ヴォルフガング・ヴィントガッセン [人々]
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール 1914.06.26-1974.09.08 ドイツ)は第二次世界大戦後のドイツにおけるワーグナーテノールあるいはヘルデンテノールの第一人者です。両親とも第一線で活躍した著名なオペラ歌手で、父フリッツ・ヴィントガッセン(1883-1963 ドイツ)は英雄的な役を担当するテノールでした。母は夫のシュツットガルト歌劇場専属契約に伴い、引退しようかという矢先に病気で亡くなり、幼い息子たちの世話は母の姉妹に委ねられたということです。
作曲家リヒャルト・ワーグナーの孫に当たる、バイロイト音楽祭の主宰者、演出家ヴィーラント・ワーグナー(1917- 1966)は「ヴィントガッセンが歌えなくなったら、祝祭劇場を閉鎖するしかない」と言ったとか。「ヴィントガッセンがバイロイトで歌わないなんて言ったらどうしますか」と質問された有名な指揮者のハンス・クナッパーブッシュは「とにかく連れ戻すしかない。他に方法はない」と答えたとか。ヴィントガッセンはおよそ20年間(1951-1970)に渡って、バイロイトに君臨していたのだそうです。
同時期に競争相手がいなかったというわけではなく、当時はむしろ同年代の有力なヘルデンテノールは大勢存在しましたが、ヴィーラント・ワーグナーに気に入られたヴィントガッセンが新バイロイト様式の主要な担い手になったのはごく自然なことでした。ヴィントガッセンはヴィーラントの好みの歌手であると同時に親友の一人だっただけでなく、二人は芸術的にも深い信頼関係で結ばれており、新バイロイト様式の大きな推進力となったわけです。
1944年生まれのペーター・ホフマンはちょうど30歳年下です。ヴィントガッセンと知り合う機会は、1973年夏のバイロイトのオーディションなど、多々あったと考えられます。ホフマンはシュツットガルト歌劇場と1975年から5年間の専属契約を結んでいますから、遅くとも、この契約の前段階で生涯シュツットガルトのメンバーで1970年からは劇場の総監督でもあった大先輩歌手のヴィントガッセンと個人的に知り合ったに違いありません。そして、ホフマンはヴィントガッセンから何かとアドバイスを受けたと思われます。ヴィントガッセンのあまりにも早い、突然の死は、ホフマンにとっても不幸なことだったというような記事をどこかで読みました。そうかもしれません。この大先輩が後ろ盾として存在していれば、プラスになったことは間違いないでしょう。日本の雑誌その他では見たことがありませんが、少なくともドイツでは、ペーター・ホフマンこそが、ヴィントガッセンの後継者と目されていたのは間違いないと思われます。
伝記(1983年刊)にヴィントガッセンのユーモアのある性格を示すホフマンへのアドバイスのひとつが載せられています。
「歌唱に関しては、言葉で表せない、歌手に魔力のようなものを付与するある種の魅力が必要だ。その魔力は、客観的に検証できる事実とは一致しないある種の印象を伝えるものだ。ヴィントガッセンはこういうことを理解していた。『君には、もうひとつ学ばなければならないことがある。観客をだますことができなければならない。君がほんとうに掛け値なく存分に歌うのはよいが、観客が求めているのはそういうことではないのだ』彼は私にこう言って目くばせした。観客をだますとはどういうことなのだろうか・・」(ペーター・ホフマン)
別のインタービュー記事によれば、ヴォルフガング・ヴィントガッセンが突然の心臓発作で亡くなったのは、ホフマンのジークムント・デビューだったヴッパータール歌劇場「ワルキューレ」プレミエの、まさにその夜だったということです。
下の表は、We Need a Hero からヴィントガッセンの簡単な履歴です。
おまけ-1:バイロイト音楽祭、パルジファル ハンス・クナッパーブッシュ指揮
作曲家リヒャルト・ワーグナーの孫に当たる、バイロイト音楽祭の主宰者、演出家ヴィーラント・ワーグナー(1917- 1966)は「ヴィントガッセンが歌えなくなったら、祝祭劇場を閉鎖するしかない」と言ったとか。「ヴィントガッセンがバイロイトで歌わないなんて言ったらどうしますか」と質問された有名な指揮者のハンス・クナッパーブッシュは「とにかく連れ戻すしかない。他に方法はない」と答えたとか。ヴィントガッセンはおよそ20年間(1951-1970)に渡って、バイロイトに君臨していたのだそうです。
同時期に競争相手がいなかったというわけではなく、当時はむしろ同年代の有力なヘルデンテノールは大勢存在しましたが、ヴィーラント・ワーグナーに気に入られたヴィントガッセンが新バイロイト様式の主要な担い手になったのはごく自然なことでした。ヴィントガッセンはヴィーラントの好みの歌手であると同時に親友の一人だっただけでなく、二人は芸術的にも深い信頼関係で結ばれており、新バイロイト様式の大きな推進力となったわけです。
1944年生まれのペーター・ホフマンはちょうど30歳年下です。ヴィントガッセンと知り合う機会は、1973年夏のバイロイトのオーディションなど、多々あったと考えられます。ホフマンはシュツットガルト歌劇場と1975年から5年間の専属契約を結んでいますから、遅くとも、この契約の前段階で生涯シュツットガルトのメンバーで1970年からは劇場の総監督でもあった大先輩歌手のヴィントガッセンと個人的に知り合ったに違いありません。そして、ホフマンはヴィントガッセンから何かとアドバイスを受けたと思われます。ヴィントガッセンのあまりにも早い、突然の死は、ホフマンにとっても不幸なことだったというような記事をどこかで読みました。そうかもしれません。この大先輩が後ろ盾として存在していれば、プラスになったことは間違いないでしょう。日本の雑誌その他では見たことがありませんが、少なくともドイツでは、ペーター・ホフマンこそが、ヴィントガッセンの後継者と目されていたのは間違いないと思われます。
伝記(1983年刊)にヴィントガッセンのユーモアのある性格を示すホフマンへのアドバイスのひとつが載せられています。
「歌唱に関しては、言葉で表せない、歌手に魔力のようなものを付与するある種の魅力が必要だ。その魔力は、客観的に検証できる事実とは一致しないある種の印象を伝えるものだ。ヴィントガッセンはこういうことを理解していた。『君には、もうひとつ学ばなければならないことがある。観客をだますことができなければならない。君がほんとうに掛け値なく存分に歌うのはよいが、観客が求めているのはそういうことではないのだ』彼は私にこう言って目くばせした。観客をだますとはどういうことなのだろうか・・」(ペーター・ホフマン)
別のインタービュー記事によれば、ヴォルフガング・ヴィントガッセンが突然の心臓発作で亡くなったのは、ホフマンのジークムント・デビューだったヴッパータール歌劇場「ワルキューレ」プレミエの、まさにその夜だったということです。
下の表は、We Need a Hero からヴィントガッセンの簡単な履歴です。
1939年(25歳) | プフォルツハイム歌劇場と専属契約。開戦でデビュー延期 最初の結婚、シュツットガルトのソロダンサー |
1940年 | ファルケ博士@こうもり、シュツットガルト歌劇場のメンバーとして、ボルドー公演。 |
1941年 | アルヴァーロ@運命の力(ドイツ語上演)プフォルツハイム歌劇場デビュー |
1941-1944年 | プフォルツハイム、シュツットガルトをはじめドイツ各地の劇場に出演 エリック@さまよえるオランダ人、アルフレート@椿姫?、ペドロ@低地地方、マックス@魔弾の射手、マリオ@トスカ、ロドルフォ@ボエーム、グスタフ@仮面舞踏会?、シャトーヌッフ@皇帝と大工など |
1944年 | ドイツの全劇場閉鎖。徴兵により従軍 |
1945年 | 戦争終結。シュツットガルトに復帰 ホフマン@ホフマン物語 |
1947年 | ペレアス@ペレアスとメリザンド、シュトルツィング@マイスタージンガー 各種新作オペラ 長男(舞台装置家、演出家)誕生 |
1949-51シーズン | バイロイトのオーディション パルジファル、タミーノ@魔笛 |
1951年 | パルジファルとフロー@ラインの黄金で、バイロイトデビュー 1970年まで出演し、全ての主要テノール役を歌った |
1954年 | ロンドン、コヴェントガーデンに初出演。この後、たびたび客演 |
1955年 | 長女誕生 |
1957年 | ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場に初出演(ジークムント@ワルキューレ) なじめずキャンセルしトラブルに。その後出演なし 離婚 |
1961年 | 先妻の病死、再婚(シュツットガルトの同僚ソプラノ) |
1963年 | 父死去 |
1966年 | ヴィーラント・ワーグナー死去 |
1970年 | シュツットガルト歌劇場の総監督に就任 演出に進出 |
1974年 | 心臓発作で急死 |
おまけ-1:バイロイト音楽祭、パルジファル ハンス・クナッパーブッシュ指揮
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ヴォルフガング・ヴィントガッセンは、サンフランシスコ歌劇場にも出演しています。
by サンフランシスコ人 (2008-04-03 01:52)
メトとは決別しましたが、その後1970年にサンフランシスコでトリスタンに出演したそうですね。南米には数回行ったとのことです。
by euridice (2008-04-03 08:55)
「南米には数回行ったとのことです。」
アルゼンチンですか。
by サンフランシスコ人 (2008-04-04 02:51)
>アルゼンチンですか。
読んだ本に場所のことは書かかれていないのでわかりません。
by euridice (2008-04-04 08:29)
ヴィントガッセンに関しては名前は以前から何度か聞いた事がありましたが、歌っているのを聴いたのはedcさんがUPして下さっているmp3ファイルで初めて聴かせて頂きました。(^_^)
力強い英雄らしい歌い方で往年のヘルデンテノールって感じですね。(^o^)
ホフマンからすれば先輩的存在と言うか、アドバイスも受けていたのですね?!
尊敬する人とかが亡くなったら衝撃が大きいのは分かりますねぇ。(-_-;)
by YUKI (2008-04-04 12:12)
YUKIさん
>初めて
私も意識して聞いたことはほとんどありません。
なだかかとてもゆっくりの演奏で、びっくりです。
>力強い英雄らしい歌い方で往年のヘルデンテノールって感じ
そうですね。往年のって感じがしますね。
by euridice (2008-04-05 08:40)
ヴィントガッセンのいろいろな音声ファイル載せてくださってありがとうございます。
55年のジークフリートを聴いたときは今これだけの馬力を持った歌手はいないと見直したのですが、ジークムント、そしてパルジファルに至ってはあっけらかんというか、まさに往年の古き良き時代のおおらかな歌と感じます。
歌に劇的な深みが感じられないです。
クナのパルジファルでもジェストーマスは現代的な内面表現が感じられてずっと好きです。
そのジェストーマスもカラヤンのジークフリートではなんかスタミナ切れという感じでワーグナーのヘルデンテノールといっても性格はそれぞれ違って一様には語れないと思いました。
>同年代の有力なヘルデンテノール
決して豊かで恵まれた時代ではなかったのに人材豊富でしたね。
今は恵まれすぎてひ弱な歌手ばっかりになってしまったのでしょうか?
by ななこ (2008-04-05 14:20)
>歌に劇的な深みが感じられない
そう思いますけど、新バイロイト様式は歌にこそ劇があるというコンセプトだったらしいですから、やっぱり時代感覚の違いなんでしょうねぇ・・
メトで受けなかったのも、ヘルデンテノールに期待されている大声じゃなかったせいらしいです。
>今は
労多くして・・に属する職業かもしれませね。
もっと気楽な仕事がいっぱいあるでしょうし、ワーグナーテノールに限らず、オペラを歌うにしても安全志向っぽい感じの歌い方が主流になってきているような気がします。若い歌手には感情表現にこだわると消耗がはやいという信仰があるとかいうのを読んだことがあります。
by euridice (2008-04-06 08:02)