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13章 ルネ・コロ -3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ-3

 一方、ウェーバーの魔弾の射手のマックスは、フィデリオのフロレスタンほど、苦痛に満ちた大袈裟な感情を持たないため、コロの声及び演劇的素質により適合している。1980年、ヒルデガルド・ベーレンス、ヘレン・ドナート、クルト・モルと共演、ラファエル・クーベリック指揮のデッカの録音では、恋に悩む、純真で魅力的な狩人を描き出している。コロはこの若い主人公を世間知らずの温厚な村人と捉えており、意気消沈した雰囲気ではなく、むしろ太陽のように輝かしく歌っている。彼の歌い回しは終始一貫して叙情的で優雅である。Durch die Waelder(森を抜けて)は、暗めのヘルデンテノール的響きで歌われることも多いアリアであるが、彼は、むしろ軽やかなベル・カント的アプローチで歌っている。これは、クーベリックの洗練されたテンポと透明な響きにふさわしい。このアリアのカバレッタは、コロの純粋で、軽やかな華やかさを展示している。たとえホフマンがこの役に持ち込んだ奔放さと狂乱も多少はあったほうがいいと思っても、だれもがこの歌唱の美しさに感嘆する。台詞の部分では、フィデリオの場合と同じように、コロは自然に話す才能を示している。カスパールと弾丸について議論するところでは、その抑揚には真実味がこもっている。アガーテとエンヒェンとの三人での絡みの部分は、もっと暗い予感を感じさせることもできたと思うが、コロは完璧な様式感と優雅な台詞回しで、この二番目の節を歌っているため、聴き手は完全にロマンチックなマックスの魅力を楽しむことになる。狼谷の場で、コロは演劇的に最善の状態に至り、本当の恐怖感を伝える。このマックスはとても人間的で、傷つきやすく、だまされやすく、軽率だ。同じ気持ちで、テノールはオットカールへの嘆願に素朴な悲哀感を漂わせる。彼から刑の軽減を得て、コロのマックスはフィナーレの合唱を新たな威厳と高貴さと賢さを得て歌う。概して、この録音はテノールの声域にぴったり当てはまる役の、非常にスマートに、うまくいったものである。

 魔弾の射手がドイツ物のレパートリーの中で、ある意味百戦錬磨のオペラなら、ダルベール Eugene d'Albert  は新しい物といってよい。コロはダルベールの低地地方のペドロの勇気も試した。マルタにエヴァ・マルトン、セバスティアーノにベルント・ヴァイクル、マレク・ヤノフスキ指揮の1983年の録音は、このドイツのポスト・ヴェリズモの曲の説得力あふれる演奏になっている。コロのペドロは声は優雅で演劇的には天真爛漫な雰囲気を醸している。マルタに対する激しい愛によって、男らしい行動に走ったあげく悲劇的結末を迎えことになる単純な羊飼いをコロは描き出している。
 スタジオ録音では大概そうであるが、コロの響きはたっぷりとして豊かである。彼の発声法(diction)はいつものように正確である。歌詞の扱いは知的で、朗唱法(declamation)はこの録音では、普段以上の効果をあげている。金持のセバスティアーノが衆人環視の中でペドロを殴り、今はペドロの妻になっているマルタのことを自分の愛人にしようとした、その後、セバスティアーノを絞め殺す第二幕の終りは特に強烈である。挑みかかった領主に応戦し、(Da bin ich  俺はここにいるぞ)自分を守るための恐怖と誇りが激しく交錯するささやくような一節(Hier steht mein Weib これは私の妻だ Nun ist er tot  彼は死んだ)をうなるように言うとき、コロは、暗めの威嚇的な音色を駆使する。テノールは、終幕の合唱の主導権を握っている。
Hinauf in die Berge, hinauf zu Licht und Freiheit (山に登ろう、光と自由をめざして昇ろう)と、自由独立の人間として堂々と、安全な自分の山の家へマルタを連れていく。コロがこの二十世紀のオペラと相性がいいことは実に明白である。彼はこのドラマを、確信と熱意をもって、生き生きと表現している。

 低地地方が歌唱も演技も同じように要求するのに対して、シュトラウスのバッカス(ナクソスのアリアドネ)は主として声楽的挑戦である。コロは1979年にナクソスのアリアドネを、ゲオルグ・ショルティの指揮、レオタイン・プライスのアリアドネで、録音し、同年、同役で、メtロポリタン歌劇場の新演出に臨み、成功した。この役の声域はコロにとって何の問題もない。彼の何の苦労もなく高音域に向って伸びていく真のテノール(ect Tenor)は高い音域を軽々と突き抜けるが、時たま、ショルティのオーケストラの攻勢に負けないだけの声量を出そうと、意識的に多少声をふりしぼることがある。(例えば、Lass mich die Hoehe deiner Scherzen 貴女の地獄の苦しみを私に委ねてください は叫んでいる)登場するときの、チェルチェ、チェルチェ Circe, Circe は甘く魅惑的に歌われる。そこには、自身誘惑者でありながら、それ以上に、うっとりしている神がいる。コロのバッカスには、神の変容によって示唆されるべき形而上学的なエクスタシーは感じられないが、優雅な神秘感と、アリアドネの美しさに対する畏敬の念がある。コロの響きの純粋さ、声そのものの持つ水晶のような輝き、ひどく過酷な要求をする役を英雄的に(heroically)ではなくむしろ抒情的(lyrically)に歌う勇敢さに感嘆させられるレコードである。コロ以前ではトーマスがそうだが、コロはシュトラウスに不思議な叙情性(lyricism)をもたらすことができたということは、アリアドネに限らず、影のない女の成功も保証し、この二つのオペラへの出演をしばしば望まれた。後者の録音は1988年に発売されたが、熱烈な批評を得た。グラモフォンは、彼の二つの大きなアリアにある、極めて重要なところは、予想を超えたすばらしさである と書いた。ヴォルフガング・サバリシュ指揮で皇帝役を歌ったこのレコードで、彼は英雄的な力をはっきりと示している。声は以前に比べて暗めで、より充実しており、鋭い朗唱力で、声を用いている。はじめのアリアで、皇帝が狩りについて描写するとき、コロの皇帝は、ジェス・トーマスに比べてあまり詩的な皇帝ではないような印象を与えるが、ジェームズ・キングに比べると、より神秘的で、より瞑想的な感じがする。鷹のアリアでは、甘いノスタルジアを込めて、この鳥に託す個々の祈願を自己探求という新たなレベルのものにしている。彼は懐疑心に支配されており、人間になるという考えをまだ良しとしていない。O weh, Falke (ああ、鷹よ、なんと嘆かわしいではないか)は、悲しみの調子を含んでおり、Menschendunst haengt an ihr (人間らしさが彼女にまとわりつく)は、気高くも悲しい軽蔑の念が感じられる。彼が彼女の死を思うとき(der sie toeten darf 彼女を殺さねばならない男)、彼は自らの考えの凶暴さに直面して、悩み苦しみ、痛々しく傷つく。そして、力強い、一節、Weh, o weh! 悲しいことだ! で締めくくる。しかし、フィナーレでこそ、コロは最高にすばらしい歌唱に到達する。石に変わるという試練が彼を変える。Wenn das Herz aus Kristall 心臓が水晶でできていれば を、まるで彼の声もまた閉じ込められた身体からむりやり逃れようとするかのように、ちょっとスタッカート気味の英雄的響きで始める。ゆっくりと、抒情性と英雄的な薬味を加味していく。これが終幕の合唱を信じられないほど力強いものするという効果をあげている。彼の声は他の人たちの声と共にしっかりと響き渡り、コロの皇帝は、その人物の偉大さと新たな運命を再確認させる。
 しかし、近年、コロが一番多く配役されているのはワーグナーの役である。その声とレパートリーの非常に広範な多様性にもかかわらず、彼がワーグナー・テノールとして達成したことこそが、おそらくオペラ史におけるコロの特殊な位置付けを納得させるものにしたと言えよう。
 スヴァンホルム、ヴィントガッセン、ローレンツと同じように、コロは、リエンチからリングまでの主要なワーグナーの役を舞台で歌っており、録音技術の進歩によって、ローゲとジークムント以外の正規録音を残すことができた。実にコロはワーグナー・テノールのなかで一番録音が多い。
 彼の最初のワーグナーの役は、舵取り(さまよえるオランダ人)といった小さな役だった。これは1968年にリスボンで歌い、ルネ・コロは小さいが極めて重要な役である舵取りを非常によく捉えていた と評された。舵取り役は1969年のバイロイト・デビューの役だった。そして、この成功が次のシーズンの印象的なエリックにつながった。1972年3月4日、フェニーチェ座でのエリックは、コロはこの役をすばらしい精妙さと貫禄で表現した と評された。1977年にこの役をゲオルグ・ショルティ指揮、ノーマン・ベイリーのオランダ人、ジャニス・マーチンのゼンタで録音した。
 この役はコロの高度に抒情的な感性に合っていて、この猟師役を、ある意味マックス(魔弾の射手)やペドロ(低地地方)と共通する性格を備えた、温和な人物として描いている。彼はこの役に、マックス・ローレンツの持つ攻撃性や、ペーター・ホフマンにある強烈な自尊心ではなく、多様に変化する声の色合いと強力に訴えかける独特の親近感を付与している。最初のゼンタとの対立で、夢の話をはっきりとして無気味な感じの弱音(piano)で始め、ゼンタがオランダ人の膝にしがみついてキスした様子を物語るとき怒りと嫌悪感をあらわにする。ゼンタの悪魔的な情熱にたいするキリスト教徒らしい恐れを感じる保守的なエリックだと言えるだろう(Satan hat dich umgarnt ゼンタは悪魔にとりつかれている)そして、彼の怒りはそういうことに対する独善的な態度を暗示している。おそらくはこういう一面的な解釈が終りのカヴァティーナ cavatina  から傷つきやすさと豊かな感情を奪っているのだろう。例えば、Was seh'ich, Gott!  おお、神よ! 私は一体何を見ているのか! は一般的反応として発せられる。高飛車でなんとも信じ難いほどだ。アリアドネと同様に、コロのエリックは、旋律線の美しさと結びついた壮烈なスタミナを伴った、その抒情性と流麗さに非常に感動させられる。
 この本質的に抒情的な声の特質は1970年、ハインリッヒ・ホルライザー指揮によるリエンチの録音で厳しく検証された。ワーグナーの初期のオペラとしては初の全曲正規録音はそれ自体注目に値する仕事だったから、大いに注目された。コロはこの役を1983年にミュンヘンの舞台で歌い、絶賛された。アラン・ブリス Alan Blyth はその公演についてこう書いた。テノールは、以前に私が聴いたのと比べて、より自由で、より充実した声だった。コロは、本物のヘルデンテノールに至るかすかな徴候があるという段階を超えるレベルで、ヘルデンテノールの必要条件を満たしていた。こういうことだから、1970年の録音は、時として、ワーグナーの最初の主要なオペラのグランド・オペラ的主人公には軽すぎる、コロの初期の声を映していると結論づけられる。1970年には(1983年の報告に対して)テノールの抒情的な声は、いまだその成熟は可能性の範囲にあり、それほど暗くなってはいなかったから、ローレンツに見られるような本物のトランペットのような重量感はない。しかし、コロはこれを安定して心地よい最高音、アンサンブルの中で明るく的を得て発せられる響き、朗唱の特有の激しさなどで補っている。彼は執政官役により思索的な光を当て、露骨な軍国主義的側面より、むしろ深く豊かな精神生活に重きを置く宗教的な人間として表現する。
 テノールの出だし、Zur Ruheは、緊張が感じられるが、アドリアーノとイレーネとの第二場は楽々とこなしている。Ersteh, hohe Roma neu はメタリックに明るく響きわたりはしないが、Schwoert freier Roemer, heil'gen Schwur (自由なローマ人たちよ、聖なる誓いをたてよ)での、高い音程の移動に何の問題もない。第二幕での暗殺計画の場では、このリエンチは冷静沈着に、Was willst du, duestre Mahnng mir (あなた方の陰鬱な警告が私に何の関係があるのか)を運命論的響きで彩る。それから、謀反人たちに刑の宣告をするときが来るが、コロのリエンチはその任務を厭っているよう見える。この任務は明らかに彼の人間性に反している。この解釈は美しく歌われる Almaecht'ger Vater(リエンチの祈り)を強調している。コロの演唱は記録された最も抒情的なものの一つであり、彼はフレーズを長く持続する能力をひけらかすのを楽しんでいる。終幕の瓦解の前に妹のイレーネと再開したとき、このリエンチは死を前にしながら、柔和さと親密さを奮い起こし、極めて穏やかな愛情で心を満たす。In unserem treuen Bunde (私たちの忠実な絆のうちに)の二重唱は、穏やかで、喜びにあふれている。コロのリエンチは誇りを持って死と向き合う。これだけが唯一現実的な抗弁である。彼の無理やりがんばっているような、Sollt ihr Rienzi wiederkehren sehn (あなた方はリエンチが戻ってくるのを見るだろう)は、スヴァンホルムやローレンツの持つ恐ろしいほどの威厳には欠けているが、それでもやはり説得力のある劇的効果をもたらしている。コロは、あまり良心的ではない社会と争った結果、犠牲になる、若々しく、誇り高く、柔和な古代ローマの護民官を描き出している。
 リエンチのグランド・オペラ様式が、理想的な形では、コロの生来の能力に必ずしも合っていなかったとすれば、マイスタージンガーとローエングリンの抒情的英雄性は彼にぴったり合っていた。1973年に彼がバイロイトでの初シュトルツィングを歌ったとき、彼の声は清澄にかつ誇らしく鳴り響いた とある評論家は書いた。それにごく最近の1988年4月、ボンで、彼に対する賞賛が読める。
 ルネ・コロは、以前と変わらぬ新鮮さと絶頂期のコンディションで戻ってきた・・・ 彼は公演を通してその役の直面する数々の苦難と共に成長しているようにみえた・・・ 高い音域で楽々と朗々と響き渡り、若いコロを最初に有名にした鳴り響く音色を聴かせてくれた。 
 でも、ハロルド・ローゼンタール Harold Rosenthal は、コロはまるでぴかぴかに磨き上げられた少年のように見えたのはあんまりだという表現で、1974年ザルツブルクでのテノールのシュトルツィングの欠点を指摘し、コロのスタジオ録音と生の舞台での響きの不一致に異議を唱えた。ローゼンタール氏はまた1970年代のはじめのゲオルグ・ショルティとの録音(ショルティ指揮の録音は1976年<75年?> LONDON(Decca) だと思われます。コロの自伝のディスコグラフィーには1986年と書いてありますが、1976年の誤記かしら?)におけるコロのシュトルツィングに対してもいろいろ問題があるとして、批判的である。オペラ誌 Opera の1976年11月号で彼は否定的な批評を書いた。彼は気ままに標準音高から逸脱する歌い方(off-pitch singing)をしている。こういうのはオペレッタのやり方だ。 しかし、コロの非常に軽い、ベル・カント bel canto 的アプローチに反応を示した他の評論家たちからは、彼は絶好調であり、彼独自の演劇的表現をこの役にもたらすことができたという、コメント、あるいは、ヴィントガッセン評をしのばせるような言葉で彼を呼んだペーター・ダネンベルク Peter Dannenberg が書いたような熱烈な賛辞を得た。
 ・・・全体として理想的なシュトルツィングだ。抒情的な主人公、彼の表現に富んだ豊かな声の響きと優勝の歌の最後の部分を歌い抜かせるスタミナからうまれる、洗練されたレガート、しなやかさ、繊細なニュアンスに満ちた音楽性を伴った英雄的な詩人(叙情詩人 Lyriker)
 ハロルド・ローゼンタールは、マイスタージンガーの二つの録音(この二つが何を指しているのか不明です)に対する意見にもかかわらず、1976年版のカラヤン指揮、ヘレン・ドナート、テオ・アダム、カール・リッダーブッシュとの共演による録音(カラヤン指揮の同キャストの録音は1970年EMIしかないようです。但し、コロの自伝のディスコグラフィーには1973年と書いてあります)は完全に満足のいく仕事だと認めている。声は非常に軽いけれど、コロはこれを逆に、浮揚する旋律、際立つ彼の響きの新鮮さ、軽々とした最高音、そして彼の自然なレガートといった、優美な利点にしている。この演奏のハイライトは透明にきらめく五重唱、ロマンチックな Am stillen Herd と、無理なく夢のように歌われる優勝の歌 Preisliedを含んでいる。何よりもコロは殊更に若く聞こえる(舞台では若く見える、現在、もう五十代なのに)、そして、厚かましくなく、優雅な、極めて詩的なシュトルツィングを創造している。
 コロのローエングリンとパルジファルには二つながら詩情があふれている。この二つのワーグナーの登場人物で彼の抒情的な声は輝くことができる。テノールはそのローエングリンの様々の国際的上演で幅広い賞賛を受けている。1977年、モシンスキー Elijah Moshinsky の前期ラファエロ的演出はあの懐疑派ハロルド・ローゼンタールでさえ、ついにロンドンの公演は彼の評判にふさわしいものとなった・・・彼の登場は衝撃的で、第一幕及び最後の幕における彼の歌唱は、音色の美しさはもちろんのこと、真に英雄的な響きを有していたと報告した。これこそ、テノールの国際的キャリアの開始に当たって、コロの声が我々が待ち望んでいるようなヘルデンテノールのなるなどということは想像だにできないと宣言した評論家の言葉なのだから、非常に大きな賞賛だったと言えよう。1972年のカラヤンとのローエングリンの録音について、カール・H.ヒッラー Carl. H. Hiller が賞賛した。彼は月並みな音は出さない。彼は歌っていることを理解している。誰もがすべての言葉を理解することができる。この役で彼にかなう歌手はまもなくいなくなるだろう。 最後の予言は、だいたいにおいて、実現した。実際、ペーター・ホフマンとジークフリート・イェルザレムを除けば、1980年代にはどのテノールも一人として、白鳥の騎士の役で、コロの優越性を超えることができなかったのだ。
 エルザ、アンナ・トモワ・シントウとの録音はテノールの銀鈴のような清澄な抒情性を映している。彼の登場は、舞台を横切って煌めくような、エネルギーに満ちた最高の柔和さを伴った、光を放つ小さな頭声に彩られている。ここでも、In fernam Land (遠い国に)やAbschied (別れの歌)のときと同じように、その声は紛れもない無垢の声である。この役に対するコロの考えでは、この身体から分離したような音色こそが神の声である。コロはローエングリンを別世界からやってきたこの世のものならぬ人物、人間との接触で傷つけられる、人間たちの疑いと暴力の世界を変えるには無力な、地上に降り立った神、と捉えている。テノールはこの悲劇を主として神話的な観点から見ている。つまり、純粋な救済者の循環する物語、人間は彼の試験に不合格となり、彼の悲劇は人間の苦しみを見ながら、それから手を引くことであると考えている。
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