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12章 ジョン・ヴィッカーズ [WE NEED A HERO 1989刊]

12章:多様化
シャーンドル・コーンヤ、ジェイムズ・キング、ジョン・ヴィッカーズ
ジョン・ヴィッカーズ

   ジェイムズ・キングとまさに同時期に活躍したジョン・ヴィッカーズは、英雄的テノールとして国際的に認められた最初のカナダ人になった。ジェス・トーマス、ジェイムズ・キングと同じように、彼は同胞のために道を拓いた。1926年10月26日、プリンス・アルバートの大家族に生まれ、保守的な原理主義的キリスト教徒として育った。貧しい学校長だった父親は、子ども達を職業倫理を大事にし、神に対する義務を信じるように教育した。
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   この本で取り上げた全ヘルデンテノールの中で、ヴィッカーズがもっとも率直に物を言う人物のひとりであることは間違いない。とりつくろうことなく自分の見解を表明し、自らのキャリア形成に際して妥協しない。5フィート9インチのたくましい体格。妻と五人の子どもたちとカナダ西部の人里離れた場所にある農園に住んでいる。テノールにとってここは、国際的なスターの地位に伴う厳しく、時には、不快な義務からの避難所なのだ。ヴィッカーズは家にいるときは農場生活をしている。ここで、自分の手をつかって仕事をし、土を耕し、木工を楽しみ、ポール・ティリッヒといった宗教哲学者の著作を読んで過ごすことが彼に満足感を与える。歌っていないときはここに引っ込んで、全てのパーティー、そして、ほとんどのインタビュー拒否を貫いている。この安住の地から出る時はすなわち、舞台に立ち向かうときなのだ。彼にとって、舞台に立つことは倫理的聖職であり、またそうでなければならないものだ。舞台から旧約聖書の預言者的確信を持って強烈な叫び声を浴びせるのだ。
(中略)

 彼の芸術における完全主義は当惑するような極端な行動をとらせることも少なくなかった。 1975年ダラスでヴィッカーズは死に瀕したトリスタンとして舞台に横たわっていた。観客のざわつきと咳が彼の集中を著しく妨げた。彼はいきなり起き上がり背筋をピンと伸ばすと、「Shut up your damned coughing!」と、観客を怒鳴りつけ、指揮者のニコラ・レシーニを仰天させた。そして、すぐに落ち着き払って、その烈しさで名高い演技に移った。 そして、「私が四時間半もの間、咳払いひとつせずに、やり通すことができるのなら、観客だって、咳などせずに静かに座っていられるはずだ」と悪びれもせずに主張した。この実力行使は当然のこととして正当化され、観客に対して有効に作用したが、同時にそれは舞台の魔法を解き、一瞬にして、彼の名高い演劇的資質が舞台にもたらしていたものが幻影だったことを暴いてしまった。だがまた、完璧に感嘆すべき職業的献身を証明するエピソードも少なくない。サンフランシスコでのある夜のこと。庶民的な移動手段、つまりバスを使って劇場に向かっていたところ、渋滞に巻き込まれてしまったテノールは、公演に間に合うように劇場に着くために走っていくので、バスを止め、自分の途中下車を許可するように運転手に断固として命令した。
  ヴィッカーズがおこりっぽかったのは間違いないところだが、彼の怒りの発作は全てきちんと説明できる主義主張によるもので、気まぐれが原因ではない。彼は、オペラのスター歌手というよりは、むしろ厳格な道徳主義者だった。彼はオペラを非常にまじめで神聖な、真剣な努力に値するもので、軽々しく受け止めるべきものではないと考えていた。彼にとって、舞台は聖餐式のように共同体としての意識を通わせ、説教し、回心する場所だった。「人生において意味のあることは唯一他者と深く関わることだという結論に達した」と彼は言う。
舞台こそが、ヴィッカーズをして、他者の人生とその感情に自分自身を内包させ、その人物をまとい、身につけて生きることを可能にした。彼は言う。「自分のことを、エンターテイナー(エンターテーナー entertainer)、人を楽しませる芸人だとは思っていない」彼は「パルジファルやリングに娯楽としての価値があるとは思わない」と宣教師的情熱を込めて、主張する。彼は世俗の富に奉仕し、強いドルを追い求めることを、彼のミューズ、音楽の女神を冒涜することとして、拒否する。そして、オペラ歌手は孤独であることを悲しみと共に受け入れ、自らの道、すなわち、自らの意志によって、荒々しく、堂々と自らの表現手段と個人的メッセージを信じ続ける道を行くことを選択する。
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