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マリエンバートからバイロイトまで-3 [2003年刊伝記]

「自分の人生が、おそらく音楽に関連して、 何か特別なものになるような気がしていた」
~マリエンバートからバイロイトまで ・・・3


 歌手のキャリアの開始は慎重を要する。勉強が終わった時点での声は、まだ十分に完成しているとはとうてい言えず、若い歌手に対して提示される諸役や、専門教育の課程で得られた『声種』に純粋に理論的に配慮された諸役に対して、十分に機が熟しているわけではない。舞台での経験を積むこと、つまり、確実に繰返し舞台に立って、重要な役での絶え間ない訓練を通して準備をすることが重要である。ペーター・ホフマンは、学業修了直後に参加した最初のコンクールですでに大喝采を博していた。オペラ・ハウスからの依頼がすぐに舞い込んできたが、自分の声の適性をとても正確に把握していたので、最初の契約には非常に慎重だった。

 「エージェントが何か提示してくれるのを待っている間に、ウィーンでコンクールに参加した。エリザベス・シュヴァルツコップ、マックス・ローレンツ、ジェス・トーマスなどの著名人が審査員だった。歌曲とアリアの二部にわけて行われたが、まずはじめは非公開で、次は専門知識のあるウィーンの聴衆を前にしての公開だった。『魔弾の射手』からマックスのアリアを歌った第一部のあと、マックス・ローレンツに絶賛された。若いころの記憶が呼び覚まされたということだった。その時の経験では、はじめは心配だったが、舞台に立つやいなや、突然全く軽々と歌えた。審査員たちは、第二部では、シューベルトの歌曲と『ワルキューレ』から『冬の嵐』を選んだ。この初のワーグナー演奏は、初の『ブラボー』も私にもたらした。そしてこれは私には本物の成功であった。もっとも、このコンクールでは、優勝しなかったのだが、そのことは、聴衆と、それから新聞をも、相当に憤慨させた。その後ウィーンのエージェントから仕事の話があったが、何度も断ったものだから、エージェントは気分を害した。しかし、私としては、自分のやりたいことはよくわかっていたし、殊にやりたくないことはなおさらだった。ベルンでのオペレッタ、これは私のやりたいことではなかった。『トロヴァトーレ』のマンリーコは、イタリア語が十分でなかった。それから、ウルムでのオテロもあったが、時期尚早と感じていた。そのころには、アメリカのジェス・トーマスからの寛大な送金があっても、お金が底をついてきていた。
 そんなとき、リューベックでの魔笛のタミーノの話が来た。古いカブト虫型のフォルクスワーゲンは、またもや故障したので、オーディションを受けるために、カールスルーエからリューベックまで、相当の区間を、ヒッチハイクした。
 リューベックには、私以外にすでに8人のアメリカ人がオーディションを受けにやってきていた。私はタミーノ、フロレスタン、マックス、ドン・ホセと、それから、ジークムントも選んだ。とても驚かれた。『えっ、ジークムントができますか』皆が聴きたがったので、『冬の嵐』と『父は私に刀を約束した』を歌って、出演契約を結んでもらえた。ほんとうにうれしかった。もっともシーズン中だったので、契約はちょっとあいまいで、出演の確約はなかったが、各出演につき700マルクと旅費を支払ってくれることになった。私にとっては大成功だった。
 1972年、私は、全く気楽に初シーズンを迎えた。キャリア開始はやはりタミーノを歌うことになったが、いきなり水の中にほうりこまれて、泳ぎを覚えるようなものだった。やり遂げ、さらに前進しなければ、始まる前にキャリアは終わりになってしまう。舞台での仕事に対する感性を失わずに、劇場での生活に持ち込まれるあらゆる卑劣なことに対しては鈍感にならなくてはいけないということがわかった。更に、どんなにすばらしい学位をいくつも持っていても、音楽学校を出たときには、基礎的な知識を有しているにすぎないということにも気がついた。もちろん、集中的に役の研究を済ませてあるということは、役に立つが、舞台に立って、これらの役を歌うということは全く別のことである。私の考えでは、芸術家の本質とは、歌うことに加えて、舞台で存在感を示すことだ。やはりここでもまたスポーツマン時代の経験が役に立っている。なぜなら、そのころに自分の身体を扱うこと、つまり、人々が見ている前で、自然に身体を動かすことを覚えたからだ。こういう基礎の上に、舞台で役に生きる能力が開発されたのだ。自信や強い神経やコンディションを保つことなどもスポーツによって養われた。今、目の前の舞台の上にいる若いテノールが本当のオペラの舞台に初登場だとは、リューベックの観客はもちろん知らなかった。私の経験と基礎が、初舞台をこなせるものだったことが示されたわけだ。タミーノという重要かつ難しい役は成功した。
 やがて家族を呼ぶために森の中のまるで魔女の家のようなよしぶき屋根の家を借りた。リューベック市立劇場には2シーズン留まって、モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』のネロから、『イドメネオ』のタイトルロール、『こうもり』のアルフレートなど、重要な役ばかりを、幅広く歌った。『ファウスト』のタイトルロールでは、ハイCのあるアリア『私は奇妙な不安を感じている』を歌った。この不安は現実のもので、この高音に対するものだ。多くの場合ある種の離れ業によってしか達成できないほど難しい音だ。
 もうひとつの『びくびくもの』といえば、『こうもり』の上演のときのことだった。私は、ロザリンデを誘惑するイタリア人テノール、アルフレート役だった。普通ならこの愛の場面は、刑務所長(Gefaengnisdirektor)のフランクがロザリンデの夫を逮捕するために突然姿を現して中断される。通常はそうなのだが、この時はそうはならなかった。『とんでもない 喜び ・・・ 』と、歌いながら、私は、あこがれの、ロザリンデに抱きつき、フランクの登場を待った。ところが、何も起こらない。フランクが来ない。私は飛び起きて、ドアのところへ走って行って、叫んだ。『誰か来たようだ』 だめだ。誰も来ない。私たちは、更に続けていちゃついた。今度はロザリンデが唐突に叫んだ。『やっぱり、誰か来たわ』それでも、だめだった。その間、客席はしんと静まりかえって、みんな次に起こることを今や遅しと待っていた。でも、やっぱり何も起こらない。私の額には汗が浮かんでいたが、それは歌ったせいだけではなかった。とにかく舞台からひっこむべきかどうか、検討しはじめたとき、ついにフランクがやってきて、事態は最後の仕上げへと進んだ。『失礼します。フランクと申します。受胎監督です』と、すばらしいアメリカ訛りで叫んだ。この同僚はセカンド・キャストだったので、この時までまだ舞台に出たことがなかった。彼は裏舞台の小さな隙間のある扇形のスタビライザーの中に迷いこんでいたのだった。この言い間違いは、練習のとき私たちが彼にやったいたずらが原因だった。彼のメモに『受胎監督 Empfaengnisdirektor』と書いたのだ。あの時客席にわきおこった大爆笑は後にも先にもまったく体験したことのないほどのものだった。劇場中が笑いの渦だった。その後も『こうもり』は、アイゼンシュタイン役だったが、ズービン・メータの指揮のコヴェントガーデンや、サンフランシスコなどで、何度か、歌った。
 リューベックでのもうひとつの失敗も忘れられない。『イドメネオ』のタイトルロールで、両腕を広げた王様然とした姿勢で舞台に立って、『クレタよ、なんと輝かしく明るく喜びに満ちた未来があることか』と、歌うべきところだった。ところが、そのフレーズがいっこうに思い浮かばないどころか、頭の中が真っ白な状態なのだ。頭がからっぽになった。要するに歌詞が出てこなくて立ち往生というものだ。オーケストラ・ピットでは指揮者が冷や汗をかきながら、導入部の和音をチェンバロで何度も繰返し演奏して、私に何度も出だしを示していたし、プロンプターはプロンプター・ボックスから腰まで身体を突き出していたが、私だけが完全に何もわからない状態だったのだ。ところが、突然、私の頭の封鎖が解けて歌詞が戻ってきて、先へ進むことができた。そして、不思議なことに、数人の同僚しか、一体どうしたのかとは尋ねなかった。客席にはほとんど気がつかれなかったようだった。
 リューベック時代にすでにさまざまな客演をこなしていた。最初はルートヴィヒブルク音楽祭でタミーノを歌った。その1年後突然ルートヴィヒブルクの総監督からフィデリオのフロレスタン役を5日間歌えるかどうかという電話がかかってきた。『すごい。5日間とは』と思った。私は窮地に立たされた気分だった。というのは、その役はもちろん知っていたが、できなかったからだ。私は総監督にそう話したが、監督は『ルートヴィヒブルクで初演の5日間歌えますか。どうですか』と繰返すだけだった。私は『やりたいことはやる』という自分のモットーを心に浮かべて、承諾の返事をした。このオペラ全曲をカセットに収録し、ピアノ用スコアを入手して、リューベックからルートヴィヒブルクまでの長旅でこの役を覚えた。ルートヴィヒブルクに到着したときには、最後の仕上げを残すのみだった。ちなみにおもしろい演出だった。フロレスタンは地下牢ではなくて、巨大な十字架が鎖でくくり付けられたベルリンの壁を表すような有刺鉄線付きの壁の前にいるのだ。短い準備期間にもかかわらず、万事きわめて順調だった。すばらしいフロレスタン・デビューだったと言えると思う。
 バーゼルではヴォツェックに客演した。私は粗暴な人間である鼓手長を歌った。彼は肉体的魅力でマリーを意のままにしており、ひどく冷酷に扱うのだ。この人物に対しては、おそらく十分な距離を保って、その人物像を投影したのだが、私の演技に対してよい批評を得た。演技と同様に音楽的にもまさに挑戦だった。
 まだリューベックの専属中のある日、エージェントが、バイロイトから、ゲッツ・フリードリヒが関心を示しており、オーディションのことで問い合わせがあった、と知らせてきた。感激だった。バイロイトこそ、まさに私の大きな夢だった。1973年8月、音楽祭の間に、オーディションの期日が決まり、私はパルジファルとローエングリンを歌った。 バイロイトではずっと前に計画がたてられるので、その後とりあえず待機しなければならない。
 1974年、ヴッパータールの専属としての仕事がはじまった。ここで、すでに身につけていたレパートリーを深めた。とりわけ『カルメン』のドン・ホセ、それから、ジャンカルロ・デル・モナコの『青い』演出の『魔弾の射手』のマックスなどだ。そして、『魔弾の射手』では、いつも何か思いがけないことが起こるということを知った。それはヴッパータールだけでなく、その後の上演でも確認された。それはいつも同じ場面で、つまり有名な魔弾をつかっての射撃試験がおこなわれるときに、おこるのだった。銃声が早すぎるか、遅すぎるか、時には全然音がしないのだ。ハンブルクでは、音がしなかった。舞台助手はそういう場合のために代わりの銃を用意していたが、彼とコンタクトをとろうと必死になっている私に全然反応しない。 カスパールは繰返しさっさと撃つようにと要請する。その時、この苦境を切り抜けるのに、いいことを思いついた。空を狙って、大声で『パンッ』と叫んだのだ。客は驚き、喜び、物語は先へ進むことができた。
 ジャンカルロ・デル・モナコとの仕事はとてもおもしろかった。私たちはお互いに非常によく理解し合えた。ヴッパータール時代のあともときどき会っていた。そのことを通じて、うれしいことに、ある日、彼の父である偉大なマリオ・デル・モナコを訪問することが可能になった。
 声楽の勉強のはじめに、多くの偉大な歌手たちのレコードを買った。その中には、ラウリッツ・メルヒオールや、フランコ・コレッリ等々の古い録音があったが、全てにまさってそびえ立っていたのが正真正銘のオテロ、マリオ・デル・モナコだった。デル・モナコは、ヴェネチアの近くのプールとぶどう園付きの宮殿のような家に住んでいた。ところで、デル・モナコと個人的に知り合ったわけだが、私たちは初対面からお互いに好感をもった。彼は病気で、1973年に舞台から引退し、ここの自宅に引っ込んでいた。 週に二度人工透析をしなければならなかったが、病院に行きたくないので、自宅の一室に必要な器具を備えていた。 そのような治療のあとでは、彼はいつもエネルギーにあふれていた。だから、私が訪問したときも元気いっぱいだった。彼は歌って、変わらぬ偉大な声を披露してくれたし、自然だが、好ましくない音をたてることによって、その声をいかにほとんど乱暴とも言えるやり方で訓練したかを見せてくれた。彼は母音を形をととのえてはっきりと叫んだ。音域を変えて、また同じことをした。 彼は私に、本来、訓練できるのは、声帯そのものではなく、その周辺の筋肉だけであると説明した。試してみるとしたら、この苦痛のあとは、まずはまた声帯を休めなければならなかったから、公演の直前はだめだ。デル・モナコの監督の下、1週間やってみたが、私の声は前と同じだった。
 デル・モナコは、私と一緒に歌うのを楽しんだ。例えば、私たちは彼の友だちのところで一緒にプッチーニの『西部の娘』のアリアで、力いっぱい高いBを響かせたりしたものだ。この時ばかりは、人々は私を『マエストロ』と呼んだということは、相当の大声だったにもかかわらず、おそらく美しかったようだ。彼が大きな帽子をかぶり、白いスカーフをして、白のロールスロイス・カブリオレに乗って、町を行くと、まるで絵から抜け出たように見えたし、人々は彼をまるで『王様』のように扱った。人々は彼に遠くから手を振ってあいさつしたが、あいさつを返すのは彼の沽券にかかわることだった。 一度オテロの怒りの発作に遭遇した。何が問題だったのかわからないが、彼が大声で周囲に怒鳴り散らすのが聞こえた。そのあと、彼は高級な庭の備品をプールに投げ込んだ。そういうときは、しばらく近付かないほうがいい。彼はオテロのようにふるまったのではない。彼はオテロなのだ。 時には、晴れた空から力強い高音を雷のようにとどろかせたが、その力と物凄い音量にもかかわらず、その音色は美しかった。彼はそのきわめて健康的な自負心を、あるイタリアのテレビ放送で証明している。そこで『弱音では歌えないというのは本当ですか』と尋ねられて、『ミケランジェロもミニアチュールで有名になったのではありません』とこたえ、また、『ライバルはいますか』という質問に対しては、『みんな死にました』と断固言い放った。デル・モナコ訪問は、非常に感銘深い体験だった。

 ヴッパータールに話を戻そう。ここで私ははじめてのジークムントを歌った。私は非常によく準備していた。もう5年も前から、この役で契約する場合に備えて、この役の勉強をはじめていた。それでも、すぐに決定的な成功を得られるなどとは思いもしなかった。 
 突如として、重要なオペラ劇場の有名な監督たちが、私を見、私の声を聴くために、わざわざ自らヴッパータールを訪れた。パリからリーバーマン、ハンブルクからはエヴァーディング、ウィーンからも、バイロイトからもやってきた。シュトットガルト歌劇場は、5年契約を提示したし、客演依頼は山のようで、私はノーザン・ウェストファーレン州の若い芸術家のための奨励賞を受けた。批評を読んだとき、はじめは開いた口がふさがらなかった。本当に自分のことが書いてあるのだろうかと思った。しかし、すぐに、これは、私のキャリアが始まったということなのだと思った。」

 ペーター・ホフマンにノーザン・ウェストファーレン州奨励賞を与えた審査委員会は、決定理由を次のように述べている。「ペーター・ホフマンはすばらしい才能をもったヘルデン・テノール、そして、このめったにない声域の素質がある。みごとな発声技術が完璧にマスターされた役と結合し、歌唱的にも、演劇的にも、同じように 深い感銘を与える芸術的な表現を実現している。現在の業績は、芸術家としてのホフマン氏の成功ととりわけその声域における成長につながることに大きな期待がもたれることを証明している」
 オルフェウス誌は、1974/75年のシーズンに関して、「ヴッパータールにおける『ワルキューレ』でのジークムント及び、ドルトムントにおける『ラインの黄金』でのローゲのペーター・ホフマンを最高の後継者として絶賛したい。ペーター・ホフマンは、ユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールに成長した。彼は、ほとんど人を得られないワーグナー・テノールの役に、声と外見によって、運命づけられているということだ。彼のこれまでの成果と成長は、大きな期待を抱かせるものである」と書いた。
 ラインポストの批評家もまた、ペーター・ホフマンをヴッパータールの『ワルキューレ』で見て、その声が全ての声域において、「きわめて安定しており、基本的にロブスト」であり、「鋼のような」ほのかなきらめきを持つこと。将来的には「ジークフリート・テノール」に成長するだろうとして、彼を、1950、60年代に議論の余地のないワーグナー・テノールとみなされ、1970年までバイロイト音楽祭に頻繁に登場して、最近亡くなったヴォルフガング・ヴィントガッセンの「後継者たりうる者」と呼んでいる。

 オペラワールド誌は、1975年ドルトムントにおけるペーター・ホフマン初のローゲについて、「ペーター・ホフマンは言ってみれば一夜にしてセンセーションを巻き起こした。雄大な声と輝かしいテクニック(わずか30歳にして、舞台で初のローゲ)をもったユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールである彼はこわいほどの悠然とした態度と抜け目のなさを備えたこの役を究極の微妙なニュアンスをもって演じきった」と評した。

 「キャリアがはじまると共に稼げるようにもなった。これは、相当収入の少なかった時代のあとでは、とても大事なことだった。 私のエージェントは本当に熱心に客演契約を世話してくれたが、全てのことには当然ながら二つの側面があるもので、仕事が多ければ多いほど、それだけストレスも大きくなるという結果につながる。 このことを、私はじきに実感させられることになった。ボルドーとトウールーズで、なんと6公演もワルキューレを歌うことになったが、1公演につき4000マルクというまさにぜひとも稼ぎたい大金を支払うということなので、とても喜んだものだ。もちろんヴッパータールの契約も果さなければならかったので、かなり厳しいことになった。『魔弾の射手』のマックスを歌って、その公演のすぐあと、ケルン中央駅へ私を運んでくれる隣人の車に飛び乗る。それで、かろうじてパリ行きの夜行列車に間に合うというわけだ。公演のあと、化粧を落とす暇は、ましてやないから、顔面に青い色を塗りたくったままで、列車に乗り込む。なんとかそいつを取り除かなければならないが、ま、いいじゃないかと、食堂車でコニャックに手を伸ばした。それはまるで火のように燃えて、次の瞬間には私の顔はもはや青くはなく、ザリガニのように赤くなった。パリに着くとタクシーで市内を通り抜けて空港に向う。そこから、ボルドーへ。ボルドーにだいたい正午に到着して、午後2時に公演だった。眠っていなくても、すばらしい公演になった。その後、翌日の夜にはヴッパータールで『カルメン』のドン・ホセを歌うというわけで、逆方向に、まったく同じ行程を繰り返す。これを何度かやったあと、ストレスの報いが来た。公演中に、突然全てがぼやけて見えた。劇場全体が回って、私は一方によろめいたが、その時はすぐにバランスを取り戻した。完璧に疲労困ぱいしていた。血液循環がとどこおり、私の身体は警戒警報を発していたのだ。二度とこのような無理はすまいと決心した。 こうなると、一日か二日の休みでは、休養するためには絶対に不十分だから。時々は休暇を楽しむことにしようと思ったが、そのとき、ウィーン国立歌劇場から16だったか17公演だったかの客演契約が届き、すばらしい決心は水の泡になってしまった・・・」

 シュツットガルトの専属になる前、1974/75年のシーズンに、オペラワールド誌がペーター・ホフマンにインタビューしている。「オペラの舞台に立って3年で、このように注目されるのはどんな感じですか」という質問に対して、ホフマンは、「あまりにも性急にことが進むのは、ちょっと不安を感じます。時々目が覚めたら全部夢だったということになるのではないかと思います。学生時代シュツットガルト歌劇場の周りをぶらついたり、公演を見て、感動したりしたものです。いつかここで歌えたらと思いました。それが、いよいよ、そこでパルジファルに取り組むことになったわけです。パルジファルは私が希望した役です。それが現実になるなんて、すばらしいことではありませんか」と答えた。
 「 本当にすべてをなかなか把握しきれなかった」とペーター・ホフマンは当時を振り返る。「物事が全部勝手に進んでいた。 私は3年の間に、前にも話した『ポッペアの戴冠』のネロ役や、さらに、難しいけど興味深い役だったクレーブスの『真の勇者』をはじめ、すでに定番のレパートリーをほかにも、自分のものにしていた。 私はいつも沢山の『はじめての仲間』である同僚や指揮者といっしょに仕事をするようになった。デュッセルドルフの『ワルキューレ』では、カール・リッダーブッシュ、シュツットガルトではビルギット・ニルソンがいた。なんとあの偉大なビルギット・ニルソンが私のジークリンデだったのだ。私は物凄く興奮した。」

 ペーター・ホフマンがまだ客演として出演した1975年のシュツットガルトの『ワルキューレ』のあと、クルト・ホノルカは、シュツットガルト・ニュースで 、ほとんど常套的といえるやり方で、ヴォルフガング・ヴィントガッセンとのありきたりの比較を試みたが、演技ということに関しては、明らかにペーター・ホフマンの優位を認めた。こういう評価をする批評家はひとりではなかった。最も初期の批評においてすでに再三再四指摘されたペーター・ホフマンの演技力の度重なる強調のされかたは特徴的である。

 「すらりとした体格、陸上競技で鍛えたたくましさ、視覚的にも若い英雄であると信じることができる。彼は、1940年代のヴォルフガング・ヴィントガッセンを彷佛とさせるが、この偉大な先輩より、今日すでに、演技的な動きははるかに達者である。彼のテノールとしての声はまぶしいほどの輝きはないが、声域のバランスとその暗く低く柔らかい響きは抜きん出ている。これはワーグナー歌手にとっては非常に重要なことだ。今回の初パルジファルに加えて、来年の3月にここでまた同じ役を歌うことになっているが、今から楽しみである。 そして今度は、アンサンブルの中にまさに生まれながらのマックスがいるわけだ。『魔弾の射手』もまたいつか劇場のレパートリーに入れるべきときが来ることが期待される」

 ヴィントガッセンは1945年から1972年までシュツットガルト・オペラのアンサンブル・メンバーだったのだから、彼との比較は、シュツットガルトの批評家にとってはすぐ頭に浮かぶことだった。ようするに、シュツットガルトとの5年契約で、ペーター・ホフマンは『偉大な先輩』の足跡をたどるべく、今またさらなる一歩を踏み出したのだった。それにまた、後のキャリアに関しても、この二人の歌手の間には、ある種の類似点が存在する。つまり、ヴィントガッセンは音楽祭が再会された1951年に、ペーター・ホフマンは1976年に、二人ともバイロイトでのキャリアの開始時にパルジファルを歌ったのだった。

 「それから、バイロイトに呼ばれた。オーディションから2年後、私は1976年のシーズンの契約に署名した。
 私はピエール・ブーレーズ指揮によるパトリス・シェローの新演出『リング』で、ジークムントを歌うことになっていた。さらに、バイロイトの歴史の中で最年少のパルジファルとして、『パルジファル』のタイトルロールの契約もしていた。バイロイトとの初契約のこの時期は、危篤状態だった父に、このことを、まだ話すことができたということでも、私にとって、非常に重要だった。父は長い時間を昏睡に似た状態で過ごしていたが、私が訪ねたときは、完全に意識があった。大のワーグナー・ファンの父に、来年バイロイトで歌うことになったと言うと、父は『いい加減なことを言っているんじゃないのか』とたずねた。 私は父にそれがまさに事実であることを保証し信じてもらうことができた。父はとても喜んでくれた。それから14日後、父は亡くなった。 父にバイロイトの舞台を見てもらえたら、どんなによかっただろう。残念なことに、父には一度しか私の舞台をみてもらえなかった。しかも、それは『ヴォツェック』での野蛮な鼓手長役だった。」

 ペーター・ホフマンは、『リング』に出演したが、その演出は始まる前からすでに激しい論争を巻き起こしていた。これは、 ヴォルフガング・ワーグナーが音楽監督としてピエール・ブーレーズ、演出にパトリス・シェローと契約したことによって引き起こされた。ブーレーズは前衛音楽の旗手で、全てのオペラ・ハウスを粉砕するべきだという主張で似非革命家として悪名高かったし、シェローのほうは、『左翼』的な過去をもつ演劇人であり且つ映画人で、オペラ演出家として全く認められていなかった。 このワーグナー解釈のいくつかの神聖な伝統と縁を切った演出は物凄いスキャンダルだった。 シェローは『リング』の物語を時代性のない寓話として祭り上げるのではなく、完全に細部まで19世紀市民社会の話として扱った。この演出では神々もまた読みかえられ、権力と財産を巡る闘争に、全く人間的に巻込まれていく様が描かれた。舞台は、流れるようなひだのある衣服を身に付けた崇高な存在ではなく、ブルジョワの利益代表に占拠された。フロックコートを着たヴォータンはこの演出のロゴマークになった。今では、当時人々が加熱していたことが、とっくに演出の型になっていて、スキャンダルを追体験するのはもはや困難だ。 もちろんバイロイトでではないが、シェロー以前にすでに、資本主義批判を際立たせる『リング』を試みるような演出が行われていたのだから、なおさらだ。シェローが 映画の美学を確信的よりどころにして創造した舞台上の情景は、物語の進行と感情描写に小劇場的なレベルに達するほどの繊細さを求めることによって生まれた、生命の躍動感と舞台を貫く官能性と同様に、今でも強い感銘を与える。人物の動きは常に音楽が表す出来事と一致し、連動している。人物は、もったいぶった姿勢でじっと立っているのではなく、実際に、あちこちと走り回り、床を転げ回る。これは音楽の放つ荘厳なオーラと無礼にも矛盾していると、多くの人が思ったが、大多数はこの演出のそんな側面を率直に受け止めた。
  初期の騒ぎには関係なく、ペーター・ホフマンは、この演出にぴったり当てはまり、観客の熱狂ぶりはどんどん大きくなったが、それは、演出家の指示に、相互の関連性もなく場当たり的かつ盲目的に従うのではなく、その時々の動機と感情を徹底的に検討し、役を追体験して理解し、自信をもって実行に移す彼の努力によるものでもあった。

 「シェローはバイロイトにとって思いがけない幸運だった。練習は非常に中身の濃いもので、私たち歌手が学んだだけではなかった。周知のように演劇畑から来た、この若い演出家もまた、練習を通して、私たちから多くの刺激を受けた。はじまる前からすでに外部から多くの批判があった。死すべき人間がどうやって神々を演じることができるというのか。 そんなことはこの演出ではどうでもいいことだったが、新聞から、初期の自信のなさが一掃された後では、熱狂はますます増すばかりだった。私にとってシェローのリングは前人未到のものである。」

 練習では歌手は演技に対していつもと違うことをたくさん要求された。動作のテンポと集中度はよく訓練されたスポーツマンであるペーター・ホフマンにさえ、大いに汗をかかせた。おまけに、歌わなければならないのだ。さらに加えて、バイロイトの新人にとって、デビューの緊張があった。「音楽的なこと以外」のストレスもまた大きかった。

 「練習期間中、祝祭劇場は私を多少かいかぶっていたようだ。私は、と言えば、バイロイトで実際に歌うということを理解できず、夢か現実かわからなかった。 プレミエが近づいたときにやっとそれが現実であることを理解したようなわけだ。私のアドレナリン量の増大はすでに明確だった。祝祭劇場への道でもう興奮していた。私はアーティストたちのたまり場である『聖ステファン』で夕食の予約をしておこうと思って、向い側に車を止め、道の真ん中まで走って、残りの半分を横切るために、車が途切れるのを待っていた。 私の後ろにいたドライバーはこれが気にいらなかったので、私のすぐ後ろに迫って、スピードをあげ、あっという間に私に衝突した。その男は車からどなった。そこをどけ。 どかないんなら、待ってろよ。男は本気で殴りかからんばかりだった。私は生来とりわけ臆病というのではないので、言い返した。それなら、かかってこい。しかし、すぐうしろにパトカーが走っているのが見えた。偶然か運命だったのか。いずれにせよ、警官はその男に説教し、私は我が道を行くことができた。そうこうするうちに、そのせいで、道が渋滞し、前に進まないものだから、すっかり遅くなってしまった。祝祭劇場はすでにパニックになっていた。私の衣装係は窓から外をのぞきながら立って待っていたが、私がやっと到着すると、即座にヴォルフガング・ワーグナーに電話をかけた。来ました。そして、ほっと一息ついた。化粧する時間はほとんどなかったが、どっちみちシェローは化粧を全く重視していなかった。歌のけいこは、今までもずっとそれが好きで、そうしてきたことだが、車の中で、ちゃんとしてあった。しかし、舞台に出る前の最後の数秒間は・・・、と言えば、『今、誰かがスピードの出る車にエンジンをかけたままドアの前に待っていてくれたら、即それで消えることができるのに』という考えが、頭の中をよぎった。尤も、それは漠然とした思いにすぎなかった。」

 奇妙なことに、ワルキューレのプレミエのあと、すぐには批評が出なかった。どうやらどう批評すべきか自信がなかったようだ。最初に沈黙を破ったのは、北バイエルン・クリーアのエーリッヒ ラップルだった。ワルハラの家庭内紛争という見出しで、シェローによる新演出『ワルキューレ』のプレミエについて、その上演の印象を次のようにまとめた。

 「幸運にも組み上げられた華麗な若い声によるソリストたちのアンサンブルの輝かしい成果とフランス人の新演出に対する客席における激しい意見の衝突が『ワルキューレ』のプレミエを特徴づけていた。皮肉をきかせた陽気な喜劇、19世紀的な衣装による異様な仮装劇『ラインの黄金』の後、『リング』の第一夜の『ワルキューレ』では、解決困難な様々の問題が浮かびあがった。(略)財産として若い妻を手に入れた粗暴だが身なりのよい家長と、財産も名前もない反逆者ジークムントとの対比が、舞台を優れたものにしている。力強く、渋みのある、密度の濃いバスのマッティ・サルミネンは歌唱でも演技でも迫真のフンディングだった。一方、ジークリンデのハネローレ・ボーデ(ジャニーヌ・アルトマイヤーの前のいくつかの上演で歌った)とバイロイト初登場のペーター・ホフマンのジークムントはウェルズング兄妹を感動的な情熱をもって演じた。優れたバリトンの声を基礎に持ち、輝かしく、強靱で、力強いホフマンのテノールは、アンサンブルにとって、本物の幸運な発見である。(略)とくに若い二人の演技は、ジークムントとジークリンデが身を投げ出し、抱き合い、愛撫するとき、オペラにつきもののうわべだけの所作を忘れさせた。シェローは二人によって圧倒的な愛の場を具現した。」

 他の批評家も全員一致で、ウェルズング兄妹を演じたハネローレ・ボーデとペーター・ホフマンの声楽面と演劇面での成果を賞賛したが、ペーター・ホフマンに対して、客席は熱狂的な大喝采を贈り、彼はこのシーズンの一大発見として祝福された。1976 年にスキャンダルを巻き起こしたものが遅くとも1980年には古典になり、フィルムに記録され、テレビで放映するに値するものと認められた。

 「シェロー・リングはのちにテレビ用に録画された。練習のときにすでにカメラチームが入っていて、誰かが、隠し撮り放送のために、私にいっぱいくわせようと思いついた。彼らはあの剣、ノートウングをトネリコの木の背後にしっかりとねじで取り付けたので、私は引き抜くことができなかった。私は力いっぱいがんばったが、『動かない』と言わざるをえなかった。更に続けて『ウェルズングのジークムントを、女よ、あなたは見ているのだ。花嫁への贈物として剣を贈るぞ』と歌った。そして、いつもは剣を握っているのだが、この時は、とにかくトネリコを指し示して、先を続けることができたというわけだ。
 あとでそのビデオをじっくりと見たが、ジークムントの死の場面では、本当にショックを受けた。自分自身が死ぬのを見るのは、奇妙な感じがするものだった。マッティ・サルミネンのフンディングが何度も槍で私を突き刺すのを見ていたら、フンディングが私の上に崩れ落ちてきたときの痛みを改めて感じた。どっしりと重い歌手が、あの時、ほんとうに私の上に落ちてきたときには、まるで肋骨を全部折られてしまったような感じがした。」

 パルジファルでバイロイトに登場したときには、ペーター・ホフマンはすでに三つの異なった演出でこの役の経験を積んでいた。1976 年の春、3週間のうちに、ヴッパータール、ハンブルク、シュツットガルトの劇場のプレミエで、歌ったので、新聞は彼を「ドイツ連邦パルジファル」と呼んだ。シュツットガルトにおけるゲッツ・フリードリヒとの仕事は、忘れられない経験になった。彼の考えでは、この演出では「愚か者」の成長過程、自然児が、知を得て、同情する力を備えた人間に、そして責任を自覚した王へと成長する過程が繊細な動きを通して、ことさらに浮き彫りにされた。シュツットガルトの演出に対する批評を引用しよう。

 「ホフマンはゲッツ・フリードリヒの演出概念を間違いなく満たしており、演出に合わせた動きと高い集中度は、先輩をしのいでいた。(ハンブルクで同時に全く別の演出のパルジファルを演じたホフマンは、フリードリヒとは少ししか練習できなかっただけになおさら驚かされる。このことは彼の役者としての天分を明らかに証明している)彼は目に見える、正真正銘の若々しいパルジファルだ。その衝動的な、それにもかかわらず、コントロールされていないのではない、とっさの動きにも説得力があった。さらに、歌もまた、若さにあふれ、熟練の域に達していた」

 ペーター・ホフマンは、演出家のヴォルフガング・ワーグナーと気が合った。ヴォルフガング・ワーグナーは、練習のときに歌手がもちこむ意見に対して心を開いてよく耳を傾けた。

 「バイロイトでパルジファルを歌わせてもらえるのは、若いテノールにとって夢が実現することだ。ヴォルフガング・ワーグナーの演出で、共に仕事をするのは喜びだった。最高のチーム、最高の仲間たちだった。グレネマンツを歌ったハンス・ゾーティンとは、初対面からよく理解し合えた。最初の練習の前の夕方、私たちは一緒にビールを一杯やっていたが、彼がきいた。『もうパルジファル入門、きいたか』『いや、入門って何』と私は聞き返した。彼は『えっ じゃあ、よくきけよ』と言って、翌日、私が耳にし、体験するであろうことを説明してくれた。そして、聞いたとおりのことが起こった。ヴォルフガング・ワーグナーは、機嫌よく、チームに私を紹介した。『みなさんの新しい仲間のホフマンです。パルジファルを歌います。パルジファルをすでに歌ったことがありますか』 私は内心いったい何なんだと思った。なぜならば、彼は、私がヴッパータールでもハンブルクでもシュツットガルトでも、順ぐりに、パルジファルを歌って、それで『ドイツ連邦パルジファル』と呼ばれていることを間違いなく知っていたからだ。そして、それからが、ほとんどハンス・ゾーティンが予言した言葉どおりの入門となった。『要するに、無知で、ばかな、純粋の、ドイツのばかな愚か者。彼はそこにただ立っていてびっくりしているのだ。ずっとびっくりしているのだ。それから、白鳥、神聖な動物だ。血、驚愕、それから、うしろから合唱団が登場する・・・そして、いよいよはじまりだ』 ヴォルフガング・ワーグナーは実務家だった。彼のやり方は、多くの前置きはなしで、練習がはじまるだけに、いっそう活気に満ちていた。彼は各場面を共に演じ、体験して、その考えを実行に移したが、私たち自身の創造性も是非とも一緒に取り込もうとした。私にとって彼との仕事はわくわくするような体験だった。殊に、ヴッパータール、ハンブルク、シュツットガルトで、6週間の間に3種類の様式の異なる興味深い演出でパルジファルのプレミエを経験した後のバイロイトこそは、まさにクライマックスだった。」
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