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ヴォルフガング・ワーグナー談 [2003年刊伝記]

ペーター・ホフマン、輝ける男~ヴォルフガング・ワーグナー

lbktheatr.jpg 演出家、ゲッツ・フリードリヒは、リューベック歌劇場の専属歌手だったペーター・ホフマンに注目し、バイロイト音楽祭にふさわしいと考え、1973年8月12日に、バイロイト祝祭劇場において、パルジファルとローエングリンのオーディションを受けさせた。ジェス・トーマスのような声質、際立つ容姿の、長身で、金髪の現代的なタイプのペーター・ホフマンに、バイロイト音楽祭が興味を持ったことが、記録に残っている。
 1975年に、ホフマンのエージェントと、1976年の音楽祭の配役、すなわち、ローゲ、ジークムント、パルジファルについて交渉した。エージェントは、ホフマンがジークムントを引き受けたがっている旨、伝えた。バーデン・バーデンで、ピエール・ブーレーズ及びパトリス・シェローとの事前の話し合いのあと、1976年の「ニーベルングの指環」4作全上演の「ワルキューレ」で、ホフマンがジークムントとして配役表に載ることが決まった。ジークリンデ役は、まず、ハネローレ・ボーデ、その後、ジャニーヌ・アルトマイヤーと契約した。アルトマイヤーは1975年にすでにシュツットガルトの舞台でペーター・ホフマンとウェルズングの双児の兄妹として共演していた。二人はとても似ているので、実際に兄妹だと思った人もいたのではなかろうか。
 ホフマンはこの年、ジークムントに加えて、パルジファルを6回歌った。バイロイト史上最年少のパルジファルだった。それゆえ、彼のバイロイト初年は非常に忙しかった。彼はこの時期、大きな成功をおさめ、観客にもマスコミにも、熱狂的に歓迎され、祝福された。
 1977年、ホフマンは、オートバイ事故のため、残念なことに休演を余儀なくされた。それはまさに前代未聞のできごとであった。高速道路の駐車場で一台の警察車両が逆方向に走ってきたのだ。ペーターは避けられず、重傷を負った。しかし、幸いなことに、最悪の事態は免れた。彼は当時すでに、至る所で、ワーグナーで大きな成果をあげていたので、彼のパリのエージェントはおよそ1年分の契約をキャンセルせざるをえなかった。1978年のバイロイト音楽祭では、パルジファルとジークムントを再び歌うことができ、彼の人気と評価はますます高くなった。
 1979年には、ジークムントのほかに、ゲッツ・フリードリヒの演出で、ローエングリンを歌った。合計11公演で、仕事はさらに忙しくなった。すでに挙げた役に加えて、のちにはトリスタンとヴァルター・フォン・シュトルツィングが続いた。
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 ペーター・ホフマンは常に、非常に細かいところまで、十二分に準備ができていた。常に最善を心がけていた。であるから、彼との仕事は、容易で極めて快適であった。歌手が身につけるべき基礎的なことはすべて前もって済ませてあったから、すみやかに肝心な部分に進むことができた。彼は、全ての前提条件は自分で完全に勉強しており、仕事に、集中して、真剣に取り組もうとしていた。彼のことで、不愉快な思いをしたことは全くない。他の多くの歌手たちには、往々にして「とにかくそろそろ役を正確に習得して、作品に取り組んでください。」などと言わざるを得なかったが、彼にはその必要がなかった。
  バイロイトでひとりの歌手がさまざまの異なる役を歌うということは、容易なことではない。ペーター・ホフマンは、常にいろいろな面で努力し、その能力を証明した。1988年にバイロイトで、ジークムント、パルジファル、シュトルツィングの三つの役を歌ったことは彼の多様性を示している。どれも深い感銘を与える出来栄であった。今日の歌手たちは、スペシャリストであるから、非常に優れた役づくりをする。従って、役づくりに関する演出家の役割は部分的である。歌手は、役づくりに精神を集中するべきなのである。
 ペーター・ホフマンは、非常に付き合いやすい性格で、押し付けがましいところがなく、機転がきき、好ましい素朴さがある。その外見のよさや、スポーツマンらしさ、多くの独創的な考えなどを、厚かましい印象を与えることなく、発散していた。彼は人並みの自負心をもっていたが、けっして傲慢ではなかった。
 当時の祝祭劇場は、非常に自由な雰囲気だった。ユーモアあふれる、時には気楽で、挑発的なおしゃべりが飛び交っていたが、一方では、だれもがそこにいて、仲間の成功を喜びあったものだ。おおよそ家族的な雰囲気が支配的だった。オートバイでのスイス旅行や、FCワルハラ・チームを結成してのサッカーなども一体感を高めた。
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momo10rck.jpg 1983年にペーター・ホフマンのレコード「ロック・クラシック」が発売されたとき、当然議論がまき起った。それはオペラ界に限ったことではなかった。私は個人的に、ホフマンに、クラシック以外の音楽とのかかわりに対して警告したことも忠告したこともない。常に陰から、彼のポップスへの寄り道を擁護していた。このレコードの成功の波は、ホフマンを突然、3分の2のポップス活動へとひっさらっていき、専門分野であるクラシック活動は3分の1になったが、時期的にうまく配分すれば、問題はなかった。オペラ歌手がポップスを歌うことは、当時はセンセーショナルなことだった。確かに彼は、ポップスを歌うための前提条件を充たしていた。彼のポップスは、非常に優れた歌唱による高尚なものだった。しかし、このようなポップスは、いわゆる娯楽音楽界では、それほどまじめに受け止められなかったし、注目もされなかった。それは、まさに歌唱の質の高さが原因だ。その仲間と言えば、ヴェスタ ーハーゲンなどが思い浮かぶ。他方、クラシック界は、ポップスを「どうしようもない息子」と見なし、トリスタンを歌える者ならば、まさかポップスなどやるはずもないとの意見で一致していた。ところが、ホフマンはそれをやり、音楽的に人々を魅了し、両分野で著しい成功をおさめた。
 無理解な人間(バイロイト祝祭劇場の聴衆の中にもいた)が、私を非常に怒らせるできごとがあった。ペーター・ホフマンが文字どおり脅迫されたのである。もしポップスをやめなければ、バイロイト音楽祭でひどいブーイングを浴びせてやると予告する手紙がホフマンに届いた。そして、それは実行された。ペーター・ホフマンが、ひどく体調が悪いにもかかわらず、トリスタンを歌ったときのことだ。結局その後1週間治療が必要になった。難しい役を最後の力を振りしぼってやりとおしたが、どうしようもない吐き気のため、カーテンコールに出ることは不可能だった。そこで、私が舞台に出て、事情を説明した。頑張った歌手に対して大きな拍手とブラボーがわきおこったが、少数のブーもあった。このようなブーイングは我慢できないので、その後の上演の前には、バイロイト祝祭劇場にふさわしくない行為を示した文書をドアというドアにはりつけた。このような場合、私は病気の歌手を全面的に支持する。だからこそ、彼は次回のトリスタンでは、なお一層全力を尽くして歌い、大成功をもたらしたのである。
 新聞の反応はいかにもマスコミらしいものであった。少数の新聞がこのブーについて大見出しで載せ、ペーター・ホフマンは舞台で数回にわたって倒れた(歌手のコメントとして『台本にもそのように書かれているので、確信をもってそうしたのだ』)と書いた。しかし、さらに少数ではあったが、真実を書いた新聞もあったのは、気持ちのよいことであった。それでもまだ純粋主義者はペーター・ホフマンのポップスへの寄り道に対してブーイングを浴びせるべきだと考えていた。なんとも恥知らずなことであるが、事もあろうに、私が個人的にゲネプロに招待した観客がパルジファルの二幕の後、全く不当なブーイングをしたのだ。ゲネプロは練習の一部である旨、入場券にも、明示することにした。練習を大事にするのは、歌手の当然の権利である。ブーイングは、初日及びそれに続く公演の日まで待つべきだ。それに、個人的な反感によるブーイングはどんなことがあっても、私は容認しない。その男のブーイング中、大半の観客は、それに気づくだけの傍観者だった。私は彼らを追い出した。ここはサッカー場ではないのだ。
 大衆紙は、お城、ロールスロイス、オートバイ等々、ペーター・ホフマンの生活を、『バイロイトのハリウッド』のように作り上げた。ビジュアル化の時代にあって、歌唱力に加えて視覚的な印象が大きな役割を演じる状況がそういう事態を助長する結果を招いたのだといえよう。シェローの演出とそのときの共演者だったジャニーヌ・アルトマイヤーもそういう状況に大いに貢献していたと思う。これはなかなか興味深いことである。というのは、ここから『輝かしいペーター・ホフマン』が生まれたのだ。ホフマンはジークフリートを歌っていなかったのに、『絵本から抜け出たようなジークフリート』とよばれたものだ。しかも、いたるところでそう書かれた。しかし、おそらく、ホフマンにはジークフリートよりもジークムントのほうがはるかに似合う役だ。事実が流布されないというのは、全くもっておかしなことだ。想像と現実の区別がつかなくなってしまうのだろう。
phantoms.jpg ペーター・ホフマンは、バイロイトに13年間出演した後の1989年に、別の仕事に専念することに決めた。私はそれを理解し、我々は合意の上で、たもとを分かった。ホフマンは祝祭劇場をときどき訪ねてくれ、私はそれがうれしかった。他の歌手の場合、ときにはあったことだが、ホフマンは突然辞めたわけではない。
 我々は人間的にも、芸術的にも良い関係を保っていたし、良く協力しあっていた。私は彼との再会をいつも楽しみにしている。ヴォルフガング・ワーグナー
 バイロイト音楽祭の間、この前書きのためのインタビューに多くの時間を割いてくださった ヴォルフガング・ワーグナー氏に心より感謝します。マリタ・ターシュマン

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