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14章 ペーター・ホフマン -8/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

エリック(さまよえるオランダ人) 、ローゲ(ラインの黄金)、ジークフリート

  ホフマンはさまよえるオランダ人のエリックにも同じ力強さと魅力を与えて、ワーグナーが要求したように、捨てられた求婚者を、オランダ人の、説得力のある引き立て役にすることができる。ホフマンはヘルベルト・フォン・カラヤンのために、ドゥニャ・ヴェイゾヴィチのゼンタ、ジョゼ・ヴァン・ダムのオランダ人との共演で、録音した。彼は情熱的で魅力的で自信あふれる、エリックという若者を描き出す。彼のゼンタに対する報われない愛は、オランダ人の要求に対して、見事な均衡を与える。彼の声域はこの役の高い音域に楽々と適合し、繰り返される高音部分を、やすやすと見事にやり遂げる。それは、楽々とした華麗な抒情性を要求されるときと全く同じだ。最初の登場のときから、最後に幕が降りるまで、注目を集めるエリックがいる。
   二幕でエリックがゼンタとはじめて向かい合うとき、彼は自尊心と決断力を示す。このエリックは哀れっぽくもなければ、脅迫的でもない。彼は自らの強い気持ちとかつての愛情から生まれる誠実な感情をぶつけてゼンタを取り戻そうとする。ホフマンの歌う、生々しい夢物語は、忘れ難い。彼は変化に富んだ多彩な音色を駆使して悪夢の物語を紡ぐ。ホフマンがその官能的な声で物語る悪夢にはぞっとするほどの具体性を帯びる。彼は、ゼンタをおびえさせようとしているのではなく、自分自身が気にかかっていることを彼女と共有したいがために、夢の話をするのだ。 その存在の奥底から絞り出される、ホフマンの暗い、切望的な叫び声 Mein Traum sprach wahr!(あの夢は正夢だった) には、彼の喪失の悲しみの苦痛に満ちた現実が貼り付いている。それでもまだ彼は、愛のために、すなわち、自分自身の愛のため、そししてゼンタのために、闘おうと決心する。三幕の彼のカヴァティーなとフィナーレの合唱では、愛する人を助けようと全力を尽くして奮闘する。ホフマンのエリックは、最後の悲痛きわまりない叫び声、Verloren!(失われた!)に至るまで、希望を捨てない。結果的に、聴き手はエリック個人のドラマに、彼と同等のレベルで関わっているような気分に浸る。ホフマンのエリックは独特の寛容な雰囲気があり、好感が持てる。他の大勢の演奏者に比べて、ホフマンはエリックの多様な感情のうち、自己憐憫の気持ちを排除し、代りに、私たちにオランダ人に対する激しい同情心を起こさせる感情、つまり、苦しみを強調する。
ニーベルングの指環の中の役のうち、ホフマンは現在のところジークムントでもっとも有名だが、幻惑されかねないほど魅惑的なローゲの役も歌っているし、もうすぐ両ジークフリート役もするだろう。ホフマンのごく初期のワーグナーでの成功のひとつは、1975年2月ドルトムント、ハンス・ペーター・レーマンの創意あふれる演出でのローゲ役だった。
ケーテ・フラム Kaethe Flammは、熱狂的な批評を書いた。
   若いペーター・ホフマンは、一夜にして大評判になるほど魅力的だ。もの凄い天賦の才能に加えて、それ以上にすばらしいテクニックを身につけた、若さあふれるヘルデン・テノール(彼はたったの30歳で、これが初めてのローゲ役の舞台なのだ)、彼はこの役を驚くほどの熟練振りと洗練された精巧さで演じ、この役の究極の微妙な雰囲気を徹頭徹尾、直感的に具現化した。
   舞台写真を見ると、敏捷な雰囲気を醸すホフマンがいる。ちらちら燃える火のようにアップにした髪型、奇抜な化粧、曖昧な感じで身を横たえ、湾曲した指は無関心を装った疑い深さを示している。複数のレポートが、彼の堂々とした身体的美質、顔の表情の微妙な変化、細かで、無駄のない、はっきりと明瞭な一連の動作などについて語っている。ホフマンのローゲの、微妙な陰影の付け方の精妙さは、豊かで複雑な歌唱と併せて1976年10月15日のウィーン国立劇場の公演を記録したテープでも、明らかだ。
ホフマンはヴィントガッセンを手本としており、従って、正統的なヘルデン・テノールのスタイルでこの役を歌っているが、音色の美しさと華麗で英雄的な声質という点で、この偉大な先輩をはるかにしのいでいる。この役は中音域から低音域が要求されているのだが、ホフマンはそのバリトンが基礎になっている声で輝かしい響きを巧みに操り、旋律をしっかりと浮き上がらせる才能を示す。Ihr da im Wasserが、このように一気に弧を描くような壮麗さで歌われるのを私は耳にしたことがない。彼のローゲは、威厳があり、知的で、高貴でさえある。そして、何にもまして、鋭い直感力を持っている。一見して理性が勝っているとわかる火の神がここにいる。その炎のような口調は、彼の機転の利いた詭弁を反映している。その冷静な推論の裏には、神々の妥協と同様に、彼自身の妥協に対する軽蔑と皮肉が隠されている。彼は無関心を装うなぞめいた仮面をつけて、感情的に距離をとっている。 その寒々とした現代性は畏敬の念をおこさせ、 そのいかがわしさは人を魅了する。たとえば、このローゲは神々と合意することに嫌気がさしてきているように思えるし、彼が最後に虹の橋を渡ることを拒否するのは、彼が目が覚めた印なのだと感じる。Ehrem Ende eilen sie zu(彼らは終わりに向かって急ぐ) は苦い洞察に満ちている。それでも、ラインの乙女たちに対する彼の忠告 in der Goetter neuem Glanze sonnt euch selig fortan(さあ、神々の新たな栄光のうちに憩うがよい) は、横柄で威圧的に響く。それはまさに、あたかも神の命令のようにもっともらしいものだから、彼は結局のところ、常習的同調者じゃないのかなと感じる。ローゲの内省的な問いかけ、 Wer weiss was ich tue? (私がこれからすることが誰にわかるだろうか) は一瞬、弱く、それから、否定的に響くが、ジレンマに対する答えにはならない。むしろ、永遠に理解し得ない不可思議な人物像を、腹が立つほど、完璧に描き出す。最後まで、ホフマンのローゲの炎のような思考回路は不可解なままだ。堕落と道徳的清廉さの間にあって、安易な選択を拒否することによって、また、その性格の可能性を制限することを拒否することで、ホフマンはローゲの謎めいた不可解さを保っている。そして、そうすることで、観客の想像力を刺激する。ホフマンはこの役はそれほど頻繁に歌っていないけれど、それにもかかわらず、ローゲに関するヘルデン・テノールの歴史に、ひとつの叙事詩的に偉大な演奏を残した。
   同様のことが、両ジークフリート役に関しても、間違いなく実現するだろう。歌手はこれらの役を綿密にきちょうめんに学び終えている。1983年のリサイタル盤の鍛冶の歌の録音がなんらかの証拠になるならば、ホフマンのジークフリートは、耳にも、そして演劇的にも、ぞくぞくわくわくするものになることは間違いない。彼はこの難しい歌を天衣無縫の奔放さで歌う。突き刺すような迫力の金属的響きと官能的な俗っぽさが溶け合ったその声は非常に魅力的で、大いに好奇心をそそられる。音の移動は流れるようだ。高いAへと、問題なく、きちんと、不安なく駆け上り、力強さと官能的な魅力は明白だ。彼が、オペラ全体を演じれば、この歌にあるのと同じ身体的特徴、ロマンチックな雰囲気、エロティシズム、気品、感受性の強さなどの要素によって完璧な人物像を描き出すであろうことを確信させられる。歴史上の他のどのテノールよりも、ホフマンはジークフリートの英雄性の本質を具現するだろう。オペラ・ニュース Opera Newsのインタビューで、ジークフリートの準備に関して、歌手は、このように話した。私は身体を駆使する歌手です。自分の身体をその役の状態にしなければならないと思っています。そうでなければ、ただ単にドラマのなかであっぷあっぷするしかありません。オペラ界は、ホフマンがこの役でデビューするのを期待して楽しみにしている。最近の他のどのテノールも、声楽的にも視覚的にも、ワーグナーの正真正銘の英雄としての彼の存在感に挑むことができるなどということはありそうもない。
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