SSブログ

マリエンバートからバイロイトまで-2 [2003年刊伝記]

「自分の人生が、おそらく音楽に関連して、 何か特別なものになるような気がしていた」
~マリエンバートからバイロイトまで ・・・2


 この時期に、今までにもたびたび話したことだが、こんなことがあった。そのころ、私のオペラ・コレクションに、『フィデリオ』が欠けていた。近くで上演されなかったので、このオペラを見るチャンスがなかなかなかったのだ。それがやっとかなえられることになった。カールスルーエで『フィデリオ』が上演されることになったのだ。チケットを手に入れ、その晩を楽しみにしていた。いつものようにそのために準備をした。そして、兵舎のシャワーで、石鹸を塗りたくって立っていたとき、思いもかけず、突然、水が止まった。しかたなく、石鹸の泡をタオルで拭き取り、髪に残った泡は、水筒のお茶ですすいで、服を着て、オペラに行った。しかし、全く耐え難かった。身体中、べとべとしていたので、当然あちこちむずがゆくて、何度もかかずにはいられなかった。不愉快になった隣の席の人は、ついにがまんできず私に静かにすわっているように言った。おそらく私に何か害虫がついていると思っただろうし、べとべとの髪では、さらに気味悪く見えたにちがいない。休憩時間に洗面所で洗って、ずっと気持ちよくなった。それで、私も隣席の人もやっとこころおきなく上演を楽しむことができたというわけだ。
 別の時だが、週末でダルムシュタットの家にいたとき、高校のスタジアムで、友人のミオに会ってスポーツをした。彼に『ところで、ホフマン物語って、知ってるか』ときいてみた。それに対して、彼はからかうように『当たり前さ』と、にやりと笑った。もちろん彼は、f がひとつの、つまり私の苗字のことを言っていたのだった。『そこに行ければいいのだが・・・』と私。『行くって、どうやって』『きょう、カールスルーエのオペラ劇場で、ホフマン物語が上演されるんだ。1時半開演だよ』彼はやっと理解した。『じゃ、大急ぎだ』私たちは大急ぎで出発したが、その後も、彼と一緒にたくさんのオペラに出かけた。

 妻の父は、バス歌手だったが、クラーゲンフルトで大学教授をしていた。いつか妻と一緒に訪ねたとき、私の歌をきいて、とても感激して、専門教育をうけるように促し、良い声楽の先生にきいてもらうよう勧めた。そして、私にいくつかのオペラのアリアを準備するように求めた。義父は、私の部隊の近くでは、誰が適当だろうかと熟考したすえ、バート・ベルクツァーベルンから車でたったの30分の距離にあるカールスルーエ歌劇場の女性歌手を選定した。そこで、私は義父の紹介状を持って、フランポーニ夫人のところへ行った。そして、夫人自身は教えていないことがわかった。しかし夫人は知人の声楽教師、エミー・ザイバーリッヒにきいてもらえるように手配し、当日は同行してくれた。今でもこの重要な日のことは、とてもよく覚えている。
 何を歌うつもりかという慎重な質問に対して、『さまよえるオランダ人』を歌うと答えたとき、二人の婦人は、驚いて眉をつりあげた。『期限は切れた。幾度目かの7年がまた過ぎ去った・・・』私が大声で力任せに歌ったので、二人は心配そうだった。『そんなに大きな声で歌わなくてもいいです』と、エミー・ザイバーリッヒ先生が言ったので、私は『大きな声で歌ったらよくないのですか』と尋ねた。先生は、『いいえ、悪くはないですが、声を永久にだめにしてしまいますよ』と、笑った。先生はもっとききたがったので、『鏡のアリア』と『闘牛士の歌』を歌った。二人とも明らかに深い感銘をうけていた。私はエミー・ザイバーリッヒ先生にいたって率直に質問した。『今、私の歌をきいて、専門教育を受ける意味があると思われますか。歌でやっていけるでしょうか。私には家族があって、稼がなければならないのです』 答えはすぐに返ってきた。『そういう人がいるとすれば、それはあなたでしょう』このときから、私はさらなる前進のために、あらゆる努力をしようと決心した。先生は喜んで私に教える用意があると言明し、数日後、それは始まった。当時、私たちは、私はバリトンかバスだと思っていた。エミー・ザイバーリッヒ先生にはひとかたならぬ恩がある。先生は確信をもって、私に大きな才能があることを認め、ずいぶんと長い期間、十分なお金がない私のために、ただで教えてくれた。

 私は、いかにして音が発生するか、すなわち、空気が振動して移動することを学んだ。声帯を振動させうるに十分な力を持つことが、怒鳴ることなく、できるだけ多くの響きが観客席まで届くような美しい音を生むための前提条件である。声帯が自由に振動すればするほど、大量の空気が振動して、声はますます大きくなる。
 ところで、延々と繰返される発声練習とヴォカリーゼから成る初期の勉強は、とりわけわくわくするようなものではなかった。小さな歌にさえ、猛烈にあこがれたし、何度も、もうだめだという気分に陥ったものだ。喉の部分に声を感じなくなったからだ。しかし、逆だったのだ。テクニックを獲得したことで、万事軽快に勢いよく流れていたのだ。的確な感覚によって生徒を導き、生徒の可能性を認識して、声を少しずつ作り上げて行き、再三再四訪れるスランプをじょうずにつかみ、それを克服すること、これこそが良い教師の本質である。エミー・ザイバーリッヒ先生は、このことを非常によく理解していて、くりかえしやってくる困難な段階も、興味をもてるようにしてくれた。」

  ペーター・ホフマンが、プロの歌手になるという望みをかためただけでなく、いつかバリトンではなく、テノールとして舞台に立つという可能性を具体的に眼前に描くきっかけになった体験は、1967年のバイロイトにおけるジェス・トーマスとの出会いだった。ジェス・トーマスも、かってエミー・ザイバーリッヒ先生の生徒だった。1927年生まれのアメリカ人テノールで1950年代にヨーロッパでのキャリアを開始していた。とりわけワーグナー歌手として名を成し、1980年代のはじめまで、ウィーンとバイロイトを中心に、タンホイザーから、パルジファルにいたるまでの重要な役で登場した。フロレスタン、ラダメス、カヴァラドッシ等々の他の多くの役でも、世界中の人々を熱狂させ、その役者としての才能と、印象的な舞台姿で観客を魅了した。

 1967年のバイロイト音楽祭の期間中、ジェス・トーマスは、かつての先生に、一緒にいくつかのパッセージを検討したいので、できるだけはやく来てほしいと頼んだ。エミー・ザイバーリッヒ先生は、バイロイトまで一番はやく行く方法を、熟考した末、まったくわくわくするような、運転手の仕事をペーター・ホフマンに提供したのだった。

 「私たちが祝祭劇場に着いたとき、ジェス・トーマスはちょうどローエングリンとして、舞台にたっていた。守衛が窓を開けておいたので、そこから上演の様子をたどることができた。休憩時間に、ジェスの楽屋に行くことができた。私は、はじめてのバイロイト訪問に大きな感銘をうけて圧倒された。そして、剣にちょっと触ってもいいかなどと、まったく畏れ多い質問をした。ジェスは、苦笑しながら、触るのを許してくれた。ジェス・トーマスは喜んで、全部見せてくれた。すぐに帰らなければならないかどうかきかれたとき、もちろん滞在することを望み、この滞在を2週間に延長した。私は、ジェスの運転手をしたり、ファンレターを取ってきたり、ヴォルフガング・ワーグナー演出のローエングリンの『青色の』舞台上のジェスを見て、感嘆したりした。私はジェスのすばらしい舞台姿に魅せられた。ジェスの家では、彼がエミー・ザイバーリッヒ先生とジークフリートの練習をするのに耳を傾けた。妻のアンネに電話をかけて、夢中になって話した。『ジェスは今また歌っている、ジークフリートだ。頭の中で、ひとつひとつの音を追って一緒に歌っているんだ。とにかくすごいよ』それは、夢のような時間だった。まるでおとぎ話の中にいるようだった。この時のことは、いつも楽しく思い出す。
 この時、バイロイトでの最初の、そして予期せぬ拍手喝采も浴びた。ジェス・トーマスが借りていた家からそんなに遠くない、バイロイト・エルミタージュ城公園を散歩中、すばらしい造作のアーケードの中に、小さな東屋を見つけた。そこに腰掛けて、たまたませき払いをしたところ、すばらしい音響効果があるのに気がついて、びっくりした。『すごい。なんて響きだろう』と思った。辺りにはだれも見えなかったので、この魅力には勝てず、歌い出し、聖杯物語まで、思い出せることを全部、だんだんに大きな声になり、さらにいっそう感情を込めて歌っていった。突然、背後に轟音のような拍手がわきおこった。観光客の一行が、薮の陰を静かに忍び足で歩きながら、こっそりと聴いていたのだった。ぎょっとした私は、可能な限りのスピードでそこから駆け去った。顔から火が出るほど恥ずかしかった。ジェス・トーマスにこの出来事を話すと、ぜひとも歌って聞かせほしいと言う。『とてもいいよ』と、ジェスは断言した。『君の声は、テノールの傾向がより強くなっているから、もっと上の声域を勉強するべきだ』これを聞いたときの感激は想像できると思う。もはやテノールになるという目標しかなかった。
 ジェス・トーマスとは親友になった。彼は、当時から、私がやり遂げることを確信して、大学での勉強と最初の契約の間の苦しかった時期には、私の家族を経済的にも援助してくれた。ほんとうに得難い友人である。はじめての出会いから10年後、私たちは共にバイロイトの舞台に立った。シェローのリングでジェスはジークフリートを、私はワルキューレで、ジークフリートの父、ジークムントを歌った。その後も、私たちは、折にふれて、アメリカで出会った。パルジファルでメトロポリタン歌劇場にデビューしたときも、来てくれた。
 私たちは良い歌唱をすることだけなく、舞台上で役を良く演じるという、同じ目標を持っていた。1992年に、『スーパー・ファン』というRTLが私についてつくったテレビ番組で、思いがけないうれしいゲストとして、ジェス・トーマスは、もう一度ドイツに来た。二人とも大喜びだった。私たちは、共に過ごす時間を大いに楽しんだ。1年後、ジェス・トーマスが心筋梗塞で亡くなったという、アメリカからの悲しい知らせを受け取った。この場を借りて、ジェス・トーマス・ジュニアのことも話しておこう。彼は有名な父の足跡を継ごうと計画していた。彼は、アメリカで、そのころには卒業していたが、個人レッスンでのより一層の完成をめざして、私のところで、声楽を学ぶために、後に何度かドイツの私のもとを訪ねた。

 バイロイト訪問の後、再びいつも通りの日常生活に戻ったが、オペラ歌手になるという私の夢はますます強くなり、この目標は、より高いものになっていた。バイロイト音楽祭で、もしかしてローエングリンを、歌えたら、すばらしいと思うようになったのだ。この目標を見失わないためには、全力を尽くして初志貫徹する力と、全身全霊をかけた強い意志が必要になる時が多々あった。軍隊の収入はもちろんとりわけいいというものではなかった。すでに学業を終え、たっぷり稼いでいる、かつての同級生たちは、新しい車や稼いで手に入れた他の諸々のものを自慢そうに見せびらかした。一人が私に『ところで、軍隊のあとは、どうするのか』ときいた。『音楽学校へ行くつもりだ』と答えると、『えっ。ほんとか』と、信じられない様子で、『で、お金はあるのか』と、聞き返した。『さしあたり、ないけど・・』と、私は認め、『軍隊の退職金で足りると思うし、後で稼ぐさ。やり遂げた者が最後に残る。私もそうなりたい』と言った。成功への意志があれば、不確実なことなどごくわずかだ。どうやったら妻と二人の子どもの面倒をみることができるかということについて再三考えた。どこからお金を得るべきか。夜、ジャズか、ロックのクラブで働いて、昼間勉強するというのを想像してみた。けれど、煙の充満したクラブでは、即座に声が消耗するというわけで、これは不可能なことがすぐにわかった。だから、他の道を行かなければならなかった。突然障害物の前に立って考える 『乗り越えられない不可能だろうか。否、できる』 人間がなし得ることはとてつもない。正しい道を見つけ、十分な力を結集すれば、間違いなくやり抜くことができる。自分自身の持てる力でやり抜けば、『金持の息子』的職業や、全て準備されたものを得るよりも、はるかに大きな価値がある。

 軍隊時代が終わったとき、私はすでにカールスルーエの国立音楽学校の正規の学生だった。数分の距離のところに、古い建物だが広い部屋を見つけて、ダルムシュタットの家族の引越しを済ませ、自分は勉強に没頭した。勉強をできる限り短期間でやり遂げたかったので、死にものぐるいで勉強した。時には1日に10時間も声がかれて、止めざるを得なくなるまで、ぶっ続けで、歌ったりした。しかし、声はいつもあっという間に回復して、続ける事ができた。幸いにも、ベートーベン通りのたいていの隣人は音楽愛好者と音楽になじんだ人々だったし、早朝には十分休養した新鮮な声帯で出かけた。今、時々自問するのだが、私が長時間、大声で歌っていたき、子どもたちはいったいどう思っていたのだろうか。子どもたちは他の状況を全く知らなかったわけだから、当たり前のことだったのだ。学期末休暇には、家計のために貨物自動車の運転手をしたが、普段も夜は、自動車教習の仕事に当てた。軍隊で全教科課程を履修していたので、地域限定ではあったが、自動車教習指導員の資格を持っていた。ほとんどだれもが車の運転を習ったので、それを大いに役立てることができた。しかし、この仕事は、ものすごい集中力を要したので、ひどく体力を消耗し、夜中に家に戻ると、完璧に疲れ果ててベッドに転がり込んだ。翌朝はまた学校があるというわけだ。

 私はまるでとりつかれたかのように、ジークムント、マックス、ローエングリンなどの諸役を学んだ。いつの日か、舞台上で演じるのなら、できるだけよく準備しておきたかった。スポーツの体験から、知っていたことだが、体調を完全に良い状態に保ち、神経質になっていらいらするのを克服しなくてはならない決定的な瞬間がある。歌手という『不確かで危険な』職業を思いとどまるように忠告してくれた人たちに、あらゆることを実証してみせたかった。数少ない学校のコンサートは難なく切り抜けたし、はじめての学外での公開上演も同様にやり遂げた。ベンジャミン・ブリテンの『ノアの箱舟』で、国立劇場の歌手が病気になったため、その代役で、セム役をやらせてもらったのだ。それは本当に小さな役だったけれど、記録すべき最初の成功だった。あるエージェントがオーディションに招いてくれたのだ。」

 ペーター・ホフマンは、学業を3年半のうちに終えた。これは注目すべきはやさである。学業を終えた若い歌手が通るのが常である一般的なコースは、長い、短いはあるにせよ、様々のコンクールやワークショップをあちこちといくつも回り道して、若い才能を『発見する』エージェントにたどりつき、キャリアがはじまるというものだ。ペーター・ホフマンは、このハードルも、学業修了の少し前にすでに飛び越えてしまった。この素早い成功は、エミー・ザイバーリッヒによるしっかりした専門教育と限りない支援によるところが大きいことは間違いない。ペーター・ホフマンは再三、いかにザイバーリッヒ先生に負うところが大であるかを、強調している。1980年代のはじめ、エミー・ザイバーリッヒは、ジャーナリストのマリールイーズ・ミューラーに、ペーター・ホフマンについて次のように語っている。

 「ペーター・ホフマンは、ほんとうに魅力的な青年です。体格が良く、スポーツが得意で、若くて、信じられないくらい活動的。でも、一方で、非常にロマンチックです。それは、私のところではじめて歌ってきかせてくれたとき、すぐにわかりました。意志を貫徹する男がそこにいるということは感じられるものです。
 そう、それから、むしろバスに近いバリトンの美しい声を持ってました。彼の純粋さが気に入りました。それで一緒にやってみようということになりました。軍務から自由になれる時間を全て、家族のもとに帰るためと、途中、私のところに寄るために、やりくりしていました。どんな犠牲もいといませんでした。初期の段階では、練習が、まったく気にいらなかったようでした。ご多聞に漏れず、すぐに重要なアリアを練習するのだと思っていたのです。ヴォカリーゼは退屈なので、私たちは一緒になって歌詞を創作しました。これではるかに気持ちよくできるようになりました。信じられないほどの集中力と根気がありました。それでも、時には、あからさまに決められた練習に抵抗しましたけれど、機知に富んだ発言で最後は笑って終わったものです。すばらしいユーモアのセンスがありました。私たちは互いに実によく分かりあっていました。すばらしい同志でしたし、勉強に大きな喜びを感じていました。
 そう、それから、ジェス・トーマスとの出会いがあったのです。バイロイトでのその瞬間から、ペーターは夢中になったのです。帰る途中ずっとローエングリンを歌ってました。『ああ、あんなふうになれたらいいな』って。その目標に対する物凄く強いあこがれが感じられました。そして、勉強を続けるうちに、その声からバスの響きが失われていったので、慎重にもっと高い音域を取り入れるようにしました。テノールの音質が、認められました。上手く行かなかった場合に、失望させたくなかったので、彼にはもちろん話しませんでした。熱意にあふれた青年の心からの望みをかなえてあげたいと思いました。そして、ある日『あなたはテノールになると思う』と話したのです。ほんとうにうれしかった。それから、この声域の集中的な勉強が始まったのです。『それから、ジェス・トーマスの場合と同様、最初の役はタミーノにするべきだ』とも。 世間の人は大方、ヘルデンテノールとは大声でわめくものだと考えています。だから、モーツァルトも歌えるということを示すために、最初の役としてタミーノを歌ったのです。そこから後は完全に自分の道を行ったわけです。『あなたもジェスと同じようにバイロイトではじめてのパルジファルを歌うことになるでしょう』と言いました。そして、この役では最優秀の歌手になりました。
 今では一般的に歌手として認められています。しかし、彼は若さにあふれてはいても、まだ不十分です。私たちは、習って暗記した歌詞や音符をいかに身につけて歌うべきか、今もなお勉強中です。私は当時からすでに彼には、役の性格と人間性に正面から徹底的に取り組むべきこと、相手役が歌いおわるのを待たずに、すっかり自分のものになっているはずの応答部分を歌うべきことを、教えました。(私は、ジョセフ・クリップスや、ジョセフ・カイルベルト、オットー・クラウス、カール・ハーゲマンといった芸術家たちと共に仕事をするという、すばらしい喜びを体験しました。そして、私がそこで知ったことを若い人たちに伝えたいと望んでいました。)もちろんペーターは自発的に仕事をしようとするタイプで、好んで全ての役を自分自身で演じたがるような多くの演出家たちの命令に唯々諾々と従うタイプではありません。彼はオペラに自分が感じていることを持ち込もうとします。彼は、若く、活動的で、決して強情な、いわゆる『声の持ち主』でも、声楽家でもありません。それ以上のものを欲しています。自分の力で、人々を捕らえようとしているのです。かつてカール・ハーゲマンは、『演劇だけでなく、オペラでもまた、舞台の芸術家は演じる人である』と言いました。かつて人々は一人の歌手、または俳優の故に、劇場に行ったものです。第一級の舞台には、第一級の指揮者と演出家がいるということは当然のことでした。その頃は、その夜オペラの大曲を指揮するために、正午に空港に到着し、翌朝にはまた次の大都市へと飛ぶようなことをする指揮者はいませんでした。だからこそ、オペラはまだアンサンブル芸術として成功していたのです。
 残念なことに、ドイツ人の優秀な若手歌手の数は少ないです。外国語を話す芸術家に反対するわけではありませんが、すばらしい例外はあるにしても、やはりメンタリティーは別のものです。ただ、一般的に若い歌手はせっかちです。手っ取り早くキャリアを積み、大金を稼ごうとします。さらに現代のめまぐるしさが加わります。しかし、歌手という仕事は、多くのことを要求します。内面的なバランス、勤勉さと根気などです。何よりも、勉強に対する喜びが必要です。
 若者をオペラに近づけるには、舞台上に、若者が理解できるようなものが存在することが必要です。だから、若者に関心をもち、若者を受け入れるべきです。私たちのようなザルツブルグやバイロイトの要求の多い客たちは、たとえ歌手がすでに50歳を過ぎていても、すばらしい歌に耳を傾ければ、夢中になって没入できますが、若い人たちは多くの場合、私たちとは違う考えやイメージをもっています。そういうわけで、ペーターは、その若さとスポーツマンタイプの外見によって、特に若い世代に大きな影響を及ぼしたと思います。若さというものはとにかく若さを求めるものです。だから、類い稀な力によって世界中を感動させる偉大な存在を大事にすることを若い人たちに教えなければなりません。
  ペーターがロックを歌うようになったことについてですが、このことは彼に喜びをもたらしました。彼は上手くやっていて、声を損なってはいないと思います。ロックを通して大勢の友人をも得ています。社会的地位のある方々さえも彼の音楽を愛してくださっています。ですから、私たちは彼の意志に任せています。」目次
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。