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ただ単に•••1 [1983年刊伝記]

ただ単にながらえるだけでない生き方に関する試論

自然回帰願望
   昨日、テレビで歌手・インタビューがあった。なんでもこなす万能選手タイプ、パーティーの花形、セクシーで、人気があり、同時に誠実で面倒見のよい家長としての父親、何でも完璧にできるそんな人だった。どこから見ても、彼は完璧に見えた。そんなことがあるはずがない。完璧な万能選手として売り込もうというわけだろうか。私はそういうのはうしろめたい気分がする。確かに、たとえば、私も「副業は営林署員」と自己紹介したいところだが、そうするには、その仕事について余りにも知らなすぎる。あるいは、オペラハウスから、オペラハウスへと絶え間なく移動しているのに、すばらしい家庭生活について話すことができるだろうか。パラシュート降下でさえ、いつの間にかもうはるか昔のことになって、もはや責任を持つのは容易ではないように思う。時間の問題だ。心おきなく飛べるためには、しっかりと訓練されていなければならない。筋肉が最高のコンディションでなければ、骨に過剰な負担がかかる、パラシュート降下は、着地なのだ。それでも、その体験は、あらゆる自然的なものがそうであるように、それ自体、物凄い魅力を内包しているが故に、もう一度堪能したいと思うのだろう。この場合、自然は徹頭徹尾、嫌なものでありうる。自然的な体験で、好ましい体験の目録を作るとすれば、最高に美しいものになるに決まっている。事実、愛はそういうものだ。愛こそは最高に自然で、好ましい事柄だ。麻薬より、恋に落ちる能力が自由に調達できるようになったらいい。
 要するに、済んでしまったことは、本当に好ましいかったと思うものだというのは全く正しい。恋のアーバンチュールと同じように、過ぎてしまえば、非常に美しくみえる。恋のアーバンチュールとは危険という意味でもあるが、気持ちのたかぶりがおさまれば、相当気楽に思い返せる。舞台上でも、「生理的に」耐えられるところまで是が非でも頑張ろうという傾向を伴うこういったアバンチュールへの衝動と出会う。ローエングリンで、風邪がどんどん進行して、2幕の後、切り抜けることがどんなに困難かということに気がついても、良いときの半分の結果のために、二倍の力を費やしてしまうものなのだ。私は不安になる。三幕になる。その時、冷静さを失うか、立って戦うかどちらかだ。こういうことは、スポーツ時代に、いきなり頑固に強情になって戦うことで、学んだ。だが、その時そこでいったい何が起こっているのかちょっと知りたいと思うだろう。
 国防軍でも、根本的に軍隊とは何のかかわりもない、非常に原始的な極限状況を経験した。訓練のとき、ばかげた偶然で、幾日も食糧補給が途絶えたことがあった。私たちに食事を供給するべき人は、私たちを捜していた。私たちはもう出発してしまっていた。彼が来たときには、私たちはいなかったのだ。六日目の夜、彼はやっと私たちを見つけだした。他にも、戦争中、あるいは、他の酷い状況下で経験したことがある、または、経験することになる人はいるだろう。私にとっては訓練下の極端な状況に過ぎなかったが、しかし、実際にこういう事実を現実として体験した。短期間にいろいろなことがおこった。周囲の人々を特によく観察した。まずはじめに攻撃性が顕著になり、それが膨らんでいき、それから、次第に、それは最も危険な状態である無気力へと移行していく。これは冬の野営地でも同じだ。時々、夜に、スコップで穴を掘るために、小枝で作った小屋から這い出た。全く無意味な行為だ。ただ単に自分にスイッチを入れて作動させるためだけだ。身体を暖めるためだ。これこそがまさしく原始的極限状況なのだと感じた。精神の本質が究められた。完全な無関心状態に陥ってしまい、あきらめの境地で、寒さに凍えながら、誰かが何かするのを待っている者たちもいた。ある者はじっとしていることがなくなった。これも同じことなのだ。他の者たちは座り込んで、虚空を見つめていた、ヒゲが伸びる音をききながら、四週間。
 これはもう何年も前のことだ。今は、例に漏れず、自分の「技術」つまり、職業で、暮らしている。時々、この状況が、何か「堕落」のような感じがして、舞台では決して起こらないこと、すなわち、原始的な状況に対する異常なほどの欲求にかられる。舞台には自然とは対極の人生がある。すなわち、見せかけの人生だ。自然の感覚は、場合によって、観客の中に生じる。だから、人々は後で、目に涙を浮かべて、私のところに来る。これがそれだったのだ。一方、私には理由がわからない。私は公演の初めから終わりまで、観客とは全く違う場所に立っていて、舞台でおこる状況に接続する手段がなかったからだ。ばかみたいだ。声が、適切な瞬間にエロスを伴い、その感情で操れば、これは、それ自体もう何か恐ろしい程のものを持っている。自分が他者に対してものすごい影響を与えはじめているように感じる。こういうのはそれ自体すでに、多少は、堕落している。あるいは、少なくとも、知性によって自らをコントロールしないならば、堕落する。私は、かなり以前から、もう自分の職業をそれほど極端に深刻に捉えようとはしていない。それはもはや全てを与えないという意味ではない。しかし、ローエングリンを歌った場合、公演の後、ホテルまでの道中で、私人としてホテルに着くようにもっていきたいということだ。四分の三がローエングリンのままで、拍手喝采のざわめきを周囲にまとわりつかせて、崇高な気分と月桂樹の冠をつけてベットに横になるようなことはしたくない。そんなことでは、私は何もはじめられない。私が演じる舞台の人物の感情の幕を通して自分の人生を生きたいとは思わない。私の解毒剤は、一人分のユーモア、自分自身に対する皮肉、そして、コントロールを維持しなければ、自分が自分を蝕む何かを今現在やっているのだということを、繰り返し意識的に確認することだ。
 こういうことを認識しないなら、人格的破綻が起こりうるという感覚は、無意識下では常にそこに存在していたのだが、突如、そのことを意識したのだ。影響が出たときにそれに気がつくだろうか。いずれにしても、こういった経験の結果、原始的な体験を求める傾向が強まる。同様に、馬との付き合いもこういうことに属していると言っても、気違いじみているとは言えないに違いない。動物は何物にも惑わされることなくいちずで、自分自身をごまかしたりしない。えさがもらえる時間になれば、食べさせてもらいたがる。まずはじめにインタビューがあって、それから、ニューヨークから電話があったから、今日はえさは中止だなどと言うわけにはいかない。人間になら、そういう場合、説明がつけば、たとえ機嫌を損ねても、ある程度理解してくれるだろう。私がやる気がなくて、一週間も馬小屋を清潔にしなければ、馬は腐って、性格が変わる。あるいは、違う次元の話をしよう。自然の中を馬に乗っていくと、完全に舞台関係の練習中とは全く違う思いがわいてくる。あそこでは演出家の難解な考えや、短足、なで肩で、腹が出ていなくては着心地の悪い衣装のことだけを思う。馬に乗っているとき、腹が出ているかどうかとか、髪の毛が脂ぎって汚れているかどうかなどということは、私にとって、どうでもよい。まったく重要ではない。舞台上では優先順位が変わる。徹頭徹尾、独特のメカニズムが働いている。それ自体何か退廃的なものがあって、人間同士の付き合いに影響を与える。
 一緒に姿をくらまして、一晩飲み明かしたり、ディスコへ行ったりしたい友だちはいる。しかし、よく考えると、今は、それが友だちにしろ、単なる飲み仲間にしろ、面倒になる。不愉快な状況で、他人を当てにできるだろうかと自問すれば、やはり自分でなんとかするしかない。自らがやらずに、一体だれに、そういうことを主張してもらえるだろうか。この人はテレビ関係者だから、重要な人の可能性がある。よって、この人とは、必要以上に感じ良く、おしゃべりするのもやむを得ないとか、あの人はレコード会社の社長だから・・・という具合に、自分の周囲の人間をあれこれ分類するのはよくない。こういったビジネス対話は、非常に友好的な関係を築いたとしても、大概は友情とはなにひとつ関係がない。しかし、理屈抜きで蹴散らかされているような素朴な人たちは、人間をうわべだけで判断する慣習に凝り固まった観点に立てば、差し出すべき物を何も持っていないのだから、まさにこういうことを超越している。ある農家の人は、ほとんど何も捨てたりしないで、常に最低の生活費でやっている。そして、私としては、決定的な場合には、他のだれかではなく、この人と一緒にいたいだろうと思う。ただ、ずっとその人を無視していれば、その後で、今はあなたが必要だなどと言うことは難しい。だから、接触を保とうとするだけでなく、私もまた他人の運命を思いやろうとする。世間的な信用を背景に、例えば、ここの田舎にやって来たとしても、それだけでは、どんな友情も可能にしないどころか、むしろ時には邪魔になる。だが、とても素朴で率直な人が肩を叩いて、それはうまくできていると、言ってくれたら、オペラでの物凄い拍手喝采よりもずっと価値がある。(これを、Applaeuse と言えるだろうか。だれでも自分の言葉を発明して、その言葉によって考えているにちがいないと思う)肩を叩いてくれたのは、私の仕事であるテレビ放送やレコードに対してではなくて、数週間前の牧草地の柵の出来栄に対してだ。だれにも聞かないで、とにかくちゃんと直すのだと思ったのだ。すでに何キロも柵を作ったことのある農家の人が通りかかって、眺めて、思ったそうだ。「まあ、いいさ。自分はそんなやり方はしないが、そういうふうにもできるわけだ」
 それに対して、この職業ときたら。永久に内にこもって聞き耳をたてるだけだ。目が覚めると、声があるかどうか、ちょっと発声練習をして試してみる。世の中で、最も重要なことは、声帯が炎症を起こしていないことみたいだ。もしそうなら、私はきょうの役には立たない。問題がなければ、すべてこの世はオーケー。今晩歌えるのだ。で、私は歌い、できるだけ沢山の拍手喝采をもらいたいものだと思う。柵を作ったときは、馬に逃げられないために頑張ったわけで、拍手喝采は計画に入っていなかった。農家の人とその賞賛は偶然に付け加わったにすぎない。歌う場合は、観客の反応を期待している。これを否定する人は正直じゃない。
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