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16)ドイツ:ツアー [2012年刊:フリッツ・ホフマン著]

p.88ー99

 「ロック・クラシックス」のセンセーショナルな成功の後、1987年にこのアルバムの内容でツアーをすることにためらいはなかった。そして、当時の東ドイツで数回のコンサートをすることはペーターの心からの願いだった。

 そこで、東ドイツの大都市で6回のコンサートを計画した。全ドイツで総計54回のコンサートから成る入念に計画されたツアーだった。完璧に斬新な企画だった。両日ともチケット完売だった公演は1987年10月2日に東ベルリンのフリードリッヒシュタット宮殿で、そして翌日には共和国宮殿で行われた。けばけばしいドイツ民主主義共和国自慢の共和国宮殿のアスベスト汚染について、当時私たちはまだ知らなかった。知っていたらきっと翌日もフリードリッヒシュタット宮殿にとどまっていただろう。

兄は以前東ドイツのテレビの様々なショー番組に数回出演したことがあったので、よく知られていて、とても人気があった。

 このすばらしい考えを実行にうつすのは容易ではなかった。東ドイツの芸能プロダクションの複雑な組織との協働はしばしばやたら時間がかかりなかなか進まなかった。東ベルリンへの簡単な電話でさえいらいらしながら延々とダイアルを回し続けることになりかねなかった。重要事項は現地ではっきりさせるべくベルリンへでかけて行ったほうが簡単ではないかとさえ時々思ったものだった。


 未解決の問題はたっぷりあった。ベルリンの責任者たちは、私たちにとってはむしろ重要でない小さなことをはっきりさせたがった。あらゆることについて協議しなければならなかったというか、あらゆることがきっちり決められなければならなかった。果てしなく続く出演契約には、トイレットペーパーの色まで含まれていて、私はそれが決まるのをただ待っているしかなかった。 東の厄介な管理機構に絶え間なく直面させられた。それが熱心さによるものだということは理解できた。なぜなら、労働者と農民の国に、西から有名なアーティストが毎日ツアーにやって来はしないのだから、完璧で最善の姿を見せたかったのだ。そのためには、すべてが100パーセント準備され問題なく運営されていなければならなかった。

 はじめからわかっていたことだが、ホーネッカーはコンサートに来なかった。このことをペーターは問題なく乗り切った。かわりに、今はケムニッツになったカールマルクスシュタットにスケートのプリンセス、カタリナ・ヴィットがやってきて、コンサートの後、楽屋に兄を訪ねた。


 私は東ドイツでは、より多くの週をリハーサルに当てようと考えた。これによって私たちはこの国に順応する時間と機会が持てた。チューリンゲンの小さな町ズールが選ばれた。そこには理想的なリハーサルのための条件が存在していた。

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数えきれないほどのライブコンサートのひとつで。最後にアンコールを要求するファンたち。

 シェーンロイトから100マイルしか離れていなかったけれど、なにもかもが全く異なることに私たちはすぐに気づいた。私たちは50人のミュージシャンと技術者でホテルを覆い尽くしていた。ここはもう明らかに西側だった。

 ペーターがミュンヘンのオリンピックホールでの大掛かりなテレビのショー番組に出演した後、私たちはUSAから来た私たちのバンドと一緒に、その夜直接車でチューリンゲン州のズールに行った。私たちは、ロンドンのレンライトトラヴェル(Len Wright Travel)社のイギリスのツアーバスでほとんど夜が明けるころチューリンゲン・ツーリストホテルに到着した。ホテルの正面玄関には、すでにホテルの全従業員が支配人と一緒に何時間も前から待っていて、ペーターに小さな花束を渡して、歓迎の意を表した。

 私たちにとってだけでなく、アメリカから来たミュージシャンたちにとっても特別な状況だった。誰もこの国に来たことはなかった。今はここが次の数週間私たちの家になるのだ。そこで、私たちにとって重要な食事の問題を次のように解決した。私たちは仕出し屋の「塩と胡椒」を雇った。長いツアーでは、ここのコックたちが私たちに同伴して、私たち専用のキッチンカーで食事を作ってくれた。全て、厳密な意味で全て、西側から持参した。私たちは、肉や南の果物、質の良い野菜、あるいは、私たち好みの飲み物を東ドイツで調達するのはとても難しいことを知っていたからだ。せっかく協調的な良い雰囲気作りをこころがけているのに、まあまあのレベルの食事だったりいつもと違う慣れない食事だったりしたら、チームの雰囲気に間違いなくよくない影響を与えるはずなのだ。

 翌朝、私はズールのシティホールの責任者にはじめて会うことになっていた。ちなみにこのホールは自由ホールとも呼ばれていた。このホールでリハーサルを行うのだ。ホールの責任者と今後数日の詳細についてあらゆることが話し合われるはずだったので、その後まさに無意味で奇妙な追加の話し合いを持つように促す必要はないと思っていた。で、私はホテルの会議室のドアを開けた。長いテーブルにダークスーツの男たちが1ダースは座っているのが目に入った。

 2時間にわたる会合の間、この紳士たちにどんな重要な役割があるのかわからなかったが、なんとなく国家公安局から来たように見えた。テーブルの上座が私のために用意されていた。しばらくして、私にとっては重要でないことこそがこの紳士たちにとってはものすごく重要なのだということに気がついた。ホールのセキュリティ責任者は、リハーサルの時ホールへ恒常的に立ち入ってよい人をどうやって確認するのかと質問した。私は鞄にいつもツアーステッカーを入れていたので、要求を入れて、それをテーブルに置いた。だが、このステッカーは時に応じて名前をはりつける番号付き会員証という種類だった。すぐに絶対に偽造不能のズールリハーサル入場証が作られた。紳士たちは私の提案を大喜びで採用してくれた。このような状況はロリオのコントを思い出させたが、私はあくまでも落ち着き払って、おおまじめを通した。この天才的証明書というアイディアなくして、来たるべきリハーサルをどうやって切り抜けることができただろうか。あの幹部たちとのこの考えられないほど重大な高度安全会議の話をペーターは大喜びで聞いた。

 私たちがリハーサルを東ドイツで行った大きな理由は経済的な側面もあった。東ドイツの芸能ブロダクションは報酬を全額ドイツマルクで支払うことができなかった。そこで、ほんの一部をドイツマルクで、大半は東ドイツマルクの現金での支払いに同意せざるを得なかった。一方、アメリカからのミュージシャンたちはUSドルで報酬を受け取った。滞在費とリハーサルの高額の軽費は補償されていたので、ベルリンの東ドイツ芸能ブロダクションがホテル代全て、ホールの借り賃、人件費等々を完全に引き受けた。その代わりに私たちはズールのシティホール3000人のコンサートの入場料を安くした。チケット1枚30マルクとの要求で、リハーサル後にはそう決まった。国の芸能ブロダクションにとって悪い取引ではなかった。

 私たちはチケット代に関して影響力がなかったが、ペーターと私はその間に知り合った数人のズール市民を裏口からただで入場させた。ものすごく厳しい安全対策担当者が、いったい何人の親戚や親しい友人がズール市に突如いることになったのかと、ひどく驚いたものだった。この芸能プロダクションはこのリハーサルのためになんと膨大な人員を調達したことか。それは信じられないほどだった。私がペーターと一緒に私たちのために確保されていたホールの駐車場に着くと、毎日、とても友好的な警備員がちゃんと立っていて、私たちが数時間後、リハーサルから戻ってくるまで、私たちの車から目を離さなかった。ズールでの最後の時に際して、相当のドイツマルクのチップを受け取ったとき、彼の顔はさらに友好的になった。

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 東ドイツでのどのコンサートでも、人々がツアーシャツやコカコーラ缶をとても喜ぶことに気づいた。東のコーラを飲んだことがある人ならよりよく理解できるだろう。私たちは知らない人たちを頻繁に招待して、ミュージシャンたちと一緒に食事をした。私たちチームのためにを仕入れを吟味してきたコックたちにとってはとても残念なことだっただろうけど、私たちは客の感謝に満ちた明るい顔がうれしかった。ある客に「この緑の野菜は何ですか」と尋ねられたことがあった。それはブロッコリーだった。

 今ではたぶんひどく誇張しているように聞こえるだろうが、私は、トラバントでもヴァルトブルク(註:東ドイツの車の名前)でも、15年の待ち時間は別として、容易に買えるほどの東ドイツマルクの大金を常に鞄に入れて持っていたが、残念ながら、ペーターも私も車は必要なかった。では、東ドイツマルクの大金をどうすればよいのだろうか。ペーターにとってマイセンの陶磁器は問題外だった。ヨットにも興味がなかった。結局、大きなトラクターを買うという考えに至った。彼があんなばかでかい代物で何をしようとしていたのか、今日まで謎のままだ。なんらかの理由でトラクター購入は実現しなかった。そこで、私たちはこの大金をなんらかの方法で使って国内に残すということで合意した。

 私たちのミュージシャンのひとりがペーターのところに来て、ドレスデンの仕事で発見したすばらしいサキソフォーンについて夢中になって話した。私は彼にお金を渡し、一時間後には彼がその新しい楽器で誇らしげに演奏してみせていた。私は、自分のすばらしかったミュージシャン時代を思い出していた。私たちはバンドの高価な音楽設備の毎月のローン支払いに追われていた。そのために、わずかな出演料がほとんど残らなかった。東の幾人かに、私たちはある部分で独りよがりな、あるいは、尊大な印象を与えたに違いないと思うが、私たちはなんとかして手持ちの東ドイツマルクを使わなければならなかった。通貨の持ち出しは何にもまして極めて厳しく禁止されていたからだ。当時、この金をドイツマルクに交換してくれる西ドイツの銀行はなかっただろう。

 あのころ東ドイツの人々の暮らしぶりを見ると、良心にやましい意識が生じて、時に憂鬱だった。一方、自分のコンサートを通して数時間、良い気分を広げること、そして、日常生活の心配事を忘れさせることがペーターの大きな願いだった。その反応を観察するに、舞台のペーターは完全に抜群の成功をおさめた。ドレスデンの文化宮殿のコンサートのはじめに、彼は聴衆に向けて大胆な言葉で挨拶をした。「何も知らない人の谷(註:第一ドイツテレビ(ARD) を視聴することが技術的に不可能だったドレスデンは「無知者あるいは愚者の谷(Tal der Ahnungslosen)」と呼ばれた)で今晩皆さんと共にいることをうれしく思います。早く大きなアンテナがたてられて、ZDF(第2ドイツテレビ)が受信できるよう希望しています」

 聴衆は大喝采して大笑いした。最前列にいたまじめな目つきの、ユーモアを解さない「暗い男たち」は当然ペーターの開会の辞をほとんどおもしろいとはおもわなかったし、拍手もしなかった。しかし、兄はこのことを全く気にしなかった。気にしないどころか全く逆だった。兄はコンサートの後のゼンパーオペラハウス監督の楽屋訪問をとても喜んだ。

 ペーターは、そのコンサートが東ドイツのテレビで全部放映された、西ドイツからのものすごく数が少ないアーティストの一人だった。それどころか「ロック・クラシックス」は東ドイツの国営レコードレーベルであるアミガからリリースされた。

 全体的に見れば、兄と私は東ドイツへの寄り道を後悔したことはなかった。たくさんの一期一会の体験を含んだとてつもなくすばらしい経験だった。それから三年後の1990年10月3日、私たちは、歓声をあげた人たちと共に赤ずきんちゃんシャンパン(Rotkäppchen-Sekt)でドイツ再統一を祝うために、もう一度だけズールへ行った。

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☆ ☆ ☆


目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド
ナミビア:楽しい旅行
ペーター・ホフマンの部屋
ゲストブックから
表紙と目次
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