SSブログ

コンサート@東ベルリン 1987年秋 [PH]

ベルリンの壁の崩壊、そして東西ドイツの統一からもう20年以上たちました。ホフマンは1987年秋、壁崩壊の二年前に東ドイツツアーを行っています。50回を超えるコンサートから成る三度目のロック・ツアーで、東ドイツの東ベルリン、ドレスデン、それから、かつてのケムニッ ツ、そして現在はまた再びケムニッツに戻った、当時のカール・マルクス・シュタットで、6回の公演。当時、東ドイツでのポピュラーコンサートが許可されたのは、西ドイツの歌手としては3人目だったとのことです。その東ドイツのツアーのうち、東ベルリンでのコンサートのカセットテープをいただきました。録音の経緯は不明ですが、歌だけでなく、トークも入っていて、コンサートの雰囲気が伝わります。

Rocktour 1987 Live in Ostberlin
1)You're my soul and heart
Young Girl
2)Love hurts
3)Music
4)The air that I breathe
5)We've got tonight
 Summertime Blues
6)Blue moon
In the jungle the lion ...
Na, Na, Na, & Peter presents the band
7)You've lost that lovin' feeling
My little Runaway
You don't bring me flowers
You've a lady, I'm a man
8)Elvis Presley medley:
   Blue swede shoes
  Don't be cruel
  All schock up
  Are you lonesome tonight
  Surrender
  Falling in love with you
  Marie(his latest flame)
  Jailhouse Rock
9)Dust in the wind
10)A salty dog
Mandy
11)Smoke gets in your eyes
Somewhere



(画像はベルリンの壁崩壊のスノードーム)
東西ドイツの現実の象徴でもあったベルリンの壁について、伝記の中に、ベルリンの壁をその目で見たときの気持ちが書かれています。
「はじめてベルリンに行ったとき、ドイツではだれでも知っていることだが、だれもがもう何回もテレビの画面で目にし、だれでも知っている壁が市を分断しているということ、このことが、そこでまさに進行中だった。しかし、はじめてその前に立ったときは、衝撃的だった。小さな博物館が建てられていて、その中には、可能な限りの脱走方法が展示してある。深い悲しみが私の中にわき起こった。本当の意味で関わりを持つことができるだろうとは思いもしないところだったが、あの場所に立ったときから、私はそれを実感した」

東ドイツでのポピュラーコンサートが許可されたのは、西ドイツの歌手としては3人目だったとのことです。その手続きは非常に細かいことまで申請しなければならなかったとか。思想統制下の国というものはとにかく大変です。演奏予定の歌全ての完全な歌詞を提出しなければならなりませんでした。

 「東ドイツでのポピュラー・コンサートは、西ドイツの芸術家としては、そのときまでは、ペーター・マッファイとウード・リンデンベルクしか許可されたことはなかった。まさに微に入り細に入り、一から十まで、事こまかな計画がたてられた。まず東ベルリンの東ドイツ芸術家エージェントが作成した申請書を用意しなくてはならなかった。その際、完全な歌詞を添えて、演奏予定の歌をいちいち全部提出しなくてはならなかった。
 
報酬は3分の2は東ドイツ・マルクで、3 分の1は西ドイツ・マルクで支払われるのだが、いったい東の金をどうしろというのだろう。アメリカ人のバンドと関係者にそんなことは言えなかった。どこにもそんな金を使えるところはないのだから、西の金で支払うしかない。

私たちはすばらしい妥協案を見つけた。私たちは、14日間、ズールで無料で自由に使える練習用のホールとホテルの部屋を提供されていた。そこで、私たちは無料の練習コンサートを追加した。この14日間は注目に値するものになった。東ドイツの組織力と世話焼き振りは二度と体験できないほど比類のないものだった。理由は簡単だ。ここには金はなかったが、雇われるべき人間は十分すぎるほどいるのだった。技術者、例えば、電気技師が一人必要になった時には、すぐにいつでも使える人が5人も待機していたし、椅子が数脚欲しかった時には、すぐに会社をあげて手伝いにきてくれた。ホールは昼夜を問わず保安部隊によって監視されていて、保安部隊がそこにいることが可能な限り、どんな希望も彼らの目に留まるのだった。要するに、『西側の人間』に良い印象を与えたいわけだ。

ただし、東ドイツの基準から逸脱することを決定せざるをえない場合は、厄介なことになった。そうなると階級制度の序列に従って、次々と上の人にお伺いを立てることになる。
 ある日、長い練習の日々が続いたあと、ホテルの中にあるディスコに行こうとしたとき、入口にネクタイ、スーツ姿で立っていたドア係りが私たちの入場を拒否した。ジーンズにスニーカー、おまけにネクタイもしていない私たちは、全くとんでもないことだというわけで、中へ入ることを許されなかった。延々と、無益な議論をしたあげく、結局私たちはほかの服の持ち合わせがないのだから仕方がないということで、最終的には、ホテルの女性支配人が姿を現して、入場を許可するように配慮してくれた。

この瞬間から、ドア係りまでがまるで人が変わったようで、意見の相違など何もなかったみたいに、私たちに対して好意的で丁寧な態度をとった。中では、もとは白かったのだろうが、変色して黄ばんだ背広を着たバンドが行儀のよい娯楽音楽を演奏していた。私たちは彼らに、一曲演奏したいので、楽器を貸してほしいと頼んだ。『一曲ですか。アメリカ人に楽器を貸すのですか』と、まずは不信感丸出しだったが、しだいにそれは消えて、何が演奏されるのか興味津々になった。まさに思うつぼだった。ドラマーだけは、高価なバチが折れたときには、相当なショックを受けたが、私たちのドラマーのジェフはいつも荷物を全部持ち歩いていたので、速攻で気前良く変わりの品を調達できた。私たちはディスコに人々を招待して、東の金を気楽につかってしまった。それ以外にその金でするべきことはなかった。もちろんバンドのメンバーのために楽器をいくつか買ったが、それもまた私たちのためではなかった。マイセンの陶磁器も、ヨットやトラバントの車も欲しくなかった。むしろトラクターのほうが頭に浮かんだ。それなら、ひょっとしたら、オーバープファルツの近所の農家のお土産にしたら、喜んでくれるかもしれないと思ったのだが、巨大な怪物のようなものを提供してもらうのは、私たちの意に完全に反していた。

 東ベルリンのフリードリヒ宮殿で開催された最初のコンサートはとても奇妙な雰囲気だった。最前列には、無感動で厳格な体制派の党員が無表情で座っていた。その後ろで熱狂した観客が拍手喝采していた。私は舞台から歯に衣を着せず、『本当にいったい何を怒っていらっしゃるのですか。私が何か間違ったことをしましたか』と前の席の人々に向って大声で言った。やはり反応はなかった。彼らは自由で気楽な雰囲気はとにかく好きじゃなかったのだ。

ドレスデンでもやはり同じようだった。ドレスデンは『外が見えない谷』と呼ばれていた。というのは、ドレスデンでは、ものすごく高いアンテナを建てなければ西側のテレビを受信することができなかったからだ。私たちのコンサートの直前に、ヘルムート・コールとエーリッヒ・ホーネッカーの会談が行われた。そこで、あいさつの後、いい機会だと思ったので、『私たちの首相であるヘルムートとエーリッヒの直接会談があったわけですが、これによってそのうちに何らかの良い結果がもたらされることを希望しています。ここ、『外が見えない谷』で、私が皆さんに望むことは、いつかここにも光が差し込むこと、そして、もうひとつ、巨大なアンテナが建設されることです』と言った。メッセージは観客に届いた。突然想像できないほどの歓声がわき起こったが、前の方の数列に陣取った人々だけは、あいかわらず妙な具合に顔をしかめ、口をへの字に結んでいた。コンサートの終わりには、いつもバーンスタイン作曲の『サムウェア』を歌ったが、この日の公演ではいつもとは違う意味があった。この『私たちの場所がある。どこかに私たちのための場所がある』という歌詞は、状況にぴったりだった。私はほとんど自分自身に向かって心を込めて歌った。この公演は、感情が爆発し、ものすごく気分が高揚した。

 一日後、かつての『カール・マルクス・シュタット』で、私は『こんにちは。ケムニッツの皆さん』と観客にあいさつした。この時はほんとにすごかった。最前列を氷のように冷たい沈黙が支配したが、その後ろの盛り上がりかたはまさに爆発的で、この雰囲気はどのコンサートでも変わらなかった。東ドイツの人々にとって、このようなコンサートは珍しかったので、あきらかに楽しんでくれているのがはっきりとわかった。このツアーには、ギュンター・エマーリッヒの番組『ショーコラーデ』をはじめ、様々なテレビ出演が加わった。

 このマンモス・ツアーでは、『従来の』ドイツ連邦州はもちろん、そのほかに、オーストリア、スイス、ルクセンブルグもまわった。私たちはいたるところで熱狂的な観客に出会った。とにかく楽しかった。

 チケットは完売、すばらしい観客と山のようなファンレターと共に、私におおきな喜びをたくさんもたらしてくれた三ヶ月にわたるポップス・ツアーのあと、私はうれしい気持ちで再びオペラの仕事に戻った。

それは1988年の春、ボンの『マイスタージンガー』で始まった。そのあと、ニューヨークで『ジークフリート』を初めて歌う予定だったが、ひどい気管支炎のため、残念ながらキャンセルせざるをえなかった。このことは当然マスコミのかっこうのえじきになった。そこには、様々な言い方だったが、要するに『今度こそ、くだらないロックなどを歌ったせいで、声が完全にだめになってしまったのだ』と、書かれていた。それならば『マイスタージンガー』も歌えなかったはずだということは、議論にならなかった。今度もまた、記事ネタを手に入れたということが肝心だったわけだ。」

フリッツ・ホフマン著 ペーター・ホフマン 2012年刊より、ドイツ・ツアー



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0