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メト・デビューのローエングリン [PH]

情報をいただいて、メトロポリタン歌劇場デビューのローエングリンの録音を聴くことができました。プライベート録音でしょう。メト・デビューは1980.1.24で、出演は24日と28日。

Loh_met85.jpg(→右は、1985年の写真)
指揮:ジュゼッペ・パタネ
演出:アウグスト・エヴァーディング

ローエングリン:ペーター・ホフマン
エルザ:テレサ・ツリス=ガラ
オルトルート:ミニョン・ダン
テルラムント:ヴァーン・シナール(1936.06.22-  アメリカ)
ハインリッヒ王:ボナルド・ジャイオッティ(1932.12.25- イタリア)
伝令:アーサー・トンプソン

(3幕 O Elsa! Nur ein Jahr ....)

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ワルキューレ(2) [PH]

 P.ホフマンがはじめてワーグナーの役を演じたのは、二番目の専属劇場、ヴッパータールでのジークムント(ワルキューレ)で、1974年、30歳でした。これは大評判になり、大勢のワーグナー・ファンをはじめ、大劇場の監督たちが自ら、あるいはその代理人たち、エージェントたちが、彼を目にし、耳にしようと押し寄せました。どの公演も必ずだれかそういう重要人物が観客席に座っていると思わなければならなかったそうです。
(画像はP.ホフマンのジークムント、1978年、シュツットガルト、ポネル演出のワルキューレ)

Portrait2011.5.20 、この録音の一部がブリュンヒルデ役のソプラノのCDで聴けるという情報をいただきました。2幕、いわゆる死の告知の感動的な場面です。ブリュンヒルデは Ute Vinzing(ウーテ・ヴィンツィング 1936.09.09-  ドイツ)

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P.ホフマンのパルジファル [PH]

今年(2011年)の復活祭は遅いです・・4月24日・・聖金曜日は4月22日となります。
聖金曜日の音楽ほか@ユーチューブ☆

関連記事:http://euridiceneeds.blog.so-net.ne.jp/2008-11-22
「続きを読む」以下は旧記事です。

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追悼 [PH]

追記
月曜日(6日)告別式の後、埋葬されました。関連記事を下に載せます。
_____________________________________________

待降節に入ってすぐ、クリスマスを前にして、ペーター・ホフマンが亡くなりました。
12月1日早朝、偶然知り驚きました。意外な早さでした・・神様のはからいのように感じます。

ネット情報によれば、数日前、風邪で具合が悪くなり入院。2010年11月29日夜肺炎で永眠。ネット上は訃報記事の行列。朝(12月1日)にはドイツ語の記事が一頁分ぐらいだったのですけど、夕方には英語の記事がどっと増え、同じような記事ですけど何頁も。グーグル検索24時間以内で128000件ヒット・・(2010.12.1夜)

弟さんの「彼にとって救済だと思う」とのコメントが見られます。そうだと思います。

残された奥様と幼い娘さんはお気の毒ですけど、きっと大丈夫、しっかりやっていらっしゃるでしょう。そう祈りたいです。天国で、カラヤンをはじめバーンスタイン、W.ワーグナー、G.フリードリヒなど、共にすばらしい仕事をした方々に大歓迎で迎えられていることでしょう。そう思いたいです。

歌手としての天分と人並み以上の努力で歌手として頂点を極めたうえに様々の偏見と闘ったことに、人間にとって最もつらい難病のひとつとの本当に長い間の闘いが加わって、彼こそ真の英雄になったと言えると思います。

それでも、やっぱり悲しいものです・・

2003年刊のバイオグラフィーに引用された記事を書いたアクセル・ブリュッゲマンの記事もありましたので、載せます。参考:2001年の記事
伝説の歌手 かつてのスターテノール、ペーター・ホフマンが死んだ
2010年11月30日 15:01 アクセル・ブリュッゲマン

引退したスターテノール兼ロックミュージシャンのペーター・ホフマンが66歳で死んだ
ph2010-21.jpg

生き方の見本として記憶に残るような出会いがある。ペーター・ホフマンとの出会いはそれだった。

私は若すぎて、彼のバイロイト、パトリス・シェローの百年記念「リング」でのジークムントに生で接することができなかった。私は、強力な声と上半身はだかの筋肉たくましい身体の英雄のやる気満々で情熱いっぱいの姿を、DVDでしか知らない。

ペーター・ホフマンは、私にとって、1990年代のヘルデンテノールとはまるで違っていた。クラシック界に対して時に中指を立てて見せた男。ドイツの「オペラ座の怪人」になったブロンドの巻き毛の男。エルヴィスの歌とロック-バラードをあちこちの市のホールをどさ回りして歌った男。モーターバイクでリハーサルに現れた男。

ホフマンは病気と果敢に闘った
カラヤンとバーンスタインと共演した彼のオペラを知って、その感情のこもった抒情的で、力強い、本物の声に非常に感動させられた私は、彼のことを知りたいと思った。その時には、ペーター・ホフマンはいつの頃からだったのか、すでに姿が見えなくなっていた。だれも理由を知らなかった。自宅で会う約束をした。

フィヒテル山地を抜けて、のどかな田舎の街道を走り、フリーダースロイト村(Friedersreuth)に着いた。ホフマンはここに古い学校を改装して住んでいた。彼のお母さんがビスケットを焼いてくれた。

居間の壁にアメリカの古い車のボンネットが掛けてあって、ヤンキーのバーみたいだった。彼自身はと言えば、ジーンズに木こりシャツ姿だった。ブロンドの巻き毛は薄くなっていた。「そもそも話す意味があるのかどうかわかりません。私は病気です。非常に良くないのです」と彼は言った。

彼は時計に従って生活している。規則的に薬をのむのだ。そうやって、彼は自分を苦しめているパーキンソンを抑え込もうとしていた。しかし、彼の身体は時にダウンした。「自分がパーキンソンになるなんて想像もできませんでした。私はオペラのブロンドの英雄役で、ロックスターでした。でも、この病気になってよい人など誰一人いません」

ペーター・ホフマンは病気と果敢に闘おうと決意した。基金を設立し、大勢の人を援助した。自分自身としては病気を認めたくなかった。ブリュンヒルデに従ってワルハラに行くことに抵抗したジークムントのように病気に真正面から立ち向かった。

ゴルフクラブを持ち出して、テラスのドアを開けて、元気な様子を見せようとした。ボールを打とうと試みた。一度、二度、三度目の後、言った。「待ってください。もうちょっとでうまくいくから」そして、野原の向こうまで飛ばして、笑った。一打する間、彼は自分の身体の主人に戻ったのだ。

最後の数年間、彼は車椅子で、パーキンソンとそれによって併発した認知症と闘った。

あの時、別れ際に彼は言った。「人々がオペラ座の怪人とワルキューレを覚えていてくれたらうれしい。この二つは私の人生の一部です」

昨夜ヘルデンテノールは神々の力をやむなく受け入れた。ペーター・ホフマンはヴォータンに従ってワルハラに行った。テノールは66歳で病に屈した。彼の世紀の声が私たちに残された。その声こそが、音楽の無境界性のために闘った戦士の残したもので、それは永遠に生き続けるのだ。彼の歌声こそ、ポピュラー音楽とクラシック音楽、両方の世界の英雄が死後に残した生命なのだ。原文
★ ★ ★

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「ドイツの新白鳥の騎士」 [PH]

2010.11.14:ついに来年、と再来年、「ドイツの新白鳥の騎士」が日本に登場予定です。来年秋にはヨナス・カウフマン・ローエングリン(バイエルン)←カウフマンはキャンセル。ボータ・ローエングリンとなりました・・、再来年6月にはクラウス・フローリアン・フォークト・ローエングリン(新国立劇場新演出、こちらにそのちらしがあります)です。←無事、来日出演。すばらしい公演となりました。

2010.10.7:下の方に追記があります〜〜
ちょっとおもしろい記事を見つけました。よく分からないところもありますが・・2009.4.27付けの記事のようです。見出しは「ドイツの新白鳥の騎士」
参考記事:ドイツの旧白鳥の騎士?

「時代は遷る・・」ですから「新白鳥の騎士」も必要ですが、
その前に、これこそ真の白鳥の騎士。ペーター・ホフマンのローエングリンをどうぞ。(左の写真はペーター・ホフマンのローエングリン。バイロイト音楽祭1979-1982。DVDも出ているもの)
☆ユーチューブ再生リスト:ローエングリン☆

さて、ネットで見つけた記事「ドイツの新白鳥の騎士」を簡単にまとめると、こういうことです。
「ドイツ人スターテノール不在のなか、ヨナス・カウフマンとクラウス・フローリアン・フォークトがドイツの歌劇場の舞台を奪還した。だが、フォークトは苦戦。カウフマンのほうが優勢で、快進撃中。フォークトはドイツ北部出身のいかにもゲルマン人タイプであるのに対して、カウフマンは南方系の風貌なのが最大要因である。何と言っても、人気があるのはラテン系のテノールであるから、それに近いカウフマンが絶対に有利」

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テクニック [PH]

歌手にとってテクニックとは何なのか、声楽はもちろん、音楽に関する専門的な知識皆無の私には、実際のところ、全然わかりません。ペーター・ホフマンに関する批評は活字、インターネットでいろいろと目にしてきました。彼らの言う「テクニック」の意味、また、その批評の専門性については、これも判断のしようがないので置いておくとして、「テクニックがない」というものを目にすることがあります。「専門教育を受けていない」とか「楽譜が読めない」といった評もけっこう目に留まりますが、これも、その意味するところが不明確です。

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オペラとミュージカル [PH]

2010.9.16
ハンブルグでのドイツ初演「オペラ座の怪人」の舞台映像の一部がユーチューブにアップされているとのご連絡をいただきました。提供者はなんと共演者、アンナ・マリア・カウフマン。あまり鮮明な映像ではありませんが、思いがけない、うれしいびっくりです。

Teil_1Teil_2Teil_3(終わりの方に怪人登場)/Teil_4(怪人の隠れ家、中国風の格好をした怪人。クリスティーンが怪人の仮面をとってしまう場面)/Teil_5(オペラシーン。声がおかしくなるソプラノ歌手)

別のときの映像:2番目のカップル。怪人はスーツ姿です。 ユーチューブ

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チャリティ [PH]

pic-13.jpg慈善事業や記念事業に対する協力、参加も歌手の仕事のひとつのようです。ホフマンも1980年代半ばごろから、様々なチャリティ行事に出演。例えば、1987年には、オペラ出演とポピュラーのレコーディングの合間に、いくつかの慈善ガラ・コンサートに出演。その一部はテレビ録画されたそうです。こういう活動は、クラシックとかポピュラーとか分類できません。←左上の写真はエイズ・ガラ・コンサート1987年

pic-8.jpg「ミュンヘンでのエイズ・ガラ・コンサートとバイエルン国立歌劇場でのマリアンネ・シュトラウス財団のための慈善ガラ・コンサートは特筆に値する。大勢の有名なポピュラー歌手と共に「援助の手」プロジェクトにも出演した。『ようこそ、ミュンヘンへ、映像による夢の都市レビュー』と題する記念番組では、ルートヴィッヒ二世の写真が挿入されたあと、『ローエングリン』からグラール物語を歌った。」(伝記2003年刊)→右の写真は『ようこそ、ミュンヘンへ、映像による夢の都市レビュー』と題する記念番組1987年。J.イェルザレムに似てませんか・・この二人って、背格好もですが、写真写りによっては顔もけっこう似ていることがあります・・ダブルとか便利だったことでしょう。

伝記(2003年刊)につけられたディスコグラフィーに、チャリティーという項目があります。
慈善活動のレコード
*愛の歌、ベルリン心臓連盟に対する寄付LP 1984年
*援助の手、エイズの子どものためのガラ、シングル 1987年
*ダーウィン、進化 生命の輝き、自然保護運動 ファルコ、スージー・クワトロほかCD1992年 (THE BOLLAND PROJECT DARWIN the EVOLUTION
*その他、さまざまの関連シングル

ホフマンは非常な子ども好きだということですが、病気の子どもに対しては特別に関心が深かったようです。伝記でも小さな子どもの手術をする医者のすばらしさについての発言があります。一カ所引用します。
* * *

なくてもいいものという気持ち

 時々、このなくてもいいものという気持ちがわき起こる。歌手として、なくても済むという感じ。いつだったかロンドンか、シカゴかで、どこかのホテルに閉じこもっていた。そのとき、テレビで、子どもの心臓、まったく小さい赤ん坊の心臓を、手術をしているある医者のポートレートをやっていた。カメラは彼の一日を追っていた。私には彼は超人のように見えた。いかにミリ単位が重要か、どうやって小さな心臓を縫合したり、切開したりするかといった、物凄く複雑な過程を目で追うことができた。そして、家族全員が関わり共に苦しんでいるということも。こういう人は、うまくいけば、生命を与える「力」を持っている。当分の間は・・。それにしても、私がしていることは、たいして必要とされていることではないという気持ちがぬぐえなかった。
 今ここに、「喜びを与える」という論拠を持出すことはできる。根源的な喜びをだれかれなく与えることができれば、けっこうなことだ。ひょっとしたら間違った人に感銘を与えるかもしれないが、同じようなことだ。しかし、その時だけのことだ。それにしてもやはり、不満が残る。私は技術を習得し、今、お金と引き換えにそれを提供している。あの医者ももちろんそうだが、彼の場合、もっと他利的なように思われる。きっと彼は私より沢山稼いでいる。だが、彼がしていることと私がしていることの間には、どうしようもなく大きな落差があるような気がする。朝、私は手術台の前ではなく、舞台の上に立っていて、前にやった正確にその箇所で、もうちょっと早めに悲しむように演出家に求められているのだ。
 何も気がついてくれない人たちのためにあくせく働いている、あるいは、ある演出を勉強していたところ、「交換」された上、次の歌手は、自分が頑張ってやっていた十分の一も打ち込んでいない、という感じがしたりするとき、特に、こういう気持ちになる。やめたい気持ちでいっぱいになる。(1983年刊)
* * *

ERSTMALS FUER DIE BERLINER-HERZLIGA SINGEN GEMEINSAM PETER HOFMANN & DEBORAH SASSON
LieblingsliederI 1984

memo47.jpgIVORY MAN/Peter hofmnn
SCARBOROUGH FAIR/Peter Hofmann & Deborah Sasson
THE SUN AIN'T GONNA SHINE ANYMORE/Peter Hofmann
LET IT BE/Peter Hofmann
BRIDGE OVER TROUBLED WATER/Peter Hofmann
IF I HAD YOU IN MY ARMS AGAIN/Deborah Sasson
FAIRYTALES/Peter Hofmann
ローエングリン "In fernem Land"
ワルキューレ "Winterstuerme wichen dem Wonnemond"
ボエーム  "O soave fanciulla"
蝶々夫人 "un bel di vedremo"
椿姫 "E strano . . .ah, fors' e lui"
↑このベルリン心臓連盟に対する寄付LPに入っていた冊子に載っていた写真。ベルリン心臓連盟の会報でしょう。最初のが表紙。
ph_charity.jpgph_charity2.jpgph_charity3.jpgph_charity4.jpgph_charity5.jpg


THE BOLLAND PROJECT DARWIN the EVOLUTION 1991
THE BEAUTY OF LIFE peter hofmann(★ユーチューブ★)
darwin-1.jpgdarwin-2.jpgdarwin-3.jpgdarwin.jpg

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交通事故(1977年)の影響 [PH]

77tirasi_3.jpgペーター・ホフマンの1977年6月の交通事故の影響、考えたこともありませんでしたが、日本にもあったことが判明。ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する記録を集めたhttp://karajanbbs2.progoo.com/bbs/で、新しい情報を得ました。運命を呪いたくなる・・種類の情報ですが、やはり新情報はうれしいし、貴重です。管理人様、ありがとうございます!

1977年11月、第20回大阪国際フェスティバル記念・東京特別公演は、カラヤン指揮によるベートーベン・チクルス、13日〜18日東京・普門館でのコンサートでした。演目は、交響曲1番〜9番とピアノ協奏曲3番、5番。この時のライブ録音が、今年2010年10月10日『TOKYO FM 開局40周年記念盤』として交響曲のみ、5枚のディスクに収録してリリースされるのだそうです。

そこで、びっくり、がっかり、残念なのが、この時の最終日11月18日(金)第九の独唱テノールが、なんとペーター・ホフマンの予定だったということです。このサイトでは当時のちらし等も収集掲載なさっています。独唱者未定のちらし(ベートーヴェン・チクルスのパンフレット1)もありますが、独唱者の明記されたものもあります。→右の画像

それによると、11月18日(金)の交響曲第9番の独唱はテノールがペーター・ホフマン。ソプラノ:バーバラ・ヘンドリックス(ソプラノ)、ヘリヤ・アンゲルヴォ(アルト)、ハンス・ゾーティン(バス)となっています。ベートーヴェン・チクルスのパンフレット2
77tirasi_4.jpg

実際に出演したテノールは、ヘルマン・ヴィンクラー。テノール以外は予告通りの出演者です。
77prog.jpgベートーヴェン・チクルス第6夜 交響曲第九番のプログラム

当時ペーター・ホフマンは日本では完全に無名だったでしょうから、テノールの変更があってもだれも気にせず、話題にもならなかったと思われます。

テノール変更の理由は、ホフマンの交通事故(1977年6月)による休業におそらく間違いないと思います。オートバイでの事故で、健康で頑丈な若者でも社会復帰には最低2年はかかるというほどの大けがだったそうです。1977年夏のバイロイト音楽祭には当然ながら出演できなかったけど、この時期には病院からしょっちゅう出歩いていて、バイロイトにも出没していたそうです。このように、ホフマンは、医者も驚くほどの急速な回復ぶりだったそうですが、さすがに仕事はおよそ9ヶ月完全休業。復帰は1978年2月ロンドンでの「魔弾の射手」。器具をつけて、困難な動きの必要な場面ではスタントを使っての出演。もちろん完治というわけではなく、舞台出演は減らし「魔笛」のスタジオ録音などを優先させたそうです。

コンサートとは言え、11月に遠い日本へ行くなどは許されないことだったでしょう。事故のため「相当数の仕事をキャンセルした」と伝記にもあります。これにカラヤンとの来日コンサートが含まれていたわけです。

あの大事故がなければ、ホフマンの第九独唱がカラヤン指揮、しかも日本でのコンサートの録音で聴けた可能性大です。実に間の悪いことです。

以下は、2003年刊の伝記から事故に関する部分です。

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大きさ [PH]

2010.7.22 追記
ユーチューブの関連動画にありました。ずっと前にもあったのですが、そのときはミレイユ・マチュウの別の動画とセットでした。画質は一段と落ちてるみたいですが、単独なのでリンクします。スカボロフェアのデュエットです。



これを見ると、ミレイユ・マチュウがとっても小柄なのかもしれませんけど、オペラ(映像)で共演している女声歌手がいかに大きいかわかります。

以下、過去記事

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