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ただ単に•••3 [1983年刊伝記]

一体だれが好き好んで、簡単に傷つくというのか
   舞台上での気持ちや心の動きに関して、仲間と話すことは、めったにない。誰かひとりだけと一緒なら、そういうことについて話せるが、皆が一緒にレストランの常連のテーブルに座り込んでいれば、そういう話はだめで、大声でギャグを飛ばすことが求められる。それどころか、そういう場合、できるだけ、そういう風にきこえてはいけないように、きこえないような言い方をするように注意を払っていなければいけない。またもやあやうく不愉快になるところだ。
 バイロイトでは、音楽祭の期間中、当然ながら、ちょっとした派閥支配が広がる。だが、たびたび一緒に舞台に立った仲間のクルト・モルとは、そんなことについて話すことができた。彼は、私たち誰もができること、できなければならないことに関連したおしゃべりにスイッチを入れるのも上手いし、反対に、みんなができないことについては、ギアをシフトダウンしておしゃべりの勢いをそぐこともできる。同僚たちの間で、本当に重要なことが話されるということは、よく考えてみれば、これは並外れて凄いことだ。
 しかし、こういうことは大概は防御体勢でもある。カラヤンに「あなたは何故うわべを装うのですか」と質問されたことがあった。私は率直に「こういうふうにうわべを装わなかったら、あまりにも傷つきやすいのです。だれでも傷つくのは好きじゃないでしょう」と言った。カラヤンは答えずに、笑っていたが、よくわかるよという顔をしていた。私の言わんとしたことがわかっていた。おそらく自分自身でもちょっとは気がついていたのだろう。そう、彼は同じことをしている。彼は、私がそれを知っているかどうか、知りたかっただけだと思う。あぶなくなれば、皆がそのように反応し、防御し、自分自身にカギをかける。私が、何も自分に手を触れさせたくないというふうに気持ちを切り替えたのを、彼は感じたのだった。
 時には、その防御姿勢が行き過ぎる。そういう時、幾人もの人が、あいつは思い上がっていると言う。けれども、だれしも、決して尊大さをたかだか手段として選択して、あからさまにそれを選んでいるのではない。私としては、ただ単に典型的な例を挙げているつもりだ。だれかがしつこく私を夕食に誘うのだが、私はとにかく行きたくないのに、その人は私が行きたくないということに気がつかなければ、なんとかして口実を考え出さざるを得ない。まずはその人の感受性に訴えて、遅くとも、私に二回「差し迫った用事」があるころには、ひとりでに気がついてくれるように願う。三回目の招待のあとは、「急用」ができる。その後は、その人は事情に詳しいに違いないと思うしかない。それでも、断れば、その時、私は「思い上がっている」わけだ。こういう防御措置は、私の生活の「公開性」が増大するのに伴って、当然頻度が増す。しかし、これは制御できるから、一人歩きするようなことはない。



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