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前書き [WE NEED A HERO 1989刊]

前書き 論点と方法
   これは主として、オペラの歌唱に関する著述である。すなわち、声のタイプ、歌唱スタイル、演劇的表現などの発展に関する研究である。しかし、同時に個々の人物に関する著作でもある。つまり、個々の人間とその芸術家としての生き方をも扱っている。ソプラノのデボラ・サッソンは、『歌うことは請負い仕事(ジョブ)ではない。そうではなくて、一生をかけてかかわり合っていくものだ。生活と舞台は切り離せるものではない。それは、感じるようにしか歌えないからだ』と言った。だから、およそオペラ歌手の歴史を研究するなら、歌手のキャリア、歌手の関心のありか、歌手の気質、歌手の環境など、ひとりの歌手の全人格の総合的研究であるべきだ。
 この本はテノールに関するものである。それも、芸術家の中でも稀有な種族、しばしば軽蔑的な冗談の対象にされている種族、めったに批評家の賞賛をあびることのない種族、つまり、人間の声としては、特殊で不自然なテノールを扱っているというだけでなく、さらに、はるかにエキゾチックな種、すなわちヘルデンテノールに心を奪われたものの本である。ヘルデンテノールとは何かという、このエリートの仲間に入るための「会員規則」の定義及び、過去150年間の英雄的歌唱に関する主な解釈についても批判的な議論を試みたい。
 というわけで、要するにこの本は論文である。広範な研究調査に基づいて価値判断を下した批判的な歴史書である。したがって、当然ながら、普遍的な基準と個人的な好みの両方の産物である。ラウリッツ・メルヒオールこそがヘルデンテノールの芸術の頂点であるとの盲信を確認することを望む読者は、失望するだけだろう。しかし、私としては少なくともヘルデンテノールの芸術に関する新たな展望を提供したつもりであるから、19世紀半ばのドイツの英雄的歌唱の源から今のオペラの舞台までを辿りたいと望む頭のやわらかなオペラファンなら、説得力のある、刺激的な分析を発見するだろうし、著者としては、そう願っている。
 このような歴史に対する需要があることは明白であると信じる。この本の中で、歌手の個別の伝記と研究を沢山扱ったが、英雄的テノールの生活、キャリア、感性を示すものや、ヘルデンテノールの歌唱におけるスタイルの発展と個々の歌手の芸術的業績の両方の記録や彼らの仕事を分析したものは今日まで存在しなかった。
 私の研究は、書かれたものと聴いたものの両方の資料によっている。すなわち、三つの言語による伝記、インタビュー、批評、新聞記事、市販されている録音、私的な録音、ビデオ、他の歌手との接触、実際の公演に行くことである。この資料の質と量は、個々の歌手によって異なるので、評価基準が一定でないという批判がありうる。しかし、この問題に関して超自然的な被造物を発見することができないとすれば、他に適当な資料は得られないので、たとえ、不完全であっても手元にある資料で満足するしかない。これが賢明なやり方というものだ。
 公平な比較基準と高い客観性を求める批判的歴史家が直面する問題は多い。書かれた資料は、聴覚資料よりは、おそらくは比較検討しやすい。しかし、これらもまた、興味深い疑問を投げかける。特に、録音のない時代の歌手にとってだが、20世紀後半の歌手にとってさえも、(実際、著者が個人的に証人になっていない上演についても)、批評が歌手のキャリアにとって主たる資料になる。そして、ジャーナリスティックな批評は、評論家を尊敬するにやぶさかではないが、歌手のポートレートを描くには限界がある。研究者はそれぞれの時期の美に対する好みの変化を把握していなければならない。例えば、アルバート・ニーマンが、偉大な『写実主義的な』俳優だったという、同時代のジャーナリストの証言を、ニーマンが、ペーター・ホフマンの視覚的な意味での演劇的衝撃や写実性と同程度のものを有していという意味にとれるだろうか。ホフマンのオペラにおける演技の映画的性格などということは、ニーマンの時代には予想だにできない基準だったことは間違いない。それに、個々の評論家の偏見(バイアス、先入主)というものもある。ワーグナーの作品に対するハンスリックの態度は有名だし、歌手に対する現代の批評をよく読めば、ジャーナリストによってそれぞれ「傾向」というものがあることに気付くはずだ。これはごく人間的なことだが、極端に否定的批評や、肯定的批評を多少とも中和するために議論すべき要素である。同様に、批評の中に現れる国民的好みの類型がある。現代のヨーロッパにおける批評は、例えば、ヴォルフガング・ヴィントガッセンのリリックなテノール(echt Tenor)を好む傾向がある。アメリカはこの逆だ。劇場のサイズ、オーケストラの音色、オペラの伝統などが、好みを形作っている。このようなわけで、批評は、その文化的背景の中で読まれなければならないし、歴史的な概観がのちに同時代の判定をくつがえすかもしれないことも知るべきだ。最後に、前世紀よりも最近その傾向が強いのだが、音楽ジャーナリズムに繰り返し見られる嫌なパターンがある。私はもうすっかり慣れてしまいうんざりしているのだが、マスコミはある歌手について、センセーショナルに新発見を告げ、蜜月期間はこの歌手を擁護し、その長所に比べて、その欠点は見逃されるが、だいたいキャリアの中期にさしかかったころ、突如、同じ歌手に対して、まさにいったんは見逃されていた欠点を綿密で、厳しい検査にさらし、声楽的危機といったレベルで問題にする。そして、もし歌手が、寿命と健康と芸術性に恵まれ「成熟期」まで生き延びれば、再び賞賛し、(長いキャリアを保ったマックス・ローレンツやジョン・ヴィッカーズのように)神格化する。
 このようなジャーナリスティックな常道に対する解毒剤は録音に立ち返ることである。分析的に聴きながら、批評を読むことである。1901年以降は、録音資料が存在する。歌手のキャリアにおける各時期の代表的な録音を見つけ、スタイルの性格を正確に指摘すると同時に声楽的な展開を示そうとするのが、私の方法である。しかし、19世紀のヘルデンテノールに関しては、録音はないので、批評と、第一次的資料すなわち、専門家の判断と合わせて、手紙、日記など同時代の素人の資料にたよるしかない。
 また、録音が存在しても、質の問題がある。古い録音には音質の問題がある。ジャン・ド・レズケのローエングリンのシリンダー録音は、轟音をたてるゴミ処理車の上で歌っているかのように聞こえるのだから、その当時の証言や、この偉大な歌手に与えられている歴史的賞賛と一致させるの難しい。ハイテクによる新しい録音でさえ、技術的な音というものが、実際の声を録音がとらえうるか、それとも、とらええないのかという疑問を投げかけるのだ。リリックなヘルデンテノール(例えば、コロやイエルザレム)の録音では、実際の舞台とはほとんど一致しないような音と重量感を達成している。従って、商業録音と生の舞台を天秤にかけバランスよく聴くことが重要であるが、当然のことながら、劇場で聴くことが一番である。それでも、ライブ録音は非常に貴重な資料である。私はメトロポリタン歌劇場でメルヒオールやスヴァンホルムを一度も聴いたことはないが、それでも、彼らのスタジオ録音にくらべれば、そのラジオ放送は芸術家としての彼らについてはるかに多くを語ってくれる。ただ初期的衝撃を受けるだけでなく、さらに、上演について研究できるというおまけまで提供してくれる。この本における分析の大半は、録音資料を繰り返し聴き、研究したことに基づいている。私としては、より深い検証に入る前に、最初に聴いたときの第一印象を捕らえるべく最大の努力をした。結局のところ、一つの音でさえローレンツやホフマンのトリスタンの舞台を完全に再現してはいないが、この役における二人の最高の歌手を目の前にした全体的な印象を損なってはいない。舞台の映像記録も、同様に分析的に使える。ちょっと主観を述べさせてもらえば、映像記録は、近年メディアが促進している研究と聴衆の成長にとって非常に大きな補助手段の一つであり、近代技術はオペラに貢献していると思う。幸いなことに、この十年、オペラ上演のビデオが多数提供されており、この研究においてもかなり利用した。  前述の問題に加えて、比較史を書くに際して、研究材料による、内在的な問題も存在する。この本では、個々の歌手の証言は、その歌手の歴史におけるユニークな位置付けとヘルデンテノールの伝統における評価を重ねて選択した。
 比較するのは常に困難を伴う。すでに明らかにしたように、歌手は、劇場のサイズ、オーケストラ、現在の、また歴史的な美にたいする好み、技術、マスコミの傾向など、異なる多様な状況に依存している。そしてまた、主観的判断も無視できない部分を占めている。最近、雑誌「オペラ」の編集者であるロドニー・マイルズからもらった手紙の中で、彼が率直に書いていたことだが、誰一人として同じ音を聴くことはないのである。不可能なことかもしれないが、芸術を評価するにあたって、絶対的な基準として、客観性は美徳である。歌うことは、その輝かしい情熱的な音に対して、なによりも、官能的で、性的でさえある原初的な反応を引き起こす。それは、たいていは知的な反応ではない。音楽劇としてのオペラは、その濃密な演劇的コミニケーションとの原始的呼応によって成り立っている。最初の本能的印象のあとではじめて、訓練された耳や目を使ってそこにある上演に対する分析、批判、考察、評価に立ち戻るのだ。 一例をあげると、私はビブラートに対して、相当寛容である。ビブラートは、ビブラートのない感情を含まない声を好む聴き手を憤慨させるが、私にとっては、たいていの場合、私のなかの個人的な反応を激しくかきたてる感情の高まりそのものである。私は、エネルギー溢れる、ゆたかな陰影を持った声が好きだし、暗めのヘルデンテノールの響きを好む傾向がある。情熱や性的な感覚を呼び覚ますような色合いを持った声に影響されない振りをしたいとは思わない。オペラは、まずは音楽か、それとも 音楽劇かという問題に対しては、きわめてはっきりとした意見を持っている。この観点から言えば、私は当然偉大な歌役者たちに肩入れする。こうした私の嗜好が、一部の読者のお気にいりかもしれないし、多くの百科事典的歴史には名前が載っているに違いないような、尊敬を得ている多くの名前が省かれている主な理由かもしれない。しかし、だからと言って、私の選択が、歴史上のヘルデンテノールの声、スタイル、芸術性を幅広くとらえることを不可能にしているわけではない。評価において、若干の主観も明らかに見られるかもしれないが、内容と分析に対する包括的な基準のほうが、本能的かつ主観的反応をしのいでいると思う。
 この歴史書においては、声の独自性と美しさ、劇的表現能力(声楽的な意味だけにしろ、総合的な歌役者としてにしろ)、ヘルデンテノール芸術の展開に対する総合的な芸術的貢献によって英雄たちを選んだ。そして、ひとりひとりの歌手たちをひとりの人間として考えている。歌手をシンギングマシン(ペーター・ホフマンの言葉を借りれば)と見るような批判的分析を避ける努力として、芸術家としての仕事に対する、歌手自身の内面的欲求からの発言をできる限り優先し、可能な限り常に個人的経験を拠り所とし、他人の証言はなるべく使わないようにした。それによって、一般の読者とオペラファンによりわかりやすい記録を提供したいと思う。批判的分析を離れて、17人の特別な男たちとその音楽に関する、おもしろい人物像や楽しい逸話や実際的情報なども提供できたらいいと思う。
 この本で論じたヘルデンテノールたちは多様な芸術的運命を負っている。びっくりするほど似ている部分もあるが、彼らのたどったキャリアや、キャリアの長さ、役の数や分布、さらには彼らが携ったヘルデンテノールの役でさえも、一般化することはほとんどできない。真性のテノール( echt Tenors)もいれば、重いテノール(schwer Tenors)もいる。数人の歌手は役を狭い範囲に限定したので、より重いレパートリーを歌う全幅的なヘルデンテノールというよりもむしろ若々しい英雄( jugendlicher Held)と呼ぶほうがいいのかもしれない。演劇としてのオペラに対するアプローチの仕方も相当違いがあるが、集団としても、個人としても、高貴な芸術を推進しており、ヘルデンテノールの歴史のひとこまを代表するに値することはまちがいない。
 多様な個人である17人のヘルデンテノールたちには、いくつかの必要不可欠な共通項がある。その芸術に関わるエネルギーと情熱、声の美しさ、響きの独自性、劇的信憑性などである。彼らにとって、歌うことは魂と音に火をつける技なのである。

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