SSブログ

写真1-38 [1983年刊伝記]

1)『女よ!あなたはウェルズングのジークムントを見ているのだ!』 と書かれた葉書。ペーター・ホフマンは、かつてワーグナーが『ローエングリン』の構想を練った、ボヘミヤの世界的湯治場、マリエンバートで生まれた。(母親と一緒の赤ちゃん、ペーター・ホフマン)
8301.jpg

2)「白ばらの中で」は母だけが歌ったのではなかった。戦後、ダルムシュタット近辺の村々でオペレッタが上演されたとき父もまたそこにいた。(息子、ペーターを挟んで)
8302.jpg

3) 「この時以来、私たちは、スーツには全く耐えられない」フリッツ・ホフマンのコメント
8303.jpg

4) 小学校入学
8304.jpg

5) フリッツ & ペーター・ホフマン
8305.jpg 8306.jpg

6+7) 「生意気盛り」の16歳
8307.jpg

8) 「ワンダーフォーゲル」ホフマン:エルビスの歌、まずは野原で、それから軍隊のクラブで
8308.jpg

9) 「私は短距離走者タイプの陸上競技選手だ」
8309.jpg

10) 「学校?学校については問題があった。ほんとうに興味があったのは、スポーツだった」(18歳のペーター・ホフマン)
8310.jpg

11) 「私の最大の願いといえば、人類がお互いに良い関係を保つことだ。上着に『戦争ではなく、愛を』と印刷していたことがある。これこそがまさに私の意見だ。戦争は民衆が決めるのではなく、政治家が決める。政治家たちにボクシングのグローブを与えて、互いに追い回させるべきだ。おそらく他人をそっとしておくようになるだろう。
8311.jpg

12)  「声をほんとうに損なうことは、歌うことだけだ」(パラシュート降下訓練中のペーター・ホフマン)
8312.jpg

13) フリッツ・ホフマン撮影のペーター・ホフマン
8313.jpg

14) 「あることを言葉で表現したその時、自分がずっとそのように考えていたことに気がつく。言葉にすることによってのみ、それは意識される」(自宅のスタジオで)
8314.jpg

15)  「私は都会暮らしはできない。仕事上やむをえずではなく、自発的に、田舎に住んでいる」(14部屋ある城館の前で。前には池がある)
8315.jpg

16)  「共同体も悪くないと思うが、そういうことができるか想像できない。もうずいぶん『個人的な生活』に慣れてしまった」
8316.jpg

17) 35000平方メートルの大公園の中にある、高さ8メートル、幅13メートルのポリエステル製模造岩壁、すなわち、バイロイト音楽祭の『ワルキューレ』の岩壁
8317.jpg

18) 「私は歌手であって、政治家ではない。従って、慎重な発言をしたいとは思わない」(自宅の池で)
8318.jpg

19) ここの住人には、雌馬のリューと流星もいる。「私の馬であるリューはほんとうに聞くことができる。私は何でも話すことができる」
8319.jpg

20) 恋というものはだれかを傷つけないでは済まない。愛していれば、相手を苦しませるより、自分自身を苦しめるほうがむしろ楽だ。激しく愛すれば愛するほど、苦悩も大きくなる。苦しむことなく恋を手に入れることはできないと思う」(デボラ・サッソンと自宅の庭で)
8320.jpg

21) 「私を手術で治してくれた医者たちが、再びオートバイに乗ることを許可してくれた。スピードによる解放感、この感覚は残っている」(事故の後)
8321.jpg

22) 「人生において為しうる最高のことは、他者に影響を及ぼすこと、なんらかの印象を残すことだ」(自宅の暖炉の前で、安楽椅子に座って語る)
8322.jpg

23) 「私の最大音楽体験のひとつ、ドルトムントでのピンク・フロイドのウォール・コンサート」
8323.jpg

24) バイロイト1967年、タンホイザーを演じるジェス・トーマス。「あのころの私は『彼のようになりたい!』という思いでいっぱいだった」
8324.jpg

25) ファンたちに『神の如きミスM』と呼ばれたベッド・ミドラー。「彼女のライブには、オペラでは決して体験したことのない力強い瞬間がある」
8325.jpg

26) 「ダルムシュタットの友人と、麻薬中毒者がうろうろしてるような酒場にまた行った。それにしても、私たち歌手は結局のところ、税金から給料を得ている。だから、いくつかのオペラハウスを閉鎖して、この金で気の毒な人たちを援助したほうがいいのではないかと時々考えないわけにはいかない」
8326.jpg

27) 「自分自身の音楽をすることが、オペラにおいて取り組んでいる音楽、すなわち他人が作曲した音楽、とうまくやっていくことより、私にはますます重要になってきた」(自宅のスタジオで、ペーターとフリッツ・ホフマン)
8327.jpg

28) 「最初のロック・レコードがあれほどヒットしたものだから、数カ月後にはもう二枚のシングルがドイツで出され、1983年にはアメリカでもLPレコードが発売された」(自宅のスタジオで、ペーターとフリッツ・ホフマン)
8328.jpg

29) 「ロックかワーグナーかではなくて、あるのは、良い音楽か悪い音楽かという区別だけだ」レコード会社も対立的な宣伝をしている。聖杯物語(ローエングリン)とロックのシングルのレコードジャケット
8329.jpg

30) 「演出は音楽の影響響力に対する不信感でしかないことが多々ある」(自分のショーのための撮影をしているところ)
8330.jpg

31) ペーター・ホフマンとデボラ・サッソン、『ホフマンの夢』と題するショーの一場面、1982年11月21日、ZDF
8331.jpg

32) 「ミス発見者」のフリッツ、ZDFの番組『音楽が切り札』1979年、グラーツのために撮影中の兄と一緒に(1979年10月20日放送)
8332.jpg

33) バイロイトでの自由時間:テニス・コートのワーグナー歌手たち。『ローエングリン』チーム対『ラインの黄金』チーム(左から、ペーター・ホフマン、ハンス・ゾーティン、ジークフリート・イエルザレム、マルティン・エーゲル)
8333.jpg

34) 音楽祭の歌手対バイロイト市職員の親善試合中の『サッカー・スター』ペーター・ホフマン
8334.jpg

35) 休憩時間にサインするペーター・ホフマンと観戦に来た次男ヨハンネス
8335.jpg

36) バイロイト音楽祭の公演の合間に、二輪車での郊外への遠足(左から、ペーター・ホフマン、ヘルムート・パンプフ、ロベルト・シュンク、ヴォルフガング・ワーグナー、ハンス・ゾーティン、マルティン・エーゲル)
8336.jpg

37) 公演後、リヒャルト・ワーグナーの時代からすでに名高かったバイロイトの芸術家酒場『ふくろう』で(マルゴット・ウェルナーと一緒のフリッツ・ホフマン、ペーター・ホフマン)
8337.jpg

38) 「食堂のいつものテーブルで、ちょっとしたおしゃべりがはじまるが、ほんとに大事なことはめったに話されない」(ハラルド・ユーンケと)
8338.jpg


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。