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論評集-5 [1983年刊伝記]

バイロイトのローエングリンの年 1979年
8385.jpg ペーター・ホフマンは、バイロイトの初ローエングリンを、ゲッツ・フリードリヒの演出で、1979年に歌っている。舞台装置は再びギュンター・エッカーが担当し、それは、すでにシュツットガルトでの「パルジファル」でもそうだったように、陰鬱で厳格なものだった。マスコミは「バイロイトのローエングリン全歌手の中で最も若い歌手」を歓呼して迎え、テレビ局は、1983年のワーグナー没後百年記念に放映するために、三年後この演出を録画している。1983年4月、ペーター・ホフマンはこの役に対して「バンビ」を受賞している。
 ペーター・ホフマンはその外見と強力な声によってローエングリンの『歌役者』にまさに運命づけられているのだということが、この夏の批評から感じ取れる。
 
 「ペーター・ホフマンの騎士はまさに声楽的に最高に規律正しく洗練された印象を与える。スリムだが、貧弱な声ではない」(ハンス・クラウス・ユングハインリッヒ、フランクフルト・ルントシャウ)
 
ph_loh82.jpg 「バイロイトのヘルデンテノールになった、ヘッセン州の十種競技チャンピオン、ペーター・ホフマンは、がっしりして、背が高く、金髪の魅力的な、絵本から抜け出たようなローエングリンだ。その上、その声がたとえ叙情的気高さを欠いているとしても、歌もまさに模範的と言っていいほどである。柔らかく表情豊かな歌い方の聖杯物語が、それでも、全く傷がなく、整然と、うまくいったのは、全く驚くべきことだった。ひとりの年配の婦人が花束を投げた」(ラインハルト・ボイト、世界紙 Die Welt)

8375.jpg 「演出家は、題名役をできる限り自由にさせた。ペーター・ホフマンは崇高な眼差しをして、恐るべき難役を、たとえ音程が正確でないことが時にあったとしても、ほとんどやすやすと歌った『ように思われた』。新婚の部屋で、ローエングリンはついに『奇跡』から解放されたような気分になっていた。『奇跡』などというものは、現代的な格式張らない人間であるホフマンにとっては、面倒以外の何ものでもないのだから」(E.リンダーマイヤー テ ー・ツェット・ミュンヘン )
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 「ペーター・ホフマンは、若い、非常に共感できる、その上、『極めて人間的な』ローエングリンである。その声は、必要な力を備えており、音色は成熟しており、高音は生き生きとして充実している。まだ欠けているのは、さらに一層の華やかさのようなもの、王子らしい素直な輝かしさと、そのために、さらに繊細な陰影をつけることだ」(ルドルフ・ジェックル、新フランクフルト新聞)

 「ペーター・ホフマンがローエングリンとして、熱狂的に迎えられたのはもっともだ。声のコンディションはまばゆいばかりにすばらしかった。極めて自然で、現世的な印象を与える、非常に若い聖杯騎士。例えば、聖杯物語では、神秘的な忘我の境地では全くなく、そのために何か高貴に歌い上げるという感じは全くない」(ディートマール ポラチェク、フランクフルト・アルゲマイン新聞)

 「バイロイトの全ローエングリンの中で最も若い、ペーター・ホフマンは、その骨の折れる難役で、ほとんど苦労しているようには聞こえない。彼の相当暗いテノールの声は、もっと低いジークムントの音域のほうがより心地よく感じられるだろうと予想されていたにもかかわらず、である」(ミヒャエル・ミューラー、ミュンヘン・メルクーア)

 「バイロイトのジークムンドのペーター・ホフマンのテノールの声は、次第にバリトンのような危うい色合いになっており、あまりにも低い歌唱と格闘しなくてはならなかったので、高音はやすやすと音を出すというわけにはいかなかったから、彼のローエングリンは、その最良の状態を聴けるものではなかったし、その上、才能豊かな俳優である彼が、その聖杯物語を内面的心の動きもなく、どうということなく平凡に歌ってきかせた、などということはもちろんなかった」(ヴォルフガング・シュライバー、南ドイツ新聞)

 「ローエングリンのペーター・ホフマンは、絵本から抜け出たような英雄だ。非常に美しく、その上金髪だから、彼は間違いなくいつだって女性たちの拍手喝采の的になり得る。彼はすばらしく歌ったが、しかし、声をうまくコントロールしているという感じではなかったし、演出がこの人物に関して考えていたことの全てを演技者として実行に移してはいなかった。驚きからこの世界でよそよそしい態度をとる、神によって遣わされた者という側面は、聖杯の外面的な輝きによって彼に与えられたもの(だが、そこでは、だれもが相当うぬぼれが強そうだ)を除けば、彼からは感じ取れない」(ワルター・ブロンネンマイヤー、ニュルンベルク新聞)

 「ホフマンは、童貞の独特の雰囲気、若者らしい親密さと、それにもかかわらず、非常に落ち着いた男らしさを、舞台上で納得させた。彼の非常にスリムなテノールは、確かに危うさがまったくないというわけではないが、叙情的な優美さに満ちている。聖杯物語とその後のところでは、疲労と無理なごり押しが聴こえる瞬間があった」(エリック・ラッペル、北バイエルン・クリーア、バイロイト)

 「ペーター・ホフマンがローエングリン役だが、彼もまた、目下のところ、この役にふさわしい輝かしい叙情的な声質には恵まれていない。だが、非常に意外なことに、聖杯物語を極めて軽く、しなやかにやり遂げている」(リヒャルト・バーンスタイン、ライン・メルクーア)

   「1976年にジークムントとしてバイロイトに突如出現したペーター・ホフマンは、ローエングリンとして、演技的にも声的にも、僥倖である」(夕刊、ミュンヘン)

8384.jpg 「ペーター・ホフマンは落ち着いた、自身に満ちた声で、周知の騎士を歌いはじめた」(ギュンター・エンゲルハルト、ドイツ新聞、ボン)

 「・・・ローエングリン役とその機能はペーター・ホフマンにぴったりである。この役を、ペーター・ホフマンは、無心の純粋な美の、あの非の打ちどころのない美しさで歌い、演じた」(ペトラ・キップホフ、Die Zeit)

 「プレミエの論評と、私の聴覚的印象を比較すると、ここで批評されている上演にとって、おそらく全ての歌手が、何倍も改善した状態でなければならない。というのはペーター・ホフマンは声に関して困難がないばかりか、この役を終わりまで完全に自信をもって悠然と具現化することができたからだ。バイロイトと我々にとってホフマンの存在は喜ばしいことである」(オペラとコンサート 1979年10月号)

8386.jpg 「題名の英雄役、ペーター・ホフマンが演じたのは、従来通りの天から遣わされた奇跡の人ではなく、男性的な大天使ミカエルだった。彼は、『異質』の人間であるエルザが驚きながら手で触って調べるに任せたあと、彼女ために喜んで戦うだけでなく、彼女を愛して、彼女と結婚して留まろうとするのだ。あっと驚く役づくりということだ。叙情的であると同時に劇的な瞬間のために、スリムで強靱な声を駆使することが、歌手にゆだねられ、彼は、巧みなテクニックに支えられて、説得力をもって演じきったが、それにつけても、プレミエでの多くの批評が、『危険なバリトンの音色』を非難した理由がいまもって不可解である。バリトンの音色こそが、結局のところワーグナー・テノールには、ふさわしいだけでなく、この役においては、ワーグナー・テノールを、危険な無菌状態からまさに解放するのである」(オルフェウス 1979年10月号)
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論評集-4 [1983年刊伝記]

強制休暇のあと・・・
 ・・・も、シェローのジークムントに対する熱狂の嵐はやまない。
 「ほとんどヒステリー状態にまで高まった、この大喝采を受けたのはペーター・ホフマンだった。これは決して不当ではない。同じように感動的で夢中にさせるジークムントに出くわすためには、バイロイト音楽祭の歴史をおそらくはるかにさかのぼらなければならない。このジークムントは、演出家の配役実行のおかげで、ホフマンによって、血と肉から成る現実の、まさに映画的な、人を魅了する身体、死の場面で俳優の究極的可能性を発揮させた身体を得たのだった」(オルフェウス 1978年10月号)

8383.jpg 「ホフマンのジークムントは、これまでに見ることが出来たワーグナーの舞台で、最高にすばらしいもののひとつだ。愛の場面を演じるジークムントとジークリンデの自然さは、彼らのロマンチックな雰囲気を高めている。頭韻詩は自然な表現手段になっている。つまり、ひとつひとつの言葉が重要な意味を持つようになり、長く抑圧されてきたあらゆる感情が、言葉と音によって突然あらわになり、ついには情熱的な愛へと高揚する。第一幕は観客の叫び声のうちに終了した。ブリュンヒルデが死を告げに彼の前に現れるとき、このジークムントは、なんと男らしく、抑制が効いていることかと、だれもが唖然とした。そして、その後に、その場にいた人なら、誰一人決して忘れることはないであろう、短いけれども精神が集中する場面になる。すなわち、死の場面だ」(Der Merker 1979年 8月号)
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論評集-3 [1983年刊伝記]

息をのむほどの掘り出し物:1976年 ジークムント
  1976年バイロイトの夏が迫っていた。そして、それは若い歌手にとっては大事件になった。1976年のバイロイト百年記念音楽祭に際して、彼はパトリス・シェローの百年記念『リング』のジークムントとして、そしてまた、パルジファルとして、マスコミと観客に歓呼して迎えられた。かつてこの緑の丘で、新人がこのような歓迎を受けることはなんとも珍しいことだっだ。(世界 die Welt 誌) そして、およそ評論家という評論家が、彼を唯一無二の掘り出し物として賞賛した。1976年バイロイトの夏のドイツ連邦共和国のマスコミは、なんとも珍しいことに、彼については意見が一致していた。

 「・・・そして、我々は圧倒的に同意してそれを受け入れる。なぜなら、若く、美しいジークムントのペーター・ホフマンは、第一幕ではかなりおぼつかない発声(初日の気後れか?)だったものの、その後は、格段に改善され、一段と説得力あふれ、輝かしく、力強かったからだ」(南ドイツ新聞)

 「歌手の水準に関しては、何も言うことはない。『ワルキューレ』の最もうれしい驚きは、31歳の若手テノール、ジークムントのペーター・ホフマンだった。すばらしい外見が、大きく豊かなテノールの声と緊密に結びついている・・・ ヴェルゼへの呼び掛けが上昇していく様は、あたかもホフマンは苦もなく5度上の音でも歌えるかのようだった。水準を同じ高さに保つためには、いっそうの声の節約管理を要するだろうということはその後の経過の中で明らかになったにすぎない。バイロイトにとって新たな劇場付きのテノールがここに確保できたと言えよう」(ニュルンベルク新聞)

 「ジークリンデのハネローレ・ボーデとジークムントのバイロイトの新人、ペーター・ホフマンが、感動的な激しさのウェルズング・ペアを演じている。ホフマンの、大きく、バリトン的で、土台がしっかりした、輝かしく、強靱で力強い、テノールは、アンサンブルにとって、まさに掘り出し物である」(北バイエルン・クリーア バイロイト)
 「演出家に加えて、彼と同い年、31歳のテノール、ペーター・ホフマンが、かたくなに強情を張る若い反逆者としてのジークムント役で息をのむようなバイロイト・デビューをしている」(ドイツ通信社 dpa)
 「非常に若い、挑発的で軽率で熱しやすいジークムントとジークリンデは反対の性格だ。(ペーター・ホフマンは、そのそれ自体バリトン的だがよく補強されたテノールをさえ、非常に慎重さを欠いた扱いをしている。愛の二重唱で、その将来が不安になるほどに、絶頂に達している)」(tz ミュンヘン)

 「比類ないハネローレ・ボーデ8380.jpg、そして、とりわけ、新たなジークムント、ペーター・ホフマンは納得できた。まばゆいばかりにみえる若い男性の中に、暗い音色の金属的な重量級の声の、知的な演奏振りと強烈な存在感を放つ、真のワーグナー・テノールを見いだした。ホフマンはまさにこの公演の掘り出し物だった。だれもがついに再び若い英雄を目の当たりにしている。そして、それは単なる英雄の代用品ではないのだ」(ウィーン・クリーエ)

 「ペーター・ホフマン、若いドイツ人歌手、真のヘルデンテノールとしての百年記念音楽祭の掘り出し物は、暗い音色、極めて充実し、安定した中音域を備えた非常に理想的なジークムントである。今後さらに響きを洗練し、伸ばすべき自然の声だ」(北バイエルン・ニュース)

 「ジークムントとしてペーター・ホフマンのデビューを体験して、なんという陶酔感を味わっていることか。すらりとした若者、オペラ界のジェームズ・ディーン、彼こそは、極めて入念に訓練された声帯によって八十年代のジークフリートになり得る」(夕刊)

 「この掘り出し物は、ペーター・ホフマンといい、まだ32歳になったばかりだ。その嵐のように激しく、若々しい柔軟性、そのバリトン的色彩に彩られた声の力、そして、その演劇的存在感は、ジークムント役に新たな興味と関心を喚起させた。この深い感銘を与える歌役者は観客の熱狂的な賞賛を受けた」(ハノーヴァー・アルゲマイン紙)

 「このプレミエは、デビューした新しい若いテノール、ペーター・ホフマンにとって、大勝利となった。熟練の極みの完全無欠ではなく、感情を込めて歌われた新鮮なジークムントに、この公演の最長の拍手喝采が与えられた」(シュツットガルト新聞)  「とりわけ、ジークリンデとジークムントの、ハネローレ・ボーデと32歳のバイロイトの新人、ペーター・ホフマンが熱狂的に迎えられた。少年のような輝きと完全に自由な情熱を持つ人間的な英雄」(新フランクフルト新聞)

 ここに引用した抜粋はたまたま目について集めたものであるが、1976年に、いかに論争のない熱狂的な声が評論界全体に渡って、鳴り響いていたかということを証明している。更に、外国のマスコミでも同時に同様な歓声が聞かれる。
 この成功の波によって、新聞・雑誌界は、このテノールの私生活に対する興味をも持つようになる。観客は、このホフマンとは実際のところどんな人なのか知りたがる。インタビューはまずは捕らえどころのない玉虫色の結果をもたらし、大衆紙の市場は急速な出世という事実に注目をあつめるセンセーショナルな出来事のにおいをかぎつける。
 例えば、「世界」の記事。すでに最初の行が、俗受けする見出しで、大上段に構えている。「すらりとした、金髪碧眼の、ペーター・ホフマンは、観客を魅了した。かつてパルジファルは十種競技におけるヘッセン州記録保持者だった」という具合だ。インタビューアーは、オペラでにしろ、自宅でにしろ、舞台裏で起こっていることを知りたがる。そして、はじめから、だれもが「これこそホフマン」と呼べる、つくろわないありのままの答えを手に入れる。すなわち、次のような記事がそれだ。「復活祭の月曜日にハンブルクで普段通りの高性能を維持できず、二幕は最高ではなかったことをホフマンは自覚している。彼はこう言った。<言い訳をするつもりはありませんが、一幕の後、ひどく空腹だったので、しこたま食べたところ、今度は物凄い腹痛に襲われたのです> パルジファルも、みなさんや私と同じ人間なのだ」(世界 Die Welt 1976年4月21日付け)

 世間は声だけでなく、もっと多くの事を知りたがる。軍隊時代、十種競技、ロックミュージック、妻のアンネカトリン、至る所で「すでに」と強調されているこの時には「すでに」十歳と十二歳だった二人の息子、等々が浮かび上がる。
 「はじめはジャズ・シンガー兼ギタリストだったワーグナー・テノールや、勉強資金を得るために、国防軍で七年間、落下傘部隊員兼十種競技選手として、頑張り抜いたワーグナー・テノールは、恐らく未だかつていなかっただろう」(同、世界 Die Welt)   ホフマンは、自分の声に関しては、金もうけの種にさせないという立場を守っている。

 「今や世界中がこの『重い』テノールの声域を持つ陸上競技選手を争って手に入れようとしている。劇場総監督たちは、仕事の申し出に際しては、トリスタンだろうが、タンホイザーだろうが、ひるみはしない。しかし、ペーター・ホフマンはスポーツの場合と同じように、そこで、自制する。<私は自分を酷使して消耗させることはしない> 彼は、ジークムント、パルジファル、ローゲ(彼の一番最近のウィーンで大成功の役)で<満足>している」(同上)
 だが、ペーター・ホフマンは気がついている。彼は言う、「良い成果をあげることだけでは充分ではないのです。どこへ行っても注目を集めるものとして売られ、世界的スター並みの存在でなくてはならないのです」(同上)

 「今やスポーツをする時間も本を読む時間もないということは、突然の名声や度を越した要求ほどには、彼の気を滅入らせてはいない」とレポーターは思っている。

 ホフマンの最初のバイロイト年は、もちろんワーグナー年だったのだが、それでも、バイロイトでの夏の後は、再び、モーツァルトがプログラムに載った。「悪い蛇がなかなか現れないので、タミーノが死にもの狂いで助けを呼んでいる理由が初めはわからないが、そのあと、三人の婦人が悠々と怪物を片付ける。この際、ペーター・ホフマンはそのことについて責任がない。こういう古色蒼然の『魔笛』では、すでにずいぶん長い間、演出はもはや行われていないので、だれもが自分でとにかくなんとかするしかない。ペーター・ホフマンはこれをその生来の演技力と少年のような魅力でやり遂げる。そして、一幕のフィナーレで、動きの重い宮廷歌手ではなく、モーツァルトを貫く愛のモチーフによって互いに引かれ合う美しい若い二人(パミーナのノルマ・シャープと)を見るのは、オペラではめったにない一服の清涼剤であるのは間違いのないところだ」(1976年11月15日付け シュツットガルト・ニュース)

 シュツットガルトのヘルデンテノールは、モーツァルト歌手としても賞賛されている。「彼は、そこでは、ヴォルフガング・ヴィントガッセンの後継者でもある。ヴィントガッセンはすでに非常に有名なトリスタンやジークフリートだった頃、少なくとも最初に、タミーノで、彼の喉が充分な柔軟性を保っているかどうかを検証していた。ペーター・ホフマンもそうなのだ・・・ モーツァルト歌手としても、ホフマンは精神的表現と身体的表現の一致と調和で人を魅了する。そして、もうひとつ、彼がやはりヴィントガッセンの足跡を追っていることがある。つまり、いつか喜劇的な役で、彼を見、聴くことができたら、どんなにすばらしいだろうということだ。ひょっとしたら、こういう配役の回り道は、やはりまた『こうもり』の舞台で、起こるのではないだろうか」(同上)

 パリでの二つのインタビューは、歌手自身が、その成功、シェローの演出、自分の職業などについてどう思っているかを明らかにしている。
 1975年にすでに、ルーアンでのジークムントとしての客演後、ある評論家はもうだいぶ前から各音符、各音節を、同程度以上の強度で、やり遂げる歌手を聴いたことがないとオーロラ誌に書いた。パリでのジークムント・デビューの前、1976年12月に、この新聞が彼にインタビューした。歌手は他のテノール声との関わりを説明した。
 「私の声はルートヴィッヒ・ズートハウスの声に少し似ていると言われます。でも、他の声と比較したいとは思わないし、ましてや、だれかの声をまねしたいとは思いません。ある役を勉強するときには、ワーグナーのレコードは聴きません。けれど、私が好きな声は、暗い声です。私にとって、明るいテノール声はそれ自体何かあまりにも女性的すぎるものがあります」
 ペーター・ホフマンは、フランスの雑誌、リリカで、ジークムント役について語った。シェローのコンセプトに同意するかどうかという質問に対して、非常に同感であると答えた。

8378.jpg 「シェローによって、私がこれまでに演じてきたジークムントのうちで、最高のジークムントを演じることが出来ました。『ワルキューレ』は、バイロイト以前にもう40回も歌っていたのです。でも、あのときは、すべてが違っていました。衣装からして初めてでした。ジークムントの死の残酷さを測り知れないほど効果的なものにするには、彼をできるだけ感じ良く見せるべきだというシェローの考えは、完全に成功しました。フンディングが私を武器で傷つけた瞬間、人々が叫び声を上げたのが聞こえました」  1977年、ミュンヘンで、彼はウィーンでのローゲの成功を繰り返した。「ペーター・ホフマンは最高のすばらしい成果をあげた。彼のローゲは、ヴォータンの宮廷の、皮肉でよそよそしいアウトサイダー、道化である。注目すべき役者としての才能に加えて、この若い歌手は、高音では輝かしい響きを持つ暗い音色の力強い声という、極上のヘルデンテノールの素質を備えている。最良の昔ながらの指導による、彼のレガートでなめらかに歌う技術は感嘆すべきだ」(1977年1月6日付け ミュンヘン・メルクーア)

 1977年はペーター・ホフマンにとって、歌手としては短い年になった。だが、彼のオートバイによる大事故はセンセーションを熱望する人々を勢いづけた。負傷、手術、事故の経緯などは驚くほど変化に富んだ伝えられ方をした。今度は、人の心を引き付ける魅力的な悲劇性がテノールを包むことになる。ペーター・ホフマンは、翌1978年に、タミーノ、マックス、パルジファル、ローエングリン、そしてジークムントとして舞台に復帰しているが、彼は、「なお一層の仕事への愛着」を持って戻ることを宣言し、ヴォーグ誌のロンドン版で、「ドイツ最愛のヘルデンテノール」と呼ばれているが、これによって、ホフマンのイメージははっきりとした形をとりはじめる。そして、それは、白い絹のマフラーをして、いつも軽く咳払いしている、そして、どんなものであれ別の音楽には目もくれないオペラ歌手のイメージではないという点においてのみということなら、全く正しい。

 「彼の予定表が推測させるほどに、また、彼に熱烈なラブレターを書く各年齢層の婦人たちが思っているほどには、ホフマンは個人的に、徹頭徹尾オペラに捕われているわけでは決してない。彼は、<私としては、『ノルマ』のような、古色蒼然とした大舞台より、ウード・リンデンベルクのコンサートへ行くほうが好きです>と、正直に告白している。彼はオットーとウードに魅了されており、<ウードは創造的です。私たちは彼を追いかけて創作するだけです> と語る。しかし、ハンブルクの『こうもり』の新演出初日後、『燕尾服を着込んだ』オペラに関して、このパニック・ロッカーがある娯楽雑誌で発言したことに、ペーター・ホフマンは同意しない。ウード・リンデンベルクは、自分のコラムで、今どき、だれもオペラの登場人物に惚れたりしないだろうと気の毒がった。ペーター・ホフマンに言わせれば、<ウードは、『こうもり』の三幕のうち一幕ではなくて、さっさと二幕に行ったらいいと思う。そうすれば、オルロフスキーに惚れ込んでしまったはずだから>ということだ。ペーター・ホフマンは、オルロフスキーを食事をしないで待たせるなどということをしないために、急いでいるわけだが、それはひとえにこういった愛のせいなのだ」(1978年6月16日付け 世界 Die Welt)

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論評集-2 [1983年刊伝記]

「連邦パルジファル」
 パルジファル、「連邦パルジファル」、彼のことを、同僚がふざけてこう呼び、そしてすぐにマスコミもまたこう呼んだ通りだった。彼は、六週間の間に、三つの「パルジファル」新演出初日をやり遂げた。ヴッパータール、ハンブルク、そしてシュツットガルト。続いて、バイロイトで「パルジファル」を五回。1976年は、彼にとって、飛躍の年になった。シェローのジークムント、ウィーンのローゲの大成功、カバンの中には、所属劇場シュツットガルトのローエングリン出演契約。「パルジファルとして三つの新演出初日、これは、ただ単に異なるオペラハウスへの三回の出演というだけではなく、様式の異なる三つのリハーサル過程を、歌手は引き受けなければならないということだ。三人の異なる演出家、三つのコンセプト、三度の新たな共演者とその他諸々の状況等々、これをどうやって処理するのか。ペーター・ホフマンとしては、無責任な答えは憚られるところだ。だが、彼が、異なる演出を識別する本質的な特徴を概観的に述べるとき、彼にとって劇場の仕事とは、演出指示にただ従うことでもなく、それを丸暗記することでもないということ、シュツットガルトとハンブルクの違いは単に異なる登場と退場という問題ではないということがわかる。<今、パルジファル役で、三回、舞台にかかわっていますが、三つの演出うちのどれかが私には易しいなどという根拠は見当たらない> ということだ。専門誌『オルフェウス』は、昨年、ペーター・ホフマンに、『若手として最高の業績のある者』という評価を与え、『ほとんど空席状態のワーグナー・テノールの専門領域を担う運命』をあてがうことを正当化した。こういう予言を成就するのは、困難な道ではあっても、ペーター・ホフマンはとるべき道を間違っていないと思う」(ルドルフ・スパーリング、1976年4月20日付けヴッパータール舞台新聞)

 「それはペーター・ホフマンの、全く初めてのパルジファルだった。まさに唖然とするほどに迫ってくる充実感」と、シュツットガルトのゲッツ・フリードリヒ演出について、クルト・ホノルカは書いた。「ホフマンはゲッツ・フリードリヒの演出概念を間違いなく満たしており、演出に合わせた動きと高い集中度は、先輩をしのいでいた。(ハンブルグで同時に全く別の演出のパルジファルを演じたホフマンは、フリードリヒとは少ししか練習できなかっただけになおさら驚かされる。このことは彼の役者としての天分を明らかに証明している)彼は目に見える、正真正銘の若々しいパルジファルだ。その衝動的な、それにもかかわらず、コントロールされていないのではない、とっさの動きにも説得力があった。そのうえ、歌もまた、若さにあふれ、習熟されたものだった。その声は、まだ完成の域には達していないものの、今日すでに、まれにみる暗く低く柔らかい、ワーグナー・テノールへと運命づける響きにおいて傑出している。ホフマンはシルヴィオ・バルヴィーゾにも間違いなく感謝してよいところだ。彼は、最高の専門家たちの中、バルヴィーゾの下で大切に扱われた。聡明な音楽家はそれ程多くのリハーサルをせずともとにかく理解し合えるものだ」(1976年3月16日付け、シュツットガルト・ニュース)

 ハンブルクでは、新演出初日(プレミエ)の後、次のように書かれている。「ペーター・ホフマンのパルジファル・デビューは、興奮でわくわくさせられた。ジークフリートのような体型、丈の短い革のシャツを着て、素足、すらりとしていて、金髪、スポーツマンらしく柔軟な動き。彼の少年らしい素朴さ、知的な反応力と心を奪う輝きは、まさに、だれもがこの役に対して夢見るタイプだ。叙情的な色合いを持つ暗いテノールの音色は申し分のない輝きがあるが、声のバランスに関しては、まだ難しさが存在する。ペーター・ホフマン自身が、まだどれ程多くを学ばなければならないかということを一番良く知っている。しかし、彼のワーグナー・テノールとしてこわいもの知らずのキャリアはもはや止められない。大オペラ劇場が31歳の歌手を争って手に入れようとしている。来シーズンは、パリ、ロンドン、サンフランシスコ、夏はバイロイトに客演することになっている。他の人が十年かけてやり遂げることを、彼は一年半で実現してしまった。そして、荷が重すぎると感じれば、何度でも否と言うだけの賢明さを充分に備えている」(1976年4月20日付け、ハンブルクの夕刊)写真の頁から
•ヘルベルト・フォン・カラヤンの下で、1980年、ザルツブルク復活
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•「舞台では公演の日に自分の能力の頂点にいなければならない。公演は先に延ばせない」(1980年、ザルツブルク復活祭音楽祭、パルジファル)
•1980年、ザルツブルク復活祭音楽祭、パルジファル、第2幕と第3幕、クンドリーは、ドーニャ・ヴェイソヴィッチ
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•「カラヤンは、私にとって、最高に偉大だ。ベルリンで『パルジファル』を録音した数週間のことは、今も忘れられない。カラヤンがいかに音楽を知っているか、いかにそれを伝える力があるか、こういうことを描写するのは困難だ。詩人じゃなければならないだろう。あるいは、『パルジファル』の中に『それは簡単には言えない』とあるようなものだ」『パルジファル』のレコード録音で、カラヤンとホフマン
•ペーター・ホフマンにアドバイスするカラヤン ~「これだけは見ておきたいオペラ」 新潮社
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論評集-1 [1983年刊伝記]

論評集
ある歌手のキャリアにおける諸段階
ペーター・ホフマンという名の新人
8341.jpg ペーター・ホフマンの舞台歴は、1972年、リューベックの「魔笛」でのタミーノではじまっている。この北ドイツでの2シーズンのあと、ヴッパータールで2年契約を結んだ。1974年に、ここで、初めてワーグナーを、彼を有名にすることになる役、「ワルキューレ」のジークムントを初めて歌っている。彼は注目され、『若い芸術家に対するノーザン・ウェストファーレン州奨励賞』を与えられている。「ペーター・ホフマンはすばらしい才能をもったヘルデン・テノール、そして、このめったにない声域の素質がある。みごとな発声技術が完璧にマスターされた役と結合し、歌唱的にも、演劇的にも、同じように 深い感銘を与える芸術的な表現を実現している。現在の業績は、芸術家としてのホフマン氏の成功ととりわけその声域における成長につながることに大きな期待がもたれることを証明している」 審査委員会の認定理由にはこのように書かれている。彼らははるかに先を見通していた。
 ジークムントとしてのペーター・ホフマンを、批評は歓呼してむかえた。「ワーグナー・テノール、ヴォルフガン・ヴィントガッセンの死の知らせの後、ヴィントガッセンの後継者たりうる者を観客は大喝采で賞賛した。ペーター・ホフマンという名の新人がヴッパータールでジークムントとしてみごとに受け入れられたのだ。上演予定案内には、まだ28歳のリリック・テノールが載っていた。だが、その声は、たくましい基礎を持ち、全声域において極めて安定しており、まさに鋼のようなほのかなきらめきを持ち、弱音部分において微妙なニュアンスに富んでいる故、彼の中に、すでに将来のジークフリート・テノールを見ることができる」(ライン・ポスト紙 1974年9月11日付)

 ペーター・ホフマン「今は、ジークフリート、あるいはタンホイザーを歌うことはないでしょう。理由はできないと思うからです。たとえば、ジークフリートとかを、ひょっとしたら、八年ぐらいのうちに、できればいいのですが、どうでしょう。ジークムントは、今、歌えます。自分の声のことは分かっていますから、危険を感じればすぐに止めます。ですから、それはつまり活動を控えめにするということです。公演を減らします。技術的な過誤に気がついたら、為すべきことはひとつしかありません。つまり、即座に修正することです」(オペラワールド誌 Opernwelt 1975年4月号)

 音楽評論家、ハンリッヒ・フォン・リュッツヴィッツ(ライン・ポスト紙 1974年9月11日付)は、ヴッパータールの「ワルキューレ」の後、すでにこのことについていろいろと考えを巡らせている。「若い人のこのような出演はその将来にひどい酷使をもたらし兼ねない。反論として挙げられるのは、ホフマンがその役の勉強に、並外れて慎重に、徹底的に取り組んできたにちがいないということだ」六年後、ホフマンはこの評論家の推測が正しいことを認めている。「初めて、ワルキューレのジークムントを歌う機会を得たときには、すでにその四年前にこの役の勉強をはじめており、繰り返し磨きをかけていました」
  1975年に、オペラワールド誌で、ケート・フラムが質問している。「オペラの舞台に立って三年で、このように注目されるのはどんな感じですか」 これに対する、ホフマンの答えはこうだ。「あまりにも性急にことが進むのは、ちょっと不安を感じます。時々目が覚めたら全部夢だったということになるのではないかと思います。学生時代シュツットガルト歌劇場の周りをぶらついたり、公演を見て、感動したりしたものです。いつかここで歌えたら!と思いました。いよいよそこでパルジファルに取り組むことになったわけです。パルジファルは私が希望した役です。それが現実になるなんて、すばらしことではありませんか」
 シュツットガルト歌劇場での「仕事初め」の前に、「魔笛」のタミーノとジークムントの他にも多数の様々な役を経験している。
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「ポッペアの戴冠」のネロ、「こうもり」のアルフレート、ファウスト、イドメネオ、「ヴォッツェック」の鼓手長、「フィデリオ」のフロレスタン、「カルメン」のドン・ホセ、「魔弾の射手」のマックス、「ラインの黄金」のローゲ。デュッセルドルフではじめてジークムントとして舞台に立ったときは、ウルスラ・シュレーダー・ファイネン、カール・リーダーブッシュという著名な歌手たちとの共演だった。その後、シュツットガルトでは同じ役でビルギット・ニルソンと共演した。「その時は興奮のあまり膝ががくがくしました!」
 膝ががくがくしていたにもかかわらず、その頃も、自分がやりたいことを正確に把握している。「舞台では演じなければならない。立って、歩いて、それ以外何もしない歌手は物凄く退屈だ。演出家が作品全体の正確なイメージを持っているのに加えて、歌手が役の正確なイメージをもっているときしか舞台はうまくいかない。だから、このイメージを一致させることが共同作業の課題だ」(オペラワールド誌 Opernwelt 1975年4月号)

 1975年以降、ワーグナーが彼のレパートリーの中心になる。以下は、ケート・フラムによる記事。「パルジファル、いつもパルジファル。何よりもワーグナー。彼はワーグナーが気に入っている。ローエングリンの話に熱中し、シュトルツィングをやりたいと望んでいる。イタリア物はなし? 彼はイタリア物はあまり好きじゃない。そして、彼を刺激することができるものは、『ひょっとして、カルロス(*ドン・カルロ?)』だが、目下、かかわっている役のことを考えると、今は歌いたくない。経験の浅い歌手はさまざまな役をあれこれ歌うべきではないからというのがその理由だ。それに、原則的に、『私はどっちみちイタリアン・テノールではない』ということだ。彼はドイツのテノールだから、ワーグナーのほかには、フロレスタン、マックス、ボヘミアのハンス、ファウスト(たとえフランス人でも)、イドメネオといった役に、律儀に留まっている。バッカスはやりたいと思っているし、クレーベの「真の勇者」は楽しみにしている。そして、タミーノ役に対しては、居心地がよくて特に好きだという気持ちを持ち続けている。『その通りです。タミーノは、また歌いたいと思っています。タミーノは声のためにいいのです!』」
 ドルトムントでの最初のローゲはこの頃だ。オペラワールド誌に、女性批評家が意見を述べている。「この『ラインの黄金』のローゲには驚かされた。ペーター・ホフマンは言ってみれば一夜にして翌日のセンセーションを巻き起こせた。雄大な声と輝かしいテクニック(わずか30歳にして、ローゲとしては初舞台)をもったユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールである彼はこわいほどの悠然とした態度と抜け目のなさを備えたこの役を究極の微妙なニュアンスをもって演じきった」
 シュツットガルト歌劇場の五年契約の申し出は、すでに机の上に置かれていた。とりあえず、客演のジークムントとして、彼の将来の観客に紹介されている。シュツットガルト・ニュースの批評(1975年9月30日)には次のように書かれている。「次のシーズンの開始と共に、ここで、ドラマティック・テノール、つまり、主としてワーグナー・テノールとして専属契約を結んだペーター・ホフマンは、シュツットガルトではまだ未知の人だった。彼のこの地でのジークムントとしてのデビューは非常にすばらしかったので、彼が徐々にヴォルフガング・ヴィントガッセンの遺産を引き継ぐことができるだろうという期待は的外れではない」 クルト・ホノルカは「ワルキューレ」の公演後、理由を次のように述べている。「すらりとした体格、陸上競技で鍛えたたくましさ、見れば若い英雄であると信じることができる。彼は40年代のヴォルフガング・ヴィントガッセンを彷佛とさせるが、かつての偉大な先輩より、今日すでに、演技的な動きははるかに達者である。彼のテノールとしての声はまぶしいほどの輝きはないが、声域のバランスとその暗く低く柔らかい響きは抜きん出ている。これはワーグナー歌手にとっては非常に重要である。彼の初パルジファルに加えて、次の3月にここでまた同じ役を歌うことになっているが、今から楽しみである。 そして今度は、アンサンブルの中にまさに生まれながらのマックスがそこいるわけだ。『魔弾の射手』もまたいつか劇場のレパートリーに入れるべきときが来ることが期待される」 註:
ボヘミアのハンス:詳しいお友だちからの情報によると、スメタナ作曲「売られた花嫁」の主役テノール役ではないかということです。このオペラの舞台はボヘミアですし、主役のテノール役、イェニークは、ドイツ語では『ハンス』になるのだそうです。ヒロインのマジェンカはマリーになるとか。このオペラは、本来チェコ語ですが、ドイツ語圏ではドイツ語上演が普通のようですし。
クレーベの「真の勇者」:Klebe, Giselher Wolfgang (ギーゼルヘル・クレーベ、1925年6月28日 マンハイム生まれ) 作曲のオペラ、Ein wahrer Held (1975年) ~ 原作は、アイルランド劇作家シング;John Millington Synge(1871-1909) の  "The Playboy of the western World" (山本修二訳、西国の伊達男 岩波文庫)
イドメネオ:モーツァルト「イドメネオ」
写真の頁から
•「きょうはミラノ、あしたはハンブルク:私のセカンドハウスは旅行かばんの中だ」ベートーベン『フィデリオ』フロレスタン、1980年、ハンブルク
•ベートーベン『フィデリオ』フロレスタン、1984年、ベルリン・ドイル・オペラ
カタリーナ・リゲンツァと
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•「オペラを歌うことは、連続的なストレスだ。なぜなら、常に直前の公演のと同じくらい良くて当たり前なのだから」リヒャルト・シュトラウス『ナクソスのアリアドネ』バッカス、1979年、ハンブルク
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•「舞台で自分自身と自分の声にあまりにも没入すると、観客がこちらに何を期待しているのかということにもはや気づかない。この能力を利用できれば、自信がない時に少しは役に立つだろう」『ラインの黄金』のローゲ、ドルトムント1975年、ヴォータン:リヒャルト・クロス、フリッカ:リンダ・カレン
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ただ単に•••12 [1983年刊伝記]

小さくて重要でない新聞に
 私はもはや書かれたことによって左右されない。それは私にとって大して重要ではなくなってしまった。はじめには、批評は奇妙なものだった。なぜなら、それらを整理できなかったからだ。それに、良い批評なら、重要だと思いたいものだ。自分が思っていることと、批評家の意見が一致することは、ほとんどない。起こったことをありのまま書く人がいたら、かえってびっくりしてしまう。大新聞にくだらない長談義が書いてあり、小さな重要でない新聞に私を極めて正確に認識している人がいて、弱い瞬間に気づいているということをはっきりと体験した。
 当然ながら、普通、書き手はうらやむような状況にはない。私は想像してみる。「パルジファル」を百回見たら、「パルジファル」について何を書くべきなのだろうか。こういうことだから、何であれ全く違うことをはじめる何人かの演出家は、要するに山師だが、頂点にのぼりつめて、批評家が慣れ親しんだ薄暗がりではなく、変化に富んだ色彩をついに目の当たりにして退屈が破られたという理由だけで褒めちぎられるのだと思う。そんなものは取るに足りない。だが、私は批評家のために、自分が良いと思っていることを、何であれ変えようとは思わない。はじめは、そうするべきだと思った。しかし、そうこうするうちに・・・
 批評というものは、巧妙に操ることができるものだ。期待外れの時に、よい扱いをうける仲間がいる。同じへまでも私の場合はこっぴどく非難されるということがとてもよくわかる。おかしな話だ。しかし、こういうことには慣れるしかない。
 批評をよく見ると、いくつかの批評で、終りのところに、:歌った という具合にコロン(:)がある。そういうとき、私はこのように思う。幾人かの歌手は病気の割にはなんとかがんばってやり抜いたが、新聞では、こういう具合に、名前が落ちてしまったわけだ。歌手が王様で、演出家については批評でも、劇場のポスターでも、触れられることもなかったのは、まだ百年も前のことではない。なんともひどい極端だ。今日、一般的に歌手としてまだ言及されていれば、喜ばしい。これはもちろん極端だが、あまりにもいろいろな批評を読むと・・・六段の長さの記事で、すべてを書くとして、「気の毒な批評家」は作品の知識や基礎知識を示したうえに、さらに終りには歌手の名前まで載せなければならない。私としては、全ての批評家を十把一絡げに扱うつもりはない。ただ、時々、ばかげたことに出くわすが、こういうことは、専門知識がないために悪化している。仕事においてほんとうに知っているべき事が、完全にねじ曲げられている。物凄く難しい箇所で、それでも弱音演奏を聴くことができたということは、ほとんど奇跡と言ってもいいほどのことなのに、翌日、新聞に、弱音演奏以上のものはなかったと書いてある。あきれて物が言えない。
 批評家が、教育的な効果を及ぼしたいということをそのように理解しているのなら、むしろ歌手に、楽譜に「弱く」と書いてあれば、そこはやはり弱音で歌うべきだと、提案するべきだ。こうしてこそ、批評は建設的だろう。あの「さあ、エルザ  Heil dir , Elsa」のところで、上のイ音(A)を出すのは、非常にむずかしいと思う。フォルテで歌うほうがはるかに簡単にうまくいくのだから、だれもあえて危険なことはしない。私は一度メトロポリタン歌劇場で試したことがある。その後、私がそんなにも小さい声だったことは、どこの劇場にしろ、なかった。この部分の正しい歌い方は、ちょっとインサイダー向けの話だ。しかし、批評家は、自分はまさにインサイダーだと思い込んでいる。彼らのうちのだれかが、音符がどのように並んでいて、それはどう歌われるべきか知っている者だということを私に示してくれれば、そのときこそ、彼が私にとって対等の「相手」であることは、すばらしいと思うだろう。それにしても、批評家は書き間違いに鉄槌を下されることはない。今、批評家は、邪魔されず、コントロールされることのない痛烈さで、辛らつに、悪意を持って書くことができるのだ。しかも、歌手というものは自分がこの職業に求めていることを、論評によって、よく考えることができるにちがいないと思うより、むしろ、自分が最高のコンディションではなかったという記事を読みたがるのだ。

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ただ単に•••11 [1983年刊伝記]

時間
 時間は私にとって最高に重要な財産になった。数日自分の家にいて、何もしなくてもよければうれしいのだが、案の定、朝から晩まで駆け回って実際、家でしかやれないことを済ませなければならない。だが、じきにしかたなくやめることになる。そうしなければ負担がかかりすぎることになる。
 それでも、当然郵便には目を通したいのだが、家に戻ると、そこに5000通の手紙が置いてあれば、やる気も萎えざるをえない。一日中座り込んで、返事は書かず、読むだけで、600通がせいぜいだ。手紙を読むことがどんなに大切かということは、読めばすぐにわかる。時には、その手紙が注目されることは、私にとってではなく、書いた人にとって、重要だ。大勢の人が私の返事を期待している。だから、私は大勢の人の共有財産になったわけで返事をする義務があるのかどうか、否応なく決めなくてはならない。こういうことをすれば、その結果、私には私的な時間はないも同然だ。テレビの人気によって、この傾向はものすごく強くなった。私は、人々が私が好きだということ、つまり、人々の喜びと、まだ残っている私生活を守るために為すべき抵抗との間で、板挟みになっている。知名度は、私の職業においては、バロメーターであり、可能な限り本人だとは見破られずに生活するために、この職業に就いたわけではないのはその通りだ。今、だれもが手にいれようと努力するものに到達した今、その結果について、不平を言ったり嘆いたりすることはできない。落ち着きを保つようにしようというわけで、きちんとした計画に従って事を進めようと決めた。これが難しい。手紙を読むために予め二時間取っておいて、きちんと読んでいたら、四時間手紙の山の上に座ったままで、その日の予定の残りに関してはもう時間が足りなくなる。オペラファンとポピュラーファンと、どちらがより多く手紙をくれているのか、正確に別々に分類することはできない。私としては、私に喜びをもたらす音楽によって、娯楽音楽とクラシック音楽をブレンドしたいのではなくて、とにかく聞き手の幅を広げたい。このことは、レコードに対しておよそ7000通受け取った手紙によれば、成功だった。このレコードは今までに(この対談は1983年復活祭に行われた)約700,000枚売れたが、これに匹敵する他の枚数に比べても、相当注目に値するものだった。(1982年1月に、ルチアーノ・パヴァロッティの「聖夜 オー・ホーリー・ナイト」が500,000枚の売り上げ数を獲得し、同程度の記録はマリオ・ランツァの「偉大なカルーゾー The Great Caruso」が達成した)

 「音楽劇世論調査(企画調査機関による1975年)によれば、ドイツ連邦共和国におけるオペラの観客の54 パーセントが基幹学校(=中学校)卒業者である。この結果は少なくとも、オペラを安易にエリート的な事業として推進することはできないということを示している」(ヒルマー・ホフマン)

 それ故、新聞の批評は結局のところ重要ではない。だれでもが気に入る歌を歌うことはできないのは当然だ。法律にしろ、映画にしろ、オペラの演出にしろ、だれもが気に入るものを生み出すことなどできはしない。最前列に幸福な十人の人が座っているが、そのすぐ横には、すぐさま眠り込み、もう三度もオペラグラスを落としている男が座っている。ポップスのショーをするようになってから、マスメディアに登場するやいなや、評価は完全にまちまちの結果になるということがはっきりとわかった。
 ある雑誌が書いたように、ショーは私にとって余暇的仕事だというのは、もちろん正しくない。それどころか、この分野の仕事を私は物凄く大切に思っている。ショーでのしあがろうと試してみれば、どれほど格闘しなければならないかということにすぐに気がつくことになるだろう。
 二つの異なるレベルの音楽をやり抜く上で、なぜショーが私にとって大切かということに簡潔に答えれば、こういうことだ。ねらいどおりの効果を達成すること。私はすでに、自分の周囲の人々の中から、私が好ましく思う人や、まだオペラに行ったことのない人を大勢公演に招待している。そして、それによっていまもなおねらい通りの成果を得ている。
 話の順序を戻すと、私のレコードがきっかけで、子どもたちと再び話ができたと親たちが語っている、たくさんのお礼の手紙を受け取った。こういうことがなければ、親たちにとって、ポップスは、その「騒音」について文句をつける単なる原因にすぎなかったのだ。それが、今、とにかく自ら耳を傾けたところ、ちっとも悪くないということに気がついたというわけだ。
 こういうのはすばらしいと思う。自分の人生において、肯定的なことを実現させる以上に、いったいどんなよいことが達成できるだろうか。

  「結局のところ、問題はエネルギーであり、エネルギーは情報であることが判明するだろう」(カール・フリードリヒ・フォン・ワイツゼッカー)
***

 問題は歌手である。エネルギーを費やすその声だ。そのエネルギーによって歌手が表現できることは、問題のなかでそれ以上は表現できない事柄に関する、私たちに向けた彼の情報である。
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ただ単に•••10 [1983年刊伝記]

私は夢を見ているのだろうか
 時々、ひどく嫌な状況にいるのか、それとも、きわめて幸福な状況にいるのか、自問する。これは全部夢ではないのか、私は本当に私なのかどうか。それどころか、夢の中でも腕をつねることは可能で、目も覚めない。つねったことがすでに夢なのだから。
 それにしても、ある種の確実性が、この職業においては、おそらく命取りだろう。こんなイメージだ。小さな家を持って、そこから仕事に行き、美しく歌い、公演のあとは、再び家に戻って、そして、これが、次の三十年・・・  なんと非創造的! 芸術家というものは、どの伝記を読んでも、おおかたは楽ではなく、不当な扱いを受けている。幾人もがなんという苦難の末に死んだことか! これはこうあるべきだと思う。もちろん苦難に耐えさえすれば、だれもが芸術家になれるということではない。
 苦難と無縁の芸術家の生涯などというものが、そもそも存在するのだろうか。何が起こるか、何が残るのかわからない暗い時期はいつでもどこでも突如出現する。その時は、私はきっとやる、たとえだれもやり遂げなくても、私はあきらめないという、粘り強い信念を持つしかない。それには、相当以上の頑固さが必要だ。
 例えば、私はあの事故をカタストロフ的大変動だとは思っていないが、それによって相当具体的な変化を被ったことがわかる。祝祭劇場の食堂の庭で、私は足にギブスをして座っていて、仲間が「くだらないけいこだ」とぶつぶつ文句を言ったとき、「くだらないけいこ」に参加して、腹をたてることができるのが、うれしかったものだ。
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ただ単に•••9 [1983年刊伝記]

動機づけこそが全てだ!
 時間が切迫すると、こんな悲観主義の発作に長々と付き合ってはいられない。なんとか良い方向に進めようとするなら、何事も成り行きまかせにしないで、頑張ってその方向に近づかなければならない。人は自分のやりたいことを知って、それに対するはっきりとした考えを養わなければならないが、全てが時宜を得ていなくてはならない。あることが目の前に来る前に押しても、それでは、それ程うまくいかないだろう。私の場合、今までずっと確かめていたところでは、動機づけがあれば、とてもうまくいったように思える。全エネルギーを使ってやり遂げようとしても、他のやり方ではめったにうまくいかない。だが、高く登れば登るほどますます多くを一人で決めなければならなくなる。私が何かしたいとき、私ができるということもまた、拠り所にすることができる。こういう感覚は成功に伴って養われるものではない。それは、なぜか、どこから来たのかわからないが、すでに早くからそこにあった。
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ただ単に•••8 [1983年刊伝記]

なくてもいいものという気持ち
 時々、このなくてもいいものという気持ちがわき起こる。歌手として、なくても済むという感じ。いつだったかロンドンか、シカゴで、どこかのホテルに閉じこもっていた。そのとき、テレビで、子どもの心臓、まったく小さい赤ん坊の心臓を、手術をしているある医者のポートレートをやっていた。カメラは彼の一日を追っていた。私には彼は超人のように見えた。いかにミリ単位が重要か、どうやって小さな心臓を縫合したり、切開したりするかといった、物凄く複雑な過程を目で追うことができた。そして、家族全員が関わり共に苦しんでいるということも。こういう人は、うまくいけば、生命を与える「力」を持っている。当分の間、それにしても、私がしていることは、たいして必要とされていることではないという気持ちがぬぐえなかった。
 今ここに、「喜びを与える」という論拠を持出すことはできる。根源的な喜びをだれかれなく与えることができれば、けっこうなことだ。ひょっとしたら間違った人に感銘を与えるかもしれないが、同じようなことだ。しかし、その時だけのことだ。それにしてもやはり、不満が残る。私は技術を習得し、今、お金と引き換えにそれを提供している。あの医者ももちろんそうだが、彼の場合、もっと他利的なように思われる。きっと彼は私より沢山稼いでいる。だが、彼がしていることと私がしていることの間には、どうしようもなく大きな落差があるような気がする。朝、私は手術台の前ではなく、舞台の上に立っていて、前にやった正確にその箇所で、もうちょっと早めに悲しむように演出家に求められているのだ。
 何も気がついてくれない人たちのためにあくせく働いている、あるいは、ある演出を勉強していたところ、「交換」された上、次の歌手は、自分が頑張ってやっていた十分の一も打ち込んでいない、という感じがしたりするとき、特に、こういう気持ちになる。やめたい気持ちでいっぱいになる。写真の頁から
•「ダルムシュタットの友人と、麻薬中毒者がうろうろしてるような酒場にまた行った。それにしても、私たち歌手は結局のところ、税金から給料を得ている。だから、いくつかのオペラハウスを閉鎖して、この金で気の毒な人たちを援助したほうがいいのではないかと時々考えないわけにはいかない」
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