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13章 ジークフリート・イェルザレム -1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-1

 コロの主要な同僚のひとりで、コロと同じようにリリック・テノールの声質で非常に多くのレパートリーをコロと共有しているテノールが、ジークフリート・イェルザレムである。イェルザレムのヘルデンテノールとしてのキャリアをさかのぼると、十二年をちょっと過ぎたばかりのところである。その前に、彼はプロのバスーン奏者だった。彼は短期間のうちに、ペーター・ホフマンとルネ・コロに伍して、ドイツ物のレパートリーの大部分で、世界的名声を得るにまでの上昇を果した。
 イェルザレムは1940年4月17日にライン河畔のObernauserで生まれた。戦後の少年時代、彼は家庭で歌とピアノが主要な出し物であった音楽会を楽しんだ。彼は音楽教育を受けて、優秀なバスーン奏者になった。この楽器は、彼の父親が、主要なオーケストラの楽団員になりやすいだろうという理由で認めたものだった。これに対して、声楽はお金がかかりすぎるし、歌手という仕事はオーケストラ団員ほど安定していないという理由で、声楽のレッスンは受けさせてもらえなかった。
 フォルクヴァング学校(Folkwangschule)と大学での正式な勉強のあと、テノールはロイトリンゲン(Reutligen)のシュヴァーベン(Swabian)オーケストラに採用され、ここで1962年から、有名なシュツットガルト・ラジオ・オーケストラに採用された1971年まで、バスーンを吹いた。この間、イェルザレムは自分自身の楽しみのために声楽のレッスンを受け、度々、おじでオペラ歌手のヘルベルト・ベッカーHerbert Becker の伴奏をし、それによって、声との関わりと興味を持ち続けた。シュツットガルトのオーケストラの団員だったころ、バス歌手のマンフレート・シェンクが彼が歌うのを耳にして、本気で勉強するように励まし、教師として Herta Kalcher を推薦した。イェルザレムはシェンクの助言を受け入れ、バリトンのレパートリーの準備を始めたが、ヴォータンが歌えないということに気がついたとき、Kalcher夫人は代わりにジークムントを歌うことを提案した。イェルザレムの声質がテノールの声域に合っていることは明らかだったので、次の一年間ゆっくりと再訓練した。彼は、将来の展望のない歌のために安定を捨てるつもりはなかったので、その間もしばらくは、フルタイムのオーケストラ団員としての立場を維持していた。

video120n.jpgシュツットガルト・ラジオ・オーケストラがジプシー男爵(Der Zigunerbaron)の録音のために演奏していたある日のこと、イェルザレムが待っていたチャンスがやってきた。この話は、楽しいことわざ的な「一大幸運」だった。イェルザレムはこの話をするのが好きで、生き生きと話す。この録音に予定されていたテノールのフランコ・ボニゾッリ Franco Bonisolli が現れなかったので、プロデューサーは絶望的な気分だった。イェルザレムはクルト・アイヒホーン Kurt Eichorn を説得してオーディションのチャンスを得た。アイヒホーンは十分な感銘を受け、イェルザレムに対してこの仕事の契約を申し出た。そこで、イェルザレムはオーケストラでバスーンの演奏を続け、後でテノールの役をアフレコした。イェルザレムはあの時点で彼の声はAls flotter Geistの終りの高いCを自由に響かせるのに必要な音域ではなかったので、納得できる音程を歌うためにエンジニアとテノールは27回の録音したと打ち明けている。数年後、この企てについて冗談めかして、自分でもいらだたしくて、何度目かの失敗の後で、どんな具合に「くそ!」と呟いたかを話している。プロデューサーは優しくなだめて、それは十分手に入れました。とにかくその音程を歌ってくださいと言ったそうだ。
 それでも、出来上がった録音は、テノールが望んでいたオペラの世界への入場権を提供することになった。1976年には、シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ Silvio Varviso によるオーディションの後、シュツットガルト・オペラのいくつかの公演が提示されたし、アーヘンとハンブルク(ハンブルクではルネ・コロとのダブルキャストで交互に歌った)ではローエングリンとして客演した。ダルムシュタットではピンカートン(蝶々夫人)とアルヴァーロ(運命の力)も歌った。テノールは、伝統的な地方経由のキャリア形成をするには年を取り過ぎていることがわかっていたし、多忙をきわめながらも維持してきた二重の仕事は彼に損失をもたらしはじめていた。ほんの少しではあったが、成功に勇気を得て、オーケストラのほうは休暇を取り、ベルリン、ミュンヘン、ウィーンの大オペラ劇場で自分を試すことを決意した。
 1977年、イェルザレムは、バイロイトに招かれ若い水夫の役(トリスタンとイゾルデ)でデビューし、シェローのリングではフロー役を歌い、そしてコルンゴルトのヴィオランタとフロトーのマルタの録音を依頼されたとき、最終的に歌手になることに決めた。オーケストラ団員の職を辞め、国際的なオペラ歌手の道を歩みはじめた。
 1978年はテノールにミュンヘン音楽祭のローエングリンとして、ベルリンでタミーノ(魔笛)として成功をもたらし、1979年にはウィーンに、その後バイロイトにパルジファルとしてデビューした。1980年にはペーター・ホフマンと交互に歌うダブルキャストのローエングリンとしてニューヨーク・デビューを果し、その夏のバイロイトでも白鳥の騎士(ローエングリン)と純粋な愚か者(パルジファル)をこのドイツ人仲間と再び分け合った。
 イェルザレムは過去12年間、毎夏バイロイト祝祭劇場に出演し、ワーグナー好き達の気に入りの歌手となった。彼は自分は怠け者で学ぶのが遅いのだと自嘲的に言っているが、ドイツ・オペラの役を少しずつレパートリーに加えた。1981年にニューオーリンズでフィデリオをはじめて歌い、同年にベルリンで再び同役、それからベルナルド・ハイティンク Bernard Haitink の指揮で魔笛を録音した。それから、彼の同僚がピーター・ホール Peter hall演出、ゲオルグ・ショルティGeorg Solti指揮のバイロイト・リング、1983年の新演出のジークムントを辞退したとき、ジークフリート・イェルザレムは説得されて、舞台でこの重いテノールschwer Tenorの役に挑戦することになった。彼はウェルズングWaelsungの双児役で大喝采を受け、このプロダクションの三年間を通してこの役を演じ、ドレスデンでマレク・ヤノウスキ Marek Janowskiの指揮でこの役の録音もした。
 他のワーグナーの役は、1986年にコヴェントガーデンでエリック(さまよえるオランダ人)、バルセロナとバイロイトでシュトルツィング(マイスタージンガー)、1987年にメトのシェンク演出、シュナイダー・シームセン美術担当のリング(ジェームズ・レヴァイン James Levine 指揮で録音も)で初ローゲ(ラインの黄金)、そして、ハリー・クプファー Harry Kupfer演出、ダニエル・バエンボイム Daniel barenboim指揮で、大成功の初の若きジークフリートがある。
 だが、イェルザレムは、重めの劇的な役を引き受けるのは慎重であるべきだから、ワーグナー以外のものにレパートリーを広げ、幅広い抒情的な役を保有し、重い役との均衡をはかるべきだと考えていた。1983年以降、歌曲 Leiderの歌手としての名声も確立しており、いくつかのリサイタル録音があるし、加えてコンサートにも度々出演している。モーツァルトの役もいくつかやっている。例えば、イドメネオの題名役は1984年にジュネーブで、1988年から1989年にかけて、メトで歌った。イェルザレムは、録音によってもそのレパートリーの幅を広げてきた。例えばシバの女王 Die Koenigin von Sabaといった多くの無視されているドイツ・オペラを取り上げ、その魅力をよみがえらせた。
 将来の予定は一杯で、1988年から1989年にかけてだけでも、メトでローゲとイドメネオ、ベルリンでジークムント、パリでフロレスタン、バイロイトで両ジークフリートをどれも複数回。客演は、ヨーロッパとアメリカ全域にわたり、彼の才能が紹介されるや、彼に惚れ込む聴衆は増えるばかりである。ジークフリート・イェルザレムの歌手としての成功は、非常に短期間に確立した。彼の特有の本質的には抒情的なベル・カント的テノールの声でドイツ・オペラの相当多くのレパートリーをこなすことができたのは、そのよく考えられた慎重なキャリアの進め方のためだ。これを書いている現在、彼はまだ絶頂期にあり、声的にもなお成長を続けている。この注目すべき芸術家の将来にはまだ多くの発見と成果があることは間違いない。
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 芸術家、ジークフリート・イェルザレムを理解する鍵は、彼のしっかりと根を下ろした音楽的才能である。彼の充実した音楽教育と若いころの楽器演奏経験のキャリアは彼の歌唱スタイルと発声決定の基礎となった。彼のテクニックは安定しており、テクニックに対する信頼感は非常に高い。私が歌えるのなら、モーツァルトとワーグナーを一緒に歌えるということだ。両者に違いはない。 と彼は断言するが、これはある意味、彼の好みの普遍性と、声の他目的使用に関する洞察を示している。彼の声は生来英雄的ではなくむしろ抒情的であるという認識に基づいて、イェルザレムはレパートリーを慎重に構築してきた。常に自分の決定を再検討する余地を残すようにしている。例えば、1983年にインタビュアーに、ワルター・フォン・シュトルツィングが私が歌うもっとも重い役になるだろうと話した。しかし、1988年には、若きジークフリートを歌った。そして、彼の声が自然に暗く、重くなっている今、オテロとトリスタンでキャリアを締めくくりたいと話している。同時に、イェルザレムは、コロと同じように、「ヘルデンテノール」というレッテルに異議を唱え、ただのテノールであると主張し、あまりにもドイツのレパートリーに限定されることが多いテノールであることを遺憾に思っている。(イタリア・オペラの役が好きなのに、歌うチャンスがないのだと主張する)彼は、非常に幅広い興味を満たすために、非常に多くのリサイタルとコンサートを計画してきた。これは自由自在な選択することをかなえてくれるし、全部ワーグナーの役ばかりという重いメニューから声を護るのに役立っている。彼が自ら告白したところによれば、レパートリーに関する彼の好みは年々広がっているということだ。(若いころ、ワーグナーは好きじゃなかった)彼の好みは、今なお、クラシック以外のジャンルを含むまでには広がっていない。この点で、彼はコロとも、特にホフマンとは、違う。ホフマンがロックを歌うことについて、イェルザレムは好意的にではあるが、彼のように売れるロックなら少しは歌ってもいいかもしれないが・・・私の考えではこの音楽には表現するものがあまりにも少ししかないから、どっちみち、私には歌えないんじゃないかと思う。と率直に述べている。それでも、彼はインタビュアーに対して、自分の音楽を愛する気持ちは深く喜びに満ちており、あらゆる形式における音楽制作に対する尊敬の念はうそ偽りのないものであることを、急ぎ再確認した。
 イェルザレムが自らの職業について話すのに耳を傾ければ、それが彼にとっていかに重要かということがわかる。それにしても、彼が達成した驚異的な成功に関して、実際のところ、なんと謙虚で、なんと無頓着なことだろうか。彼は自身の栄達、あるいは、他の仲間たちとの競争を、露ほども感じさせずに話すことができる。いつだって主要なヘルデンテノールは少ししかいないものです。それどころか、彼はこんなふうに何気ない感じで力説することができる。
 ひとつの高音が100%正確に出ないからといって妨げられるなどということはありません。
 だが、その後に彼は、まるでそれが物凄く簡単に手にした成功だったかのように、付け加える。
 私の職業においては全ての音符を100%完璧に出すことではなく・・・むしろ全ての音符が総合的概念を表現することのほうが重要だ。つまり、役を心理的かつ演劇的に確実に理解し、音楽的に表現可能なように理解することこそが重要なのだ。
 イェルザレムの自分自身に対する期待は常に過酷であると同時に現実的である。おおらかさ、正直さ、穏健な知性、あけっぴろげなところなどが独特に入り交じり融合している。多くのオペラ歌手仲間ほど追い立てられているようにはみえない。彼は健全な精神を維持するためと、テニス、写真、ウィンドサーフィンの趣味を楽しむために、そして、ジェット機時代の歌唱を離れて休息するために、年に三度休暇を要求していることをあっさりと認める。より深い意味での安定と幸福をまもるために、彼は妻と二人の子どもたち、エーファとダヴィッドを常に一緒に移動させている。娘が学齢に達すれば、これは確かに難しくなることを認めながらも、いつもみんな一緒にいられるように家を借りるのですと彼は言う。
 そして、こういう単純で優れた感覚の考え方によって、イェルザレムは、その成功と人格の中心を成す分別や、ユーモアの感覚、自意識を維持している。このひとりの個人としての完璧な自然さと友好的な気のおけなさは、彼の芸術において、人間性の大きさを表現する際の、大きな要素である。ジークフリート・イェルザレムにあっては、人間と芸術家は同じものである。どちらも第一義的に人生と音楽に対する愛に深く根ざしている。
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 ジークフリート・イェルザレムは基本的な声楽的分類という観点からルネ・コロとの共通性が非常に高い。どちらも本質的に、モーツァルトやイタリアのベル・カント的レパートリーに適しているリリック・テノールである。それにもかかわらず、二人ともそのリリックな声に潜む可能性を探究する道を選び、声の成熟に伴って劇的な役の分野を拡大している。
 ドイツの伝統的用語では、ジークフリート・イェルザレムは軽めの英雄leichter Heldに耐える真のテノールecht Tenorである。いわゆる若々しい英雄jugendlicher Heldの音色を得て、イェルザレムはより重めのワーグナーの役の声質をうまく達成することができる。彼の声は、コロやトーマスといったその前世代の幾人かの歌手より、暗い響きと豊かな彩りを感じさせる。声の規模から言えば、イェルザレムの声は本質的に中規模である。だが、その独特の特質のおかげで、実際以上の重さと迫力を伝えることができる。イェルザレムの場合、キャリア開始以降、高音域も柔軟性を増してきてはいるけれど、中音域が最も強く豊かで変化に富んでいる。いきなり高いAの音をだしたり、あるいは、音域の転換点(passaggio:註、人間の声の音域の移行のこと、テノールの場合、E、F、G で中音域(胸声)から高音域(頭声)に移行する)に長く留まっているようなワーグナーの役では、イェルザレムは、多少、そこのところで喉が締められた音をだすことがある。尤も、声の成熟に伴い、年々気にならなくなっている。例えば、声に優しい、モーツァルト、コルンゴルトkorngold、ゴルトマークGoldmark、レハールでは、豊かでのびやかな声を出すのは、彼にとって何の問題もない。
 実際のところ、生来の資質にある限界はテノールのすべての歌唱の底にあるしっかりとした音楽理解によって見事に補われて、ないも同然である。イェルザレムの生来の音楽性と訓練によって身についた音楽的能力の両方が彼の歌には表れている。彼の発声は完璧だし、歌い回しは洗練されており、彼の起伏に富んだ躍動感は説得力があるし、彼のレガートは優雅で、めったに声を無理に押し出したりはしない。
 ステレオ批評 Stero Review誌は、1984年のシュトラウス・アルバムの批評で彼の声を正確に記述した。
 抒情的だが、疑いなくドイツの伝統の中で、彼はなめらかな歌唱を行っている。彼はすばらしい息づかいでフレーズを持続し、見事な様式感で、やわらかいメッツァ・ヴォーチェmezza voceを用い、真の音楽を見いだしている・・・
このような純粋に音楽的美徳に加えて、彼には優れた朗唱感覚がある。実際のところ、抒情的な声を劇的なものに変化させるのに役立っているものは、英雄的な歌い回しと歌詞の扱い方、そして、ぴっりっとした辛みのきいた語り口なのだ。
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