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11章 ジェス・トーマス-1/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

11章:
彼のようになりたい:輝かしい存在感を放つアメリカ人:ジェス・トーマス -1


   あのころは、彼のようになりたいという、ただひとつの考えしかなかった
 ペーター・ホフマン
Singen ist wie Fliegen (歌うことは飛ぶこと)

歌唱は身体のみならず、  心にも依存する。
ジェス・トーマス
 Kein Schwert verhiess mir der Vater(父は私に剣を約束しなかった)


  あの頃は、彼のようになりたいという、ひとつの思いだけが私を駆り立てていた。テノール、ペーター・ホフマンは、歌うことは飛ぶこと  Singen ist wie Fliegenの中で、1967年バイロイトでのジェス・トーマスとの最初の出会いをこのように語っている。その時、ジェス・トーマスの教師だったエミー・ザイバーリッヒ Emmy Seiberlich の生徒だったホフマンは、ヴォルフガング・ワーグナー演出のユーゲントシュティール様式のローエングリンを目撃するという夢のようなバイロイト音楽祭への旅をし、ザイバーリッヒ先生を通じて憧れのジェス・トーマスに紹介されたのだった。およそ16年後にも、ホフマンにとって、その記憶は鮮明だった。マリールイーズ・ミューラー Marieluise Mueller のインタビューに対して、畏敬の念をもって打ち明けている。はじめて舞台の彼を目撃したとき 、私はまさに真ん前に座って、完全に心を奪われていた。舞台から放たれる輝きは信じがたいほど強烈だった。  
   声楽的、身体的輝かしさ、純粋な音色、若々しい新鮮さ、そして、ジェス・トーマスが舞台上で発散していた、独特の言葉で言い尽くすことのできないオーラ、すなわち ausstrahlung こそが、歴史上の偉大なヘルデンテノールたちの中において、彼に永遠の地位を与えるものだった。ヘルデンテノールがキャリアの中核をなしている最初のアメリカ人テノールのひとり、ジェス・トーマスは、アメリカ人ワーグナー歌手たちの前にあった国際的なオペラ劇場における障壁を打ち壊し、この分野にアメリカ人は適していないという偏見を粉砕した。サウス・ダコタ出身のトーマスは控えめな人だが、この専門分野の第一人者となった。彼は1960年代と1970年代に興奮を巻き起こした。彼のキャリアはめざましく、その知性、音楽的才能、そして、彼の舞台の演劇的説得力などは、現代のヘルデンテノールの伝統に新たな輝かしさを添えたのである。
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   私のオペラでの成功は、あらゆる現実的な考え、あるいは、打算に反して生じたことであり、私にとって全く予期せぬものであった。テノールが後に認めているが、それは彼が育った「なんであれ欲すれば可能である you can do anything you want」というアメリカン・ドリームの考え方による部分もあった。 
ジェス・トーマスは、1927年8月4日、サウス・ダコタの Oral、50人の小さな中西部のコミュニティで、チャールズ・アルフレッド・トーマスとハッティー・エレン・ヨカム Hattie Ellen Yocamの息子として生まれた。彼の子ども時代は、まさに保守的で狭いアメリカの田舎の生活だった。音楽はその子ども時代に一定の役割を果たしたが、それはあくまで全般的な学校生活、スポーツ、アルバイト、教会活動、勉強などの中で、バランスのとれたものだった。トーマスの記憶によれば、父方の祖父も母方の祖父も、その地方では fiddle と呼ばれたバイオリンを弾いた。そして、よく家庭音楽会をして、静かな長い夜を過ごした。そこでの音楽は、モーツァルトではなくて藁の中の七面鳥のようなものだった。テノールの考えによれば、最初の先生は、本気でピアノを習ったアンナ・V・ブレイ Anna V.Brayで、6歳のときからメソジスト教会の聖歌隊で歌っていたことが音楽への興味を深めた。
   1937年、Oralの七倍は大きな町、サウス・ダコタのホット・スプリングスに引っ越し、ジェスは高校時代をここで過ごした。学校では、フットボールをやったり、学校新聞に記事を書いたり、食料品店でアルバイトをやったりする一方で、演劇をやり、学校のバンドではコルネットとトランペットを演奏し、学校と教会の聖歌隊で歌った。この頃、彼は初めて楽譜を読むことを覚え、声楽の勉強をはじめ、家族の友人を通じてオペラのレコードを初めて聴いた。トーマスは、アリス・グラスゴーのコレクションにあった、カルーソーをはじめ「黄金時代」の歌手たちの声に感銘を受け、土曜日の午後のメトロポリタン歌劇場のラジオ放送を熱心に聴くようになった。彼の父親はオペラ嫌いだったので、トーマスはラジオをガレージに持ち込み、車の手入れをするふりをしながらこの番組に耳を傾けた。そして、家に彼しかいないときに、ピアノをひきながら、聴いたことを再現してみたものだった。テノールは、愉快な逸話を披露している。ある午後学校から帰ったとき、家にだれもいないと思い込んで、ちょっとピアノの前に座って楽しむことにした。ところが、父親は地下室で眠っていたのだった。彼が大声でアリアを歌いはじめたとたん、怒り狂った父親が、いったい何事だ! What in God's name is going on?と叫びながら階段を猛烈な勢いで駆け上がってきた。その後、トーマスはこっそりと練習した。トーマスにとって、歌うことは、大学教育の学資の工面に悩む、「安定した」職業訓練にこだわる現実的な両親には理解してもらえるはずのない夢だった。その夢は虹色の憧れにすぎなかった。
   ジェス・トーマスは、高校時代、すべてにおいて優秀な生徒だった。そして、卒業時には音楽に関して賞を与えられ、フットボールの奨学金を提示されたが、彼は医学の道を行きたいと考えていた。奨学金と無数のアルバイトの稼ぎで、トーマスは1944年にパート・タイムの学生(聴講生?)としてネブラスカ大学に入学したが、二年後、学費不足と父親の病気療養中、家族を支えるために実家に戻らざるを得なかった。彼は実家の近くで全教科を担当する小学校教師として働き、1947年に大学に戻るまで、家族の大変な時期を支えた。1949年6月に心理学のB.Aを得て大学を卒業し、カリフォルニアに引っ越し、大好きになったこの地に終世居を定めることになる。オレゴン州のHermistonで三年間ガイダンス・カウンセリングの仕事をした。ここで、彼は地域の合唱団を主宰し、仕事の傍ら、声楽の勉強をした。1952年、スタンフォード大学の奨学金を得て、心理学のPh.D.を目指した。1953年に修士(Master's degree)を取得し、再び仕事につかざるをえなかったが、今度はカリフォルニアのAlamedaで学校のサイコロジストとして働いた。サンフランシスコ地方で過ごす間、トーマスはサンフランシスコ・オペラの可能な限りの最安席のチケットを買って、オペラの楽しみにふけった。できる限りたくさんのオペラを見た。また、オットー・シュルマン Otto Schulmann に声を聴いてもらい、本気で声楽の勉強をするようにと励まされた。Alameda高等学校での三年間、トーマスはフルタイムの仕事をしながら、声楽のレッスン、イタリア語の勉強、シナゴーグの仕事の準備、そして、夜はナイトクラブでの演奏という殺人的スケジュールをこなした。この時期に、彼はウッドミンスター・ライト・オペラ・カンパニー Woodminster Light Opera Company にデビューを果たし、キャスティングコールで知り合ったダンサー兼女優のベッティ・リー・ライト Bettye Lee Wright と結婚した。
   シュルマン先生との勉強のお陰で、トーマスはサンフランシスコ・オペラのオーディションに合格し、そこで1957年、マクベスのマルカム役でデビュー、ばらの騎士の執事役を歌い、主役級や準主役級の役を幅広く勉強し始めた。シュルマン先生のアドバイスを受けて、ヨーロッパで経験を積むことが必要だと決心した。1958年、彼は妻と共にドイツに向けて出発した。ドイツでの最初の冬はトーマスの気を滅入らせた。彼は友人もほとんどなく、言葉もわからず、はじめて国外に出た一アメリカ人として、大きなカルチャーショックを感じていた。オーディション、声楽とドイツ語の勉強と、自分と妻ベッティのためのわずかな生活費を稼ぐのに、悪戦苦闘した。それに、1958年には娘のリサ・ベットが生まれた。一連の長い不本意な経験の後、1958年8月、カールスルーエで新人契約を勝ち取った。トーマスは現実的な目標を持ってドイツに来た。それは三年のうちにオペラ・ハウスで主要な役を獲得し、五年のうちにこの職業で第一線に立つという目標だった。これを達成できない時には、アメリカに戻ってPh.D の勉強を続けようと心に決めていた。カールスルーエの契約はこの目標への第一歩だった。
   彼は、カールスルーエで、声を磨き、必要なレパートリーを身につけるためにエミー・ザイバーリッヒ Emmy Seiberllich に師事した。彼女のアドバイスのお陰で、常に適切な役を準備することができた。1958年初のフィデリオの第一の囚人役や、数多くの小さな役での登場後、トーマスにいわゆる「好機到来」の幸運が巡ってきた。カナダ人テノールのケン・ニート Ken Neate  がカールスルーエのローエングリンのリハーサルに間に合わなかったのだ。ザイバーリッヒ先生は三幕のリハーサルでトーマスに歌わせるよう劇場監督(Intendant)を説得した。トーマスが 遥かな国に In fernam Landを歌い終わったとき、オーケストラ団員たちから拍手喝采がわき起こった。結局、プレミエにはケン・ニートが登場したのだが、劇場監督はトーマスの才能を認め、トーマスの助力に感謝し、三回目とそれに続く公演でこの役にトーマスを起用することにしたのだった。1958年11月23日、トーマスのカールスルーエでのローエングリン・デビューは、恍惚感にあふれた数々の批評を得て、シュツットガルトやミュンヘンからの客演への招待が洪水のように押し寄せた。そして、ヴィーラント・ワーグナーからバイロイトでのオーディションの招待までも届いた。
   1959年、長男ジェス・デーヴィッド Jess David が生まれ、フロレスタン、マンリーコ、ホフマン、サムソン、ファウスト、タミーノ、ヒュオン(ウェーバー作曲「オベロン」ヒュオン・フォン・ボルドー…ギエンヌの侯爵(T))、ドン・カルロ、そして、ローゲ等々の、様々な役での、ドイツのオペラ・ハウスとの契約リストは長くなるばかりだった。そしてまた、彼はヴィーラント・ワーグナー Wieland Wagner のためにはじめて歌った。彼の自伝 Kein Schwert verhiess mir der Vater (父は私に剣を約束してくれなかった)の中で、トーマスはワーグナーの孫の前での最初と二度目(1961年)のオーディションでがっかりしたことを回想している。バイロイトにたいする尊敬の念と希望に燃えていた若いテノールは冷たく無関心に感じられたヴィーラント・ワーグナーの態度に深く傷ついた。トーマスは、ヴィーラント・
ワーグナーの最初のオーディションの冷淡な応対と二度目の無礼で対抗的な接し方について語っている。1961年、ヴィーラント・ワーグナーはトーマスをオフィスに呼んでこう言った。トーマスさん、私は非常に多くの筋から、あなたに関して良いことしか聞いていませんが、私としては非常に失望したと言わざるをえません。トーマスは、猛烈に気後れしたが、勇気をふりしぼり、彼のドイツ語の限りを尽くしてついにこう反論した。私としてはひとつのことしか言えませんが、それはあなたに面と向かって言う価値があると思います。すなわち、あなたが天才的芸術家であることは疑いようのないことですが、あなたの人間に対する理解力は怪しいものだと思います。怒りに燃えたテノールがドアに向かったとき、ヴィーラント・ワーグナーが叫んだ。よろしい、トーマスさん。すくなくとも君は激しい気性は持ち合わせているようだ。 それでも、ヴィーラント・ワーグナーはすぐにはトーマスと契約を結ばず、最終的にパルジファルの契約をすることになる前の1961年6月に再度のオーディションを要求した。この不愉快な経験(そして、似たような他の体験)は、感じやすいテノールにこう結論付けさせた。オーディションは野蛮だ。 しかし、彼はそれを頑張ってやり続け、強烈に対決することによって、そのキャリアを急速に加速的に上昇させた。
   1960年クナッパーブッシュ指揮のローエングリンでミュンヘンにデビューし、そこでフロレスタンとドン・カルロを歌った。1961年今度もまたクナッパーブッシュ指揮のパルジファルで、長い間待たされたバイロイト・デビューを果たし、同年、ヴィーラント・ワーグナー演出のベルリン・プロダクションのアイーダローエングリンが続いた。1962年、今やヴィーラント・ワーグナーとの間には生産的な仕事上の関係が確立され、トーマスはこの演出家のローエングリンをバイロイトで再演し、1963年にはマイスタージンガーをやった。
   シュトルツィングはトーマスにメトロポリタン歌劇場との契約をもたらした役だった。彼は、1962年12月11日、マイスタージンガーで、この劇場にデビューし、この後この劇場で、ドイツおよびイタリアの両レパートリーで広範囲に多くの役を演じるようになった。トーマスはメトで15の役(8つはワーグナーの役)を14シーズン以上にわたって歌った。最後の出演は1983年百年記念ガラの舞台だった。1960年代には、彼がますます専門的に関わるようになっていた、彼がもっとも好んだワーグナーの英雄役を歌わせてもらうために、彼はビング氏と闘った。あるとき、夏にはバイロイトとの契約があるというテノールの話に対して、ビング氏はふざけて聞き返した。トーマス、バイロイトってどこですか?ビング氏はトーマスの広い声域と、抒情性、激しい性格などを重視しており、彼にはトーマスをメトのイタリア・オペラの代表的テノールの一人としようという熱烈な思いがあった。そして、トーマスもニューヨークにおける、カラフ、カヴァラドッシ、ドン・カルロ、ラダメスなどの成功を喜んでいた。中でもラダメス役は予期せぬプレミエで歌ったものだった。デビューの数週間後のある朝、ナクソスのアリアドネの新演出でバッカスを成功裏に演じ終えた後だった。その晩、不調のフランコ・コレッリに代ってラダメスを歌ってもらいたいとヒステリックに懇願するビング氏の電話に起こされた。その時喉に炎症を起こしていたトーマスは、こういう状況で、やる気はなかった。彼は、病気だし、衣装もないし、それにこの役はドイツ語でしか知らないと言い張った。何を言ってもビング氏は引き下がらる気はないようで、特有の辛辣な機知に富んだ答えを返した。トーマス、中国語で歌ってもいいし、君さえよければ裸で出てもかまわない。とにかく今晩ラダメスが必要なんだよ!トーマスはビング氏からは永遠に感謝を、そしてメトの聴衆からは賞賛を得ることになった。
   メトで歌うことは、テノールにとって一流であることの証明であり、楽しいことであった。それは、要するに、同国人からの至極当たり前の評価だった。その後も引き続き、トーマスの予定表はヨーロッパでの仕事でいっぱいだった。彼をメトの専属テノールにしようというビング氏の度重なる企てを彼は拒絶した。彼は国際的なキャリアを望んだ。30以上のレパートリーで、ウィーン、ザルツブルク、コヴェント・ガーデン、そしてスカラ座にひっきりなしに招かれた。1963年、バイエルン宮廷歌手の称号を与えられた。ウィーンとはファーストクラスの契約でなければ妥協せず、それを勝ち取った。1965年にミラノとザルツブルクにデビュー。一方でシュツットガルトとミュンヘンと以前に結んだ契約をかたくなに守った。この決心はヴィーラント・ワーグナーとの新たな対立を引き起こした。ヴィーラント・ワーグナーはトーマスを1964年のバイロイトのパルジファルに望んでおり、テノールがこれらのオペラ・ハウスとの約束を撤回するのを断ったとき腹を立てた。しかし、この悪感情はすぐに解消し、ヴィーラント・ワーグナーは1965年ウィーンのローエングリンに再びトーマスを起用し、死の床に着く直前、トーマスに対してタンホイザーの指導を始めた。トーマスがタンホイザーを演じたのはバイロイトがはじめで、それから1966年にサンフランシスコで、そして1967年に再びバイロイトで、そして、この後、同じ年にバイロイトの日本引っ越し公演で、この役を演じた。
   この時期にテノールは名声の頂点を極めた。次の十年、軽めの英雄役 jugendlicher Held と徐々にレパートリーに加えはじめていたより重いヘルデンテノールの役の両方を盛んに求められた。卓越したアメリカ人芸術家としての彼の才能はサミュエル・バーバー Samuel Barber に委託されたオペラ、アントニオとクレオパトラでのジュリアス・シーザー役で認識された。これは1966年9月リンカーン・センターの新メトロポリタン・オペラ・ハウスの開幕を飾った。フランコ・ゼッフィレッリの豪華な演出のオペラ自体はなんと言うか完全な失敗作だったが、トーマスの歌唱は賞賛され、現代のアメリカ人芸術家としてトップの地位を確かなものにした。
   1967年、脚の手術のよるキャリアの中断の後、トーマスはサンフランシスコで、はじめてのトリスタンを演じ、成功した。ドイツ物のなかで最も難しく、最も求められるこの役でセンセーションを巻き起こしたことは、まさにニュースというにふさわしかった。彼の軽めの英雄的 jugendlicher Held 響きがトリスタンに要求されるところまで行くとは期待していなかった人々は、彼が示したスタミナ、音楽性、演劇的痛烈さに驚愕した。この役は1968年から1974年にかけての彼のレパートリーのなかで代表的なもののひとつとなった。実際1971年から1972年にかけてだけでも、23回トリスタンを歌った。
   この時期、彼はジークフリートとして有名になり、非常に多くのニーベルングの指環を世界中で歌った。1969年にはザルツブルクでカラヤンのために、そしてその夏のバイロイトでもジークフリートを歌った。1970年にはウィーンでニーベルングの指環の四つのテノール役を全部歌った。1972年には同じような全四作上演がサンフランシスコであったし、1970年代を通して、メトでは、ジークムントと二つのジークフリートを頻繁に歌った。
   この目覚ましい成功の時期は、皮肉なことに、妻のベッティ・リーとの離婚という個人的な喪失の悲しみの時と一致していた。トーマスの分析によれば、彼も彼女も気違いじみた猛烈な競争やあまりにも多くを要求される厳しいオペラの世界に対する心構えが全然できていなかった。 成功するための悪戦苦闘は結婚生活に
犠牲を強いた。夫婦は離婚したけれど、トーマスは子どもたちとは関わり続け、子どもたちと共にすごした年月をうれしく思っている。1971年、トーマスは、彼の熱烈なファンだったアルゼンチン人の未亡人、ヴィオレッタ・フォン・ベルニク Violeta von Bernick と出会った。二人の二年にわたるロマンティックな恋愛が始まった。これについて、トーマスは自伝の中で愛情を込めて物語っている。1974年12月23日、彼は「 Veilchen(すみれ)」と結婚した。彼女との結婚は優雅で芸術的な生活をもたらした。彼女とトーマスは互いに同じ深さで、支え、敬愛し、分かち合った。そして、息子のヴィクターが夫婦にいっそうの喜びをもたらした。   
   1973年、トーマスは初めてのピーター・グライムスを歌った。ジョン・ヴィッカーズがほとんど独占していたブリテンの主役への挑戦だった。1970年代を通して、トーマスはワーグナーの役を演じ続けた。1976年、トーマスは、パトリス・シェロー演出のバイロイト百年記念リング神々の黄昏のジークフリート役として、ヴォルフガング・ワーグナーによってバイロイトに呼び戻されるという栄誉を得た。テノール自身の告白によると、この経験は彼にとって複雑なものだった。彼はもう六年間バイロイトに
出演していなかったから、この時々刻々と変化しつづけるワークショップの雰囲気の中で、多くのことが変わってしまったと感じざるを得なかった。この四部作において、かつてのファンであり被保護者であったペーター・ホフマンと同じ舞台に立ったことは、49歳のテノールを、ノスタルジアと誇らしさの入り交じった気持ちでいっぱいにしたのではないだろうか。トーマスの業績に関して、マスコミの意見は分かれたが、パトリス・シェローはトーマスと共働してはじめてジークフリート像をいかに実現すべきか完璧に理解できたと断言した。
ジェス・トーマスは、ジークフリートに必要な若々しさに欠けているのではないかとはじめ心配だったが、実際は非常に快活な感じだった。神々の黄昏のジークフリートは子どもではないのであって、その成長自体に存在する、憂鬱な感じ、適切な悲しみの表現、空虚な瞬間、精神錯乱ぶり、ぶっきらぼうな回想、記憶をたどる痛々しい努力といったものを持つジークフリート像を、トーマスのお陰で構築することができた。最後の場面のリハーサルで、ブーレーズはトーマスに、芸術家っぽくなく、ゆっくりと鳥を指し示すようにと要求した。トーマスは、こういう声の転換点 passaggio では難しいことなのだが、再弱音 pianissimo で歌った。彼は死に臨むジークフリートを作り上げた。死の瞬間に突如過去を思い出すところは印象的だった。
要するに、テノールの結論は、人は後戻りはできないということだった。そして、彼は将来をしっかりと見据えていた。
   同年トーマスはオーストリア宮廷歌手の称号を受けた。テノールはウィーンをホームベースにしており、洗練された音楽愛好家たちの存在の故にウィーンに対して特別に好感を持っていた。この後引き続き七年にわたって、トーマスはワーグナーの全ての役をアメリカとヨーロッパ各地で歌うと同時に、オペラ、オラトリオ、歌曲(Lieder)のコンサートに度々出演した。
   同時に彼の頭の中で、引退計画が次第に形作られはじめた。カリフォルニアのティブロン(Tiburon)に家を買い、まだ完璧な輝かしい声があるうちにオペラの舞台から引退しようと計画を立て始めたのだった。1982年、不調のジェームズ・キングに代って、サンフランシスコでジークムント役を快く引き受け、成功することができたという記録もあるが、1980年代のはじめには、舞台の仕事を少し減らした。この年、55歳で、テノールはパルジファル役で、非公表の引退公演をはじめた。1982年4月、メトのジェームズ・レヴァイン指揮の公演が最後だった。この一連の公演の間に、テノールは記者会見を行い、その後の二番目のメトのパルジファルが最後のオペラ出演になるだろうと発表した。先輩のスレザク同様、トーマスはこう語った。 私は、まだ自分の役にふさわしく、かつてと同じように歌えるこの時こそ、引退するのにふさわしい時であると判断した。1983年、トーマスはワーグナーの映画で、ニーマン Niemann 役を歌い演じ、いくつかのコンサートに出演をすることになった。ひとつは友人である指揮者 カルヴィン・シモンズ Calvin Simmons を記念するワルキューレの抜粋、もうひとつは、やはりワルキューレで、1983年メト百年記念ガラである。次の日のニューヨークタイムズの第一面には彼の特集記事が載った。めざましいキャリアにふさわいい幕引きであった。ヘルデンテノールとしてはまだまだ若い年齢で引退を決心したことについて、トーマスは率直に語っている。
   私は英雄として退場したかった。私の仕事は、ファンによってのみならず、仕事仲間によってもまた永遠に受け継がれると信じるし、それを希望している。私は仕事仲間たちを感化し、新世代の歌手たちに、ワーグナーの役を演じる上での新しい考え方と演劇的説得力のあるものにする道を教えた。 しかし、彼は悲しげに付け加えた。どの歌手にとっても引退は楽しいことではありません。
   そして、とても哲学的な気分でトーマスは話した。私のキャリアの終わりは良い方向に転びました。私は完全に満足という気持ちでした。テノールはティブロンの我が家に引っ込んだ。家庭生活を楽しみながら声楽を教える時間を持てることを喜んだ。いくつかのカリフォルニアの大学で客員教授をし、さらにいくつかのコンサートにも出演している。(例えば、1985年、サンフランシスコの夏のリング
音楽祭期間中に、ワーグナー・リサイタルで歌った) 自伝を執筆することで、自分の過去を整理することができた。この本で、たくさんの記憶や経験が関連づけられ、彼の人生とキャリアが、明晰な知性で分析され、その機知と知恵を提供している。クルト・P・ジュードマン Kurt P. Judmann が手伝って、ウィーンのポール・ネフ出版 Paul Neff Verlag からドイツ語で出版された Kein Schwert verhiess mir der Vater (1986) は、ヘルデンテノール史の貴重な資料である。
   トーマスは自分の業績と見解を総括するとき、もしまた人生をやることがあったら、もう一度完全に同じ事をするだろう、そして、彼がやってきたことをやったこと、つまり、その職業が彼にもたらした喜びと達成感を体験したことをうれしく思っていると断言している。興奮と賞賛が懐かしい、こう彼は打ち明けながら、人生を愛しており、音楽的キャリアの新たな段階に訪れるかもしれない何らかのふさわしい提案があれば、受け入れ挑戦する用意があると率直に認めている。
   人生において唯一重要なことは愛し愛されることである。このうそみたいに単純な秘訣にこそ、テノールの芸術的成功と個人的成功の秘密が存在している。ジェス・トーマスにとって、歌うことは、この愛を表現するひとつの方法だったのだ。
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