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14章 ペーター・ホフマン -7/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

イドメネオ、タミーノ、ネローネ、オルフェオ
マックス、バッカス、フロレスタン
リエンチ、タンホイザー

  しかし、ペーター・ホフマンが主として貢献してきたのは、ドイツ物のレパートリーだ。彼は、声楽の先生の言葉に従って、モーツァルト歌手としてキャリアを始め、ヴィントガッセン同様、モーツァルトも演奏できるということをはっきりと示した。声楽の先生が言ったように、大概の人々はヘルデン・テノールというのはただ大声で怒鳴ることができるだけだと考えているのだから、そうでないことを立証した。ペーター・ホフマンはリューベックの専属時代に、非常に難しい装飾歌唱のイドメネオ(モーツァルト「イドメネオ」)を歌ったし、同様に1972年から1980年の間に頻繁にタミーノ(モーツァルト「魔笛」)を演じている。1974年にペーター・ダネンベルク Peter Dannenberg はホフマンのリューベックでのタミーノをこう評した。この役に関して問題なのは、英雄的であると同時に抒情的なテノールを見つけることだ。ペーター・ホフマンはとにかく傑出していた。 また、シュツットガルト・ニュース Stuttgarter Nachrichten はペーター・ホフマンがいかにヴォルフガング・ヴィントガッセンの後継者としてふさわしいかというコメントの中で、1976年11月の公演について、ペーター・ホフマンの声はモーツァルト歌手としても十分な柔軟性がある・・・ ペーター・ホフマンは精神的表現と身体的表現の調和によって納得させる。と述べた。
   アラン・ロンバール指揮、キリ・テ・カナワのパミーナ、フィリップ・フッテンロッハーのパパゲーノ、ジョゼ・ヴァン・ダムの弁者などと共演した、ホフマンの最初の商業録音である、バークレイのレコードは、(これは合衆国での入手は難しい) ぞくぞくするような聴覚的体験をさせてくれる。ホフマンは欠点のない旋律線、明瞭な発声法を示し、隠された演劇的意味を感じさせる。ペーター・ダンネンベルクが観察しているように、ホフマンのタミーノは英雄的歌唱と抒情的歌唱の適切な融合を明確に表わしている。ヘルデン・テノールの重量感、ドイツ人の言うKraftが、極めて微妙な技術的熟練の基礎を形成しているのが感じられる。豪華絢爛、官能的な音色、力強い響き、しなやかさ、感銘を与える堂々とした声の規模、端正なフレージングとレガート、演劇的な説得力。 ホフマンはまた、このキャストのなかで、気取ることのないごく自然な対話、欠点のない発声と豊かで多様な音色をもった話し方などによって、自分を明確に特徴づける。ホフマンのタミーノは個性的で、感傷に陥らない。彼はこの役を若さ、優しさ、そして本物の王子らしさで満たす。また、タミーノを強い恋愛感情と情熱的な理想主義の持ち主として表現し、物語の人物を血の通った若者に変貌させる。この演奏の最高にすばらしい部分としては、Dies Bildnis(この絵姿)の喜びにあふれた英雄的な歌唱、タミーノのきっぱりとした勇敢さを明らかにする弁者との力強い対話の場面などが挙げられる。ホフマンのタミーノに耳を傾ける時、モーツァルトの非常に深い演劇的な意図を示す、表面的なものを超える精神的な気高さに気がつく。
   モーツァルトのほかに、リューベックで、モンテヴェルディのポッペアの戴冠ネローネを歌った。1973年、ペーター・ダンネンベルク Peter Dannenberg は再びホフマンを賞賛した。ペーター・ホフマンはその青ざめた、皮肉たっぷりの知的な雰囲気と磨き抜かれて、光を放つテノールの声で、ネローネにヘロデ王の疑い深い性格を与える。もうひとつの初期の非常に優れた、今から思えば珍品は、こうもり(ヨハン・シュトラウス作曲)のアルフレートである。この役は彼の喜劇的才能に対する興味を目覚めさせた。(そして、彼に舞台での身の毛のよだつような災難を経験させた) ヨハン・シュトラウスをやるのは好きじゃないにもかかわらず、1984年6月、サンフランシスコで、同じオペレッタで、デボラ・サッソンのアデーレ役に対して、アイゼンシュタイン役を歌うことを承知した。批評家たちは彼の演技はミュージカルとしてはむっつりと不機嫌な感じだと思ったらしいが、観客はこの夫婦のミュージカルのこっけいな演技が大いに気にいって楽しんだ。ホフマンがあまりにもたわいなくてくだらなすぎると思っているオペレッタにもうちょっと真剣な雰囲気を持ち込もうとしていたのに、批評家たちは気がついたのに違いない。
   ホフマンはワーグナー以外では、ドイツの伝統的な四つの役、オルフェオ(グルック、オルフェオとエウリディーチェ)、マックス(ウェーバー、魔弾の射手)、バッカス(リヒャルト・シュトラウス、ナクソス島のアリアドネ)、フロレスタン(ベートーベン、フィデリオ)で、決定的に独特の印象を与えている。おそらくこの中で一番特徴的でないのは、グルックのオルフェオのとても魅力的な演奏だろう。これは、ハインツ・パンツァー Heinz Panzer のために短期間に勉強して録音したものだ。指揮者のパンツァーは、ドラマチックテノールを用いた1774年のパリ版を録音するために、力強い低音域を持つホフマンのようなヘルデン・テノールを用いたいと思ったのだ。結果は驚くほどよかった。ホフマンは流暢な、完璧な発音のイタリア語で歌っている。グルックにふさわしい表現形式をきちんと把握し、抑制されたすがすがしい歌唱を展開する。あまりにもたくさんの仰々しい演奏を聴いてきた耳には、ホフマンの洗練された音楽家らしさと涼しげな北国的知性を備えた演奏は心地よい。叙唱部もアリアも、慣れきって落ち着いた気分で、オルフェオの嘆きの旋律を見事な響きで途切れることなく紡いでいく。甘い感傷とイタリア的な泣きに頼って、グルックをあたかもマイヤーベーヤやヴェルディのように扱いかねない衝動を彼は抑える。一幕は均整の取れた優雅な重厚さで初め、それは、二幕の抑えた調子の哀感に組み入れられる。クライマックスのChe faro senza Eurydice?(エウリディーチェを失って)陰うつな調子のずっと耳について忘れがたくなるような音色で歌われ、グルックが求めた威厳に満ちた崇高な古典様式を伝える。このオペラの数ある録音のなかでも非常に珍しいもので、歌手自身の録音された作品の中でも珍しい冒険的な試みであるからして、ホフマンのオルフェオとエウリディーチェは大きな危険を承知の賭けだったが、結果は芸術的な意味でも、評論家の評価においても、大成功だった。ホフマンのオルフェオは、意外な新発見だ。すなわち、私の耳にとって、彼のオルフェオは、この役の決定的な演奏である。
   ホフマンは魔弾の射手(ウェーバー)のマックスを、そのキャリアの前半に、頻繁に歌ったが、今もなおこの役は彼のレパートリーに含まれている。あの事故のあとの1978年、この役でコヴェントガーデンに復帰したとき、アラン・ブリス Alan Blyth はこう書いた。彼は本物のヘルデン・テノールの音質を披露した・・・  文句のつけようのない賞賛に値するのは、彼の旋律線を浮き立たせるすばらしい感性だ。 マックスのDurch die Waelder(森を抜けて)の流麗な旋律の進行におけるベル・カント的心地よさは1979年4月28日のパリでのORTF の演奏会のアリアで聴くことができる。ホフマンは装飾音を柔軟に心地よく処理すると同時に英雄的な高らかな響きを加えている。Lebt ein Gott?(神はいるのか)をカバレッタで仕上げるとき、このフレーズは神の沈黙に対して怒りの拳を振るうような激しさを示す。このアリアはホフマンの描くマックス像の特徴である失望と落胆の落ち着かないマックスの気分をとらえている。そこにいるのは、若くて、情熱的な猟師だ。抑え難い激しい愛に駆り立てられて、衝動的な行動をとる若い猟師。彼にとって射撃競技の出来事は全てが悪夢だ。最終的にアガーテへの誠実な深い愛情によって救われる若い猟師。ホフマンは国民的人物像を、生き生きと目の当たりに見せる。絵画のように見えることを要求された、アヒム・フレイヤー Achim Freyer によるシュツットガルトの公演の静的な演出によってさえ、抑えられるないほど、まるで電気を帯びているかのように生き生きとぞくぞくさせられる。ホフマンのマックスは説得力がある。揺れ動く気持ちと憂うつな気分に支配されているのを納得させられる。そして、そういう暗さにもかかわらず、ロマンチックな情熱を備えた、観客の同情を呼ぶ魅力的な人物にすることに成功している。
   1979年10月7日、ハンブルク国立歌劇場の開幕公演で、ホフマンはリヒャルト・シュトラウスのバッカス(ナクソス島のアリアドネ)を引き受けた。ユルゲン・ケッツィング Juergen Ketsing の 新演出初日の批評は慎重で、ペーター・ホフマンは、明らかに体調が悪かった。彼のチェルセ Circe を呼ぶ声は弱々しく、はっきりしない響きだったが、後の複数の公演は、彼がもっと強い (robust)声を有していることを明らかにした と述べた。この公演を私的に記録した録音テープを聞くと、問題の部分の高音域も心地よく輝かしい声であることは明らかだし、広大なオーケストラの響きをしのぐことができている。最後の二重唱における彼の声は、よく焦点が合って散漫なところがなく、英雄的である。その声は最高音のBフラットまで舞い上がり、Zauberinでは端正な弱音を響かせる。この私的な録音を聞いてさえ、彼の発散する存在感は強烈だ。ギリシャ神話の神の姿と声の古典的な美しさが伝わってくる。
   フロレスタン役(ベートーベン、フィデリオ)で、ホフマンは全く違う存在感を放つ。彼の強烈な人物描写において、内面的な輝きと併せて、その惨めに苦しむ外観が照らし出される。この役で最も成功したもののひとつは1984年4月ベルリンでのゲッツ・フリードリヒ演出による公演である。これについてジェームズ・ヘルメ・ズトクリッフェ James Helme Sutcliffe は、ホフマンの高らかに響き渡る、若々しいフロレスタンは、その「神よ、ここの何という暗さか」'Gott welch Dunkel hier' がアーチ型の暗い穴蔵から聞えてきた瞬間から、観客をびっくり仰天させ、観客の耳をそばだたせ、しっかり耳を傾けようと、居ずまいを正させた。と書いた。4月13日の録音テープは強烈な演劇的かつ声楽的な意思を示している。コロと同様、ホフマンはフロレスタンを、受動的な英雄と見ている。しかし、コロと違って、ホフマンの「受動性」は内的な力強さによって生命を吹き込まれている。彼は単に肉体的に衰弱しているだけで、精神的には衰えていないのだ。これはほとんど逆説的には、彼の飢えと狂乱の幻覚症状の裏には、燃え盛る火のような静謐がある。このフロレスタンの意志は終始明確に示される。酷く悲惨な状態にあっても、終始一貫失うことのない自尊心の中に壮大なひらめきを得る力がある。彼の苦しみには主張があり、その苦痛ゆえに目的意識を失うことがない。
   ホフマンはこういう複雑な解釈をいくつかの賢明な技術的工夫を通して伝える。彼は、歌唱においては、銀色のメタリックな輝き、捕らえ難く、卓越した、活気に満ちた、心を強くとらえてはなさない輝きを保ちながら、人間の現実的な身体的衰弱を、対話と一貫性のある柔軟な動作によって、強調する。彼の表現力に富んだヴィブラートは、彼の旋律線に迫力を与え彼の言葉に色彩を与え、際立たせる才能が、ここでは殊更有利に働く。そのGott, welch Dunkel hier!(神よ、ここはなんと暗いことか!) は、かろうじて命をつないでいる人間の奥底から絞り出される哀しみの叫びとして始まる。そして、それは信仰心と懐疑心の入り交じった祈りとなって高らかに鳴り響く。ホフマンは、このアリアを、絶望から甘い記憶へ、そして更に、自己の正当性を証明したいという狂わんばかりの希望へ(ins himmlische Reich 天国で)という、明確に区別できる演劇的な各段階を経ていくものとして展開する。彼のレガートは美しく、彼のフレージングは長く持続的で、自信に満ちている。友情を感じた「フィデリオ」との対話は、彼が狂乱した戯言ですっかり消耗してしまったことを明確に示し、細かい部分で著しく哀れを催させる。ホフマンのフロレスタンは、ピッツァッロがやってきた気配を感じたとき、(Ist das der Verbot meines Todes? 私の死の印か)一瞬、気持ちの制御がきかなくなる。彼は狂わんばかりになり、弱さを露呈する。そして、ほとんで狂乱状態でレオノーレにくってかかり、彼女は彼を落ち着かせようとする。それから、突如、殺人者が現れたとたん、ホフマンは、ありったけの自制心と力をふりしぼって、落ち着きを取り戻す。四重唱が始まるとき、敵に向き直り、誇り高く、告発の言葉 Ein Moerder steht vor mir(殺人者が私の前に立っている) で攻撃する。これこそ、長い間苦しんだ勇者の、何よりもまず自己肯定をせずにただ打ち負かされるつもりはないという、勇敢な最後の抵抗だ。この劇進行が急速な展開をみせるこの場面は、フロレスタンの弱さと英雄的な強さが結晶したかのように鮮やかに示される瞬間だ。この敵との遭遇では、弱さと威厳が同程度の強さで伝わってくる。レオノーレが命がけで助けようとするとき、彼女の名前を口にするが、その発音には、驚きと愛情に満ちたとまどいの色がある。彼女な名前を口にするときの深い思いは、続くLeonore, was hast du fuer mich getan?(レオノーレ、あなたが私のためにここまでしてくれるのか) という言葉が甘い響きを引き受けてしばしたゆたい、観客を穏やかなあふれるような暖かさで包み込む。だれもが二人の愛の深さを納得させられる。ホフマンは二重唱 O namenlose Freude を恍惚として歌うが、ひそかな驚き、激情、優しさゆえの弱さ、あふれる歓喜が、かわるがわる浮き上がる。フィナーレのお祝いの合唱で、ホフマンは常に合唱に加わっているが、その様子は彼の個人的な思想を語っているという雰囲気を感じさせられる。彼は内省的に歌い始め、喜びにあふれて斉唱に加わっていく。
   ホフマンが舞台で演じるフロレスタンは強烈でわくわくさせられる。そして多くの面で1979年ゲオルグ・ショルティ指揮の録音をしのいでいる。だが、この録音は、歌手は気管支に悩まされており、一連のシカゴの演奏会のひとつでは、完全に声が出なくなったほどだった上に、オペラでは初めてだったデジタル録音の技術上の思い違いもあったという、非常に悪い条件のもとで行われたにもかかわらず、ホフマンの人物描写の凄さは減じてはいない。病気を知られることなく、大勢の健康なテノールたちが成し遂げる以上に、極めてやすやすと自然に、柔軟に、華麗な装飾、音階、高く舞い上がる最高音などを駆使する演奏を彼になさしめる技術的な熟練に驚嘆させられる。いつもとかわらず、歌手は全力を尽くして、その声は途切れることのない強度で伝わり、狂乱状態から恍惚へと盛り上がる。それは、スタジオ録音という条件下、著しく大きな説得力でスタジオ録音を輝かす。
    録音だろうがライヴだろうが、ホフマンの演奏の全体的感触はベートーベンの傑作の核心を貫いている。このオペラの歴史的限界を突き抜けて、現代社会との関連性を主張する。政治犯というもの、あるいは、「国家にとって有害な全ての反対者」を排除しようとする国家というものがある限り、このオペラもフロレスタンの役も現実的である と、歌手は言う。ホフマンにとって、フロレスタンは勇気ある個人、道徳的清廉潔白、個人の自由、政治的自由の代弁者だ。彼がこの役を歌うとき、それは彼の心からの叫びであり、彼自身の信念と一致している。
   それにしても、ホフマンは、なによりもまずワーグナーのスペシャリストとして名声を確立した。私の見解では、彼はまさに今そこにいる卓越したヘルデン・テノールである。この文章を書いている今、ホフマンはワーグナーの11の主要なテノール役のうち七つの役を歌っており、他の役もアリア集で録音している。彼がローレンツ、スヴァンホルム、そして、ヴィントガッセンの即席を継ぎ、ヘルデン・テノール名簿に名を連ねるであろうことは間違いないし、そうなることを希望する根拠はたくさんある。
   1983年のリサイタル盤でホフマンはリエンツィの祈りを録音している。オペラ全曲を聴くに値する雰囲気と大家振りを感じさせられる。All macht'ger Vaterは、完璧な抒情性を備えて激しく情熱的に歌われる。最高音部は鮮やかに決まり、その響きは輝かしく充実している。音色は終始一貫、みずみずしく、装飾音はなめらかである。(栄光と崇高と尊厳へ) の、はじめからおわりまで、息をつかず、切れ目なく高らかに舞い上がる様と、Die sich in Ewigkeit erstreckt(永遠に存在する神)の展開の仕方、あるいは、mezza voceの弱い声で歌われるErhore mein inbrustig Fehn!(我が燃える願いをお聞きください)の流れるような旋律線は驚嘆に値する。その長く維持されるフレージングとわかりやすい感情表現は、ひとりの護民官の神に対する信仰は、愛に基づく信頼感に根を降ろしていることと、彼のひとつひとつの言葉は彼の繊細で感じやすい人間性を物語っていることを示す。    同じリサイタル盤に入っているタンホイザーのローマ語りは、録音されたこのモノローグの中でも明確な主張が最高にわかりやすい演奏のひとつである。ホフマンは、表現力に富んだ朗唱を音楽的で豊かなフレージングと結びつける。彼は言葉の意味を際立たせる。聴き手の心をしっかりと捕らえる独特のアクセントを独自に創り出している。彼は、録音という実態のない条件下でさえ、 心の中にある信念を具体的にまざまざと感じつつ歌う。そしてまた、彼は、ワーグナーが劇的な激しさと、美しい歌唱を同じレベルで求めていることを一瞬たりとも忘れることがない。彼はその声を、闇のような暗さから金色の輝きにいたる色調の幅広い範囲のなかで彩り、その音色は、成熟して、ゆとりがある。彼の声は、むらなのない発声で出され、終始一貫して、緊張してこわばることなくのびやかである。      ホフマンはこの物語を、絶望感と皮肉と精神的な苦痛の入り交じった声で始める。巡礼の旅の様子を物語るとき、このモノローグを反抗心あふれる怒りの行動の一環に組み込む。教皇に対する狂ったように激しい非難には悪魔的な力が宿っているようだ。in Venusberg drangen wir ein!(さあ、ヴェーヌスの国に私を入れてくれ) の狂乱の叫びは壮観だ。ホフマンの歌うDa ekelte mich der holde Sang(美しい歌声が私を嫌悪感で満たした)のような旋律は忘れ難い。それは、カトリック教徒的期待が裏切られたことに対する落胆の気持ちでいっぱいだ。そして、彼自身の不安定な成り行き任せの状態が露になる。動物的な哀願の叫び声は、荒々しく、狂気に満ち、徹頭徹尾壮大だ。ホフマンのタンホイザーは(この重要な部分で証明されているように)堂々とした強さと脆さの両方を兼ね備えている。非現実的な反抗心が際立つ人物である。その怒りは神話的様相を示し、その強い信念は魅力的で、その訴えかけは魅惑的だ。その一方で、彼は深く傷つき、猛烈に恋いこがれる、絶望的なほどに孤立したひとりの人間だ。どちらの状況でも、ホフマンのタンホイザーは抗し難い魅力を発散する。ホフマンは彼の先輩たちのだれよりも魅惑的で、破滅する人物だからと言って、惨めとも哀れとも感じさせず、むしろ、人を魅惑し惹き付ける、ある意味、ぞっとするような、しかし、ブレイク的なエネルギーによって気高いまでに人をひきつけてやまない官能的な性質をタンホイザーに与えることができるように思われる。(William Blake (1757-1827) イギリス  ロマン派の画家。詩人としても知られる。ロマン主義の先駆者。20世紀になって、評価された
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14章 ペーター・ホフマン -6/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;レパートリー研究
コンサートとイタリアのレパートリーなど

   ペーター・ホフマンはこの17年の間に20以上のオペラの役を歌ってきた。同時に、ポピューラー音楽の分野でも広範囲にわたるレパートリーを確立した。今なおキャリアの中期だが、タンホイザー、リエンチ、ジークフリートを除く全てのワーグナーの役を演じてきた。ジークフリートについては、すでに練習済みだがデビューの時期は慎重に選ぶ必要があると考えている。演奏の見本となる録音のコレクションも積み上げた。ペーター・ホフマンは、ジークムント、パルジファル、ローエングリン、シュトルツィング、トリスタンとして最もよく知られており、これらの役を最も頻繁に演じて来たが、想像以上の多様性を有している。中心的なレパートリーに加えて、様々のイタリア・オペラ、フランス・オペラ、ドイツ・オペラの役を歌っているし、クラシック・コンサート、ポピュラー・コンサートを行っている。さらには、あまり好きではないにしても、いくつかのオペレッタも歌っている。
   クラシック・コンサートの分野には、ベートーベンの交響曲第九番、冬の旅、いくつかの教会音楽、マーラーの大地の歌などが含まれる。この分野ではすばらしいレコードが二つ存在する。バッハ/グノーのアベマリアの美しい演奏(1988年録音)と、ぞくぞくするほどの複雑なアプローチを見せるマーラーの大地の歌である。どちらも歌曲におけるホフマンの力強さと確信を顕著に示している。
   アベマリアは、現代的な楽器編成によるが、比較的伝統的な編曲で、きわめて輝かしく詩情あふれる録音である。その音色は実にすばらしく、マリアへの崇拝の念にあふれている。イタリア系のドラマティック・テノールがよくやるような、熱狂的な懇願ではなく、より瞑想的で、個人的請願、賛美の聖歌になっている。巧みで完璧な旋律線、非常に開放的なイタリア的クライマックス、静かにうねる豊かな躍動感、音価に対する注意深さ、豊かで表現的な音色、ホフマンはこの歌を吟遊詩人の愛の調べのように歌い上げる。(実際のところ、これは本来的にマリアに対する熱愛の歌だ) 彼は柔らかい声mezza voceで歌い始め、聖寵満ちみてるgrazia plenaで、暗い驚嘆の念をにじませる。かすかなきらめきと柔らかさで、無理することなくフレーズを保ち、三カ所のサンタマリアで喜びの頂点を構成する。各々が、それぞれの祈りを含んでいる。最初のは、官能的な畏敬の念に打たれた憧れ、二番のはけだかい崇敬の念、三番目のは、情熱的な請願。静かに高揚する信仰をもって、罪人なる我らのために祈りたまえora pro nobis, nobis pecatribusと心を開き、最後のアーメンでは静かになめらかに母音を消して終わる。最終的に深い感動をもたらす。一個人の私的な詩が深淵な信念を持った普遍的な祈りへと昇華する。
   1980年、ロスアンゼルス、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮による大地の歌の公演は、マーラーの憂鬱と皮肉を完璧に表現していた。ホフマンの声は、地上の悲愁の詠える酒席の歌 Das Trinkleid von Jammer der Erde において、難なくオーケストラを超えて飛翔し、彼は、英雄的な次元の絶望感を伴って心に浮かぶ悲しみをとらえ、この音楽を、吠えるのではなく、歌っている。青春にふれて Von den Jugendは、上品で、Wunderlich in Spiegelbildといった旋律では、その可愛らしく魅力的な柔らかい声mezza voceを披露している。ホフマンが、最後の部分、trinken,plaudern(飲んで、語る)に添える憂鬱で意気消沈するような喜びの感覚は、酔いつぶれる喜びの、忘れがたい印象を醸している。最後の歌、春にありて酔えるもの Der Trunkene im Fruehlingは、ホフマンの演奏では、力強く鳴り響く苦痛の叫びである。ホフマンはこの公演で、声の色彩感と躍動感の繊細な土台、知性、表現的なテキストの扱いにおいて、コンサート歌手としての資質を示している。多くのヘルデンテノールの先輩たち以上に、それぞれの歌を小さなドラマに作り上げることができる。ドラマに隠されている意味を巧みに明示することができるのだ。
   彼に対してワーグナー・テノールとして奉仕する事だけがけたたましく要求されるようになる前のキャリアの初期には、いくつかの現代オペラを含む作品を幅広く歌った。1975年10月にヴッパータールで歌ったギーゼルヘル・クレーベ Giselher Klebe作曲のEin Wahrer Held 真の勇者の題名役、クリスティは、批評家たちに特別に注目された。オペラ誌は、この役に、急上昇中のヴッパータールのヘルデンテノールであるペーター・ホフマンを得たことは真の喜びであったと述べた。ホフマン自身は、この役は複雑な人物像を創造する良い機会だったと回想しているが、批評の注目と高い評価が興行収入に結びつかなかったことを残念がっている。またキャリアの始まった年にバーゼルで、ベルクのヴォッツェック Wozzekで、鼓手長を歌った。この経験を振り返って、はじめは、この人物の野蛮さにとても当惑したが、結局は、この役に肉体的強さと音楽の力との必然的な関係を見出したと言っている。
   キャリアの初期にリューベックで試みたファウストとドン・ホセは、それぞれ異なった領域での成功をもたらした。1972/1973年のシーズンに、ファウストのアリア、Salut demeure chaste et pureで要求される高いドの音(high C)を楽々とだすことはできなかったと、彼は回想している。(後に、マリオ・デル・モナコと一緒に練習したおかげで、こういう高音を獲得することになった)そういうわけで、最初は満足できない結果だった一連の公演を通して、非常に苦労して、公演を重ねるたびに改善していった。それに対して、ドン・ホセは彼に合った快適な役だということが立証され、今日にまで、その本領を発揮してきた。彼は、この役を、その抒情的なところも英雄的なところも、どちらも非常に魅力的に歌い、あの激しい三幕を、我ながら、まるで気が変になったみたいだったけど、とても冷静に落ち着いて演じた。その効果は衝撃的で、観客はもの凄いカタルシスを感じた。これはホフマンの聴き手を感動させる才能を示す初期の例だ。    ホフマンのイタリア物を歌うテノールとしての才能は、ヴェルディとプッチーニからのいくつかの抜粋録音で明らかだ。これらの録音は、聴き手に、ぜひとも舞台で彼がこの役を全曲歌うのを聴きたいものだと思わせる。彼のテレビ番組、Hofmanns Traeuereien(ホフマンの夢)の中で、トスカからRecondita armonia(妙なる調和)の場面を歌っているが、燃えるような情熱と輝かしいレガート(ドイツ語翻訳で歌っていてさえも、それがイタリア的な旋律線を損なっていない)を耳にするとき、彼は間違いなく理想的なカヴァラドッシであることを立証するだろうと感じざるをえない。それに、最近出したアルバム「モニュメント Monuments」の「星はきらめき E lucevan le stelle 」 もこの結論を支持している。クラシック音楽の原曲を編曲するのが、このアルバムのテーマだから、ホフマンはこのアリアに新たな終結部を加えて編曲しているけれど、まずは完全にプッチーニが書いた通りに歌っている。そして、それは息をのむほど瑞々しく新鮮に響く。彼は、瞑想的で官能的な思い出を、憂うつな気分のチェロと調和しつつ、かすかにちらちらと光が揺らめくような音色で歌いはじめる。このカヴァラドッシは手を触れることができそうなほど鮮烈な記憶に触れることさえできないという究極の皮肉な状況の中で、突き刺すような痛ましさで、広がっていく官能的な詩の世界を眼前に構築して見せる。Entrava ella fragrante  (彼女は香りを放ちつつ入ってきた)は哀しいまでの憧れに満たされ、 mi cadea fra le braccia (彼女は私の腕の中に倒れ込んだ) は、失われた願望を思っておののき震える。彼は半分の声量 mezza voce で、O dolce bacci, o languide carezze (おお、甘いくちづけ、おお、ものうい愛撫)を熟練した歌い回しで静かに歌い始めるが、その声は、月光のような弱音 piano に向かって弧を描き、再びゆっくりとmezza voce に戻っていく。同じ技術をつかって、 le belle forme disciogliea  (彼女の美しい姿が露になった) は、滑らかな弱音へと下降 diminuendo して行き、嘆きの息づかいを含みながら、最後の言葉、dai veli (彼女のヴェール)へと進む。最後の部分は、抑えた情熱と、細心の注意深さで、mai tanto la vitaを強調して、微妙さと綿密さを有効に利用しようとする。ホフマンは過剰なむせび泣きを避けるが、disperato(絶望して)のひとつの音節にかけたかすかなトレモロによって、多くのイタリア的なテノールよりも深い哀感を漂わせ、その身を切るように痛切な e non ho amato mai tanto la vita(そして、人生をこんなにも愛おしんだことはなかった) の中には、表現力豊かに変化する音色の万華鏡、苦悩と愛と反抗が存在する。    ホフマンは、デボラ・サッソンのデビュー、リサイタル盤に、ボエームトラヴィアータの二重唱で、参加している。ここでも、E lucevan le stelle (星はきらめき)のとき同様、完璧なイタリア語である。O soave fanciullaで、彼はその大きく、英雄的な声を、とろけるような柔らかい半分の声量 mezza voce と 最弱音 pianissimoに落として、小さなフレーズにいちいち微妙な意味を付与する。例えば、Sei mia(私のもの)はもの凄くロマンチックに、そして、al ritorno?(私たちが戻るとき)は、心臓がどきどきするほど官能的だ。彼はまた最後のEを書いてある通りに扱っている。最近の劇場で、こういう選択は珍しく、これはすがすがしい魅力的な響きを創り出している。ホフマンはまた、Amor e palpitoを歌う歓喜に満ちたアルフレートとして、 トラヴィアータの台本は好きでないにもかかわらず、ヴェルディの音楽に対して独特のふさわしい感覚を持っていることを示している。彼は、この二重唱に、正確で、音楽家らしい、そして優美なベル・カントで貢献している。    1988年に録音された La donna e mobile(女心の歌)も、まず書かれた通りに歌われ、それから、即興的なカデンツァが付け加えられている。活発で陽気に歌われるこの歌でも、やはり巧みな演奏ぶりがわかる。この高度な声楽技術を要する作品で、ホフマンは安定して、心地よく、鳴り響く最高音と、名人技のレガートを披露しているが、派手な目立つ雰囲気を達成するために旋律線を引き延ばすという誘惑に陥ることを回避している。彼は、他の非常に多くのテノールたちに比べて、このアリアのスケルツォとしての特質をはるかによくとらえている。彼の歌は心地よく、刺激的で、軽やかで、好色で、何と言っても自然でのんきな雰囲気を醸している。彼はこのアリアをヴェルディが意図したように、人物描写のミニチュアとして表現する。魅力的な例を一カ所挙げるなら、mutata cen-の部分の美しい弱音への下降 diminuendoだ。その後に最後の音節 toが続くが、両方とも音は原曲のままであって、演劇的に著しく惹き付けられる。    これらの断片は、ホフマンがイタリアのレパートリーで自由に操る優美さ、音楽家としての技量、伝統に基づくスタイルを示している。彼はこの分野の額面以上の特質、すなわち、squillo(高らかに響く声)、morbidezza(柔らかな声)、そして、legato(レガート)をportamento(ポルタメント) と区別して用いることといった特質を身につけている。彼はレパートリー間を、音楽的かつ様式的確実性を崩さずに移動することができるが、こういうことはめったにないことなのだ。そしてまた、ベル・カント唱法とワーグナーの役の歌い方を混ぜるのは必ずしも賢明ではないにもかかわらず、誰もがホフマンが彼の夢であるオテロを引き受けるかもしれない日を楽しみに待っているまさにこの時、彼のスケジュールが許すとき、そして、経営陣が彼のイタリア物のレパートリーに対する才能を求めるときが待たれる。彼がこの役に必要な演劇的強さと、抒情性と、英雄性を有していることは間違いない。
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14章 ペーター・ホフマン -5/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

   1976年に、ハロルド・ローゼンタールはペーター・ホフマンの声について、こう述べている。はっきり言って、私があの戦争以後に耳にした最高にすばらしいヘルデン・テノールである。スヴァンホルムもヴィントガッセンも、そしてマックス・ローレンツでさえ忘れさせる。メルヒオール、そして、もしかしたら、ズートハウス以来、本物のヘルデン・テノールに最も近いものだ。
   ペーター・ホフマンの声は、一度耳にすれば、忘れられない声だ。独特であって、豊かな満足感を与える声は、抒情的な瞬間には甘い、澄んだ音色を響かせ、劇的な瞬間には、ほの暗い官能的な響きを醸す。そして、英雄的な瞬間には、適度のきしみ感とヴィブラート。これらが声に情熱的な奔放さを加える。
   メルヒオール、スヴァンホルム、そして、キングと同じように、ホフマンははじめはバリトンで、多くの人が「本物のヘルデン・テノール」と考える、豊かで、艶のある、常に暗い響きを持つ音色を保持している。その声は基本的にバリトンで、低音域の表現が豊かであるが、同時に高音域も驚くべき自由さと力を備えている。光沢のある鋼のような音色の高音は輝かしく響き、聞き手の心を揺り動かす。ホフマンの声の規模はスヴァンホルムと比較される。イェルザレムやコロやトーマスの抒情的な声よりははるかに、雄大かつ英雄的であり、メルヒオールほどの声量はない。およそ1オクターブ半ないしは2オクターブの音域を楽々と出す。非常に焦点の合った鮮明かつ音程のしっかりした声である。低いほうのGも十分に聞こえるし、高いB、そして C さえも輝かしく響く。ワーグナーを歌うときにも、初期に歌ったモーツァルトの軽快さと柔軟性を維持している。そして、その表現は、実に独特で、複雑で微妙な色合いを示す。
  こういう表現的な工夫でとにかく真っ先に注目すべきなのは、ホフマンの並外れて変化に富んだ微妙な陰影の付け方だ。大方の ヘルデン・テノールに比べて、mezza voce メッツァ ヴォーチェ(半分の音量で)や、弱音(ピアノ)、そしてピアニッシモを、他のテノールがそんなことは決してしないような難しい箇所で頻繁に耳にする。彼はまた、完璧な弧を描いて声を次第に弱く(diminuendi) したり、強く(crescendi)したりすることができる。聴き手はその英雄的な声が息つぎなしで切れ目なく見事にコントロールされているのに驚かされる。それから、音色は多様でヴァラエティに富んでいる。たいていは豊かで明るく響き渡るが、時には明らかに粗い響きに気がつく(スヴァンホルムも同様だ)。イタリア的な光沢のある輝きを示すこともあれば、冷たい真にドイツ的な様相も表わす。陰気に暗い音色から、銀のきらめきのような音色まで、すべての色合いを持っている。また、彼のヴィブラートは、劇的な効果をあげる仕掛けであって、テノールの声に個性と感情的な振幅を与える。しかし、これは一部の人たちの批判の的になっている。私の耳には、これはホフマンの声を特徴づける不可欠の要素である。これこそが、ホフマンの声に心の底からの本能的な訴えを加えているものだ。実際、ホフマンの表現的な声の特質のうちで、一番計り難いものは、おそらく彼の声の持つ独特の官能性(eroticism)だろう。今までにペーター・ホフマンほど強烈にこういった特性を示したヘルデン・テノールはひとりもいない。この特質こそが、彼の声と、その声から生まれる演奏を、抗し難い魅惑的な存在感で満たしている。
   しかし、何がホフマンの声を極めて刺激的なものにしているかと言えば、それはおそらく、これら表現的で潜在的な特徴を、芸術家としての手腕の、より外面的で知的な側面に結びつけるやり方だろう。同時に、彼の官能的な声は聴き手の無意識の反応を目覚めさせ、彼の完璧な音楽性が冷静で、批判的な賞賛を喚起するということだ。飾り立てずすっきりとしてはいるが、優雅なワーグナーにおけるドイツ的レガート、つまり、まるで彫刻のような歌い回しに対する感受性を示す。発声法は、その言語独特の明晰さを示し、朗唱法と歌詞のニュアンスは熟練者のそれである。ホフマンに耳を傾ければ、言葉と音楽は融合しており、ワーグナーがシュノールを賞賛したように、心のうちでめったにないような劇的な炎が燃え盛るのを聞く。もしワーグナーがペーター・ホフマンを聴いたら、愛してやまなかったシュノールに対するこんなコメントを繰り返すことだろう。彼は生まれついての詩人だ。まれに備わった天性の声を、理解力の助けを得て、使いこなした。
   シュノールとの類似性はもっとある。この19世紀のテノールと同じように、ペーター・ホフマンは、真のテノール(ect Tenor)と重いテノール(schwer Tenor)の響きが融合しためずらしい声を持っている。まずはじめはバリトンとして訓練しながら、1972年には抒情的な高音域と華やかな柔軟性を伴うテノールとして登場した。例えばモーツァルトのイドメネオだ。彼が1970年代半ばから後半にかけて、ジークムント、パルジファルといったワーグナーの役をやるようになったとき、自分の声の持つ重いテノールの可能性を開発した。けれども、1980年までに、両テノールの音域の切れ目のない統合に成功している。ローエングリンにふさわしい声の色調、音色の質がそれであり、現在にいたるまで、この均衡と広がりを維持している。その色調はより暗く、より豊かになってきているにしても、その輝かしい最高音は、その響きを失うことなく、輝かしく英雄的なメタリックな色調は今も、たとえばトリスタンで聴くことができる。このように、ホフマンの声は20世紀のヘルデン・テノールたちのなかで、独特である。ワーグナーの素晴しい理想を再現するために、ホフマンはベル・カントの抒情性を劇的な緊張感と結びつけた。イタリア的な暖かさと冷たい感じのドイツ的ヒロイズムを合体させたのだ。声の広がりとダイナミックな柔軟性の新たなフロンティアを築いた。そして、なによりも、先輩たちを超える情熱と力で、音楽と歌詞を結びつけた。ホフマンの歌唱は、過去の遺産の上に、今までなかったようなレベルでの現実感を持った新たな音楽劇を築き上げている。

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ペーター・ホフマンの芸術の声楽的側面はそれ自体独特で注目に値するが、演劇的な側面と分離することは不可能だし、歌う役者としての歴史的意義を見落とすこともできない。ペーター・ホフマンが過去と現在の全てのヘルデン・テノールの中でもっとも役者としての資質に恵まれていることは疑いようがない。彼自身の表現によれば、彼こそは、舞台の上でくつろぐことができる人間、すなわち、舞台人(Buehnenmensch)なのだ。
   彼のすばらしい多くのレコードの、どれひとつとして、その生の上演を全次元でとらえることはできていない。舞台上のペーター・ホフマンはオペラ体験を、単に声の威力に浸る行為を超えるもの、ある種の異化作用をもたらすものとして提供する。ハロルド・ローゼンタールは1980年、バイロイト音楽祭のワルキューレの録音に対する批評で、この現象についてほのめかした。ペーター・ホフマンの演技は、あまりにもわくわくして胸がいっぱいになるほど刺激的だったので、彼がいかにすばらしく歌っていたかということを、意識させなかった。純粋に聴覚的に、このジークムントは、間違いなく彼の最高の演奏である。
   舞台上のホフマンを見るとき、はじめてオペラを体験しているのだと信じてしまう。彼は突如目がくらむような光景を見せてくれる。瞬く間に時代を超越し、今現在、音楽劇がなし得ること、そして、音楽劇のあるべき姿を目の当たりにさせてくれる。
   彼を誹謗する者たちでさえ、ホフマンが訓練された役者であると同時に生まれついての役者であることに同意せざるをえない。この才能は、彼の内なる性格、すなわち、生まれつきの感受性、知性、そして、運動競技好きに由来するが、彼のキャリアを通して、ひたむきな情熱によって自分の技術をたゆむことなく磨きつづけている。ホフマン自身、その音楽学校教育で、実際的な舞台訓練をほとんど受けることができなかったと回想している。そして、最初の「沈むか泳ぐか」の時代だったリューベックで、演じることは自ら身に付けるしかないことに、すぐに気がついたと述懐している。デビューしたその年のうちに、すでに信じられないほどの進歩を見せたことが複数の批評を読めば明らかで、彼が自分一人で演技力を身につけることに成功したことは明白だ。1976年トゥールーズでのワルキューレを1975年のものと比較して、オペラ誌は、舞台上の彼は、昨年に比べて、俳優としての経験の浅さもぎこちなさも格段に感じさせなかったと書いた。
   ホフマンは自分の演劇的感受性は生まれつきのものだと感じている。歌手には、イメージする才能、演出家が望んでいることを理解する才能、つまり、演じる才能が十分あるものだと思ったと彼は言う。彼は、歌手にこの才能があれば、そして、仕事に没頭しようとして、完全に関われば、納得のいく、双方向的な交流のある舞台を創り上げることができるはずだと思っている。
   彼は役の勉強は常に台本から始めて、役の人物像を把握したと感じた時に音楽に移行すると明言する。深く考える注意深い演奏者として、ホフマンは自分の役を完璧に準備する。だが、彼のやり方は、スヴァンホルムがそうだったようには、何よりもまず理性的にということでは決してない。むしろ、知性と同じレベルで、感覚と心を通して、人物の全体像を理解しようとするものだ。身体を備えた人物描写は常に強烈で、外面的な表現は常に内面に由来している。この内面での自己同一視と安定感があるからこそ、 ホフマンは、ほとんどリハーサルなしの客演で演じることを楽しむことができるのだ。
   ホフマンの演劇スタイルはヘルデン・テノールの伝統において起こった全てを超越した、最高のものだ。彼は、シュノールやヴィッカーズの内面的激しさとスヴァンホルムの論理的で詳細にわたる準備、ヴィントガッセンやトーマスの心理学的徹底を統合する。それだけでなく、ホフマンはこれら全てに、独特の直感的な質感を加える。これが、彼の芸術を舞台を超えて、じかに触れることができるわかりやすいものにしている。観客の耳と心だけでなく、その内奥の自我の部分でも、観客に音楽劇を感じさせるこの能力こそが、彼の演技を、先輩たちのそれと区別する。実際、これこそがホフマンをオペラの演技の全歴史の中で、別格のものとしている。
   ペーター・ホフマンは考えを行動に、音を刺激的なコミュニケーションに、演劇を生き生きとした現実感のある人生模様に変える。ホフマンの放つ演劇的存在感の鍵は、いくつかあるが、その映画にも通用する魅力のある外見も大きい。彼は英雄的人物にふさわしい身体を持っており、この身体的特徴はエネルギーに変質する。彼の動作はまったく自然で、型にはまらない演劇的選択をする勇気がある。彼はローエングリンのNun sei bedanktを舞台の奥を向いて歌う気があるし、難しいWaelseの叫び声をしばしば両膝をついて歌うのを厭わない。彼はこれらの場合や他の数知れない芸当を声の美しさを犠牲にすることなくやり遂げるつもりでいる。なぜならば、現代のオペラにとって、納得できる、目にみえる要素は、声楽的要素同様、本物で人を感激させるものでなければならないことが彼にはわかっているからだ。だから、彼が創り出すことのできる細やかなニュアンスと、創造的なリアリズムのせいで、彼の演技は綿密に眺め回すカメラに耐える(これが彼のすべての役がフィルムにおさめられることをだれもが望む理由のひとつだ)。ホフマンの演技の独自性は現実的な細かい部分まで微妙な陰影をつけて人物像を描き出し、形作る能力にある。つまり、顔の表情、まなざし、心の微妙な変化を示す動作などだ。そして、同時にこれらの細かい微妙な変化を劇場の最も遠い席にまで届かせる能力だ。ジークムントを演じるとき、ジークリンデがはじめて彼の名を叫ぶときに、彼が彼女に対して一瞬見せた微笑みは、あまりにもきらきらと光を放ち、あまりにも内面的な喜びにあふれていたので、それは、メトのような4000席の劇場でさえ、さざ波のように広がる暖かい雰囲気の強烈な衝撃として、観客席全体に伝わった。
   彼の演劇面におけるもうひとつの特質は話し言葉を音楽と一体化させる人並みはずれた能力である。私もマリールイーズ・ミューラーと同じように、様々な年齢層の子どもたちに、ホフマンの公演をビデオで(あるいは、一度は実際のオペラ劇場で)見せるという実験をした。子どもたちは話し言葉と歌を全く区別しなかった。子どもたちにとって、その公演は非常に感動的で、全体としてひとつの劇であって、あまりにも没入したものだから、おそらく彼らが持っていると思われるオペラという演劇形態そのものにたいする偏見をすっかり忘れてしまったようだった。要するに、子どもたちは、すばらしい、理解の容易な演劇を見ていたのだった。
   こういう現象を見れば、ペーター・ホフマンの舞台上でのもの凄い集中力と聴く力が確かなものであることは疑いようがない。何も歌わないとき、何も言うことがないとは言えない。ホフマンはこう力説する。彼の舞台上での関わり方は全体的で完全だ。登場から退場まで、ペーター・ホフマンが衣装をつけ扮装して登場人物に変容したのだと感じる範囲を超えている。ほんの些細なことがすべて、まるで啓示のように何かを表わしている。例えば、メトロポリタン歌劇場の新演出ワルキューレで、彼が舞台の奥を横切って走り、再びドアのところに戻ってくる様子が、フンディングの小屋の裂け目を通して見えるのだが、ジークムントが実際に登場する前に、ジークムントが敗走していることが、心理的にも視覚的にもはっきりと示される。最初のカーテンコールでいつも彼の没入振りがわかる。その瞬間、彼はまだジークムント、あるいはパルジファルやローエングリンのままだ。そして、数秒、拍手喝采で彼は我に返る。
   舞台への最初から最後までのこういう完璧な没入がホフマンを理想的な共演者にしている。メルヒオールとは違って、パルジファルの一幕で食堂に座っていることなど、ホフマンには考えられもしないことだ。自分の役の人物に心理的になりきるために重要だから、代役を使わずに聖杯の場面を自分自身体験することは、個人的な贅沢なのだと彼は言う。過去の偉大なヘルデン・テノールたちと同じように、ホフマンも舞台で共演者の一人として関わることのほうを専門家気質を発揮するより重視している。共演者たちに対する彼の寛容さは良く知られている。ほとんど知られていない話だが、1979年バイロイトのローエングリンの最終日をキャンセルする羽目になったとき、具合が悪いにもかかわらず、劇場にやってきて、公演の前と幕間に、代役のジークフリート・イェルザレムを指導したという話は有名だ。(実際のところ、一部のジャーナリストは自分の都合に合わせて無視した)1987年バイロイト音楽祭開幕のトリスタンは、代役を見つけることができなかったため、インフルエンザによる発熱と吐き気と闘いながら歌った。確実にやれるし、キャンセル嫌い、献身的に100%以上のものを提供しようとするのだから、経営陣にも観客にもホフマンが好まれるのは当たり前のことだ。
   オペラの舞台上、ペーター・ホフマンは観客にやけどを負わせるほどの強烈な熱を発散することができる。彼は、少数の歌手にしかできないようなやり方で、舞台を超えて広がっていくことができる。観客に信じないという気持ちを保留にさせ、神話の世界に連れていくことができる。
   ホフマンの信頼性は大概の歌手のそれより高い。批評家である私も、こういう現象を一度ならず目撃した。観客は扮装している役者を見ているのだということを忘れ、登場人物がそこに現実の肉体を持った人間として存在していると思うのだ。そして、その運命がジークムントのように悲劇的ならば、観客はほとんど絶頂的な幸福感を伴うカタルシスを体験する。
   メトロポリタン歌劇場、1988年5月19日の公演について オペラ・インターナショナル誌に書いたことだが、観客のジークムントの死に対する感情移入の程度はもの凄くて、人々は叫び声をあげ、私の周囲には涙を流していない人はほとんどいなかった。
   クラウス・ガイテル Klaus Geitel は、1988年クプファー演出のワルキューレで、テノールが提供したまるで磁石のように人々をひきつけた魅力的な公演について、まさにホフマンの歌う役者としての真骨頂であったと断言した。ペーター・ホフマンだけがこういうこと、すなわち、身体で歌うという行為を為しうる。ここに、ワーグナーの舞台における彼の独自性がある。表現力豊な声で人物を描き出すだけでなく、その身体言語によってもその人物像を明確に示す。
   ペーター・ホフマンはどうやってこの演劇的魔法を産み出すのだろうか。彼も言っているように自己陶酔的な気持ちではなく、自分がしていることを本当だと信じることによって、自分のエネルギー、集中、理解、直感力、テクニックなどを、内面の熱い思いの中で鍛え上げることによって、役の人物と完全に創造的に同一化することによって、伝説は、そこに生きて存在するものになる。
   ペーター・ホフマンは、オペラはおとぎ話として受け止められることが必要だと度々発言しているが、ロック・コンサートでも、デボラ・サッソンの美しい歌につけた歌詞 Fairy Talesを歌った。Take my hand/ Holdon tight/ And we might/ Reach that horizon so far out of sight./ I believe fairy tales can come true,/ Now it's just up to you.
おそらく、明らかに矛盾するものが、ペーター・ホフマンの歌う役者としての成功の秘密には含まれているようだ。彼はヘルデン・テノールというものに不可欠のめったにないようなあの才能で、オペラの物語を保持しつつ、それを実際にそこに存在するものに変えてしまうのだ。
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14章 ペーター・ホフマン -4/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

  ホフマンの率直さ、他に影響されない独自性、誠実さ、独特な兼ね合いを見せる鋭い洞察力による内向性と思いやりからくる外向性、不服従を貫く勇気、音楽が内包する人間性に対する信頼、こういうものが、戦前の典型的ヘルデンテノールの類型とは比較できないほど懸け離れた、極めて特有のセルフ・イメージを創りあげている。 ジーンズをはき、馬やオートバイに乗り、社会に対して革新的な考えを持ち、ロックミュージックをやるテノールは、スレザークのような歌手たちが不滅にした(ヘルデンテノールの)戯画的セルフ・イメージとは程遠い。ホフマンのリラックスした、気取らない現代性と、スカーフを巻き付けて、召使と家族と旅行カバン、おまけにあやしげな取り巻きの連中を従え、消毒薬の入った吸入器を携えた妻に先導されている、そんな芸術家の様子を対照してみるがよい。ホフマンの個人的及び職業的スタイルでの伝統からの過激にみえる逸脱は、保守的な通気取り、あるいは、熱愛ゆえに、物議をかもすことが多かった。だが、このテノールに対する個々の反応がどうであれ、ペーター・ホフマンがヘルデンテノールのイメージを現代化したということ、それどころか、オペラ歌手のイメージを変えたことは明らかな事実である。このようにして、彼はオペラのために、新たな、幅広いファン層を獲得したのである。
 ホフマンほど、外見的魅力を、あるいは、エロチックな声の響きを発散しているヘルデンテノールは皆無だったし、オペラ界を通じてもそんな歌手はわずかしか存在しない。最もハンサムなヘルデンテノールの、すばらしい金髪碧眼の筋骨たくましい外見の良さは、ワーグナーの主人公たちの視覚的定義を書き換えてしまった。あっという間に彼を頂点に押し上げ有名にしたその豊かな声、その住まい、車、馬、そして、何よりもそのおとぎ話的二度目の結婚、こういうもの全てが絡み合って、舞台上のテノール、そして、世間の人々の目に映るテノールは、おとき話的なオーラに包まれている。ひとつのおとぎ話だが、このおとぎ話の持つさまざまな現実を、ペーター・ホフマンは痛いほど知っており、謙虚に感謝している。全てのことがもの凄いスピードで進みました。いつか目が覚めたら、全部夢だったということになるのではないかという気がします。
 本当に、ホフマンはわざとらしいところのないスターである。身構えないし、意図的なイメージ操作も、神話創作もない、何よりも、気取ったところや自己中心的なところがない。私たちが出会うのは、気取ったスターではなく、穏やかで、率直で、気のおけない、自我の確立した、一人の人間であり、その思いやりのある機知に富んだ知性は非常に魅力的で人を惹き付けずにはおかない。ホフマンの物腰には、否定しがたいセックス・アピールだけでなく、情熱とはにかみが入り交じった独特の雰囲気がある。彼は楽しい話上手(raconteur)で、彼の話ぶりは、おおらかな魅力で人を引き込む。彼の、笑いの才能と、何にもまさる、ユーモアのセンスを知るためには、魔弾の射手での災難のとてもこっけいな、劇的な音響効果を創り出したという話を彼がするのを聞きさえすればよい。このような災難を切り抜けられれば、劇場で最高に運がいいということで・・・劇場の楽しい側面の一つだ。不意を打たれれば、いくら備えがあっても、安全ということはないから・・・

 劇場でのハプニングに対するのと同じように、ホフマンには、マスコミ関係者と、殊に世間の人々に対して、バランス感覚を維持できる才能がある。自身のスターの座ついて語る彼は屈託がない。ずっと、自分の職業をあまり深刻にとらえすぎないように努めてきました・・・ 演じる舞台上の人物の気分に包まれて、自分の人生を過ごしたくないのです。そうならないために、ユーモアと皮肉をこめて、自分自身を見つめるようにしています。彼は歌手仲間に対して思いやりがあり、有意義な競争を歓迎する。コロは偉大だが、私も同じだ。マスメディア的敵対関係をでっちあげようとするマスコミの努力に対して、私たちは二重唱はしません。どうしてお互いに反目する必要があるのでしょうか。と、ユーモラスにとぼけて見せる。批評を読むときは、なるべく冷静に落ち着いて、神経をとがらせずにユーモアを保つようにしている。今はもう書かれたものに左右されることはありません。今の私にとって批評は二番目に重要なものにすぎません。

 しかし、観衆に対しては、心を込めて、実に楽しそうに接する。公演の後、サインを求める長い列がないなどということはめったにないのだが、こういう時、彼は、まさに特別に持って生まれた恵みとも言えるような忍耐力と礼儀正しさ、親しみやすさを発揮する。ホフマンにとって、観客のメッセージに耳を傾けたり、ファンレターを読んだり、互いに共感したり、観客が彼を好きだと思い、熱狂してくれる気持ちに対するお返しとして多少とも感謝の気持ちを表したりするといった、観衆との交流は芸術家の当然の義務なのだ。公の場に出れば、彼とデボラ・サッソンには、のんきにしてはいられないことが多いわけだが、彼はこういったことを、名声の対価としてひたすら謙虚に受け止める。私たちは大勢の人に取り囲まれるのには慣れています。こういう人気は、成功の外面的な証拠です。ファンというものは厄介なものだなどと言う人がいるとすれば、そういう人はうそをついているのです。もう相手にされなくなったら、最悪じゃないでしょうか。
   ペーター・ホフマンに会うと、だれもがその素早い行動力に目を見張る。Singen ist wie Fliegen を著わすために三年間にわたってインタビューを行ったマリールイーズ・ミューラーは、彼の性格特性を示す二つの言葉に注目している。つまり、彼の好むのが、 to do[zu tun] と I feel[ich fuehle] という表現だということである。彼が「私は感じる」と言うとき、距離感を含むことなく、彼の全自我をその感情に込めているのだ。 私は彼のさわやかな率直さ、その心を開いてコミュニケーションを図ろうとする姿勢、説得力のある人間性に惹かれる。だれもが、目的意識の確かさと同時に自己を批判的に捉える、彼の自己認識を即座に感じ取る。肉体的かつ精神的な勇敢さ、そのダイナミックな心。抑えがたい個性が輝いているのと同じくらい、彼はまさにそのモットーとする、自分が望むことを、私もまた創造する  をはっきりと証明しているようだ。
ペーター・ホフマンは、ペーター・ホフマン以外の何者でもないのだ。彼の見解の独自性が彼の個性を特徴づけ、彼の芸術性を形作っている。ペーター・ホフマンの哲学的、芸術的主義主張は多くの保守的な人々を落ち着かない気分にさせる。政治的、社会的にリベラルで、例えば、戦争反対や自己防衛といった解決困難な問題を伴う、非核武装や世界平和に関わることをためらわない。家族を生命の危険から守ることができるとすれば、私は間違いなくそうする。それは殺すことを望むということではない。そういう選択をする羽目ならないように神に祈っている。と、以前、プレイボーイ誌のインタビューで臆することなく語った。この正直な告白の通り、彼は変わることなく、1984年の Ivory Man のツアーにおいて、争いうことなく、調和して、国々が手を取り合って一体となって働くすばらしい世界を創造しようと、聴衆に熱心に訴えかけている。
   緑の党に対する支持を表明することにためらいはないし、グリーンピースにも賛同すると同時に、西ドイツ人としての誇りを隠さない。彼このように望んでいる。
   利己的で情けない市民にはなりたくない・・・ 自分の庭にしか関心がないなどということはできない。その上で、全体主義国家に自分の庭を没収されるようなことがあったとしたら、抗議する。そういう事に対しては、行動するべきだ。この国に生きるか死ぬかといった苦しみが二度と再び到来するようなことは、断固として阻止すべきだ。
この自覚的で意見をはっきりと述べる芸術家は、1984年に、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー大統領に会って直接、非武装に関する見解について話すことに何ら良心的呵責はないと公言している。また、翌年には、ボンで行われた戦争終結四十周年を記念する公式な式典に積極的に参加した。はじめてベルリンを訪れた時に、ベルリンの壁における、全体主義者の犯罪に対して嫌悪感と苦悩に苛まれた経験を持つ彼は、1987年10月、はじめて東側で歌うべく、その憎むべき壁を超えた。マスコミや音楽界の中には共産党はボイコットするべきだと批判するグループもあったが、ホフマンは非教条的論理をもって反論した。
   私は今は積極的な行動のほうがより価値があると考えている。コンサートをするだけでなく、人々と話す機会が持てるのだ。そして、そのことは、音楽よりはるかに重要なことだと思う。
同様に宗教的見解も型にとらわれない。彼は、魂のよみがえりと霊魂の存在に関する信仰を素直に述べる。人類と宇宙に対する霊的信仰を表明している。この世の存在だけがすべてだとは全然思えません。同時に、その会話や作曲においては、根深い不可知論を口にしている。神が人類に関心を示さないなら、存在する権利はない。
   職業に対する考え方も非保守的でないなどということはない。オペラハウスでロックを演奏するとか、オペラにジーンズで行くとか、相当「過激な」考えの持ち主である。彼は、古くさい歌手神話に、身をもって反旗を翻し、自己主張してきた。例えば、 セックスは声を損なうというルネ・コロの言葉をきっぱりと否定している。セックスが声を損なうなどということはありえない。とんでもない作り話だ。舞台では全人格をかけて演じたい。自分の人生を完全に生きたい。つまり、他の人に影響を与えたい。 彼は、オートバイに乗り、スピードの出る車を運転し、馬に乗る。「壊れ物扱いの歌手」を演じることを意識的に拒否して、自分の人生を楽しんでいる。しかし、そういうことも、自分自身の限界に関する確かな感覚のもとで、判断し規律を持って、行っている。人間には自己認識力が備わっており、自分にとって何が良くて、何が悪いかは自ずとわかるものだ。 彼は他人に自分の職業を分類整理してもらおうとは思わない。だれでも自分がやりたいことをやるべきで、他の人々が言うであろうことを聞くために立ち止まることはできない。 彼は、全体的で健康的な洞察力をもって、映画、テレビ、オペラ、ロックをやっている。過去及び現在の他のどのヘルデンテノールとも違って、音楽の保守主義に挑戦し、より広範囲の鑑賞者とより幅広い聴衆を求め、その成功によって、それを勝ち取っている。何度も、彼は挑戦を繰り返している。
   すばらしいポップ・ミュージックもあれば、あまりよくないオペラもある。同様に、単純でつまらないポップ・ミュージックもあれば、壮大なクラシック音楽作品もある。しかし、ロック・ミュージックが我々の時代の一大事件であることは疑う余地がない。
   保守主義者の中には恐れをなす人たちもいるかもしれないが、ペーター・ホフマンはこういう修辞を楽しんでいる。芸術家の技術で、彼は全然違う糸を一緒に織り上げ、独自の思想を持った、どこにもない冒険的なデザインの、深い内容を持った、見事な織物を完成する。これこそが、人と芸術家の基礎を形成している生命の本質の深さであり、霊的で、情熱的で、規律ある感性そのものなのだ。
   ホフマンの本質は、自分で芝刈りをし、馬小屋を掃除し、柵の修理について隣人と相談する、都会から遠く離れたこの小さな村、シェーンロイトの一住人なのだ。この村に住む人々と心を通わせ合う一個人なのだ。そして、また、水泳、乗馬、サイクリング、運動など、精力的に日課をこなしているテノールでもある。だが、土臭さこそがまさにペーター・ホフマンの本質である。彼を突き動かしている根本的な力は、一連の献身的な愛につながる。
   彼の愛の範疇の中でも彼がもっとも大切にしているのが、家族である。デボラ・サッソンとの二度目の結婚によって、ロマンスと強いパートナーシップの二つを手に入れた。職業的にも個人的にも興味と関心を共有し、協力して創造活動をしたり、お互いにそのキャリアを支え合っている。二人の成人に達した息子たちも父親と親しくしており、継母ともうまくいっている。ホフマンは息子たちがその能力を伸ばせるよう努力をおしまない。特にヨハンネスには音楽の才能がある。シェーンロイトではしっかりした家庭生活を営んでいる。それは、弟のフリッツ、両親のウェーバー夫妻を含めた大家族だ。プライバシーを大事にするため、ホフマンは個人的な事柄に関しては、慎重に振る舞ってきた。私的な事柄に関しては、マスコミには沈黙を守っている。とても大切なことに関しては断固として詮索されることを拒否して来た。
   しかし、このような近しい人々への愛情を超えたところで、彼は、人生そのものに対して、包括的な愛情を示している。彼はそれをあらゆる行為の中で精力的に表現しようとする。例えば、歌うことを決心したのと同等の熱心さで乗馬を習うといった具合だ。デボラ・サッソンは夫の新たな経験への欲求について、ペーターは常に、出来る事よりも、さらに一歩先へ進もうとします と説明する。こういうダイナミックな生き方が周囲にも影響する。他者と強力にかかわり合おうとする。エイズ問題、心臓病の子ども、飢餓に瀕した子どもたちなどへの関心が深く、公的に慈善事業に関わると同時に、世界の恵まれない人たちのために、匿名での私的な支援を積極的に行っている。困難に直面する世界における、自分の音楽活動の正当性について葛藤を感じているのだ。
いつだったかどこかだったか、ロンドンか、シカゴのホテルで、小さな子どもたちの心臓手術をする一人の医者の話をテレビでやっていた。その医者はスーパーマンに見えた。彼は生命を与える力を持っている。私がやっていることことなど、ほんとに全く最低の必要性しかないと感じた。
それでも、彼は結局はこう考えることにする。自分が何人かの人たちに本当の喜びをもたらすなら、それはそれで良しとするべきだ。その時、おそらく、違う次元ではあるが、あの医者と同等の仕事をしていると言えるだろう。
   こういう、音楽を、喜びを他の人々と分かち合う手段として使いたいという願望こそが、ペーター・ホフマンの芸術的信念の中心をなしている。1987年のロック・クラシックス2で、彼はジョン・ミルンズの美しい詩を確信を持って歌っている。
Music was my first love/And it will be my last./Music of the future and music of the past/ To live without my music/Would be imposiible to do/In this world of troubles/My music pulls me through.
ペーター・ホフマンからあふれるイメージは、自分の音楽と自分の生活に満足だけではなく深い内的平和を見出すのが人間であるというものだ。彼は気難しい人間ではないし、その芸術はまさにその自意識の延長上にある。ペーター・ホフマンにとって、音楽をすることは、感情をもち、社会に貢献する人間としての責任を果たす方法の核心なのだ。その生活様式とその歌唱によって、彼は、勇気、知性、感性、自制心、誠実さ、上品な優しさ、妥協しない厳しさ、愛情深い包容力を示している。
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   ペーター・ホフマンの音楽観は非常に独特なので、極めて詳細な検証に耐える。思っていることを言う人だから、音楽的な事柄における好き嫌いは公になっている。シャンパンと燕尾服のオペレッタの世界は彼としてはパスしたいものだ。トラヴィアータのような台本は退屈で、うんざりだ。伝統的なドイツの流行歌 Schlaeger は好きじゃない。好きなのは、ワーグナー、モーツァルト、プッチーニ、それから、古典的なポピューラー音楽だ。     
   ホフマンの音楽に対する普遍的な好み、つまり、質の高いポップスとクラシック音楽を区別することを拒否する態度は、大いに議論の的になってきた。    テノールとしての彼は、ロックは彼の声を損なうと、繰り返しマスコミに非難されている。超保守的なワーグナー狂信者は、ロックシンガーが聖堂を汚しているのを知って、苦労して手に入れたチケットを返却した。しかし、このような少数派の声は、ホフマンの発するものに熱狂する国際的観客の拍手喝采に圧倒され、かき消された。 ロックに関わる主な理由のひとつとして、テノールはロックが本来的に有している創造へのきっかけを挙げている。すなわち、作曲したり、編曲したりする、創造的な自由があり、クラシック音楽でかなえられない仕事の形がある。 ポピュラー音楽のレパートリーを選ぶ根拠は、質の高い旋律、楽器の扱いの複雑さ、ヴォーカル面でのやりがい、心に訴えるドラマ性である。よどみない様式感をもって
このような歌を扱うところが、いわゆるクロスオーバー歌手とは一線を画している。歌詞の面でも音楽的な面でもその微妙な陰影に富んだ扱い方は様式的に完璧である。ポピュラー音楽をオペラ的に歌うというよくある間違いをおかしていない。二つのテクニック、あるいは、二つの異なる声を使っているということではない。確固として維持している良い発声法が全ての歌唱に応用されているのだが、それぞれに要求されるスタイルの微妙な違いを際立たせているのだ。マスコミによって二つの世界の間のさすらい人というレッテルを貼られたペーター・ホフマンは、実際、両表現形式にしっかりと根をおろした芸術家だ。ロック・シンガーとして芸術的にも商業的にも成功し続けているにしても、ロック・シンガーは大勢いるのに対して、大物といえるヘルデンテノールは二人しか存在しない、だから、彼としては、クラシック歌唱に対して厚い忠誠心を持っており、クラシック歌唱から離れるつもりのないことを明言している。この研究論文が主として焦点を当てるのはホフマンのオペラ・キャリアであり、彼がヘルデンテノールの歴史に衝撃を与えたこと、そして、これからも衝撃を与え続けるであろうことは間違いない。
   ホフマンは、キャリアの初期には、様々な役を歌った、つまり、劇的な役と同様に抒情的な役もたくさん歌ったが、1976年から先はワーグナー専門になってきた。こういう道をとるようになったのは、好み、需要、そして、生まれつきの才能によっていることは疑いようがない。ホフマンは他の作曲家も好きだし、他の様々な役、主として、カラフ(プッチーニ、トゥーランドット)、シェニエ(ジョルダーノ、アンドレア・シェニエ)、オテロ(ヴェルディ、オテロ)といったイタリアの劇的な役で冒険してみたい気持ちもあると発言してはいるが、やはりワーグナーの英雄役が好きなのは間違いない。ワーグナーのすばらしい音楽は単なる音を超えて、一人一人が内容を追求するように作られている。ワーグナーは特殊な歌手を要求する。英雄、騎士、理想主義者等々、ワーグナーの役柄は、歌手にとことん関わることを要求する。ワーグナーの魅力を、ホフマンはこう説明している。
   ホフマンの声はマリオ・デル・モナコが賞賛したように、イタリア的な性質を有していることは明らかで、彼がこういうレパートリーをめったに歌わないのは、じらされている気持ちがするが、彼がレパートリーを制限していることは、オペラ歌手の中でもめったにないほどのレベルで役を完成する機会を与えている。ほとんどが今日のワーグナー上演の重要指標である仕事によって、彼独自の人物描写を深め、磨き上げることを可能にした。
   ホフマンはオペラを演劇と考えて、接するがゆえに、そして、音楽と歌詞を同等の真剣さで表現するがゆえに、フリードリヒ、シェロー、ポネル、クプファー、シェンク、ヴォルフガング・ワーグナーなどを含む、今日の多くの卓越したオペラ演出家たちに好まれている。ホフマンは、コロ同様、リハーサルの過程で、歌手と協力しようと努力をする演出家を好む。歌手は、ある役を創り上げるよう求められており、歌手はそうする責任があるからだ。そして、彼は常に模範的な共演者であるけれど、役の性格づけや演技のスタイルが合わないと思われる演出(例えば、1983年バイロイト音楽祭のピーター・ホール演出のニーベルンクの指環)を拒否する姿勢を崩さない。ホフマンは先見性があって、挑戦しがいのある演出を好む。そして、歌うことは、身体と精神の両方で関わる活動だと考えるがゆえに、音楽を写実的で大胆な舞台劇と結びつけるのを歓迎する。私にとって、芸術的に歌うということは、正しい音を出すことではない。これは当たり前の前提であって、声によって感情を表現することのほうがむしろ重要であるということだ。
   彼は、歌唱と演技の融合を重視するが、これは、批評家たちは折に触れて、そういう批判しているが、歌唱技術を軽視するということではない。つまり、その意味するところは、要するに、この両者を分離することはできないということなのだ。今日において、歌手は舞台のしみみたいにつったって、ただ歌うなどということはできないのだ。彼が声楽の基本を重視し、マスターしていることは、彼の芸術家としての手腕を見れば一目瞭然である。歌唱技術に関する彼の考えはもの凄く規律正しいものであり、健康な声を維持するために必要な身体的持久力と体力調整について、陸上競技にたとえて説明している。
   スポーツで学んだことだが、肝心のときに適切であるべきだと彼は主張する。つまり、リラックスした状態で歌うには、スポーツの場合同様、力が必要だということだ。彼はこう付け加える。しかし、歌うためには、体力だけではだめで、内面的にもよく準備していなければならない。
   ホフマンにとって、テクニックとは抽象概念ではない。エミー・ザイバーリッヒは、彼に最初に教えたとき、気がついたことをこう語っている。
   彼は若くて、活動的。声があることだけにこだわっている種類でもなく、ただ機械的に演奏したがる種類でもない。彼はそれ以上のものを求めています。オペラに自分なりの何かをもたらしたいと思っているのです。
    彼は音楽劇への有機的アプローチを重視している。私は歌う機械でないということをはっきりさせたい。私にとって音楽の目的は感情、考えうる限りの種類の感情を解放することだ。彼は歌うことは、生きることと分離できないと主張する。声はその人間の経験する能力を映す鏡だというわけだ。彼は、この職業の非常に抽象的でわかりにくい側面について度々語っている。彼は演じるということを、色彩豊かなイメージで説明する。曰く、アドレナリンを待つ、あるいは、喜びをもって仕事に行く、それからまた、振動があまりにも強烈に自分に帰ってくると、私はそれを身体で感じる、とか、最高の幸福感を観客に共有してもらいたい等々。ホフマンにとって、歌うことは、あらゆる障害を突き抜ける双方向的な体験のうちに、音によって魂に火をつけ、普遍的な理解に至る橋を架けることだ。彼にとって音楽は神秘的な至上の力、情熱と自己認識と共に行使される力、絶対不可欠で、魅惑的で、救いなのだ。音楽は興奮剤だと彼は断言する。麻薬というなら、オペラこそ麻薬だ。と、彼は大胆にも言う。ホフマンにとって歌うことは、未知のものを探ること、隠された心理を探究すること、そして、一人一人の真実を外在化して普遍的な形にすることなのだ。賛成する人は少ないことを認めつつ、ホフマンは、声は性欲を映す鏡だ。オルフェウスは、その声を力に変えたと主張する。
   ホフマンにとって、オルフェウスは好みの典型だ。彼は、神話の世界の祖先である彼と、大胆さ、勇敢さ、人生を肯定する官能的で精神的な音楽を作る喜び、そして、その芸術で他者を深く感動させる特別の才能を共有している。
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14章 ペーター・ホフマン -3/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

  ホフマンはまた、ドイツの音楽バラエティ番組 Musik ist Trumpfに出演した。ヨーロッパのテレビ局と、ハンサムで素晴らしい声のテノールとの蜜月のはじまりだった。オペラでは1979年はワルキューレ、ラインの黄金、パルジファルとローエングリンの年となった。ローエングリンでは1979年12月にウィーンでのデビューを飾った。その年の夏にはすでにゲッツ・フリードリヒ演出のバイロイトで輝くばかりに美しい白鳥騎士を創り上げていた。オルフェウス誌はこのローエングリンについて ペーター・ホフマンは初日から理想のローエングリンであった と書いた。この演出がやがて1981年にテレビ用に録画された時には、彼はその演技に対してフランスの映像の賞であるバンビ賞を受賞した。ホフマンはまた、新しい役柄であるバッカスR.シュトラウス:ナクソスのアリアドネ)にも1979年10月にハンブルクで取り組んだ。

 桁外れの決定的な成功は、ホフマンに経済的な報酬をもたらした。1979年夏には、牧歌的な、16世紀の狩猟用山荘と地所を購入した。シェーンロイト城はバイロイトの近郊にあり、修復後は、彼の献身的なマネージャーとなった弟のフリッツ氏と一緒にそこへ引っ越した。兄弟はオペラの予定を組み、もっと驚くべきことにはロックへの冒険をも計画していた。

 1980年1月24日、ホフマンはメトロポリタン歌劇場にローエングリンとしてデビューを果たした。このエファーディングのプロダクションは、既にコロとイェルザレムがデビューの時に使用したものと同じである。ニューヨークタイムズのドナール・ヘナハンは、彼のいつもながらの紋切り型の紹介文を書いた。

 ホフマン氏は理想的なローエングリンが持つべき声よりも軽い声だが、素晴らしいローエングリンを演じた。彼の新鮮な声は、決して粗くならずに容易に大きなオペラハウス中に届いたし、別れの挨拶(グラール語り)まで疲れを見せなかった。彼は細部まで賞賛に値する劇的演唱を繰り広げた。ホフマン氏は、演劇的なやり方を心得ていた。

 ホフマンはニューヨークのオペラハウスの卓越したヘルデンテノールとなり、人気者になった。

 この年のいくつかの他の重大なプロダクションを強調しておこう。ウィーンでは彼はフロレスタン(ベートーベン:フィデリオ)を、非常に感情豊かに歌った。ザルツブルグ復活祭では、カラヤンの指揮の下、パルジファルを歌い、録音した。1980年6月には、コヴェントガーデンに招かれ、前衛演出の旗手であるテリー・ハンズのプロダクションで 純粋な愚か者パルジファル を演じた。批評家は、彼のパルジファルを喜びと呼び、彼を将来最も有望なヘルデンテノールであると位置づけた。バイロイトでは、シェローの最終年度のジークムントを演じ、彼の破壊的な演技歌唱が後世の為に録画された。批評はこのテノールの肖像を記念碑的に記録し続けた。彼は最高水準の歌唱を提供し、それは限られた空間での、思わず息を呑むような演技を伴っていた。

ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会) (Wagner : Tristan und Isolde / Leonard Bernstein | Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks) [Blu-ray] [Live] [輸入盤] [日本語帯・解説付] 1981年、ホフマンは難しい役柄であるトリスタンに、初めて挑戦した。レナード・バーンスタイン指揮の下、多角的演奏会形式であったバーンスタイン指揮での演奏に接した結果、ぜひとも全幕を普通の舞台でホフマンを見たいという強烈な熱意を目覚めさせた、マルチビジョンコンサート形式であった。

 1月の始めにハンブルクでローエングリンを歌い、バイロイトでは、ローエングリンを録音した。その年のハンブルクでの契約は、彼にとって公私共に重要なものであった。ハンブルク歌劇場のアンサンブルメンバーの中に、ウエストサイド物語のマリア役として、アメリカ人の若いソプラノ歌手、デボラ・サッソンがいた。ホフマンはバーンスタインのこのオペラを見て、そのヒロインに恋をした。デボラの言によると彼は、心のこもった言葉でいっぱいの素敵な手紙を書いたが、彼女はまだ指揮者である夫と離婚してなかったので、返事をしなかった。二人が真に出会い、愛を確かめあうまでには、おおかた一年の歳月を要した。二人が、マスコミにはじめて目撃されたのは、パリのガルニエ宮でのローエングリンのオープニングの時だった。この頃からデボラ・サッソンは彼の生活のあらゆる面で、重要な役を演じるようになった。

 その年彼は、モスクワボリジョイ劇場で、ハンブルク州立歌劇場の一員としてローエングリンを歌うという、珍しい栄誉を引き受けた。そして、バイロイトではゲッツ・フリードリヒとジェームス・レヴァインの百年祭記念プロダクションにあたるパルジファルを演じた。かつてパルジファルにおいて、このようにすばらしい喝采を受けた歌手は、誰もいなかった。北バイエルン・クリーア誌のエーリッヒ・ラップルは、極めて肯定的にまとめた。

 ぺーター・ホフマンは、夢のパルジファルである。彼の声と役柄の精密な掘り下げ方は素晴らしい!(声に)陰影つまりニュアンスをもたせる才能、及び、発声をコントロールすることよって、一息の中で、フォルテからピアニッシモまで、声を落とすことができる。

 しかし1982年は、演奏を完璧にするためだけに費やしたのではなかった。彼は、危険をおかし、成功した。つまり、グルックのオルフェオとエウリディーチェの、珍しいヘルデンテノール版を録音した。

また、 カメラのクローズアップテストにすばらしい印象を与えて通った結果、ぴったりのキャスティングとして、リチャード・バートン主演の映画ワーグナーで、シュノール・フォン・カロルスフェルト役を演じた。

 彼のための特別テレビ番組リングを巡るロックの録画撮りも始まった。これは1983年に収録が終了し、放送された。それから1982年11月21日、ZDFはホフマンの夢という、彼自身が台本を書き、デボラ・サッソンと一緒に司会をする、一時間の特別番組を放送した。

 ホフマンの夢は、放送と同時に大きな論争を引き起こした。理由は、この番組はロックとオペラを意識的に並列し、奇抜で独創的な音楽劇の混成として作られたものだったからである。批評家の大げさな不評に対して、一般の人々は熱狂的に支持した。放送は単発ものだったが、番組批評の投稿をある地方紙が載せたため、二回目の放送を求める声が大きかった。そのため、ZDFは40分編成に変えて再放送するように、予定を組んだ。

 ホフマンの夢は、彼のキャリアの中で、いくつかの理由で分岐点となった。一般の人々にとっては、ワルキューレ朝日のあたるThe House of The Rising Sun家の両方において、音楽的妥当性を確信させたロック歌手ホフマンに近づく最初の機会となった。放送局は、彼が長い間夢見ていた最高のレコードである、初めてのポップスレコードロック・クラシックスを同時に発表した。わずかな期間で、アルバムチャートに載り、それが15ヶ月間(5週間連続で第一位!)続いた。最終的には、このアルバムはプラチナディスクとなり、120万枚以上の売り上げがあり、彼はこの年のポップス歌手のタイトルを手にした。ホフマンにとって、テレビのプロジェクトは、今や彼の婚約者であるデボラ・サッソンとの生産的な音楽的共同活動を始めることでもあり、多少婉曲な表現をすれば、二人の関係の深さと情熱を表していた。ホフマンの夢はロマンチストで繊細なテノールの恋の成就で大団円を迎えた。すなわち、アンネカトリンとの、友好的な離婚の確定後、翌年の1983年8月23日、シェーンロイトで、デボラ・サッソンと結婚したとき、ホフマンは幸せなことに、おとぎ話を、彼個人の現実に変えたのだ。

 1983年の初め、ホフマンは、イタリアの聴衆の心を奪った。2月には、ワーグナー没後100年(ワーグナーはこの街で亡くなった)を記念した、ヴェニチアのフェニーチェ歌劇場での『パルジファル』、4月14日にはローエングリンで、スカラ座へのデビューを果たした。イタリア人は、ワーグナーには特別な愛情を持ち続けており、彼らはホフマンのすばらしく説得力のある、現代的な解釈に、すぐに心を打たれた。(最近のトリノでのワルキューレで、あるイタリア人の批評家がこんにち、[ペーター・ホフマン]は大変に卓越した、ワーグナーテノールであると書いた)他に、この年での目立った業績には、2月にゲッツ・フリードリヒの演出で行われた、ベルリンでの堂に入ったフィデリオ、アメリカの聴衆のために、ジークムント役を練り直した、ニコラウス・レーンホフ初演の、サンフランシスコでの『リング』、そしてバイロイトにはパルジファルで戻ったこと等が含まれた。彼は同様に、スタジオ録音にも積極的で、ワーグナーのアリアを録音し、2つのイタリアオペラでのデュエットで、彼の妻はクラシックの分野でのデビューを果たした。彼はまた、日常的な思い出を集めた、マリールイーズ・ミュラー著歌うことは、飛ぶことのようだで、彼女のインタビューに答えて、語った。さらに、彼は熱心に、彼のロック歌手としてのキャリアを追求し続けた。

 1984年4月25日、彼はドイツ中を周遊する、初の大掛かりなロックコンサートに乗り出した。これは彼がポピュラー音楽を演奏し、独自の創作であるロックカンタータ、アイボリーマン(録音したペーター・ホフマン2も同様)—これは、平和と友愛のメッセージが強く表現された、デボラ・サッソンの詩と、ローランド・ヘックーゲルト・ケートの作曲の初演であった。コンサート会場で、ロック歌手としてのホフマンへの反応は、ビックリするほど好意的であった。今、その時のことを、彼はさらっとユーモアを交えて回想する:

 最初、私たちがこれらのコンサートを始めたとき、聴衆はイブニングドレスや、タキシードを着て、聴きに来ていた。彼らは私が、オペラのアリアを歌うと思っていたのだ・・そうしたらこれだ!歌が始まると、彼らは立ち上がって、ドアの向こうへ消えていった!

 しかし、様々な種類の人々から成る大多数の人々は、このように軽音楽とクラシック音楽との境界線をこえて、2つの音楽の世界を彷徨うことに対して賛成の意を表す為に、留まった。ホフマンは、自分自身の芸域が広がっていくことを嬉しく思った。ロックツアーを終えると、サンフランシスコで、彼としては珍しいオペレッタのレパートリーであるこうもりのアイゼンシュタイン(彼の妻がアデーレとして、一緒に仕事をするよい機会であった)を演じ、それから全く違った環境の中で、バイロイトのパルジファルに没頭した。彼の初めてのシュトルツィングは、1984年12月初頭にチューリッヒにて予定されていたが、リハーサル中の事故で、足にギブスをしたので、その時点で彼のデビューは遅くなった。彼はもう一度、1985年2月にメトでシュトルツィングを演じ、またその冬にはワルキューレ1幕の演奏会形式録音で、ニューヨークフィルハーモニーへデビューした。それから、デボラ・サッソンと一緒に6月のサンフランシスコのリングへ戻った。彼女はラインの乙女を歌った。ホフマンは、ジークムントをこの全サイクルで繰り返し歌った。そしてまた2人はバイロイトへ戻り、パルジファルを演じた。(サッソンは花の乙女として)フィリップスがこのプロダクションのライブ録音をした。2人の仕事上の共同作業によって、2人の親密度はますます増し、サッソンの妹・ジャッキーの死の悲劇をも乗り切った。そして、2人一緒の録音の一環として、名高いバーンスタイン・オン・ブロードウェイを発表した。その年の終わりに、彼は意欲的に新しく編み出したロック音楽・全て彼の母国語で新しく作った俺達の時代 unsre Zeitを発売した。

 ロック・コンサート開催が著しく目立つようになったのが原因で、一部のマスコミ関係者は離れていった。その中には恐らく、ニューヨークタイムズ社のドナルド・へナハン氏も含まれているだろう。彼はホフマンの、12月20日のメトでのローエングリン復帰に対し、声の疲労について、辛辣な批評で応えた。ペーター・ホフマンは、三幕では、ぼろぼろの声でとりあえずなんとかおさめた・・と、彼は書いた。しかし、一般のニューヨークの人々や、独立系のマスコミは、ホフマンの白鳥騎士としての高潔さを、引き続き褒め称えた。(彼は、こんにちのローエングリン歌手のうちで、一、二を争う主導的歌手という地位を、確かなものにした)1986年1月のメトでの公演は、テレビ用に録画された。

 メトでのローエングリンとパルジファルに挟まれて、ドイツ20都市を周遊する大ロックツアーは、2月に始まった。彼はカリスマ的な魅力と、信じられないほどのエネルギーで、観客を虜にした、とライン・ネッカー新聞社は彼のコンサートの様子を描写した。夏には大切な舞台デビューがあった。バイロイトで、ダニエル・バレンボイム指揮、ジャン・ピエール・ポネル演出の下、トリスタンを演じた。予想されたようにホフマンは、演劇的にも圧倒的で、かつ声楽的にも強い印象を与え、この殺人的な大役に対する、際立った解釈者であることを立証した。

 彼は、一幕では言葉をはっきりと打ち立て、説得力をもたせることに比重を置き、二幕では『愛の二重唱』ですばらしく、熱く、情熱的に美しく歌った。彼はまた、三幕の異様な感情の高まりをも、充分に余裕をもっていた。このように、彼がこの役にピタリとはまったことは言うまでもなく明らかである。彼の舞台は説得力があり、深い感動を与える。

 1986年9月、ホフマンはメトのオープニングガラコンサートと、新演出のワルキューレのためにニューヨークへ戻った。敵意むき出しの権威主義的なマスコミに迎えられたが、それにもかかわらずアンドリュー・ポーター、ビル・ザカリアサン、ウィリアム・ウェルズ(その他大勢)の賞賛の批評を勝ち取り、またニューヨークの聴衆の絶大な支持を得た。

 彼は1987年前半には、パルジファル、ジークムント、トリスタンに専念した。ウィーンではウィーンの人々が自分達の新しい座付き歌手である彼に喝采をあびせ、トリノでの彼のリング公演はお祭り騒ぎだった。
 バイロイトで、ホフマンは世界的水準のトリスタンを演じた、円熟して、深みを増しており、さらに、三幕では、すさまじい没入と、強烈さを示していた。このことは、ホフマンが初日をひどいインフルエンザと発熱を抱えて歌ったあと、彼の評判を落とそうとした、あのマスコミのスキャンダル・メーカーたちはうそつきだということを証明していた。ポピュラーの分野では、その年のツアーと新しいLP、彼の大きな成功の中心的なディスクであるロック・クラシック2の発売に先駆けて、1986年ツアーのライブビデオを発売した。これは、10週間、ヨーロッパ24都市を周遊し、東ドイツで始まり、12月のハンブルクにて、締めくくった、総公演42のツアーである。その年の録音は、年の瀬に、ホリデーソング、魅力的なクリスマス音楽を、デボラ・サッソンと一緒にアメリカで発表した。

 1988年、ホフマンはオペラに専念した。これにはメトロポリタン歌劇場のリングジークフリートで、ジークフリートとしてデビューするという予定も含まれていた。このデビューは大いに待たれていたものである。不運なことに、ちょうど「ジークフリート」の初日の2月12日を前にして、テノールは酷い気管支炎にかかり、この仕事は延期せざるをえなくなった。同時に、神々の黄昏のジークフリート・デビューは「ジークフリート」のあとにするのがベストであるという慎重な決断がなされた。
 その後、一連のヨーロッパ公演にゲスト出演した。4月2日、ウィーンでの「パルジファル」は17回のカーテンコールを受けた。ボンでの一連のシュトルツィング(マイスタージンガー)では徹夜でチケットを求める人の列ができた。六月、ジエノヴァでジークムントを数回、ホフマンは、(三幕で)靴屋による詩作指導とその後の優勝の歌では、最高音でさえうっとりするほど魅惑的だった。声にはつややかな光沢の輝きがあり、超人的な持久力を備えていると批評家が書いたマンハイムでのシュトルツィング。

 バイロイト・デビューから12年後、8回の公演で、クプファー演出、バレンボイム指揮の新演出のリングのジークムント、シュトルツィング、パルジファルの、三つの主要な役を歌うという、ヴォルフガング・ヴィントガッセン時代以来のめったにない名誉を与えられた。ドイツのある新聞の表現によれば、彼は、バイロイトの無冠の王であり、彼にとって輝かしいシーズンとなった。シュトルツィングとしては、絶好調の歌で、ヴォルフガング・ワーグナー演出でバイロイトの喜びにあふれた祝祭を盛り上げた。一方、「リング」の新演出は、ホフマンに、1976年彼をバイロイトにデビューさせた同じ役で、記念碑的成功をもたらした。ジークムントの衝撃的に人を引き付ける描写が賞賛され、その声の持続力の強さが証明された。ヴォルフガング・サンドナーは、もっとも重要なことは、安定した輝かしいテノールのペーター・ホフマンが存在したということだと、書いた。ニューヨークタイムズのジョン・ロックウェルでさえ、ホフマンはこの役を巧みにこなしたとしぶしぶ認めざるを得なかった。それでも、彼は、但し、緻密ではなかったと評したが、ロックウェルに賛同した新聞はほとんどなかった。この放送は、ワルキューレを何百回も歌ったホフマンは、それでもまだジークムントに新たな微妙な違いを表現することができるのだということ、この役に対する彼自身の何ものにも侵されないアイデンティティーを犠牲にすることなくクプファーの悲観的な見方を取り入れることができるということを明らかにしていた。

 その年はトリノでのリング、バルセロナでの一連のパルジファル、ベルリンのリングの再演のジークムント、11月6日の公演が特にすばらしかったマンハイムのシュトルツィングの再演、ORFがその年のはじめに録画したウィーンのワルキューレの再演、新しいポピュラー・アルバム モニュメント の発売で終った。トリノでのジークムントについて、La Stampa は、彼のこの役と、ワーグナーのレパートリー全般対する自信と、特に役にぴったりの彼の身体的外見があいまって、彼が注目にあたいするジークムントを創造することを可能にしている と書いた。

 1989年、重要な予定が待っている。その一部を挙げると、ウィーンで、ジークムントと魔弾の射手のマックスの再演、再びバイロイトでクプファー演出のジークムント、ワシントンでフリードリヒのリングそれから、ロック・ツァー。

 44歳の今、極めて独特のキャリアの半ばにあってちょっと立ち止まってみると、ペーター・ホフマンの芸術の進む道は多様である。もちろん、ワーグナーがある。新演出ともしかしたら、リエンチも含む、タンホイザー、ジークフリートといった新しい役を歌う。それに、イタリア・オペラのドラマティック・テノールの役柄(力強いホフマン、カラフ、シェニエ、カヴァラドッシ、そして、当然のことながら、オテロ)に取り組む可能性もある。それから、オペラ以外にも、もっと多様なチャンスがある。つまり、ミュージカル(例えば、ウェスト サイド ストーリーで説得力満点のトニー、キャンディード、あるいは、ブリガドゥーン( Brigadoon)のトミー)、ロックもたくさん(CBSとさらに5年の契約を結んでいるし、1989年には大ツァーを計画している)、テレビ、そして映画だってあり得る。そして、舞台での仕事をさらに先にすすめれば、将来、新たな役割も見えてくる。新しいアイデアがない限り、やろうとは思わないと言うことではあるが、オペラ演出家としてのホフマンも可能性があるだろう。カウボーイのホフマンもありかもしれない(馬を飼育するという夢を持っているということだし、シェーンロイトの乗馬クラブの会長になっている。それに、ウェスタン・ライディング大会で、成功をおさめた) 彼は、型にはまったヘルデンテノールであることに抵抗を示したように、こういういろいろな可能性に対しては、積極的な興味と芸術性を示している。才能豊かな歌手として、天賦の才能に恵まれた多才な演技者として、その立場を確立したペーター・ホフマンの将来は、様々な可能性に満ちており、選択の自由がある。彼が賢明な選択をするのは、間違いない。
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14章 ペーター・ホフマン -2/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

  1972年、ホフマンは、リューベックでついにリリックテノールとして2年間の最初の契約を結び、家族もそこへ引越し、タミーノ(魔笛として印象的なデビューを果たした。リューベックでの短い滞在の中で、彼はアイーダの伝令(伝記には、こういう小さい役の経験はないとあります。誤読でなければ・・・)からドン・ホセ、こうもりのアルフレード、ファウスト、イドメネオポッペアの戴冠のネロなどの大小さまざまな役を歌った。また、客演もこなした。バーゼルでのヴォツェックの鼓手長、ヴッパータールやローエンでのジークムント(ワルキューレ)、これは彼の初めての大きなワーグナー役での成功だった。ホフマンのキャリアにおける地方でのこの時期は、レパートリーを築き、声の多様な可能性を訓練し、実際の舞台経験を積むうえで、非常に役立った。

 リューベックでデビューする前は、プロとしては一度だけ1972年に、カールスルーエ州立劇場のノアの大洪水のプロダクションでセム役を演じただけであった。舞台に立った最初の年は、自力で舞台上の存在感と演技力を生み出すための実験場であった。彼は、この存在感と演技力によって高く評価されるに至ったのである。彼はリューベック専属時代の価値を認めながらも、リューベック時代が彼に実際的な経験を積ませてくれた以上に、田舎とは永遠におさらばして、成功しようという彼の決心を強めさせたとも断言している。

 ワーグナーの諸役でのいくつかの客演が、この夢を現実へと導いた。1974年、ホフマンはヴッパータールでのジークムントで、大いに注目され、そして再び、1975年2月25日、ヴィスバーデンでヴェルズングの双児の一方として大評判を呼んだが、これらは、ロルフ・リーバーマン(当時のパリの監督)やヴォルフガング・ワーグナーのバイロイトのスカウトたちが証人になっている。そのわずか数日前の1975年2月22日に、彼はドルトムントのローゲ(ラインの黄金で、鋭い演技力と、力のこもった歌唱により、賞賛された。1974年9月9日、ヴッパータールでのワルキューレの後、朝刊には夜半にヴォルフガング・ヴィントガッセンが死亡したという、悲劇のニュースが報じられていた。同時に、見出しにはヴィントガッセンの後継者として、正にペーター・ホフマンが掲載された。こうして、ホフマンは間もなくシュツットガルトと、5年間の重要な契約を結び、来たる1976年のシーズンにバイロイトへ招かれた。

 1976年3月、彼は今まで以上の注目を集めた、最初のシーズンに、ゲッツ・フリードリヒ演出のパルジファルを歌い、家族をシュツットガルトに呼び寄せた。1975〜76年のシーズンには、シング作の戯曲「西国の伊達男」を基にしたという、ギーゼルヘル・クレーベ作曲のDer Wahrer Held 真の勇者という(1975年10月・ヴッパータール)新作オペラのタイトルロール、魔弾の射手や、トゥールーズやボルドーでのワルキューレ、ローエンのラインの黄金などを歌い、歌唱力とドラマティックな演技力で、再び素晴らしい注目を集めた。1976年の早春、数週間の間に、三つの大掛かりな、異なるプロダクションのパルジファルのオープニングを務めた。マスコミは彼を「西独のパルジファル」と書きたてた。つまり、その年の春には、シュツットガルトでのフリードリヒのプロダクションの他、ヴッパータールとハンブルクで成功を収め、彼の三つの微妙に異なるコンセプトを伝える能力、そして彼の声と容姿で、賞賛を浴びた。:彼のワーグナーテノールとしてのすばらしいキャリアは、もはや止められない と、ハンブルカーアーベントブラット紙は熱狂的に書きたてた。

 フリードリヒは、シュツットガルトでのパルジファルの結果に大いに満足し、ホフマンをバイロイトでの彼の演出に使いたいと思った。

 こうしてホフマンは、シェローのジークムント(1976年7月25日)とフリードリヒ(ヴォルフガング・ワーグナー演出の間違いだと思います)のパルジファル(1976年7月31日)の両方で、音楽祭の目玉としてデビューシーズンを迎えた。シェローのリングはもの凄い反響があった。残念なことに、ずっと音楽を愛し続けたホフマンの父マックス・ペーターは1974年に他界しており、息子が国際的なスターになったことを知ることはできなかったが、ペーターの初期の頃の成功を分かち合ったことで、大変満足していた。

 スキャンダルはバイロイトの芸術的風土の根幹のように見えるが、シェローリングも、当初は、同様の一大スキャンダルとなった。後には騒動は静まり、この演出は1980年の最終シーズンには、音楽祭史上最も長いカーテンコールを達成した。

 ホフマンにとって、ビジョンを持った演出家と一緒に仕事をし、既に卓越していた性格表現を完全にすることは、変容の大きなチャンスだった。更に、シェローのリングは、オペラ演出に対する彼の考え方を完全に変え、また、それは、監督との対話による、まさに協力的創造活動としてのオペラにおける演技の可能性を彼に提示した。そして、ホフマン自身の歌と演技が既に目指していた方向性を具体化させた。それは、オペラの現代化 すなわち、豊かな感情表現と、微妙なニュアンスを有する、完全に写実的な演劇を目指すということである。

 シェローは私に、自分が今までに演じてきたなかで最高のジークムントを創り出すことを可能にしたと彼は1983年に明言している。

 しかしリハーサルの課程は、いつも完全に合意のもとで進んだわけではなかったし、シェローの要求は、対価=犠牲を支払わずに済むものでもなかった。

 私たちは何という体力的に無謀なことをしたのだろうか。2日後には、私たちの膝は激しい動きで傷だらけになった。そのまた2日後には立っているのがやっとなくらい、傷だらけになった。私たちは、正にゴールキーパーがつけるような膝あてをつけて、再び激しく動いた。

と、ホフマンは語っている。そして、シェローのやり方の持つ根源的な力について次のように力説した。

 シェローは、すべての瞬間における真実性を獲得することを大前提として事にあたったと思う。彼は、自分自身と歌手たちに力の極限まで出し切らせた。彼の要求が少なければ、少ないほど、かえって、私たちは虚栄心を刺激された。私たちは内心、求められる以上のことを、いつもしていた。

 ホフマンはシェロー演出を巡る論争からは無傷だった。彼のジークムントとして、そしてその2日後の初めてのバイロイトでのパルジファル(音楽祭史上最も若いテノール歌手)でのデビューは、どちらも熱狂的に歓迎された。世界の主だったオペラハウスが、先を争って彼の出演を求めた。ジークムントとしてのデビューは1976年コヴェントガーデンとパリ・オペラ座、1977年にはサンフランシスコでの演奏会形式のワルキューレが初めてのアメリカ公演を飾った。舞台デビュー後わずか4年で、ホフマンは国際的スタートしての名声を獲得した。

 彼のキャリアの進行は、同時に彼の私生活にいくつかの変化をもたらした。1976年夏のバイロイトでの大成功のすぐ後、彼とアンネカトリンは静かに、そして穏やかに別れた。ホフマンがバイロイトへ引っ越した後も、彼女はシュツットガルトに残り、2人の息子達を寄宿学校へ送り出した。13年間の結婚生活は、育児、軍隊生活、オペラ歌手になる為に音楽の勉強を完璧なものにすることなど、緊張との闘いの連続だった。ホフマンが精力的にキャリアへのチャンスを追求している間、彼女は倹約し、もがきながら数年間、子供たちと家に残っていた。この状況について、記者達から質問を受けたとき、彼女は穏やかに答えた。どんな人でも私の夫のように、一躍脚光をあび、名声を得れば、特殊な生活にならざるを得ないでしょう。 しかし、彼女もまた、自分の目標を持っていた。二人の間では、彼女こそが最初に歌手への憧れを抱いていたのだ。数年後、アンネカトリンは西シュツットガルト劇場のキャバレーの一員として、自分の夢を実現した。ペーターは、この結婚が静かに終焉を迎えたことに、ずっと心の痛みを感じ続けるだろう。

 私はいつも彼女に対して、悪いことをしていると思いながら眠った。私は勉強しなければならなかったし、客演のために家を離れて、歌わなければならなかった。そして彼女は、とりわけ舞台に立ちたいと望んでいた彼女は、子供たちと一緒に家に居たのだった。

 バイロイトの二年目のリハーサルが始まる数日前の1977年6月11日、ホフマンの怒濤の如きキャリアは、オートバイの大事故で、突然、そして、ほぼ致命的に、中断された。一台のパトカーが一方通行の道を逆送してきて、彼のオートバイに衝突した。ホフマンは左足に複雑骨折を被った。治療には8ヶ月以上かかり、脚の損傷を治すために10回もの手術を受けた。この事故の時期、つまり<タイミング>がバイロイトデビューの前だったら、はるかに悲劇的だっただろうとホフマンは述べている。が、それでも、試練は長く苦痛なものだった。それ(このきびしい試練)を彼は信じられないほどの意志力と肉体的勇気だけで乗り越えた。後に医者の一人が、彼の奇跡に近い回復は、(人は)自分の限界を極める覚悟があれば、目標を達成できるものだという事実によるところが大きいのだろうと述べた。

 ホフマンはまだ足に器具をつけていて、彼はその器具を後退ギアとからかうように呼んでいたのだが、1978年3月13日、復帰凱旋舞台では、仕事に対する愛が(事故の)以前に増して強まっていた。彼はコヴェントガーデンで魔弾の射手を歌ったが、その時は狼谷へ飛び降りるパントマイムのスタントが必要だった。彼の舞台は、歌と演技の両方で熱烈な賞賛を勝ち取り、ロンドンの批評家は、彼の舞台復帰をロンドンで迎えることができたのは名誉なことだと言った。6月にはハンブルクでのローエングリンが続き、その年の夏にはジークムントとパルジファルとしてバイロイトに見事に復帰した。オルフェウス誌は、彼が歴史的な大喝采を受け、それは全く彼に相応しいものだったと書いた。ホフマンはさらに新たなエネルギーと情熱をこめて役を演じた。彼の演技における写実主義は、ワルキューレでの登場場面では、見ていた医者たちをはらはらさせた。彼が強い印象を与える為、舞台で故意に転んだ時、みんな青くなったと彼の主治医は述べた。

 1978〜1979年には、ホフマンはレコード録音とテレビ放送に進出した。アラン・ロンバールとバークレイ・レコード社が1978年にタミーノ(魔笛として彼を起用した。1979年には、サー・ゲオルク・ショルティ指揮のフロレスタン(フィデリオを録音した。その時はレコーディングの間じゅう、気管支炎に悩まされ、コンサートの結果も彼にとっては完全に満足のいくものではなかった。
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14章 ペーター・ホフマン -1/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター


  歌手は歌う機械ではないということをわかってもらいたい・・・
  私にとって、音楽の目的は、感情を解放することだ。
  感情とは、考えうる限りのあらゆる種類の感情である。
  心と魂を開く感覚である。
  声は、まさに、その人間の経験の豊かさを映す鏡である。

  自由落下の中で飛ぶこと、これが飛ぶということ、
  この、人間には本質的に不可能なことをすること。
  すなわち、地球の引力から完全に自由に、鳥のように超然としていることだ。
  何物にも束縛されない状態、そして、同時に、
  頭のてっぺんからつまさきまでコントロールされている状態。
  落ちて行くこと、飛ぶこと、完全な解放。
  歌うことも、うまくいった瞬間は、この体験と似ている、
                  ペーター・ホフマン 歌うことは、飛ぶこと


 おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている!

 詩的だが、頭でっかちに誇張されたこの新聞の決まり文句、それにもかかわらず、ヘルデンテノール界へのペーター・ホフマンの出現に関して、70年代の経験豊かなオペラファンは、発見の感覚を正確に捉える。英雄的に歌うことの大変動は新しい歌手世代によってもたらされたが、ペーター・ホフマン以上の、第一級の成功者はこれまでにいなかった。


 ペーター・ホフマン、ドイツ人の若い歌手、真のヘルデンテノールはバイロイト100年記念祭の発見であった・・・

 ペーター・ホフマンのジークムント・デビューによって、人々は陶酔感を味わった。
すらりとした若者、オペラ界のジェームス・ディーン、声を慎重に扱えば、80年代のジークフリートになれるだろう。

 その新人は名前をペーター・ホフマンと言い、彼はたった32歳である。彼の激しい、若さに溢れた跳躍、彼のバリトンの声質を備えた力強い声、そして彼の演技力の醸し出す存在感によって、ジークムント役が新たな注目を集めた。この印象的な歌う役者は、聴衆に熱狂的に歓迎された。
ここで、ドイツと、それ以外の国における1976年のバイロイトのセンセーショナルなワルキューレの初日についての寸評を読んでみよう。

   シェローのリングは、現代的なワーグナー演出の画期的な事件として注目された。ワーグナーの楽劇を、大胆に勢い良く、現代に生々しくよみがえらせた。そしてそれは、新しい歌手世代が、ただ単に移動して行く声の連続から、コミュニケーションが取れる言葉による歌へ、また大げさな記念碑的演劇から、映画的にと変容させ、国際的に高い評価を得たとして紹介された。これらの中で、ペーター・ホフマン以上に、強い印象を与えた者はいない。彼の声には本物のヘルデンテノールの音色と、それに加えて同時に斬新な美しさがバランスよくある。彼の演技は白熱して、ヘルデンテノール芸術を未来へと推進した。マリア・カラスがベル・カント・オペラの為に成したことを、ペーター・ホフマンは英雄歌唱の伝統の為にやった。エルケ・ブレーベス Elke Brevesの表現を引用すると、この非凡なテノールが刺激したことは音楽的にも、劇的にも価値が高いことを証明しており、彼が成し遂げたひとつの公演にとどまらず、広範囲で重要な大変革をもたらした。
 ペーター・ホフマンは、クラシック音楽とポピュラー音楽という、普遍的な音楽への興味に捧げられたそのキャリアにおいて、聴衆の楽しみに対する抑制や制限を消し去ることに関与し、聴き手の好みを拡大し、世代間ギャップを埋めるという形で、古くから追求されながら未だ完成されることのなかった総合芸術の最高の理想の姿を具現した。 
 150年のヘルデンテノールの伝統のなかで、音楽と劇の完全な融合が実現した。一人の批評家は英雄たちを創造したとき、ワーグナーは、ペーター・ホフマンの姿を思い描いていたに違いないと書いている。映画でワーグナーを演じたリチャード・バートンがホフマンについてリヒャルト・ワーグナーがホフマンを見たら、これこそが私の考えていた人物だと言うにちがいないと言ったように、ワーグナーが、ホフマンを、自分の理想が視覚的にも声楽的にも具現された姿だと思うだろうと容易に想像できる。

 1944年8月22日、戦争が最後の破局の時期を迎えていた頃、ペーター・ホフマンはマリエンバードで生まれた。 彼の両親は、このボヘミアの町の小さなドイツ人コミュニティーに属し、演劇愛好者だった。 ボヘミア出身の彼の母親である、インゲボルグ・ホフマンの実家は、旅回り芸人一座であり、彼女は少女時代を、この家族経営の一座で、芝居やオペレッタを演じながら過ごした。 戦後の貧窮の中で、ペーターの父親、マックス・ホフマンも劇場に関わらざるを得なかった。 家族写真の一枚に、敗戦直後の混乱期に安全な場所を求めて留まっていたダルムシュタット近郊の学校や会社でオペレッタなどを演じていたときの、白い薔薇というオペレッタの衣装を着た、両親の写真がある。 彼の母親は、パンの間に挟むわずかな肉の一切れを手にする為に働いた。 非ナチ化の初期の困難な時代の後、ホフマンの父親は彼の仕事を再開した。(父の実家は、香水工場経営者であった。)弟のフリッツは1946年(伝記には1948年とあります、この本は伝記を参照していますから、ミスタイプの可能性が高いと思います)に生まれ、既に家族の一員になっていた。そして、二人共、ダルムシュタットのゲオルグ・ビュヒナー校に通った。

 テノールにとって、スポーツが、学校時代、一番の関心事だった。彼自身の告白によれば、彼はその時学業では面白いと思えるものが見つからなかった。私は奥手だったのだと思う。 彼は、大人になってからは知識欲と、明確な探究心をもった熱心な読書家になった。学校と、地元のスポーツクラブでは、棒高跳び、ランニング、そして砲丸投げに秀でていた。彼はヘッセンの10種競技のユース・チャンピオンシップ・タイトルを数回勝ち取り、おしなべてオリンピック選手向きの人材だと考えられていた。
 しかし、早くから陸上競技に匹敵するほど好きだった別の物があった。音楽である。彼は、家庭で義務的にピアノのレッスンを受けたが、すぐに自分の音楽の好みがギターに向いていることがわかった。家族をがっかりさせたことに、彼はピアノのレッスンを止めた。それからギターを独習して、ちょっといんちきっぽかったが、友だちに教えることさえした。初めてのアコースティックギターを買うために、いくつかの新聞配達の仕事をした。すぐに彼と何人かの学校友達がロックバンドを作り、 再び親の反対を押し切って、 新しい音楽を演奏し、歌うことを学ぶ為に、全ての自由時間を費やした。このロックへの熱い思いは、ペーター・ホフマンの創造感覚を形成する力として残った。しかし他にも同じように子供時代の音楽的影響があった。かつてマックス・ペーターは指揮者になりたいと思っていて、彼もペーターの父方の祖父も熱烈なオペラ愛好家だった。マックス・ペーターのレコード蒐集は、彼の息子の小さい頃のクラシック嗜好を形成した:ヴェルディ、ビゼー、そして何よりもワーグナー。
 それに、彼の少年時代の恋人であり、最初の妻であるアンネカトリンの両親はオペラ歌手であった。彼らは義理の息子の才能を完全にクラシックの方向へ導こうと試み、彼にロックを演奏し歌うことを諦めさせ、本気で声楽の勉強をするように勧めていた。
 ポップス音楽に対するペーター・ホフマンの熱い思いを犠牲にするようにとの助言を彼は全く受け入れる気がなかったし、彼の青春時代と同じように後の人生においても、強い意志をもってロックを作り出すことに執着している。若い頃、それは創造的な願望を満たすための錨だった。彼が12歳の時の、両親の離婚の衝撃を切り抜ける為の助けになり、学校や、ますます窮屈になった家庭環境から離れて、個人的な楽しみを作り出す為の助けになった。家族間の対立は最高潮に高まった。インゲボルグ・ホフマンは、ペーターとわずか10歳程度しか離れていないウェーバー氏と再婚した。
 継父と継子の初期の対立は解消され、後には、お互いに相手を尊敬しあう暖かい関係を築くことになった。(今日では、ウェーバー氏はホフマンの地所や事務的な管理を手伝っている)しかしその時は、母親と義理の父親は、若いホフマンの、数学とフランス語の出来の悪さ、いわゆる反抗期に悩まされていたのであって、彼がロックに夢中になっているのが、特に困ることだと考えていたわけではなかった。1960年から1963年まで、テノールと彼の学校友達何人かで、アメリカンクラブを回るロックバンドを結成した。ホフマンはギターを弾き、リードヴォーカルとして歌った。そしてエルビスの物真似として、かなりの評判を得た。この時代に、彼の声に非凡な可能性があることを確信させる出来事があった。クラブのマイクが壊れて、ホフマンが声の力と質を全く落とさずに歌い続けていたとき、あとで仲間たちは、ホフマンはオペラティックな声を持っていると言った。
 高校の卒業試験のすぐ前に、ホフマンは学校を退学し、学校友達のアンネカトリンと結婚し、自分自身の家庭生活を始めるつもりだと告げたことによって、彼の母親と義理の父親を驚かせ、がっかりさせた。この決心に関する彼自身の回想をマリールイーズ・ミュラーに次のように語っている:
 いずれにせよ誰かが学校を途中で退学する時には、その人の人生に暗い部分を残すだろう。そして私にとっても、それはぽっかりと開いた穴だった。大きな口をあけたその穴を埋めるほどの創造的なことをしたいと思った・・・皆放蕩息子とか、彼の人生は台無しだと口々に言っている。しかし私自身は表面的にだけでなく、自信満々だった。
(ホフマンの自立心、独立心のに対する誇りは、彼の二人の息子の正式な高等教育に関しても似通った決心を支援させた)

 けれども、アンネカトリンとの結婚生活を始める前に、1962年ホフマンはドイツ軍に徴兵された。そこで彼は空挺部隊を選択した。それは挑戦と、体を鍛えることを意味していた。1963年についにアンネカトリンと結婚し、二人の息子、ペーターは1964年に、ヨハンネスは1965年に、生まれた。
 軍隊は、若いホフマンにとって極めて重要な経験だったことは明らかだった。およそ20年後に、そのころを振り返って語っている:

 それから私は自分自身で行動し、義務をこなすことができることを証明したかった。自分に差し出された軍隊を受け入れたときの気持ちは、心理学的には、きわめて単純に一番良い逃げ道であり拠り所であるという思いだった。
 彼は陸上競技への挑戦は強靭な肉体と精神の素晴らしい訓練になると思った:

 私にとって、それは冒険—政治的ではなく、肉体的な冒険だった。

 彼が軍隊で考えていたことは、自分の力でどこまでできるかということだけだった、加えて、長期間軍務についたことと、彼の基本的信条である非暴力との関わりについて説明している。
 
 当時は軍隊について深く考えなかった。それは、考えれば自分自身を葛藤に陥れる可能性があったからである。そういう葛藤は自分にとって何の役にもたたないということを無意識に感じていた。

 彼は家族に対する責任が経済的障害になることに気が付いた。しかし、歌手になる決心をしたとき、軍隊勤務を延長することでその機会を得た。何十年も前のスレザクのように、ホフマンは、音楽学校での勉強と、(ホフマンの場合は)家族を養う為に、軍隊の給料と後には退職金を使った。そして、彼はカールスルーエのエミー・ザイバーリッヒ教授の下で声楽を学んでいる7年間、空挺部隊員として所属し続けた。ザイバーリッヒ教授は、彼の熱心な教え子から、授業料を取らなかった。彼女は彼の勉強する為の、全てを焼き尽くすような情熱と、彼の強固な意志に動かされたのだった。およそ15年後、彼女は回想している:

 ペーター・ホフマンは全く魅力的な生徒でした。運動神経に優れ、若くて、信じられないくらい活動的で、でも同時にとてもロマンティックでした。それはすでに、彼の初めてのオーディションの時にわかりました。 目の前にいるのが(何もしないで、)ただ待っている奴じゃないってこと、やり遂げる男だってことは、すぐわかりました。 そういうことはわかるものです。

 彼が除隊通知を受け取り、カールスルーエ音楽大学で勉強を始めた1969年までの生活は、相当のエネルギーと献身を要求した。軍事演習、空挺部隊員としての厳しさと、若き父親、夫としての責任感の間で、ホフマンは彼の声を作り上げる為に、可能な限り、オペラの実演を見に行き、より多くのレパートリーを自分のものにしようとした。同様の勉強が3年間の音楽学校時代も続いた。その間もザイバーリッヒ夫人は彼の教師だった。

 多くのヘルデンテノール達同様に、ホフマンもバリトンとして勉強を始め、ジェス・トーマスとの運命的な出会いの後、彼の声にテノールとしての可能性があることを、まさに発見したのだった。1967年のあるレッスンの日、トーマスの先生でもあったザイバーリッヒ教授が急にトーマスがちょうどローエングリンをやっていたバイロイトへ車を出して欲しいと、ホフマンに頼んだ。彼女は憧れのテノールを前に感動しているホフマンをトーマスに紹介し、トーマスはすぐにこの歌手の卵に興味を持った。

 トーマスの回想によると、終演後ホフマンはトーマスの楽屋に、熱烈な賞賛と共に挨拶に訪れ、剣に触ってもいいかと尋ねた。トーマスはホフマンの訪問を延長させ、この若者が歌うのを聴いた。そして、その声にはテノールの特性があると助言した。ザイバーリッヒも当然同じ意見だった。彼女は声域の変更を成し遂げるべく教え子と共に慎重に事を進めており、それは、その変更が完成したときのホフマンの喜びによって、報われたのだった。
 ジェス・トーマスは、初めての出会いの時からホフマンの可能性を信じ(彼はバイロイトの秘書にこの若者はいつかここで私と共に歌うだろう・・と言った)親友として、よき相談相手としての関係を保った。ホフマンが金銭の苦労をしていた、音楽学校を終え、最初の契約を始めるまでの時期、トーマスはホフマン親子4人に、毎月送金した。

 トーマスは、自分が信じたことが報われるのを見るという喜びを得た。1972年、彼はウィーンの声楽コンクールの審査員として座っていた。他にはマックス・ローレンツ,エリザベート・シュヴァルツコップ、アントン・デルモータなどの著名人がいた。彼はペーター・ホフマンが創り出した、眩しいほどの印象に感銘を受けると同時に誇らしく思った。ホフマンはそのコンクールで優勝できなかったが、彼の名前は有名なエージェントや批評家に知れ渡った。オーディションの依頼が殺到し始めた。
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13章 ジークフリート・イェルザレム -4/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-4

   イェルザレムの主要な競争相手、コロとホフマンと同様、マスコミではイェルザレムのキャリアを巡って一定の論争があった。尤も、イェルザレムの場合は、彼の二人の仲間に比べてそれほどセンセーショナルではなかった。マスコミが異論を唱えた主な理由は(コロの場合と同様)イェルザレムの本来的に抒情的な声質にあった。
   事実、彼は真の意味でヘルデンテノールではなく、非常に好ましい抒情的なテノールである
、とハロルド・ローゼンタール Harold Rosenthal は評した。彼がローエングリンはおろか、ジークフリートにまでも需要があるという事実は、ジークフリート・イェルザレムがこのほとんど消滅寸前の声種の特質を備えているというよりは、むしろワーグナーの英雄的テノール不足を示すものであると考えるほうが妥当である。
   ロベルト・ヤコブソン Robert Jacobson は、彼のメト・デビュー後、このテノールの可能性に対する意見を述べた。
   今回デビューしたジークフリート・イェルザレムのこじんまりしたテノールと舞台上での存在感の欠如は核心的な欠陥だった。基本的に、彼の声は別種の抒情的な声であり、英雄的なレパートリーをやるために誇張されたものである。
   一方、英雄的テノールの芸術に対する抒情的アプローチを肯定的に受け入れる傾向の強い評者の場合は、もっと平衡感覚のある言葉でイェルザレムを評することになるだろう。例えば、
   彼は、軽く抒情的なテノール声の最良の姿を示した。ほとんど全音域を通して柔軟で、技術的に安定した声だった。クライマックスで非常にかすかな緊張の兆しが感じられたのみである。
   そして、マスコミには、1978年のローエングリンに対する、この騎士は真の、完璧なヘルデンテノールをいかに輝かせるべきかを知っているというミュンヘンの評者に賛意を示すものもあった。
   コロに対するように、評者たちは、イェルザレムの1978年ローエングリンをこの音楽が要求する声として「正当」であるという前提を認めるにやぶさかでなかった。そして、彼らは、懐疑的になっても、こじんまりとした軽い声が音楽的才能とスタミナ、優れた演劇的才能と結びつけばこの分野で成功できるはずだと確信していた。初期の主要な批評家であるハロルド・ローゼンタールのような人たちはイェルザレムの芸術が声が成熟すると共にますます魅力的になっていることに気がついた。彼のより重い役への参入に異議を唱えた人々でさえ、彼の知性、音楽的才能、あるいは参加度に疑問を呈する人はほとんどないだろう。実際、イェルザレムの芸術的事柄における、堅実さ、気遣い、知恵は、基本的にバランス感覚を備えた、穏健なマスコミを確保する結果となった。
   このテノールのマスコミや出版界に対する控えめな態度も、時にコロを悩ましたような出来事 contretempsを回避する助けになった。控えめなライフスタイルと歌唱に対する完璧な職業的態度に、器楽経験と声楽経験の結合によって深められた音楽的基盤が相まって、(楽器を演奏するように歌うと、かつて彼は言った)イェルザレムをまさに歌手の中の歌手となし、オペラ界を通じて大きな尊敬をもたらした。


*****************************************************


   ルネ・コロとジークフリート・イェルザレムの残したものについて語るのは、ある意味、時期尚早である。イェルザレムは40歳後半、コロは50歳代であり、二人ともまだ何年も歌えるし、新しいことに挑戦し、征服することは間違いない。だが、中間地点での評価であるにしても、この二人の歌手が英雄的歌唱の歴史の中に一定の位置を占めてきたことは明白である。
   両テノールとも、声楽的、演劇的、そして身体的な意味で、現代のヘルデンテノール理解を再定義するのに貢献した。二人の伝説的先駆者、ヴォルフガング・ヴィントガッセン同様、コロとイェルザレムは、大きな体から出る大きな声だけが、暗い響きを伴ってトランペットのように鳴り響くことができる声だけが、ヘルデンテノールのレパートリーに取り組めるのだという概念を変えるのに大いに貢献した。ヘルデンテノールの伝統に多くの種類の生来の声が存在しており、抒情性の強調やベルカント bel canto が伝統に対する反逆ではなく、むしろ、19世紀から20世紀初頭にかけてのシュノールやそのすぐ後の後継者たちのスタイルに戻る動きなのだということを、ヘルデンテノールの分野を見たがり、聴きたがる人々に明らかにして見せたのである。20世紀の声楽の歴史の文脈の中で、19世紀の価値観を追求しようとするユニークさは彼らの芸術に、過去にさかのぼりりつつ未来を指し示すという、ヤヌス的特有のイメージを付与している。
   スレザクの才能を彷彿とさせるコロの悠然としたのびやかな美しさ、輝かしい声、大きく広がる優雅さは、英雄的音楽作品で長い間無視されてきた美の表現を効果的にしている。イェルザレムの魅力的な音楽的才能と声楽的柔軟性も隠されてきた価値をスコアに復活させるよう促した。
   この二人の芸術家の多才さは、ヘルデンテノールの声のイメージと幅を広げ、英雄的なテノールだけがワーグナーを歌うのだという一般的な誤解に挑むための、決定的な強みだった。コロは殊に熱心なスタジオ芸術家で、現代の録音技術をより広範な聴衆を獲得する好機と認識しており、その軽めの声に、理想的な音響効果を付与し、そのレパートリーに忘れがたい解釈を残した。
   両歌手は、演技に大きな価値をおき、演出上のコンセプトに応じる音楽劇の確立に貢献している。二人とも、先輩のスヴァンホルム、トーマス、ヴィッカーズ、ヴィントガッセンたちのように、オペラが現代に存在するためには、演劇的に発展しなければならないということを示している。そして、彼らの身体的魅力と完璧に現代的な融通性といった、個人的な魅力や影響力を発散し(ausstrahlung)、信じることができるイメージの涵養を推進してきた。
   コロとイェルザレムは現代的歌手世代の一員として、普遍的、一般的な意味で、聴衆にとって、もっと魅力的で、もっと近づきやすく、もっと理解しやすい新世代歌手の出現を促した。
* * * * * ch.13 おわり * * * * *


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13章 ジークフリート・イェルザレム -3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-3

   最初の登場で、イェルザレムは魅力的な素朴さと若さを示す。ひとりよがりの無邪気さで、自分の父が王であることを告げる。そして、冒険を熱望しているようにみえる。この絵姿Diese Bildnis は甘く、内省的に歌われ、Doch fuehl' ich's hier wie Feuer brennen  心が燃えるのを感じるのようなフレーズも、情熱の炎を伝えるというよりは、むしろいとおしむような感じである。このタミーノは少年らしい性急さでパミーナ救出の要請を受諾し(Kommt, Maedchen, fuehrt mich さあ、私を案内してくれ)、無気味な抑揚で発せられる弁者のZurueck!(さがれ!)という言葉にひるむタミーノがまだ完全な大人でないことを強調する。この場面では、もう少し決然としたものを望む人もいるかもしれないが、イェルザレムの考えの妥当性も納得できる。というのは、このタミーノは第二幕のフリーメーソンの試練を経てこそ、決断力と知恵を獲得するのである。このテノールの最もすばらしい歌唱の幾つかは、たくさんの弱音のある O ew'ge Nacht の部分や、フルートのアリアの魅力的なしなやかな流れにある。台詞の発音も巧みで、自然で率直な感じがする。そして、彼の合唱での歌唱は、すばらしい調和を示している。
   ジークフリート・イェルザレムはタミーノを彼の十八番のひとつとすることに成功している。なめらかな抒情性、知性、人を引付ける力をもった音楽劇の人物を創造している。先輩のヴィントガッセンや、コロとホフマンが、英雄的な歌唱の可能性をもった声が、軽めのモーツァルトのレパートリーに対する能力を捨て去っていない、そのキャリアの初期にやったのと同じだ。実際、ジークフリート・イェルザレムをモーツァルトとワーグナーの両方で体験しさえすれば、彼のスタイルの幅がわかることは間違いない。
   年を経て、声が成熟すると、ジークフリート・イェルザレムは徐々にワーグナーの役を付け加えていった。コロがフロー(ラインの黄金)からはじめたのと同じように、彼はワルター・フォン・フォーゲルヴァイデ(タンホイザー)、エリック(さまよえるオランダ人)、シュトルツィング、ローエングリン、パルジファル、ローゲ、ジークムント、そして、若きジークフリート(それから、神々の黄昏のジークフリートを1989年にバイロイトで歌う予定だ)と進んできて、配役リストの相当部分を完全に制覇している。
   リエンツィはコロがすでに舞台で演じたようには、まだ舞台ではやっていないが、イェルザレムは1979年のリサイタル・レコードで有名な祈りの歌を録音した。全体的な印象は、抑制と優雅さである。明らかにベル・カントの歌い方で、マックス・ローレンツやセット・スヴァンホルムの全力を傾けたわくわくするような響きと共通するところは少ない。リエンツィの伝統的な歌い方であるトランペットのような響きはイェルザレムの得意とするところではないから、おそらくこのオペラ全曲をやることはないと思われる。
   一方、抒情性が大いに要求されるワーグナーのjugendlicher Heldの役は、イェルザレムの本領である。例えば、1987年2月、サン・ディエゴでのエリック(さまよえるオランダ人)は、某批評家をして、彼の声質は彼の演技同様美しかったと言わしめた。1985年の録音で、タンホイザーではなく、吟遊歌人ワルター・フォン・フォーゲルヴァイデという軽めの役を選んだ、彼の賢明な選択はイェルザレムのセンスの良さを示している。声が暗くなれば、キャリアの後半にジークフリートが可能な選択肢に、トリスタン、そしておそらくタンホイザーも射程距離に入るだろうが、1980年代には、それほど長時間歌わない抒情的な役を選択するのが賢明だ。イェルザレムは第二幕のワルターのアリア、Den bronnen, den uns Wolfram nannteを、感情豊かに、音楽的に、そして、この役にふさわしいと思われるより、さらに高潔に率直に歌っている。
 他にはシュトルツィングを歌い、年を追うごとに成長しているようだ。1986年のバイロイト公演は素晴らしい上演で、ワルターとエヴァの身体的魅力が強調されており、二人の若い情熱に深く共感できた。1979年にイェルザレムは優勝の歌 Preisliedを再び録音したが、彼のシュトルツィングの初々しさと性急さを示している。このアリアは非常に甘く表現力豊かに歌われているので、これだけでこのテノールの全体的歌唱の優れた証明となっている。
   このテノールが成長し続けているもうひとつのワーグナーの役はパルジファルである。彼の歌唱は確実にすばらしさを増していると1980年に評された。1986年3月15日に不調のWarren Ellsworth ウォーレン、エルズワース(1950.10.28-1993.02.25 [アメリカ])に代わって、イングリッシュ・ナショナル・オペラに出演したとき、オペラ誌 Opera彼はこの役を熟練者らしい巧みさと美しさで歌ったと評した。1987年のバイロイトの公演はどれもがその成長ぶりが絶賛された。G.Knopf は、1987年9月のオペラグラス誌 Operanglasでこう評した。
   アンフォルタスの救済者として、今こそ、ジークフリート・イェルザレムは、その召命をいっそうよく遂行した・・・イェルザレムはすばらしく美しいパルジファルを歌い、この役に要求されるものを雄々しくも成し遂げた・・・'Amfortas! Die Wunde!' (アンフォルタス! あの傷! )や、'Nur eine Waffe taugt! (ひとつの武器だけが役に立つ! )には、もっとメタリックな響きが欲しいと思われるところだが、さらにすばらしい人を望むのはほとんど無理な話である。
   そして、イェルザレムが1988年のバイロイト音楽祭をこの役で開幕した後、ヨアヒム・カイザー Joachim Kaiser は、彼は今や現代の偉大なワーグナー・テノールの一人である と評した。
 第二幕の大部分の正規盤が、このテノールのキャリアの初期、1979年に録音された。アンフォルタスの叫びのところで、彼は美しくむらのない響きを示している。この感情がひどく高まる瞬間を、彼はストレートに表現しているが、その部分が展開していくにつれて、より大きな感情のうねりと朗唱的激しさが構築されていく。1987年と1988年のバイロイトからの放送は、この曲にたいするより深い洞察を示していた。すなわち、より深い精神性を示し、この役の苦悩と神秘に対する理解が伝わってきた。
 イェルザレムのパルジファルが成長したのと同様に、彼のローエングリンも成長した。ワーグナーのオペラの中で一番イタリア的なこのオペラはイェルザレムの声質によく合っているから、彼は現代オペラ界の三人の代表的白鳥の騎士のひとりである。彼のこの役の歌い方は、多くの抒情的な部分においては楽々と歌っており 劇的に歌わねばならない部分では力を出すことが可能であり、騎士的冷静さを醸していると同時に、心地よい銀のような響きと評されている。1978年ミュンヘンでのローエングリンについて、オズボーン Richard Osborne は注目すべき歌手である と評した。イェルザレムの最初のリサイタル・レコードに、遥かな国に In fernam Land が入ってはいるが、残念ながら、この役の全曲録音はまだない。(後にアバド指揮の全曲録音DG1991が出ました)1979年の抜粋にはトーマスの輝きやホフマンの恍惚とさせられる詩情はないが、歌詞に対する共感と旋律の神秘感を示しているし、無理のない音色には力がある。スタジオ録音の気楽さで、最高音さえも優雅で安定している。劇場では、イェルザレムのローエングリンは、現代のローエングリン歌手たちによって提起されている、ローエングリンはそもそも神なのか人間なのかという論争に対してどんな立場もとっていないいわゆる物語の登場人物にすぎないと評されることがよくある。つまり、彼はコロとホフマンという、この役の二つの柱の間に立って、現代の多様なローエングリン像の完成に貢献していると言える。
   イェルザレムは jugendlicher Helden としてワーグナー歌手としての初期の評判を築く一方、徐々に、より重い役 schwerer Helden をレパートリーに加えていった。彼のニーベルングの指環における仕事の進め方もまさにそうであった。彼のはじめてのローゲ役は、1987年10月のメトのラインの黄金新演出で、マスコミと観衆の両方から絶賛を浴びた。メトのリングに対して概して冷めた態度をとっていたニューヨークタイムズの Donal Henahan が熱狂した。
   ジークフリート・イェルザレムは、神々の悪徳弁護士、抜け道探し人としてのローゲのイメージを過不足なく保っていた。たいていのローゲほどいやらしさを前面に出すことなく、媚びへつらいぶりを優雅に歌い上げ、その裏にあるローゲの退廃的な本性を強調していた。
オペラ世界誌 Opernwelt の批評:
   ジークフリート・イェルザレムがローゲを見事に描き出したことこそ、この公演の驚きであった。確信的な冷笑家の知識人ではなく、むしろ機知に富み、ある種の魅力をもったアウトサイダーだった・・・ それにもかかわらず、声楽的にも演劇的にも知的に表現された。
私自身のオペラ・インターナショナルに書いた批評も これらの見解のちょっとした変形である。
   最後に、ジークフリート・イェルザレムのローゲこそ、この公演の勝利者だった。わくわくするような人物表現であり、声楽的にも充実しており、演劇的にも深いものだった。なんと辛辣で冷笑的な火の神だったことか!  いかなる状況にあってもモラルを尊重しようと決意しているのだが。多くのローゲたちほど、滑稽な感じではなく、真の策略家である。公演の後、劇場を後にする観客の脳裏には、お手上げだ!と、手のひらを上に向けるジェスチャーのシルエットを伴う、彼のイメージが強烈に焼き付いてしまった。
   イェルザレムの火の神としての成功は、彼の解釈の独自性に多くの部分を負っていた。誠実な道徳の代弁者としての演じられるローゲ(私としてはHenahan氏のローゲを退廃的と捉える見解には賛成しない)は、本気でラインの乙女たちに黄金を返そうと思っており、神々、巨人たち、そして地底の小人たちとその運命を共有するものという思いを持っている。テノールは、この太古の気まぐれなトリックスターを、新しい、説得力のある見方で再創造した。ペーター・ホフマンのとらえどころのないローゲに比べると、その感情と忠告は明快であり、ペーター・シュライヤーやハインツ・ツェドニクほどずるがしこくない。イェルザレムはローゲの気分の変化を驚くほど率直に伝えている。
 彼の歌唱スタイルは、キャラクター・テノールとヘルデンテノールが結合しているが、これもまた独自のやり方である。そして、彼は叫びすぎたり、卑屈になりすぎたり、怒りをあらわにしすぎたり、ヒステリックになりすぎたりすることがない。むしろ、Ihrem Ende eilen sie zu の旋律的な箇所は、魅力的なレガートと、まろやかな音色で歌う。このオペラのクライマックスは Undank ist Loges Lohn ローゲは常に報われることがない というローゲの長い語りの中にあるが、これをイェルザレムは怒りを持って表現する。小人に対する嫌悪感と同時に自己嫌悪でいっぱいになりながら、窮地の陥ったアルベリッヒを酷くからかう。そして、最後の場面で、ローゲは、ヴォータンの選択に対する落胆と孤独と不安のうちに、一人離れて座っている。彼のトウモロコシが並んだような金髪のかつらをつけた姿は親しみやすいし、彼のスリムなスポーツマン体型と、強力な朗唱には、わくわくさせられる。ジークフリート・イェルザレムは、この役に生き生きとした新しい解釈を持ち込んでいる。
   イェルザレムが緊密に関わり、全曲録音をしたニーベルングの指環のなかの二つ目のオペラはワルキューレである。1986年のバイロイト公演で、テノールは、抒情的かつ英雄的、悲痛かつ感動的な、比類のないジークムントであると評された。1985年のヤノウスキ  Marek Janowski 指揮、ドレスデン・シュターツカペレの録音はよい批評を得て成功だった。イェルザレムの声は、この役を歌う他の多くのヘルデンテノールに比べれば多少軽いが、彼の強力な中音域と低音域は、この重いテノールschwer Tenor役に対する要求を満たすに充分な響きと音色を持っている。彼のジークムントは、冒頭から全然官能的ではないが、詩的な音楽性がある。そして、けっして強烈とは言えないにしても、劇的な朗唱は説得力がある。実際のところ、彼のジークムントは水準を保っており、けっこう魅力的なので、生の舞台でなければ、完全には把握できないに違いない、ある種の興奮が欠如していることに関して不満を持つのは失礼な感じがしてしまう。
   イェルザレムは登場場面のジークムントを落ち着きがない、神経質な人物にしている。話しをするごとに自信を持った人物へと成長していく。各物語は、率直で前向きに楽々と歌われる。母親の死を物語るとき、彼は辛辣かつ冷笑的な音をゆっくりと、Den Vater fand ich nicht(父を見つけなかった)という
悲しい事実の朗唱へと溶け込ませていく。彼のジークリンデの質問に対する悲しげな答えには、腹立たしいげな自己憐憫(Waffenlos fand ich  私には武器がなかった)が少々と、悲しい憧れ(Warum ich Friedmund nicht heisse フリートムントと名乗らない理由)が含まれている。Maennern und Frauenに向かって、正しいdiminuendo(ディミヌエンド 漸次弱音化)で歌われるこれらの語りは感受性豊かで、ダイナミックである。Ein Schwert verhiess mir der Vater 父が約束してくれた剣 で、イェルザレムは、最初のフレーズ Ein Schwertで大きくクレッシェンド crescendo し、ヤノウスキの指揮のゆったりとしたテンポ tempiを守りながら、ヴェルゼの叫びを(多少濁った響きではあるが)長く保って、感情とエネルギーを高揚させる。愛の二重唱のはじまりに限って言えば、テノールがオーケストラを乗り越えて聴かせるのに苦労していることを感じさせられる。だが、イェルザレムは、この発声の困難を、heisse in die Brust, brennt in die Arme . . . 胸を熱くし、腕の中で燃える・・・のような部分に重点的に朗唱的アクセントを置くことによって緩和している。テノールが冬の嵐 Winterstuermeを多少フルヴォイスの大声すぎるのは、この困難から抜け出した結果なのかもしれない。ほとんど叫んでいるようなフレーズも少しだがある。例えば、zu seiner Schwester schwang ihr 彼は妹のところに飛び込んだのところ。それにしても、彼には、長いフレーズを英雄的に保つ能力があるのは間違いがないところだ。第一幕の終わり、木の幹から剣を引き抜き、ウェルズング族の繁栄を宣言するときには再び、耳障りな無理のある声が強く感じられる。しかし、テノールは、堅実に締めくくる。最後のA音は、安定しており、英雄的である。戦士ジークムントの印象が確実に浮かび上がる。
   イェルザレムは、死の告知 Todesverkuendigungを知的に扱う。ホフマンに比べると、ずっとナイーブで、ワルハラを拒否するところは、疑いに陥るのがもっと遅いように感じる。ここには後悔の気持ちが多少存在するが、それはGruesse mir Waelse ヴェルゼによろしく でのトレモロと、柔らかく、甘いWunschesmaedchen 希望の乙女たち によって感じ取れる。これは、ホフマンのジークムントの激しく勇ましい反抗ではない。そうはしたくないが、愛が彼を縛るが故の、
むしろ非常に人間的な英雄の高潔な選択である。ジークリンデとの別れは穏やかである。フンディングを呼ぶ声は、命懸けの愛故に不本意にも宿命の決闘をせざるを得ない人間の怒りの異議申し立てである。
   1988年バイロイトのクプファー・バレンボイム・プロダクションの若きジークフリートで、テノールは、リングでの試みを一歩進めた。彼の役作りは、主要な声楽的かつ演劇的人物描写、彼の十八番の役 Glanzrolle として賞賛された。実際に舞台を見ての批評は全員一致の賞賛に満ちていた。例えば、南ドイツ新聞で、ヨアヒム・カイザー Joachim Kaiser は、こう評した。
   外見がよく、演劇的で、非常に強い声のジークフリート、-- すなわち、そのままのジークフリート・イェルザレムに見えてしまうのだが、 を目の当たりにするという幸運にはめったに出会えるものではない。(たとえ、強烈で輝かしい存在感が絶対的に欠如しているにしても)
 ジークフリート・イェルザレムは、この成功は、五年にわたる準備と、身体的適合性を維持する努力、そして、彼から身体的、演劇的表現をしっかりと引き出す演出をしたクプファーとの協力関係のお陰だと考えている。曰く、クプファーの下で、私はダンサーのような気がした。 一回目のジークフリートの放送録音をきけば、イェルザレムが生み出したセンセーションが実際どんなものだったかがよくわかる。
   イェルザレムは、史上最もわくわくするジークフリートの一人である。ヴィントガッセン〜トーマス路線の英雄であり、スヴァンホルムを受け継ぐ演劇的に説得力のある人物像を創造している。彼の基本的な真のテノール echt Tenorの音色は以前より深い色調を帯び、確かなイントネーションを伴って、男らしく、たくましい響き、驚くべきスタミナで殺人的なこの役を無傷でやり遂げる。カリスマ的な魅力を持つ英雄を、彼は具象化する。彼の声楽的かつヴィジュアル的(スリムでスポーツマンタイプ)存在感が、役に対する共感を増す。このジークフリートは、はじめは問題児で、知識を求める過程で成長するが、その傷つきやすい脆さという点では子供っぽいままである。第一幕では、野蛮な衝動をなんとか理性でコントロールしようとして、ミーメに対する嫌悪感を一生懸命説明しようとしているジークフリートの気持ちが伝わってくる。スヴァンホルムよりは詩的で内省的であるが、スヴァンホルムほど知的ではない分析性は、その真の男らしさの魅力と相まって、この人物の軽薄さを緩和している。その出自に対して思いを巡らすときのイェルザレムは、すばらしく抒情的で、甘い憧れの響きに満たされている。つがいの動物を見て性の営みに興味を持つときは、暗い、のどがからからになるような、挑発的な官能性を持つ。イェルザレムは、剣を作り直そうという考えを持つにいたるまで、想像力たくましくしなくてもとても非常に若い男に見える。そこで、イェルザレム演ずるところの英雄は、嵐のように熱狂的な歌に突入する。その非常に感情的な本性が理性的なコントロールを圧倒して、希望と情熱と幻想を伴って奔放に駆け抜ける。あまりの興奮にミーメに対して衝動的に残酷になる。剣を鍛え直す場面は非常に魅力的に歌われる。安定しており、響きは美しく、力強い。もうすこしメタリックな響きや、笑い声のところ、それから、ホッ、ホーホッホー Ho hoという有頂天の叫び にはもう少し軽いタッチを好む人もいるかもしれないが、イェルザレムの歌には強い意志が感じられる。彼は神々しくも超人的な激情にとらわれながらも、運命に従うという冷静な気持ちに支配されている。彼の決意はその歌の根源的なエネルギーのうちに鳴り響き、So schneidet Siegfrieds Schwert!  ジークフリートの剣の切れ味を見よ! の劇的結末へと突き進む。
   森のささやきの場面で、ジークフリートは哀愁に満ちた音色を採用している。これはこのヒーローの成熟への兆しの証明である。その声は自分を父と母から引き裂いた運命の残酷さに心底怒りを感じているように響くが、事の次第が明らかになるにつれて、むしろ冷静になり、ほっとして、自分の孤独を楽しんでいるようでもある。人の心を魅了する素朴な勇敢さでファーフナーに呼びかけるとき、戦いを挑むことを楽しみ、勝利を宣言する(Notung schmeckst du ノートゥングの味を知れ) 運命が成就されることを、冷静に認識しているのだ。竜の姿をしたファーフナーが息を引き取るとき、このジークフリートはどんな良心の呵責も示さない。ファーフナーが名前を尋ねるまで、彼はあくまで平静を保っている。そして、彼はまるで彼の名前に重大な意味があることを確かめるかのように、Siegfried bein ich gennant (私の名はジークフリート)とためらいがちに答える。
   森の小鳥に続いてミーメに遭遇したことは、彼をして、新たな存在としての自己認識のレベルに達したことに気づかせる。今やジークフリートは運命的対決の対話を押し進めようと言う情熱に駆り立てられているように見える。彼は何のためらいもなく一撃のもとにミーメを殺害する。強い意志と、行為の冷静な目的性が、人殺しの精神的ショックを和らげる。長い間待たれていたこの瞬間には、盲目的な直観が存在する。そして、イェルザレムのジークフリートをトラウマからの解放し、その偉大な使命を果たす準備をさせる。ブリュンヒルデのことを森の小鳥にきかされたとき、漠然とした憧れが突然ひとつの形をとる。彼は情熱的で輝かしい目的意識をもって生まれ変わり、運命のふところへと一直線に飛び込む。この瞬間こそがイェルザレムの人物描写の転換点となっている。つまり、この瞬間に、不安定さと障害を乗り越えて、大人になる。
   第三幕、さすらい人との対立では、テノールの声には高慢さはなく、ひたむきな決断があるだけだ。彼が強引に炎を越え、岩山の頂きに達するとき、彼の響き渡る音色はまさに英雄的である。長い Selige Oede のモノローグはダイナミックな多様性がいい。mezza forte 以上に繊細な感じになることはないし、もっとなめらかなレガートのほうがいいかもしれないが、それでもイェルザレムの演奏には説得力がある。Das ist kein Mann! 男ではない! は、スヴァンホルムに見られる恐怖の険しい叫びであり、Mutter, Mutter  は、一人の女性に対するエディプス・コンプレックス的優しさを示す感嘆の声だ。彼は、無力なこの瞬間、一人の女性の愛を必死に求めている。このジークフリートは、乙女を発見したとき、再び子どもへと退行し、ゆっくりとその本来の自己を確立していくが、今度はその自己中心的な愛に対する欲求を抑えることを知っている。フィナーレの二重唱は、イェルザレムの没入的歌唱とその人物表現の情熱的な男らしい力強さから、輝きが生まれる。最後の恍惚のフレーズを耐え抜いて、彼の声はこのオペラの終わりの言葉、lachender Tod! で、消え入ることなく、勝ち誇った調子で鳴り響く。
   イェルザレムのジークムントとジークフリートは、彼のすべてのワーグナーの主人公役同様、彼の男らしく、人間的な歌い方をはっきりと刻印している。これらも、そして他の人物描写もけっして抽象的な観念ではなく、言葉と歌によって現実的な人物のイメージを描き出している。
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13章 ジークフリート・イェルザレム -2/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-2

 見事な朗唱法と迫力のある演技によって、イェルザレムは、ある人物を完璧に表現する才能がある。彼はオペラの非音楽的次元の重要性を把握し強調するべきだと考えている。そして、およそ十年にわたる舞台生活で、歌う役者として高く評価されている。
 イェルザレムの演劇様式は、ジェス・トーマスや戦後のオペラの演技を心理学的に追求するグループの流れをくんでいる。人物の内面を探ろうとする意図に、この新しい時代の主要な特性である柔軟性が加わる。イェルザレムはコロ以上に、自分の役に没入し、各人物表現をしっかりと区別して描き出すことができる。最近のローゲ役を見るとこの点がよくわかる。メーキャップも動作も、彼が常々演じているハンサムで敏捷な英雄の姿はほとんど影も形もなかった。前屈みに歩き、滑って転び、ぴょんぴょん跳びはね、舞台狭しと這い回った。激しい皮肉から、胸を突き刺す悲しみ、侮蔑、そそのかしに対する気紛れな後悔まで、幅広い感情を表現した。声に、そして、快活な身体表現に、そういうもの全てが具現されていた。アンチ・ヒーローのローゲだろうが、大成功だったジークムントだろうが、イェルザレムは、カリスマ的な魅力ausstrahlungを発散して、その公演に興奮をもたらす。同時に、彼は、スター的態度をとることがなく、非常に熱心で一貫性のある行動とり、仲間と協力することができる。
 このテノールのすらりとした体型、順応性に富んだ性格、精力的な抑制力こそが、長年にわたって、そして今なお、彼の英雄的魅力を確実にし続けている。特に、表現の豊かさと身体的自然さは現代的俳優としての彼の財産でああり(イェルザレムには定型化したオペラ的動作はない!)歌を支えるために、総合的なボディ・ランゲージを利用するのが上手い。
 最近のインタビューでイェルザレムは、舞台のもつ人を夢中にさせる性質について語った。続けて、彼は歌っている時も歌っていない時も同じレベルで関わっているのだと話した。彼は、歌うことに完全性を求めるのと同じように、耳を傾けることにも大切だと考えているのだ。すなわち、彼にとって、オペラの上演は全他として没頭することなのである。当然ながらイェルザレムはだれに強制されたわけでもなく自ら喜んで自分の芸術に夢中になっているわけだが、これこそが、彼をこれほどまでに注目される歌役者にしていると言えよう。
 
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 ドイツ・オペラ以外の役の依頼がもっとあってもいいのじゃないかというイェルザレムの願いにもかかわらず、オペラの企画運営側はあえて彼をドイツ系テノールと見なしてきた。こういうわけで、彼の実像は、歌曲Lieder、オペレッタ、オペラにわたる幅広い音楽分野のレパートリーの中にある。
 芸術歌曲に対するテノールの才能を示す好例はフィリップスで録音されたシュトラウス・リサイタルである。イェルザレムは、スレザクSlezakの持つ詩情には欠けるかもしれないが、彼はこの分野に率直さと音楽性によって取り組み、直裁的な伝え方をする。彼の歌には清潔感と、巧みに設計されたニュアンスがある。極めて印象的なのは、彼の歌い回し(phrasing)である。例えば、それは、森の幸福(Waldseligkeit)のような歌の、旋律線の持続にあらわれている。もっと歌詞に変化を持たせてほしいものも多いが、例えば、誘惑(Verfuehrung)、愛を抱いて〜5つの歌曲, op.32 (Ich trage meine Minne)などのいくつかの歌は、小さなドラマになっている。もっともすばらしいのは、どのフレーズもまるで無重力の中で躍っているかのように歌われるセレナーデ(Staendchen)の軽やかな優雅さである。繊細につむがれる頭声は男性的でありながら、美しく、全体として、この分野における最良のイェルザレムである。
 ごく最近、テノールはオペレッタも歌って、この分野で多くの表現豊かな録音を完成している。その中にヘレン・ドナートHelen Donathとの微笑みの国Das Land des Laechelns(1980)がある。彼のレハールへの取り組み方は、スレザクやコロと非常に異なるが、十分な存在価値がある。イェルザレムがこの感傷的な甘い物語を歌うとき、それは、スレザクやコロに比べて、洗練されておらず、優雅でもないが、より個性的でもある。彼の音色はより充実しており、より男性的に響く。彼の歌い方はいくつかの側面でより劇的であり、全体としてよりエネルギーにあふれており、より説得力がある。イェルザレムのスー・チョン王子を聴く時、音階がもっと柔軟ならいいのにとか、高音域の音色に圧迫的な角がもう少し少なければいいのにとか思うかもしれないが、これ以上に男性的な、あるいは、ロマンチックな主人公を思い描くことはできないと思う。彼は感傷(Schmalz)を適度に配合して、この情緒あふれる曲にある真実味を保ちながら、このステレオタイプ的人物に悲劇的品格を付与し、この中国の王子を、通常より、繊細で聡明な人物にしている。Dein ist mein ganzes Herz 私の心は貴女のもの は、当然ながら、この曲の頂点である。テノールは情熱的な愛と挑戦的な態度、そして苦悩を含む音色で長く持続するスタイリッシュな歌い回しを示している。絶対に感動させなければならない朗唱によって、イェルザレムはスー王子に潜む恐ろしい怒りと、妻への怒りから自分自身の汚さに対する嘆きへ移行する気分の変化を非常によく伝えている(Ihr Goetter sagt was ist mir gescheh'n!  神々よ、私に一体何がおこったのか!)彼は、多少ともいい加減な歌詞に確かさを与えている。最後の場面は皮肉と諦めの入り交じった感じで崇高に歌われる。イェルザレムの優れた朗唱は、感動的なIch weine nicht/Sie verstehen nicht unser Herz (私は泣かない。彼らに私の気持ちはわからない) を経て、優しく消えていく Immer vergnuegt . . . (いつも微笑んで・・・)に至り、Doch wie's da drin aussieht/geht niemand was an (心の中にあるものは、誰もしらない)で終る。コロのオペレッタと違って、イェルザレムのは本来的なオペレッタスタイルではなく、実際のところ、よりオペラ的で、類をみない劇的かつ音楽的効果が高いため、このジャンルにある甘さのようなものを排除し、私の好みに合う、より内容のあるものに変換されている。
 イェルザレムは定型化したオペレッタに自分自身の流儀で果敢に取り組むと同時に、ヴィオランタViolantaシバの女王Die Koenigin von Sabaといったオペラに好んで実験的に取り組んでいる。後者はレオ・スレザクを大いに連想させるが、イェルザレムは独自性を示すことに成功している。
 イェルザレムはコルンゴルトの絢爛豪華な情熱の激しくも抒情的な物語であるヴィオランタViolantaを1980年にエヴァ・マルトン、ワルター・ベリーをも含むそうそうたるキャストとの共演で録音した。貞淑なヴィオランタと運命的な恋に落ち、嫉妬に狂った彼女の夫シモーネの手にかかって死ぬことになる若き誘惑者アルフォンソの役を、イェルザレムは全然優雅には歌っていないが、これは正しい。時に彼の音色は荒く耳障りであり、旋律線は荒削りであるが、これはアルフォンソの素朴な性質に適している。いくつかの高音には無理があるが、情熱的な抒情性や彼の歌唱の説得力を減じるほどのものではない。いつものようにテノールはその知性と芸術性によって小さな声楽的不完全性を最小限におさえている。
 しかし、これもまた1980年にすばらしいハンガリー的な音で録音された、ゴルトマルク GOLDMARK, Karl (1830-1915, ハンガリー) のDie Koenigin von Saba シバの女王 1875では、実際にどんな不完全性も聞かれない。このオペラは、今世紀の初頭に非常に有名だったが、最近では忘れ去られようとしていた。だから、アダム・フィッシャー指揮によるハンガリー国立歌劇場の録音は大歓迎というところだ。スラミトSulamithの若き婚約者であるアッサドAssadは、彼女ではなくシバの女王を愛している。イェルザレムは官能の嵐と清い憧れの両方に駆り立てられる男を、味わい深く、確信に満ちた人物像として描き出した。退屈な台本に生命を吹き込むイェルザレムの能力は、このオペラの焦点をアッサドに据えることによって発揮される。しかし、彼はこの主人公を演劇的な意味でより立体的にしているばかりでなく、繊細な色合いを持つ音楽的人物像をも構築している。
 第一幕、Mein Herr und koenig(王よ)は、デモーニッシュな力が彼をとらえていることを示す暗い色調で英雄的告白として歌われ、Erloese mich(私を救い出してください)と、胸を刺し貫くような弱音の嘆願で終る。テノールの音色は終始通常の場合よりずっとあたたかさと甘さがあるが、それでも、スレザクのとても明るく澄んだ音色とは違う暗めの響きは失われていない。彼は、この曲に要求される微妙なダイナミックなニュアンスづけが特に巧みで、彼の頭声と高音域の歌唱には、この役の抒情性から派生する満ち足りた満足感がある。(ワーグナーの場合と同じ迫力を示す必要はない)音色の純粋さはアッサドを囲む神秘的な強烈なオーラを放射するのを助けている。有名な神秘の音色Magische Toeneを出すとき、彼はめったにないような優雅なレガートと音色で歌う。彼は裏声falsetto(スレザクは使った)の使用を避けているが、wo die Quelle sich lockend verlor heiland und mild (泉が神秘のうちに消えてなくなる所)の部分を、最後の言葉が忘れられないほど魅力的に、そして非常に強烈に広がっていくように歌っている。二重唱では、ドン・ホセの激しさを思わせる嫉妬に狂った激情を示す(Willst du wieder mich beruecken Daemon mit den suessen Blicken 悪魔よ、お前はその甘い瞳で私を誘惑するつもりか)が、第四幕までに、このアッサドは赦しと死に憧れるようになる。最終場面では、厚いオーケストラに抗して、イェルザレムは活力と確信で自分自身を支えている。終りのアッサドが息絶えるところは実に感動的である。絶望し、駆り立てられ、愛しつつ、絶妙の美しさで最後の旋律Ich darf sie sterben wiedersehn (死の世界で再び貴女に会えるだろう)を歌い、Erloesung, Sulamith (救済・・スラミト)の部分は三倍の弱音にしている。完璧な演奏のうっとりとさせられる終り方である。
 あまり知られていないドイツ・オペラにおけるイェルザレムの成功は、演奏されることが少ないグルックやウェーバーの作品の探究につながった。ウェーバーの百戦錬磨のオペラ、魔弾の射手Freischutzは当然歌っている。1979年のテノールの独唱デビュー録音は、彼のこの作曲家たちに対する姿勢をよく示している。グルックのトーリドのイフィジェニー Iphigenie en TaurideからNur einen Wunschは、グルックの旋律に要求される彫刻的構造に対する確固とした感覚と音楽性を示している。高音は全く無理なく出ているわけではないが、それでもなおイェルザレムの洗練された抑制のきかせ具合は説得力がある。ウェーバーのオベロンOberonからの歌は、ユオンHuonの役に必要な朗唱的英雄性は際立っている。Ja, was auch Rings umher mir probt は明快に明るい音色が均整のとれた発声で響く。祈りの歌は速いテンポで機敏に歌われ、正確な音価にこだわるテノールの気遣いを強調している。スヴァンホルム Svanholmの歌と同じように、イェルザレムの歌にもその音楽的才能を聴くことができる。
 ごく最近の1988年2月、バルセロナで歌って大喝采を博したウェーバーの魔弾の射手、で、イェルザレムはマックスを沈思黙考型の魅力的な若者として表現した。コロより悲しそうで、繊細で、コロほど少年っぽくなく、声も輝かしくない。ホフマンほど向こう見ずでなく、切迫感もない。しかし、抒情性と英雄性においては、いずれも優るとも劣らない。1979年にEurodisc のリサイタル・レコードに、Durch die Waelderのレシタティーヴォを含むアリアで彼の魔弾の射手のサンプルを聴くことができる。彼は弾むような軽快な発声で、特に中音域は温かく甘い感じで歌っている。そして、昔のテノールの慣習的な歌い方に比べて、高音はずっと安定している。まさにベル・カント的唱法である。だれもがイェルザレムの歌に、サザーランド的、音価、音階、流れ、華麗な音楽、まろやかな音色の豊かな弾力性などを聴く。(これに対して、例えば、ホフマンの場合はカラス的な、より歌詞に基づいた鋭い劇的な強さを感じる)このマックスの場合と同じ様に、モーツァルトのイドメネオにも同様の声楽的旋律線が要求されるが、こういう場合における音楽的才能は貴重である。エリザベス・フォーブスElizabeth Forbes は、1984年3月23日のジュネーブの公演におけるこのモーツァルトの役について、はじめは大袈裟な演技にもかかわらず人物像が見えてこなかったが、次第に高貴さが際立って、その結果、彼の退位は感動的であると同時に劇的に満足できるものになったと評した。しかし、1987年4月8日のお同じ役でのカナダ・オペラ客演の批評は、テノールの入れ込みようを賞賛しながらも、緊張していたかもしれないと付け加えた。モーツァルトのこの役に関しては、様々な批評があるにしても、彼の見事なタミーノ(魔笛)に関しては概してすばらしく好評である。1978年3月ベルリンでの15公演の後でJames Helme Sutcliffeジェームズ・ヘルメ・ストクリッフはイェルザレムは、私が今まで体験した中で、並外れた発見である。魅力的な憂いのある舞台姿にぴったりの豊かな色調の声の持ち主であると評した。
 1981年、タミーノ役を、ベルナルド・ハイティンクBernard Haitink の指揮で、ルチア・ポップ、エディタ・グルベローヴァ、ベルント・ヴァイクル(ベルント・ヴァイクルは配役表にありません。なんらかのミスだと思われます。ヴァイクルではなく、ペーター・ホフマンが武装した男の役で参加しています。この録音の経緯についてはホフマンの伝記にも記述がありませんが、ディスコグラフィには載っています)との共演で録音した。イェルザレムは、厳格に抒情的な歌唱法を採っており(タミーノは他のモーツァルトのテノール役よりも、劇的に唱われることが多い)、例えば、ペーター・ホフマンに比べると、より甘く、非英雄的である。この行き方は、ハイティンクの室内楽的音楽によく合っている。このレコードを通して、オーケストラ演奏の正確さを声楽技術に応用する、イェルザレムの明解な音楽性に気づかされる。ダイナミックな起伏を伴いつつ、非常にやわらかな歌い方をし、そして、全体として、柔和で辛抱強い、神を恐れる主人公を声で演劇的に表現している。
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