SSブログ

13章 ルネ・コロ -4/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ルネ・コロ -4
Opernwelt誌は、これはコロのキャリアの頂点であった・・・・熟考された、知性あふれた歌唱であったと書いた。この録音で、コロはパルジファルを、最初から繊細で優しい若者として描いている。彼は夢見がちに森をさまよう人で、グルネマンツが白鳥を殺した乱暴な彼と対決するやいなや後悔する。第一幕は古今未曾有の静けさである。極めて詩的で、表現は柔らかく、極端に感傷的にさえ聞こえる。きらきらときらめく、印象派的な、楽譜の扱い方を強調する繊細な感情が存在するが、一方で、時に、この役に要求される力強い緊張感や情熱を創り出せていない。この若者は非常に柔和で、多感な音色のうちに、ヘルツライデを思い出し(Ich habe eine Mutter 私には母があった)、母の死という事実に直面すると正真正銘失神してしまう(Ich verschmackte 気が遠くなる)。コロは第一幕の最後で、穏やかにWer ist der Gral? グラールとはだれですか と尋ねが、それは、本当に知りたがっているという印象を与える。これに対する評論家の考えは、テノールの精神的探求への熱望が生じるのが早すぎて、第二幕の演劇性をある意味で奪うことになっているということだ。
 第二幕でテノールは弱音pianoを多用する。(実際のところ、トーマス、ホフマン、コロは楽譜に記された弱音pianoと最弱音pianissimiに注意を払っている珍しいヘルデンテノールたちだ)コロの花の乙女たちとの会話は優しく内省的であり、クンドリーのキスの後に彼が感じる良心の呵責は、原罪に対する青年の衝撃的な認識である。アンフォルタスという叫びにおいてだけは、コロの明るく軽い声はショルティの大胆な指揮に圧倒されているようにみえる。だが、テノールは槍を受け止める、二幕の終りを手堅く響き渡らせてうまく締めくくっている。
 第三幕でも、このパルジファルは悔恨にくれる若者のままである。そのへりくだった様は感動的ではあるが、純粋な愚か者の新たな成長を示す暗めの声質を何度も期待してしまう。テノールは、du weinest のところにおける本物の弱音piano、歌い終りのOeffnet den Schrein での安定した漸次弱音楽節diminuendoなど、いくつかの秀逸な技術を示すが、Mein erstes Amt verricht ich somezza voce メッザ・ヴォーチェ (半分の声での意味) で歌うところでは、奇妙なヴィッカーズ風の低くささやくような歌い方(crooning)になってしまうこともある。しかし、三幕でのコロの最大の欠点は、奇跡的な変容の感覚を創り出せていないことである。彼は聖餐の奇跡によって新たな力を与えられ、変容を遂げ、決定された英雄というよりはむしろ、崇高な聖杯に奉仕する、畏れに打ち砕かれ、震えおののく、謙遜な若者である。
 この十年、コロはより重いワーグナーの役を歌うことが多くなっている。今日、タンホイザー、トリスタン、リングの英雄たちを歌うことができるまさに選ばれたテノールの一人になっているのだ。1987年のはじめの気乗りがしない弱い声のウィーンでの公演の後、同年9月29日にはコヴェントガーデンでモシンスキー Elijah Moshinsky 演出のタンホイザーは、最近におけるすばらしい勝利であった。
 ルネ・コロ以上のタンホイザーを今日想像することは不可能だ。彼は全力投球でこの役に挑んでいる。耳障りだったり、不安定な瞬間はあるかもしれないが、そんなことは、躍動感と、目的をもって言葉を発すること、それから、透徹した力強さ、そして、全体として彼の演奏のもつ説得力によって補われて余りある。ローマ語りは圧倒的だった。
 この役に対するかかわり方は、1980年代のより暗くなった音色のほうが、この人物の苦悩を表現するには相応しいにしても、初期の1972年の、ヘルガ・デルネシュ、クリスタ・ルートヴィッヒ、ハンス・ゾーティンと共演のショルティ指揮の録音のころ同様に明確である。この初期の録音で、コロは、特に第一幕で高音域(tessitura)の続くこの難役に取り組み、これを抒情的に歌うことに成功している。ヴェーヌル讃歌はあざやかな精密さである。最初の節は精力的に激しく軽々と流麗に歌い上げられる。自分を去らせてくれろ懇願する次の節は、よりエロチックに輝く。そして、続く各節は次第にしつこさを増す。女神との口論が激しさを増すにつれて、時に濁った耳障りな音色が彼の声に混じり、Mein Heil ruht in Maria! (我が救いは聖母マリアにある!)のクライマックスを形成する。これはワーグナーが望んでいたことではないかもしれないが、コロはこの叫びをこの後に続く場面の外枠と見なしている。つまり、この叫びは、衝動的に口をついて漏れた確信的なフレーズで、魔法を打ち破る力があるということだ。
 第二幕のホールでの歌で、彼はその響き渡る、若々しく確信に満ちた音色によってタンホイザーの熟練した宮廷歌人(Minnesaenger)を彷佛とさせることに成功している。刺激的な朗唱と二幕のフィナーレはコロの若い声が英雄的な響きを生み出すために苦悩していることを示している。
 この初期の録音の第三幕のローマ語り(Romerzaehlung)もテノールの抒情的能力にのみよっていることは間違いない。コロはこの究極のモノローグに歌い回しの明確さ、抒情性を与えており、
これらは疲れ果て、やつれ果て、傷つきやすくなっている巡礼を彷佛とさせる。彼は長い苦痛に満ちたフレーズを完璧に持続するレガートで歌っているが、劇的効果を上げるために時に応じて声をふりしぼることも辞さない。それにしても、この初期の録音においてでさえ、聴き手はテノールの人物との同一化を感じ取る。コロは、1972年にはタンホイザーをヴェーヌスとの子どもっぽい戯れによって、その魂を、高潔さと下劣さの間で鋭く引き裂かれた温和な青年として捉えた。1987年にはタンホイザーをアポロン的要素とディオニソス的要素の間で引き裂かれる成熟した大人、二分法を解決することができない悲劇によって破壊される成熟した大人として、より深い洞察と受容の感覚で歌った。
 タンホイザーの官能性に対して、コロのもっとも有名な人物描写のひとつ、トリスタンは、彼自身の言葉によれば、もっとも理想的な、純化された、肉体的でない愛の形にかかわっている。それは、内面にのみ生じ、時空を超越する愛である。コロはトリスタンで、彼のローエングリン的オーラ、神秘的な、この世のものではない、現実を超越した雰囲気を示す意義を強調する。テノールはこのオペラに関して、最小限の動きしか要求せず、もっぱら内面性にこだわるヴィーランド・ワーグナー風の演出を好ましく思っている。彼はこのオペラには、退廃と同時に無気力感があるのだから、演出家も歌手もロマンチックで魅力的な官能性に陥らないようにすべきだと感じている。この役に対するコロの頑固な見解のせいで、様々な演出家と意見が合わないことが多く、1980年にはミュンヘンのエファーディング(Everding)の演出を降りという結果になった。1981年のバイロイト音楽祭はコロのトリスタンで幕を開けたが、彼はこのまさに殺人的で明らかに英雄的な役で、そのスタミナを示し、多くの評論家を驚かせた。アラン・ブリス(Alan Blyth)は次のように書いた。その音色はどうしようもなく単色であったけれど、全体的に力強く直進する声は、どちらかと言えばヴィントガッセンの声のようだった。1985年パリでのトリスタンの後で、チャールズ・ピット(Charles Pitt)は、似たような条件付きの意見を述べた。声は本質的に美しいとは言えないにもかかわらず立派な公演だった。 不本意ながら認めざるをえないという感じだった。しかし他の批評はそれほど条件付きというわけではなかった。1980年6月、チューリッヒで、コロは持続する力強さ無理のなさで賞賛されたし、1983年ボンでの公演後、カール・ヒッラー(Carl H. Hiller)は、テノールは彼の一挙手一投足にいたるまで完全に役に成り切る誠実な役者だったと評した。Opernwelt誌はテノールの1982年のカルロス・クライバー指揮の録音をこの録音でルネ・コロはトリスタンとして他のどのテノールも達成しなかったことを成し遂げた。 と賞賛した。イゾルデのマーガレット・プライスとの共演で、コロはこのオペラは諦観的コンセプトを持つと述べた通りの内省的なトリスタンを歌っている。第一幕では、主人公の男らしい騎士的な側面を強調している。第二幕では最高の歌唱を行っている。音楽的にも律動的にも正確で精力的でありながら緻密で美しく聞こえる。つかみどころのない愛の内的様相を巧みに浮かび上がらせる。しかし、二幕の終りと途方もない三幕では、時として彼の超然とした様子が彼の意図に反してトリスタンの人間的苦悩の表現を妨げている。Ah, Koenig のモノローグは歌詞(Das Wunderreich der Nacht すばらしい死の王国)の不可解な感情を捉えているが、音楽にその魅惑的な下位的な意味合いを与えるのを拒否している。彼の自己告発、den Koenig den ich verriet(私が裏切った国王)も奇妙に外向的かつ怒りに満ちている。フォルテ(forte)のフィニッシュはこの幕の前半の繊細な感受性にあふれた扱い方と著しい対照を示している。三幕の重い朗唱的部分でコロの音色はひどく頻繁に情感に欠けた陰影のないものか、あるいは荒々しく耳障りなものになり、苦悩の色を納得させ得ない。彼は弱音(piano)を多用することによって主人公の肉体的衰弱を強調し、忘れ難い抒情的な一節に表現されているイゾルデに対する純愛のうちに、瀕死の騎士の高貴さを示す。それは、例えば、弱音から最弱音のIsolde lebt und wacht(イゾルデは生きて、目覚めている)のような一節、あるいは、物凄いクレッシェンド(crescendo)とディミヌエンド(diminuendo)の箇所、Ach Isolde! Wie schoen bist du! (ああ、イゾルデ! 貴女はなんと美しいことか!)といった旋律である。しかし、第三幕第二場、トリスタンの熱にうかされたうわごとのところで、コロは彼の抒情性を放棄し、何か荒々しい、耳障りにさえ感じられる、音(例えば、飲み物を呪うところ)を出すことで、身体を貫く毒による肉体的苦痛を表現している。結果としては、ヴィッカーズの場合のように、奇妙に分析的で、苦悩を埋め合わせるべき官能性が欠落している。最後のトリスタンが包帯を引きちぎる場面、すさまじい狂乱振りではあるが、全然官能的ではなく、むしろ自暴自棄の自殺行為のようだ。
 コロの概念的解釈は、ヴィントガッセンとヴィーラント・ワーグナーの人物観に近いものを感じさせるが、ヴィントガッセンよりコロの歌唱のほうが声は軽いし、ヴィントガセンほど朗唱的ではないし、かわいた調子?(dry-toned)でもなく、よりダイナミックな陰影に富んでいる。コロにとってトリスタンの大成功はこの批評家の見解によれば、声の管理と知性によるものである。声自体はこの役の要求するものに理想にかなっているわけではないのだが、コロは、その音楽的、演劇的人物描写を調整して、彼の力に適合させ、彼の解釈理論を推し進めると同時に、その持久力と強度を立証することによって、私たちを唖然とさせたということだ。
 同様の自己認識が、テノールをして、リングの諸役での独特のアプローチを編み出すことを可能にした。コロはキャリアの初期にリングの登場人物(例えば、フローとローゲ)をいくつか歌い、ごく最近の1988年にはオランジュで、ローゲを再演して深い感銘を与え、聴衆を驚かせた。残念なことに、コロのローゲもジークムントも全曲録音が存在しない。テノールはワルキューレを舞台やコンサートで何度も歌っている。一番最近のは1988年のリンツである。しかし、彼は最近まで、重いテノール(schwer Tenor)のジークムントよりジークフリートを好んでいた。多分、この役の低い音域(tessitura)と暗い響きの必要性が、この役で1976年のコヴェントガーデン・デビューの際、コロに挫折感を味わわせたのかもしれない。マイク・アシュマン Mike Ashman はルネ・コロのジークムントについて、音符から離れるメロドラマ感覚で歌詞の流れを崩していると書いた。だが、十年以上後、テノールがこの役の戻ったとき、目もくらむばかりだと言われた。
 だが、コロは、若きジークフリートと大人のジークフリートの両方でこそ、この二つの役の最高の歌手のひとりとしての足跡を残している。1985年、ベルリン、ゲッツ・フリードリヒ演出の若きジークフリートの後、ジェームズ・ヘルメ・ズートクリッフェ James Helme Sutcliffe は、テノールは、今まで通り、あらやる感情において、尋常ならざる持久力となんとも言えない繊細な発音と子どものような無邪気を示したと書いた。ミュンヘンのレーンホフ Lehnhoff の新演出、1987年4月に初日を迎えた、原子力時代のリングで、コロは若いジークフリートとしては、よく計算された声の効率的な使用によって、神々の黄昏のジークフリートでは非常にすばらしい呼吸によって賞賛された。彼の瀕死の英雄の表現に心を動かされない者はひとりもいなかったOpernwelt誌は書いた。
 テノールは自ら、第一幕は野獣の如く、第二幕はシューベルトの歌曲のように美しく歌うべきであり、第三幕は問題無しと言った。コロはこの英雄を若き野蛮人、原罪に陥る前のアダムと考える。だから、彼には知識を持った大人の男にしてくれるイヴであるブリュンヒルデ、つまり、りんごを与えてくれる女が必要なのだ。コロがヘレナ・マテホプーロス Helena Matheopoulos に話したように、臨終のジークフリートは原始の罪を知らない無邪気さの人格化だが、神々の黄昏のジークフリートは演劇的により興味深い。ジークフリートは最終的にその無邪気さを失い、知識を獲得する。
 Eurodisc、マレク・ヤノウスキ Marek Janowski指揮、ドレスデン・シュターツカペレリングの録音は、ジャニーヌ・アルトマイヤーのブリュンヒルデに両ジークフリートとしてコロを配している。このオペラにおける二つの重要な場面、鍛冶の場と目覚めの場において、テノールは驚くべき持久力とよく響く声を示している。鍛冶の歌は心地よい高音は安定しており、間合いの取り方は柔軟で、笑い声は明るい。この笑い声が魅力的に思えるのは、コロ以前にはマックス・ローレンツだけだった。全体的を通じて、輝くような、無邪気な新鮮さがある。森のささやきの場ではコロの自然なフォルテ、柔らかく、内省的な歌唱が表情に富んだ演技に存在する。それから、ブリュンヒルデとのクライマックスで、コロは畏れに打たれた無邪気な喜びを伝えるエネルギーにあふれた力強い音色を創り出す。テノールの響きはとりたてて熱烈でも豊かでもなく、実のところ、多少陰影に欠けるのだが、あくまでも抒情的に響き渡る。このジークフリート執拗である。彼はSangst duの軽快な旋律を室内楽的気楽さで歌ってブリュンヒルデに自分を愛させようと頑張る。コロとヤノウスキによれば、この二重唱は熱狂的な対話ではなく、気楽な会話だということだが、そういう親密さを感じさせるという点で成功している。
 同録音の神々の黄昏も同様の音質である。実際のところ、現代のデジタル録音技術とマイクロフォンのバランスの良さによって、非常に聴きやすいレコードになっている。アルトマイヤーとコロによって歌われる序唱は非常に力強く、声の混じり具合も満点である。ここには成長したジークフリートがおり、愛に高められ、冒険に出発する準備ができている。彼は若く理想主義的だが、ギービヒの館で運命の杯を飲みほし、変貌する。男っぽい単細胞的英雄が、感受性が強く詩的だった若い頃の姿に取って変わる。彼がグートルーネに魅力を感じるのはひとえに官能的な側面であるから、コロはグンターの妹に話しかけるとき、彼の声には普段以上に官能的な情熱が加わる。血の義兄弟の誓いには、往々にしてそういうことにまつわる暗い色合いというものはなく、そこにはひたすら無邪気な英雄的気分が響きわたっている。岩山の場でのコロは、本来的に単色的声質のせいで極端に豊かな多様性の表現は無理なため、グンターの暗い音色のまねはできないので、歌い方の野卑な荒々しさで残忍さを(Goenne mir nun dein Gemach お前の部屋へ案内しろ)、あるいは、スタッカートの発声で冷酷さを(Du Nacht bricht an  夜になった)表現したりする。ここで再び私たちはコロが弱さを最小限にし、技術的に強さを獲得している例に出会う。
 しかし、死の場面では、単なる手際のよさは問題にならない。ここではコロの知性と感受性の良さが声の美しさと相俟って圧倒的な大成功をもたらしている。死の予感のごくはじめで(erschlagen wuerd' ich noch heut もっと獲物が必要だ)彼の声には不安を示す響きtremoloがあるが、すぐに立ち直って物事に対する強い好奇心と強がりの性格を取り戻し、ラインの乙女たちにちょっかいを出す。それから、彼はグンターの一行に、物語をするが、これはブリュンヒルデを思い出すときだけ詩的な傾向をしめすが、それ以外はむしろ単なる事実を早めのテンポで語られる。schlafend eine wonniges Weib(すばらしい女性が横たわって眠っていた)という部分は絶妙な美しさで、様々な色合いを示す弱声pianoの典型的見本である。これと同じ柔らかで精力的なものが、残酷に槍で貫かれた後にも波及していく。こうして、心の優しさと共に身体的衰弱が伝わってくる。臨終を迎えるジークフリートの歌を、彼は意識的にスタッカートで歌い、時に応じて、痛みに震えるかのようなトレモロ tremoloで彩る。激しい本物の輝きを発散しつつ、コロはブリュンヒルデの記憶をゆっくりと、辿りはじめる。彼の情熱の全てが da lacht ihm Bruennhildes Lust (そのとき、ブリュンヒルデの愛が私に微笑みかけた)の部分で爆発し、そして、あたかも記憶が彼から悪を追い払うと同時に彼を救済したかのように、繊細につむがれた澄みきった最弱音で、 Bruennhilde bietet mir Gruss (ブリュンヒルデが挨拶を送っている)と締めくくる。最後の次第に消えていく拍はほどんど聞こえないが、うっとりするほど演劇的である。
 実際コロのジークフリートは彼の業績の頂点を成すものである。彼の歌う人物像の新鮮さはワーグナーのスコアから忘れられていた精妙さの多くの部分を復活させた。トリスタンとタンホイザーと共にワーグナーの諸役のなかで最も難しい役が、リリック・テノールによってこんなにも見事に歌われることになったというのは、つまり巨匠Meisterhochdramatisch(最もドラマチックな)レパートリーがベル・カントbel cantoとして演じられることになったということは、皮肉としか言えないのではないだろうか。でも、コロのヘルデンテノールとしての成功の特殊性とはこういうことにあるわけだ。ヴィントガッセンと同じように必須条件である持久力、集中力、こういう役の危険性を中和できる声に生まれながらにして恵まれていた上、彼は、音楽の精妙な美しさを表すことができるし、すでにそこに存在する軽めの英雄 Leichter Held的声の洗練された優雅さを強調することができる。コロにとって、ヘルデンテノールにいたる奇跡とは、抒情的な声を劇的な声に変えることではなく、むしろ劇的な役を彼固有の能力に取り込むことだった。そういう役に新たな解釈を与え、その活力、あるいは衝撃的なものを失わずにそのやわらかな精妙さを探究することだった。
*****************************************************


 今日の三人の世界的レベルのヘルデンテノール、ペーター・ホフマン、ジークフリート・イェルザレム、ルネ・コロの仕事に関して、賛同する現代の評論家たちを見つけるのは、容易ではない。コロの場合は、特に主要な批評文献が英雄的レパートリーに対する抒情的な取り組みを受容するかしないかという問題に論点が集中している。このことに対する見解は、先行のヴィントガッセンの場合でもわかるが、アメリカやイギリスに比べて、ヨーロッパ大陸では、概してより肯定的である。ドイツのマスコミは、シュトゥッケンシュミット H.H. Stuckenschmidt といった評論家がワルキューレにおける彼の見事さについて、彼こそ我々全員が待ち望んでいた英雄だとしか考えられないと書いたように大体において、コロが達成した世界的地位を誇りに思っており、キャリアのごく初期から彼を擁護している。多くの評論家が、コロこそ今日最高のワーグナー・テノールであるという主張を支持し続けている。1988年4月ボンでのマイスタージンガーの初日のような公演では、評論家たちはテノールは若きコロを有名にした輝きを放つ音色で歌ったと大喜びだったものだ。お気に入りが年をとったとき、彼はもはや新人ではないとして(悲しいことだが、よくある現象だ)厳しい見方をするようになる者は少数にしろ存在するもので、最近では、冷酷な批評も見られる。1988年ベルリンでの魔弾の射手は、コロは調子が悪かったという事実があるにもかかわらず、彼の声帯と高音の調子はブーイングの合唱に迎えられた といった批評が目を引いた。
 マスコミに対するコロの態度は率直で、挑戦的でさえあって、全く懐柔的なところはない。コロの大ファンで、コロのポートレートを書いたイムレ・ファビアン Imre Fabian は実際に彼に会う前には、インタビューをするのは難しいというコロの評判を心配していたと打ち明けた。
 けれども、会ってからは、テノールが芸術家としても人間としても楽しい人だということがわかった。何年にもわたって、コロはマスコミに対して自分の考えを率直に語ってきた。時にはやりすぎて率直すぎると思われるような描写をされたり、明らかに事実に基づいているにもかかわらず、誤解されたりすることもある。例えば、ヴォルフガング・シュマーフェルトWolfgang Schmerfeld との過去のヘルデンテノールに関する議論で、コロはメルヒオールに関して次のように発言したと言われた。最高に偉大なメルヒオールに対して、私としては何も言いたくないが、人々は空前絶後の最も偉大なヘルデンテノールだなどという馬鹿げた発言をするのだ。まあいいだろう。だが、あれはあの戦争と関係がある。メルヒオールに対する要求はプロパガンダ以外の何ものでもない。しかし、会話の流れの中で、私には彼の言葉の前後関係は明瞭であるように、彼はただ単にあの戦争によって芸術家たちが置かれた困難な状況と、あのようなひどい時代がいかに不均衡な批評を生み出すことになるかということを示そうとしただけなのだ。彼は自分たちの政府の政策にからめ取られた(ローレンツのような)ドイツ人の芸術家たち、国家のために働いたために、もはや一民間人ではありえず、ある意味で、時代の犠牲にならざるを得なかった芸術家たち、について語っているのだ。このように詳しく見ていけば、テノールの発言は、この歴史書ではすでに詳細な比較検討をもって例証した、第二次世界大戦時代の芸術家たちに対する批判的な見方に関して、全く別の事実に基づく的確な見解を提示しているのだ。
 批評家について、コロは、今私が立っている場所を文書にして他人に教えてもらう必要はない・・・が、彼らに協力しなければならないのはもちろんのことだと、自主独立の立場を取っている。宣伝効果があるからだ、と彼は抜け目なく付け加える。コロはその鋭いビジネス・センス故に、より実利的な気持ちから言えば、オペラを売り物と見なしていると告白すること、あるいは、オペラを歌うということに関して使命感など持っていないということを認めることを躊躇しないし、むしろより幅広い聴衆のためにオペレッタを歌って人気を得るように頑張りたいと思うということは、コロが自ら助長したぴかぴかのイメージと非常に相関性が高い。つまり、時たま世界的スターとしての自意識を発散する隣の男の子みたいな友好的なイメージだ。それは、つくられたものなのだけれど、しっかりと真実に根ざしたイメージなのだ。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。