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ゲッツ・フリードリヒvsペーター・ホフマン [人々]

ペーター・ホフマンとゲッツ・フリードリヒ(1930-2001 ドイツ)の関わりは、ホフマンがデビューしてすぐにはじまりました。ホフマンの伝記(2003年)でヴォルフガング・ワーグナーは「ゲッツ・フリードリヒはリューベック歌劇場の専属歌手だったペーター・ホフマンに注目し、バイロイト音楽祭にふさわしいと考え、1973年8月12日に、バイロイト祝祭劇場において、パルジファルとローエングリンのオーディションを受けさせた」と語っています。フリードリヒ一人ではなく、某年配の歌手(だれでしょうか)、ロルフ・リーバーマン、エージェント・シュルツなどがホフマンのバイロイト・デビューに関わったようです。

「バイロイトでは、すでに1973年に『トリスタンとイゾルデ』のメロート役のオーディションを受けた。もっとも私は当時この役には若すぎると思われた。それに、ゲッツ・フリードリヒが私を使うをことを検討していた。彼はすでにこの時期にアムステルダムでのパルジファルのために私にねらいをつけていたのだった」(1983年伝記)

ゲッツ・フリードリヒ演出:
パルジファル:シュツットガルト1976年3月
魔弾の射手:コヴェントガーデン1978年
ローエングリン:バイロイト1979-1982年
パルジファル:バイロイト1982-1985年 
ワルキューレ:ベルリン・ドイツ・オペラ1984年
※魔弾の射手:プレミエは1977年1月 マックスはルネ・コロ。 ホフマンは1977年にも再演に出演予定だったが6月の交通事故でキャンセル。 ルネ・コロが再び出演。

 ペーター・ホフマンと演出家ゲッツ・フリードリヒとの初仕事はシュツットガルトでの『パルジファル』でしたが、激しく衝突しました。ホフマンがほとんど同時に三つのパルジファルを引き受けていたことも、一因でした。この時、ホフマンはシュツットガルトの専属で、このプロダクションでは第二キャストでした。(第一キャストは Peter Lindroos 1944 - 2003 フィンランド、1974年からシュツットガルトのメンバー)
 しかし、この衝突は、幸い典型的な「雨降って地固まる」でした。歌手としては、三つのうちで、このシュツットガルトの演出をもっとも評価しているようです。
※三つのパルジファル新演出:ヴッパータール(奇妙な三頭政治が演出を取り仕切った。予定されていた人が来なかったのだ)、ハンブルク(アウグスト・エヴァーディング)

「私は最初の瞬間から夢中になった。この役に対する私の考え方は、シュツットガルトの演出以来、基本的には変わっていない。この解釈はとにかく壮大だった。これを超えるのは今もなお難しいかもしれない」ということです。

 フリードリヒとの仕事上の最初の出会いは奇妙な気分が入り交じった感じだった。シュツットガルトで私は第二キャストで練習はまったく少なすぎたし、同時にヴッパータールとハンブルクでも練習中だったため、演出に関してできるだけ教えたくないと思っているような感じだった。『産業スパイ活動』を恐れていたのだろうか。

 私は次にシュツットガルトに行ったとき、三幕を練習することを主張した。野原の場面でどうするのかまだ知らなかったのだ。『はい、わかりました』ということだった。私は『あさってには、別のところへ行って、オーケストラとの本げいこまでは戻れない』ということを考慮に入れてくれるように促した。『はい、はい、そのことについては考えています』という答えだったが、そのことについては全然考えてくれなかった。

 本げいこのために戻ってきたとき、野原の場面で一勝負試みることにした。フリードリヒはぎょっとして、オーケストラ・リハーサルを中断して『それで、そこはどうしますか』と言った。私は『何かとしか言えません。どうするべきか知りませんから』と言った。

 私たちはけんかした。私は楽屋に駆け込んで、かつらをぬいで、ずらかるつもりだった。数分後、私たちは仲直りした。

 練習を続けたが、再び激しい怒りに襲われた。フル・オーケストラが投入されているところで、後ろ向きで歌うように求められたのだ。『ここは前向きでなければ困ります。お金を払った人たちは、そこに座っている人たちですが、ききたいのです。その人たちのために、私たちはやっているのです』 衝突。フリードリヒ曰く、『いまだかつて私にそんなことを言った者はいない!』私は『私も、演出家が私に何も言わなかったために、何もわからなかったり、私が何もわかっていないからといって怒鳴られたりというような目に遭ったことはいまだかつてありません』と、言い返した。

 この時から、私たちは一緒に最高の仕事ができるようになった。その後は、違うふうに感じたり、別の表現をしたいと思ったりすることはほとんどなかったと思う。この舞台で一段とはっきりと重点的に表現されていたパルジファルの成長が、フリードリヒの演出においては、私が望んだ通りに、進行していた。


 大勢が関わるオペラでの様々な衝突や軋轢は避け難いものだと思います。ルネ・コロも度々言っていますが、ホフマンもどうしても相容れない演出家(アヒム・フライアー)と出会って以来、前もって演出理念について演出家に確認するようになったと言います。その結果、受け入れることができるとなれば、「喜んで成功のための最善の保証人になりたい」と言います。それでも、より良いものを求めるが故の建設的な議論は当然あるものです。

「親しい演出家とだってけんかする。それは建設的なものだ。より良くするために議論するのだ」

このフリードリヒとの初仕事は非常に良い評価を得たということです。例えば、こんな批評があります。

 それはペーター・ホフマンの、全く初めてのパルジファルだった。まさに唖然とするほどに迫ってくる充実感。ホフマンはゲッツ・フリードリヒの演出概念を間違いなく満たしており、演出に合わせた動きと高い集中度は、先輩をしのいでいた。(ハンブルグで同時に全く別の演出のパルジファルを演じたホフマンは、フリードリヒとは少ししか練習できなかっただけになおさら驚かされる。このことは彼の役者としての天分を明らかに証明している)彼は目に見える、正真正銘の若々しいパルジファルだ。その衝動的な、それにもかかわらず、コントロールされていないのではない、とっさの動きにも説得力があった。そのうえ、歌もまた、若さにあふれ、習熟されたものだった。その声は、まだ完成の域には達していないものの、今日すでに、まれにみる暗く低く柔らかい、ワーグナー・テノールへと運命づける響きにおいて傑出している。ホフマンはシルヴィオ・バルヴィーゾにも間違いなく感謝してよいところだ。彼は、最高の専門家たちの中、バルヴィーゾの下で大切に扱われた。聡明な音楽家はそれ程多くのリハーサルをせずともとにかく理解し合えるものだ。(1976年3月16日付け、シュツットガルト・ニュース)
※シルヴィオ・バルヴィーゾ:当時シュツットガルト歌劇場の常任指揮者1924.06.20- [スイス]


 1979年からのローエングリンも、エルザ役のカラン・アームストロングも同様だったそうですが、かなり揉めたようです。例えば、伝記の写真につけられたコメントはなかなか皮肉っぽいです。

「よい指揮者、優れたオーケストラ、舞台衣装のことに関してさえ共同決定権を有する偉大な演出家に囲まれて、自分自身が向上するのは物凄く楽しい」

「花嫁の部屋の場面で、長い上衣を着て演じたが、私にとっては苦行だった。この上衣は、決して廃止されず、二年目には、もっと細身になった」。

 1982年のパルジファルに至って、「フリードリヒは新人の私と知り合ったのだが、長い摩擦軋轢の時代を経てとてもよく理解しあえるようになっていたので、多くのことに関して話し合う必要がないほどである。彼が私とは違う考えを持っていても、非常に多くことが今迄にあったため、大概はすぐに受け入れられる。たくさんいっしょに仕事をしていれば、常に同じ波長ではない場合でさえ、議論なしで両者が一致点に達したかのように、場合によっては摩擦や軋轢もはるかに良い方向に進むので、非常に有利である」と述べています。

関連記事:歌手対演出家ゲッツ・フリードリヒ


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ヴァラリン

>より良くするために議論するのだ

ホフマンは、シェローとは相思相愛(?)、フリードリッヒとはあまり仲が良くなかったと言われる事が多いですよね。
(指揮者の場合はカラヤンとはうまく行き、バーンスタインとは…ってな感じ?)

議論や批判的発言の方が、よりセンセーショナルでしょうから、そっちの方がどうしても大きく取り上げられるんでしょうね。仕事はそんなに簡単、単純なものではないはずなのにね。
by ヴァラリン (2006-08-23 08:04) 

たか

バーンスタインのトリスタンは私もどうかと思います。フィリップスが一所懸命宣伝したので一応名盤扱いになっていますが、指揮者のための演奏に歌手が付き合わされている感じですね。録音もオケ主体で声が引っ込み気味なのが気になります。発売当初5枚組でかなり高かったのに期待はずれでした。
同時に収録されたセミ舞台形式の放送映像は当初ビデオ化される予定と伝えられていました。結局見送られたのはフィリップスがポネルのバイロイトのトリスタンをビデオ化したためだと考えられます。バイロイトのトリスタンは逆にビデオのみでCDは発売されませんでした。
バーンスタインはバラの騎士でも自己陶酔しすぎでせっかくの歌手の好演の足を引っ張っています。基本的にオペラ指揮者ではないですね。彼がやるとすればこういった微妙な作品でなく勧善懲悪型のフィデリオのように単純明快な作品の方が向いているようです。
by たか (2006-08-23 23:06) 

たか

ヴァルビーゾってスイスの人なのですか。シュトゥッツガルトで振っていたのも知りませんでした。60年代にデッカにイタリア物の録音をかなり残した後、70年代に入ってバイロイトでワーグナーを振っていますね。
by たか (2006-08-23 23:21) 

euridice

>バーンスタインのトリスタン、高かったのに期待はずれ
あら、それはそれは。
私は大満足^^!
>指揮者のための演奏に歌手が付き合わされている感じ
そういう側面はあるのでしょうが、バーンスタイン主導の録音ですから、歌手が精一杯付き合って、良いものができていると思います。何度聴いてもいいですねぇ.....^^
フィデリオはテレビで見ましたが、バーンスタインはいいけど、歌手があんまり付き合ってないような・・^^;

>ヴァルビーゾってスイスの人なのですか。
そうらしいですね。音楽事典情報です。シュツットガルト1972-1980 ということです。ホフマンの専属時代と一致しますね。
by euridice (2006-08-24 09:03) 

ヴァラリン

たかさん:

>バーンスタインのトリスタン

バーンスタインが自分の好きなようにやって、歌手の意向を全く無視したとか、そういう言われ方をしているけれども、ホフマンの自伝…edcさんが紹介して下さった、一連のトリスタン関連の記事を丁寧に読めば、その辺りはおのずと伝わってくると思いますけど。

もっとも、録音にしろ、録画にしろ、実演にしろ、そこに残った形から感じ取ることこそ重要なことですから、演奏に至る経緯、努力の過程なんてものは、聴き手はあえて知る必要がないといえばないのですけどね。

それでも好きな演奏家が関わっていることで、あまりよい形で伝えられていないことが、本人の口から語られれば、知りたいと思うのがファン心理というものですから。。。
by ヴァラリン (2006-08-24 09:06) 

たか

>私は大満足^^!
それは済みません。失礼しました。edcさんとヴァラリンさんがそうおっしゃるならかなり久しぶりに引っ張り出して聞いてみることにしましょう。違った発見もあるかもしれません。歌手の意向を全く無視したとは言ってませんし、歌手について言えば主張の激しい棒の下でかなり健闘しているとすら言えると思います。

>ヴァルビーゾ
シュトゥッツガルト時代がバイロイトで振っていた時代に重なりそうですね。場所もまあそんなに離れてなさそうですしね。60年代までの録音がイタリア物ばかりでメトでもイタリア物を振っていたのでてっきりイタリア系の人かと思いました。
by たか (2006-08-24 21:09) 

euridice

>それは済みません。失礼しました。
いえ、いえ、お気遣いなく。全員一致なんて気味悪いですから。
でも
>違った発見もあるかもしれません。
あるとうれしいです^^!
by euridice (2006-08-24 21:25) 

euridice

ヴァラリンさん、TBありがとうございます。
ブログでも、この録音についてはいろいろありましたねぇ....^^;
by euridice (2006-08-25 10:24) 

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