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11章 ジェス・トーマス-3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

11章:
彼のようになりたい:輝かしい存在感を放つアメリカ人:ジェス・トーマス -3

   Kein Schwert verhiess mir der Vater(父は私に剣を約束してはくれなかった) ジェス・トーマスは自伝の題にジークムントのモノローグの最初の語句を皮肉って、このようにもじって使っている。ヘルデンテノールとしての成功は現実的なあらゆる予想に反したことだった。
   ワーグナーの専門家、ドイツ物のテノールになるという決断は、ジェス・トーマスにとって意図的なものだった。若々しい英雄jugendlicher Heldの響きを持つ彼の声は、イタリア物にも同様によく合っていたし、やすやすと出せる高音、声楽的才能、抒情的フレージングはスピントのレパートリーでも間違いなくやっていけただろう。少なくとも、トーマスの同僚であったサンドール・コーンヤが選んだように、ヘルデンテノールの役とベルカントやヴェリズモの役を同時にやっていくというキャリアは可能だったと思われる。これこそが、まさにルドルフ・ビングが彼に望んだ方向だった。では、ジェス・トーマスがドイツオペラの分野で英雄的歌手となろうと決断したのはなぜなのだろうか。
   単なる運命的決断というほど単純な理由ではなかったし、オットー・シュルマン Otto schulmann の、ドイツには若い歌手にとって非常に多くの公演というチャンスがあり、それを生かすにはドイツに行くべきだという助言があったという理由だけでもなかった。クナッパーブッシュやヴィーラント・ワーグナーとの幸運な出会いだけでもなかった。むしろ、テノールの役に関する意識的な選択だった。1960年代にあった、より有利で旨味のあるイタリア・オペラのレパートリーに対する申し出を拒否したのは、彼自身の選択だった。
   その明確で知的な分析的手法は、スヴァンホルムのそれを彷彿とさせるが、ジェス・トーマスはその自伝とインタービューにおいて彼の選択についてはっきりと語っている。彼はまず音楽の心理学的効能の理論を説明することから始める。 音楽は脳に化学的反応を引き起こす。音を感情と結びつけるきっかけを与える。それは、懐古的なものではなく、まさにそのときの感情である。 続けて、彼は、音楽に対する人間の反応は、まずはじめは、素朴で本能的だと言う。次に続く反応は知的であり、その次の融合的な段階では、頭と心、過去と現在が互いに関連して結合し、情緒的な絆が生まれる。この感情と思考の結合、多角的な次元の表現の可能性を、トーマスは何にもまして、ワーグナーの音楽に発見したのだった。ワーグナーこそが、私の魂を開放し、そうでなければ絶対に気がつかなかったと思われる表現能力を発見させたのだった。
   ワーグナーに登場する心理的に複雑な人物像こそが、ナイーブなロマンチストであると同時に、高度な教育を受けた臨床医であり学者であったトーマスを魅了したのだった。
芸術的な仕事の価値は、なによりも、異なる見解を混合し、可能な行動と反応を示す事にある。(芸術家と観客に)自身の考えを反映するように導くことができる異化作用への可能性を示すことにある。
   トーマスは自分自身をワーグナーの影響を受けた人々の長い鎖の一つの輪と見ていた。初期のローエングリンとシュトルツィングでの経験が彼をワーグナーの世界へと導いた。彼にとって挑戦的だったこれらの役を彼は心を込めて追究した。彼にとってワーグナーは常に彼の頭と心の両方に関わるものだったし、技術的にもスタミナ的にもまさに挑戦的だった。
    ワーグナーの役柄は非常に深い感情を引き起こしました。ワーグナーが生み出した人物像と解釈は私の思考と魂の非常に深い部分に呼応しました。ワーグナーは、伝統的なオペラをそのつまらなさから解放し、芸術家に観客にも問題を突きつけ、彼らを芸術作品に取り組ませたのです。
   ワーグナーの諸役で経験したダイナミックな論争はトーマスをわくわくさせた。全ての公演が、何らかの発見であり、自分以外の存在に無意識に深く関わる旅だと感じられた。逆説的に言えば、それはとりもなおさず、自分自身を発見する旅になっていた。ジェス・トーマスのように人間の魂を追究しようとする芸術家にとって、ワーグナーは最高に解放的な体験であった。リヒャルト・ワーグナーから私が学んだ全てのことをひとつのキーワードに集約するとすれば、それこそ、まさしく、自由 freedom である。 トーマスのようにきわめて知的に行動する人にとって、そして深い感情を持ち合わせている人にとって、ワーグナーこそは両者の緊張状態を全体論的な創造物に統合する道を提供するものだった。なによりも、ワーグナーは私の知性を情緒化してくれました。そして、自然に近づく第一歩を私に示してくれました。  このようなわけで、ジェス・トーマスが究極的にワーグナー専門になる決心をするに至った事は間違いないと思われる。トーマスは、ワーグナーが芸術家と聴き手にもたらすものがほとんど宗教的な要求であることに気がついており、彼の役柄が、その要求を満たさなければならないこと、そしてそれができるということをはっきりと感じていた。自分の内的渇望は、これらの役を解釈し、演じ、歌うことのよってのみ癒されうることが私にはわかっていた。   

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このテノールをはじめて耳にした多くの人々がヘルデンテノールとしてのキャリアを予想しなかったであろうことは疑いようがない。ジェス・トーマスの声は、典型的なテノールecht Tenorで、軽めの英雄役にふさわしいものだった。サイズ的にも、抒情性においても、心理学的な陰影付けの能力からも、その声は、ヴィントガッセンの後継者であると同時に、レオ・スレザクの響きにある純粋さと甘さを受け継いでいた。(カール・ベームはかつてトーマスにこう語った。トーマスは最盛期のスレザクを思い出させると。) 抒情的かつ英雄的な声を受容することは、ヴィントガッセンというドイツ人テノールによってすでに道筋がつけられており、ジェス・トーマスがこのレパートリーを自分のものとするのを明らかに支援するものであったにもかかわらず、ヴィントガッセンの場合と同様に、トーマスのヘルデンテノールたらんとする希望を認めようとしない批評家もいた。否定的な人々に対して、トーマスは1969年に自分の声楽的願望をこう説明している。
   私としては、従来のような最大声量を誇るヘルデンテノールになろうとは思わない。声質的、声楽的に、そして、完全に役になりきるという、新たな局面を示したい。これは自己弁護のへりくつではない。なぜなら、抒情的な瞬間においても劇的な瞬間においても表現し歌う事、個々の役を歌うことこそがより重要なことだからである。
   彼は続けてこう反論する。
   特にアメリカの観客は典型的なヘルデンテノールとは大声で咆哮する声だと考えているのは間違いない。私は声楽的にも精神的にもそういうことができる器ではない。抒情性を犠牲にして力だけを示したいとは思わない。
   実際、トーマスの声の規模は(ヴィントガッセンとほぼ同じ)中程度であるが、優れた求心力と前方へ飛ぶ力によってより大きな力を印象づけることに成功していた。その明瞭で突き通すような透明感のある声はメトロポリタン歌劇場のような3900人収容のオペラハウスの天井桟敷に到達し、聴衆を響きの中に包みこんだ。声の音色は純粋に澄んでおり、甘く優雅だった。そのイントネーションは驚くほど正確で、他の歌手仲間に比べて幅が小さいビブラートを用いていた。トーマスの声域は広く、ジークフリートで聞かれるように高いCの音を楽々と出せた。彼にとって、バッカスやタンホイザーといった高い音域の役はいつだって自家薬籠中の物だった。その音量の幅の大きさも驚くほどで、mezza voce メッツァ・ヴォーチェ や弱音を よく用いた。だから、彼の音楽的才能とフレージングが優雅だったこともあって、最終的には流れるような音楽性を得た。そのレガートはドイツ的訓練の結果だった。そして、イタリア物の役でさえ、明確なドイツ的流れで歌ったことが、次のような批評に示されている。トーマスは強い声を持っている。彼のラダメスはメトの他のラダメスに比較するとイタリア的でない。『清きアイーダ』を不適切なグリッサンド唱法で歌わない唯一人のテノールである。加えて、トーマスの知的な朗唱と的確なディクション(歌唱発語)が彼の音の持つ聴覚に訴える力に独特の風合いを付け加えていた。いったん必要な外国語をマスターしたあと、彼はくせのないイタリア語やドイツ語で歌い、言葉を際立たせる技を見せつけた。心理学用語で適切に定義された彼の人物描写は常に声楽的かつ演劇的細やかさの結合したものであった。
   しかし、こういった技術的完成度以上に、トーマスの音色は独特の曰く言いがたい輝きを発散していた。1971年ハワード・クライン Howard Klein はニューヨーク・タイムズでこのように述べた。ワーグナー唱法に対する彼の貢献は、彼の歌唱に備わっている独特の詩情である。 トーマスは、個々の音は精神的概念であるから、全ての音符がきこえなければならないという、シュルマン Schulmann先生の教えを忘れなかった。彼は説明しがたいオーラを生み出そうと努力した。
トーマスの歌唱にはある種の説明しがたいエネルギーがあった。聴き手の心を揺り動かす音そのものにある明白な躍動感だ。彼が歌うのを聞いた人はだれもが彼のこの世のものならぬ神秘的な音色の魅力に心を奪われた。特にローエングリンならなおさらだった。肉体を超越した、青みがかった銀色に輝く音色は、まるで月の光で織られたようだった。シェリー Schelley のひばりのように、トーマスの声は「非物質的喜び」という特質を有していた。
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