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14章 ペーター・ホフマン -7/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

イドメネオ、タミーノ、ネローネ、オルフェオ
マックス、バッカス、フロレスタン
リエンチ、タンホイザー

  しかし、ペーター・ホフマンが主として貢献してきたのは、ドイツ物のレパートリーだ。彼は、声楽の先生の言葉に従って、モーツァルト歌手としてキャリアを始め、ヴィントガッセン同様、モーツァルトも演奏できるということをはっきりと示した。声楽の先生が言ったように、大概の人々はヘルデン・テノールというのはただ大声で怒鳴ることができるだけだと考えているのだから、そうでないことを立証した。ペーター・ホフマンはリューベックの専属時代に、非常に難しい装飾歌唱のイドメネオ(モーツァルト「イドメネオ」)を歌ったし、同様に1972年から1980年の間に頻繁にタミーノ(モーツァルト「魔笛」)を演じている。1974年にペーター・ダネンベルク Peter Dannenberg はホフマンのリューベックでのタミーノをこう評した。この役に関して問題なのは、英雄的であると同時に抒情的なテノールを見つけることだ。ペーター・ホフマンはとにかく傑出していた。 また、シュツットガルト・ニュース Stuttgarter Nachrichten はペーター・ホフマンがいかにヴォルフガング・ヴィントガッセンの後継者としてふさわしいかというコメントの中で、1976年11月の公演について、ペーター・ホフマンの声はモーツァルト歌手としても十分な柔軟性がある・・・ ペーター・ホフマンは精神的表現と身体的表現の調和によって納得させる。と述べた。
   アラン・ロンバール指揮、キリ・テ・カナワのパミーナ、フィリップ・フッテンロッハーのパパゲーノ、ジョゼ・ヴァン・ダムの弁者などと共演した、ホフマンの最初の商業録音である、バークレイのレコードは、(これは合衆国での入手は難しい) ぞくぞくするような聴覚的体験をさせてくれる。ホフマンは欠点のない旋律線、明瞭な発声法を示し、隠された演劇的意味を感じさせる。ペーター・ダンネンベルクが観察しているように、ホフマンのタミーノは英雄的歌唱と抒情的歌唱の適切な融合を明確に表わしている。ヘルデン・テノールの重量感、ドイツ人の言うKraftが、極めて微妙な技術的熟練の基礎を形成しているのが感じられる。豪華絢爛、官能的な音色、力強い響き、しなやかさ、感銘を与える堂々とした声の規模、端正なフレージングとレガート、演劇的な説得力。 ホフマンはまた、このキャストのなかで、気取ることのないごく自然な対話、欠点のない発声と豊かで多様な音色をもった話し方などによって、自分を明確に特徴づける。ホフマンのタミーノは個性的で、感傷に陥らない。彼はこの役を若さ、優しさ、そして本物の王子らしさで満たす。また、タミーノを強い恋愛感情と情熱的な理想主義の持ち主として表現し、物語の人物を血の通った若者に変貌させる。この演奏の最高にすばらしい部分としては、Dies Bildnis(この絵姿)の喜びにあふれた英雄的な歌唱、タミーノのきっぱりとした勇敢さを明らかにする弁者との力強い対話の場面などが挙げられる。ホフマンのタミーノに耳を傾ける時、モーツァルトの非常に深い演劇的な意図を示す、表面的なものを超える精神的な気高さに気がつく。
   モーツァルトのほかに、リューベックで、モンテヴェルディのポッペアの戴冠ネローネを歌った。1973年、ペーター・ダンネンベルク Peter Dannenberg は再びホフマンを賞賛した。ペーター・ホフマンはその青ざめた、皮肉たっぷりの知的な雰囲気と磨き抜かれて、光を放つテノールの声で、ネローネにヘロデ王の疑い深い性格を与える。もうひとつの初期の非常に優れた、今から思えば珍品は、こうもり(ヨハン・シュトラウス作曲)のアルフレートである。この役は彼の喜劇的才能に対する興味を目覚めさせた。(そして、彼に舞台での身の毛のよだつような災難を経験させた) ヨハン・シュトラウスをやるのは好きじゃないにもかかわらず、1984年6月、サンフランシスコで、同じオペレッタで、デボラ・サッソンのアデーレ役に対して、アイゼンシュタイン役を歌うことを承知した。批評家たちは彼の演技はミュージカルとしてはむっつりと不機嫌な感じだと思ったらしいが、観客はこの夫婦のミュージカルのこっけいな演技が大いに気にいって楽しんだ。ホフマンがあまりにもたわいなくてくだらなすぎると思っているオペレッタにもうちょっと真剣な雰囲気を持ち込もうとしていたのに、批評家たちは気がついたのに違いない。
   ホフマンはワーグナー以外では、ドイツの伝統的な四つの役、オルフェオ(グルック、オルフェオとエウリディーチェ)、マックス(ウェーバー、魔弾の射手)、バッカス(リヒャルト・シュトラウス、ナクソス島のアリアドネ)、フロレスタン(ベートーベン、フィデリオ)で、決定的に独特の印象を与えている。おそらくこの中で一番特徴的でないのは、グルックのオルフェオのとても魅力的な演奏だろう。これは、ハインツ・パンツァー Heinz Panzer のために短期間に勉強して録音したものだ。指揮者のパンツァーは、ドラマチックテノールを用いた1774年のパリ版を録音するために、力強い低音域を持つホフマンのようなヘルデン・テノールを用いたいと思ったのだ。結果は驚くほどよかった。ホフマンは流暢な、完璧な発音のイタリア語で歌っている。グルックにふさわしい表現形式をきちんと把握し、抑制されたすがすがしい歌唱を展開する。あまりにもたくさんの仰々しい演奏を聴いてきた耳には、ホフマンの洗練された音楽家らしさと涼しげな北国的知性を備えた演奏は心地よい。叙唱部もアリアも、慣れきって落ち着いた気分で、オルフェオの嘆きの旋律を見事な響きで途切れることなく紡いでいく。甘い感傷とイタリア的な泣きに頼って、グルックをあたかもマイヤーベーヤやヴェルディのように扱いかねない衝動を彼は抑える。一幕は均整の取れた優雅な重厚さで初め、それは、二幕の抑えた調子の哀感に組み入れられる。クライマックスのChe faro senza Eurydice?(エウリディーチェを失って)陰うつな調子のずっと耳について忘れがたくなるような音色で歌われ、グルックが求めた威厳に満ちた崇高な古典様式を伝える。このオペラの数ある録音のなかでも非常に珍しいもので、歌手自身の録音された作品の中でも珍しい冒険的な試みであるからして、ホフマンのオルフェオとエウリディーチェは大きな危険を承知の賭けだったが、結果は芸術的な意味でも、評論家の評価においても、大成功だった。ホフマンのオルフェオは、意外な新発見だ。すなわち、私の耳にとって、彼のオルフェオは、この役の決定的な演奏である。
   ホフマンは魔弾の射手(ウェーバー)のマックスを、そのキャリアの前半に、頻繁に歌ったが、今もなおこの役は彼のレパートリーに含まれている。あの事故のあとの1978年、この役でコヴェントガーデンに復帰したとき、アラン・ブリス Alan Blyth はこう書いた。彼は本物のヘルデン・テノールの音質を披露した・・・  文句のつけようのない賞賛に値するのは、彼の旋律線を浮き立たせるすばらしい感性だ。 マックスのDurch die Waelder(森を抜けて)の流麗な旋律の進行におけるベル・カント的心地よさは1979年4月28日のパリでのORTF の演奏会のアリアで聴くことができる。ホフマンは装飾音を柔軟に心地よく処理すると同時に英雄的な高らかな響きを加えている。Lebt ein Gott?(神はいるのか)をカバレッタで仕上げるとき、このフレーズは神の沈黙に対して怒りの拳を振るうような激しさを示す。このアリアはホフマンの描くマックス像の特徴である失望と落胆の落ち着かないマックスの気分をとらえている。そこにいるのは、若くて、情熱的な猟師だ。抑え難い激しい愛に駆り立てられて、衝動的な行動をとる若い猟師。彼にとって射撃競技の出来事は全てが悪夢だ。最終的にアガーテへの誠実な深い愛情によって救われる若い猟師。ホフマンは国民的人物像を、生き生きと目の当たりに見せる。絵画のように見えることを要求された、アヒム・フレイヤー Achim Freyer によるシュツットガルトの公演の静的な演出によってさえ、抑えられるないほど、まるで電気を帯びているかのように生き生きとぞくぞくさせられる。ホフマンのマックスは説得力がある。揺れ動く気持ちと憂うつな気分に支配されているのを納得させられる。そして、そういう暗さにもかかわらず、ロマンチックな情熱を備えた、観客の同情を呼ぶ魅力的な人物にすることに成功している。
   1979年10月7日、ハンブルク国立歌劇場の開幕公演で、ホフマンはリヒャルト・シュトラウスのバッカス(ナクソス島のアリアドネ)を引き受けた。ユルゲン・ケッツィング Juergen Ketsing の 新演出初日の批評は慎重で、ペーター・ホフマンは、明らかに体調が悪かった。彼のチェルセ Circe を呼ぶ声は弱々しく、はっきりしない響きだったが、後の複数の公演は、彼がもっと強い (robust)声を有していることを明らかにした と述べた。この公演を私的に記録した録音テープを聞くと、問題の部分の高音域も心地よく輝かしい声であることは明らかだし、広大なオーケストラの響きをしのぐことができている。最後の二重唱における彼の声は、よく焦点が合って散漫なところがなく、英雄的である。その声は最高音のBフラットまで舞い上がり、Zauberinでは端正な弱音を響かせる。この私的な録音を聞いてさえ、彼の発散する存在感は強烈だ。ギリシャ神話の神の姿と声の古典的な美しさが伝わってくる。
   フロレスタン役(ベートーベン、フィデリオ)で、ホフマンは全く違う存在感を放つ。彼の強烈な人物描写において、内面的な輝きと併せて、その惨めに苦しむ外観が照らし出される。この役で最も成功したもののひとつは1984年4月ベルリンでのゲッツ・フリードリヒ演出による公演である。これについてジェームズ・ヘルメ・ズトクリッフェ James Helme Sutcliffe は、ホフマンの高らかに響き渡る、若々しいフロレスタンは、その「神よ、ここの何という暗さか」'Gott welch Dunkel hier' がアーチ型の暗い穴蔵から聞えてきた瞬間から、観客をびっくり仰天させ、観客の耳をそばだたせ、しっかり耳を傾けようと、居ずまいを正させた。と書いた。4月13日の録音テープは強烈な演劇的かつ声楽的な意思を示している。コロと同様、ホフマンはフロレスタンを、受動的な英雄と見ている。しかし、コロと違って、ホフマンの「受動性」は内的な力強さによって生命を吹き込まれている。彼は単に肉体的に衰弱しているだけで、精神的には衰えていないのだ。これはほとんど逆説的には、彼の飢えと狂乱の幻覚症状の裏には、燃え盛る火のような静謐がある。このフロレスタンの意志は終始明確に示される。酷く悲惨な状態にあっても、終始一貫失うことのない自尊心の中に壮大なひらめきを得る力がある。彼の苦しみには主張があり、その苦痛ゆえに目的意識を失うことがない。
   ホフマンはこういう複雑な解釈をいくつかの賢明な技術的工夫を通して伝える。彼は、歌唱においては、銀色のメタリックな輝き、捕らえ難く、卓越した、活気に満ちた、心を強くとらえてはなさない輝きを保ちながら、人間の現実的な身体的衰弱を、対話と一貫性のある柔軟な動作によって、強調する。彼の表現力に富んだヴィブラートは、彼の旋律線に迫力を与え彼の言葉に色彩を与え、際立たせる才能が、ここでは殊更有利に働く。そのGott, welch Dunkel hier!(神よ、ここはなんと暗いことか!) は、かろうじて命をつないでいる人間の奥底から絞り出される哀しみの叫びとして始まる。そして、それは信仰心と懐疑心の入り交じった祈りとなって高らかに鳴り響く。ホフマンは、このアリアを、絶望から甘い記憶へ、そして更に、自己の正当性を証明したいという狂わんばかりの希望へ(ins himmlische Reich 天国で)という、明確に区別できる演劇的な各段階を経ていくものとして展開する。彼のレガートは美しく、彼のフレージングは長く持続的で、自信に満ちている。友情を感じた「フィデリオ」との対話は、彼が狂乱した戯言ですっかり消耗してしまったことを明確に示し、細かい部分で著しく哀れを催させる。ホフマンのフロレスタンは、ピッツァッロがやってきた気配を感じたとき、(Ist das der Verbot meines Todes? 私の死の印か)一瞬、気持ちの制御がきかなくなる。彼は狂わんばかりになり、弱さを露呈する。そして、ほとんで狂乱状態でレオノーレにくってかかり、彼女は彼を落ち着かせようとする。それから、突如、殺人者が現れたとたん、ホフマンは、ありったけの自制心と力をふりしぼって、落ち着きを取り戻す。四重唱が始まるとき、敵に向き直り、誇り高く、告発の言葉 Ein Moerder steht vor mir(殺人者が私の前に立っている) で攻撃する。これこそ、長い間苦しんだ勇者の、何よりもまず自己肯定をせずにただ打ち負かされるつもりはないという、勇敢な最後の抵抗だ。この劇進行が急速な展開をみせるこの場面は、フロレスタンの弱さと英雄的な強さが結晶したかのように鮮やかに示される瞬間だ。この敵との遭遇では、弱さと威厳が同程度の強さで伝わってくる。レオノーレが命がけで助けようとするとき、彼女の名前を口にするが、その発音には、驚きと愛情に満ちたとまどいの色がある。彼女な名前を口にするときの深い思いは、続くLeonore, was hast du fuer mich getan?(レオノーレ、あなたが私のためにここまでしてくれるのか) という言葉が甘い響きを引き受けてしばしたゆたい、観客を穏やかなあふれるような暖かさで包み込む。だれもが二人の愛の深さを納得させられる。ホフマンは二重唱 O namenlose Freude を恍惚として歌うが、ひそかな驚き、激情、優しさゆえの弱さ、あふれる歓喜が、かわるがわる浮き上がる。フィナーレのお祝いの合唱で、ホフマンは常に合唱に加わっているが、その様子は彼の個人的な思想を語っているという雰囲気を感じさせられる。彼は内省的に歌い始め、喜びにあふれて斉唱に加わっていく。
   ホフマンが舞台で演じるフロレスタンは強烈でわくわくさせられる。そして多くの面で1979年ゲオルグ・ショルティ指揮の録音をしのいでいる。だが、この録音は、歌手は気管支に悩まされており、一連のシカゴの演奏会のひとつでは、完全に声が出なくなったほどだった上に、オペラでは初めてだったデジタル録音の技術上の思い違いもあったという、非常に悪い条件のもとで行われたにもかかわらず、ホフマンの人物描写の凄さは減じてはいない。病気を知られることなく、大勢の健康なテノールたちが成し遂げる以上に、極めてやすやすと自然に、柔軟に、華麗な装飾、音階、高く舞い上がる最高音などを駆使する演奏を彼になさしめる技術的な熟練に驚嘆させられる。いつもとかわらず、歌手は全力を尽くして、その声は途切れることのない強度で伝わり、狂乱状態から恍惚へと盛り上がる。それは、スタジオ録音という条件下、著しく大きな説得力でスタジオ録音を輝かす。
    録音だろうがライヴだろうが、ホフマンの演奏の全体的感触はベートーベンの傑作の核心を貫いている。このオペラの歴史的限界を突き抜けて、現代社会との関連性を主張する。政治犯というもの、あるいは、「国家にとって有害な全ての反対者」を排除しようとする国家というものがある限り、このオペラもフロレスタンの役も現実的である と、歌手は言う。ホフマンにとって、フロレスタンは勇気ある個人、道徳的清廉潔白、個人の自由、政治的自由の代弁者だ。彼がこの役を歌うとき、それは彼の心からの叫びであり、彼自身の信念と一致している。
   それにしても、ホフマンは、なによりもまずワーグナーのスペシャリストとして名声を確立した。私の見解では、彼はまさに今そこにいる卓越したヘルデン・テノールである。この文章を書いている今、ホフマンはワーグナーの11の主要なテノール役のうち七つの役を歌っており、他の役もアリア集で録音している。彼がローレンツ、スヴァンホルム、そして、ヴィントガッセンの即席を継ぎ、ヘルデン・テノール名簿に名を連ねるであろうことは間違いないし、そうなることを希望する根拠はたくさんある。
   1983年のリサイタル盤でホフマンはリエンツィの祈りを録音している。オペラ全曲を聴くに値する雰囲気と大家振りを感じさせられる。All macht'ger Vaterは、完璧な抒情性を備えて激しく情熱的に歌われる。最高音部は鮮やかに決まり、その響きは輝かしく充実している。音色は終始一貫、みずみずしく、装飾音はなめらかである。(栄光と崇高と尊厳へ) の、はじめからおわりまで、息をつかず、切れ目なく高らかに舞い上がる様と、Die sich in Ewigkeit erstreckt(永遠に存在する神)の展開の仕方、あるいは、mezza voceの弱い声で歌われるErhore mein inbrustig Fehn!(我が燃える願いをお聞きください)の流れるような旋律線は驚嘆に値する。その長く維持されるフレージングとわかりやすい感情表現は、ひとりの護民官の神に対する信仰は、愛に基づく信頼感に根を降ろしていることと、彼のひとつひとつの言葉は彼の繊細で感じやすい人間性を物語っていることを示す。    同じリサイタル盤に入っているタンホイザーのローマ語りは、録音されたこのモノローグの中でも明確な主張が最高にわかりやすい演奏のひとつである。ホフマンは、表現力に富んだ朗唱を音楽的で豊かなフレージングと結びつける。彼は言葉の意味を際立たせる。聴き手の心をしっかりと捕らえる独特のアクセントを独自に創り出している。彼は、録音という実態のない条件下でさえ、 心の中にある信念を具体的にまざまざと感じつつ歌う。そしてまた、彼は、ワーグナーが劇的な激しさと、美しい歌唱を同じレベルで求めていることを一瞬たりとも忘れることがない。彼はその声を、闇のような暗さから金色の輝きにいたる色調の幅広い範囲のなかで彩り、その音色は、成熟して、ゆとりがある。彼の声は、むらなのない発声で出され、終始一貫して、緊張してこわばることなくのびやかである。      ホフマンはこの物語を、絶望感と皮肉と精神的な苦痛の入り交じった声で始める。巡礼の旅の様子を物語るとき、このモノローグを反抗心あふれる怒りの行動の一環に組み込む。教皇に対する狂ったように激しい非難には悪魔的な力が宿っているようだ。in Venusberg drangen wir ein!(さあ、ヴェーヌスの国に私を入れてくれ) の狂乱の叫びは壮観だ。ホフマンの歌うDa ekelte mich der holde Sang(美しい歌声が私を嫌悪感で満たした)のような旋律は忘れ難い。それは、カトリック教徒的期待が裏切られたことに対する落胆の気持ちでいっぱいだ。そして、彼自身の不安定な成り行き任せの状態が露になる。動物的な哀願の叫び声は、荒々しく、狂気に満ち、徹頭徹尾壮大だ。ホフマンのタンホイザーは(この重要な部分で証明されているように)堂々とした強さと脆さの両方を兼ね備えている。非現実的な反抗心が際立つ人物である。その怒りは神話的様相を示し、その強い信念は魅力的で、その訴えかけは魅惑的だ。その一方で、彼は深く傷つき、猛烈に恋いこがれる、絶望的なほどに孤立したひとりの人間だ。どちらの状況でも、ホフマンのタンホイザーは抗し難い魅力を発散する。ホフマンは彼の先輩たちのだれよりも魅惑的で、破滅する人物だからと言って、惨めとも哀れとも感じさせず、むしろ、人を魅惑し惹き付ける、ある意味、ぞっとするような、しかし、ブレイク的なエネルギーによって気高いまでに人をひきつけてやまない官能的な性質をタンホイザーに与えることができるように思われる。(William Blake (1757-1827) イギリス  ロマン派の画家。詩人としても知られる。ロマン主義の先駆者。20世紀になって、評価された
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