SSブログ

ただ単に•••7 [1983年刊伝記]

このような人生はいずれにしてもあまりにも短すぎる
 私がやりたいこと全てをよく考えれば、時間は全く足りない。一年前、馬に乗るという考えがわいた。大きな間隔をあけてたまにしか、ちゃんと家にいることはめったになかったから、およそ十時間の乗馬時間をとった。先生は優秀だった。なぜなら、彼は重要なことだけ説明してくれたので、それに基づいて進むことが出来たからだ。スポーツマンとして自分の身体を通しての体験から、私は歌手として、歌うことは、歌うことによってしか、乗馬は馬に乗ることによってしか学べないと思っている。それに加えてたくさん本を読んだ。物事に基礎知識無しで取りかかるのが嫌だからだ。簡単な例を挙げると、小勒を馬の歯の間に押し込むとき、その物を何と呼ぶのか知らないのは、しゃくに障るだろう。それを知らなくても、何の問題もなく、乗馬は可能だ。が、しかし、そういうことについてだれも私をテストしたりしないことはわかっていても、そういうのは落ち着かない。私がきちんと知りたいのは、最終的に確実な自立に導いてくれる事柄である。
 今は、ギャロップで気違いみたいにあちこち走りまわるところまできている。そして、私は、並行してさらに別のクラスをとったり、すでに以前に乗馬の経験があったりはしないという私の話を、先生は信じてくれない。非常な速足にうまく合わせているとき、おそらくその最高の難しさが私を途方もなく刺激した。そういうのを私は必要としないし、軽快な速足で走ることもでき、そのほうがより美しいようにさえ思われるにもかかわらず、すぐに把握できなかったことが私をいらいらさせのだ。私はいつも、何が起こっているのか、すぐに知りたい。そして、それが私にとって一番楽しい。はじめの物凄い筋肉痛のあと、相当長時間休むほうが楽なのは明らかだ。最初の乗馬の授業の後、熱いお湯を何度も筋肉にかけながら、湯舟からほとんど出なかったほどで、つらいだけかもしれなかったが、翌日すぐに続けて二時間の授業をとった。私としてはやめる理由はなかった。これが何か奇妙な性格なのか私にはわからない。
 だが、私は自分自身を完全に良い評価を与えることができるし、ある状況のなかで、私にとって本質的なことを見分けることができる。しかし、だれもがこの自己究明の課程を通っているわけではない。従って、この出来事の場合だけに見られるのではない私の完全主義的傾向は、私の周りの人たちにとってはかなり迷惑なのだ。だれかがこういう類の力を示さないとき、それが私は理解できない。無意識に他人にもこういう完全主義を要求しているが、これは確かに誤りだ。私はもっぱらスポーツを通じて、自分自身を観察することを習得する十分な機会を得たが、それは私には育成するべき目標として適切な戦術だった。その結果、だれかが馬に乗りたいと思いながら、実行しないと言うことが理解できないというわけだ。そのための資金を調達できないという理由でやめるというのは、わかるが、才能がないからというのはわからない。
 目下のトリスタンの習得の場合のように、ただひたすらひとつのことにかじりついていることもできない。一ヶ月ひたすらトリスタンだけ? そんなことは、私にはできない。平行してロック・レコードの準備をしている。半日はクラシックで、半日はテレビのショー番組の準備というリズム。これはかなりの量だ。そのために、少し前から、いつもよりずっと早く起きている。ようやく十一時に、一日をはじめれば、一日はあまりにも速く終ってしまう。今は時計が十一時を告げるときには、すでに数時間起きている。最近になってようやく自分自身気がついたことがある。それは、時間があまりにも少ししかないということだ。この焦燥感が必然的に規律をもたらした。しばらくの間はまずこの焦燥感に身をまかせていることもできるだろう。しかし、私はむしろただちに、どうすればこのパニック状態を回避できるだろうかと、問いかけたい。パニックの原因は、時間が足りないことだ。それならば、一日により多くの時間を与えることだ。では、どうやって時間を増やすのか。早起きすることだ。睡眠は何と言うかある意味でとんでもない時間の浪費だ。普通より早く起きて、それでも、夜は遅くまで良いコンディションを保てるように訓練することは可能だ。夜、舞台に立って、その時一日のうちで頂点に達しなければならないときは、違ってくる。その場合は、別のリズムが必要だ。
 しかし、1981年のバイロイト、この夏、記憶にあるのは数日か、一週間だ。バイロイトでの最初の夏はもっと長かった。その時は六月ではなく五月にけいこがはじまって、一日中祝祭劇場にいた。食堂が第二の我が家だった。幾人もがこういうことは初めてだった。だが、今は、祝祭劇場にはあまりいない。二年前に、十人の歌手が小さなオートバイを買った。自由時間に、オートバイで、その辺を走りまわる。もの凄く楽しい。休暇気分。だれも役を覚える必要はない。ねたみも生じない。劇場でのようではない。劇場では、幾人もが押し合いへしあい、ひじで押し退けて、注目されようとしている。ここではそういうことはまったくない。だれもが自分の契約があって、するべきことをはっきりと知っている。こういったよい雰囲気から、次の仕事への力を得ることができる。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ただ単に•••6 [1983年刊伝記]

私たちは何でできているのか

 「歌うことはお仕事ではなく、全身全霊をあげて関わる課題である。生活と舞台は分離できない。なぜなら、感じているようにしか、歌えないのだから」(デボラ・サッソン)

 人生とは、ほんとうのところ何だろうか。幸せは自らの手でつくるものだと言われる。だが、一体だれがこれを実現できるのか。加えて運の悪いことに、外からの暴力に遭遇したらどうなるというのか。すぐに、『偉大な兄弟』によって正しい道を選んだチェコスロヴァキアのことが思い浮かぶ。暴力装置は全世界の至る所で機能している。人間は、同じ物から創られたのに、何故、他の人間を死ぬほど苦しめ抜くのか。納得できる答えは得られない。ただ、こういう個々の事柄に基づいて、全人類を判断するのは正しくないだろう。簡単に言えばこういうことだと思う。どうやら私たちは内に極限を究めようとする欲求を抱えているらしい。それで、私たちは、とにかく、こういう奇妙な物からできているものだから、もの凄く残酷な行為だろうが、最高の愛の行為だろうが、どんなことでもやり兼ねないのだ。こういった矛盾した能力のせいで、人間は、自ら意図することなく、めちゃくちゃになってしまうのだ。

 「生命は緊張から生じて、消滅に至る。この予感こそが、無常賛美をめぐる知識賛美なのだ」(ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク)

 その上、だれもがごく短期間のうちに感じる劣等感。それ故、私としてはこの世の存在が全てだとは思えない。神とか世界とかについてはだれしもあまり話をしないのは仕方がない。ただ時々、飲み屋で、へべれけに酔っぱらった頭で、時折大変なことが明らかになったりするだけだ。心も舌も弛んでいると、ものすごく頑張って、何が何でも何か賢明なことを吐き出そうとしているときより、だれもが核心をより的確にとらえる。
 しかし、こういう話題にしばしば含まれる気まずさは、ロックミュージックの中と同じくらい、オペラの中にも、音楽の中にも、網をはっている。音楽は多くのものを受け止める丈夫な繊維なのだ。
 以前に一度歌を書きはじめたことがある。まだ思い出せるかどうか、わからない。基本的な考えは、全面戦争の後はただ神と悪魔だけで、人間はもはや生きていないということだった。神と悪魔は、楽しくおしゃべりしている。私は歌詞を思い通りに完成することができなかった。というのは、一行ごとに、難しくなるということに気がついたからだ。神は、宇宙まで届いた何百万もの叫び声に耳を傾けなかったではないか、そして、何故その愛によって何もしなかったのかと、まずはじめに悪魔が神を非難する。代わりに彼の手下、大砲と武器を祝福したではないか。悪魔は私たち人類の歴史を述べる。神はこれに対してどう答えるのかが、問題だった。私は何も思いつかなかった。私が書き留めている告発を、神学者はもちろん論破できるだろう。それでも、苦心惨憺した跡は残っている。結構なことだが、彼らによれば、いずれにせよ、2000年のうちに全ては過ぎ去り、人類の試練の時は終りを迎え、その後には、聖人たちが現れる。世界が滅亡するということは、私にははっきりしている。なぜかというと、世界は容易に滅びるものだからということではなくて、だれかさんが冷静さを失っているからだ。過剰殺戮・・・地球はすぐには砕けはしないが、人類は一掃されるだろう。
 神が人間のことを全く気にかけないなら、その存在理由はない。そんなのは、偶像とどこが違うというのか。神は悪魔をあざける。「人間たちと共に下界にいるお前に、私は全く興味がない。お前たちがいかに途方もなく偉そうにしても、お前たちは私にとって、一瞬のうちのほんの一瞬でしかないとは、お前たちは夢にも思わないに違いない」あるいは、こうだ。「お前たちは今では要するに流行らないのだ、だから、今は私が、お前たちがまったくやる気のない、物事の面倒をみないわけにはいかないのだ。」しかし、こういうのはどれもなんだかおとぎ話をしてくれるおじさんのお話みたいだ。答えのない告発は相当に難しい。その上、純粋に技術的なことだが、悪魔は、某ひげずらのやたらに賢い男より、美しく歌われる可能性がある。
 それでは、シンガーソングライターは何を伝えることができるというのか。だが、ウード・リンデンベルクのことを思えば・・・ 耳を傾けてよく聞く人たちは、彼は正しいと言う。それは歌だから、確かにみんなほくそ笑んでいる。しかし、政治家が演台から同じことを告げたら、残念ながらだれもそんなことはしないが、人々は物凄く憤慨することだろう。
 私が自分自身作曲して、歌詞を書くときには、まず第一にそれを聞くことになる人達のことを考えたりはしない。だが、すでに書かれている大量のポップソングの場合、市場調査をしないわけにはいかない。そうでなければ、何か価値のあるものに出会って、物凄く幸福を感じたことはまだ一度もないという悲惨なことになり兼ねない。それでも、それはすでにもう四回も焼き直されているかもしれない。だから、市場に何を提供するかということを考えなければならない。私は自分の音楽的方向を、ひとつだけの理由で選択してはいない。なぜなら、自分の音楽傾向によって自分を表現できるからだ。たとえ、すでに使われたテーマを扱っても、もっとよくすることができれば、それもいい。それは別の聴き手を対象にしている。しかし、オペラから例をあげるならば、「ローエングリン」、あるいは「トリスタン」、あるいは「オテロ」も、別の音楽の方向へということもありうるだろう。しかし、オペラの創られ方と、これまで相当頻繁に聴いているせいで、もはや違う表現はできない。だから、私もポップミュージックとロックミュージックをするわけだ。従って、何か全く新しい物を作曲するほうがずっといい。なぜなら、いつも比較されるからだ。単純な歌の数々、非常に簡単なポップソング、テーマはまったく日常的だが、だからといって必ずしも陳腐ではないのに、新しいバージョンによって、いかにしてより一層の飛躍を遂げるべきだろうか。
 とりわけ、私が自由に使える、限られた時間の中で。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ただ単に•••5 [1983年刊伝記]

物凄く大切なことだから、安易に論じてほしくない・・・
 それから、化物屋敷の話のような事も起こるが、こういう現象の描かれ方には、腹が立つ。私はこういう現象を非常に大切に思っているので、安易な興味本位の論争の種にしてほしくない。テレビの司会者であるフランク・エルストナーが「人間82」「辛口?」というショーで、私にぶっつけ本番のインタビューをしたことがある。私はルクセンブルクの彼の自宅で、朝の四時ごろまで、こういう現象について話したことがあった。彼は興味津々だった。テレビ対談が行われることになったとき、前もってリハーサルをする必要があるかどうかきかれた。しかし、対談のリハーサルなど、いったいどうやってすればいいのだろうか。後で、全然違うことを言うか、それとも、ただただ申し合わせたことを、オウムみたいに繰り返しぺちゃくちゃしゃべるかだ。そんなことは誰でもすぐわかる。あるいは、つい張り切り過ぎて、それが自ずと効果をあげるということもある。というわけで、リハーサルは無しとうことになった。
 そこで、そのショーで、質問はいきなりだった。ショー・ビジネス界では、ギャグが求められ、観客は機知に富んだ大袈裟な答えを期待しているということが分かっていたから、その時、おおまじめな答え方はしなかった。そうでなければ、こういう話題を公開の場に出すことは防げたはずだ。放送の後、このインタービューに対する問い合わせが40件も殺到した。私は何も言わなかった。このことに関する記事はどれもでっちあげだった。ただし、ほんとうにこのような現象に心をひかれる人たちのグループでなら、そういうことについて話をするだろう。それが黙殺されてしまっても、別にそんなに不愉快でもない。なぜならば、私にとってそれは事実だからだ。だが、そういうことは、まじめに話しても無駄だということはわかっている。たいていは、そんなことは、笑い飛ばされて終りだ。
 そう、私は解明したいとも思わない。そこに、だれかがスプレーを持って現れて、スプレーを吹きつけたら、私のお化けが突然目に見えるようになるなどということは望まない。だれもそれに対して何もできないということは分かっている。こういう現象も私には嫌なことではない。私は一瞬気がつく。ついさっき閉めたはずの二つの窓が開いている。そして、そこには、私以外はだれもいない。なんとなくすばらしいじゃないか! あるいは、ついいましがたかぎをかけた、ドアが開いている。何かE.T.のような存在が私をからかっているのだといつも思う。そんなことでパニックに陥ることはない。それは悪意を持った存在ではないと思う。もしも部屋という部屋を通り抜けて戸棚が飛んだとしたら、そして、そんな物が存在すれば、私は引越すだろう。そういうのはどうしようもないし、そういうことに対してぐずぐずといつまでも腹を立てている理由もない。家に帰ったら、快適な気分になりたいし、私のことが好きじゃない存在と関わりたくない。しかし、私のところに住まわせている存在は、とても良いお化けだ。(いずれにしても、お化けというのは、おかしな表現だと思う)私がちっともパニックを感じていないのだから、これは絶対間違いない。ドアが開いて、それから、ひとりでにゆっくりと閉まれば、これは不思議なことだが、少なくとも私にとっては、別に心配する理由はない。加えて、おそらく、私がとにかく好んで何か不可解なことを体験したがっているということは、つまり、そういうことなのだろう。今、私にとってこれは現実だ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ただ単に•••4 [1983年刊伝記]

防御壁はどのぐらい厚くなければならないだろうか
私は常に「ほら、彼はまた私生活を金もうけの種にしている」という非難を耳にしている。しかも、おかしなことに、私について書いている人たちからの非難なのだ。そういうことだから、この問題には気をつけなければならないという印象を持っている。発行されたインタビューの多くは全く行われていなかった。このタイプは小さな裁縫箱から自分たちの寄せ集めの物語さえ編み出すのだ。実施されたインタビューもたくさんあって、いくつかはよいものになった。それは常に質問者次第だ。『プレイボーイ』誌の編集長は、14時間のインタビューの後で、興味をそそったインタビューが二度あるのだが、それはフィデル・カストロと私のだと漏らした。全てを言葉どおりに忠実に伝えることができないのは当然だ。ただ、私が何時間も話し、核心的なこととして出されたものが、真実と、全く一致していないことが頻繁にある。もしかしたら、私の表現が間違っていたのかもしれないから、私は自分に関する幾つもの文章を許容している。確かに私の話し方は相当皮肉っぽく思われているが、皮肉は単に身振りから、話す調子と身振り手振りから生じていたにすぎない。紙に書かれて「ひからびる」と、そこには完全な誤解だけが残っている。
 マスメディアの中で作り上げられるイメージは、私にはどうしようもない。「あの人たちが真実を書かない限り、オーケーよ」と言ったのは、マレーネ・ディートリッヒだったと思う。このような考え方をすることもできるだろうが、あまりにも誤りが多ければ、やはり腹がたつものだ。こういうことを私が我慢して、更に二、三の事柄がうまくいくのなら、私はもう腹を立てない。
 自分を公開状態から十分に守るために、どのぐらい防御壁を厚くするべきか、まだよくわかってはいない。インタビューでどの程度踏み込んでもよいか、どういうことは絶対言わないほうがいいのか、どこで譲歩することができるのか、未だによくわからない。話したことは、まず間違って解釈されるという前提から出発しなければならない。それから、あまりひどく傷つきたくはないという理由で、防御壁は必要だ。そうでなければ、コチコチに固まってしまって、あらゆる分野において、もう何もできなくなる。いきなり唐突に気分を害したり、だれかさんを外へ放り出したりさえし兼ねない。それから、ある人物を敵に回してしまったことを知るが、私としては、そのとき自分の平和を保つことと、その人がその記事のために調査することと、どちらがより重要か、慎重に比較検討する必要がある。こうして、ひとつのイメージが生まれる。いったいどういう場合に、ほぼ真実に一致するのだろうか。
 私にとって典型的な例はカラヤンだ。記者が、彼の企画や、それに加えてレコード録音、コンサート、練習などをあれこれと頭の中でこねくりまわした挙げ句、その間に時折、ジェット・セットのばか話を質問すれば、指揮者としては、もっとましな話題はないのですかと、聞き返すしかない。あるいは、「まだ仕事がありますから」と言って、今度もインタビューの時間がないという、十回目の説明するわけだ。バーンスタインは違っていて、むしろ自己表現こそが重要なアメリカの伝統に基づいていた。私にはカラヤンの態度のほうが多少身近に感じられ、当然だと思う。カラヤンからは、貴族階級の雰囲気を感じる。ひどく安易な言い方だが、そんな感じだ。私は幾つかの質問は当然してはいけないとはっきり分かっているが、こういう種類の頭をだれもが持っていれば、すばらしいと思う。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ただ単に•••3 [1983年刊伝記]

一体だれが好き好んで、簡単に傷つくというのか
   舞台上での気持ちや心の動きに関して、仲間と話すことは、めったにない。誰かひとりだけと一緒なら、そういうことについて話せるが、皆が一緒にレストランの常連のテーブルに座り込んでいれば、そういう話はだめで、大声でギャグを飛ばすことが求められる。それどころか、そういう場合、できるだけ、そういう風にきこえてはいけないように、きこえないような言い方をするように注意を払っていなければいけない。またもやあやうく不愉快になるところだ。
 バイロイトでは、音楽祭の期間中、当然ながら、ちょっとした派閥支配が広がる。だが、たびたび一緒に舞台に立った仲間のクルト・モルとは、そんなことについて話すことができた。彼は、私たち誰もができること、できなければならないことに関連したおしゃべりにスイッチを入れるのも上手いし、反対に、みんなができないことについては、ギアをシフトダウンしておしゃべりの勢いをそぐこともできる。同僚たちの間で、本当に重要なことが話されるということは、よく考えてみれば、これは並外れて凄いことだ。
 しかし、こういうことは大概は防御体勢でもある。カラヤンに「あなたは何故うわべを装うのですか」と質問されたことがあった。私は率直に「こういうふうにうわべを装わなかったら、あまりにも傷つきやすいのです。だれでも傷つくのは好きじゃないでしょう」と言った。カラヤンは答えずに、笑っていたが、よくわかるよという顔をしていた。私の言わんとしたことがわかっていた。おそらく自分自身でもちょっとは気がついていたのだろう。そう、彼は同じことをしている。彼は、私がそれを知っているかどうか、知りたかっただけだと思う。あぶなくなれば、皆がそのように反応し、防御し、自分自身にカギをかける。私が、何も自分に手を触れさせたくないというふうに気持ちを切り替えたのを、彼は感じたのだった。
 時には、その防御姿勢が行き過ぎる。そういう時、幾人もの人が、あいつは思い上がっていると言う。けれども、だれしも、決して尊大さをたかだか手段として選択して、あからさまにそれを選んでいるのではない。私としては、ただ単に典型的な例を挙げているつもりだ。だれかがしつこく私を夕食に誘うのだが、私はとにかく行きたくないのに、その人は私が行きたくないということに気がつかなければ、なんとかして口実を考え出さざるを得ない。まずはその人の感受性に訴えて、遅くとも、私に二回「差し迫った用事」があるころには、ひとりでに気がついてくれるように願う。三回目の招待のあとは、「急用」ができる。その後は、その人は事情に詳しいに違いないと思うしかない。それでも、断れば、その時、私は「思い上がっている」わけだ。こういう防御措置は、私の生活の「公開性」が増大するのに伴って、当然頻度が増す。しかし、これは制御できるから、一人歩きするようなことはない。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ただ単に•••2 [1983年刊伝記]

・・・後は、ただ漫然と閉じこもっている
   歌うには力が必要だ。力がなかったら、どうするか。精神的に落ち込んでいるときは、どうするか。賢明な格言がある。私はいつも「東の中国の」言い伝えだと言っているが、きちんと確認したわけではない。『私が一時間微笑んでいれば、あなたもまた心の中で微笑む』 気分に関係なく、微笑むこと。耐え抜く一時間は途方もなく苦しい。しかし、それを試してみたところ、それやり遂げることができた。そして、それは効果があった。何だか変な感じが忍び込んで来るのに気がついたら、私は、まずは、プールで50コース分、泳ぎ抜く。(その時、ホテルでも、家でも、ほんの目と鼻の先にプールがあるという利点を享受している)その後でマイナス状態が突然のように終っていることが多い。確かに、隅っこに座って、私に起こっていることについて、じっくり考えることもできるだろう。だが、それは、気分転換をはかるには骨の折れるやり方で、私には合わない。身体を動かしての間接的な試みのほうがいい。
 もちろん、時にはだらしなく気ままに過ごしている。知らない町に客演した場合、なんだかんだの招待に出かけて行こうという気はなく、ホテルでつけっぱなしのテレビの前に座っている。すでに相当長い間、つけているものだから、テレビ受像機は燃えださんばかりで、目は四角になって、頭はいっぱいで何も考えられない。これは、もうとてもたまらなくなって、穴蔵から這い上がるべき時だ。休みが四日もあると、何か有意義なことをしようとして、生理的にひどく疲れる。精神的な落ち込みがおこりそうな気配がするが、だれも私を制御してくれないし、だれも見張っていてはくれない。何か反対のことをしている。
 他人に対する思いやりがあれば、何も要求しない人に無理強いしたりしないものだ。朝食の時間が過ぎても、寝ていたら、お昼の12時になるだろう・・・
 だから、つまり、そういう傾向の日が近づいているのがわかればいいのだ。出ておいで、山盛りの朝御飯だよと呼んでもらって、後は、ただ漫然と閉じこもっている。そういう時、窓の外を眺めたら、さらに陰うつな感じで雨が降っていたりしても、やっとの雨で、自然も一息ついているなどとはもちろん思わない。田舎にいると、大都会にいるより、そういうことがよくわかるのは当たり前だ。都会では、目の前に自然があっても、すでに自然はほとんど目に入っていない。
  こういう一時的状況を嘆くつもりはない。超過密の予定表について、苦情を言う権利もほんのちょっとしかないのと全く同じだ。目下乗り切らねばならないことをやるだけだ。それでも、時には、突然、全てが重くなる、本当に苦しくなる・・・
 特別な地点に到達すれば、その後のことはあたかも自動的に生じると信じている人が少なくない。それは逆で、どうしても成功したいという気持ちがいくつかのことをさらに困難にする。決まった日に決まった場所に最高の状態でいなければならない、他の多くの職業ではこういうことは重要ではない。オフィスの仕事なら、四日か五日、あるいは六日でも、最高の状態かどうかはどうでもいいことで、七日目に調子が戻れば、十分に間に合う。しかし、よりによって五日目に公演が待っていたら、それが一体何の役にたつのか。
 オペラというものは、ライブで、起こりうる失敗と紙一重のところで、準備万端お盆に載せてうやうやしく差し出されるのだ。大体において、さあ、とにかく難しいところだ、ああ、神様、キャンセルしたほうがいいんじゃないかなどと自問する日が幾日もある。病気になるかな。それはクロスカントリーの場合と似ている。実際のところいったい何を悩んでいるのだろうか。全力を尽くしての困難なエネルギーの集中なしでも、全ていとも簡単ということもありうると思う。弱気の虫はしつこくつきまとって、なにがなんでもあきらめさせたがっている。私は自問する。何故、私は頑張るのだろう。まず第一に、自分がそれを克服できるということを、自分自身に対して立証するためだと思う。スポーツの場合も同じだ。森を抜けて走っていて、二キロのところで棄権したいと思って、それができれば、その時はそれを隠さない。だれもその場にいなければ、後で、十キロ走ったと、全く同じように簡単に言うことができるだろう。しかし、そういうことは私にとって、気分のよいことではないことはわかり切っている。そういう瞬間に決心する。さあ、あと五キロだ。やり遂げれば、すごく気分がいい。弱気を克服したのだ。これこそが飛躍の瞬間だ。なぜなら、その後の自分が好きだからだ。こういう良い気分の故にのみ、自分自身に与えるこういう愛撫の故にのみ、成果をあげたいのだろうか。できるとしても、こういうことを徹底的に考えたことがない。なるほど、私としては、可能なことはすべて意識化しようと試みているが、しかし、幾つかのことはそうでもない。意識的に物事を無意識のままにおいておく。もちろん思考停止ではないのだが、物事をあれこれとつつきまわさない。もしかしたら、それはこの本の仕事にとっていくつかの部分で必要だったのだろうか。だが、自分のためでも、他人のためでもなく、だれでも全てを明るみに出す必要はない。幾つかは「深い眠り」のうちにおいておくほうがよい。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

ただ単に•••1 [1983年刊伝記]

ただ単にながらえるだけでない生き方に関する試論

自然回帰願望
   昨日、テレビで歌手・インタビューがあった。なんでもこなす万能選手タイプ、パーティーの花形、セクシーで、人気があり、同時に誠実で面倒見のよい家長としての父親、何でも完璧にできるそんな人だった。どこから見ても、彼は完璧に見えた。そんなことがあるはずがない。完璧な万能選手として売り込もうというわけだろうか。私はそういうのはうしろめたい気分がする。確かに、たとえば、私も「副業は営林署員」と自己紹介したいところだが、そうするには、その仕事について余りにも知らなすぎる。あるいは、オペラハウスから、オペラハウスへと絶え間なく移動しているのに、すばらしい家庭生活について話すことができるだろうか。パラシュート降下でさえ、いつの間にかもうはるか昔のことになって、もはや責任を持つのは容易ではないように思う。時間の問題だ。心おきなく飛べるためには、しっかりと訓練されていなければならない。筋肉が最高のコンディションでなければ、骨に過剰な負担がかかる、パラシュート降下は、着地なのだ。それでも、その体験は、あらゆる自然的なものがそうであるように、それ自体、物凄い魅力を内包しているが故に、もう一度堪能したいと思うのだろう。この場合、自然は徹頭徹尾、嫌なものでありうる。自然的な体験で、好ましい体験の目録を作るとすれば、最高に美しいものになるに決まっている。事実、愛はそういうものだ。愛こそは最高に自然で、好ましい事柄だ。麻薬より、恋に落ちる能力が自由に調達できるようになったらいい。
 要するに、済んでしまったことは、本当に好ましいかったと思うものだというのは全く正しい。恋のアーバンチュールと同じように、過ぎてしまえば、非常に美しくみえる。恋のアーバンチュールとは危険という意味でもあるが、気持ちのたかぶりがおさまれば、相当気楽に思い返せる。舞台上でも、「生理的に」耐えられるところまで是が非でも頑張ろうという傾向を伴うこういったアバンチュールへの衝動と出会う。ローエングリンで、風邪がどんどん進行して、2幕の後、切り抜けることがどんなに困難かということに気がついても、良いときの半分の結果のために、二倍の力を費やしてしまうものなのだ。私は不安になる。三幕になる。その時、冷静さを失うか、立って戦うかどちらかだ。こういうことは、スポーツ時代に、いきなり頑固に強情になって戦うことで、学んだ。だが、その時そこでいったい何が起こっているのかちょっと知りたいと思うだろう。
 国防軍でも、根本的に軍隊とは何のかかわりもない、非常に原始的な極限状況を経験した。訓練のとき、ばかげた偶然で、幾日も食糧補給が途絶えたことがあった。私たちに食事を供給するべき人は、私たちを捜していた。私たちはもう出発してしまっていた。彼が来たときには、私たちはいなかったのだ。六日目の夜、彼はやっと私たちを見つけだした。他にも、戦争中、あるいは、他の酷い状況下で経験したことがある、または、経験することになる人はいるだろう。私にとっては訓練下の極端な状況に過ぎなかったが、しかし、実際にこういう事実を現実として体験した。短期間にいろいろなことがおこった。周囲の人々を特によく観察した。まずはじめに攻撃性が顕著になり、それが膨らんでいき、それから、次第に、それは最も危険な状態である無気力へと移行していく。これは冬の野営地でも同じだ。時々、夜に、スコップで穴を掘るために、小枝で作った小屋から這い出た。全く無意味な行為だ。ただ単に自分にスイッチを入れて作動させるためだけだ。身体を暖めるためだ。これこそがまさしく原始的極限状況なのだと感じた。精神の本質が究められた。完全な無関心状態に陥ってしまい、あきらめの境地で、寒さに凍えながら、誰かが何かするのを待っている者たちもいた。ある者はじっとしていることがなくなった。これも同じことなのだ。他の者たちは座り込んで、虚空を見つめていた、ヒゲが伸びる音をききながら、四週間。
 これはもう何年も前のことだ。今は、例に漏れず、自分の「技術」つまり、職業で、暮らしている。時々、この状況が、何か「堕落」のような感じがして、舞台では決して起こらないこと、すなわち、原始的な状況に対する異常なほどの欲求にかられる。舞台には自然とは対極の人生がある。すなわち、見せかけの人生だ。自然の感覚は、場合によって、観客の中に生じる。だから、人々は後で、目に涙を浮かべて、私のところに来る。これがそれだったのだ。一方、私には理由がわからない。私は公演の初めから終わりまで、観客とは全く違う場所に立っていて、舞台でおこる状況に接続する手段がなかったからだ。ばかみたいだ。声が、適切な瞬間にエロスを伴い、その感情で操れば、これは、それ自体もう何か恐ろしい程のものを持っている。自分が他者に対してものすごい影響を与えはじめているように感じる。こういうのはそれ自体すでに、多少は、堕落している。あるいは、少なくとも、知性によって自らをコントロールしないならば、堕落する。私は、かなり以前から、もう自分の職業をそれほど極端に深刻に捉えようとはしていない。それはもはや全てを与えないという意味ではない。しかし、ローエングリンを歌った場合、公演の後、ホテルまでの道中で、私人としてホテルに着くようにもっていきたいということだ。四分の三がローエングリンのままで、拍手喝采のざわめきを周囲にまとわりつかせて、崇高な気分と月桂樹の冠をつけてベットに横になるようなことはしたくない。そんなことでは、私は何もはじめられない。私が演じる舞台の人物の感情の幕を通して自分の人生を生きたいとは思わない。私の解毒剤は、一人分のユーモア、自分自身に対する皮肉、そして、コントロールを維持しなければ、自分が自分を蝕む何かを今現在やっているのだということを、繰り返し意識的に確認することだ。
 こういうことを認識しないなら、人格的破綻が起こりうるという感覚は、無意識下では常にそこに存在していたのだが、突如、そのことを意識したのだ。影響が出たときにそれに気がつくだろうか。いずれにしても、こういった経験の結果、原始的な体験を求める傾向が強まる。同様に、馬との付き合いもこういうことに属していると言っても、気違いじみているとは言えないに違いない。動物は何物にも惑わされることなくいちずで、自分自身をごまかしたりしない。えさがもらえる時間になれば、食べさせてもらいたがる。まずはじめにインタビューがあって、それから、ニューヨークから電話があったから、今日はえさは中止だなどと言うわけにはいかない。人間になら、そういう場合、説明がつけば、たとえ機嫌を損ねても、ある程度理解してくれるだろう。私がやる気がなくて、一週間も馬小屋を清潔にしなければ、馬は腐って、性格が変わる。あるいは、違う次元の話をしよう。自然の中を馬に乗っていくと、完全に舞台関係の練習中とは全く違う思いがわいてくる。あそこでは演出家の難解な考えや、短足、なで肩で、腹が出ていなくては着心地の悪い衣装のことだけを思う。馬に乗っているとき、腹が出ているかどうかとか、髪の毛が脂ぎって汚れているかどうかなどということは、私にとって、どうでもよい。まったく重要ではない。舞台上では優先順位が変わる。徹頭徹尾、独特のメカニズムが働いている。それ自体何か退廃的なものがあって、人間同士の付き合いに影響を与える。
 一緒に姿をくらまして、一晩飲み明かしたり、ディスコへ行ったりしたい友だちはいる。しかし、よく考えると、今は、それが友だちにしろ、単なる飲み仲間にしろ、面倒になる。不愉快な状況で、他人を当てにできるだろうかと自問すれば、やはり自分でなんとかするしかない。自らがやらずに、一体だれに、そういうことを主張してもらえるだろうか。この人はテレビ関係者だから、重要な人の可能性がある。よって、この人とは、必要以上に感じ良く、おしゃべりするのもやむを得ないとか、あの人はレコード会社の社長だから・・・という具合に、自分の周囲の人間をあれこれ分類するのはよくない。こういったビジネス対話は、非常に友好的な関係を築いたとしても、大概は友情とはなにひとつ関係がない。しかし、理屈抜きで蹴散らかされているような素朴な人たちは、人間をうわべだけで判断する慣習に凝り固まった観点に立てば、差し出すべき物を何も持っていないのだから、まさにこういうことを超越している。ある農家の人は、ほとんど何も捨てたりしないで、常に最低の生活費でやっている。そして、私としては、決定的な場合には、他のだれかではなく、この人と一緒にいたいだろうと思う。ただ、ずっとその人を無視していれば、その後で、今はあなたが必要だなどと言うことは難しい。だから、接触を保とうとするだけでなく、私もまた他人の運命を思いやろうとする。世間的な信用を背景に、例えば、ここの田舎にやって来たとしても、それだけでは、どんな友情も可能にしないどころか、むしろ時には邪魔になる。だが、とても素朴で率直な人が肩を叩いて、それはうまくできていると、言ってくれたら、オペラでの物凄い拍手喝采よりもずっと価値がある。(これを、Applaeuse と言えるだろうか。だれでも自分の言葉を発明して、その言葉によって考えているにちがいないと思う)肩を叩いてくれたのは、私の仕事であるテレビ放送やレコードに対してではなくて、数週間前の牧草地の柵の出来栄に対してだ。だれにも聞かないで、とにかくちゃんと直すのだと思ったのだ。すでに何キロも柵を作ったことのある農家の人が通りかかって、眺めて、思ったそうだ。「まあ、いいさ。自分はそんなやり方はしないが、そういうふうにもできるわけだ」
 それに対して、この職業ときたら。永久に内にこもって聞き耳をたてるだけだ。目が覚めると、声があるかどうか、ちょっと発声練習をして試してみる。世の中で、最も重要なことは、声帯が炎症を起こしていないことみたいだ。もしそうなら、私はきょうの役には立たない。問題がなければ、すべてこの世はオーケー。今晩歌えるのだ。で、私は歌い、できるだけ沢山の拍手喝采をもらいたいものだと思う。柵を作ったときは、馬に逃げられないために頑張ったわけで、拍手喝采は計画に入っていなかった。農家の人とその賞賛は偶然に付け加わったにすぎない。歌う場合は、観客の反応を期待している。これを否定する人は正直じゃない。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

社会の束縛-2 [1983年刊伝記]

権力に対する無力感
 他人の好意あるいは嫉妬に左右されることは、日常的状況にしろ、もう少し非日常的な状況にしろ、なすすべもなく無力である状況に直面することだ。自分の無力と無意味な権力の前になすがままになっている状態を私はたびたび極めて明白に意識した。同時に私の抵抗力は増している。時には、あり得ないような独特の状況に陥ることがある。私はとても自立していると思い込んでいるにもかかわらず、だれも私に何か言ってくれないと思う。
 小さな枠組みの中でなら、やり過ごすことができる。単なる例として挙げるだけだが、気にいらない政治家に招待されたら、家にいる。パーティーが、種々雑多な、二、三人のパンク族や驚くような人たち、一人のキャリアウーマン、それから、ほかならぬひとりの芸術家のせいで、多彩なものになるなら、キャンセルしたい気分だ。そこでは、金集めという理由で、すべての人を招待できるとだれもが思っている。そして、もちろん文書の招待だ。だから、私もやはり文書で答えなければいけない。自分の正しさを証明することが必要な被告人のようだ。議員だとか、どこかのトップだとか、なんだかんだの重要なポストを、彼が、彼女が、彼女の夫が、「所有している」などというくだらない話を聞かせてくれるだれかさんと、私の時間を無駄に過ごすことは単にばかばかしいだけですなどといいう、本当の事は、儀礼上書けない。こういうことはもちろんすべて回避できるが、だれでも権力のほんとうの意味を思い知らされる避けがたい状況に陥ることがある。
 パリ、空港。私は突然銀行強盗犯のように扱われる。多額のギャラをカバンに入れて持っていたからだ。何か関税を払うべきものがあったかどうか。「ありません」「ちょっとカバンを開けてください」その中には、物凄く沢山の現金が入っていた。(私はロンドンで歌って、その後で、パリに来た)みんなの顔ときたら!何とも物凄くうれしげな衝撃が全員を駆け抜けていた。さあついに捕まえたぞ!私はオペラ劇場の決算書を見せた。「きのう稼いだんです!」彼らは紙切れを全く見ようともせず、二つ、否、それどころか、三つのテーブルの上に山積みにした金を数えていた。そう見える!まさに銀行強盗のようだ。私は下着まで脱がされた。私は徐々につっけんどんになった。彼らは私を5時間拘束した。奇妙な言い争いが起こった。全ての紙切れ、メモ類が、調べられた。「これは何ですか」「番号」「何の番号ですか」「電話番号」と私はうなり声をあげた。「誰の?」「それはあなたに全く関係がない。だが、あなたが電話をかけて、聞くのはかまわない」「どこの町ですか」「秘密だ」少しずつもうたくさんだという気分になってきた。そう、それは口座番号、あるいは、暗証だと言ってもよかったところだ。全ての捜索活動に何の意味も見出せなかった。全財産をひっくり返して、何も見つけられず、彼らは今や失望していた。おまけに比較的若そうな奴が大金を持ってうろうろと旅をしているということがねたましい。最終的に、彼らはフランを渡さずにおこうとした。国外持ち出し停止。私は大使館に電話をかけた。その時までに、この一団の上役が私に質問していた。「あなたにとって6万フランは一体どういうものですか」「みなさんの国にとっては大金にちがいない。そうでなければ、これほど関心を持たないでしょう」
 完全に他のなすがままだという無力感が襲った。「これが合法的であれば、君たちが私にやっていることは、恐ろしく馬鹿げたことだ」「そういう口は二度ときかないように」「でも、よく聞いてください。こういうことが合法的であれば、ここで起こっていることは、何かおかしいとみなさんは思いませんか。私が前の日のオペラの公演で稼いだ金を取り上げるのは、犯罪行為です。あなたたちの国の国立劇場支配人がそこに座って、拍手喝采していましたが、翌日には国境で金を取り上げさせるというわけですか。私にとって今どんな国外持出しに関する法律が有効なのかということは、誰が、何を、どうして,どんな理由でその法律を決めたのかを含めて、どうでもいいことです。これは犯罪です。私は何も盗んでいません」
 なるほど外国為替持出禁止が施行されていたというわけだ。しかし、外貨を持ち出すためにだけやってきたということは周知のことだったのだから、外貨を外国に持っていくのを隠そうとは思いもしなかった。二年前に契約にサインして、この時に契約を履行した。国立オペラ劇場が紙幣の束を私に渡し、私がそれを受け取った瞬間に、私は違法行為をしたというわけだろうか。
 ギャラは常にその場で数えられて、裸で手渡される。さもなければ、ギャラには決してお目にかかれないことも頻繁だろう。上演の晩に、そこには、ギャラを払える人は、だれもいないかもしれない。「明日、お立ち寄りください」「明日は日曜日です」「あ、そう。じゃあ、だれもいません」「月曜日は祝日です」・・・というような具合になるかもしれない。ある仲間はイタリアで歌い、二年間、自分の金に出会わなかった。そのあと、同じオペラ劇場でヴォータンとして代役を勤めなければならなかった。全く突然のことだった。行って、化粧して、上演の十分前に劇場支配人に要求。支配人はすぐに彼をなだめにかかる。「分かっています。すべてきちんとしています。すべて用意済みです。どんなことがあってもお金は受け取れます」 歌手は要求する。「実際に今すぐしてはどうですか。この間の公演と今日の分のお金をここのテーブルにおいて、見張っていてください。そうじゃないと、何ひとつ進みませんよ。」大騒動。晩には銀行は全部閉まってしまう。劇場総支配人は、この記念公演に座っていた知人たちの中から集めさせて、実際に山のようなお金を調達した。
 私は、パリであのようにぎゅうぎゅう締め上げられて、お金を取上げられてしまったということに腹が立った。しかし、だれでも、あとでは、前よりずっと抜け目なくなるものだ。「触るな」と警告したほうがよかっただろう。ひょっとしたら、投獄されたかもしれなかった。そうなったら、騒動になっていただろう。オペラハウスでは取り囲んで歓声をあげ、翌日には鉄格子の向こうへどうぞというわけだ。警官タイプの男がこう断言した。「私の首がぐるっと回っても、あなたが自分のお金を取り戻すなんてことはあり得ない」 この人たちのうちでこの状況のばかばかしさに気づいている人はほとんどいないと感じた。私は確かに内心、全てが、なんとも奇怪なことだと笑っていたが、それにしても、突然、奇妙な厄介事に巻込まれ、大使館と連絡がついて、カバンとその中身も一緒に、飛行機に乗ることができるまで、何時間も何時間も、嫌な気分だった。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

社会の束縛-1 [1983年刊伝記]

だれしも社会の束縛から自由ではない

ひどく貧しい国民であるよりは、納税者でありたい
 政治情勢によって妨げられず、自分の人生を歌うことに使えることを「ぜいたく」として、感謝している。ヒットラーのような暴君がいつでもどこにでも存在するなどということがなく、ゲシュタポが家の周りを忍び足でうろつくことがなければ、様々な決定をすることは、どれほど容易なことか。ナチ党員がそこにいなければ、彼らについていとも簡単に判断できるということは、わかりきった話だ。日常的に立場を明確にしなければならない時代に生きていることは、私たちの気楽な生活よりはるかに困難だった。そのとき、こういう「たわいない」会話にさえ、相当の勇気が必要だっただろう。
 こういう自由があれば、自分の生活や発言に対して取るべき責任は当然ながら増大する。特に心にやましさを感じる時にそういうことに気づく。
 例えば、パリでとっても哀れなやつを目にする。私が浮浪者に2、3フランそっと手渡したら、その男は町中私を追い回して私のことを「天使」とか「恩人」とか褒め讃える。こんな事態を招きたいとは思わない。要するに私は自分の気持ちを楽にしたいだけなのだ。その男のポケットには2フランもなくて、私は束で持っている。ひとつの行為で最高の幸福が手に入るだろうと思うわけだ。潜在的に、まさに潜在意識下のことにすぎないのだが、確かに人はだれでも自分をいわゆる幸運をもたらす者と見なしている。ただ単にポケットに手を突っ込むだけで、スーパーマンだ・・・
 しかし、こういったことに関して意識してしまったら、助けたりはしないところだ。私は大混乱に陥ったにちがいない。何かを与えることは、私にとっては何でもなかった。しかし、彼にとっては・・・ やはりそこでよく考えてみると、いまいましいことに、その男がベルモット・ワインを十本買って、そのせいで死んでしまったらどうするのだ? 余計なことをしなければ、彼はもう一年か半年かは長く生きていたのではないだろうか。私は、躊躇することなく、無意識的な人助け行為は断念しなくてはならなかったのだ。そういうことからこんなことを追及する可能性が生じるということに気がついたとき、使われず眠っている種類の小銭だけをポケットにいれた。これは実に簡単で、後に残る影響もなく、とても謙虚なことに思われた。加えて、私はこういう潜在意識、自己中心的な良心の言い訳を防止したかった。結局のところ、私には、他の人がそれによって何かを得るということが重要だった。その男が目を覚まして、タバコの吸い殻はないかとズボンの中をさがしたらフラン紙幣が出てくるところや、白いパンをひとつ買うために、フラン紙幣がなくて困っているところを想像するとき。そのときから私は援助ということをとても真剣に考えるようになったと思う。
 稼ぎ過ぎていると非難されれば、多くの人より余計に働いてもいると反論する。その上、補助金によって助成されているオペラのためにも私のお金を納税者として支出している。同時に、人より多い稼ぎによって他を援助することができるという自覚を持っている。確かにだれもが、私も全く同様だが、常に何かしなければならないと思っているにもかかわらず、何もしない。カンボジアの飢えた子どもたちに関するシュテルン誌の記事には、決定的に触発された。飢餓でお腹の膨らんだ子どもの悲惨な「何かちょうだい」という動作。恐ろしい光景。私は多額のお金を送った。匿名で。こういうことをジャーナリズムに便乗して利用するのは、ご都合主義の道徳観によって.間違った勝負をしているということなのに、それがわかっていながら、また自分自身に都合のいいように解釈しているわけだ。
 ただ単に歌うだけでも非常に強力な支援者になることはきっと可能だろう。その場合、私は自分に対して過剰な社会的倫理観を要求することになるだろうが、これを率直に許容する。全くついでの話だが、こういうことによって、私は多くの人々に、不本意ながら、ひどく恥をかかせることになっているのだろう。だれもがちょっとそういうふうに見ているにちがいない。そういう人たちによれば、私は救済者を気取っているわけだ。司祭でさえ、給料を取って、私的な目的に使っている。経済界のボスたち、サッカー選手、政治家、あるいは映画監督が、最高額を一人占めしているかぎり、オペラの巨額なギャラを不適切と判断する倫理的根拠は全く認められない。要するに私は「危険な」品物は何も売っていない。私はただ単に人々を「オペラという麻薬」により近付けているだけだ。こういう「ちょっとした逃避」を可能にすること、これは合法的ではないのか。
 こういうことは全部置いておくとしても、オペラ歌手として、到達するのがとてつもなく困難な頂点を極めれば一公演につき5桁の金額も正当だと思う。この場合リスクは大きい。なぜなら、いつまでできるかわからないのだ。それに、夢のようなギャラは、異常に長い教育期間の後、新人時代のあとの、数年にわたる骨の折れる厳しい仕事の後ではじめて手に入るのだ。まねしてやってみればいい。そうすれば、高級が支払われる理由がすぐにわかるだろう。
 白状すれば、心の底には、やましい気持ちがある。それを責任感とも呼ぶことができる。これは、私の考えで、望むらくは、正しい政治を推進する、ふさわしい党に投票するというやり方ですでに示している。政治とは、私にとって、共同生活を調整することだ。あるいは、別の言葉で言うと、何もない人とその一方で全てを持つ人がないように配慮することだ。私はモナコへ逃げ出さず、この国に税金を納めるというやり方で責任を果たしている。仲間の多くは違う考えで、この国を立ち去っている。しかし、私はこの国で生活したいと思っている。だが、国を利用し、ただその受益者に徹して、よいところだけを得ることは私にはできない。だから、極端に貧しい国民であるよりは、喜んでより多くの税金を払いたいと思っている。
 非政治的な人間であることを主張するとすれば、それはお笑い草だ。そういう人々は、彼らの小さな庭や財布からなにかを奪われれば、まっ先に過激派になる人たちだ。それから、共同生活のルールである政治は、人間が二人いればすでに始まっているのではないだろうか。実際、朝、誰が一番にバスルームを使うかという問題もすでに政治だ。
 自分の状況に興味があれば、政治的でないということは、全く不可能だ。ただ政党に積極的に参加せずに、できれば連邦議会に届くように具体的に介入する方法が何かあるだろうか。個人主導は効果があがらない。重要な箇所で何か言う前に、あまりにも多くの力を費やしてしまうため、大事なところで、もうエネルギーが続かない。政治家になりたければ、場合によっては、まずはじめに前任者を攻撃して追い払わなければならない。それからどうするか。検閲される。党の要項に忠実でなかったら、災いあれというわけで、あっという間に口を封じられてしまう。自分の責任において何か押し通そうと試みれば、どれだけ多くの人々が彼の背後にいるかということがまず問われる。30? 書類の一番下に議案がある。600万だって?こういう活動は一体何百万人の人間で構成されているのかということは問題にならない。強い印象を与えるのは数字なのだ。
 政治的党派を公表することは、芸術家のやることとしては、連邦共和国では、とにかく奇妙に見られる。観客に即座に烙印を押されて公に非難されてしまう。私たちの民主主義はまだ月の裏側にある。アメリカでは芸術家の政治参加は普通に行われている。

 「ドイツ人の精神は社会的、政治的に実に無関心だ。こういう領域はドイツ人にとって深いところでなじまない」(トーマス・マン)

 私が熱狂できる政党の名前を言うことはできない。緑の党の存在は、すごくいいし、なければならない新しい風だと思う。その政党がやりたいことが理解されないということがわからない。各政党が同じ目標を掲げるのは有効だと思う。それにしても政党が要求できないことなどありはしない。川が再びきれいになること、そして、空気、あるいは、少なくとも汚染の進行が止まること。現状のままひどく汚染されたままなのか、あるいは、十トンのゴミに、五トンのゴミがちょっと付け加わるのではなく、少しずつ汚染がすくなくなっていくのかということ。しかし、こういうことは楽でない。だから、企業家サイドに寄生する政党が、何でもかんでも約束するが、資金を提供してくれる人たちに反抗する行動はめったにしないということは明白だ。私は基本的にこう思っている。全体主義国家にいれば自分の花が奪われても、自分の花のことだけを気にかけて不平を言うことはできない。だから、前もって活動して、再び生死を賭けた戦いが私たちの国で起こるようなことがないよう、徹底的に阻止しようとしなければならない。
 加えて、最も近い過去のせいで私たちが永遠に自分責め続けているのをそのうちにいつかは終らせる必要がある。私もナチス犯罪者が公平に扱われることに賛成だが、しかし、ドイツ人としては、外国にいるときは、黙っていなければならない・・といつも感じている。私はドイツ人であることに誇りを持っている。だが、国家的な考え方を持つということでは全くない。国家社会主義者になることではない。国民感情が生まれるのは至極当たり前のことだ。スポーツの場合のように、ひたすら好ましいことで、国家的に考えることは単純で、素朴なことだ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

写真39−67 [1983年刊伝記]

39) 「声は自然の贈り物だ。しかし、この贈り物は育てなければならない。育成されてはじめて良い状態を保つ」ペーター・ホフマン談、1979年
8339.jpg

40)時間は貴重なもので、いつも足りない。「都市から都市へと駆け巡る」歌手は何週間もの間、電話と飛行機と舞台だけで暮らしていることがしょっちゅうだ。
「新人として大きな役ばかり歌うのは危険だった」
8340.jpg

41)モーツァルト『魔笛』タミーノ、1972/73、リューベック
8341.jpg

42) モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』ネロ、1972/73、リューベック
8342.jpg
十年後、ペーター・ホフマンはリューベック時代の旧知を劇場に訪ねた。新しい守衛が『劇場の恐ろしい門番』として入口に座っていて、「どこへ行きたいのか」と、怒鳴った。ホフマンは食堂に着いて、ため息をついた。「あなた方がまだ私を知っていてよかったよ。そうでなければ、ここではもうだれも私を知らないということなんだ、まったくの新顔というわけなんだ」
43) モーツァルト『イドメネオ』のタイトルロール、1973/74、リューベック
8343.jpg

44) 『こうもり』アルフレート、バーバラ・ノイハウザーと。1973/74、リューベック
8344.jpg

45+46) 「舞台で自分自身と自分の声にあまりにも没入すると、観客がこちらに何を期待しているのかということにもはや気づかない。この能力を利用できれば、自信がない時に少しは役に立つだろう」『ラインの黄金』のローゲ、ドルトムント1975年、ヴォータン:リヒャルト・クロス、フリッカ:リンダ・カレン
8345.jpg

47) 「聞き耳をたてて聞き入るのは、わかりにくいなんてそんなばかなことはない。この世で最も重要なことは、真っ赤な声帯はいらないということだ」ローエングリン、1978年、ハンブルク
8347.jpg

48) パルジファル、1976年、ハンブルク
8348.jpg

49) 「きょうはミラノ、あしたはハンブルク:私のセカンドハウスは旅行かばんの中だ」ベートーベン『フィデリオ』フロレスタン、1980年、ハンブルク
8349.jpg

50) 「オペラを歌うことは、連続的なストレスだ。なぜなら、常に直前の公演のと同じくらい良くて当たり前なのだから」リヒャルト・シュトラウス『ナクソスのアリアドネ』バッカス、1979年、ハンブルク
8350.jpg

51) 「ヘルデンテノールとは、実際何だろうか。劇的な役を歌うテノールだろうか。全てのフレーズを弱音で歌ったら、もうヘルデンテノールではないのだろうか。なんだかロマンチックにきこえる伝統的な名称だが、ヒロイズムとはほとんど関係がない」リヒャルト・ワーグナー『ワルキューレ』ジークムント、1976年、パリ
8351.jpg

52) 「ワーグナーのアリアもリリックな声で弱音で際立たせることができる。とにかく、目下のところは、強く練習している」ローエングリン、1982年、パリ
8352.jpg

53) ジャン・ピエール・ポネル演出の『ワルキューレ』でジークムント役のペーター・ホフマン、1978年、シュツットガルト
8353.jpg

54  55  56) ジャン・ピエール・ポネル演出の『ワルキューレ』第1幕、1978年、シュツットガルト、ジャニーヌ・アルトマイヤーと
8354.jpg 8355.jpg 8356.jpg

57) ジャン・ピエール・ポネル演出の『ワルキューレ』第2幕、1978年、シュツットガルト、ブリュンヒルデ役のカタリーナ・リゲンツァと
8357.jpg

58  59) ヘルベルト・フォン・カラヤンの下で、1980年、ザルツブルク復活祭音楽祭でパルジファルを歌った。リハーサルが録音された。
8358.jpg 8359.jpg

60) 「舞台では公演の日に自分の能力の頂点にいなければならない。公演は先に延ばせない」(1980年、ザルツブルク復活祭音楽祭、パルジファル)
8360.jpg

61 62) 1980年、ザルツブルク復活祭音楽祭、パルジファル、第2幕と第3幕、クンドリーは、ドーニャ・ヴェイソヴィッチ
8361.jpg 8362.jpg

63)「カラヤンは、私にとって、最高に偉大だ。ベルリンで『パルジファル』を録音した数週間のことは、今も忘れられない。カラヤンがいかに音楽を知っているか、いかにそれを伝える力があるか、こういうことを描写するのは困難だ。詩人じゃなければならないだろう。あるいは、『パルジファル』の中に『それは簡単には言えない』とあるようなものだ」『パルジファル』のレコード録音で、カラヤンとホフマン
8363.jpg
 
64 65  66) ヴェネチアでリヒャルト・ワーグナー没後百年に上演された『パルジファル』2幕、花の乙女たちの場面その他、1983年、ヴェネチア、クンドリはゲイル・ギルモア
8364.jpg 8365.jpg 8366.jpg

67) 「音を正確に出すことが芸術だとは思わない。そうではなくて、それは声によって、大袈裟な舞台演劇的わざとらしさを廃して、感情を表現するための前提条件である」1983年、ヴェネチア、『パルジファル』3幕
8367.jpg


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ: