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ディスコグラフィー [1983年刊伝記]

モーツァルト、魔笛
ペーター・ホフマン:タミーノ
キリ・テ・カナワ、エディタ・グルベローヴァ、クルト・モルほか
ストラスブール・フィルハーモニック・オーケストラ、アラン・ロンバール指揮
LP、バークレイ、1978年

ベートーベン、フィデリオ
ペーター・ホフマン:フロレスタン
ヒルデガルド・ベーレンス、テオ・アダム、ハンス・ゾーティンほか
シカゴ・シンフォニー・合唱団、オーケストラ、ゲオルグ・ショルティ指揮
LP、CD、デッカ、1980年
 
モーツァルト、魔笛
ペーター・ホフマン、第一の武装した男
ローランド・ブラハト、ジークフリート・イェルザレム、エディタ・グルベローヴァ、ルチア・ポップほか
バイエルン放送交響楽団、合唱団、ベルナルド・ハイティンク指揮
LP、 CD EMI 1981年

ワーグナー、パルジファル
ペーター・ホフマン、パルジファル
ジョゼ・ヴァン・ダム、クルト・モル、ジークムント・ニムスゲルン、ドーニャ・ヴェイソヴィチほか
ベルリン・フィルハーモニー、ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
LP 、 ドイツ・グラモフォン 1981年 CD

ワーグナー、ワルキューレ(ニーベルングの指環全曲録音のうち)
ペーター・ホフマン、ジークムント
マッティ・サルミネン、ドナルド・マッキンタイヤー、ジャニーヌ・アルトマイヤー、ギネス・ジョーンズ、ハンナ・シュヴァルツほか
バイロイト音楽祭オーケストラ、ピエール・ブーレーズ指揮
LP 、CD 、 フィリップス 1981年 、同ハイライト (レーザーディスク→DVD)

ワーグナー、トリスタンとイゾルデ
ペーター・ホフマン、トリスタン
ヒルデガルド・ベーレンス、イヴォンヌ・ミントン、ベルント・ヴァイクル、ハンス・ゾーティンほか
バイエルン放送交響楽団、合唱団、レナート・バーンスタイン指揮 
LP、CD 、 フィリップス 1981年、同ハイライト
 
ワーグナー、ローエングリン
ペーター・ホフマン、ローエングリン
カラン・アームストロング、エリザベス・コネル、レイフ・ロール、ジークフリート・フォーゲル、ベルント・ヴァイクルほか
ヴォルデマール・ネルソン指揮、LP、CD、 CBS 1982年 

グルック、オルフェオとエウリディーチェ
ペーター・ホフマン、オルフェオ
ジュリア・コンウェル、アラン・ベルギウス
ケルン・フィルハーモニー・オーケストラ、ドルトムント楽友協会合唱団、ハインツ・パンツァー指揮、LP メトロノム 1983年

ペーター・ホフマン - リヒャルト・ワーグナー
ニュルンベルクのマイスタージンガー、ローエングリン、リエンツィ、タンホイザー、ジークフリート、 ワルキューレからの抜粋、
シュツットガルト放送交響楽団、イヴァン・フィッシャー指揮、LP 、CD、 CBS1983年
 
ワーグナー、さまよえるオランダ人
ペーター・ホフマン、エリック
ジョゼ・ヴァン・ダム、ドーニャ・ヴェイソヴィチ、クルト・モルほか
ベルリン・フィルハーモニー、ウィーン国立歌劇場合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、LP 、CD 、 EMI 1984年

ワーグナー、パルジファル
ペーター・ホフマン、パルジファル
ワルトラウト・マイアー、ハンス・ゾーティン、サイモン・エステス、フランツ・マツーラ、マッティ・サルミネン ほか
バイロイト音楽祭オーケストラ、合唱団、ジェームズ・レヴァイン指揮 
CD 、 フィリップス 1985年、同ハイライト

ワーグナー、ワルキューレ第一幕
ペーター・ホフマン、ジークムント
エヴァ・マルトン、マルッティ・タルヴェラ
ニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラ、ズービン・メータ指揮
CD 、CBS 1985年 

ブロードウェイのバーンスタイン
ウェスト・サイド・ストーリー、オン・ザ・タウン、ミサからの抜粋
ペーター・ホフマン、デボラ・サッソン、LP、CD、 CBS 1985年 
Essential Bernstein



モニュメント
ロンドン・シンフォニー・オーケストラ、LP、CD、 CBS1988年

聖しこの夜
ロンドン・シンフォニー・オーケストラ、CD 、 CBS1989年

オペラ座の怪人、ハンブルク公演のハイライト
ペーター・ホフマン、アンナ・マリア・カウフマン、ハートウィグ・ルドルツ
LP、CD、 ポリドール 1990年 

ポピュラー音楽 ディスコグラフィー
ロック・クラシック、LP、CD 、 CBS 1982年
ペーター・ホフマン2、アイボリー・マン、ソング&バラード、LP、CD、 CBS 1984年
我らが時代 UNSRE ZEIT、LP、CD、 コロンビア 1985年
Say You"ll Be Mine(ワイルド・ギース テーマ音楽) シングル 1985年
ペーター・ホフマン ライブ '86、2枚組CD 、 CBS 1986年
ロック・クラシック2、LP、CD 、 CBS 1990年
ワイルド・アンド・ロンリーハート、LP、CD 、 CBS 1987年
ラブ・ミー・テンダー、ペーター・ホフマン、エルビスを歌うCD 、 ソニー/コロンビア 1992年
美女と野獣、ヤーナ・ウェルナーとのデュエット、シングル 1992年
カントリー・ロード CD 、ソニー/コロンビア 1994年
ペーター・ホフマン クラシックからロックまで4枚組CD 、 ベスト盤 1994年
ロック・クラシック 愛の歌、CD 、ソニー/コロンビア 1996年
ベスト・オブ・ペーター・ホフマン 2枚組CD、 ソニー 1997年
ロック・クラシック ユア・ソングCD 、 ソニー/コロンビア 1998年
ベスト・オブ・ロック・クラシック(ゴールド) CD 、ソニー/コロンビア 1999年
ベスト・ペーター・ホフマン CD、ソニー/コロンビア 2000年

慈善活動のレコード
愛の歌、ペーター・ホフマン 、デボラ・サッソン、ベルリン心臓連盟に対する寄付LP 1984年
援助の手、エイズの子どものためのガラ、シングル 1987年
ダーウィン、進化 生命の輝き、自然保護運動 ファルコ、スージー・クワトロほかCD1992年
その他、さまざまの関連シングル

ビデオ
ワルキューレ バイロイト音楽祭 1981年 フィリップス
ローエングリン バイロイト音楽祭 1982年
ペーター・ホフマン ライブ'86ツアー・ビデオ 1986年
ミュージカル・クラシック ツアー・ビデオ ペーター・ホフマン、アンナ・マリ ア・カウフマン 1993年
ルサルカ チェコの俳優のための吹き替え 1976年


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1983年刊の伝記:表紙と目次 [1983年刊伝記]

資料1
Marieluise Müller_PETER HOFMANN Singen ist wie Fliegen 1983 Keil Verlag
マリールイーズ・ミューラー著 「ペーター・ホフマン 歌うことは、飛ぶこと」
singenist.jpg
目次
輝かしい成功物語の歌手
若い歌手世代のスター、ペーター・ホフマン
マリーエンバート生まれ・・・
インタビューについて
「私はこういう感覚を持っている・・・」会話の心理学 
ペーター・ホフマンについて語るペーター・ホフマン自己描写
完璧な孤独のくすぐったさ

*エルビスからワーグナーへ 音楽への道程
常に基調となっているもの
16歳の反抗
とりあえずの解決策 たとえあまり快適でなくとも
もっと軽いものはできないのかしら
その剣にちょっと触らせてくださいませんか
上流階級的豊かさはなく、豊富なのは練習でかすれた声ばかり
意識されない最大限のやる気とは?
教師なくして、声もなし
*写真1ー38
*舞台負けと拍手喝采の狭間で
アドレナリンを待つ
うまくいけば、彼らも共に、離陸する
肩に鳥が止まっていれば
風邪の神は殴りかかる
*大きなチャンス:シェローとバイロイト
未来の大物を求めて
彼は私に対して責任がある
今、彼は勇気を出した
私はショックを受けたことを告白する
傷つくことはないという幻想
*知らない舞台で - 客演も仕事のうち
夢・・・
私の演出家
金塊を積み重ねるのが難しいせいで
*オペラは私たちとかかわり合っている
オペラ対演劇
我が家の玄関先じゃなければ
涙は教会の喜びのためにこそ残しておきなさい!
・・・わが子を賞品にするなんて!
奇妙なオペラお化け
*写真39ー67
*他人の構想を歌う
絵であるべきなら、どうやって歌うのか?
大親分になりたければ
*再三再四のパルジファル
一幕では食堂に座っているなんて考えられない!
百年目のパルジファル、それでもまだ「正しい」とは言えない
歌手と規律
スーパーマン、ローエングリン
1979年リハーサルにおける私のローエングリン像
*雑感
舞台で、舞台裏で
雨、雨、雨・・・ 
「・・・1番、開始」
「神の如きミスM」への嫉妬
できることより、常に一歩前へ
ミス発見器
息子たち
*写真68ー91
*だれしも社会の束縛から自由ではない
ひどく貧しい国民であるよりも、納税者でありたい
権力に対する無力感
*ただ単にながらえるだけでない生き方に関する試論
自然回帰願望
・・・後は、ただ漫然と閉じこもっている
一体だれが好き好んで、簡単に傷つくというのか
防御壁はどのぐらい厚くなければならないだろうか
物凄く大切なことだから、安易に論じてほしくない・・・
私たちは何でできているのか
このような人生はいずれにしてもあまりにも短すぎる
なくてもいいものという気持ち
動機づけこそが全てだ!
私は夢を見ているのだろうか
時間
小さくて重要でない新聞に
論評集:ある歌手のキャリアにおける諸段階
ペーター・ホフマンという名の新人
「連邦パルジファル」
息をのむほどの掘り出し物:1976年のジークムント
強制休暇のあと・・・
バイロイトのローエングリンの年 1979年
「新たな本命」
アンチ・タイプ
「百年目のパルジファル」1982年
ポップス屋、開業
コントラスト
補遺
なんとも魅力的なローエングリン
ペーターのお化け
ディスコグラフィー
doubleheide.jpg

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補遺-2 [1983年刊伝記]

ペーターのお化け
 ペーター・ホフマンの怪奇現象のおこる城館の話はテレビ界を徘徊しただけでなく、大衆紙も大見出しで掲載したので、「クリーア紙」は当然その誇りを刺激された。このオールラウンド・スターの弟で疲れを知らないマネージャーのフリッツ・ホフマンとの粘り強い交渉が失敗したあと、私たちは、それでもなんとか、いわば裏口から、思いがけず、女性のお化けとの短いインタビューを持つに至った。
 城館の「普通の死ぬべき運命の」住人の不在中に、私たちは、シェーンロイトで自動留守番電話を通して、お化けとの最初の接触に成功した。私たちの熱烈な求めに、その女のお化けは、「レディー・プシ」という匿名で、自ら登場し、彼女のお気に入りのスナップ写真を私たちに託した。普通でない楽しい会話の中心は「シェーンロイト少年合唱団」のこの間の米国滞在だった。
 ペーターが、米国で、歌とショーの仕事だけしていたのではないというのは当たっているのでしょうか。
  「全く正しいです。このアメリカ旅行の主な目的は、『ダラス』のプロデューサー、カッツマンとの話し合いだったのです。このシリーズは行き詰まっています。絶体絶命の今、救い主は、ふるきよきドイツからやって来るべきなのです」
 それは要するに、まだ撮影を終了していない続編、次の52回では、ペーターが主演俳優の一人だということでしょうか。
 「当然です。それは間違いありません」
 レディー・プシ、お話、ありがとうございます。
 しかし、彼女にはきっともう聞こえなかった。ここで、留守番電話が故障したから・・・
(北バイエルン・クリーア紙バイロイト1983年1月13日付け一日の寸評からの抜粋 )

註:『ダラス』:「全米で13年間、最高視聴率53.3%を記録した全357話の超大河ドラマ」らしいです。
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補遺-1 [1983年刊伝記]

補遺

なんとも魅力的なローエングリン
 「ああ、このローエングリンはなんてすばらしいの!」夏らしいビキニ姿の、まさに絵のように可愛いバイロイトの美少女、ゲルティーは熱をあげた。彼女はため息まじりに言った。「いつかローエングリンのチケットが手に入るのなら、そのためなら、私、何をするかわからない!」そのために、彼女はアイシャドーで魅力強化を図った。尤も、そのようにしてうっとりと見つめられたチケット提供者予備軍の男は、そのあとで、ゲルティーをそれほどまでに、ぼうっとさせているのは、そもそもリヒャルト・ワーグナーのオペラではなく、聖杯騎士のユニフォームの中にいる歌手なのだということを、知る羽目になっただろう。そして、この歌手はローエングリンではなくペーターと呼ばれ、30歳未満だろうが70歳以上だろうが、全バイロイト女性のあこがれの的だ。「絵のように素敵な男性だわ。本物の金髪の自然な巻き毛、その上、声ときたら、完璧に心にしみるわ!」こうつぶやくのはゲルティーだけではない。このペーターは、白鳥を、正確に言うならば、むしろ、光りに照らしだされたナーゲルブレットを、操縦するだけでなく、種々雑多な娯楽雑誌から知ることができるように、あとまだ、オートバイも運転する(どんなのだろうがいいにきまってる!)なんてことが、さらに付け加わる。まったく、これ以上、すごいことなんてないじゃないか。こうなると、着古して型くずれしたコールテンの背広を来て、洗車してない車に乗った、半分禿げ頭で、カラスみたいな声でドイツ国歌のうんと高い音のところだけ出しているみたいな声の男は、ゲルティーのような女性にかかれば、絶望的に不利な状況に陥るわけだ。
 ゲルティーは更に言った。「エルザって、ばかみたい。名前を質問したら、彼が不機嫌になるということ、彼女は充分知っていることなのに。私だったら、もし私がそんな男を捕まえるなんてことがあったとしたら、ぜったい逃がしたりしないわ! 舌を噛みちぎったほうがましよ」どうやら彼女は相当取り乱しており、もはやローエングリンとペーターを区別することができないらしい。事実、他のバイロイトの熱狂的女性ファンたちも、ペーター・ローエングリンだったら、むしろ舌を噛み切ったほうがましだと断言している。こういう自ら身体部分を切断した者と結婚させられたローエングリンは、舌足らずにささやく奥方を持つことになるわけで、奥方が「お名前をおちえてください」と言うたびに、笑わずいはいられないところだろう。だって、彼女は遅かれ早かれ質問することになるということには変わりないのだから。もっとも、妻が探りをいれてきたら、(舌足らずに)「チーフムント」とでも「チーフフリート」とでも、さっさと名乗ることこそが、楽しい結婚生活を長続きさせる、ゆるがぬ基礎だったのだろうが。
 我らが女性たちがこんなにも具体的かつ絶対的に聖杯の尊厳を傷つける形で、ローエングリンに関わるのは、ひとつには、死にかけているエルザとのなんともひたすら心を引きちぎるような毎回の別れのあとは、人跡未踏のモンサルバートは存在しないはずだから、バイロイト近辺を陽気に生き生きと駆け回っている、この金髪巻き毛の吟遊詩人、ペーターの責任、ひとつには、ひとえにあの憎っくきリヒャルトのせいだ。彼が男声合唱にまったく毎度とんでもなく延々と歌わせるものだから、観客はあれこれと考えはじめ、そのせいで、ローエングリンにふさわしくないとんでもない考えを思いつくのだ。(バイロイト1979年 北バイエルン・クリーア 音楽評論家 エーリッヒ・ラップルによる辛口寸評集から「8月の部」を引用)
ワーグナー・ファン、ロリオからペーター・ホフマンに贈られたジークムントの風刺画「だれのかまどだろうが、ここで休息せざるを得ない」
loriot.jpg
ペーター・ホフマンへ 1979年4月28日 ロリオから
註:
ナーゲルブレット:Nagelbrett nagelbrett2.jpg文字どおり、板一面に釘を刺した物らしいという情報しか得られませんでした。宗教的苦行につかわれたりしたのかもしれません。ひょっとしたら拷問道具としても使われたのかもしれません。子どものおもちゃでもあるようですが、ここでどういう意味合いの言葉として使われているのか、はっきりとは理解できません。
•ワーグナー・ファン、ロリオ:ドイツの人気コメディアン、ヴィッコ・フォン・ビューロウ(ロリオ Loriot  という名前のほうが有名)という人らしいです。ずばりどんな人か、わかるというサイトが発見できませんでしたが、このサイト、参考になりました。このサイトのロリオ氏とワーグナー・ファン、ロリオ氏が同一人物だと、この方、オペラの演出もなさるということですね。映画監督もなさっているようです。

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論評集-10 [1983年刊伝記]

コントラスト
 ペーター・ホフマンのインタビューを読むと、いつも「対立」という言葉が最も重要なキーワードだ。1982年3月31日付けの『日曜日の世界』紙は、「パルジファルが、ロックンロールを歌う。ドイツ第二放送(ZDF)は、かつての、落下傘部隊の上級伍長、ペーター・ホフマンによるショーを計画している。ホフマンは、たった今、ロック歌手として契約を結んだが、七月にはバイロイト音楽祭を開幕することになっている」と、予告している。ワーグナー歌手が「ロッカー」としてCBSとの三年契約にサインしたとき、「ワーグナー愛好者」のうちの誰一人として、このことで、彼に気を悪くしなかったのを、カール・シュミット・ポレックスは、この記事の中で、驚きをもって書き留めている。
 「パルジファルで、その上、ロック歌手でもある。彼の専門分野から、こんなことをやった人は未だかつて出た例がないし、あったとしても多分うまくいかなかっただろう。しかし、より重要なことは、このことでだれも彼に対して腹を立てていないことだ」引き続き、彼はペーター・ホフマン自身に「複数の音楽界を行き来すること」に関する彼の見解を求めている。「若い人たちが突然オペラに興味を持ち、学校時代からの魔弾の射手症候群を忘れはじめるということに気がつきました。私のようなタイプが、舞台を駆け回っていれば、こういうのも確かにそれほど退屈じゃないかもしれないと思うということです。年配の人たちは、私の人柄を通じて、ロックンロールも、がらくたであるはずがないということを発見してくれるかもしれません」
 彗星のような上昇から十年、今なお、歌手は自分の人気に驚いている。「東ベルリンを訪問した際、ある本屋で、一頁全部が彼のために割り当てられている有名歌手たちを集めた本を見つけたとき、彼は、『私が入っているなんて・・・』と、正真正銘、驚いていた」
 同時に、誤解されて困ることもけっこうあるという話は、彼の率直さを証明している。あるレポーターに語っていることだが、いつだったか、ジーンズに、スニーカー、開襟シャツという格好のせいで、ホテルの守衛たちに怪しまれて、頭のてっぺんから足の先までじろじろ見られてとても厄介なことになったということだ。「そこで16000マルクで時計を買いました。守衛たちがすぐに気がついてくれるような物を身につけたかったのです。だって、とにかく彼らはそういうものに目を走らせて判断しているのですから」
 マスコミによって、彼とルネ・コロの間にでっちあげられた、いわゆる歌手戦争には、彼としては、全然興味がない。「私たちは、親しくなるには、あまりにも違っています。コロの公演に関しては、せいぜいゲネプロに行くぐらいです。そして、その時彼が見事に歌えば、一人前にうらやましいと思います。歌手戦争ですか? 何のために? なにしろ、私たちは、自分たちの専門分野において、世界中で、ほとんど一人ぼっちという状態なのですから」

 「対立は極端であればあるほど、楽しみはますます大きくなる」と、ルイ誌は、1983年のはじめに、ペーター・ホフマンについてあれこれ書きたてるかたわら、コロ対ホフマンについても、同じように想像をたくましくしている。「まるで ジョー・フレージャーとムハマド・アリの対戦のように、オペラの二シーズンにわたって、三幕でより早くコンディションが悪くなる人のおかげで、一方が得点を稼いだが、さて、もう一方が、とにかくひどく傷つけられた、持ち前の芸術家魂で、反撃にでるかどうか・・・。 ただこの完全な『人物相関図的空騒ぎ』は、ムハマド・ホフマンにとっては、ほとんどどうでもいいというだけだ。『コロは偉大です。ということは、私も同じです。それでも、ヘルデンテノールの完璧な共同居住グループの一員として存在してくれないかと言われても、そういうことは、私たちは、二人ながら拒否します』」そのあと、『ルイ』誌の記者、ハリー・S・フォクトは、このペーター・ホフマンという人物に関する、インタビューのまとめに移る。「そう、この人は、自分の頭を使っており、あらかじめ印刷しておいたイメージは、彼に関しては、まともなことでは、一致しないだろうということだ」同時に、記者は、彼が時にはまさにスターであることを楽しんでいると確信しているが、「しかし、それが自分に似合っている場合に限る」し、「養魚池の縁にゴム長靴をはいて座り、手づかみでソーセージを食べる」のはどちらかと言えば、好まない」 加えて、この記事は、あのものすごく高価な時計を見逃さない。時計は少々高く売られ、22000マルクと金の文字盤に読者の注意をひきつけるだけにすぎないにしてもだ。インタビューアーは今度は、ペーター・ホフマンは本当に優れたショーの台本を書いたのか、最初のロック・レコードは、ほんとうに優れた歌唱なのか、彼が出したがっている彼自身のロック・ナンバーは良いのか、「ところで、演出家から離れて、彼自身から湧き出る即興的才能を取り入れることが可能になるとき、彼はほんとうに最高なのだろうか」、彼は特にすごい馬マニアなのか、さらには、ホフマンが記者に話した冒険のほかに、もっと別の大胆不敵な冒険航海は経験したことがないのだろうかなどと、疑ってみる。しかし、それに続けて、フォクト氏は、このテノールに関わる全てが良いと思う理由を次のように言う。「『聖杯物語と流行歌』、いずれにせよ、ホフマンの自然のままの創造性は、そもそもまず第一に、全てのことを実現しようと欲すること、そして、それを実行することに向けられている。これがあらゆる方向に、そして、あらゆる高みと深みに、彼を駆り立てている」『それはアドレナリンが原因だ』と彼は言う。これこそが、行動を生じさせる物質だと彼は信じているのだ。彼はこの物質を恐れながら、役立てている」

 コスモポリタン誌の歌手とのインタビューでアンゲリカ・フォン・ハーティヒは、「ペーター・ホフマンは、決めつけられるのを好まない。彼は対立的な計画を好む」と断言している。彼女はペーター・ホフマンを、肯定的な意味でだけでなく、ドイツ・オペラ界の歌手として、さまざまに色を変える捕らえどころのない人物と見なす。このポートレートの中で、歌手はこう反論をしている。「その冗談は、私は意識的に構築したイメージを持っていないということにすぎません」「女性」というテーマに対する、信条発言に関しては、ほとんどのインタビューにおいて、控えめだった。多くの読者が何よりも興味を持っているこの問題に対して、彼はあまり関心を示さない。
8320.jpg ここ数年間、そのうちにいつか、絶対に「意欲満々の行動的なご婦人たちの懇願」を聞き届けることになるだろうと思っていたが、そのことは、今はもう終ったことを、彼は認めている。つまり、こういうことだ。「一年前から、女友だちのデビーと一緒に暮らしています。私たちはできる限り一緒にいるようにしています。現時点で、長期間、空間的に離れていることはもはや無意味だと思います。離れていれば結局は疎遠になります」と、彼はその理由を説明するが、それは同時に彼の結婚生活が13年後に「穏やかに、静かに」壊れた理由でもある。(「今日私たちは良い友だちで、お互い最高に理解し合っています」)長く離れていると、不満がかき立てられて、目下いる場所で気を紛らわそうという誘惑に負けてしまうというのだ。更に、親密さと居心地の良さの欠乏状態に陥り、それは、もはや一日やそこらでは取り戻すことができない。彼が、女友だちのデビーと結婚したいと思うのは、戸籍課の印が欲しいからというよりは、アメリカ人の保守的な姿勢が、その理由だと、彼は説明する。heiraten.jpg(1983年8月23日結婚式を挙げたということです)
 理想的なパートナーシップを、彼は、「外からの影響に対する防壁」と理解している。そうであれば、数週間の別離も可能だ。それに、「そこに相手がいないという理由で、多少我慢することは、非常に良い効果を与えます。いずれにしても、喜びよりも苦しみのほうが意味があるのです」ということだ。

 ホフマンは、周知の出来事、あの事故についても、言及している。「あのことを乗り越えるのは、確かに困難でした。劣等コンプレックスが、亡霊のように心に浮かび、もう少しで窒息しそうでした。私は物凄く惨めに苦しみました。しかし、私は何としてももう一度歩けるようになりたかった。それはいかにも残酷に聞こえますが、それによって、私は成長しました。苦しみによって、人は成長します。喜びを体験するのは簡単です」

 インタビューの終りに、公開性に関する彼の苦労が取上げられている。「自分に寄せられる賞賛を、正しく分類できなければいけません。それは絶対にホフマンという人間に及ぶ必要はないのです。それはつまり、その時、プライバシーまで完全に公開している人は非常に傷つきやすいということです。特にこういう仕事においては多くの事を自分一人の胸におさめておく必要があります。例えば、素晴らしい経験の数々。私はあまりにも多くを語るのはやめました。物事は繰り返しによって輝きを失います。ひょっとしてこういうのは非常に利己的なことかもしれません。しかし、私がある人々に何かを語ったとき、そもそもその人たちが全然こういう信頼に値しなかったということに何度も気づかされました」
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論評集-9 [1983年刊伝記]

ポップス屋開業
 マスコミの論評は、オペラ分野の専門評論を除いて、1982年という年は一年中、ワーグナーの映画、テレビ・ショー、ロック・レコードのような「異種の」芸術活動一色に塗りつぶされていた。オペラ評論家が、「金髪の、スポーツで鍛えた逞しいペーター・ホフマンのために、長い拍手喝采があった。全てのオペラ・グラスが絶え間なく彼に向けられていた」(トニ・バイリー ドイツ通信社)という具合に、パリで新オープンしたガルニエ宮でのローエングリンのペーター・ホフマンの業績を拍手喝采で、考察していた間に、大衆紙は、この「金髪の大物」の私生活に対する関心を強めはじめる。記者たちは、彼のそばにいる女性「デビー」・サッソンと並んで、六年前から、夫と別居して、彼女自身、舞台キャリアを築いているアンネカトリン・ホフマンにも興味を示している。ペーター・ホフマンの人生の中で、この二人の女性との間にあった私的な時間についても書かれる。『鏡の中の女性』誌は考察する。「最初の大成功のあと、ワーグナーとバイロイトへの出演がうまくいって間もなく結婚生活は終った。アンネはシュツットガルトで冷静に見ている。『私の夫のように突然、一躍有名になるような人は、特別の人生を送らざるをえないものです』 昨年の夏、彼女はバイロイト近郊の彼の城館を訪ねた。その時には、彼女も、職業面だけでなく、『たとえ何であれ自分自身のものを築いていた』。彼女は、シュツットガルトの小さな劇場、Theater des Westens で歌手として、舞台に立っている」

 『ラジオ時計』誌は、「女性たちが夢見る男」であるこの歌手から、「穏やかなスーパーマン」を作り出す。そして、彼は自らこう述べる。「むしろ中世に生まれたかった。それは、まだ、男性的な美徳が問われた時代だった。つまり、人が自分の言動に責任を持つこと、市民として自己の信念を主張する勇気や、何物にも惑わされない一途さなどだ。現代はすべてがあまりにもなまぬるい」この記事の中心にお金と財産というテーマが据えられている。「私にとって金銭とは奇妙なものだ。私はお金が全然ないときにしか、その価値を感じない」 さらに、彼は、田舎の住居を巡る自然のやすらぎに触発されて、告白する。「金を稼がなければならないという理由で、時間がないと言うのは、非常に矛盾しているのだけれど、時間があったら、その時は、『グリーンピース』に関わりたい。小さな城館を所有しながら、無欲について話すことはなかなかできるものではない」

 彼は、その最初の劇映画、リヒャルト・ワーグナーの生涯についての映画の中で、トニー・パルマー監督の下、作曲家ワーグナー役のリチャード・バートンと共に、カメラの前に立った。彼はワーグナーの最初のトリスタン歌手として出演し、撮影の休憩時間にこのアメリカ人の俳優と仕事や、ワーグナーや、このザクセンの音楽を非常に愛好したヒットラーについて語り合った。この場面は、ペーター・ホフマンに関する「『リング』を巡るロック」というテレビ映画に残された。ブント誌が取材した。「ホフマン、『仕事をする間に、ますます興味をもったことは、歌手の私に関して、ワーグナーがどう思っていたのだろうかということです』 バートン、『その時、ワーグナーは、あなたのことを、注目に値する声をもった注目に値する歌手だと思ったでしょう。私は誓って言いますが、ワーグナーは、あなたのことを、これこそ、その男、私が望んだ男だと思っただろうと思います。あなたは並外れて優れた俳優です。ローレンス・オリビエ卿と、ヴァネッサ・レッドグレーヴと、そして私と映画で共演したのです。あなたに言いたいのは、あなたは、これから先の人生で常に、何かをするだろうということです。このあなたの役を撃破できる映画は今後ともないでしょう』」ついでに言うと、この映画で、ペーター・ホフマンは、最初のトリスタン歌手、ルートヴィッヒ・シュノール・フォン・カロルスフェルトの役のために、芝居用のお腹をしっかりと括りつけて、とても太った状態になっている。それに、顔一面のヒゲづらで、彼だとはほとんどわからないところだ。

8331.jpg 秋には、「オペラ愛好者のためだけではない音楽作品」である「ホフマンの夢」がドイツ第二テレビ放送(ZDF)で、放映された。
 「彼がクラシック音楽(E-Musik)と娯楽音楽(U-Musik)の境界を揺さぶっているのは全く困ったことだ。それにしても、『ローエングリンから『イェスタデイ』までのごった煮シチューは、多面的というよりは、むしろ中途半端に聞こえる」という具合に、批評の評判はよくなかった分、それだけいっそう、視聴者には極めて好評だった。「すばらしい!全てが調和していた!」「この放送はとにかくすごかった。多種多様な歌を歌う、驚異的な声に耳を傾けるのは、最高だ」「ただ単に退屈なオペラを歌うだけでなく、その才能を、それとは違う傾向の音楽のためにも使う男が、ついに登場したのだ」(ゴング誌、読者欄からの引用)ヨアヒム・フッフスベルガーとの対談の夕べに際して、南ドイツ新聞は、彼のことを、「魅力的な話し上手」であると書いている。また、ニュールンベルク・ニュースは、視聴者は「オリンポスの山から神の如き者が降りて来て、彼らの楽しみに奉仕する」のを好ましく思うということを認めている。註:
ワーグナーの映画:TV映画:ワーグナー偉大なる生涯、監督 :トニー・パルマー、1983イギリス 配役、ワーグナー:リチャード・バートン/コジマ:バネッサ・レッドグレーヴ/シュノール・フォン・カロルスフェルト:ペーター・ホフマン/マチルデ・フォン・カロルスフェルト:ギネス・ジョーンズ/その他:ローレンス・オリビエ/ジェス・トーマス/ハインツ・ツェドニク/CS放送(クラシカジャパン)で全編放映されました。
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論評集-8 [1983年刊伝記]

「百年目のパルジファル」1982年
(ちなみに、1985年の公演が録音されました~CD)
8388.jpg バイロイトの緑の丘における百年記念「パルジファル」は1982年、マスコミの間では、期待感を持って待たれており、その後は、それ相応に注目された。ゲッツ・フリードリヒが、その指標であるシュツットガルトの「パルジファル」に従って、肯定すべきユートピアを演出した。ゲッツ・フリードリヒ、「私たちは、『パルジファル』の権利と義務、憂うつ、優柔不断、柔和などを際立たせなくてはならない。こういうものは、ワーグナーのユートピアへの挑戦のすばらしい部分である。当時はもちろんのこと、今日では、もしかしたら、もっとずっと意味があるかもしれない」
 題名役はこのような見解に基づいてとらえられるべきであるが、何人かの評論家が題名役に注目した。「ツァイト」紙のハインツ・ヨーゼフ・ヘルボルトは、「百年記念の年に、『パルジファル』に遭遇した人は極めて正確に拍子を計算した」と述べている。そして、同時に、ペーター・ホフマンを「声管でも、支配的なものに対して新しい可能性を意識的に際立たせる者」と見ている。

8389.jpg 「ペーター・ホフマンは夢のパルジファルだ・・・ 聖杯城で、震えながら床にうずくまり、クリングゾールの乙女たちの誘惑を夢の中の出来事のように体験し、自らの罪をその身に引き受けようとする激しい感情爆発に支配されている。それに、彼は、キスの場面で子どもが成人の男に変わるのを、即座に直感的に意識させることさえできる。更に、ホフマンは、声に陰影をつける才能と、息のカーブ上を声がフォルテからピアニッシモまで下降することを可能にしている卓越した音造りによって歌唱と吟唱両面においてこの役をまばゆいばかりに造形し尽くしている」(エーリッヒ・ラップル、北バイエルン・クリーア)

 「ゲッツ・フリードリヒは、第一幕と第二幕で、この題名役の俳優をみごとに用いている。ペーター・ホフマンは、フリードリヒの手の内で、うっとりするほど若い、生き生きしたパルジファルであるばかりでなく、完璧な『純真さ』にもかかわらず、貴族的な荒々しさ、運命的な能力を持つ者という印象を与える。ということは、要するに、理想的なパルジファルだということだ」(ヨアヒム・カイザー 南ドイツ新聞)

 「ヴィントガッセンとの比較に耐えるような風格にまで、今や、ペーター・ホフマンも成長している。彼は最初のパルジファルから長い道のりを歩んで来た今、その卓越したジークムントをさえはるかに超えるものとなっている。メタリックで緻密なテノールの声は朗々と輝くばかりに、豊かな陰影を伴って、これまで以上に、鳴り響き、反抗的な愚か者から、新しい社会の知的で同情心を持った人物へと変容するこの役に対する精神的な要求は、演劇的な説得力をもって、眼前に展開される」(フリッツ・シュライヒャー、ニュールンベルク・ニュース)

gfprfact3bw.jpg 「第二幕のクンドリーとパルジファルの場面は、これ以上はあり得ないほど刺激的である。ゲッツ・フリードリヒはここで声の傑出したペーター・ホフマンを演技的にも大きく成長させている」(W.ブロンネンメーツァー、ニュールンベルク・ツァイトゥング紙)8390.jpg

 「まず最初に、ペーター・ホフマン。かつてだれも彼がこれほどすばらしく歌うのを聴いたことはないだろう。非常に美しい愚鈍な少年(ぼんやりとした知性はすでに備わっている)であれ、苦悩のうちに成熟した救済者であれ、この深遠なワーグナーの主人公が、今や完璧に、彼のものになっている」(E.リンダーマイヤー、tz ミュンヘン)

 「外見からは、間違いなく、若々しい、スポーツマンタイプの理想的事例、そして輝くばかりのヘルデンテノールの声の、題名役のペーター・ホフマンは、まさに優秀なパルジファル歌手である。彼は、そのヘルデンテノールの性質を持った、あるときは鋼のような、またあるときは絹のビロードの光沢と力のある声によって、救済の道を求める騎士を、非常な説得力で、舞台上に出現させた」(ハンネス・S・マッハー、ノイエ・プレス、コーブルグ)

 「ペーター・ホフマンは、バイロイトがずっと前から目にしてきたパルジファルのうちで、最も若者らしいパルジファルだ。満足すべき叙情的な声と危険な力の使用の間を行き来する性質をもったテノールで、ジークムントとオーバーアマガウ村の受難劇のキリストの中間的な様式化が行われている」(テア・レトマイア Thea Lethmair、アウグスブルク・アルゲマイン・ツァイトゥング紙)

 「題名役のペーター・ホフマン。初めは何というかあまりにも控えめに感じられる軽いヘルデンテノールを耳にする。それは彼の登場が与える美しい若者の姿にあまりふさわしくない。だが、しとめられた白鳥を前にして、稲妻のように同情を体験する、鍵となる場面は、感動的に演じられた。その場面は、ホフマンが第二幕で成し遂げるであろことを予感させ、花の乙女たち及びクンドリーとの遭遇の場面で、彼は優れた歌う俳優に成長している」(H.H.シュトゥッケンシュミット、フランクフルト・アルゲマイン・ツァイトゥング紙)

 「ペーター・ホフマンは題名役を、力強い高音の、第三幕での多少の弱まりを除けば、常に冴えて、若々しく、はつらつとしたテノールで、優れて献身的且つ強力に歌った」(ハンス・ベーア、「マイン・ポスト」 ヴ ュルツブルク)

 「・・・レヴァインと共演の題名役、ペーター・ホフマンを前にすれば、だれもがカラヤンの下でのザルツブルク登場のことを考えるが、彼は耳に心地よかった。彼のテノールは、若干の堅さがあるが、非常に柔軟になっていたので、今回は高音でそれほど労力を要していない」(ミヒャエル・ミューラー、ミュンヘン・メルクーア)

  「さらに、このような冷静で明確な姿勢と、根源性はペーター・ホフマン(非常に需要のあるワーグナー・テノールで、おまけになんと非常に積極的に活動しているロック歌手だ!)のパルジファルに特有であり、雄弁で輝くばかりの声の美しさ、まさに理想的な身体表現と体つきは、苦しみとつらい自己発見を通して知を得、社会的責任に目覚める、若い、純粋な愚か者にふさわしい。パルジファルの苦痛に満ちた自己発見過程及び知を得る過程、すなわちパルジファルの苦悩を味わい尽くす試練の経験と終局的に非常に人間らしい優柔さを伴う未来への希望の描写は、充満する活気と理解を要求する明瞭さによるものだ」(エッカート・シュヴィンガー、ノイエ・ツァイト、ベルリン/ドイツ民主共和国)

 ペーター・ホフマンは、すでに1980年、カラヤンの下、ザルツブルク復活祭上演で、パルジファルとして観客を魅了した。  「ペーター・ホフマンはタイトルロールを体現した。テノール仲間で彼をしのぐことができる歌手はおそらくいない。彼の『Erloeser! Heiland! Herr der Hulden! 救い主よ!救済者よ!恩寵の主よ!』は、ヘルゲ・ロスヴェンゲの夢のような舞台を完璧に実現し、コジマ・ワーグナーがはっきりと要求した、彼が本来的な響きとして有している開放的なテノールに加えて『バリトン的な』声以外の面でも人々を魅了した。これは、選ばれていた王権に至るあらゆる苦悩に満ちた成長過程がスムーズに展開していく、役に対する並外れた認識によるものだ。そして、私たちは、やっと!この作品が『アンフォルタス』ではなく、『パルジファル』と名付けられた所以を理解したのだった」(オルフェウス 1980年5月号)
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 ニューヨークも、この年、パルジファルとしてのペーター・ホフマンを体験している。「ペーター・ホフマンは、ここでは、はじめて、パルジファル役を歌う。ここ、メトロポリタン歌劇場は、セクシーで、スポーツで鍛えた筋骨たくましい若いテノールである彼を、『純粋な愚か者』として迎える。彼はテニス・スターのビョルン・ボーグのようで、より徹底的な分析にも耐え得る、カリスマ性を有している。極めて優秀な歌手兼俳優として、ホフマンは、オペラ・ファンたちをして、なぜ彼らが彼のことを『とにかく信じられないほどすばらしい』と思うのかという、その理由さえ、忘れさせるだろう」(1982年4月7日付け ニューヨーク・ポスト)

8391.jpg 「題名役のペーター・ホフマンは、金髪の魅力的な、まさにうっとりさせられる身体を持った存在の、本物の騎士のイメージだった。しかも、素晴らしいテノールの声を備えたりっぱな体格の若者だった」(1982年4月7日付け ニューヨーク・タイムズ)

 1982年、パリ、ガルニエ宮は、ペーター・ホフマンのローエングリンで開幕した。「ペーター・ホフマンは、間違いなく、現代最高のローエングリン歌手である。『ローエングリン』は、ワーグナーの朝焼けであるが、それはまた、ペーター・ホフマンの朝焼けでもある」(1982年2月2日付け フランス・ソアレー)

 「非常にすばらしい声を持った、際立った金髪の、とても美しいローエングリン、ペーター・ホフマン、彼は、この非常に静的な役が許す範囲の、ほとんど日常的なごく普通の身振りしかしないにもかかわらず、それでも表情豊かであることができる」(1982年1月31日付け ル・モンド)

 1982年、ペーター・ホフマンは、モスクワのボリショイ劇場で、ローエングリンを歌った。
註:
オーバーアマガウ村の受難劇:多分このサイトにある行事のことを示しているのでしょう。http://passionplay.tabata3.com/
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論評集-7 [1983年刊伝記]

アンチ・タイプ
 ペーター・ホフマンがまだショー・ビジネス界に深く関わらないうちから、重量級のヘルデンテノールやオペラの定型化した芸術形式といったものから逸脱したアンチ・タイプが理想的に結合した存在としての彼は、年を追うごとに、マスコミの注目するところとなっていった。1981年のシュテルン誌の記事の「ローエングリン、上品なロッカー」という見出しは、相反することをやることができることの魅力を強調している。この記事の序文は、「長年の夢の英雄的」テノールと始まり、対照的なイメージを強調している。「大西洋で、『グリーンピース』の人たちと共に、捕鯨反対の行動をしたいところです。これは、私が抱いている理想のイメージです。でも、たぶん実行するほど断固としたものではないのでしょう」 この雑誌は、一回の出演につき18,000マルクという市場価値と、同時に、このテノールにとって好まれ,そのまま残ることになった見解と認識に基づいて書かれている。
 「今までずっと、ホフマンは、彼が作った19のロックンロール・ミュージックについて、彼が歌っている37のアリアより、はるかに真剣にとらえている。今に至るまで、ホフマンは『ブラシをかけてもらう』人種やそういう生活形態とかかわり合いになるのは好まないようだ。その点では、彼はヘルマン・ヘッセの『Steppenwolf (荒野のおおかみ)』を好んでいる。この小説に、<ベルリンの貴族の邸宅で、あまりにもぴかぴかに磨かれ、ブラシをかけたようにちりひとつ落ちていない、廊下を通り抜けたとき、無気味な戦慄が彼を襲った> という一節があるが、この『ブラシをかけられた』という言葉が、彼にとっては、満ち足りた市民階級のキーワードとなった」

 彼自身気楽にやっているわけではなく、「公開された」会話の中で、彼の職業を巡る困難や懸念に言及している。「全ワーグナーの英雄たちのうちで最も若い歌手、ペーター・ホフマンは、オペラで、孤立させられていると感じることが多い。その理由は、『私たち歌手は、オペラにとってその上演までは、全く重要でない』からだ。指揮者、演出家、劇場監督にとっては、偉大な歌手も、時にはとても良い、時にはとても悪い、声の素材でしかない。『若い人たちがほとんとオペラに行かないという理由』でも、ホフマンは孤立を感じている」
 彼には、オペラの若い観客層がこの仕事に感じている難しさがわかる。「ローエングリンは当然今日的ではありません。ローエングリンを現代に置き換えることはできません。そこにいきなり現れて、お前は私に決して尋ねてはならないなどと、言うのです。でも、そんなとき、彼はやましいことがあるのだ、魚料理店のお抱えダンサーだったのだと今の若い女性は思うでしょう」しかし、どうすれば、ほかならぬ一見今日的でないようにしか見えないテーマに向き合う若い人たちをこそ、オペラに取り込めるかということも、彼は知っている。「でも、やはり、メルヘンには、だれもが心を開きます。メルヘンには人それぞれの憧れが含まれています。『そこの中央にはこの地上では知る人のない、いとも尊い輝く寺院が建っている』とこんなふうに歌われる、善である聖杯が存在すればいいのにと思っているということです。これはやはりすばらしいことではないでしょうか。どこかに超自然の力が存在してほしいと憧れ、切望する気持ちを、メルヘンはこういう具合にちょっと後押しするわけです。そして、こういう憧れの気持ちは四十歳の人より十七歳の人のほうがより強く持っています。四十歳の人はこういう気持ちを再び発掘するわけです」

 1981年、いくつかの専門誌が、よりによって一年後にこの歌手のキャリアにおいて最高の逸品になるパルジファルに関して疑念をはさみはじめる。「ペーター・ホフマンは、まだ題名役の英雄に留まっている。二度のセンセーショナルなプレミエのキャンセルは、デジタル録音技術が情け容赦なく明らかにしているものを暗示している。ペーター・ホフマンは自身の並外れたキャリアに、もはやこれ以上耐えられない。その声は、低音域においても中音域においても輝かしくは響かないばかりか、ただとにかく完璧にかすれて響くだけだ。そして、弱音はどうか。そう、今では、オーケストラは、同僚としての友情を示して、それを取り繕うように演奏しているのだ」(「パルジファル」のレコードに対して、ドイツ舞台)

 ベルリンのハンス・ヨッヘン・カッフサックとバイロイトのエーリッヒ・ラップルも、ミュンヘン・ヘラクレスザールで、それぞれ通信社と地方紙のための批評で、バーンスタイン指揮下、コンサート形式の「トリスタン」に関して「大きな幸福感に対する懐疑心」を述べた。
「加えて、若いヘルデンテノール、ペーター・ホフマンは、バーンスタインの厳しいリハーサルで、ついに自分の力以上のことをしようとしたが、それでもその傑出した能力によって賞賛された」(ハンス・ヨッヘン・カッフサック)
 「すでに数カ月前の第二幕の公演で、ペーター・ホフマンは、歌詞とリズムに関して、何度も間違えた。そして、第三幕、ホフマンは、確かに、その英雄的で、バリトン的な声がトリスタン役にも運命づけられているように思われるが、彼はまだこの役を決して完璧にはマスターしていないということを証明した。(耳に聞こえる証拠に対して、その目に見える証拠が彼の前に置かれた譜面台だったということだ)・・・そして、汗まみれのペーター・ホフマンの大写しはいったいどんな幻想を与えるのだろうか。・・・とりわけ、彼が、強烈な感情の爆発に際して、何度も両手をはにかんだ感じで両頬に押し付けていたのは、優れた演出家が彼と共に演出すれば、彼が舞台で演じ、動き回ることが許されれば、彼が、歌手としても、まさしく音楽と情景の統一体としてのドラマが最終的に要求しているように、更に徹底的に役に没入するのに役立っただろうということを、立証していたように思われた」(エーリッヒ・ラップル)
 一方で、ペーター・ホフマンに関するレナード・バーンスタインの言葉が、ドイツ連邦のマスコミを駆け巡る。「レナード・バーンスタインとって、暗く、セクシーな声をしたこの大男こそ、世界一のワーグナー・テノールなのだ」(1981年7月25日付け AZ ミュンヘン)

 現在、ペーター・ホフマンは、最初のロック・レコードの正式な予告をしている。「可塑的な時代は終り、新しいものが到来しなければならない。私は創造的でありたいのであって、オペラだけを歌いたいとは思わない」(同上)もちろん彼のスケジュールは1981年にはすでに1986年まで予約でいっぱいだったにもかかわらず、「二つ目の音楽生活」のための時間を何がなんでも手に入れようとし始める。彼自身これに関してどう見ているかについて、1981年8月3日付けのハンブルクの夕刊の「月曜に・・・」というコラムに彼はこう書いた。
 「芸術家とその私生活については、好んで多くのゴシップが語られがちなものだということに慣れるのは、この仕事で成功しているにもかかわらず、今でもなかなか難しい。伝統的な模倣で自分を満たそうとは思っていないときに、人々が、私のようなワーグナー・テノールを、とにかく絶対的に、そして、ただひたすら、崇高な芸術の寺院の司祭と見なそうとするのが、特に厄介だ。だから、成功している歌手の私が、あえて『異種の』リズムを持つ音楽と『浮気をしている』といって、しばしば非難される。
 しかし、120回、ジークムントを歌ったら、時には、やはり何か完全に自分のものをやりたいと思う。そういうわけで、私は自分の歌詞で自分自身の歌を書いている。歌詞は英語。理由は、絶対に『リンデンバーグの二番煎じ』や『上品なマッファイ』といったカテゴリーに分類されたくないからだ。もちろんのことだが、この音楽は私が気にいっているスターたち、ピンク・フロイド、ロッド・スチュワート、スティーヴィー・ワンダーなどの影響を受けている。成し遂げたことで本当に満足なのかどうかということを直視するために、それを繰り返し、疑問視することが重要だと思う。ローエングリンやパルジファルとしての私のイメージが私の生き方によって損なわれるとは思わない。そういうことは、ただ単に出来栄の悪さの結果起こりうることで、出来の悪さは、安易な妥協同様、大嫌いだ」
 「ドイツの最も素晴らしい歌手」は、どの新聞にも等しく、正直に思うままに答えている。そして、それが、彼自身が予想した以上に、協調性のない厄介なオペラ歌手という彼のイメージを強調している。彼は、翌年、彼の出演したショーに対する肯定的な反応が証明しているように、幅広い視聴者層に存在している需要に合致している。
 「ペーター・ホフマンは、風船みたいに膨らんで、絶えずコホコホ軽い咳をしている、古臭いオペラ流派に属するヘルデンテノールの定石を断固として払いのける。彼はどちらかと言えば、まさしく、『ワーグナー・スーパースター』といった様子であり、たとえ彼がハイイロガラスみたいな声をしていたとしても、女性たちは彼に夢中になるだろう」(ブント 1981年)

 「このワーグナー物の『客演歌手』が危機に瀕しているのは間違いない。八年にわたるヘルデンテノール業。『なんとなく憂うつな気分に襲われています。そこから抜け出さなければらないと感じています』」 彼は「余暇レビュー」誌に、このように正直に告白している。「それが、声のために、一番いいことだからといって、そのために全てを犠牲するべきでしょうか」  一人のヘルデンテノールが、しっかり変装して長時間散歩していたり、公演前は面会謝絶で一日中ベットに横になっていたりするのは、彼にひどい挫折感を味わわせる公演に対する反応だ。「要するに、最高にすばらしいことは、声にとって、最高に悪いことなのです。何もしないで毎晩七時に寝るなんてことは、私にはできないです」こういう会話の中で、歌手を怒らせていることがある。それはこういうことだ。「私はもともとはポップス歌手で、たまたまオペラに行き着いたのだというのです」つまり、ドイツでは型にはまることを強制されるということだ。「長期間お金をつぎこんでクラシック音楽を専門的に勉強した者が、娯楽音楽をするはずがないのです」でも、「ずっとひとつのことだけをするには、人生はあまりにも長すぎます。人々が人生真っ盛りじゃないかと言う時に降りることはすばらしいと思います」
 彼は交友関係における困難も告白している。こういう生活によって、「関係を築くのが難しい」ため、友情が中途半端に頓挫してしまうということだ。彼はパーティーにはめったに行かない。「それはいつだってある種、力の見本市のようなものだ」からだ。ホテルの部屋に退散して、いつもひとりというわけではないが、ロック・ソングを書いたりするほうが好きなのだ。どんどん上昇する出演料のせいで、彼は以前に増してひんぱんに、彼の功績がその収入を得る権利があるかどうかということを問われるが、強烈な反撃方法を心得ている。
 「年に50公演歌っていますが、すべての公演に関して何としても成功したいという気持ちでやっています。皆はひたすら歌手が音を外すのを待っているのですからね。これはとてつもなく厳しい仕事です。生で見せる職業は最高に困難なものです。それに、一人のオペラ歌手以上にすばらしい感動や幸福感を与えられる者はまずいないということを忘れてほしくないものです」(余暇レビュー 1981年)

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論評集-6 [1983年刊伝記]

「新たな本命」
 ペーター・ホフマンは、1980年のニューヨーク、メトロポリタン歌劇場にローエングリンで、デビューし、マスコミによって、「メトの歴史上、最高のローエングリン歌手」と呼ばれた。1980年1月25日付けのニューヨーク・ポストには「彼は夢の騎士だった」と書いてあり、デイリー・ニュースは、その翌日、次のように書いた。「ホフマンが、全体として、今日、オペラの舞台で、最も騎士にふさわしい男であることは間違いない(若いころのエロール・フリンみたいなものだ)ところで、その最高の気品と劇的効果を引き出すために、その圧倒的な身体的存在を利用している。彼は、だれもが長い間夢見てきたワーグナーの演じ方を具現した」
 同年、ペーター・ホフマンは、ウィーン国立歌劇場で、強烈な印象を与えるフロレスタン・デビューで、ウィーンの批評家を征服した。
 「ホフマンはすでに全力投入でカラヤンのパルジファルの録音に携ったようだ。彼がフロレスタン役の難しさを非の打ち所のないテクニックで克服していたということは、ホフマンがバイロイトのローエングリン以来、相当に研鑽を積んだ証拠だからだ。フロレスタンが非常に繊細に描かれた人物だということが再び明らかになったのだから、声までも伴っていれば、感謝するほかないところだ。ホフマンのフロレスタンは、優れて叙情的な強さが特徴である」(Der Merker 1980年3月号)

 1979年も暮れようとするころ、ドイツの雑誌の関心の高まり第一陣は収束に向った。プレーボーイ誌は、1979年11月号にこの歌手をこう紹介した。「実際、この百年、少なくとも高いC(ハ音)に届くヘルデン役では、有名なドイツ人テノールは、マックス・ローレンツとヴォルフガング・ヴィントガッセンの二人しかいない。そして、その後継者としてふさわしいのは、ルネ・コロのように思われていた。新たな本命はペーター・ホフマンだ。彼は、高度の能力を要求される競技スポーツの訓練を受けた、肩幅63センチの青年で、音響的な能力に加えて、テレビ画面に登場するのに必要な身体表現ができる素質をも備えている」
 雑誌「オーディオ」で、ペーター・ホフマンは、年末にあたって、クリスマスと大みそかをどう祝うかという質問を受けた。「大みそかは一晩中羽目を外してやりたいことをやるべきでしょう。王様みたいに飲んだり食べたり。こういうのが、望みうる最高の休暇じゃないですか。みんながこういうふうにすれば、その翌年は精神科医は、暇なんじゃないでしょうか」と、テノールは思っている。そして、降誕祭については次のように考えている。
 「この日は、隣人愛の祝日と呼ばれていますが、本当にひどい生活を送っている人たちのことは、だれも考えません。クリスマスには、キリスト降誕の馬屋の飼い葉桶で眠っている幼子キリストのために、沢山のすばらしい歌が歌われますが、時を同じくして、世界のどこかで、何らかの戦争で、罪のない子どもたちが大勢死んでいます。そういうわけで、この日には、それ相当の額を寄付するべきです。でも、どうかたったの数マルクで良心を安心させようとしないでください」
 彼の三番目のバイロイトでの役、ローエングリンの後も、なるほど相変わらずこのテノールに詳しかったのはオペラファンだけだったが、今や、娯楽雑誌の編集者たちも彼に注目するようになった。このころの典型的なインタビュー記事を、マルチェッロ・サンティが、オーディオ誌、1979年11月号に書いている。彼は、「このテノールに最高の美しい響きを浴びせられれば、オペラ・ファンはめろめろになる」ということ、しかも、有名な女性ショー歌手が、「ワルキューレ」の休憩時間に、「ローベルト・ホフマン」という人に面会を求めたということを確認している。ペーター・ホフマンは、時期尚早の名声についてまずこんなふうに感じている。「時々全部眠っている間に起こったことのような、まったく不確かな感じがします」ロックをやった過去が話題にのぼっている。「<何と言うか、発情期のシカみたいに鳴いていました> と、この時代を振り返るとき、今日のオペラのテノールは言う。加えて、その過去が彼に示してくれているのは、<正しい声が駄目になるなんてばかなことはない>ということだ」 ウード・リンデンベルクが話題になる。彼に比べて自分は「おおよそ創造力が欠如している」と感じている。「なぜならば、私たちオペラ歌手は、舞台の上ではオーケストラから、演出までの、非常によく機能する組織の糸に、まるで操り人形のように、とにかくぶら下がっているだけだからだ」

 評価が上昇しはじめる。「そして、同じ声域仲間は、若い仲間に折に触れて、高々と響きわたる高音を形成するこつを教えてくれる、まるで教皇猊下のようなマリオ・デル・モナコでさえ、『ほんとうに優れた声』を単に将来のオテロと見なすだけでなく、『相当やり続ければ、ひょっとしたら自分の正統的な後継者になるかもしれない者』と見なす」 それから、ペーター・ホフマンは主張する。「私としては、ただ単にお金になるからという理由で、どんなものにしろ、オペレッタやセンチメンタルな流行歌をやるつもりはない。声のための声、自己目的としての声そのものとそれを知ることが、唯一私の心をひきつける。その声で、昔のオルフェウスのように、私は全ての望みをかなえることができる」
 この記事は、事実となるべき、ひとつの推測で締めくくられている。「そこで、テレビ関係者が、ホフマンという名前を耳にし、歌手のさらに加わるべき才能に気付けば、テレビの力が目覚めるところだが、これだけはまだ実現していないのはさびしいことだ。というのは、つまり、彼はある意味、生まれながらの俳優で、ほんの小さなきっかけを、完全に整合性のある世界に変え、演劇畑の俳優が嫉妬のあまり思わず青ざめてしまったほどに、ジークムントという役を巧みにこなす。それに、かつてボヘミヤで小さな移動劇団を経営していた祖父母にとって、今や孫である彼は、すばらしい喜びだろうということだ」

 1980年、「ペーター・ホフマンの相反性」が中心的テーマとして、マスコミに取上げられている。彼は、舞台では「気高い英雄」として、家では「ひそかなロッカー」として描写される。ロック・ミュージックを、芝生を越えて湖の上に120フォンの大音量で、鳴り響かせる。そこで完全なバンドのように鳴り響いているものは、正体を暴けば、二人の男の大騒ぎだ。弟のフリッツが打楽器の前に座り、テノールは、自ら作曲したものを検証するために、エレキ・ギターの弦をかき鳴らしているというわけだ。
 当時は、最初のLPの計画は、まだちょっと別なふうに考えられていた。「ワーグナー歌手、ペーター・ホフマンは、クラシックの響きだけが好きなのではない。高名なオペラのテノールが、家では、猛烈に荒っぽいロックミュージシャンにすっかり変身してしまうのだ。<来年、アメリカでLPを出したい。五つの歌の、歌詞と曲がすでに完成している> と、彼は自信たっぷりに語っている」(テレビ番組 見る+聞く、1980年8月) 二年後、この計画は、CBSレコードが、ロック分野の古典を集めたものとして、ベルリンで録音することになった。

 この時期、テノールは、将来ずっとただ歌うだけということに、満足できるかどうかということに、疑いの念を抱いているということを公言している。「私にとって、音楽とは、感情を発生させる手段である。だから、私は演出したいと思う。そして、これはすぐにもしたい。人々がこう言うようになる前に。彼はもう声が出ない」(1980年4月5日付け ウィーン・クリーア)
 彼のオペラとロックミュージックに対する姿勢は明確である。「私は実際のところロックの世界の出身で、『ピンク・フロイド』の音楽は、私には、リヒャルト・ワーグナーと同じぐらい重要である。そして、私が、レオンハルト・コーエンやウード・リンデンベルクに耳を傾けるとき、その歌詞は、例えば『刀鍛冶の歌』の歌詞以上のものを私に与える」そして、「ロルツィングの場合、実際のところ何も言うことはない。ローリング・ストーンの歌のほうがより訴えるものがあるということだ」

 広告業界は、宣伝効果のある金髪男に気づく。彼は時計の広告に出、企業はその潜在的な買い手に彼のことを知らせる。「彼は、1980年の復活祭、聖金曜日にカラヤンの指揮下、ザルツブルクでパルジファルを歌い、復活の主日にはシュツットガルトで、そして、聖月曜日には再びザルツブルクで同じ役を歌った。いくらワーグナーでも、これほどのオペラへの情熱が、この一個人に取り付いて離れないなどということは信じ難い。過剰な成功は無意識の思い上がりにつながらないだろうか。ペーター・ホフマンの場合はそんなことはない・・・彼は自分の芸術を極めて真剣に受け止めている。彼は、ひとつの役から、最高のものを引き出すべく、まさに狂信的な携り方をする。酷い事故の後、彼の意志の強さとかつての競技スポーツ選手のコンディションの良さが実証された。脚が粉々になったにもかかわらず、四ヶ月後にはもう、再び舞台に立っていた。揺るぎないローレックスが非常によく似合う男だ。彼は数年前にすでにひとつ手に入れた」

 センセーショナルに書きたてる大衆紙も、もう遅れをとってはいなかった。ペントハウス誌は、「客演で移動する」歌手のごく私的な生活がどんなものかを暴露する。知るべきことは、「ここはどこか。パルジファル、それとも、何か他のものを歌うのか」という、二つの問題しかないように見える、都市間を移動する生活の中で、余った時間を、彼が女性たちとどんなふうに過ごしているかということだ。テノールがニューヨークでの華々しいプレミエの後、実際何をするのかということが、ペントハウス誌の人物紹介者であるミヒャエル・P・ウィンクラーの興味をそそる。「招待で、『スタジオ54』のちょっとしたパーティーに行きます。同じホテルに滞在していたフランツ・ベッケンバウアーの心遣いです」
 「こういう仕事の場合、女の子に出会うのは難しいことではないということは、だれにでも想像がつく。それに、成功というものは、今までずっと、何かしらエロチックのものだった」と、テノールは思う。そして、その時に彼がとらえた自分の個人的な立場をこう説明する。「だれにしろ、自分と何の関係もない都市にいれば、ことさら悪くなれるかもしれない。歌手というものは、数千人の人間を歓声をあげ、拍手し、足を踏みならすという状態に至らせる。そのとき、今からホテルに戻って、テレビを見るなんてことは、まさか本当のはずがないと考えてしまう。やっぱりまだ何かやらなければならないことがあるんじゃないか。こういう状況で、非常に硬直した恋愛願望が完成する。そして、その時何かが起これば、なんとなく自分はそういうことにも当然の権利があると思ってしまうものだ」 現在、客演旅行には、たいてい妻のデボラが同行している。註:
キリスト降誕の馬屋:他の宗派については知りませんが、カトリックでは、待降節にはいると、キリストが馬小屋で生まれたことを記念して、小さな馬小屋(プレゼピオ)が聖堂などに飾られます。馬小屋のなかのマリアとヨセフの前の幼子キリストの場所は空いています。クリスマス・イブのミサの際に司祭によって幼子キリストの人形が馬小屋に置かれます。これは、アッシジの聖フランチェスコによって始められた習慣だそうです。写真は、上智大学の馬小屋、毎年、待降節から新年、御公現の祝日まで飾られます。クリスマスの馬小屋
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こちらはスノーグローブになった馬小屋
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論評集-5 [1983年刊伝記]

バイロイトのローエングリンの年 1979年
8385.jpg ペーター・ホフマンは、バイロイトの初ローエングリンを、ゲッツ・フリードリヒの演出で、1979年に歌っている。舞台装置は再びギュンター・エッカーが担当し、それは、すでにシュツットガルトでの「パルジファル」でもそうだったように、陰鬱で厳格なものだった。マスコミは「バイロイトのローエングリン全歌手の中で最も若い歌手」を歓呼して迎え、テレビ局は、1983年のワーグナー没後百年記念に放映するために、三年後この演出を録画している。1983年4月、ペーター・ホフマンはこの役に対して「バンビ」を受賞している。
 ペーター・ホフマンはその外見と強力な声によってローエングリンの『歌役者』にまさに運命づけられているのだということが、この夏の批評から感じ取れる。
 
 「ペーター・ホフマンの騎士はまさに声楽的に最高に規律正しく洗練された印象を与える。スリムだが、貧弱な声ではない」(ハンス・クラウス・ユングハインリッヒ、フランクフルト・ルントシャウ)
 
ph_loh82.jpg 「バイロイトのヘルデンテノールになった、ヘッセン州の十種競技チャンピオン、ペーター・ホフマンは、がっしりして、背が高く、金髪の魅力的な、絵本から抜け出たようなローエングリンだ。その上、その声がたとえ叙情的気高さを欠いているとしても、歌もまさに模範的と言っていいほどである。柔らかく表情豊かな歌い方の聖杯物語が、それでも、全く傷がなく、整然と、うまくいったのは、全く驚くべきことだった。ひとりの年配の婦人が花束を投げた」(ラインハルト・ボイト、世界紙 Die Welt)

8375.jpg 「演出家は、題名役をできる限り自由にさせた。ペーター・ホフマンは崇高な眼差しをして、恐るべき難役を、たとえ音程が正確でないことが時にあったとしても、ほとんどやすやすと歌った『ように思われた』。新婚の部屋で、ローエングリンはついに『奇跡』から解放されたような気分になっていた。『奇跡』などというものは、現代的な格式張らない人間であるホフマンにとっては、面倒以外の何ものでもないのだから」(E.リンダーマイヤー テ ー・ツェット・ミュンヘン )
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 「ペーター・ホフマンは、若い、非常に共感できる、その上、『極めて人間的な』ローエングリンである。その声は、必要な力を備えており、音色は成熟しており、高音は生き生きとして充実している。まだ欠けているのは、さらに一層の華やかさのようなもの、王子らしい素直な輝かしさと、そのために、さらに繊細な陰影をつけることだ」(ルドルフ・ジェックル、新フランクフルト新聞)

 「ペーター・ホフマンがローエングリンとして、熱狂的に迎えられたのはもっともだ。声のコンディションはまばゆいばかりにすばらしかった。極めて自然で、現世的な印象を与える、非常に若い聖杯騎士。例えば、聖杯物語では、神秘的な忘我の境地では全くなく、そのために何か高貴に歌い上げるという感じは全くない」(ディートマール ポラチェク、フランクフルト・アルゲマイン新聞)

 「バイロイトの全ローエングリンの中で最も若い、ペーター・ホフマンは、その骨の折れる難役で、ほとんど苦労しているようには聞こえない。彼の相当暗いテノールの声は、もっと低いジークムントの音域のほうがより心地よく感じられるだろうと予想されていたにもかかわらず、である」(ミヒャエル・ミューラー、ミュンヘン・メルクーア)

 「バイロイトのジークムンドのペーター・ホフマンのテノールの声は、次第にバリトンのような危うい色合いになっており、あまりにも低い歌唱と格闘しなくてはならなかったので、高音はやすやすと音を出すというわけにはいかなかったから、彼のローエングリンは、その最良の状態を聴けるものではなかったし、その上、才能豊かな俳優である彼が、その聖杯物語を内面的心の動きもなく、どうということなく平凡に歌ってきかせた、などということはもちろんなかった」(ヴォルフガング・シュライバー、南ドイツ新聞)

 「ローエングリンのペーター・ホフマンは、絵本から抜け出たような英雄だ。非常に美しく、その上金髪だから、彼は間違いなくいつだって女性たちの拍手喝采の的になり得る。彼はすばらしく歌ったが、しかし、声をうまくコントロールしているという感じではなかったし、演出がこの人物に関して考えていたことの全てを演技者として実行に移してはいなかった。驚きからこの世界でよそよそしい態度をとる、神によって遣わされた者という側面は、聖杯の外面的な輝きによって彼に与えられたもの(だが、そこでは、だれもが相当うぬぼれが強そうだ)を除けば、彼からは感じ取れない」(ワルター・ブロンネンマイヤー、ニュルンベルク新聞)

 「ホフマンは、童貞の独特の雰囲気、若者らしい親密さと、それにもかかわらず、非常に落ち着いた男らしさを、舞台上で納得させた。彼の非常にスリムなテノールは、確かに危うさがまったくないというわけではないが、叙情的な優美さに満ちている。聖杯物語とその後のところでは、疲労と無理なごり押しが聴こえる瞬間があった」(エリック・ラッペル、北バイエルン・クリーア、バイロイト)

 「ペーター・ホフマンがローエングリン役だが、彼もまた、目下のところ、この役にふさわしい輝かしい叙情的な声質には恵まれていない。だが、非常に意外なことに、聖杯物語を極めて軽く、しなやかにやり遂げている」(リヒャルト・バーンスタイン、ライン・メルクーア)

   「1976年にジークムントとしてバイロイトに突如出現したペーター・ホフマンは、ローエングリンとして、演技的にも声的にも、僥倖である」(夕刊、ミュンヘン)

8384.jpg 「ペーター・ホフマンは落ち着いた、自身に満ちた声で、周知の騎士を歌いはじめた」(ギュンター・エンゲルハルト、ドイツ新聞、ボン)

 「・・・ローエングリン役とその機能はペーター・ホフマンにぴったりである。この役を、ペーター・ホフマンは、無心の純粋な美の、あの非の打ちどころのない美しさで歌い、演じた」(ペトラ・キップホフ、Die Zeit)

 「プレミエの論評と、私の聴覚的印象を比較すると、ここで批評されている上演にとって、おそらく全ての歌手が、何倍も改善した状態でなければならない。というのはペーター・ホフマンは声に関して困難がないばかりか、この役を終わりまで完全に自信をもって悠然と具現化することができたからだ。バイロイトと我々にとってホフマンの存在は喜ばしいことである」(オペラとコンサート 1979年10月号)

8386.jpg 「題名の英雄役、ペーター・ホフマンが演じたのは、従来通りの天から遣わされた奇跡の人ではなく、男性的な大天使ミカエルだった。彼は、『異質』の人間であるエルザが驚きながら手で触って調べるに任せたあと、彼女ために喜んで戦うだけでなく、彼女を愛して、彼女と結婚して留まろうとするのだ。あっと驚く役づくりということだ。叙情的であると同時に劇的な瞬間のために、スリムで強靱な声を駆使することが、歌手にゆだねられ、彼は、巧みなテクニックに支えられて、説得力をもって演じきったが、それにつけても、プレミエでの多くの批評が、『危険なバリトンの音色』を非難した理由がいまもって不可解である。バリトンの音色こそが、結局のところワーグナー・テノールには、ふさわしいだけでなく、この役においては、ワーグナー・テノールを、危険な無菌状態からまさに解放するのである」(オルフェウス 1979年10月号)
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