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出会い [2003年刊伝記]

「ほんとにジークムント? まさにジークムントだった」
ペーター・ホフマンとの初めての出会い

 「1979年2月、ミュンヘンで、久しぶりに、ラインハルト演出による『ニーベルングの指環』の上演があった。ジェームズ・キングが『ワルキューレ』で、ジークムントを歌うことになっていた。早朝から並んで、長い間待ってチケットが買えたときはうれしかった。直前になって、ジェームズ・キングがキャンセルし、ジークムントは、ペーター・ホフマンというテノールが歌うことになった。ペーター・ホフマンって、だれだろう。このテノールをまだ聴いたことがなかったし、この名前は私にとって全くの初耳だった。私は知人に尋ねて、その結果、ペーター・ホフマンが、際立った歌唱で、すでにバイロイトで注目に値する成果をあげているシュツットガルト歌劇場の若い歌手であることを知った。そこで、もちろん私は好奇心でいっぱいになった。私の席は二階の上のほうで、そこからは舞台も劇場全体もよく見え、全体をよく見渡すことができた。幕があがり、ジークムントが舞台に転がり込んだ。ジークムント? まさにジークムントだった。客席にささやきが広がった。私はまず、全くほんとうにジークムントに見えると思った。でも、歌はだめなんじゃないか。できるだろうか。最初の声のあと、もう私は口がきけなかった。この若く、魅力的なテノールは外見がまさにジークムントであるだけでなく、明らかに声もあった。ほとんど信じられないことだった。この瞬間から、私は全ての音を楽しんだ。すばらしい上演だった。観客は熱狂した。ペーター・ホフマンは大喝采を受け、幕間の話題だった。この時以来、私は、この名前に興味を持った。新聞もそうだった。彼に関する情報をすぐに集めることができた。ペーター・ホフマンは、バイロイトの新しいスターで、スポーツマンで、しかもボクサーだという。かなりびっくりしたが、まもなく、ボクサーではなくて、十種競技の選手で、落下傘兵だったとわかった。新しい英雄が生まれたのだ。新聞や雑誌に写真やうわさ話が載り、人気が高まっていった。」
   天才ペーター・ホフマンに直面することになった私の知人で経験豊かなオペラ通の女性や、熱狂的なワグネリアンたちが、ここに引用した報告で、大いにやったように、ジャーナリストたちも、歌手の私生活や外見について詳述した記事に尾ひれを付けた。それは、彼の人柄や、外見が不本意にも招きよせたといえよう。本人自身も公演の翌日、おどろきあきれながら、『彼は見栄えがよく、魅力的に演じるので、とにかくこの役に理想的である』と書かれた新聞を読んだものだ。
 ホフマン自身は「彼らは、私もまた、数時間も歌ったという事実をすでに忘れてしまっているのだ」とコメントした。彼が最高の芸術的水準で歌ったことも、彼らは忘れていた。最高に口うるさい音楽批評家でさえ、彼の声と表現力に最高の賛辞を述べざるを得なかった。というわけで、彼は1980年代を代表するワーグナー・テノールになった。尤も、ドイツ物の他の役も同様にすばらしい。「フィデリオ」のフロレスタン、「魔弾の射手」のマックスは特筆に値する。彼の声と舞台での存在感は、バイロイトでも、世界の重要な舞台でも同様に証明されているが、全く比類のないものである。大衆紙では、いつもながら「自然児」扱いされているが、それはワーグナーの森の舞台に立つ武装した主人公としての彼の舞台姿を投影したものにすぎず、この比類のなさは、決して『自然体』などではなく、集中的な役柄研究と厳格な仕事ぶりの結果である。

 彼が、オペラのほかに、ポップスを歌いはじめたとき、熱心なオペラファンも、この種の音楽に突如として興味を持った。そして、ポップスファンは大声でわめくこのタイプに興味津々になり、急きょ、オペラにかけつけた。あるジャーナリストは、全く熱狂的に書いたものだ。「彼はクラシックの鎖を引きちぎったのだ。古いオペラは死んだ。ペーター・ホフマン、万歳」 もちろん、クラシックにも、同様にポップスの分野にも、そういうものを絶対に受け入れようとはしない純粋主義者もまた存在する。今ではとっくの昔に、オペラ歌手が、いわゆるポップスをやるのは、当たり前のことになっているが、1980年代に、あえてこれを行ったのは、ペーター・ホフマン一人であった。彼はポップスとクラシック音楽間の区別が厳しい時代の先駆者であり、クロスオーバーが一般的に受け入れられた時代に彼を模倣した者たちの先駆けだった。オペラの舞台では、完璧なジークムントやパルジファルであり、若いオペラファンにとっては、ポップス歌手でもあった。世界的オペラ歌手であると同時にポップスターであると言えるのは、ホフマンが最初であり、当時は、彼しかいなかった。

 輝かしいバイロイト・デビューの後、20年に満たないころ、想像を絶することが起こった。不治の病、パーキンソン病が、ホフマンの生命力と生活力をむしばみはじめたのだ。多くの悪意に満ちた言辞が言い立てられた。彼の動きが全くぎこちなくなり、舞台上に無表情で立つようになった後は、アルコール中毒、麻薬使用、その他ありとあらゆる無責任な憶測がなされた。ペーター・ホフマンは自分の病気について話さなかったから、人々は彼に対してまったく無神経だった。ホフマン自身、病気を認めようとしなかった。気の毒がられるのが嫌だったのだ。『自分に、こんな病気は似合わない』というのが口癖だった。沈黙することで、この病気を克服しようとしたのだ。そうすることで、病気の進行を受容することを拒否したのだった。しかし、1999年の夏、公表を決意し、重荷を下ろした。彼は多くの予期せぬ慰めの言葉を得た。自分自身の状況と、この病気にかかった人やこれからかかるかもしれない人のために、ペーター・ホフマン・パーキンソン研究プロジェクトを設立し、例えば、ゴルフ・トーナメント組織などを通じて、基金を援助するといった活動を今日にいたるまで行っている。

 ペーター・ホフマンが発言している部分は、私と彼との長期間にわたる対談に基づいている。彼との対話を通じて私が自分でその言葉を理解したものである。その際、年代的順序を完全にしたり、コメントをつけたりした。引用した批評は、ペーター・ホフマンの業績を好意的に、かつバランス感覚をもって私が自分で、要約したものである。新聞批評の完全な一覧表を載せるつもりはなかった。マリタ・ターシュマン
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