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追悼 [PH]

追記
月曜日(6日)告別式の後、埋葬されました。関連記事を下に載せます。
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待降節に入ってすぐ、クリスマスを前にして、ペーター・ホフマンが亡くなりました。
12月1日早朝、偶然知り驚きました。意外な早さでした・・神様のはからいのように感じます。

ネット情報によれば、数日前、風邪で具合が悪くなり入院。2010年11月29日夜肺炎で永眠。ネット上は訃報記事の行列。朝(12月1日)にはドイツ語の記事が一頁分ぐらいだったのですけど、夕方には英語の記事がどっと増え、同じような記事ですけど何頁も。グーグル検索24時間以内で128000件ヒット・・(2010.12.1夜)

弟さんの「彼にとって救済だと思う」とのコメントが見られます。そうだと思います。

残された奥様と幼い娘さんはお気の毒ですけど、きっと大丈夫、しっかりやっていらっしゃるでしょう。そう祈りたいです。天国で、カラヤンをはじめバーンスタイン、W.ワーグナー、G.フリードリヒなど、共にすばらしい仕事をした方々に大歓迎で迎えられていることでしょう。そう思いたいです。

歌手としての天分と人並み以上の努力で歌手として頂点を極めたうえに様々の偏見と闘ったことに、人間にとって最もつらい難病のひとつとの本当に長い間の闘いが加わって、彼こそ真の英雄になったと言えると思います。

それでも、やっぱり悲しいものです・・

2003年刊のバイオグラフィーに引用された記事を書いたアクセル・ブリュッゲマンの記事もありましたので、載せます。参考:2001年の記事
伝説の歌手 かつてのスターテノール、ペーター・ホフマンが死んだ
2010年11月30日 15:01 アクセル・ブリュッゲマン

引退したスターテノール兼ロックミュージシャンのペーター・ホフマンが66歳で死んだ
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生き方の見本として記憶に残るような出会いがある。ペーター・ホフマンとの出会いはそれだった。

私は若すぎて、彼のバイロイト、パトリス・シェローの百年記念「リング」でのジークムントに生で接することができなかった。私は、強力な声と上半身はだかの筋肉たくましい身体の英雄のやる気満々で情熱いっぱいの姿を、DVDでしか知らない。

ペーター・ホフマンは、私にとって、1990年代のヘルデンテノールとはまるで違っていた。クラシック界に対して時に中指を立てて見せた男。ドイツの「オペラ座の怪人」になったブロンドの巻き毛の男。エルヴィスの歌とロック-バラードをあちこちの市のホールをどさ回りして歌った男。モーターバイクでリハーサルに現れた男。

ホフマンは病気と果敢に闘った
カラヤンとバーンスタインと共演した彼のオペラを知って、その感情のこもった抒情的で、力強い、本物の声に非常に感動させられた私は、彼のことを知りたいと思った。その時には、ペーター・ホフマンはいつの頃からだったのか、すでに姿が見えなくなっていた。だれも理由を知らなかった。自宅で会う約束をした。

フィヒテル山地を抜けて、のどかな田舎の街道を走り、フリーダースロイト村(Friedersreuth)に着いた。ホフマンはここに古い学校を改装して住んでいた。彼のお母さんがビスケットを焼いてくれた。

居間の壁にアメリカの古い車のボンネットが掛けてあって、ヤンキーのバーみたいだった。彼自身はと言えば、ジーンズに木こりシャツ姿だった。ブロンドの巻き毛は薄くなっていた。「そもそも話す意味があるのかどうかわかりません。私は病気です。非常に良くないのです」と彼は言った。

彼は時計に従って生活している。規則的に薬をのむのだ。そうやって、彼は自分を苦しめているパーキンソンを抑え込もうとしていた。しかし、彼の身体は時にダウンした。「自分がパーキンソンになるなんて想像もできませんでした。私はオペラのブロンドの英雄役で、ロックスターでした。でも、この病気になってよい人など誰一人いません」

ペーター・ホフマンは病気と果敢に闘おうと決意した。基金を設立し、大勢の人を援助した。自分自身としては病気を認めたくなかった。ブリュンヒルデに従ってワルハラに行くことに抵抗したジークムントのように病気に真正面から立ち向かった。

ゴルフクラブを持ち出して、テラスのドアを開けて、元気な様子を見せようとした。ボールを打とうと試みた。一度、二度、三度目の後、言った。「待ってください。もうちょっとでうまくいくから」そして、野原の向こうまで飛ばして、笑った。一打する間、彼は自分の身体の主人に戻ったのだ。

最後の数年間、彼は車椅子で、パーキンソンとそれによって併発した認知症と闘った。

あの時、別れ際に彼は言った。「人々がオペラ座の怪人とワルキューレを覚えていてくれたらうれしい。この二つは私の人生の一部です」

昨夜ヘルデンテノールは神々の力をやむなく受け入れた。ペーター・ホフマンはヴォータンに従ってワルハラに行った。テノールは66歳で病に屈した。彼の世紀の声が私たちに残された。その声こそが、音楽の無境界性のために闘った戦士の残したもので、それは永遠に生き続けるのだ。彼の歌声こそ、ポピュラー音楽とクラシック音楽、両方の世界の英雄が死後に残した生命なのだ。原文
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*中指を立てる:
一番最悪なのが、右手のこぶしに中指だけ上にまっすぐ立てて相手に向かって示す事です。
これは特に大喧嘩した時に、相手を黙らすために使うジェスチャーです。ドイツ語でStinkefinger(臭い指?)と呼びますが、その語源とジェスチャーの由来は不明。昔からこのジェスチャーがありますが、最大の名誉毀損で4.000EUR位の罰金になります。
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ドイツの文化大臣?のコメント:
"Peter Hofmann, unlike few others, bridged the gap between entertainment and serious music," Culture Minister Bernd Neumann said in a statement. "His accomplishments as rock singer in the Phantom of the Opera, but even more his exceptionally gifted interpretations of Wagner, are unforgettable."

参考:アクセル・ブリュッゲマンの2001年の記事を引用した追悼記事
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バイロイトHP
P.ホフマンの一生
簡単なプロフィール
公演・録音・映像の記録
弟氏のHP12月6日(月)地元の教会での告別式の後、埋葬されました。マスコミはお断りだったそうですが、雪の降りしきる中、家族親族の他に、「オペラ座の怪人」のクリスティーンだったアンナ・マリア・カウフマンをはじめ、かつての歌手仲間も含めて100人以上が参列したそうです。前日に2度目の結婚相手デボラ・サッソンが寄せた文章がビルド紙に掲載されていました。埋葬の写真です。ずっとはないと思いますので、早めにご覧ください。こちら
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ビルド紙
明日、私はあなたの棺の傍らに立って、あなたのために「アヴェ・ヴェルム」を歌います
前夫人、デボラ・サッソン(51)は、彼との素晴らしかった日々と大変な日々について手記を寄せた。彼女は最後まで彼を愛した。数週間前、オーバーフランケンの農場に、前夫を訪問したばかりだった。二人は1983年から1990年まで結婚していた。↓「アヴェ・ヴェルム」(歌は幸田浩子)

デボラ・サッソン
05.12.2010 - 12:52
私達は歌に生きていました。歌に身を任せていました。歌うことは、喜びを表現することですけど、同時に、悲しみを表現することでもあります。明日、私はあなたの棺の傍らに立って、あなたのためにモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を歌います。聖堂を出る時には、「スカボロ・フェア」を聴くでしょう。あなたは音楽を愛しました。あなたこそ音楽でした。ですから、あなたの最後の道も音楽があなたを取り囲むべきです。

私達の時代の最高に素晴らしい声のひとつとして、あなたは人々の記憶に留められるでしょう。人々は英雄の姿を覚えているでしょう。あなたは舞台の上で英雄だっただけではなく、私生活であなたと共に過ごすことができた一人一人にとっても英雄でした。すなわち、最後の年月をあなたの伴侶として共に過ごした、毅然として勇敢なザビーネ夫人にとっても、そして、私にとっても、あなたは家庭の英雄でした。闘う人でした。元気な時も病気の時も同じでした。あなたの病気があなたを闘士にしたのです。

あなたのパーキンソン病はあなたを苦しめました。しばしばあなたを途方に暮れさせました。でも、あなたは決して諦めなかった。薬の量が適切でなかったとき、鬱状態と虚脱状態に襲われます。特に振戦麻痺は大変な苦痛でした。そういうときには、助けが必要でした。ザビーネはあなたのそばを離れませんでした。彼女は最高の人です。彼女より良い人を見つけるなんてことはできなかったでしょう。彼女の助けがあったからこそ、あなたは完全に尊厳を保って生活できたのです。ペーター、あなたは本当に苦しみました。でも、あなたは常に前進しようとしていました。諦めずに闘う。これこそがあなたにとって生きることでした。

三週間前に会ったのが、最後になりました。あの日のことを思い返すとき、あの日の訪問は私への贈物だったような気がします。明るい光りと喜びに満ちていたのですから。あなたは、あなたの小さな家族と共に、新しい農場へ引っ越したところでした。あなた方の周りには命があふれていました。大きな納屋の中を、ニワトリやウサギが歩き回り、その外には池がありました。あなたの寝室は1階にありました。これはほんとうに良いことでした。もう階段をのぼらなくてもいいのです。あなたへのクリスマスプレゼント、もう準備できていました。二頭の乳搾り用の羊です。あなたの小さな動物園がちょっと大きくなります。

あなたはもう十分頑張りました。本当にすごく頑張りました。もう十分です。あなたは生きる意欲満々でした。私たちは昔のことを話しました。レナート・バーンスタインのこと、ニューヨークのメトのシーズン開幕のこと、1980年代の中頃のこと。私たちとのおしゃべりの中で、「僕の好きなオペラじゃない」と言っていたのに、「パルジファル」の公演をミック・ジャガーが観にきてくれたこと。ミック・ジャガーはプッチーニのほうが好きだったんだ。当時、私たちは笑いました。そして、三週間前にも。私たちは同じように笑いました。とても楽しかった時間は、古びたり、変質したりしません。

あなたは「農場で働くのが楽しい」と言っていました。そして、私に聞きました。「デボラ、君はウサギのいる納屋を見たことがある? 天気が良ければ、改造するよ」 あなたに必要な事はそういうことでした。目標です。目の前の目標が、あなたに喜びを与えていました。あなたの身体があなたに従えなくなったときには、あなたの精神があなたを支えました。「どうやったら悲しめるのか」と、あなたはよく言いました。「私は、娘の中で、毎日、毎日、生命が育っているのを目の当たりにしている。彼女にとって、毎日が新しいのだ。彼女は成長している。一日、一日、重くなる。デボラ、残念だけど、私は彼女をもうほとんど持ち上げることができない。だけど、それでも、彼女は私を限りなく幸福にしてくれる」

この言葉は生き続けるでしょう。あなたは、敗者としてではなく、戦士として死んだのです。私たちはあなたの思い出を大事にします。同時にザビーネのことを決して忘れません。あなたの最高に素晴らしい成功のCDによって彼女を援助することができるでしょう。ペーター、私たちはあなたのそばにいます。同時に、ザビーネたちのそばにいます。私たちの唇にずっと残って、私たちの中で振動し続ける、歌のように。
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埋葬に関する記事から抜粋です。

「ペーターは勝利者タイプでした。最高に天才的な人のひとりでした。大きな成果をあげた成功したスポーツマンでした。時にはちょっとした革命家きどりの人でした」 馬に目がない、馬狂いだった。彼のハーレイには、リヒャルト・ワーグナーの顔が描いてあった。「でも、難病には勝てなかった」とサッソンは語った。

ホフマンの棺は赤とクリーム色の薔薇で飾られた。マンフレート・ユング、ハンス・ゾーティン、エッケハルト・ヴラシハ等、かってのバイロイトの歌手仲間が告別式に参列した。

高名な歌手は、晩年は、三番目の妻ザビーネと幼いローラ・ゾフィと共にフィヒテル山地で引退生活を送っていた。ペーター・ホフマンは月曜日、生まれ故郷であるボヘミアのマリエンバートから遠くない、深い雪に覆われたヴンシーデルの墓地で安らかな眠りについた。

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Jörg Völkerling
スターテノール、ペーター・ホフマン(享年66歳)への最後の別れ:先週亡くなった歌手は、月曜日、オーバーフランケンのヴンシーデルで、近親者によって埋葬された。

100人以上が墓地教会の告別式に集まった。その中にはミュージカルの舞台「オペラ座の怪人」で共演したアンナ・マリア・カウフマンもいた。

ブナの木の質素な棺はその朝、ヴンシーデルの聖三位一体墓地教会の墓地の聖堂外に安置された。

12時51分、白のアノラック姿の未亡人のザビーネが紫色のアノラックを着た娘のローラ・ゾフィーを連れて教会に来た。

12時55分、ホフマンの前夫人デボラ・サッソン。13時4分、6人の担当者が棺を聖堂内に運び入れた。オルガンが演奏され、デボラ・サッソンが「アヴェ・ヴェルム」を歌った。

ホフマンは特定宗派に所属しなかったため、牧師(司祭)はなし。プロの司会者(Trauerredner)が弔辞を述べた。
「我々の心は苦痛と深い悲しみでいっぱいです。緑の牧場で家族と共に過ごすという彼の夢はかないませんでした。一人のヘルデンテノールと優しい父親が失われました。しかし、彼は、家族とファンの心の中に、生き続けるでしょう」

Trauerrednerは、未亡人に、庭仕事とか手仕事をして気分転換をすることを勧め、彼の死を悲しむ人たちが、お悔やみを述べた。その中にはバイロイト音楽祭でホフマンと共に歌った歌手達もいた。

その後、オペラ歌手のアンナ・マリア・カウフマンが壇上にあがった。
「人としてのペーター・ホフマンの友情に感謝します。私達は20世紀最高のドイツ人テノールのひとりだった人を失いました。・・・世界は彼の生前の業績を尊敬の思いで見つめます。この世界に生まれたものは、死にます。私達もまたいつか行くのです。でも、思いは死にません。私はあなたのそばに留まります」

前夫人デボラ・サッソン
「彼は、私がこれまでに出会った最高の天才のひとりでした。偉大な芸術家、勇敢な闘士、そしてちょっとした革命家きどりのひとでもありました。・・・三週間前にペーターを訪ねました。その時、彼は生きる意欲満々でした。・・・あらゆる方法で難病と闘いました。でも、たぶん、彼の人生の中で初めて、人は全ての闘いに勝つことはできないと感じてもいたのではないでしょうか」

最後にデボラ・サッソンはサイモンとガーファンクルのスカボロフェアを歌った。そして、棺は聖堂から運び出された。ホフマンの娘、ローラ・ゾフィーは激しく泣きじゃくっていた。母親が彼女を抱きしめていた。近親者たち、デボラ・サッソンとアンナ・マリア・カウフマン等が、激しく吹雪く零度の寒さの中、深い雪に埋もれた墓地へ、棺に従って行った。
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アルバム「ロック・ラシック(1982)」より

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関連記事:ウィーン国立歌劇場などへ観劇旅行なさったkametaroさんのブログ記事


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yokochan

おはようございます。
ホフマンの逝去をeuridiceさんのこちらで知りました・・・・・。

ショックで鳥肌が立ちました。
昨晩は何も知らずに、66歳のクラウスの声に酔いしれてました。
同じ66歳でも、神様は悲しい選択をされます。
ご案内の記事も感動的です。涙ぐんでしまいました。。。
今夜は帰宅後、ホフマンを聴かなくてはなりません。
神々に従ったホフマンにお祈りを捧げたいと思います。
by yokochan (2010-12-02 10:33) 

Sardanapalus

悲しいお知らせですね。数年前に「病状が悪化してきたようだ」という内容の記事を偶然ネットで見つけて心配していましたが、66歳ですか…きっと、溢れる才能に対して天が嫉妬したのでしょう。DVDとCDで彼の素晴らしいオペラでの歌唱が聞けるのがせめてもの救いでしょうか。私も今日は家にあるホフマンの録音を聞いて追悼したいと思います。
by Sardanapalus (2010-12-02 20:30) 

euridice

Sardanapalus さん

同じ病気でも経過は様々のようですね。バックトゥーザフューチャーのマイケル・J・フォックスは回復して映画出演するとか?年齢的なものもあるのかどうか・・・でも一般にこの病気そのもので死ぬことはないそうですから、きっとまだまだ闘病生活は続くだろうと思っていました。意外に早い終焉は、やはり悲しいけど、神の愛による「救済」であり「解放」であり「安息」だと思います。

録音や映像は、今までと変わることなく、そこにあるのですし・・


by euridice (2010-12-03 09:27) 

euridice

yokochanさん

苦難と無縁の平穏な人生など芸術家のものではない(もちろん苦難に耐えさえすれば、だれもが芸術家になれるということではないが)というような記述がバイオグラフィー(1983年)にあります。私がこれを読んだときは、もう「行方知れず」でした・・そして、その数年後には、あの難病だとわかりました。うまく言えませんが、やはりなんというかある意味、特別の人のような気がします。

http://www.geocities.jp/euridiceneedsahero/8320.html#watashiwa
by euridice (2010-12-03 09:35) 

ユキタロウ

う~ん・・・・最近の歌手の名前はサッパリ記憶に残りませんが、得難い声とともに、彼の名前を忘れることはないでしょう。

ただひたすら感謝・・・そして安らかならん事を祈るのみ・・・。
by ユキタロウ (2010-12-03 19:51) 

ペーターのファンです。

いつかは、と覚悟はしていましたけれど涙を止める術がありません。
あまりに悲しく言葉を失っておりましたが、こんなときにも情報提供してくださるeuridiceさんにお礼を申し上げなくてはなりません。ホフマンの人となりを過たず伝える貴重な追悼記事に慰められました。
あまりに長い闘病に神様の御手が安らぎをもたらしたものと思いたいです。ホフマンの素晴らしい声に感謝しつつ、ただただ安らかであることを祈ります。
by ペーターのファンです。 (2010-12-03 23:36) 

サンフランシスコ人

12/1(?)サンフランシスコの日本町で入手したニューヨーク・タイムズに死亡記事がありました。
by サンフランシスコ人 (2010-12-04 07:27) 

euridice

サンフランシスコ人さん
ニューヨーク・タイムズの記事、ネットにもありました。
by euridice (2010-12-04 20:36) 

euridice

ユキタロウさん
>得難い声
ほんとうに・・
出会えて幸運でした。
by euridice (2010-12-04 20:38) 

euridice

ペーターのファンです。さん

>素晴らしい声に感謝しつつ、
本当に素晴らしい出会いを与えられたと思います。

>いつかは、
そうです・・けど、こんなに早くに・・とは思っていませんでした。

>あまりに長い闘病に
弟さんも言っているように、「救済」だったでしょう。幼いお嬢さんは純粋に悲しく寂しいでしょう。奥様は複雑な気持ちかもしれません。他のご家族にとってはやはり「解放」だったかもしれないと思います。およそ20年認知症の母を見てきた経験からも、そんなふうに思います。

読みかじりの知識ですけど、パーキンソンには様々なタイプがあるようです。その中に、発症後、余命15〜20年ぐらいというタイプがあるとか。それは、発症 →ウェアリングオフ(薬の効き目が次第に短くなる)→disabledになる(薬が効かなくなる)→死亡という経過をたどるそうです。2001年のインタビューで突然「封鎖」が起こると言っていますが、これはウェアリングオフがはじまっていたのではないかと思います。数年前に薬が効かなくなったというのをどこかで目にしました。別のタイプには、普通の平均寿命まで生命には別状ないというのもあるそうです。マイケルJフォックスの場合は回復したという記事も目にしました。

それにしても、50歳での発症、ということは40歳ごろから潜行し初めていたわけです。不調が多くなったのもこの病気が原因に間違いないでしょう。悲劇的です。でも、そんな時期に入ってからも、たくさんの素晴らしい仕事を残してくださったこと、感謝です。


by euridice (2010-12-04 21:13) 

YUKI

ご無沙汰していました。
先程、こちらへ来て彼の訃報を初めて知りました。
正直なところ、非常にビックリしましたね。

多彩な才能を生かして活動して、晩年は病魔と前向きに闘っていたホフマンですが、残念です。

先日は「スター・ウォーズ」の監督アービン・カーシュナーが亡くなって淋しさを感じていた上にスターテノールのホフマンまで亡くなってかなり衝撃を受けました。

ご冥福をお祈りいたします。
by YUKI (2010-12-06 10:33) 

euridice

YUKIさん
こちらこそ。コメントありがとうございます。
自分自身が年齢を重ねて、
身近な周りの人たちも、そして感動を与えてくれた人たちも、
次第に亡くなる人が増えていく時を迎えました。

当然のことと、わかっていることですけど
やっぱりさびしいものです。


by euridice (2010-12-07 10:46) 

ななこ

最晩年の生活の詳細を読ませていただき、雪深い中での埋葬の写真を見せていただいてると寂しさが募ります。

暖かい小さな一家は自然豊かな農場に引っ越したばかりだったのですね。
ウサギやニワトリや羊たちに囲まれて心豊かな生活を始めようというはっきりとした目標を持っていたのですね。
それまではホフマンの寝室が2階にあって、移動のたびにザビーネは支えなければならず大変だったのでしょう。
ホフマンのベッドが1階の一家の団欒の中心に置かれ、みんなほっとしたことでしょう。
幼いローラ・ゾフィーはママがだめと言っても、パパのベッドによじ登り抱っこをせがんだのでしょうね。
体調のよいときは本当に親しい人たちが訪れ楽しい会話も弾んだようですね。

こうした情報を見せていただくと、手の届かない偉大な歌手の晩年の様子が身近に感じられ悲しみもとても身近に感じてしまいます。
残された人たちの幸せを祈らずにいられません。

by ななこ (2010-12-08 11:35) 

euridice

ななこさん
>残された人たちの幸せを祈らずにいられません。
そうですね。特に幼いお嬢さん、幸せに育ってほしいです。
by euridice (2010-12-09 09:18) 

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