SSブログ

13章 ルネ・コロ -1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ -1


   ヘルデンテノールというレッテルを貼られたくない。
   たまたまワーグナーの役をいくつか歌っているテノールだというだけだ。
              〜ルネ・コロ 音楽のために生まれたテノール


 ヘルデンテノールというレッテルを貼られたくない。たまたまワーグナーの役をいくつか歌っているテノールだというだけだ。

 これはルネ・コロのことばであるが、ジークフリート・イェルザレムも同じことを頻繁に言っている。二人ともレッテルを貼られることを非常に嫌がったが、英雄的な役で広範なキャリアを維持している。ペーター・ホフマンと共に、この二人の歌手は世界中の主要なオペラハウスにおいて、ドイツのドラマティックな役を事実上独占している。それでも、コロとイェルザレムはヘルデンテノールのレパートリーを主としてリリック・テノールの範囲にとどめている。いわば、かつてのベル・カント・スタイルの声楽家である。
 ヘルデンテノールの伝統において、ルネ・コロとジークフリート・イェルザレムの声の登場は、ヴォルフガング・ヴィントガッセンが先駆者だったが、特にサンドール・コンヤとジェス・トーマスによる60年代の声の多様性が道をつけたものだ。しかし、コロとイェルザレムは「真のテノール echt Tenor」つまり「軽めの英雄」の伝統を極限近くまで推し進めた表現をしている。この二人の歌手は「若々しい英雄」の響きと同時にレパートリーを成功させるスタミナと存在感によって、ヘルデンテノール分野に対する抒情的なアプローチを再評価した。彼らは、歌手というものが、19世紀的多才多芸を保ちつつ、つまり、狭い専門分野のレッテルを貼られることを否定しながら、「スペシャリスト」として、すなわち「ドイツ・テノール」として知られることが可能であるということを明確に示した。こうすることで、逆説的に言えば、彼らが拒否しようとするまさにその専門分野それ自体を変化させたのである。1970年代と1980年代にまたがる十年の間にヘルデンテノールが、新たなイメージを獲得したのは、多くの部分をルネ・コロとジークフリート・イェルザレムに負っている。
*****************************************************

   1937年11月20日、ベルリン生まれ、ポーランド系(かつて、この一族の姓は kollodzieyski  コロジエフスキーだった)のルネ・コロは音楽家の家系である。祖父、ワルターは、Einst in Mai を初めとする 四十曲以上のオペレッタを書いた有名な作曲家だったし、父のヴィリーも、作曲家、作詞家、キャバレー経営者として名を成していた。こういうわけで、仕事と家庭はきちんと分離されていたにしても、音楽教育は、ルネと姉のマルガリーテの初等教育においては当たり前の分野だった。ルネは一時指揮者になりたいと思っていたほどだが、家族はこういう限定的な将来への希望を重視しなかったので、コロは純粋に楽しみのためだけに歌のレッスンをしながら、彼の家庭にある音楽的雰囲気の中につかっていた。少年時代の静けさはベルリン爆撃によって破られ、家族は、はじめシュレージェン地方にそれから、ハンブルクに避難した。結果的に、ルネは北海に浮かぶFoehre島のWykの寄宿学校に入れられた。

  家族はコロが15歳になった1953年までベルリンには戻らなかった。そのころまでには、ドイツの音楽状況は戦争によって大きく様変わりしており、若いコロはアメリカのビッグ・バンド・ミュージックにのめりこんだ。彼はオランダでダンス・バンドの演奏に加わった。後に、コロはそれが自分のやるべき仕事ではないと確信していたと明言しているが、この仕事のお陰で、特に経済的に自立できたことがうれしかった。

  1957年二十歳のとき、アメリカ風のロック・シングル、Hello, Mary Lou によって、ドイツのポピュラー界の注目の的となり、一夜にして十代の少女たちのアイドルになり、このシングルは、125,000枚売り上げた。彼は演技の勉強を始め、ヴィリー・コロのキャバレーに正式に出演しはじめた。ここであるとき、この若い歌手はピアニストのグレーテル・ハーティング(Gretel Hartung)の注意をひいた。彼女は彼に本気で音楽を勉強することを薦めた。彼女にせき立てられて、声を聴いてもらったヴォイス・トレーナーのエルザ・ヴァレーナ(Elsa Varena)は、即座にコロのクラシックに対する適性を認めたのだった。コロは、1965年の最初の主要な役での出演契約までの七年間、ヴァレーナ女史について勉強した。

 その間、彼は音楽劇の仕事でますます活躍し続けていた。1958年には、父のヴィリー監督の、祖父ワルターの人生を描いた映画 So lang noch untern Linden に出演 した。1960年には、テレビ映画 So liebt und kuesst man in Tirol を制作した。ポピュラー歌手(Schlaegersaenger)としてのキャリアは、全ヨーロッパ、特にベルギー、オランダ、スカンジナビアに渡っている。そこで、最初の妻、デンマーク人のポピュラー歌手、Dorth と出会い、1967年に結婚した。ポピュラー・エンターテナーとしての横顔を維持しながらも、コロはクラシックのレパートリーの勉強を続けていた。彼は、クラシック音楽と軽音楽を区別するのはばかげている というヘルデンテノールの間では珍しいが、ペーター・ホフマンとは同じ、見解を今日に至るまで持っている。

  彼の最初のオペラの仕事は、1965年に、ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)というドイツの小さな町で始まった。そこで、彼は専属のリリック・テノールとして、二年間、ピンカートン、ティート、ラツァなどの役を歌い、その後、デュッセルドルフに移った。この初期の修業期間は、コロにとって無意味ではなかった。コロ自身、のちに、この四年間は、芸術的成長にとって重要だったと断言している。全ての演目をそのようにして学ぶわけです と彼は回想している。彼は地方での年月がオペレッタを含む広いレパートリーを身につけ、歌う役者として成長するためのよい経験の場になったことに感謝している。

  彼の職業的飛躍の年は、バイロイトでさまよえるオランダ人の舵取り役で注目を浴びた1969年だった。彼の声のみずみずしさと容姿端麗な若々しさは、エリック役のそれをしのいで、注目の的になった。オペラ誌のアラン・ブリス(Alan Blyth)は、コロの輝かしくのびるテノールは、エリックのジャン・コックス(Jean Cox)のつまったような声より好まれたのだろう と書いた。その結果、1970年には、エリック役とフロー役でバイロイトに再出演した。これより前に、彼はシュトラウスのアラベラで、スカラ座にデビューし、1970年末には、ゲオルグ・ショルティ指揮のタンホイザーを録音した。彼の声質と初期のレパートリーからすると驚くべきことだが、ワーグナー歌手としての国際的キャリアが始まった。

 1971年、コロはローエングリンとしてバイロイトに戻り、パルジファルで、ウィーンにデビューした。1972年、再びショルティと、マーラーの大地の歌で、アメリカ・デビューを果し、1973-1974年には、シュトルツィング(マイスタージンガー)としてバイロイト、ミュンヘン、ザルツブルクに出演し、同時にマイスタージンガーのレコード録音もした。ヘルベルト・フォン・カラヤンにザルツブルク復活祭音楽祭に招かれたのは、彼のキャリアにとっては重要なステップだった。歌手と指揮者の共働関係は短かったにもかかわらず、1974年にカラヤンは、ワーグナーに好ましいカラヤン好みの軽めの若々しい英雄(jugendlicher Held )の響きをコロの中に認め、一方、コロはカラヤンを世界的な大指揮者の一人として認め、カラヤンとローエングリンを歌いたいと望んだ。この願いはザルツブルクの美しいオペラ録音を生み出すことになったが、1976年に指揮者とテノールの間に、ひどい騒ぎになった残念な出来事も引き起こした。

  1976年はテノールの人生のおいて、職業的な大成功と個人的混乱の年であった。娘のオリヴィア・ナタリーをもうけた、彼の九年に渡るDortheとの結婚生活はこの年離婚という結果に終った。この苦い経験について、コロは後にインタビューでこう語っている。もう一度結婚するとしたら、私のために時間を割ける女性としたい。 結婚生活が破綻した理由が何であれ、コロは、間違いなく、加速的に増大するオペラの仕事とそれに伴う猛スピードで変化するライフスタイルのプレッシャーに苦しんでいた。慢性化した喉頭炎によって、彼は緊張感を募らせていた。このようなわけで、1976年の春、カラヤンのためにローエングリンを演じるべくザルツブルクに行ったときには、彼は感情的にも、おそらくは声も、絶好調ではなかった。リハーサル期間は荒れ模様だった。カラヤンもまた病後で、いらいらしやすい状態だった。カラヤンの専横的なやり方は縛られることの嫌いなコロの神経に障った。後にコロは、この申し出を引き受ける前に、注意深くよく考えた上で彼自身の解釈を指揮者に話してあったにもかかわらず、カラヤンがコロの考えに同意していないということがリハーサル期間に明らかになったのだと明言した。指揮者と話し合うことができないなら、家に帰るしかない  とコロはオペラ界誌に話した。 初日の批評は良くなかった。コロは、二回目の上演の二時間前に、「喉の不具合」という理由で、残りの契約をキャンセルし、荷物をまとめたときには、かなり動揺しており、シュツットガルト・ニュースに連絡して、事の経緯に関して自分の立場を弁明した。彼は、スター指揮者兼演出家がしゃしゃり出るのにはうんざりだ。ドイツ語圏にはローエングリンを歌えるテノールは五人しかいないが、ローエングリンを指揮できる指揮者は五千人はいるだろう と言った。マスコミにとって、この一件は、すばらしい出来事だった。二人の音楽界の巨匠の騒動は、大分冷静になったコロがあるインタビュアーに、私はカラヤンがとても好きだ。ただ単に仕事は一緒にできないというだけだ との、もってまわった賛辞を付け加えつつ、カラヤンの話はマスコミによって大袈裟に吹聴されたものだ と語るまで数カ月も荒れ狂った。

  この事件はコロのキャリアを傷つけることはなかったようだった。彼はその年自分の解釈によるローエングリンをドイツ・オペラのワシントン公演や、メトロポリタンへのデビューで歌った。ゲッツ・フリードリヒのリングでジークムントとしてコヴェント・ガーデンにデビューしたし、パトリス・シェローの記念碑的バイロイト百年祭のリングにジークフリートとして出演し、大成功をおさめた。カラヤンの誤解のあとだったから、今回は十分用心して、引き受ける前に、自分自身のジークフリートに対する考えを非常に細かい点までシェローと話し合い、このフランス人演出家の革新的なコンセプトに大いに同意できることを確認した。コロはイムレ・ファビアン Imre Fabian に、シェローは優れた才能をもった、魅力的な演劇人だ と語った。

 1977年、モシンスキー(Elijah Moshinsky)演出の美しいラファエロ前派的ローエングリンで、コヴェント・ガーデンに再登場し、オートバイの大事故で八ヶ月間キャリアを中断する羽目になったペーター・ホフマンの代役として魔弾の射手のマックスを歌った。レナート・バーンスタインも、あの有名な1977年のウィーンのフィデリオで、コロをフロレスタン役に選んだ。この演出は録画と録音が残された。

  1970年代に、コロは世界的ワーグナー・テノールとして認められると同時に、違うレパートリーにも出演し続けた。例えば、1978年には、ケルンで、チャイコフスキーのスペードの女王でヘルマンを、1979年には、ベルリンでドン・ホセ(カルメン)、メトロポリタン歌劇場で、バッカス(Rシュトラウス:ナクソスのアリアドネ)を歌った。それから、世界的なオーケストラとの共演で、リサイタルを行い、オペレッタを歌い、猛烈なスピードで録音をした。その上、大物テレビタレントとしても登場し、特に1977年には、Ich lade gern meine Gaeste ein.(お客さま招待) という番組が成功した。

  コロは1980年代には世界中で最も求められるドイツ人テノールの一人としての地位を確立した。演出家たちとの口論の歴史は続いていたが、そういうことも彼のキャリアにかすり傷さえつけられなかった。例えば、1979年にヴォルフガング・ワーグナーと衝突してコロがバイロイトを去ったとき、マスコミは、カラヤン事件後の騒ぎに比べると抑制が効いていた。そして、ヴォルフガング・ワーグナーさえも、1981年には、あの大成功だったトリスタンで、このテノールを「追放」から呼び戻すという方向に動いた(但し、このバイロイト総監督は、1985年タンホイザーを開演直前にキャンセルされるという悔しい目に遭うことになるわけだ)似たような事件としては、ミラノでのローエングリンでのジョルジョ・ストレーラーとの意見の不一致によるものがあるが、世界的に卓越した白鳥の騎士としてのコロの経歴に傷がつくことはなかった。

ローエングリン ルネ・コロ@スカラ座

  そうこうするうちに、コロの私生活は新たな幸福と秩序を得た。成功のうちにキャリアを重ねた結果、彼は仕事を選べるようになり、飛行機やヨットといった余暇を楽しめるようになり、娘のナタリーとの時間もとれるようになった。そして、1979年に、若いフランス人バレリーナのベアトリーチェ・ブケーと出会った。彼女はコロとの生活のために、仕事をやめ、1981年9月3日に結婚した。この関係はコロに安定とやすらぎをもたらし、二人の間の子どもが生まれたことで、最近ではハンブルクの家族のもとにいることが多くなった。

 1980年代、コロはワーグナーの全ての役を演じ、録音することを追求すると同時に、シュトラウス・テノールとしての名声も確立しようとしていた。1980年にはジュネーブで新演出のマイスタージンガーの初日を務め、パリでは影のない女、1983年にミュンヘンでリエンチ、1987年にウィーンとコヴェント・ガーデンで、タンホイザーという具合だ。彼のはじめてのトリスタンは、前述のジャン・ピエール・ポネル演出による1981年バイロイト、彼のジークフリートは、ヨーロッパ中で、一連の新演出リングで、高く評価された。サンフランシスコ(1983-1985)とミュンヘン(1987-  )のニコラス・レーンホフの他とは並外れて異なる演出では、特に優れていると認められた。同時に、1987年、フランクフルトでのオテロのような新たな役も加え続けている。そして、彼は別の演劇関係の仕事も探り始めている。1986年にはダルムシュタットで最初のパルジファルを演出し、さらにドイツの劇場で新演出をするのを楽しみにしている。

  かつて五十歳で舞台から引退すると宣言したにもかかわらず、幸いなことにコロの予定表はこの宣言を否定している。彼の先輩ヴィントガッセンと同じように、コロは海外での契約は減らしている(アメリカの大劇場で歌ったり、長期間家を開けたりするのは好まない) オペラとコンサートの、およそ、37ないし50の定期的な出演というスケジュールを続けるという活動計画だ。1987-1988年のシーズンは、忙しかった。一連のトリスタン、ジークフリート、パルジファル、タンホイザー、シュトルツィング、さらに7月はじめ、オランジュでの大成功だったローゲ (ラインの黄金)の再演、リンツでのコンサート形式のジークムント(ワルキューレ)。1989年には、はじめてのピーター・グライムズをコヴェント・ガーデンで歌う予定だ。将来的には、ポール・ネフ出版社と、すでに部分的には書き終えている回想録の契約を結んだ。

  オペラ界では二十年以上にわたって、劇場生活は三十年以上、ルネ・コロは驚くほど広範囲な音楽的かつ演劇的経験を探索してきた。そして、現代の最も多角的なテノールのひとりとしての名声を確立した。彼は、その活動において、ヘルデンテノールの芸術に大きな貢献を果し、たいていのジャーナリストは、彼を現代世界における主要なワーグナー解釈者の一人と認めている。
*****************************************************

 ジークフリート・イェルザレム、ペーター・ホフマン同様、ルネ・コロはヘルデンテノールの伝統に新たな声質のみならず、新たな個性をも与えている。コロは現代的な流れの中にある英雄的テノールである。スレザーク(Slezak)のTenorissimo というフォームとは、非常に違っている。舞台上での常に変わらぬ集中度、舞台の外での親しみやすさなど、コロは現代的歌手世代の新たな感覚を放射している。

 現代のオペラの仕事のスピードの速さは、コロのライフスタイルでは、飛行機乗りとヨットという、どん欲な余暇の過ごし方で埋め合わせがされている。飛行機操縦がもたらす解放感、長期間のヨットでの航海の静けさにわくわくしながら、コロはジェット機で飛び回る豪快なジェット族的休暇とプロに要求される規律ある節制を両立させている。芸術家の健全さにとって不可欠なそれは仕事と休養のバランス感覚であるとコロは思っている。コロは、禁欲生活ではなく、普通の生活をすることにこだわっている。少なくとも公演の二日前からは、酒を飲み過ぎないとか、タバコを吸わないとか、睡眠を十分にとるといった賢明な決断をしているということだが、隠遁生活をする必要はないと思っている。彼は家族と過ごすために少なくとも5週間の年次休暇をとるように計画している。カレオールのヨットで過ごすことが多い。コロが維持しているこの自由時間は充電期間として重要であり、成熟した大人としての平静さを保つために大いに貢献している。

  ペアトリーチェ・ブケーとの関係も彼の生活に落ち着きをもたらしている。コロはベアトリーチェが、家族のために仕事をやめる決断をしたことを感謝しているとイムレ・ファビアン Imre Fabian に語った。お互いにぬくもり、愛情、友情などを共有することはコロの考える幸福な生活には不可欠である。

 コロのイメージを、前の時代のヘルデンテノールより親しみやすいものにしているもうひとつの要素は、彼のポップス歌手としてのバックグランドである。それでも、Schlaegersinger(ポピュラー歌手)に対する偏見の故に、クラシックの契約の際、初め頃は問題がないわけではなかったとテノール自身が認めている。(例えば、カールスルーエ歌劇場は彼を受け入れなかった)しかし、歌う喜びがあれば、歌わない理由はない という考えをコロは持ち続けている。だから、ペーター・ホフマンもそうだが、彼もポピュラー音楽はより広範囲の聴衆を獲得するのに効果的だと考えている。実際、コロは、そのキャリアを通して、幅広く音楽制作に関わっている。特にテレビ番組と録音を重視しており、両方とも莫大な聴衆を得ており、多様なファン層を獲得している。

  しかし、コロが聴衆から得ている幅広い人気と尊敬にもかかわらず、彼の芸術家としての人格に関するインサイダー的評論家の見方は一致していない。彼のことを、気分屋で気難し屋だと言う者は多い。彼の豊かな才能を認めながらも、「気紛れ」あるいは「怠惰」といったレッテルを貼る者もいる。一方で、芸術家としても人としても「最高にすばらしい」と断固として主張する者も多い。あの有名なカラヤン事件が、気難しいディーヴォ(divo)というコロの評判を高めたのは間違いのないところだ。この件に関しては、カラヤンの演出にあのような反応を示したのはコロだけではないということにも注目するのがフェアというものだろう。つまり、カール・リッダーブッシュも同じように不愉快な気分になり、カラヤンとは二度と仕事をしないと宣言している。無謀なことだと思った人が多かった、この有名な指揮者と絶縁するというコロの決断を評価するに当たって、コロに対して公明正大でなければならないし、芸術家の独立性と誠実さを熟慮し、むしろ勇敢に表明するという彼の選択を、少なくとも部分的には、認めるべきだ。しかし、コロの振るまいを正当化してもなお、キャンセルの経緯に関してマスコミに延々と不愉快な見解を述べるためには「喉の不具合」は妨げにならなかったというマレー・レズリーがオペラ誌に書いた批評がいかに皮肉たっぷりだったかは容易に想像できる。

  実際、コロのキャンセルには情状酌量できる状況があり、熟考した上での決断なのだ。1985年に、芸術的誠実さ(演出に対する不同意)及び家庭の事情(最初の子どもを産んだばかりのベアトリーチェと一緒にいたい)と体調不良という複合的理由で、バイロイトのタンホイザーをキャンセルした。1979年のジークフリートに出演しなかったことについては、次のように説明している。

 一年前に、ヴォルフガング・ワーグナーには、音楽祭期間中に、テレビのライヴ・ショー(Ich lade gern meine Gaeste ein)の録画撮りがあることを知らせてあった。私はその録画のために、バーデン・バーデンに行った。一週間ライヴの仕事をしたので、とても疲れて、その週末には調子がよくなかった。これはジークフリートのおよそ一週間前のことだった。そこで、私はヴォルフガング・ワーグナーに、調子がよくないので、次の公演に限って、代役を見つけるのがいいのではないかと思うと、電報を打った。ジークフリート役を見つけるのは難しいことは分かっている。だからこそ、私はこのように丁重に提案したのだ。数時間後、ヴォルフガング・ワーグナーから、気が動転するような失礼な電報を受け取った。その電報はショックだった。私は家に帰った・・・私たちは、相談し、いろいろ検討した結果、もう全部歌わないでキャンセルすることに決めた。彼はちょっと悲しそうに付け加えた。バイロイトで歌うのは好きだが、ああいう状況でやる必要はない。どこか他の場所で歌えるのだから。


 そして、確かに彼はそうやって、成功した。この件に関するこういう見方に賛成しない人(ワーグナー氏も多分そうだろう)も、いるかもしれないが、誰一人、ジークフリートをはじめとするヘルデンテノールの諸役には、コロが不可欠だという、コロの断言に反論することができる人はいない。
 コロは、その決断が時には過激で、劇場監督との関係が過熱することがあるのと同じくらい、高度に創造的な演出家に対して尊敬を失うことは稀である。パトリス・シェローは1976年のリングで、コロは終始変わらずサポートしてくれ、他のキャストたちの模範になってくれたと断言しているが、そのシェローでさえ時には、コロの気紛れで、気分屋的な態度を嘆いた。彼には演劇的な才能がある(そのことがむしろ彼を発作的怠惰にさせたり、不機嫌にさせたりするのだろう) コロは、このリングで、私がうまくやっていけた歌手の一人だった。五月下旬のジークフリートのリハーサルでのコロは、ほんとうに美しかった。
 1980年代の初め頃、コロ自身、自分の行動について、イムレ・ファビアンに、次のような説明を試みた。以前、私は文句言いで、難しい人間だった。時が経つとともに、私は変わった  続けて、彼は海との付き合いがより穏やかな性格を築くのに役にたったと付け加えた。しかし、コロの「気分屋振り」は、人間関係だけではなく、時には舞台でも感じられる。演出家の性格付けによっては、あるいは、演出コンセプトに刺激されれば、物凄く深く没入できる。そうでない場合は、もがいたり、抵抗したり、無感動になったりしたあげく、声的、演劇的、人間的エネルギーを消耗してしまう。しかし、コロの芸術性は、彼の傑出した公演は、気の抜けた公演よりはるかに勝っており重要であるという事実によって測ることができる。そして、そのどちらもが、彼の仕事を比類ないものにしている極めて人間的な洞察力に由来している。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。