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マリエンバートからバイロイトまで-1 [2003年刊伝記]

「自分の人生が、おそらく音楽に関連して、 何か特別なものになるような気がしていた」
~マリエンバートからバイロイトまで ・・・1


 ペーター・ホフマンは、演劇と音楽に深く関わった家庭の出身である。
 ウィーンで演劇を学んだ、母方の祖父は、多才な人だった。舞台俳優であっただけでなく、自分で演出をし、台本を書き、作曲し、ピアノとリュートを演奏し、舞台美術家であり、非常に豊かな想像力の持ち主であった。舞台衣装を仕立て、それと同じくらい、夫と同様に舞台に立つことが好きだった妻と共にズデーデン地方で移動劇団を主宰していた。この二人の血をひく子どもたち、すなわち、ペーター・ホフマンの母となる娘のインゲボルクとその三人の兄たちが、劇団経営になじむのは自然なことであった。彼らは非常に早くから、舞台に立ち、それによって、音楽と演劇に対する興味を持ち続けるようになった。1932年、父親が心不全で急死したあとは、劇団の運営権を任された母親が、当時としてはまさに不可能なことを、女手ひとつで、やり遂げた。家族企業というやり方が劇団の存続を可能にしていた。しかし、ズデーデン・ドイツの政治情勢によって、とりわけ劇団の人々の生活は一層困難になった。そのため、いつのころか、家族は劇団の舞台装置・小道具・衣装一式を処分して、マリエンバートに定住することにした。その後まもなく、戦争が始まった。息子たちは徴兵され、娘のインゲボルクは、裁判所の事務員になった。そして、19歳のとき、保養のためにマリエンバートに滞在していたベルリンの実業家、マックス・ペーター・ホフマンと出会った。背の高い、金髪の堂々とした男性で、優に20歳は年上で、多少父親代わりを務めたような面もあり、彼女は安心感を覚えた。
 マックス・ホフマンは、芸術に関心の深い家庭の出身だった。父親はドレスデンの工場主で、ゼンパー・オペラに頻繁に通うメンバーであり、気前のいいパトロンとして知られていた。気前がよすぎたのだろうか、工場を失ってしまった。しかし、くじけることなく、ベルリンへ行き、そこで、書店を開いた。同時に、詩と演劇批評を書いた。彼は熱心なワーグナー・ファンで、子どもたちは、早くから演劇やオペラの世界に親しんでいた。子どもたちは、バイロイト音楽祭に同行して、そこからさらにマリエンバートまで足をのばすこともあった。偉大なオペラへの興味とワーグナーへの関心は、息子であるマックスに伝えられた。そういうわけで、彼自身も音楽の仕事に就きたいと思っていた。夢は指揮者になることだった。しかし、運命は別のところにあった。彼は実業家の道を歩み、有名な圧力機械の会社を経営していた。  第一次世界大戦で、マックス・ホフマンは重傷を負ったため、第二次世界大戦では、徴兵を免れていた。これで、戦争中に彼がマリエンバートに滞在していたわけがわかる。そこで、前にも述べたように、彼は二度目の妻、インゲボルクと出会ったわけだ。彼は自分の会社をズデーデン地方に移転し、結局マリエンバートに住みついた。1944年8月22日、その地で、長男、ペーターが生まれた。戦争が終わりに近付いて、チェコ人のドイツ人に対する憎しみの爆発に脅かされたため、小さな家族は脱出を決意した。芸術家のグループに加わり、アメリカ人の助けでレーゲンスブルグへ向って、国境を越えた。数日間、爆撃で破壊されたドイツを放浪したあと、一家はやっとダルムシュタット近郊のグレーフェンハウゼンに落ち着いた。ペーター・ホフマンの子供時代の思い出は、この戦後時代にまでさかのぼる。

 「人間の記憶力は驚嘆に値する。実際、非常に幼いころのいくつかの印象を今でも思い出すことができる。例えば、私たちのところでは、家がどのように見えたかとかだ。私たちが住んでいた通りに、家々は軒を寄せあって密集して建っていた。裏には、ビートや色々の果樹のある、かなり大きな細長い庭があったが、表には何もなかったように思う。歩行障害があるという理由で、これ以上の避難民を割り当てられずに済んでいた家主が今も目に浮かぶ。障害者というのはウソだったと思う。 ある日、だれも見ていないと思ったのだろう。杖をわきに置くと、するするとナシの木の上によじ登った。こんなことは、もちろんだれも信じてくれなかった。大人たちは、私の見たことを子どもらしい空想だと思ったのだが、私の心には、彼があの高い木の上に座っている光景が今も焼き付いている。
 表通りにとめられていて、私たちの好奇心を刺激していた数台のアメリカ軍の戦車もよく覚えている。私たち子どもの目に、戦車は巨大な怪物で、ひょっとしたら悪魔が隠れているかもしれないと、だれひとり思いきって近付こうとはしなかった。しかし、友好的な兵隊たちが、全部見せてくれた上、中に座らせてさえくれたので、安心して、戦車は、大きなおもちゃになった。
 当時、母は権利擁護法律事務所で働いていたので、母方の祖母が家のことをやっていた。祖母は小柄なしっかりした婦人だった。三人は自分の生んだ子ではなかったが、7人の子どもを育てながら、二度の大戦を生き抜いた。熟練した裁縫師として、婦人用の下着を縫って、家計に貢献していた。私は、祖母が縫っているものが何なのか知りたがった。祖母はきっぱりと答えたものだ。『あなたには全然関係ないものよ』それで、かなりの間、好奇心を抑えなければならなかった。祖母は家族の中心的存在だった。家計の切り盛りをし、いつも私を注意深く見守っていた。人生のこの一時期、彼女こそが私の導き手であり、とにかくいつもそこにいる人であった。祖母は、私が、けんかや争い事に巻込まれないように、どんなに心配し、配慮していたことか。そんな徴候を見て取るや否や、祖母は私を家に入るように呼んだものだ。
 祖母は、戦争中に消息不明になった三人の息子たちの所在をなんとか知ろうと努力していた。ある日、一番下の息子、ヨーゼフが、数年にわたるロシアでの抑留を終えて、帰国するという知らせが入った。家族全員で、駅まで、迎えにいった。ヨーゼフを抱き締めたとき、祖母がどんなに喜んで歓声をあげたか、忘れることはない。そのあと、おじは、私を見つけて、尋ねた。『これはだれかな』もちろん、おじは、手紙で、すでに私のことをきいていたし、祖母は私にもヨーゼフおじさんのことを話してくれていたが、今、おじさんが私の前に立ったとき、私はすっかりおじけづいてしまって、おじさんをちゃんと見ることもできなかった。シベリア抑留の間に面変わりして、まるで外国人のように見えたのでなおさらだった。しかし、怖い気持ちはじきに消えて、私たちはすぐに仲良くなった。ヨーゼフおじさんは、私とよく遊んでくれた。それは私にとって非常に楽しいことだった。バタバタ音をたてる原付き自転車を手に入れて、一緒に近くの森などに『ケンタッキーへの旅』みたいに、探険旅行に連れていってくれたときには、おじさんが大好きになった。
darmstadt.jpg 4歳になったとき、ダルムシュタットに引越して、まもなく弟のフリッツが生まれた。新しい町を探険するのは、ハラハラ、ドキドキすることだった。私たちは競輪場の向いのベズンゲン地区に住んだ。反対側は家庭菜園の通りだった。その向こうは、森とまったくの廃虚で、冒険のできるすばらしい遊び場だった。ダルムシュタットはひどく破壊されていて、隣家は完全に瓦礫の山だった。子どもたちは、かすがいをくすねたものだ。それで板を、残っている壁に固定すれば、壁の上にあちらこちら、かっこよくよじのぼることができた。この遊びが危険を伴うことは、ある日、電光石火、明らかになった。とても高い廃虚によじのぼって、それから、元気良く飛んだとたん、その壁が崩壊しそうになった。数カ所が崩れおちるまで、しっくいをたたいてみたところ、とってもおもしろそうだと思った。突然、大人の人が警告を発して私を驚かさなかったら、どんな瓦礫の下じきになっていたかわからない。その人のお陰で、危険に気が付いた私は、足を別のところおいて、後ろ向きに、とても慎重に降りた。
 道路には新たにガス管などを埋設するための深い溝があちらこちらに掘られていた。しかし、巨大なパイプはまだ埋まってなかったので、ここもすばらしい遊び場だった。私たちは、帆を使った走り幅跳びのようなことをやった。そうすると、土塁の上から、かなり高くジャンプして、すばらしく遠くまで飛んだものだ。私は、そのころすでにだれよりも遠くまで飛んだので、あんまりにも深くてかたい地面に着地しないように、気をつけなければならなかった。そんなことになったら、容易にどこか折ってしまっただろう。しかし、幸いなことに、何事も起こらず無事だった。
 けれども、もっと安全で、それでも、とても好きだったのは、祖母と荷車を引いて、森へ薪集めにいったことだ。リスや上の方にいるいろんな種類の鳥から、無数のドングリやカシの実など、そこでは何でも見つかった。私は夢中になった。戦後の問題は、私たち子どもにはほとんど意識されなかった。それは気楽なすばらしい時代だった。
 そうこうするうちに、父は仕事を見つけた。毛皮加工業者に、毛皮を売ったのだ。質は悪かったが、差し迫った需要があった。小さな自動車にいつも屋根の下までいっぱいに品物を詰め込んで、ひっきりなしに運んでいた。父は、ときどき家族みんなを連れて、仕事に出かけるのを楽しんでいた。ある日、私たちはまたまた毛皮の間でほんとうに居心地良くしていたのだが、当時たぶん2歳だったフリッツが突然見えなくなった。ぎょっとした母の叫び声がきこえた。『あら、大変。 フリッツはどこ』 弟のフリッツは、おとなしく、この上なく幸せな気分で眠っていて、暖かくて、居心地のいい毛皮の中へますます深くすべり落ちてしまったのだった。彼は無事にひっぱりあげられた。
 もうひとつ、相当に長くて、スリル満点だったのは、ウェーザー川沿いのブラークまでのドライブだった。祖母は、あきらめずに行方不明者と帰還兵のリストを熱心にチェックしていたが、その結果、もうひとりの息子のフリッツも生きていることがわかった。父が、さらなる調査結果を入手し、フリッツおじさんがブラークで生きていて、そこで、すでに結婚していることが明らかになった。そういうわけで、ある日、『荷物をつめろ。週末に出かけるぞ』『どこへ行くの』『さあ、どこかな。びっくり旅行だぞ』ということになった。ロイコプラストボンバーとも呼ばれていた、ステーションワゴンに無理に5人も詰め込んで、ほとんど通行不能と言ってもいいようなウェーザー川に沿った霧の中の道を、何時間も走った。それはまるでとんでもない拷問のようだったが、祖母とフリッツおじさんが抱き合って狂喜するのを目にしたとたんに、そんなことはあっという間に忘れてしまった。フリッツおじさんは、戦争でいろいろ酷い目にあってきた。フリッツおじさんはロシア人の戦車指揮官と間違えられて攻撃されてしまった。脱走するために捕虜収容所から盗んだロシアの戦車に乗っていたので、敵と誤認したドイツ軍に銃撃されたのだった。頭を撃ちぬかれたのに、助かったのだった。おじさんも戦後長い間家族を捜したが見つけることができなかった。それだけに、喜びはひとしおだった。

 ダルムシュタットでの子ども時代は、幸福だった。遊びの想像の世界はほとんど無限だった。いたるところに何かがあった。例えば、向い側の家庭菜園の中は、まさに黄金郷だった。私たちは小さな小屋を建てて、その中で何かの葉っぱから妙なものを気持ちがわるくなるまで吸ったりした。テントの中での作戦会議では、破壊されたダルムシュタットに、開拓時代のアメリカ西部が再現した。もちろん肝試しもやった。それは例えば、破壊された家の三階部分から砂の山に飛び下りるといったことだ。私は、こういうこともまた一番上手だった。あいにく砂の中に壊れた瓶が隠れていたことがあった。脚の傷跡が今もそのことを思い出させる。自転車に乗れるようになった日、世界は突如として広がった。確かに、古い婦人用の自転車は、サドルが高すぎたのに、位置の調節もできなかったが、そんなことは気にならなかった。私がそんな自転車に立ち乗りして、ライン川沿いにゲルンズハイムを往復しようとは、だれも思わなかった。近所の少年たちと一緒に競輪場ですばらしいレースをくりひろげたりもした。それから、市のはずれで、使われていない射撃場を見つけた。そこには、丘と土塁があって、私たちは、自転車用の道を造った。急な上り坂と下り坂になっていて、危険なジャンプがたくさんあった。こういうことを全部マウンテンバイクなしでやっていた。マウンテンバイクなど、持っているはずもなかった。多くの者が、ぐらぐらする、スクラップ寸前の自転車に乗っていた。本当の競技会もそこで開催された。木々を回ったりする回転競技その他いろいろあった。私たちはそこで一日中過ごして、決して退屈することがなかった。
 学校にあがってからも、そのまま多くの時間はこんな遊びとスポーツで過ごした。照りつける太陽と、蒸し暑さの6週間の夏休みは楽しいことばかりだった。
 遠く離れたいくつかの通りで、馬の飼育場を見つけて、もの凄く興味をもった。ほとんど毎日のようにそこへいっては、私には物凄く巨大に思われた馬たちを驚嘆して見つめていた。私は、たとえだれにも頼まれなくても、ぜひとも馬屋で手伝いをしたいと思っていた。だから、大きなフォークで干し草をひっくりかえさせてもらったときは、とっても幸福だった。蹄鉄工の仕事にも驚嘆したが、ずっと後になって、角質を焼く強烈な鍛冶場のにおいをかいで、懐かしく思い出した。飼育場通いでは、その都度、新たな経験をした。おそらくここにすでに私の馬への愛着の源があったのかもしれない。後になって、はじめて知ったのだか、父もまた、馬と親密な関係を持っていた。第一次世界大戦中、父は16歳ですでに騎兵隊にいた。父は、皇帝のために戦うことを許されたくて、18歳と年齢をいつわったのだ。その辺の事情をもっと知りたかった。残念なことに、父に、私の馬をもう見せることはできない。
 それはともかく、父のことをもっとたくさん知りたかった。父が経験したことや、人生に対する考え方、それに第三帝国についても。父が入党し、のちに厳しい償いをしなくてはならなかったことの次第はどのような事情だったのだろうか。ある時、そんな会話をすることは、時機を逸しており、もう不可能だということに気がついた。両親や祖父母や曾祖父母に彼らの記憶や経験をたずねる時機を逸すれば、多くの重要な情報が失われる。夢の中でよく父とつっこんだ会話をし、記憶の中にひとつの姿が刻まれた。夢の中の父はドライブしていている。帽子をかぶり、後部座席で微笑んでいる。

 学校はあまり好きではなかった。特にゲオルグ・ビ ュヒナ ー・ギムナジウムに進んでからはそうだった。学習困難というわけではまったくなかった。興味を持ったことなら、むしろ非常にはやく容易に学習した。しかし、意味もなく義務的に学ばなければならないとなると、受け入れる気になれなかった。対数は、何のためにやるのか。当時の先生が、『それは最高の知力トレーニングになる』と、言ってくれていたら、すぐに納得して、その言葉に刺激されて、熱心に取り組んだかもしれない。けれども、ただ学習しなければならないというのは、根拠もなく要求されるのであるから、意味がないように思えて、できなかった。人生において、必要とされないようなことだったら、そのために苦しむ必要もないと確信していた。そして、とても不思議な事に、自分の人生は何か特別なものになるという気がしていた。おそらく何か音楽の分野で、どんなことがあっても、並外れたことをやり遂げるという、確信があった。それは、私の第六感だった。こういうことはだれにも話さなかったが、これが、学校の問題が大問題にならなかった理由だと思う。学校時代の反抗、かまわないじゃないか。自分の意志を押し通したとき、それが何であれ、評価されるのだ。
 自分の生徒に正面から徹底的に取り組むことに熱心な教師はほとんどいなかった。教師たちは規律を要求し、退屈な教材を示すだけで、教育者としての真の能力を備えていなかった。いつだったか、挨拶もしない新しい教師がクラスに来たことがあった。一言も発することなく、黒板に自分の名前を書いたので、クラスにささやきが広がったのは当然だった。その結果、その教師が最初に言った文章は、『ぺちゃくちゃおしゃべりをした者は償いをしろ』だった。こんなことは今日では考えられないのではなかろうか。  学校友だちのアクセルは、ものまねがとても得意だった。ホイアツァンゲンボウルで笛を吹くのがうまかった。そのころはよく教師のまねをしていたが、のちに教師になった。かの『償いをしろ』発言も何度もまばたきしながら取り上げたものだ。教師のまねばかりでなく、役者として注目すべき幅広い才能を示していた。市内電車を待っている間、自分たちの作品を創作した。昇給を要求してきた社員に、まるでとりあわず、減給をつきつける工場主を演じるのが特に好きだった。これこそが、彼が本来夢見た職業だったのだと思う。いずれにせよ、私たちにとって、芝居は大きな楽しみだったし、ものすごく創造的なことだった。長い間、私たちはスポーツも一緒にやっていたが、後にアクセルは長距離競走、私は短距離走と棒高跳び、それから十種競技専門になった。
  スポーツには、今にいたるまでずっと夢中だ。それは、ごく幼いころにすでに始まっていた。いつも好んで走ったり、競走したりしていた。ごく幼いころから、走るのがものすごく速かった。他の少年たちといっしょに走ったり、町内でちょっとしたレースが催されたりすれば、最高だった。本当に信じられないほど走るのが好きだったし、いつも優勝していた。持てる力を有効に使って、勝つこと、これが全てだった。だれにも追いつかれなかった。他にリードを許してしまった場合でさえ、相変わらず優勝した。ある日、私は、陸上競技選手で、リレー競技におけるドイツ・チャンピオンの高等学校教諭、ジークフリート・シュミットに『発見』された。ジークフリート・シュミットは、私を何度かよく観察して、声をかけたのだった。『や、坊や、走るのが好きなんだろ』この一言で、私のスポーツ歴が始まったのだった。  シュミット先生には、私に動機づけをし、素質を伸ばす適格な勘が備わっていた。彼はヒューマニストで、あの有名な言葉『健康な肉体に健康な精神が宿る』が彼のモットーであった。彼にとって、最高記録ではなく、確かな平衡感覚や、能力を自由に発揮することといった、スポーツの喜びこそが絶対だった。彼は私をベズンゲンTGに連れていき、私の最初のトレーナーになった。私たちはみんな、シュミット先生を認めていた。先生は私たちの『教祖的存在』で、今でもよく覚えている。それに、多方面にわたっていろいろと支援してくれた。スポーツだけでなく、私の全生活において、多岐にわたる同伴者だった。私は、棒高跳びをしながらも、円盤投げが気になって、試してみたり、槍投げもせずにはいられないという具合に、目移りがして、自分で決断できないことがあった。そんなわけで、最初の棒高跳びはこんな具合だった。運動場で、棒高跳びの練習方法を見ていた。その選手は大きな安全装置を使わないで、ただ単に砂と短冊型の芝生を着地の高さに積み重ねていた。私は、彼の跳び方は技術的にどこか間違っているような気がした。高くというより、遠くに跳ぼうとしているようだった。その選手に一度試してもいいかとたずねた。彼はできるものかという感じで、危険を指摘した。けれども、私はどうしても跳びたかったので、とにかく棒を手にして、まえもって、助走の長さをちゃんと測定もせずに、突然走り出した。バーの高さは2.5メートル、脚を身体に引き寄せれば、まだ十二分に余裕があった。非常にびっくりしたことに、次のスポーツ大会に参加するかどうか聞かれた。承諾の返事をして、その競技会で優勝した。  火・木が練習日で、週末にはたいてい何かのスポーツ大会があった。ウォルムス、マールブルク、ノイヴィードなど、あちこちへ、バスで出かけた。プファルツでは、私たちのトレーナーがワイン愛好家に変わって、ワインの試飲をするという場面を興味津々で観察した。試合のない週末には、日曜日の朝11時に、先生の家の前に集合して、クロスカントリーにでかけた。先生はいつも奇抜なトレーニングを思いついた。積み上げられた木材を、山道の片方から別のところにできる限りすばやく積み替えるとか、何だか奇妙な走り方で急勾配の山を素早く走る気違いのハードル競走などに私たちは夢中になった。私たちが本当に最高の仲間として固く結ばれていたこの時代のことを思い出すのは楽しい。
 私たちは、ずっと後になってから、何度か集まりをもった。はじめての集まりのとき、シュミット先生は、80歳半ばだったが、その場で、感動的なスピーチをした。昔のスポーツ仲間の多くは、当時すでにとても変わっていて、『脂が乗った』というよりは『脂肪の塊』といったほうがいいようなもので、中年太りの腹が出て、白髪が目立っていたので、だれがだれだがほとんどわからなかった。もっと後の集まりのとき、私はすでにキャリアを積んでいたので、うちへ招待したのだが、かつてのスポーツマンの仲間意識の大きさに驚かされたものだ。
 さて、スポーツマンとしての現役時代に戻ろう。ある日、高校のスタジアムで練習しやすくなるからという理由で、ベズンゲンTGの陸上競技チームが完全に ダルムシュタットASC に変更になった。これによって、気楽にスポーツができる時代は終わった。シュミット先生も引退した。先生はどうやら新しいトレーニング法に同意できないようだった。例えば、トレーナー助手がいて、時々錠剤を配ったりした。私はいつも拒否して、そんなものは、受け取らなかった。ある日のことニュースがもたらされた。私たちは、自分の学校の体育館で練習するべきで、そこにはガラスで囲われた場所が設けられ、そこからトレーナーが命令するというのだ。なんだろうと見回して驚いていると、『きょろきょろ見回さずに、さっさとはじめろ』と、いきなり怒鳴られた。私に投げられた練習用のボールを力いっぱい高い囲いの向こうへ投げ返すよう求められた。しかし、ちょっと前に、槍投げで肩をいためていて、できなかったので、トレーナーにそう言った。それに対して、信じられないこたえが返ってきた。『それなら、家にいろ』 私は言われた通りにして、こんな練習には二度と行かなかった。当時、私が とんでもないスポーツばかじゃなかったら、おそらくスポーツ自体をやめてしまっていただろう。しかし、一方で、まさにこの団体において、特別の才能が伸ばされ、私のためになったのだった。私は棒高跳びのヘッセン州青少年チャンピオンになったし、十種競技でも、数回、ヘッセン州青少年チャンピオンになった。この種目では、ヘッセン州青少年記録もとったし、ASC ドイツ選手団としても団体優勝した。
 カッセルにおけるヘッセン州の棒高跳び選手権大会では、あやうく寝過ごしてしまうところだった。前の晩、数人の友だちと大いに飲んで、スポーツマンらしからぬ夜を過ごし、朝方には、更衣室のベンチに横になってぐっすり眠っていた。潜在意識の中で、だれかがスピーカーで私の名前を呼んでいるのがきこえて目が覚めた。外ではすでに私の種目、棒高跳びが進行していた。私はすでに数回にわたって名前を呼ばれていた。コーチはあちこち捜していた。そして、『いったいどこにいたんだ。 試合はとっくに終わってしまったぞ』などと、いろいろ言われずには済まなかった。私としては、気まずく口ごもるしかなかった。私たちの団長は、選手登録所でまだなんとかしようと試みていた。『やっと選手が姿を現しました。寝坊してしまったそうです』 どの回も名前を呼ばれたあとだったにもかかわらず、審判長は好意的で、『よし。やってみなさい』と言ってくれた。準備する時間はなかったので、とにかく跳んだ。そして、ヘッセン州のチャンピオンになった。

 スポーツと並んで、私の興味は、音楽、つまりロック・ミュージックにあった。当時はまだ、クラシック音楽に対してはあまり関心がなかった。サッカーをしに行く前に、父のワーグナー・オペラを傾聴しなくてはならないのは、私にとって全くもって心地よいことではなかった。母が非常に大事に考えていたピアノの練習もさっさと途中でやめた。自分の声には、もちろんすでに気がついていた。声変わりの時期のある朝、私の声は、突然一オクターブ低くなっていた。私は大喜びだった。その声は、深く、たくましく、男らしく響いた。それで、声がかれるまで、一日中歌っていた。  そもそもロックとは、革命的な感覚、まさに単なる音楽以上のもの、すなわち習慣化した社会的な束縛に対する若者の反抗を、告げるものだった。エルビス、ローリング・ストーンズ、ビートルズ・・・等々は、まさにそうだった。それは単なる音楽ではなく、新しい人生哲学だった。

 というわけで、ロックだったのだが、それにはギターが必要だった。ピアノのレッスンをやめたからには、親には頼めなかった。そこで、自分のギターを買うために新聞配達をした。これは相当に大変なことだった。学校へ行く前に終わらせるには、朝とても早く起きなければならなかったし、必要な金額がたまるまでにかなり長い期間かかった。手に入れた楽器は、決して上質のものではなかったが、初心者には十分だった。ギターは独学したが、すぐにけっこう上手くなって、友人たちに教えるほどだった。スクール・バンドをつくって、私はヴォーカルとギターを担当した。長くは続かなかったが、かなり成功した。アメリカ軍のクラブで演奏することもできた。

 これ以前の時期にあった『反抗期』のときに、克服しなければならない体験をした。12歳のとき、両親が離婚したのだ。実父が60歳前の紳士だったのに対して、家に入り込んできた継父は私より14歳年上にすぎなかった。その後の対立は当然だった。若い継父は権威主義的で、良い学業成績と規律を期待していた。ますます大きくなる音楽とスポーツに対する私の情熱を全く理解しなかった。今はお互いとてもよく理解しあえる仲だ。継父も世界的キャリアを伴う私の業績に一目置いているし、数年来、私の事務所を管理し、膨大な会計業務とファンレターの処理をやってくれている。
 当時は、例えば長髪など、多くのことが、禁止されていた。私たちはなんと多くのことと戦わなければならなかったことか。聴覚が人の精神に対して破壊的かどうかなどと、今日の人たちは考えもしないだろう。そのころの両親や教育者は異なる基準を持つことに不安を感じていた。しかし、私たちは、間違いなく、両親とは、全く違うことを望んでいた。とにかく、彼らの考えとは合わなかった。
 ロックをきくことも禁止された。だから、夜遅く放送される、アメリカのヒットパレードは、ベッドにもぐって、トランジスターラジオでこっそり聞いたものだ。そして、いろいろやったものだ。歌詞を書きとって、近くに駐留していた米軍の兵隊に、慣用句や日常的言い回しについて質問したり、もちろんまねして歌ったりした。それから、実際に音楽を演奏する時代がはじまった。いきなり、あちらこちらの地下室や体育館の舞台で、もの凄い騒音をたてて、バンド演奏をした。私たちのバンドもまずは徐々に一体感を増し、その流儀を見つけていった。古いラジオからアンプを組み立てることを心得ている者がいた。はじめてのときは、歌に入ったとたん、まさにアンプが破裂したが、何度も組み立て直した。私たちにはお金がなかったので、どんなものにしろ新しいのを買うなんてことはできなかったのだ。私は、歌手として当然、人々が『もっと大声で』と叫んだからといって、コントラバスや声をアンプの能力以上に大きくするなどという危険をおかしたくはなかった。全くの無秩序、混乱状態だった。それでも、私たちは、少なくとも若者としては、成功をおさめた。一度、ダンス・スクールでコンサートをやったことがあった。全く凄い熱狂で、私たちは再び招かれた。でも、親たちに禁止されて、だめになった。
 私はギタリストとしてさまざまな小さな仕事を引き受けた。それはいつもうまくいったわけではなかった。一度、有名なバンドのギタリストが欠席して、代わりができるかどうかきかれた。もちろん、引き受けたが、その作品を全然知らなかったものだから、全くの期待外れに終わった。その夜は、アンプの音量を完全にしぼってこっそり抜け出した。
 ジャズバンドとロックバンドがあったが、いくつかは、混合的になっていて、それはまたある種新しい音になっていた。クリス・バーバーの『アイスクリーム』のような作品が演奏されたが、ディキシーランド・ジャズから、プログレッシブ・ロックまで、全くもって多種多様だった。時に人々は、ダンス・ミュージックのほうを望んだが、これは私たちのやりたいことではなかった。謝肉祭の時期には、いきなり、『ナルハラ・マーチ』を求められた。これは、ギター、バンジョー、コントラバス、クラリネットというエキゾチックな編成だった。とんでもない話だった。このころは、お金はわずかしかなかったが、非常に多くのことを経験した。私たちはどんどん上手くなったが、アメリカ軍のクラブでは、エルヴィスのまねをしていた。腰をふるとか、とにかくエルヴィスの全部をまねたものだった。今日私がエルヴィスを歌う場合、私のやり方で解釈している。模倣など論外である。
  1963年に徴兵されて、ロックはとりあえず終わった。全く新しい生活が始まった。通訳の学校へ行こうという私の計画は頓挫したが、別の挑戦があった。軍隊に入ることで、私は親元を離れ、ついに自立を果せたのだった。女友だちのアンネカトリンとの結婚を決意したが、21歳ではじめて成人ということだったので、19歳ではそう簡単なことではなかった。家族は結婚に反対だったが、私のモットーは当時からすでに、『やりたいことはやり遂げる』だったので、自分の考えを押し通して、母と中隊の将校たちの承諾を取り付けた。自分の家族を養うために、稼がねばならなかった。そのためには、軍隊に残る以外の道はなかった。なんといってもそのメリットは、駐屯地と部隊を自分で決める事ができたことだ。落下傘降下、これはスポーツマンとしての私の心をそそるものだったから、これをやりたかった。それで、レーバッハでの基礎訓練のあと、プファルツにあるとってもかわいい小さなワインの村、バート・ベルクザーベルンに行った。そこからなら、週末には、家族のいるダルムシュタットまで楽に帰ることができた。思い返してみれば、まだ非常に若かったとはいえ、私たちの結婚は順調な一歩を踏み出していた。1964年には長男のペーターが生まれ、1965年にはヨハンネスが続いたので、私は突然妻子の扶養という義務を負わされることになった。それはすなわち、両親がしてくれた以上に、自分の家庭をよりよく築いていくという大きな責任を負うことだったが、うまくやってきたと思う。子どもたちとは、一番下のレオにいたるまで、非常によい関係を保っている。今では、大きい子どもたちは、二人とも自分の家庭を持っていて、私にはすでに4人の孫がいる。

 私は軍隊生活を全く問題なく克服した。成果をあげたスポーツマンとして、いわゆる『しごき』はたいしたことではなかった。100回の腕立て伏せは難なくできた。もちろん損なこともあった。それは教官たちがそれに満足せず、120回を要求するといったことだ。そんなことも、私は気楽に受けとめて、よい訓練になると単純に考えた。スポーツマンであることは、軍隊において、有利な場合もあれば、不利な場合もあった。利点は、自信をもって、スポーツの教科課程に参加することができたこと、不利だったことは、必ず他の者より大きな犠牲を要求されたことだ。例えば、演習場からだれか一人が報告に駆け戻らなくてはならなかったりすると、皆が私を見た。『ま、仕方ないな』と私は思い、『はい、私が志願します』と、ただ他の者より、余分に訓練されるためだけに、真夜中に森を抜けて走った。
 歌うことはずっと好きだった。私が、仕事が終わったあと、音響効果がすばらしいので一番気にいっていたシャワールームで、長時間、ひっきりなしに歌っているということは、大隊中で有名だった。時々だれかがドアから頭を突っ込んで『ホフマンがまた歌ってるぞ』とからかった。中隊長だけは、隠れた何かを感じていた。中隊長はいわゆる『歌う小隊』つまり合唱部隊の指揮者だったので、音楽に親しんでいた。彼は私に、『為せば成るだよ』と言った。
 オペラの世界は、妻の両親を通じて、知った。妻の両親は二人ともオペラ歌手だった。そのころまで、オペラのことは何も知らなかった。尤も、父は私にワーグナーのオペラの一部をよく聞かせてくれたが、別に興味を持ちはしなかった。ダルムシュタット・オランジェリーで、はじめてオペラの上演を見て、突然、このテーマにさらに取り組み、もっとオペラについて知りたいという強い欲求を感じた。全てをどん欲に吸収した。私の『充電期間』がはじまったのだった。私はオペラの上演情報を集めて、あらゆる重要な上演を次々に見ていった。それは肯定的な意味で、過熱気味であり、まさに中毒であった。ダルムシュタット、ヴィスバーデン、フランクフルト、カールスルーエと、すべての上演予定を知っていた。長期間の軍事演習から戻ったとき、まず確かめるべきは、どんなオペラが見られるかということだった。目次
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