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13章 ルネ・コロ -2/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ -2

 コロの仕事に対する姿勢は、自発性と抑制、穏やかさと信念、実際的冷静さと情熱などをないまぜに反映している。彼は、一方では、センチメンタルなところのない現代人であって、全ての成功は芸術家に犠牲を強いている。スターに多大な要求するもので、有名になること、賞賛されることは、表に現れない重労働という犠牲と表裏一体である。と冷静な率直さで断言する。しかし、同時に、繊細で柔軟な彼は舞台への畏敬の念を打ち明ける。舞台負けからアドレナリンを引き出せない者は舞台で説得力のある雰囲気を創り出すことができない。私も内心舞台ではあがる。決してそれを見せないだけだ。 そして、謙虚に付け加える。私は何かにつけてとても運がいいと思うことがあります。コロの実存的人生観と芸術に対するロマンティックな観念は明らかに対立している。宗教について、イムレ・ファビアンImre Fabianにこう語った。教会の言うような意味では神を信じていません。存在することは間違いない、私たちにはどうやったって永遠に説明がつくはずのない、超自然的な力は信じます。そして、その力と自分の関係を明らかにするかのように付け加えた。芸術の実践は、愛の神へ至る道です。彼はさらにもうひとつの信仰を告白する。私は魂のよみがえりを信じています。しかし一方で、録音によって永遠性を獲得しようという考えにとらわれず超然としていることで、復活への希望を抑えているかのような発言をしている。死んでしまえば、・・・人間としても、芸術家としても忘れられるでしょう。再現芸術からは数十年後何一つ残りません。 コロはヘルデンテノールの中で、もっとも録音の多い者の一人であるから、これは彼の矛盾した発言がまたひとつ増えたに過ぎない。ここでもまた、悲観主義と楽観主義が衝突している。つまり、(録音は有益であるという)現実的な考えと理想主義が対峙している。
 それでは、コロの個人的かつ芸術的生き方にある多くの逆説を、どう説明すればよいのだろう。あるいは、なんとしても説明しなければならないことだろうか。この現代の主要な芸術家を理解するための最も簡単な方法は彼自身の発言に耳を傾けることではないだろうか。私は自分の人生を好きなように生きる。未来に対する責任感はない。 こうコロは宣言する。しかし、責任感というものをまったく持たずに、コロが彼の芸術にすでに与えたものを与えたり、彼がすでに達成したことをやり遂げたりすることは不可能である。コロの直感力の中では、言葉の定義がおどろくほど独立しているだけなのだ。このテノールが非常に独特のキャリアを築いたのは、その猛烈に大胆な独立心に負っていることは間違いのないところだ。
 うわべの軽卒さ、率直さ、ぞんざいさなどを超えたところに、その人の全体像を知るために絶対不可欠な部分である芸術的な心が存在する。イムレ・ファビアンの言葉を借りれば、
 全く少年っぽい自然さを備えた、光を放つ、単純な人です。全然スターらしくありません。偉大な芸術家特有の知的な能力を感じさせると同時に、ごく自然に人生を愛している印象を与える人です。そこにいるだけで、『友よ、人生は生きるに値するよ!』と言っているように見える人です。

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 多くの評論家や声楽史の専門家は、コロを「本物のヘルデンテノール』と考えていない。その声は、暗さが足りないと彼らは言う。その音色は多少色合いに欠け、音程は優れており、焦点も合っているが、声は小さく軽い。極端な大劇場では、聞こえないことがある。それにもかかわらず、コロには、独特に再定義された英雄的性質に加えて、スタミナがある。これが、hochdramatisches Fach(高度にドラマチックな役)で彼を成功させている原動力である。
 軽めの英雄の役柄を歌う真のテノール echt Tenor のコロは、彼の偉大な先輩ヴィントガッセンより自然な抒情的な声(a naturally lyric voice)を持っている。美しい、透明な、甘い響きを自由に操り、声区間を切れ目なく移動し、心地よいハイCを含む声域を駆使し、最弱音と弱音の微妙な違いを際立たせて、広範囲にわたって使うことができる。発声とフレージングは明らかにbel canto(ベル・カント)の伝統に従っているし、その優雅なlegato(レガート)は、本質的にドイツの直線的なスタイルでありながら、前の時代の流麗さと伸びやかさを保っている。

 コロの場合、彼の朗唱力は、それ自体、必ずしも最強の部分ではないけれど、その並外れた音楽性に、傑出したディクション(diction)と、歌詞の知的な発音が加わる。コロの演奏に何よりもうっとりさせられるのは、むしろ音の響きの美しさ、優雅な音楽性と、大抵の場合、演劇的説得力の強さによる。
 コロは、本来オペレッタに理想的だった声を、その生来の柔軟性を保持しつつ、より暗く、より劇的な声へと育てることによって、驚くほど多方面に渡る幅広いレパートリーを確立した。テノールはまた、スタイルの柔軟性を保持するために、ドイツ・オペラ、イタリア・オペラ、フランス・オペラ、そしてロシア・オペラにおいて多様な役を維持しようとしている。彼は言う。

 ドイツ・オペラの役はイタリア・オペラの役とは別の歌い方をしなければならない。これはドイツ・オペラの役は怒鳴らなくてはならないという意味ではない。ドイツ・オペラの役も、美しく歌われなければならない。ただ、イタリア・オペラとは技術的に全く違うアプローチをしなければならないということだ。

 実にコロは、多く人が弱い叙情的な声として最初から排除したかもしれないものを、無理をせず、厳しく限界を守り(私はもっぱら生の声に頼っている)、潜在能力を開発し、信じられないような使い方をし、持って生まれた素材を音楽性と鋭い知性によって磨きあげたのだ。J.B.Steane がコロについて語ったところによれば、歌手、ルネ・コロの喉のすばらしさの源は、正しい場所、つまり、彼の頭の中に置かれている のだ。コロの場合は、その声がヘルデンテノールの偉業を成し遂げたのは、困難を乗り越える意志の勝利だと屁理屈をこねる人もいるかもしれない。私はむしろクルト・ホノルカ(Kurt Honolka)の、コロの声は、bel canto(ベル・カント)のワーグナーの可能性を示す魅力的な例だという判断に同意する。

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 ルネ・コロは俳優として少なからぬ評判を得ている。実際、彼の演劇的な才能は、登場人物の心理的探求と新世代の演出家の作品に供されるべき、戦後世代のヘルデンテノールのものである。若々しく美しい外見は、柔軟な動きと繊細な表情表現と共に、間違いなく彼の長所である。絶好調の時は、徹頭徹尾意図的な、完璧にリハーサルされた、深い感動を与える、観客を瞬時にして反応させる描写ができる。大体において、彼のトリスタン、ジークフリート、タンホイザーは繊細な陰影をもつ、極度に綿密な、不朽の人物描写として認められている。コロは、演出家に好感を持っている場合、演出家の意図を高度に実現できる。シェローは「リングの経緯」の中で、ジークフリートを創造する際のコロとの知的な議論と、納得した指示に対するコロの積極的な対応について、述べている。コヴェントガーデンでのローエングリンの成功した共働のあとで、モシンスキー(Elijah Moshinsky)はコロについて、以下のように述べた。 コロは強権的な演出をひどく嫌う。彼は創造的なアイデアの交換を生き甲斐にしている。彼は極めて協力的であり、決して自分の立場をかさに着るようなことはなかった。

 一方、共感できない演出だと、精彩を欠くことは有名だ。ヘレナ・マテオプーロス(Helena Matheopoulos)は、著書 ディーヴォ(Divo)で、コロは、舞台で、自分の周囲で起こっていることに対して、明らかに無関心で、いわゆる無感動(apathy)に陥っているように見えることがままある との観察を記している。

  気乗りしない公演の場合に限らず、ひとつの上演中においても終始一貫した関わり方をしていないという興味深い癖も観察されている。その好例が録画も録音もあるあの有名なバーンスタイン指揮によるウィーンのフィデリオである。フロレスタンとしてのテノールには、観客が深い感動の渦に巻込まれる、髪の毛が逆立つほどの最高の強烈さを示す瞬間があるが、奇妙におざなりな演技をみせる舞台から撤退したかのような瞬間がある。後者のような瞬間は主として他の歌手が歌っているときや、音楽的要求が、納得できる演劇的一貫性をしのいでいるようなときに起こる。例えば、地下牢の場面を締めくくる喜びにあふれた二重唱で、それまで見せていた肉体的に衰弱した様子を放棄して、力強い歌唱と身振りを優先する。別の時には、激しい飢餓状態を演劇的に表現するのを忘れて、レオノーレとロッコの二重唱の間、いかにも冷淡に、彼らとは無関係という感じで立っている。また、別のところでは、いわゆる紋切り型の一般化されたオペラ的な身振りに頼っている。だが、ピツァッロと対決するアリアを歌う時には、音楽、歌詞、身振りの全てが調和して進むばかりか、それを超えて、完璧に登場人物と同化した説得力あふれる人物像が伝わってくる。

 コロが演劇的な強度を終始一貫して維持するには、シェローやポネルのような演出家に触発されること、あるいは、バイロイトでの、1976年のリングや1981年のトリスタンのときのような、たっぷりと時間をかけた、創造的で共同作業的なリハーサル期間が不可欠なのかもしれない。最近、コロが、ますます仕事を選ぶようになり、また、共感と自負を感じうる人物の性格描写に一層専心するようになったのは、おそらくこういう理由ではないだろうか。なぜなら、全てが心にかない、意気投合するとき、ルネ・コロは忘れられない音楽劇の夕べを提供することができるのだから。そして、彼の24年の舞台の中で、こういう公演が無数にあったのは確実である。
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 ルネ・コロは、音楽に関する見解や、現代におけるオペラの仕事に関して遠慮のない発言をしている。自分自身の声の特性に関する厳然とした自覚によって、また、本来抒情的な(lyric)声を、リリックなレパートリーとドラマチックなレパートリーの両方に使用していることに対する防御の必要から、コロは現代の歌手が陥りがちないくつかの危険を避けるべくベストを尽くしている。歌手というものを理解しない指揮者、音響効果の悪い環境、大急ぎの長距離移動、言い尽くされていることだが、「あまりにも多く、あまりにも早く歌うこと」といったことの危険性を強調しつつ、年間、平均50回の出演のうち、オペラはおよそ30公演に限定するように注意している。彼は重いワーグナーとシュトラウスの役と、より軽く、叙情的な役のバランスをとるという観点から、レパートリーを選んでいる。また、音響をコントロールでき、最高に結果が得られるという理由で、かなりの時間を録音スタジオで過ごしている。
 ヘルデンテノールの分野について質問されたとき、コロはこう答えた。ヘルデンテノールはヘルデンテノールに生まれついているのではありません。ヘルデンテノールはこの役を歌うための種を持っているかもしれないが、リリック・テノールとして出発するのです。その後、無理したり、声の使い方を間違えたりしなければ、本当に種をもっていれば、徐々にヘルデンテノールに育っていくわけです。 コロの場合は明らかにこの通りだった。コロは32歳にして、ワーグナーの小さな役を歌いはじめ、ゆっくりとこの巨匠の高度にドラマチックな全ての役をひとつずつ付け加えて行ったのだ。トリスタンに取り組んだ時には、40歳を過ぎていた。 メルヒオール型のヘルデンテノールは絶滅種です とコロは言う。同時に彼は、この種であることを測る新しい指標を、皮肉を込めて提示する。

 あるテノールがワーグナーを歌って、どんどん音が大きく、分厚くなるオーケストラも舞台上の歌手たちに全くとんじゃくしない指揮者をもものともせず、そして、徐々に、自分の声を聞かせることができるようになったとき、彼はヘルデンテノールなのです。

 よく通る声とワーグナーの役でそれ自体が持つ本質的な輝きを発する明るい音色によって、こういう芸当をコロは確実にやり遂げた。声が存在しなというのは正しくない。声は存在するし、これから先もずっと存在しているだろう。しかし、同時に彼は注意を促す。こういった繊細な声は、将来のために、ゆっくりと、注意深く、そして、あえて言わせてもらえば、愛情を込めて、育成されなければならない。

 しかし、コロは時にオペラの将来に絶望する。オペラ界はまさに死んでいる。私たちは博物館を存続させている と、彼は嘆く。オペラで、価値のあるレパートリーはせいぜい80か90しかないと断言する。この作品不足の中で、このジャンルが生き延びるためには、古いオペラの新たな解釈が不可欠だ。コロは、この創造的な再解釈のうちに、新鮮な発想によって、観客に触れ、彼自身の芸術家魂を育む機会を見い出す。彼としては、毎度同じ八つないしは十の役(たいていワーグナー)を何度も繰り返し、要求されるという事態は気にいらないのであって、もっと変化に富んだ仕事をするのが好ましいといつも思っている。しかし、彼はあきらめの境地で、付け加える。今日、世界中さがしても、トリスタンは多分五人しか存在しないだろう。
 それでも、コロはワーグナーの専門家としての需要の多さにもかかわらず、公演の数、条件、場所に関してヘルデンテノールの分野には制限を設けるようにしている。こうして、彼は、非常に幅広い音楽的体験を含む息の長いキャリアを築くことに成功している。

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 ルネ・コロのキャリアはポップス歌手として始まったのだが、このレパートリーにおける彼の才能のサンプルは彼の選集であるPortraet eines Weltstars(ある世界的スターの肖像)の残されている。ここではSchlaeger(流行歌)の他に、ドクトル・ジバゴのテーマや、エーデルワイズを、優れた発声法と、洗練された繊細な感受性と、旋律に対する感嘆すべき感覚で歌っている。しかし、この選集の中でも最高なのは、自由にアレンジして、英語で歌っているバーンスタインのマリアである。オペラのような歌い方ではない。まさに、それはマイクを口元に近付けて、ほとんどささやいているが、若々しい情熱を表現している。このレコードは、キャバレーで好んで歌われるロマンチックな歌に対するこのテノールの好みのショーケースになっている。
 コロのオペレッタにも優雅さと軽さに対する同様の繊細な感受性がはっきり表れている。彼はそのキャリアにおいて、このジャンルで、非常に多くの役を演じ、録音しており、オペレッタ史におけるテノールのなかでも非常に優れたオペレッタらしいスタイルを示している。屈託のなく旋律を表現する才能、明るく、柔軟で、よく通る声、情熱的な音楽的力強さなどが、このレパートリーにおける彼の適性を決定付けている。彼のメリー・ウィドウの録音は、ハロルド・ローゼンタールの意見によれば、彼のマイスタージンガーよりよかった。先に挙げた選集にも六つの有名なオペレッタのアリアが入っているが、ぞくぞくするような音楽性と生き生きとした性格描写が伝わってくる。ミレッカーの 乞食学生からの 言うべきか黙っているべきかの新鮮な歯切れのよい発声、同じ作品からの  私は一文無しの陽気さ、レハールのフレデリケからの 娘さん、娘さんの輝かしいレガート唱法などはこのテノールの技術を物語る好例である。
 このレパートリーの全曲録音、ロシアの皇太子 Der Zarewitschこうもりもオペレッタの聴衆を引き込む才能の例証となっている。レハールの作品(Eurodisc 共演はルチア・ポップ)は気のきいた粋な演奏で、コロは彼の音楽的優雅さ、熟練したダイナミックなコントロール、美しい発声などを示している。コロはこのレパートリーでは、ジークフリート・イェルザレムのように、勇ましかったり、「ヘルデンテノール風」だったりはしない。むしろ、最弱音やふわふわした感じの頭声を多用して、名状しがたいスタイルを目立たせ、甘くとろけるような音を作り出している。ヨハン・シュトラウスの最高のオペレッタにおけるアルフレートとして(舞台ではアイゼンシュタインもうたっている)コロは、明るくこっけいで気のきいた演奏を披露している。ユリア・ヴァラディ、ルリア・ポップ、ヘルマン・プライと共演したドイツ・グラモフォン、カルロス・クライバー指揮のこの録音を、ヴィントガッセンがキャリアの終りごろにこの作品にちょっと手を出しているのと比べてみるとよい。この年配のテノールは驚嘆にあたいするテクニックを駆使して知的なアルフレートを歌った。それに対してコロは音楽のために生まれた者の喜びと気楽さで歌う。彼の性格描写からは、ロザリンデを征服して悦に入る救い難いほどの魅力をもった悩殺的誘惑者が創り出される。無邪気さの中にある悪意が暗示されている。絶対に納得させられるアルフレートがいる。
 第一幕の二重唱、Trinke, Liebchen, trinke schnell は本物のコメディ感覚で軽く歌われる。Gluecklich ist, wer vergisst は、豊かで、暖かい、官能的な色合いがある。これこそはシュトラウスの楽譜のもつ旋律的息づかいに完全にふさわしいものだ。コロは一貫して確かなリズム感と驚くほど陰影に富んだ表現を維持している。遊びの感覚を失うことなく、共感が持てると同じぐらい悪魔的なところのあるアルフレートを創り出している。コロがかかわった全てのオペレッタに見られるのと同じように、この録音にも、コロのこのレパートリーをやるのに好ましい素質がはっきりと表れている。このジャンルのこうもりでもその他の作品でも、コロの声にはきらめくようなシャンパンの泡立ちがある。
 コンサートの舞台でも、コロは特別の輝きを放つ存在感があることを証明している。その明るい、本物の響き故に、オーケストラと共演するソリストとして好まれ、コンサートの標準的レパートリーを幅広く歌っている。その中には1972年のレナート・バーンスタイン指揮、ボストン・シンフォニーとの オイディプス の公演のような冒険的な現代作品も含まれているし、歌曲 のコンサートもたくさん行っている。ワーグナー・リサイタルのレコードに関する批評で、評論家のロドニー・ミルンズが、コロの声は、音色の多様性とダイナミックさが欠けており、音符にたいするむとんちゃくさが見られる と批判したことがあるが、歌曲の歌手としてのコロの演奏には、このような欠点は全く表れていない。例えば、1982年の Irwin Gage ピアノ伴奏による、ヴィーゼンドンクの歌 の録音は、印象的である。コロがリサイタルの常道を心得ており、こういうレパートリーにおいて不可欠な、最弱音と弱声の部分のつむぎ方、歌い回しのち密さ、優雅なロマンティシズムといった
繊細で微妙な音楽性を提示できるということを示している。この歌曲の、Schmerzen(苦悩)もTraeume(夢)もどちらも珠玉である。後者は神秘的な非常に美しい弱い三連符で終る。
 コロのコンサート・レパートリーのうちで、もうひとつ有名な録音は、1975年のヘルベルト・フォン・カラヤンとの、マーラーの 大地の歌 の三つのテノールの歌である。コロの歌い方は、劇的ではなく、より叙情的で、ジェームズ・キングの演奏の勇ましさとは際立った違いがある。Das Trinklied von Jammer der Erde は、低めの調子で歌いはじめるが、この音楽に存在する美しさと残酷さの融和を、彼の声は捕らえている。コロとカラヤンは、オーケストラと声の進行に揺れるような動きを取り入れて、歌手の酩酊状態を示している。コロは弱声から強声までのクレッシェンドを繰り返すが、これは酔っぱらいの千鳥足を彷佛とさせる。この世に倦み疲れた賢者の静かだが断固とした述懐のうちに歌を締めくくる。Dunkel ist das Leben; ist der Tod.(人生は闇であり、それは死である) Von der Jugend と Der Trinkene im Fruehling  は、二人にとって、だまされたように軽い雰囲気の歌だ。この一連の作品の他の箇所で同じように、頭声や falsetto(裏声) までを、相当多く用いて、この作品の持つ、異国的な雰囲気をとらえている。三つ目の歌では、音階は思ったほど新鮮に響かず、内面から湧き出る音楽性よりは、研究効果というものを感じさせられる。それにもかかわらず、コロはマーラーの皮肉な音楽に対する確かな解釈を示している。彼は、この作品にある深い絶望感を無視して、肉体的酩酊感が生み出す激しいよろめき感を強調している。しかし、この録音はコロの初期のオペラ的な声の優れた見本でもある。コロのキャリアの初めには、純粋に甘い音色の、透明な叙情性が、その声の極めて顕著な特徴だったのだ。暗めで劇的な傾向は後に加わったのである。
 キャリアの初期に、コロは非常に多くのフランス・オペラ、イタリア・オペラ、そしてロシア・オペラの役さえも、たいていはドイツ語訳で歌った。こういうものから選んだものが、Portraet eines Weltstars(世界的スターの肖像)の一枚目に保存されている。コロのイタリアやフランスのクラシック音楽の解釈はどれも似通っている。そして、だれもが、彼がワーグナーの諸役でやるような、そんな種類の個別的な性格描写を、ヴェルディやプッチーニやマイヤーベーアでもしてくれることを望んでいる。例えば、トロヴァトーレの Ah si, ben mio は、明るい響き、なめらかなレガート、軽々と出す高音、柔軟な華やかさといった、純粋に音楽的観点からは非常によく歌われているが、マンリーコに必要な火のように燃える激しさが欠けている。Nessun dorma  も本当にトランペットのような最後のハイCは、コロの高音に対する才能を示しているが、これもまた、性格描写が不十分である。修業時代に度々歌ったオペラである 蝶々夫人からのピンカートンの Addio, fiorito asil  はコロの最良のものである。ここで、プッチーニのメロディー・ラインの屈託のなさとそれを支えるのに必要な深い感情のほんとうのに感覚が表現されている。一番最近に加わったイタリア・オペラの役は1988年2月にフランクフルトで歌ったオテロである。種々雑多な批評が制作コンセプトをそれとなく問題にしていた。コロは、声の威力とスタミナで観客の心を奪ったが、このオテロは何の感銘も与えなかった。それはコロがほとんどタッチしなかったためと、なお悪いことに、没個性的に歌ったためである。 それでも、コロは確かに、独特のドイツ系ムーア人を創造した偉大な先輩、ヴィントガッセンの後に続く可能性を持っている。だから、だれもが、この役でコロが成熟するのを楽しみに待っている。
 コロのフランス・オペラの様式を録音で知ろうと思えば、マイヤーベーヤのアフリカの女からのおう、パラダイスを聞けばよい。これは1981年の録音でかなり成功している。その響きは鮮明で良く通るが、マックス・ローレンツの持つ劇的な勢いや、レオ・スレザクの信じられないほどの高度な技巧には欠けている。フランス・オペラでも、特にグノーやマスネのロマンチックな作品には、コロの興味をひかなかった。コロはこういう作品は、あまりにも甘ったるく感傷的すぎると思っており、ビゼーのカルメンのような、声だけでなく演劇的な手ごたえのある、ドラマチックな作品のほうを好んでいた。コロはドン・ホセを今までにかなりの回数歌っており、この人物を、ジプシーに無頓着なラテン系の人とは全く相容れない道徳感を持つ北方人的タイプにしてしまっている。
 コロはまたロシア・オペラも舞台で演じている。1973年にソ連への客演と西ベルリンで、ボロディンのイーゴリ公のウラジミール、1978年ケルンでのチャイコフスキーのエウゲニー・オネーギンの大成功だったレンスキー、1983年、ウィーンでの スペードの女王 でヘルマン。彼はこれらのオペラについて、演劇的な手ごたえを感じられる場だと考えている。

 しかし、コロのキャリアの中心ななんといっても広範囲にわたるドイツ・オペラの諸役である。ワーグナー以外では、タミーノ(魔笛)、ティート(皇帝ティートの慈悲)を歌ったモーツァルト、ベートーベン、ウェーバー、ダルベール、リヒャルト・シュトラウスなどである。これらのなかで、フィデリオのフロレスタンと魔弾の射手のマックスの二つの役は最初からずっとコロのレパートリーに入っている。非常に感動的だと評判が高かったウィーンでのバーンスタインとのフィデリオだけでなく、コロはフロレスタン役では、非常に広い範囲にわたって肯定的な評価を得ている。最も最近のものとしては1987年にこの役で客演している。 V. Ehrensberger が批評を書いた。ルネ・コロによって、力強く、味わい深く歌われた。彼はこの公演で彼がドイツ人ヘルデンテノールの第一人者だということを確認させた。

 オットー・シェンクの演出による、バーンスタインのフィデリオは、コロには、たまに演劇的集中の喪失がみられたにしても、最高に優れた歌唱だった。テノールはあのアリアで彼自身忘れられないほどの歌唱を示す。彼は、Gott という言葉を、ものすごく弱い、ぞっとするようなpianissimo(最弱音)ではじめ、ゆっくりと、大きなcrescendoクレッシェンドに開放する。傷ついた動物の振り絞るような叫びで始まり、はじめて懐疑心に襲われた宗教的な人間の強烈な嘆きで終る。華やかに移行する部分は流麗である。音階は整然として正確である。最高音のBは軽々と出ている。最後の himmlische Reich は楽々として輝かしい。演劇的には、テノールは時々オペラの定石的な身体表現に頼ってしまうことがあるが、例えばアリアの終り近く、レオノーレの姿が熱にうかされた彼の空想から消えて行くとき、彼の目にはほんとうに涙が浮かんでいる、そういう瞬間もまた複数箇所存在する。
 このアリアに続いて、レオノーレとロッコとの会話があるが、コロの台詞は皮肉のきいた辛辣さと飢えによって完全に自尊心を剥ぎ取られた者の絶望感を伝えている。三重唱ではコロの声が輝かしく鳴り響くが、初めにに彼が示していた身体的衰弱からすれば、多少元気するぎるかもしれない。トランペットがピツァッロの登場を告げるとき、テノールは、Ist das der Verbote meines Todes? (あれは私の死の宣告か?)と叫び声を上げる。 それは、パニックの襲われた者の叫びだ。傷つきやすく繊細な人間らしい叫びだ。他の一部の歌手たちほどの気高さはないけれど。ピツァッロが脅しながら迫ってくるとき、コロのフロレスタンは壁で身体を支え、もがきながら立ち上がり、恐怖と死を喜び迎える思いとが入り交じった気持ちで彼に復讐しようとする男と対峙する。レオノーレが割って入ると、彼は、まるで彼女を盾にするかのように、彼女にしがみつく。これもまた、彼の身体的、精神的弱さを強調する身振りである。しかし、トランペットがドン・フェルナンドの到着を告げるとき、コロは再び目をみはるような演劇的ひらめきを見せる。彼はレオノーレのうなじに頭をうめて、まさしく本物の安堵感で、涙するのだ。
 O namenlose Freude の二重唱は、心からの敬虔な感謝と二人の愛の再生の若々しい喜びのうちに輝かしく歌われる。コロのダイナミックなコントロールはすばらしい。そして、彼とグンドラ・ヤノヴィッツはこの部分を非常に音楽的に表現する。フェルナンドの前にレオノーレが鍵を手に現れ、夫の鎖をはずすとき、このフロレスタンは大きく目を見開き、少年のような畏敬の念で彼女をみつめ、 彼女の肩に頭をうずめるという感謝の身振りをする。その後、彼は時間きっかりに立ち上がる。彼女が泣きはじめると、彼は自分自身の苦痛を忘れて、彼女を慰める。一瞬二人は互いに親しく抱き合うとすぐ、このフロレスタンは囚人たちと喜びを分かち合うために、囚人から囚人へと走り回る。終幕の合唱は歓喜にあふれ、フロレスタンとレオノーレは感動に酔いしれているように見える。それにしても、歌唱ははちきれんばかりに感激的で、歌唱こそが劇場で聴衆がこの公演に熱狂的な大喝采を与えた大きな理由だったことは間違いない。
 コロのフロレスタンの人物描写には時々当惑させられる。彼はおおかたは本当に、牢獄につながれ、酷い扱いのせいで無気力になり、飢えに苦しめられている衰弱した人物に見える。彼は多くのフロレスタンに比べて受動的で、レオノーレの大きな力に臆面もなく依存している。しかし、この弱さは、身体的にも感情的にも終始一貫していない。問題点の一部は録画映像にも見られる。この公演におけるコロの人物描写は、熱意と洞察力が分離する瞬間が、精神的持久力に取って代わるせいで、焦点が定まらないように見える。
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