SSブログ

ただ単に•••4 [1983年刊伝記]

防御壁はどのぐらい厚くなければならないだろうか
私は常に「ほら、彼はまた私生活を金もうけの種にしている」という非難を耳にしている。しかも、おかしなことに、私について書いている人たちからの非難なのだ。そういうことだから、この問題には気をつけなければならないという印象を持っている。発行されたインタビューの多くは全く行われていなかった。このタイプは小さな裁縫箱から自分たちの寄せ集めの物語さえ編み出すのだ。実施されたインタビューもたくさんあって、いくつかはよいものになった。それは常に質問者次第だ。『プレイボーイ』誌の編集長は、14時間のインタビューの後で、興味をそそったインタビューが二度あるのだが、それはフィデル・カストロと私のだと漏らした。全てを言葉どおりに忠実に伝えることができないのは当然だ。ただ、私が何時間も話し、核心的なこととして出されたものが、真実と、全く一致していないことが頻繁にある。もしかしたら、私の表現が間違っていたのかもしれないから、私は自分に関する幾つもの文章を許容している。確かに私の話し方は相当皮肉っぽく思われているが、皮肉は単に身振りから、話す調子と身振り手振りから生じていたにすぎない。紙に書かれて「ひからびる」と、そこには完全な誤解だけが残っている。
 マスメディアの中で作り上げられるイメージは、私にはどうしようもない。「あの人たちが真実を書かない限り、オーケーよ」と言ったのは、マレーネ・ディートリッヒだったと思う。このような考え方をすることもできるだろうが、あまりにも誤りが多ければ、やはり腹がたつものだ。こういうことを私が我慢して、更に二、三の事柄がうまくいくのなら、私はもう腹を立てない。
 自分を公開状態から十分に守るために、どのぐらい防御壁を厚くするべきか、まだよくわかってはいない。インタビューでどの程度踏み込んでもよいか、どういうことは絶対言わないほうがいいのか、どこで譲歩することができるのか、未だによくわからない。話したことは、まず間違って解釈されるという前提から出発しなければならない。それから、あまりひどく傷つきたくはないという理由で、防御壁は必要だ。そうでなければ、コチコチに固まってしまって、あらゆる分野において、もう何もできなくなる。いきなり唐突に気分を害したり、だれかさんを外へ放り出したりさえし兼ねない。それから、ある人物を敵に回してしまったことを知るが、私としては、そのとき自分の平和を保つことと、その人がその記事のために調査することと、どちらがより重要か、慎重に比較検討する必要がある。こうして、ひとつのイメージが生まれる。いったいどういう場合に、ほぼ真実に一致するのだろうか。
 私にとって典型的な例はカラヤンだ。記者が、彼の企画や、それに加えてレコード録音、コンサート、練習などをあれこれと頭の中でこねくりまわした挙げ句、その間に時折、ジェット・セットのばか話を質問すれば、指揮者としては、もっとましな話題はないのですかと、聞き返すしかない。あるいは、「まだ仕事がありますから」と言って、今度もインタビューの時間がないという、十回目の説明するわけだ。バーンスタインは違っていて、むしろ自己表現こそが重要なアメリカの伝統に基づいていた。私にはカラヤンの態度のほうが多少身近に感じられ、当然だと思う。カラヤンからは、貴族階級の雰囲気を感じる。ひどく安易な言い方だが、そんな感じだ。私は幾つかの質問は当然してはいけないとはっきり分かっているが、こういう種類の頭をだれもが持っていれば、すばらしいと思う。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。