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参考-2 [2003年刊伝記]

ペーター・ホフマン『英雄の半生』
Peter Hofmann - ein Heldenleben, Sonntag, 21. Oktober 2001Berlin, 01:43 Uhr, WELT AM SONNTAG

  病気に妨害されながらも、ペーター・ホフマンは引き続き音楽活動に対して積極的でした。1999年の10月と11月には新たなツアーに出かけました。『オペラ座の怪人』で相手役だったアンナ・マリア・カウフマンと共に、20以上の都市で、『ミュージカルとポップスからのハイライト』を歌いました。彼は自分の肉体的な苦痛の扱い方をよく心得ていたため、舞台上の彼を見た人は、病気についてほとんど何も感じなかったということです。このツアーのあと、最終的に歌手活動からは引退して、よりプライベートな生活をするようになります。
 2000年の12月、ペーター・ホフマンは、ソフィア・ラジオ・シンフォニーオーケストラと共に『2000年、聖夜』のクリスマス・ツアーを行って、再び舞台に立ちました。彼のクリスマスの歌をはさんで、コンサートのはじめと、終わりには、喜びにあふれながらも瞑想的なクリスマスの物語が、彼の友人である俳優のアーサー・ブラウスによって、朗読されました。

 その日の新聞には、ペーター・ホフマンに関することが載っており、さらにたいていはパーキンソン病関連の記事もありました。マイケル・J・フォックスや、モハメド・アリや、ローマ教皇に関する、数えきれないほどの記事のすみにペーター・ホフマンも『運命の仲間』として名前が載てはいたものの、ひとりの人物として、芸術家として扱った記事はほとんどなかった中、ジャーナリストのアクセル・ブリェッゲマンが 2001年10月の『日曜日の世界』誌に書いた記事は賞賛に値する例外であると伝記の著者は言います。ブリェッゲマンは『ペーター・ホフマン  英雄の半生』と題して、客観的に、しかし同時に、思いやりを持って、歌手の引退生活を、感情を交えず伝えています。

* * * 

  かのヘルデンテノールは重いパーキンソン病を患っている。彼は今はじめてこの苦難に対する闘いについて語る。

 ペーター・ホフマンは、何度も繰り返し、こんな夢を見ている。大勢の人々から逃げて、高層ビルのてっぺんに向っている。大勢の人の群れが彼を追いかけてくる。ビルの上に到着し、立ち止まって、『止まれ』と叫ぶ。そのあと『見るがいい。私に何ができるか』と叫んで、そこから飛ぶ。それでおしまいだ。そのあと、目が覚める。

並はずれた才能を持つヘルデンテノール。その彼が、レザー・ルックのジークムントとして、甲冑に身をかためたローエングリンとして、オペラ座の怪人として、その上、カントリー・コンサートでは、自信に満ちたエルビス・プレスリー歌手として、舞台に立っていたその時は、昔のまま、色褪せることはない。

2年前ペーター・ホフマンはパーキンソン病であることを公表した。モハメド・アリと同じ病気である。ホフマンはバイロイトの近くの村の古い学校の校舎を買って、改装して住んでいる。今はインタビューもない。新聞もない。トークショーもない。土曜日、彼は初めて例外を設けた。

 オーバープファルツの奥地の早朝。牧草地はまだまるで白い毛布のように霧が低くたれこめている。その向こうに太古からの休火山がぼんやりと見える。絵はがきのように美しい。ホフマンが馬から降りる。巻き毛の金髪。ジーンズに革のブーツ。57歳の身体は、いまなお、堂々として立派な体格を保っている。完璧なマルボーロ・カウボーイだ。かつて彼は確信的な非喫煙者だった。今はときに指の間にタバコを挟む。『でも、ただふかしているだけです』

 丘をはずみをつけて力一杯駆け上がることもできる。ゴルフクラブを握って背中のうしろに振り上げ、ボールをかっ飛ばす。病気には見えない。練習用のネットに飛び込むどころか、ボールは火山の上まで飛んで隣の牧草地に落ちた。『まあまあだ』とペーター・ホフマンは言う。彼のハンディは驚くことに今なお18だ。数週間おきに、農家の人が彼のボールを集めて持ってきてくれる。

 田舎の森の中の家の上の階で、ホフマンは音楽生活を送ってきた。グランドピアノ、ウィングチェア、厚いカーテン、寄せ木張りの床、ビデオとCDのコレクション。階下は白いタイル張りだ。そこには何があるのだろうか。現代的なジークムントはこの遊戯室から生まれたと言える。グループ『キス』のパンクっぽい漫画が描かれたピンボールマシーン、今もホフマンが遊んでいるビリアード台、それから、ちょっとしたまがいものに違いないピンク色の高級アメリカ車の模型。壁にはゴールド・レコードが掛けてある。オペラやカントリーの録音のそばに『ロック・クラシック』 ごく最近『オペラ座の怪人』に与えられたトリプル・プラチナが加わった。額縁にはオペラ座の怪人の仮面がぶらさがっている。歌手はそのキャリアのトロフィーを誇らしげに見せてくれた。

その時、腕時計が震えた。『薬の時間です』とホフマンはまったく普通に言う。一日に5回服用しなければならない。 そうすることで、ほぼ通常の生活ができる。彼は長い間その時計を探した結果アメリカで見つけた。それは『震動アラーム時計』で、時間通りに薬を服用するために発明された。けたたましく鳴ることなく、静かに警告してくれる。『特に劇場で客席に座っているときには便利です』

 ホフマンのパーキンソン病は密かに忍び寄って来た。まず身体の運動機能が時折止まるようになった。ちょうどツアー中で、そのときは何も気にしなかった。恐らく疲労がたまっているのだと思った。歌うのをやめる理由はなかった。あとから思えばと彼は言う。『すべてを軽く考えすぎていました。重大な病気だとは思いもしませんでした』 コンサートの批評は嘲笑的だった。ある批評には『今夜の歌手は家で寝ていたほうがよかったと言うべきだ』と書かれた。他のは『ホフマンはよく闘った』といった具合だった。彼のようなオペラの不死身の英雄もまた重大な病気になりうるとは誰も考えなかった。少なくとも彼自身想像だにしなかった。

 症状がひどくなって、治療を求める苦難の旅が始まった。ある医者によって『あなたはおそらくパーキンソン病です』と断言されたとき、その診断を信じたくなかった。『この病気は私には似合わない』というのがホフマンのホームページのキーワードになっている。それから彼はそれを普遍化する。『この病気はだれにも似合わない』 しかし彼のような男にはまさしくまったく、そして絶対に似合わない。カウボーイは病気にならない。そして、もしそうなった場合、認めたがらないものだ。

 ホフマンはマスコミの同情を呼ぶのが嫌だった。だから、病気のことを公表しなかった。『公表してからはずっと気が楽になりました』 彼は病気をひけらかして注目を集めるのではなく、病気と闘いたいと思っている。パーキンソン病研究を援助し、慈善ゴルフ・トーナメントやガラ公演を計画・実行する。自分のインターネット・サイトでパーキンソン患者のためのリハビリ施設を紹介、推薦する。

 時たま、片手を椅子に押し付ける。震えを鎮めるためだ。彼の声は豊かに響く。精神を集中して力強く話す。時々、病気はなんら打撃を与えていないかのように思われる。だからこそ、この病気は人類の敵であり、全力で闘って、根絶するべきなのだ。彼はときおり話を中断する。精神を集中するためだ。この現象を彼は『封鎖』と呼ぶ。『突如起こります。それだけのことです。突然激しい不安感に襲われます。全ての力を身体に集中させなければなりません。朝起きるとき、ほんとうにどうしたらいいかわからないことがあります』

  こういう虚弱感は、彼が舞台で演じていたときには、全然知らなかった感覚だ。クラシック音楽でもポピュラー音楽でも、強い不死身の役を常に追究してきた。そういう点では、ジークフリートとオペラ座の怪人、カントリー・ミュージシャンとロックシンガーの間に違いはない。

 ペーター・ホフマンは彼の役を自分と無関係の見知らぬ人物として演じたのではなかった。そういう役に彼自身の生き方を投影していたのだ。そして、それらは、常に前に進むという彼の生き方の指標となった。兵隊時代にすでに、彼にとって人生は冒険だった。ベルクツァーベルンのパラシュート部隊にいたころ、ホフマンはシャワーを浴びながら、口ずさんでいた。『音響効果がすばらしかったから』

 ホフマンは、ワーグナーの世界がヴィントガッセンの後継者を待っていたときに、オペラの舞台に登場した。彼は新しい世代を代表していた。憑かれたように精力的に人生を楽しむジェット歌手の世代だ。彼はヴッパータールでの公演終了後、オペラの扮装のままトゥールーズ行きの夜行列車に乗っていた。一連の「ワルキューレ」公演を開幕するためだった。疲労困憊して、ふらふらになってしまい、成功するとは思わなかった。『あのころはワルキューレを二公演、続けて、歌うことができた』と今の彼は言う。

 食堂の壁には、どっしりとした剣、ノートゥングが掛けてある。この剣は、世界を支配する神のヴォータンが息子ジークムントに強さの印として約束したものだ。ホフマンはこれを1976年にバイロイト祝祭劇場の世界のトネリコの幹から引き抜いた。そう、まさに彼はそれを引き抜いたのだ。ホフマンは、フランス人演出家パトリス・シェローのうるわしい月光の下で、気楽にくつろいでちょっとだらしない感じで座っていた。それから、ジークリンデのジャニーヌ・アルトマイヤーと一緒に、黒い幕が降りるまで、地面を転げ回った。

 これこそ、彼が一躍世界に認められた瞬間だった。これほど生き生きと活気に満ちたジークムントはいまだかって存在したことがなかった。愛すべき存在だった。うっとりするほど魅力的な男だった。彼ほど官能的なジークムントはいない。ペーター・ホフマンは生まれながらの英雄だった。

 今日までホフマンは奔放なおおらかさを失っていない。かつて、彼はこのおおらかさで、お楽しみ係として、くそまじめなバイロイトを支配していた。練習期間中の休日には歌手たちのためにフランケンの森を巡るオートバイ旅行を計画した。彼を動揺させるものは何もなかった。人気順位も熱狂的なファンも。

 今も彼は何一つ諦めてはいない。パーキンソン病を患っていても、子どものような遊び心を保っている。その瞳には今もなおユーモアの喜びが揺らめいている。それは、かつて圧倒的な紋切り型のワーグナーの枠からはみだした時と同じユーモアの感覚である。庭の二羽の白鳥にターザンとイゾルデと皮肉っぽく名付けている。何よりも愛したワーグナーをユーモアいっぱいにたたき壊そうというわけだ。それは、マスコミが彼をおおげさに祭り上げようとした、青い目で金髪の体格のよい『メイド・イン・ジャーマニー、ドイツ製』のジークムントといった、くそまじめなステレオタイプに抵抗したのと全く同じだ。

 実際のところ彼は今はもう自分の昔の録音を聴きたいとは思わないが、『そうは言っても、やっぱり時には誘われて、思いがけず部屋の入口に立ちどまって、往時を思い、すばらしかった時をもう一度味わう』と言う。彼は依然として現代的なジークムントのままだ。病気にもかかわらず、今も馬に鞍を置く。オーバープファルツ地方の静けさの中で、思い出を整理しようとしているのだ。そして、閉じた幕のうしろで、病気と闘っている。ビリヤード台の前で、ゴルフ・トーナメントの会場で、あるいは、朝霧の中を草原を越えて馬を駆けさせながら。そんな時、年はとっていても、また昔通りの飛び抜けた奴のように見える。まるで、夢の中で迫りくる人々の群れを逃れて高層ビルから飛び去るときのように、軽やかに見える。(2001年10月21日、日曜日 ベルリン)
* * * 

 パーキンソン病には、決定的な治療法は まだ ないし、まったく同様に、患者に施される治療法もわずかしかない。この病気は、患者によって、ひとりひとりちがった進行の仕方をするし、薬の効果も患者によってひとりひとり違うし、投薬の身体に対する負担の度合いも同じではない。薬の効き目は、同一人においてさえ、日によって違う。パーキンソン病は挑戦である。日々、新たな事態に直面せざるをえないし、いつも同じようにうまくいくとは限らない。
 よりによって若くしてパーキンソン病にかかった人たちは特に深刻である。なぜなら、生活も仕事も現役の最盛期に、病気にかかってしまうのだから。このころは、まず第一に年齢と身体の衰えを結び付けて考える時期でもあり、まだ若さと欠点のない身体こそが最高の財産であるようの思える時代でもある。突然、もはや以前のようには、身体が機能しないということは、受け入れ難い。いったいだれが、業績だけが意味を持つ社会において、自分の弱点を喜んで認めたがるものだろうか。
 突然、舞台上にしろ、あるいはカメラの前にしろ、もう二度と立てなくなるなら、外科用のメスが二度と握れなくなったり、エンジンの修理ができなくなったりするなら、なんという事態だろうか。  パーキンソン病は未経験の境界線を設ける。当然のことが、挑戦になってしまう。全く思いもしなかったことが、突然困難になる。
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