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役についての歌手のコメント集[7] 続き [PH]

パルジファル:ワーグナー「パルジファル」

 「私のパルジファルに対する姿勢は、パルジファルを歌っている年月の中で、基本的には変化していなかったのだが、それにもかかわらず、従来の演出形態に疑問を持つことによって、今まさに変化しているところだ。私はけいこのとき、実際どうしてそのように見せなければならないのか、ほんとうは単にいつもそのようにされてきたという理由にすぎないのではないかなどと、不思議に思ってしつこく追及することがよくある。..........
.......とてもたくさんの部分で、違う見方をしてみたいと思う。

あの聖餐式は、耐え難い。あれをリラックスした気分で見たことはいまだかって一度もない。あの中から一体何が出てくるというのだろう。演出にどんなチャンスがあるというのか。今、ヴェネチアでもまたやっている。たちが悪いことに、私は確信的に観客にそれを売らなければならない。こともあろうに私がである。私の心には絶え間ない葛藤がある。私はそこに立って、ある種矮小化された気分で演じていることを残念に思う。そして、終りだ。

これについては唯一シュツットガルトの演出においてのみ納得させられた。その時、出来事にほんとうに関与しているという感じがした。演劇論的にそのように組み立てられていたので、この時、人々は、槍は最後にはどうなるのだろうかと、本当に興味津々で待ち構えていた。こういう緊張感こそが、納得のいく結末をもたらすことを可能にしてくれる。さらになんとすべてがぴったり合っていたことか。合唱団の反応も。彼らは聖餐式に身体を引きずってやってきて、再び足を引きずって家に帰っていく。尋常ならざることが起こっているということにだれも気がつかない。ヴェネチアでそのことをもう一度考えた。あの人たちが、決して別のものではなく、あれほどあこがれたものを今や手に入れたということを明らかにできるのではないだろうか。しかし、だめだ。四十分は長くてものすごく退屈になる。立っている私は腰が痛い。このことがすでに気になっていれば・・・この場面は緊迫感あふれたものにならねばならない。騎士団の仲間たちは聖餐式を猛烈に渇望していなければならない。そして、聖餐を口にしたなら、そう、音楽はゆっくりなのだから、舞台上に、友情の証の両頬へのキスや修道服姿での忍び歩きではない動きが必要だ。

 音楽は挿絵をつけるのではなく、感情を表現するのだ。音楽が伝えていることを重複して描写する必要はない。感情は表面的な演劇性によって示すことはできない。それは完全に自然な動きの中で表現される。あるいは、だれもアンフォルタスを全然気にかけていない。私はものすごく気にかかる。どの演出もだ。人々は彼に感謝して、キスする必要があるのではないだろうか。それにしても、善のために戦っている騎士たちが無意味なお飾りでいいはずがない。彼らは、他の人間同様聖餐を口にできなければ、動物になるかもしれないが、全ての秩序が取り戻されれば、その人間性を示すに違いないのだ。なんといっても怪物でもゾンビでもないのだ。

 また、倒壊した聖杯城によってこの出来事を説明するのはまだ非常にまれである(フリードリッヒ演出、アンドレアス・ラインハルト舞台装置のバイロイト)観客はこの登場人物たちを深刻に受け止めないように徐々にしむけられてきている。更に、歌手にとっては、同じく深刻に受け止めないほうが経済的であることは明らかなのだ。」(ペーター・ホフマン)

歌手によれば、内面的な関わりを持たず、やるべきことだけをやっていれば、「けいこは迅速に終了し、みんなハッピーだ。そして、上演は退屈なもの」になります。そして、大勢がこれを良しとして実行しているのです。

しかし、彼としては、「歌手として成功を手にするのだ。他のことはどうでもいいと思って当たり前のような、よくない演出においてさえ、演技に対する衝動はいつも制御がきかなくなる。............... 総合的効果があがらなければ、私は落ち着かなくなる。そんな時物凄く遠いところへいってしまいたいと心底思う。演出から得るものが少なければ、私もまたその演出に対して少ししか与えることができない」と言います。

 「パルジファルが、どんな感情もなく、声量豊かに遂行されるのを何度も体験しているが、これは私にとってはひどい苦痛だ。パルジファルで良い上演をしたければ、ものすごくがんばらなければならない。この作品について率直に思うに、オーケストラがやみくもに鳴り響くため、歌手の声が一般的に聞こえにくいのだ。私はワーグナーがそのように意図していたのだと思う。もしかしたら、技術的手段を知っていれば、マイクを使って上演しようとさえしたかもしれない。彼はきっとこう思っていた。ここではすばらしいオーケストラがあるのだ。それなのに、どう音をしぼるかを考えなければならないというのか。バイロイトでは、音楽家たちを「穴蔵」に座らせた。このオーケストラ・ピットはその上にふたのある「神秘的な深い谷間」にある。これによって、歌手の声はやっと聞こえるようになるというわけだ。もしマイクがあったら・・・

 あるいは、『ラインの黄金』の導入部を取り上げよう。シンセサイザーの音を思い浮かべるその音は聞く人の骨身にしみる。はじめに響くコントラバスの変ホ音はとても低くてまったく届かない。どんどん煽って大暴風雨になるまで、それを大きくすることができるだろう。そして、完全な低い音色を与えることができるだろう。

『パルジファル』で、音楽表現に決定的な影響を及ぼす聖杯の鐘の音さえも合成音だ。ワーグナーが、今日普通に手に入るものを、一部だけでも自由に使えていたら・・・カラヤンはこの聖杯の鐘のために特別にコンピューターを開発させた。それはぴったりと合うまでは問題だった。ついでに言うと、ロック関係者はそれについて一層よく理解すると確信している。ピンク・フロイドを聞けば、彼らは音をいとも簡単につくり出す。何の困難もなく、まるで最後の審判がはじまるかのように、コントラバスが鳴り響く。しかるに、『ラインの黄金』を思い浮かべれば・・・クラシックでは何故このような手段を援用しなのだろうか。その中にこそ未来がある。オペラにとっても。そして、とりわけワーグナーに関しては特にそうだ。

 ワーグナーのオペラに関しては、まだ非常に多くの事が演出上新たにやれる。まずこれからするべきことを思いついて、勇気をもって、多くの技術をつぎ込めばいいのだ。例えば、レーザーだ。『スターウォーズ』を見れば、レーザーの剣で戦っている。パルジファルの槍として考えられないだろうか。あるいは『帝国の逆襲』この映画には、地底へ飛び込むことができるクレーターが出て来る。そこで『ラインの黄金』でのニーベルハイムへ降りていくところが思い浮かぶだろう。こんな技を満載すれば、人々は大喜びするだろう。的を得た投資をし、スーパー・4チャンネル・サウンドで上演し、まだ思いとどまっていることの全てをドカンと炸裂させればよい。襟足の毛が立つということがわかるに違いない。

その後、それがとりわけ知的なすばらしい解釈がなされていたかは問われることはない。そうではなくて、突然こういうことになる。絶対オペラなんかに行かなかった人が、鳥肌が立つような凄い体験をして、思う。オペラってすばらしいじゃないか!開いた口がふさがらないから、口が利けないはずだ。だから、私は、まずは40ページのプログラムからその論理を読み取らなければならないような舞台よりは、こういう種類の舞台のほうが断然好きなのだろう。もちろん、納得させるということは、すべて大音響でけばけばしくなければならないという意味ではない。全く違う。ただ効果があるはずだというだけだ。」(ペーター・ホフマン)

 「芸術的思考を詰め込むことによって、私たちは観客を完全に退屈させる可能性がある」(リヒャルト・ワーグナー)


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佐々木真樹

先日ここで教えていただいて30分後にはクリックで注文していたペーター・ホフマンの『オペラ座の怪人』,昨日届きました。夢見心地で過ごしました。
いままでオペラは指揮者で選んでいたのですが,歌手で選ぶ楽しみが増えました。ありがとうございました。
by 佐々木真樹 (2005-09-06 22:05) 

euridice

けっこう速く届きましたね^^!
良いでしょう?! 

ハイライト編集が変(ユニーク)という評もありますけど・・
怪人登場じゃないところも、なかなかよいかと思います。

>歌手で選ぶ楽しみ
歌手がほんとうに自分の感性に合うと、気持ち良さが倍増すると思います。それに、とっつきにくい曲も聴けますから・・ 苦手だったのが大好きになったりします。
by euridice (2005-09-07 07:19) 

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