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10章 ヴォルフガング・ヴィントガッセン-4/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

10章:
精神力と舞台倫理:
ヴォルフガング・ヴィントガッセンと新バイロイト様式
ヴォルフガング・ヴィントガッセン -4

  ヴィーラント・ワーグナーの死後、ヴォルフガング・ヴィントガッセンのキャリアは最終段階に入った。ほとんど共生関係のような芸術的関係にあった演出家を失って、ヴィントガッセンは芸術的インスピレーションの主水源を奪われたようなものだった。ベストを尽くしてできることは、ヴィーラントの残したものを守ることだった。ヴィーラントの演出は今や時の審判を受けており、ヴィーラント的なやり方はあきられ退屈だと思う者が少なくなかった。ヴィントガッセンは、彼の役である、トリスタン、エリック、ニーベルングの指環のテノール役、タンホイザーなどの客演をヨーロッパと南米で続けた。彼は尊敬されるべき歌手としての地位を確立していた。そして、そのワーグナーのテノール像は古典的表現として非常に高い評価を受けていた。彼は我が道を行き、その公演は肯定的な評価を受け続けた。1970年7月、ザールブリュッケンでのトリスタンでは、テノールの習熟した技術と決して声を酷使しないという事実が賞賛された。1972年、ウィーンのオランダ人では、彼のエリックは今も抒情的歌唱の手本であると評された。バイロイトでは1970年まで歌い続けた。批評家たちは彼の音楽性と素晴らしい瞬間を作り上げるその才能に屈服させられた。
  最後の四年間、舞台の仕事を減らし、彼の言葉によれば、セミ引退状態に入った。しかし、多くの歌手たちの標準では、まだまだ非常に活動的な職業生活を送っていた。シュツットガルトでは第一ヘルデンテノールとして全てのワーグナー作品を歌い、大いに賞賛されていたし、1970年にはシュツットガルト歌劇場の総監督に就任した。ローレンツがそうだったように、キャラクターテノールの役に取り組み始めた。例えば、ウィーン(1974年1月21日)でのエギスト、1973年3月22日のIl Prigionero の大審問官やGaoler など。
 多分もっと重要な事は、演出家の仕事を始めたことだ。1970年2月、ストラスブルクでタンホイザーの演出をした。ヴィーラント・ワーグナーをしのばせる禁欲的な演出だった。1973年5月コペンハーゲンで、息子のペーター・ヨアヒムの舞台装置でトリスタンを演出した。ヴィントガッセンがその最盛期に最も頻繁に共演したビルギット・ニルソンがイゾルデ、ヘルゲ・ブリリオートがトリスタンを歌った。ヴィントガッセンの新しい取り組みに対する当然の興奮があったにも関わらず、この上演は演出よりは歌唱によって成功したにすぎないし、ヴォルフガング・ヴィントガッセンは、少なくともこの時点では、その歌唱によって引き起こすことができる魔法と輝きを、演出に転化することはできていないというのが一般的な見方だった。
 しかし、テノールは楽観的だった。60歳の誕生日を、将来の創造的計画と期待感に満ちて、迎えようとしていた。1974年3月、ベネズエラでマックスを歌い、6月にはベルリン・フィルとコンサート形式でリエンツィを歌った。その前年、1975年2月2日にシュツットガルトでトリスタンを共演しようとビルギット・ニルソンに声を掛けていた。これは二人の98回目のオペラでの共演になるはずだった。 1974年9月8日、ヴォルフガング・ヴィントガッセンはシュツットガルトの自宅で心臓発作を起こし、死亡した。家族にとってもオペラ仲間にとっても完全な寝耳に水だった。テノールは健康そのものに見えていたし、精力的に仕事に取り組んでいたし、優れた声のフォームを維持していた。彼の死は、10年前のスヴァンホルムの死と同様、残酷な運命のいたずらのようだった。オペラ界は彼の死のニュースに茫然とし、敬意を表したが、信じられないという思いと、深い喪失感に包まれた。
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10章 ヴォルフガング・ヴィントガッセン-3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

10章:
精神力と舞台倫理:
ヴォルフガング・ヴィントガッセンと新バイロイト様式
ヴォルフガング・ヴィントガッセン -3

  クナッパーブッシュとのパルジファルが最初だったが、ヴィントガッセンはバイロイトで1951年から1970年まで主要なテノール役全てを歌った。ヴィーラント・ワーグナーは彼のために次々と新しい演出をした。テノールと演出家は共にワグナーの英雄たちを再創造した。バイロイトにおいて、どの役が最高だったかを言うのは難しいが、おそらくヴィーラント・ワーグナーとの共同作業によるトリスタン(1956&1966)がそうだろう。巨大などっしりした装置が排除された舞台で、ヴィントガッセンは精神性を感じられる現代の英雄を創り上げ、その深い人間性は、観客の強い共感を引き起こした。
  ヴィントガッセンは夏の間はバイロイトで過ごし、他の時には一年中、ドイツや外国で精力的に活動した。1951年のバイロイトデビューの後、リスボン、ミラノ、パリ、ハンブルグ、ウィーンなど世界中の劇場から客演依頼が殺到した。1951年シュツットガルトで初トリスタン。1952年6月5日、はじめてカラヤン指揮で歌った。コンサート形式のフィデリオだった。これによって、次のシーズン、ウィーン国立歌劇場との契約を得た。1953年にはフルトヴェングラー指揮でフィデリオのレコード録音をした。また、1954年8月9日、フルトヴェングラーのバイロイト最後の出演で、ベートーベンの第九でソリストを務めた。シュツットガルトでは様々な役で実験的な試みを続けていた。例えば、1954年のアドラー@オイランテ、皇帝@影のない女、1957年のリエンツィ。そして1965年にはオテロ。1954年には、バイエルンのルートヴィヒ2世に関する映画でシュノール役として歌い、コヴェントガーデンにも客演した。その後10年以上にわたって頻繁にロンドンに客演し、トリスタンやニーベルングの指環の上演に参加した。そして、彼の生涯の記念碑的仕事である、ショルティ指揮のニーベルングの指環の録音をした。
  1957年1月22日、ジークムント役でニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュした。ヨーロッパでの評判は知られていたにもかかわらず、アメリカの批評家は思ったより冷淡だった。批評は様々だった。メルヒオールやスヴァンホルムの重い声に慣れていたアメリカの観客は、ヴィントガッセンの軽い抒情的な歌い方に戸惑った。テノールもアメリカは居心地が良いとは思わなかった。彼は孤立感にさいなまれた。
  私には22日もの休みは不必要だ。仕事をしなければならない。毎日歌えると言っているのではない。しかし、常に活動していなければ、落ち着かないのだ。私はピアノで練習できるタイプではない。舞台に立ってはじめて、物事が理解できるのだ。言い換えれば、その日の上演を行う場所での練習が絶対に必要なのだ。何故、アメリカのホテルの部屋にひとりぼっちで座って、劇場に入れてもらえる日まで、10日ほども待っていなくてはならないのかわからない。まったくもって楽しくない。
  ドイツのメンバーシステムの家族的な雰囲気の中で育ったヴィントガッセンは、大きすぎるメトロポリタン歌劇場や短い練習期間や彼が感じた仲間意識の欠如などに適応できなかった。1957年3月、病気を理由にして、ニューヨークで歌う予定だったタンホイザーとフィデリオをキャンセルしたが、その翌日にはパリで歌っており、メトロポリタン歌劇場が求めた医師の診断書を提出しなかった。テノールとメトの運営陣の確執は、総支配人のビングがヴィントガッセンの契約違反を楯に残っていた全ての契約を破棄したとき頂点に達した。テノールはアメリカの仕事がなくなるのは全然惜しくなかった。その後はヨーロッパでの仕事にエネルギーを集中した。但し、1970年にサンフランシスコでトリスタンを一度、南アメリカで数回歌っている。
  ヴィントガッセンにはなにはともあれ家に近いところの客演を好む理由があった。1955年3月18日、娘のヴェレーナが誕生して、家族に対する責任が増していた。それに、
妻のシャルロッテに、抑うつ、衝動的、突飛な行動などの兆候が生じていた。これは後に彼女の死因となった脳出血の前駆症状だった。1957年に二人は離婚し、シャルロッテは治療を受けていた私立病院で1961年7月24日に亡くなった。妻の死後、まもなく、ヴィントガッセンはシュツットガルトの同僚歌手、ローラ・ヴィスマンと再婚した。彼女とは1946年に一緒にリサイタルをして以来、知った仲で、たびたび共演していた。二人は各自のキャリアを追究し続け、その後も、シュツットガルトでは、売られた花嫁、蝶々夫人、こうもり、マイスタージンガーなどで、頻繁に共演した。そして、ヴィントガッセンの二人の子どものために、愛情あふれる暖かい家庭を築いた。
  テノールの急速な成功の中で、悲しみと幸福が交互に訪れた、この個人的なストレスの多かったこの時期はヴィントガッセンにとって難しい時だった。仕事は大忙しで、彼のキャリアは最盛期を迎えた。1963年ミュンヘンで100回目のエリックを歌ったし、150回目のトリスタンはナポリで迎え、100回目のタンホイザーはブレーメンだった。この年の4月17日に、父親がムルナウの病院で亡くなった。フリッツ・ヴィントガッセンは80歳で、息子の言葉によれば、素敵で実り多い一生を終えた。それでも、息子であるヴィントガッセンにとって打撃は大きかった。息子にとって父親は常に偶像でありつづけていたからだ。その職業生活でも、もっとも見習うべき人物であり、ずっと、その知恵と指導に頼ってきた。しかし、ヴィントガッセンは以前と変わらず仕事に没頭し、家族に慰めを求めた。1963年から1966年もいつも通りがむしゃらに働いた。1964年に100回目のジークフリート、1965年に150回目のトリスタン上演を祝い、テレビ用にオテロの映画を撮った。レコード録音の仕事も多かった。そして、当然ながら、バイロイトにも深く関わった。  1966年10月21日、ヴィントガッセンは新たな悲しみに直面した。師であり親友だったヴィーラント・ワーグナーの埋葬に呼ばれたのだ。ヴィーラント・ワーグナーの早すぎる死は、バイロイトとオペラ界にとって衝撃だった。ヴィントガッセンにはひどい心的外傷となった。演出家の死を友人からの電話で知ったとき、その言葉を理解できなかった。心配した友人の問いかけに、今、何て? としか答えられなかった。麻痺したような感じで、考えることができないその年の初め頃、ヴィーラントが入院したとき、ヴィントガッセンも仲間の歌手たちも演出家の回復を確信していた。希望のうちに、ヴィントガッセンはその夏の神々の黄昏とトリスタンの上演の指導と責任を引き受けていた。彼は、ミュンヘンの病院にヴィーラントを頻繁訪れ、カードや花を送って、コミュニケーションを絶やさなかった。深い愛情から師を支え続けていた。ヴィーラントの師の知らせはテノールにとって二重の衝撃だった。第二の父を失ったような気持ちだっただけでなく、最も親しい芸術上の仲間が消えてしまったことによって、彼自身が粉々になってしまったのだった。
  父の死後、ヴィーラント・ワーグナーの死が私に襲いかかった。父は80歳だったが、ヴィーラント・ワーグナーは若かった。最高の時にもぎ取られてしまった。私は『こんなことがあっていいものか。信仰も終わりだ。彼から学ぶことは間違いなくまだまだ沢山あった。
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10章 ヴォルフガング・ヴィントガッセン-2/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

10章:
精神力と舞台倫理:
ヴォルフガング・ヴィントガッセンと新バイロイト様式
ヴォルフガング・ヴィントガッセン -2

宮廷歌手フリッツ・ヴィントガッセン(1883-1963)は、1914年6月26日、やはり宮廷歌手の妻ワリー・フォン・オステンとの間に長男のフリッツ・ヘルマン・ヴォルフガングが生まれたとき、カッセルの英雄的テノールとしてトップ歌手だった。父ヴィントガッセンは1914年にカッセルに落ち着いていた。そこで、トリスタン、アルフレート、マックス、マンリーコ、グスタフなどを歌っていた。三年後、次男のヨアヒムが生まれた。第一次世界大戦がフリッツ・ヴィントガッセンのキャリアを中断させた。彼は海軍に応召せざるを得なかったが、ある医師の助けによって、まもなく健康上の理由により任務を解かれ、カッセルの劇場に戻ることを許された。そこで、メンバーの中でもっとも人気のある歌手の一人となった。彼はレパートリーの広い、尊敬される歌手だった。音楽的知識はなかったが、生まれつきの才能と輝きには大いに恵まれていた。ウォルフィと呼ばれていた、長男ヴォルフガングは大人しくて優しい少年だった。少年時代をカッセルで過ごし、ヘンシェルの私立学校に通った。そして、その職業的適性はいちはやく示された。
  1922年、フリッツ・ヴィントガッセンはヘルデンテノールとして招かれ、シュツットガルト歌劇場のメンバーに加わった。1923年、家族はシュツットガルトへの転居の準備をした。妻のワリー・フォン・オステンは舞台から引退しなければならなかった。しかし、引っ越しの前、1923年8月15日、彼女は敗血症で亡くなり、子どもたちの世話は残された夫と彼女の姉妹エヴァに委ねられた。1924年、ヴォルフガングはシュツットガルトのギムナジウムに進んだ。彼は素直でまじめな生徒だった。その物静かな外見の裏に、映画俳優か、両親のあとを次いで歌手になりたいという夢が隠されていた。舞台の魅力は彼にとって非常に強く、1929年、15歳のとき、シュツットガルト・オペラで端役を得た。父は息子の舞台への野心をくじくことを望まなかったが、別の安全な道も準備したいと考えていた。こういうわけで、フリッツ・ヴィントガッセンはヴォルフガングが、歌や演技を学ぶ前に、「適切な職業」のための職業訓練を受けることにこだわった。万一夢が破れたときに、落ち着く事が出来るような何か堅実な職業を身につけさせたいと思ったのだ。1932年、ギムナジウムを卒業すると、フリッツは息子に技術者見習いとしてオペラハウスに就職させた。そこで、その後五年間、ヴォルフガングはハンシング監督の下で舞台上演のあらゆる事柄を学んだ。彼は、大工、背景画家、舞台の天井で働く大道具方、電気技師などとして働き、それぞれの仕事を次々とマスターしていった。しかし、舞台の近くにいることは、歌手になりたいという彼の強い願望を強めるだけだった。父に内緒で、シュツットガルト歌劇場の専属歌手、アルフォンス・フィッシャーについて声の訓練を開始した。ある日、父は息子の練習する声を漏れ聞いて、その腕前に感心した。そして、自ら息子の音楽教育に当たることに決め、さらに自分の指導の下でフィッシャーとのレッスンを続けさせた。フリッツ・ヴィントガッセンは後にシュツットガルト音楽大学の教授になるのだが、テクニックと実地経験の両方を息子に伝えた。彼が息子に立派な教育を施したことは間違いない。なぜならば、ヴォルフガングのデビュー直後の批評には、フリッツ・ヴィントガッセンの教育は最初のすばらしい名人を生み出した。まもなくヴォルフガング・ヴィントガッセンが主役を演じることを、今予想することができると書かれていたのだから。
  1937年、ヴォルフガングの教育は徴兵によって妨げられた。フリッツは息子が週二回の声楽訓練を続ける許可を取り付け、二年間の予備部隊配属の確約を得た。ヴィントガッセンの上官は彼の才能を十分に認め、そのキャリアを進める時間を与えた。1939年、ヴィントガッセンはオーディションを受け、プフォルツハイム市の劇場に採用された。芸術監督は獲得した新人を歓迎し、こんな冗談を言った。彼が歌えなかったら、いつだって父親を呼べる
 しかし、戦争がはじまり、ヴィントガッセンのデビューは流れてしまった。1939年、テノールは実戦部隊に招集された。しかし、短期間で部隊を去り、シュツットガルトに残留し、その専門職を続けることを認められた。君が必要になったら呼び戻すからと彼の直属上官は寛大だった。お陰で、いくつかの試験的な契約で歌うことができた。1939年、シュツットガルトのヴェルテンベルク州立歌劇場(シュツットガルト)で電気技師のポストを見つけ、1940年までにこの劇場の歌手になった。ここには多くの公演で歌うために、そのキャリアを通じて毎年戻った。ヴィントガッセンの舞台デビューは1940年11月1日、シュツットガルト歌劇場メンバーによる、ボルドー客演の「こうもり」でのファルケ博士だった。
  ヴェルテンベルク州立歌劇場(シュツットガルト)との関わりは、個人的にも重要になった。1939年、ここで出会った、この劇場のソロダンサー、シャルロッテ・シュヴァイカーと結婚した。後年、結婚について戦争中の不安の中での性急な求婚だったと回顧して、不安定な時代には結婚しているほうがいいように思えたと述べている。シャルロッテは戦争中を通して、ダンサーの仕事を続け、1944年、ヴィントガッセンのキャリアの進行に合わせ、家庭のことに専念するため舞台を引退した。
  1941年1月24日、ドイツ語上演の「運命の力」のアルヴァーロとして、延期されていたプフォルツハイムでのデビューを果たした。圧倒的な好評を得た。この若い歌手は、地方劇場にはもったいないと書かれた。
1941-1944、さらに多くの舞台経験を重ねた。プフォルツハイム、シュツットガルトをはじめ、ドイツ各地の劇場に出演してレパートリーを増やしていった。エリック、アルフレート、ペドロ(低地地方)、マックス、マリオ、ロドルフォ、グスタフ、シャトーヌッフ(皇帝と大工)、リエンツィなどである。リエンツィはワーグナー作品での早々の成功を示した。貴族的で輝くように優雅な護民官と評された。この時期、彼は頻繁に歌った。最初のシーズンには120回だった。これはその後のキャリアでも変わらなかった。
  1944年9月1日、ドイツの劇場は閉鎖され、ヴィントガッセンは再び徴兵され、ドイツ降伏までの困難な日々を軍隊で過ごした。1945年5月8日、枢軸国は降伏。ヴィントガッセンは戦争終結に感謝し、シャルロッテと共にシュツットガルトの父の元に戻った。そこで、その夏には何回かのコンサートをする機会を得た。1945年9月にはシュツットガルト歌劇場の仕事を獲得した。その最初のシーズンは、ホフマン物語で大喝采を受け、その後も引き続きシュツットガルトにとどまるこにとなった。
  1947年、妻のシャルロッテは長男を生んだ。子どもは、1941年戦艦ビスマルクの自沈によって亡くなった、ヴォルフガングの弟ヨアヒムをしのんでペーター・ヨアヒムと名付けられた。ヴィントガッセンは、舞台はほとんど引退して音楽学校で教えている父の住むシュツットガルトに落ち着くことにした。ここから、フランクフルト、ニュルンベルクをはじめドイツ各地に幅広く客演した。この時期には、アイネムのダントンの死、ロイッターのファウストなど、新作オペラの役を頻繁に依頼された。1947年11月、シュツットガルトの主役級ソプラノの一人、ローラ・ヴィスマンとの共演で、ペレアスを、そして、その年のクリスマスには、初シュトルツィングに挑戦した。この野心的な取り組みに対する批評は様々だった。マイスタージンガーだって? まだ早すぎる。感情表現能力不足などと書いた評者もいれば、まさに第一級の歌手だ。感情表現能力は確かだという正反対の批評もあった。最初のシュトルツイングは微妙だったにしても、この役は後に、ヴィントガッセンのキャリアの上で重要な役割を果たすことになった。
  1948年、父ヴィントガッセンのカッセル、生まれ故郷のレネップ、シュツットガルトでの引退公演で父と共演した。父と子にとって感動的なものだった。父子は強い絆を示し、二人が人生において最優先してきた芸術に対する愛を分かち合った。
  父の舞台引退後、ヴィントガッセンはワーグナー作品に熱心に取り組んだ。テノールは自分の修業期間は終わり、全身全霊をかけてヘルデンテノールを追究するときが来たと感じているかのようだった。彼はフェルディナンド・ライターと共に、全てのワーグナーの役を勉強していた。そして、1950年2月、ミュンヘンでクナッパーブッシュ指揮のシュトルツィングを歌った。クナッパーブッシュは大いに感銘を受け、テノールがバイロイトのオーディションを受けられるよう手配した。同じ時期に(1949-1950)ヴィントガッセンは最初のタミーノ、タンホイザー、パルジファルを担当した。このパルジファルを見た、クナッパーブッシュはマイスタージンガーの上演を確約し、ヴィーラント・ワーグナーに手紙を書いた。あなたの望むパルジファルを見つけました ヴィーラント・ワーグナーは同意し、ヴィントガッセンは1951年にパルジファルとフローとしてバイロイトに出演し、彼のキャリアの中核となる方向に船出した。
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10章 ヴォルフガング・ヴィントガッセン-1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

10章:
精神力と舞台倫理:
ヴォルフガング・ヴィントガッセンと新バイロイト様式
ヴォルフガング・ヴィントガッセン -1

   現代において、
ヴォルフガング・ヴィントガッセンの名を挙げることなく、
リヒャルト・ワーグナーを語ることはできないだろう。

 〜クルト・ホノルカ  新時代のワーグナーテノール


    戦後世代によってもたらされたオペラ上演の変化は非常に大きなものであるから、別の本を書いたほうが良いほどである。オペラは上流階級から徐々にはなれて、民主主義的理想へと向かい、音楽的にも演劇的にもあらゆる種類の実験がオペラの伝統の中に入り込んでくると共に、ヘルデンテノールの世界もその変化に応じて再構築された。第二次世界大戦後、オペラは理想的かつ総合的演劇に、つまり、歌唱と演技が均衡を保ってひとつのまとまったものへ、心理的、視覚的リアリズムが作品の聴覚的満足を助長する方向へと向かった。歌手にとって、これは演劇的本当らしさや自分の芸術に対する真剣さだけでなく、新たな舞台倫理を達成しなくてはならないということである。つまり、偉大な歌手の特殊能力ではなく、総合的に完全な上演を達成することが、戦後の舞台規範である。
  ヘルデンテノール史において、新バイロイト様式は変革の焦点となった。再開された音楽祭の中心には、作曲家の孫に当たるヴィーラント・ワーグナーが立っていた。彼は演劇的天才で、この巨匠の作品に対する見方と上演スタイルを完全に変えてしまった。ヴィーラント・ワーグナー(そして、弟のヴォルフガング)と新バイロイト様式の理想に密接な関わりを持っていた一人のテノールが、ワーグナー兄弟の友人兼お気に入りの歌手として、この新様式の主要な代弁者となった。このテノールがヴォルフガング・ヴィントガッセンであった。彼についてヴィーラントはこう言ったものだ。「ヴィントガッセンが歌えなくなったら、祝祭劇場を閉鎖するしかない

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  ヴォルフガング・ヴィントガッセンがヘルデンテノール革命において占めていた位置を理解するためには、ヴィーラント・ワーグナーとその弟ヴォルフガングの仕事と彼らのバイロイト再構築について少し述べる必要がある。
  バイロイト音楽祭は1944年に閉鎖され、戦後の再開はワーグナー兄弟の監督下で音楽祭が新たに組織されるまで待たなければならなかった。悪名高い第三帝国時代に劇場運営に携わっていたウィニフレード・ワーグナーは音楽祭の運営から排除され、彼女の息子たちが重責を担った。ヴィーラントとヴォルフガングは共同で1951年に新音楽祭を始めた。ヴォルフガングが主として管理運営に当たり、ヴィーラントが芸術的方向を決めた。ヴィーラントの芸術監督としての在任期間は1966年、癌による急死まで続いた。その後は、ヴォルフガングが全てを取り仕切り、彼は創造性、持続性、管理上の実際的知識などを兼ね備えた運営によって、今日のオペラ界における最高のインテンダント(劇場監督)のひとりとなった。
  ヴィーラント・ワーグナーは祖父の作品に対して急進的なアプローチをした。彼はコジマのやり方のくそリアリズムをはぎ取った。舞台装置を必要最小限にした。これは偉大な舞台装置家、アドルフ・アッピアの考えを反映したものである。彼はこの様式的簡素化を、自らの演出において拡大した。実際に何もない裸の舞台で音楽劇を上演したのだ。舞台装置としては象徴的なイメージを用い、複雑な照明を創造した。新しい、ごたごたと物を置かない、新古典様式を創り上げた。演劇としての象徴性と音楽的着想こそがヴィーラントが強調しようとした要素だった。オペラにおける身振り、動作は音楽の中にあると主張した。従って、舞台上では最小限の動きしか必要でない。すべての演劇的要素は内面的かつ心理的であり、すべては静的に表現されるのが最も望ましい。静的な状態こそが、内的関わりの強さを示すことを可能にする。見たところは何もなく、驚きだった。感情的、知的衝撃は最高だった。天才的な大胆なやり方で、ヴィーラント・ワーグナーは伝統の足かせを粉々に打ち砕き、現代のために、音楽劇の今日的意味を問い直した。
  ヴィーラントとヴォルフガングは、その劇場改革によって、バイロイトをワーグナー教の寺院、あるいは、ワーグナー作品の博物館から、実験と変革こそが優秀さの唯一の尺度であるワークショップへと変えた。彼らに献身する芸術家集団と共に、バイロイトという場所がワーグナー作品の精神的中心地であるだけでなく、未来の全てのオペラ演出のための芸術的旗手であることを示すために働いた。1950年代と1960年代に、ワーグナー兄弟とヴォルフガング・ヴィントガッセンをはじめとする彼らに協力した戦後世代の歌手たちによる新バイロイト様式はオペラの前衛的潮流になった。
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  「ヴォルフガング・ヴィントガッセンがもうバイロイトでは歌わないなんてことになったらどうしたらいいだろうか」と質問された大指揮者ハンス・クナッパーブッシュは、「とにかく早急に連れ戻す。それしかないじゃないか」と答えた。ヴィントガッセンはほぼ20年に渡ってバイロイトに君臨していた。これは主要なヘルデンテノールとして歴史上最長の連続出演記録である。
  競争相手がいなかったわけではない。実際のところ、1950年代、1960年代は、英雄的歌唱が復活した、特に実り豊かな時代だった。国際的な舞台ではもちろん、バイロイトでも競争相手には事欠かなかった。1950年代には、マックス・ローレンツ(1901.05.17-1975.01.11 ドイツ)、ルートヴィヒ・ズートハウス、(1906.12.12-1971.09.09 ドイツ)セット・スヴァンホルム(1901.05.17-1975.01.11 スウェーデン)ヴィントガッセンのキャリアが終わりに近づいた1960年代には、ジェス・トーマス(1927.08.04-1993.10.11 アメリカ)、ジョン・ヴィッカーズ(1926.10.29- カナダ)、ジェイムズ・キング(1925.05.22-  アメリカ) 同年代には、ラモン・ヴィナイ(1912.08.31-1996.01.04  チリ)、ギュンター・トレプトウ(1907.10.22-1981.03.28 ドイツ)、ヘルゲ・ロスヴェンゲ(1897.08.29-1972.06.19 デンマーク)、ハンス・ホップ(1916.08.02-1993.06.25  ドイツ)といった著名なヘルデンテノール仲間が名を連ねていた。ヴィントガッセンはその中の一人にすぎなかった。ハンス・ホップは、バイロイトでは 1951年から1964年まで歌い、シュトルツィング役とジークフリート役をヴィントガッセンと分け合った。ロスヴェンゲは戦前のバイロイトの卓越したパルジファルだった。戦後は、タミーノといった軽めの英雄役をヨーロッパ中で歌い続けた。チリ人のバリトン歌手、ラモン・ヴィナイは、そのキャリアの半ばにヘルデンテノールに転向し、1952年から1957年までバイロイトでテノールの役、1962年にはバリトンの役を歌った。彼は世界的にも有名で、特にオテロ役で知られた。ギュンター・トレプトウはウィーンとバイロイトでジークフリート、トリスタン、ジークムントを演じて人気があった。このような多くの優れたヘルデンテノールが存在し、選択肢は多かったにもかかわらず、ヴィンガッセンが新バイロイト主義の主たる担い手としての地位を勝ち取ったのだった。ヴィントガッセンは間違いなく、ヴィーラント・ワーグナーの好みの歌手だったというだけでなく、ヴィーラントの親友のひとりでもあった。ヴィーラントは、他の歌手を知らず、他の歌手に無関心で、他の歌手についてきまぐれでいい加減な評価しかできなかったのかもしれないが、彼のヴィントガッセンに対する評価がゆらいだことは一度もなかった。こういった事の経緯は理解し難いものではない。
  歌う役者としてのヴォルフガング・ヴィントガッセンは、新バイロイト様式の理想だった知的で心理的な演劇の見本だった。ヴィーラント・ワーグナーのやり方への関わり方とその舞台倫理への献身は演出家ヴィーラントを満足させた。二人は深い友情を培い、芸術的に一致していた。それは、かつて、リヒャルト・ワーグナーとシュノールの間に存在した好ましい共感に似ていた。ヴィントガッセンは師であるヴィーランドを回顧して、「彼に終わりはなく、常に新しい考えを求め、常に前進していた」と言っている。ヴィントガッセンはヴィーラントをまるで父親のように尊敬していた。テノールの演出家に対する崇敬の念は限りないもので、二人の間のコミュニケーションは完璧だった。簡潔な表現で、あるいは、言葉なしでさえ、最高に明確に理解し合えることも珍しくなかった。テノールは、ヴィーラント・ワーグナーと共に体験した芸術的一致について「彼が、『ヴィントガッセン、もう一歩左へ』と言えば、彼の言いたいことの全てを理解した」と説明している。二人の考えは完璧に一致していたから、ヴィントガッセンは演出家の意思の一部になった。つまり、舞台の共演者たちの中にあってはヴィーラント・ワーグナーの代弁者であり、率先して手本を示す者であり、演出家のコンセプトを視覚化する者となった。演出家はテノールを頼り切っており、亡くなったその月にさえも、自分の流儀を守り、自分に代わって歌手たちとコミュニケーションをとってほしいと頼んでいる。ヴィーラント・ワーグナーが亡くなった1966年10月17日から、わずか2か月弱前の1966年8月28日付けのヴィントガッセンに当てた手紙には、二人の芸術家の間に存在した強い信頼関係を強烈に示されている。
  今年の神々の黄昏の上演の共演者たち全員に、今年の音楽祭における彼らの素晴らしい努力に対する私の心からの尊敬と感謝を伝えてください。あなたには特別に感謝したい。あなたが示した模範のお陰で、リハーサルと公演の両方の順調な進行が確保され、バイロイトの精神が守られたのだと思っています。
  ヴィントガッセンの声と演劇に対する姿勢には、ワーグナーの孫を大いに注目させるものがある。ヴィントガッセンもまた音楽劇に長年携わってきた家庭の出身で、二人とも、ワーグナーの音楽に対する愛情と、それに傾倒する感性を受け継いでいた。生まれながらに俳優としての素質を備えていた。ヴィントガッセンははじめに技術者、設計者の見習いをしたが、このことは劇場公演に関する幅広い知識を身につけるのに役立った。視覚的な要素に対する感性を磨かせ、演劇的価値に対する認識を深めさせた。ヴィーラント・ワーグナーが先頭に立ったオペラ上演改革に対して、技術的にも精神的にも自ずと調和できた。だからこそ、ヴィントガッセンは、広い音域と英雄的なスタミナ、知的な音楽性はあるものの、その細い声で、信じられないほど多様性のあるヘルデンテノールになった。ヴィーラント・ワーグナーはどんな演出にも彼を使うことができたし、それによって、間違いなく質の高い上演を期待できた。
  演出家ヴィーラント・ワーグナーがヴォルフガング・ヴィントガッセンの芸術が気に入っていたことは疑う余地はない。二人の関係は師弟関係として始まったが、共同創造者の関係へと発展した。そして、ヴィーラント・ワーグナーの死で、その関係は終わったが、ヴィントガッセンは弟子としてその伝統を守ろうとした。ヴィーラント・ワーグナーの模倣だった、ヴィントガッセン自身による演出が、新バイロイト様式の復活や発展につながらなかったことは、今後、分析すべき課題である。
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1章 ヘルデンテノールとは [WE NEED A HERO 1989刊]

1章
ヘルデンテノールとは、一体何なのか

   ごく簡単に言えば、劇的な役(dramatic roles)を歌うテノールである。19世紀の産物だ。力強く英雄的な声がオペラのレパートリーと好みの変化に応じて作られたのだ。
 ヘルデンという「なんとなく古めかしい」名称は、ペーター・ホフマンがいみじくも指摘しているように、この特殊なドラマチック・テノールの持つ哲学的かつ超自然的な要素を内包して、ロマンチックな雰囲気を醸す。英雄的資質、ヒロイズムという概念は、劇的で力強い歌唱だけでなく、貴族性、精神的な強さ、霊的な力といった性格が付随することを暗示する。実際、ヘルデンテノールという概念にはこういった性質が、良い意味にしろ悪い意味にしろ、自ずとつきまとっている。声そのもの、そして、このタイプの役柄、そのどちらもが、選ばれた者(エリート)、神秘的なで不可解なスーパーマンの仲間であると言える。遠い存在、希有の、理解しがたい類いの歌手である。特殊な声のカテゴリーに、期待と排他性が加えられて、神話が造られ、そこに生じた誤解がこういった概念を増幅してきた。これらの神話を検証し、その事実性を評価し、その幻想を退けること、要するに、現代的感性でヘルデンテノールという語を再定義することが、この研究の目的である。
 広義では、ドラマチックなレパートリーを歌うテノールは全てヘルデンテノールと呼べるが、狭義なら、ヘルデンテノールとは、一般的にドイツ・オペラ、主としてワーグナーのテノール歌手を指す。このような見解からヘルデンテノールと呼ぶものは、おのずと限定される。それはリリックな歌唱であるが、ヘルデンテノールという呼称の基本は、声の質ではなく、むしろ地理によっている。この研究では、ヘルデンテノール歌唱の定義の幅が広がっている問題を歴史的に概観したい。
(ii, iii 略)

 一般的にヘルデンテノールが関わるのはドイツのドラマチックなレパートリーだが、多くの歌手はイタリア物やフランス物など、ドイツ物以外の役も歌っている。ヘルデンテノールのレパートリーはワーグナーのテノール役に限定されていないということは確かである。ヘルデンテノールのレパートリーを不当に限定して来た、ヘルデンテノールとワグナーテノールの同一視は誤りである。ワーグナー以外でしばしばヘルデンテノールによって歌われるドイツオペラの役としては、「影のない女」の皇帝、「ナクソス島のアリアドネ」のバッカス、ベートーベンの「フィデリオ」におけるフロレスタンが挙げられる。これらの役にはワーグナーのヘルデンテノールの分野と同じような声とドラマ性が求められている。

 イタリア物のドラマチック・テノールがヘルデンテノールの分野に挑戦するように、ドイツのヘルデンテノールもラダメス、オテロ、カニオ、あるいはもっと軽いヨハン・シュトラウスの役やモーツァルトのよりリリックな役を頻繁に歌っている。ヘルデンテノールが歌曲や他の形の音楽劇や歌で評判になることも珍しいことではない。アプローチのスタイル及び声質による区別に比べて、 レパートリーによる分類も不完全である。

 同じレパートリーの中でスタイルの違いを観察することで、ヘルデンテノールのアプローチがより明確に示される。例えば、ヴォルフガング・ヴィントガッセンのオテロは、その性格付け、雰囲気、スタイルにドイツ的なものがある。ヴェルディのドラマチックテノールというよりは、ヘルデンテノールである。同様に、プラシド・ドミンゴのローエングリンは、ヘルデンテノールの役をイタリアンテノールが歌っている古典的な例である。それなりに美しく、音楽的で、感動的でさえある。にもかかわらず、ドミンゴの白鳥の騎士は、一部に共通性はあるにしても、ワーグナー歌唱とは本質的に異なるものを強調する、別の声楽的伝統にそのルーツがあるのがわかる。

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前書き [WE NEED A HERO 1989刊]

前書き 論点と方法
   これは主として、オペラの歌唱に関する著述である。すなわち、声のタイプ、歌唱スタイル、演劇的表現などの発展に関する研究である。しかし、同時に個々の人物に関する著作でもある。つまり、個々の人間とその芸術家としての生き方をも扱っている。ソプラノのデボラ・サッソンは、『歌うことは請負い仕事(ジョブ)ではない。そうではなくて、一生をかけてかかわり合っていくものだ。生活と舞台は切り離せるものではない。それは、感じるようにしか歌えないからだ』と言った。だから、およそオペラ歌手の歴史を研究するなら、歌手のキャリア、歌手の関心のありか、歌手の気質、歌手の環境など、ひとりの歌手の全人格の総合的研究であるべきだ。
 この本はテノールに関するものである。それも、芸術家の中でも稀有な種族、しばしば軽蔑的な冗談の対象にされている種族、めったに批評家の賞賛をあびることのない種族、つまり、人間の声としては、特殊で不自然なテノールを扱っているというだけでなく、さらに、はるかにエキゾチックな種、すなわちヘルデンテノールに心を奪われたものの本である。ヘルデンテノールとは何かという、このエリートの仲間に入るための「会員規則」の定義及び、過去150年間の英雄的歌唱に関する主な解釈についても批判的な議論を試みたい。
 というわけで、要するにこの本は論文である。広範な研究調査に基づいて価値判断を下した批判的な歴史書である。したがって、当然ながら、普遍的な基準と個人的な好みの両方の産物である。ラウリッツ・メルヒオールこそがヘルデンテノールの芸術の頂点であるとの盲信を確認することを望む読者は、失望するだけだろう。しかし、私としては少なくともヘルデンテノールの芸術に関する新たな展望を提供したつもりであるから、19世紀半ばのドイツの英雄的歌唱の源から今のオペラの舞台までを辿りたいと望む頭のやわらかなオペラファンなら、説得力のある、刺激的な分析を発見するだろうし、著者としては、そう願っている。
 このような歴史に対する需要があることは明白であると信じる。この本の中で、歌手の個別の伝記と研究を沢山扱ったが、英雄的テノールの生活、キャリア、感性を示すものや、ヘルデンテノールの歌唱におけるスタイルの発展と個々の歌手の芸術的業績の両方の記録や彼らの仕事を分析したものは今日まで存在しなかった。
 私の研究は、書かれたものと聴いたものの両方の資料によっている。すなわち、三つの言語による伝記、インタビュー、批評、新聞記事、市販されている録音、私的な録音、ビデオ、他の歌手との接触、実際の公演に行くことである。この資料の質と量は、個々の歌手によって異なるので、評価基準が一定でないという批判がありうる。しかし、この問題に関して超自然的な被造物を発見することができないとすれば、他に適当な資料は得られないので、たとえ、不完全であっても手元にある資料で満足するしかない。これが賢明なやり方というものだ。
 公平な比較基準と高い客観性を求める批判的歴史家が直面する問題は多い。書かれた資料は、聴覚資料よりは、おそらくは比較検討しやすい。しかし、これらもまた、興味深い疑問を投げかける。特に、録音のない時代の歌手にとってだが、20世紀後半の歌手にとってさえも、(実際、著者が個人的に証人になっていない上演についても)、批評が歌手のキャリアにとって主たる資料になる。そして、ジャーナリスティックな批評は、評論家を尊敬するにやぶさかではないが、歌手のポートレートを描くには限界がある。研究者はそれぞれの時期の美に対する好みの変化を把握していなければならない。例えば、アルバート・ニーマンが、偉大な『写実主義的な』俳優だったという、同時代のジャーナリストの証言を、ニーマンが、ペーター・ホフマンの視覚的な意味での演劇的衝撃や写実性と同程度のものを有していという意味にとれるだろうか。ホフマンのオペラにおける演技の映画的性格などということは、ニーマンの時代には予想だにできない基準だったことは間違いない。それに、個々の評論家の偏見(バイアス、先入主)というものもある。ワーグナーの作品に対するハンスリックの態度は有名だし、歌手に対する現代の批評をよく読めば、ジャーナリストによってそれぞれ「傾向」というものがあることに気付くはずだ。これはごく人間的なことだが、極端に否定的批評や、肯定的批評を多少とも中和するために議論すべき要素である。同様に、批評の中に現れる国民的好みの類型がある。現代のヨーロッパにおける批評は、例えば、ヴォルフガング・ヴィントガッセンのリリックなテノール(echt Tenor)を好む傾向がある。アメリカはこの逆だ。劇場のサイズ、オーケストラの音色、オペラの伝統などが、好みを形作っている。このようなわけで、批評は、その文化的背景の中で読まれなければならないし、歴史的な概観がのちに同時代の判定をくつがえすかもしれないことも知るべきだ。最後に、前世紀よりも最近その傾向が強いのだが、音楽ジャーナリズムに繰り返し見られる嫌なパターンがある。私はもうすっかり慣れてしまいうんざりしているのだが、マスコミはある歌手について、センセーショナルに新発見を告げ、蜜月期間はこの歌手を擁護し、その長所に比べて、その欠点は見逃されるが、だいたいキャリアの中期にさしかかったころ、突如、同じ歌手に対して、まさにいったんは見逃されていた欠点を綿密で、厳しい検査にさらし、声楽的危機といったレベルで問題にする。そして、もし歌手が、寿命と健康と芸術性に恵まれ「成熟期」まで生き延びれば、再び賞賛し、(長いキャリアを保ったマックス・ローレンツやジョン・ヴィッカーズのように)神格化する。
 このようなジャーナリスティックな常道に対する解毒剤は録音に立ち返ることである。分析的に聴きながら、批評を読むことである。1901年以降は、録音資料が存在する。歌手のキャリアにおける各時期の代表的な録音を見つけ、スタイルの性格を正確に指摘すると同時に声楽的な展開を示そうとするのが、私の方法である。しかし、19世紀のヘルデンテノールに関しては、録音はないので、批評と、第一次的資料すなわち、専門家の判断と合わせて、手紙、日記など同時代の素人の資料にたよるしかない。
 また、録音が存在しても、質の問題がある。古い録音には音質の問題がある。ジャン・ド・レズケのローエングリンのシリンダー録音は、轟音をたてるゴミ処理車の上で歌っているかのように聞こえるのだから、その当時の証言や、この偉大な歌手に与えられている歴史的賞賛と一致させるの難しい。ハイテクによる新しい録音でさえ、技術的な音というものが、実際の声を録音がとらえうるか、それとも、とらええないのかという疑問を投げかけるのだ。リリックなヘルデンテノール(例えば、コロやイエルザレム)の録音では、実際の舞台とはほとんど一致しないような音と重量感を達成している。従って、商業録音と生の舞台を天秤にかけバランスよく聴くことが重要であるが、当然のことながら、劇場で聴くことが一番である。それでも、ライブ録音は非常に貴重な資料である。私はメトロポリタン歌劇場でメルヒオールやスヴァンホルムを一度も聴いたことはないが、それでも、彼らのスタジオ録音にくらべれば、そのラジオ放送は芸術家としての彼らについてはるかに多くを語ってくれる。ただ初期的衝撃を受けるだけでなく、さらに、上演について研究できるというおまけまで提供してくれる。この本における分析の大半は、録音資料を繰り返し聴き、研究したことに基づいている。私としては、より深い検証に入る前に、最初に聴いたときの第一印象を捕らえるべく最大の努力をした。結局のところ、一つの音でさえローレンツやホフマンのトリスタンの舞台を完全に再現してはいないが、この役における二人の最高の歌手を目の前にした全体的な印象を損なってはいない。舞台の映像記録も、同様に分析的に使える。ちょっと主観を述べさせてもらえば、映像記録は、近年メディアが促進している研究と聴衆の成長にとって非常に大きな補助手段の一つであり、近代技術はオペラに貢献していると思う。幸いなことに、この十年、オペラ上演のビデオが多数提供されており、この研究においてもかなり利用した。  前述の問題に加えて、比較史を書くに際して、研究材料による、内在的な問題も存在する。この本では、個々の歌手の証言は、その歌手の歴史におけるユニークな位置付けとヘルデンテノールの伝統における評価を重ねて選択した。
 比較するのは常に困難を伴う。すでに明らかにしたように、歌手は、劇場のサイズ、オーケストラ、現在の、また歴史的な美にたいする好み、技術、マスコミの傾向など、異なる多様な状況に依存している。そしてまた、主観的判断も無視できない部分を占めている。最近、雑誌「オペラ」の編集者であるロドニー・マイルズからもらった手紙の中で、彼が率直に書いていたことだが、誰一人として同じ音を聴くことはないのである。不可能なことかもしれないが、芸術を評価するにあたって、絶対的な基準として、客観性は美徳である。歌うことは、その輝かしい情熱的な音に対して、なによりも、官能的で、性的でさえある原初的な反応を引き起こす。それは、たいていは知的な反応ではない。音楽劇としてのオペラは、その濃密な演劇的コミニケーションとの原始的呼応によって成り立っている。最初の本能的印象のあとではじめて、訓練された耳や目を使ってそこにある上演に対する分析、批判、考察、評価に立ち戻るのだ。 一例をあげると、私はビブラートに対して、相当寛容である。ビブラートは、ビブラートのない感情を含まない声を好む聴き手を憤慨させるが、私にとっては、たいていの場合、私のなかの個人的な反応を激しくかきたてる感情の高まりそのものである。私は、エネルギー溢れる、ゆたかな陰影を持った声が好きだし、暗めのヘルデンテノールの響きを好む傾向がある。情熱や性的な感覚を呼び覚ますような色合いを持った声に影響されない振りをしたいとは思わない。オペラは、まずは音楽か、それとも 音楽劇かという問題に対しては、きわめてはっきりとした意見を持っている。この観点から言えば、私は当然偉大な歌役者たちに肩入れする。こうした私の嗜好が、一部の読者のお気にいりかもしれないし、多くの百科事典的歴史には名前が載っているに違いないような、尊敬を得ている多くの名前が省かれている主な理由かもしれない。しかし、だからと言って、私の選択が、歴史上のヘルデンテノールの声、スタイル、芸術性を幅広くとらえることを不可能にしているわけではない。評価において、若干の主観も明らかに見られるかもしれないが、内容と分析に対する包括的な基準のほうが、本能的かつ主観的反応をしのいでいると思う。
 この歴史書においては、声の独自性と美しさ、劇的表現能力(声楽的な意味だけにしろ、総合的な歌役者としてにしろ)、ヘルデンテノール芸術の展開に対する総合的な芸術的貢献によって英雄たちを選んだ。そして、ひとりひとりの歌手たちをひとりの人間として考えている。歌手をシンギングマシン(ペーター・ホフマンの言葉を借りれば)と見るような批判的分析を避ける努力として、芸術家としての仕事に対する、歌手自身の内面的欲求からの発言をできる限り優先し、可能な限り常に個人的経験を拠り所とし、他人の証言はなるべく使わないようにした。それによって、一般の読者とオペラファンによりわかりやすい記録を提供したいと思う。批判的分析を離れて、17人の特別な男たちとその音楽に関する、おもしろい人物像や楽しい逸話や実際的情報なども提供できたらいいと思う。
 この本で論じたヘルデンテノールたちは多様な芸術的運命を負っている。びっくりするほど似ている部分もあるが、彼らのたどったキャリアや、キャリアの長さ、役の数や分布、さらには彼らが携ったヘルデンテノールの役でさえも、一般化することはほとんどできない。真性のテノール( echt Tenors)もいれば、重いテノール(schwer Tenors)もいる。数人の歌手は役を狭い範囲に限定したので、より重いレパートリーを歌う全幅的なヘルデンテノールというよりもむしろ若々しい英雄( jugendlicher Held)と呼ぶほうがいいのかもしれない。演劇としてのオペラに対するアプローチの仕方も相当違いがあるが、集団としても、個人としても、高貴な芸術を推進しており、ヘルデンテノールの歴史のひとこまを代表するに値することはまちがいない。
 多様な個人である17人のヘルデンテノールたちには、いくつかの必要不可欠な共通項がある。その芸術に関わるエネルギーと情熱、声の美しさ、響きの独自性、劇的信憑性などである。彼らにとって、歌うことは魂と音に火をつける技なのである。

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