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ただ単に•••6 [1983年刊伝記]

私たちは何でできているのか

 「歌うことはお仕事ではなく、全身全霊をあげて関わる課題である。生活と舞台は分離できない。なぜなら、感じているようにしか、歌えないのだから」(デボラ・サッソン)

 人生とは、ほんとうのところ何だろうか。幸せは自らの手でつくるものだと言われる。だが、一体だれがこれを実現できるのか。加えて運の悪いことに、外からの暴力に遭遇したらどうなるというのか。すぐに、『偉大な兄弟』によって正しい道を選んだチェコスロヴァキアのことが思い浮かぶ。暴力装置は全世界の至る所で機能している。人間は、同じ物から創られたのに、何故、他の人間を死ぬほど苦しめ抜くのか。納得できる答えは得られない。ただ、こういう個々の事柄に基づいて、全人類を判断するのは正しくないだろう。簡単に言えばこういうことだと思う。どうやら私たちは内に極限を究めようとする欲求を抱えているらしい。それで、私たちは、とにかく、こういう奇妙な物からできているものだから、もの凄く残酷な行為だろうが、最高の愛の行為だろうが、どんなことでもやり兼ねないのだ。こういった矛盾した能力のせいで、人間は、自ら意図することなく、めちゃくちゃになってしまうのだ。

 「生命は緊張から生じて、消滅に至る。この予感こそが、無常賛美をめぐる知識賛美なのだ」(ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク)

 その上、だれもがごく短期間のうちに感じる劣等感。それ故、私としてはこの世の存在が全てだとは思えない。神とか世界とかについてはだれしもあまり話をしないのは仕方がない。ただ時々、飲み屋で、へべれけに酔っぱらった頭で、時折大変なことが明らかになったりするだけだ。心も舌も弛んでいると、ものすごく頑張って、何が何でも何か賢明なことを吐き出そうとしているときより、だれもが核心をより的確にとらえる。
 しかし、こういう話題にしばしば含まれる気まずさは、ロックミュージックの中と同じくらい、オペラの中にも、音楽の中にも、網をはっている。音楽は多くのものを受け止める丈夫な繊維なのだ。
 以前に一度歌を書きはじめたことがある。まだ思い出せるかどうか、わからない。基本的な考えは、全面戦争の後はただ神と悪魔だけで、人間はもはや生きていないということだった。神と悪魔は、楽しくおしゃべりしている。私は歌詞を思い通りに完成することができなかった。というのは、一行ごとに、難しくなるということに気がついたからだ。神は、宇宙まで届いた何百万もの叫び声に耳を傾けなかったではないか、そして、何故その愛によって何もしなかったのかと、まずはじめに悪魔が神を非難する。代わりに彼の手下、大砲と武器を祝福したではないか。悪魔は私たち人類の歴史を述べる。神はこれに対してどう答えるのかが、問題だった。私は何も思いつかなかった。私が書き留めている告発を、神学者はもちろん論破できるだろう。それでも、苦心惨憺した跡は残っている。結構なことだが、彼らによれば、いずれにせよ、2000年のうちに全ては過ぎ去り、人類の試練の時は終りを迎え、その後には、聖人たちが現れる。世界が滅亡するということは、私にははっきりしている。なぜかというと、世界は容易に滅びるものだからということではなくて、だれかさんが冷静さを失っているからだ。過剰殺戮・・・地球はすぐには砕けはしないが、人類は一掃されるだろう。
 神が人間のことを全く気にかけないなら、その存在理由はない。そんなのは、偶像とどこが違うというのか。神は悪魔をあざける。「人間たちと共に下界にいるお前に、私は全く興味がない。お前たちがいかに途方もなく偉そうにしても、お前たちは私にとって、一瞬のうちのほんの一瞬でしかないとは、お前たちは夢にも思わないに違いない」あるいは、こうだ。「お前たちは今では要するに流行らないのだ、だから、今は私が、お前たちがまったくやる気のない、物事の面倒をみないわけにはいかないのだ。」しかし、こういうのはどれもなんだかおとぎ話をしてくれるおじさんのお話みたいだ。答えのない告発は相当に難しい。その上、純粋に技術的なことだが、悪魔は、某ひげずらのやたらに賢い男より、美しく歌われる可能性がある。
 それでは、シンガーソングライターは何を伝えることができるというのか。だが、ウード・リンデンベルクのことを思えば・・・ 耳を傾けてよく聞く人たちは、彼は正しいと言う。それは歌だから、確かにみんなほくそ笑んでいる。しかし、政治家が演台から同じことを告げたら、残念ながらだれもそんなことはしないが、人々は物凄く憤慨することだろう。
 私が自分自身作曲して、歌詞を書くときには、まず第一にそれを聞くことになる人達のことを考えたりはしない。だが、すでに書かれている大量のポップソングの場合、市場調査をしないわけにはいかない。そうでなければ、何か価値のあるものに出会って、物凄く幸福を感じたことはまだ一度もないという悲惨なことになり兼ねない。それでも、それはすでにもう四回も焼き直されているかもしれない。だから、市場に何を提供するかということを考えなければならない。私は自分の音楽的方向を、ひとつだけの理由で選択してはいない。なぜなら、自分の音楽傾向によって自分を表現できるからだ。たとえ、すでに使われたテーマを扱っても、もっとよくすることができれば、それもいい。それは別の聴き手を対象にしている。しかし、オペラから例をあげるならば、「ローエングリン」、あるいは「トリスタン」、あるいは「オテロ」も、別の音楽の方向へということもありうるだろう。しかし、オペラの創られ方と、これまで相当頻繁に聴いているせいで、もはや違う表現はできない。だから、私もポップミュージックとロックミュージックをするわけだ。従って、何か全く新しい物を作曲するほうがずっといい。なぜなら、いつも比較されるからだ。単純な歌の数々、非常に簡単なポップソング、テーマはまったく日常的だが、だからといって必ずしも陳腐ではないのに、新しいバージョンによって、いかにしてより一層の飛躍を遂げるべきだろうか。
 とりわけ、私が自由に使える、限られた時間の中で。

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