・トーマスは、ジークフリートに必要な若々しさに欠けているのではないかとはじめ心配だったが、実際は非常に快活な感じだった。神々の黄昏のジークフリートは子どもではないのであって、その成長自体に存在する、憂鬱な感じ、適切な悲しみの表現、空虚な瞬間、精神錯乱ぶり、ぶっきらぼうな回想、記憶をたどる痛々しい努力といったものを持つジークフリート像を、トーマスのお陰で構築することができた。最後の場面のリハーサルで、ブーレーズはトーマスに、芸術家っぽくなく、ゆっくりと鳥を指し示すようにと要求した。トーマスは、こういう声の転換点 passaggio では難しいことなのだが、再弱音 pianissimo で歌った。彼は死に臨むジークフリートを作り上げた。死の瞬間に突如過去を思い出すところは印象的だった。
要するに、テノールの結論は、人は後戻りはできないということだった。そして、彼は将来をしっかりと見据えていた。
   同年トーマスはオーストリア宮廷歌手の称号を受けた。テノールはウィーンをホームベースにしており、洗練された音楽愛好家たちの存在の故にウィーンに対して特別に好感を持っていた。この後引き続き七年にわたって、トーマスはワーグナーの全ての役をアメリカとヨーロッパ各地で歌うと同時に、オペラ、オラトリオ、歌曲(Lieder)のコンサートに度々出演した。
   同時に彼の頭の中で、引退計画が次第に形作られはじめた。カリフォルニアのティブロン(Tiburon)に家を買い、まだ完璧な輝かしい声があるうちにオペラの舞台から引退しようと計画を立て始めたのだった。1982年、不調のジェームズ・キングに代って、サンフランシスコでジークムント役を快く引き受け、成功することができたという記録もあるが、1980年代のはじめには、舞台の仕事を少し減らした。この年、55歳で、テノールはパルジファル役で、非公表の引退公演をはじめた。1982年4月、メトのジェームズ・レヴァイン指揮の公演が最後だった。この一連の公演の間に、テノールは記者会見を行い、その後の二番目のメトのパルジファルが最後のオペラ出演になるだろうと発表した。先輩のスレザク同様、トーマスはこう語った。 私は、まだ自分の役にふさわしく、かつてと同じように歌えるこの時こそ、引退するのにふさわしい時であると判断した。1983年、トーマスはワーグナーの映画で、ニーマン Niemann 役を歌い演じ、いくつかのコンサートに出演をすることになった。ひとつは友人である指揮者 カルヴィン・シモンズ Calvin Simmons を記念するワルキューレの抜粋、もうひとつは、やはりワルキューレで、1983年メト百年記念ガラである。次の日のニューヨークタイムズの第一面には彼の特集記事が載った。めざましいキャリアにふさわいい幕引きであった。ヘルデンテノールとしてはまだまだ若い年齢で引退を決心したことについて、トーマスは率直に語っている。
   私は英雄として退場したかった。私の仕事は、ファンによってのみならず、仕事仲間によってもまた永遠に受け継がれると信じるし、それを希望している。私は仕事仲間たちを感化し、新世代の歌手たちに、ワーグナーの役を演じる上での新しい考え方と演劇的説得力のあるものにする道を教えた。 しかし、彼は悲しげに付け加えた。どの歌手にとっても引退は楽しいことではありません。
   そして、とても哲学的な気分でトーマスは話した。私のキャリアの終わりは良い方向に転びました。私は完全に満足という気持ちでした。テノールはティブロンの我が家に引っ込んだ。家庭生活を楽しみながら声楽を教える時間を持てることを喜んだ。いくつかのカリフォルニアの大学で客員教授をし、さらにいくつかのコンサートにも出演している。(例えば、1985年、サンフランシスコの夏のリング
音楽祭期間中に、ワーグナー・リサイタルで歌った) 自伝を執筆することで、自分の過去を整理することができた。この本で、たくさんの記憶や経験が関連づけられ、彼の人生とキャリアが、明晰な知性で分析され、その機知と知恵を提供している。クルト・P・ジュードマン Kurt P. Judmann が手伝って、ウィーンのポール・ネフ出版 Paul Neff Verlag からドイツ語で出版された Kein Schwert verhiess mir der Vater (1986) は、ヘルデンテノール史の貴重な資料である。
   トーマスは自分の業績と見解を総括するとき、もしまた人生をやることがあったら、もう一度完全に同じ事をするだろう、そして、彼がやってきたことをやったこと、つまり、その職業が彼にもたらした喜びと達成感を体験したことをうれしく思っていると断言している。興奮と賞賛が懐かしい、こう彼は打ち明けながら、人生を愛しており、音楽的キャリアの新たな段階に訪れるかもしれない何らかのふさわしい提案があれば、受け入れ挑戦する用意があると率直に認めている。
   人生において唯一重要なことは愛し愛されることである。このうそみたいに単純な秘訣にこそ、テノールの芸術的成功と個人的成功の秘密が存在している。ジェス・トーマスにとって、歌うことは、この愛を表現するひとつの方法だったのだ。
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