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14章 ペーター・ホフマン -4/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

  ホフマンの率直さ、他に影響されない独自性、誠実さ、独特な兼ね合いを見せる鋭い洞察力による内向性と思いやりからくる外向性、不服従を貫く勇気、音楽が内包する人間性に対する信頼、こういうものが、戦前の典型的ヘルデンテノールの類型とは比較できないほど懸け離れた、極めて特有のセルフ・イメージを創りあげている。 ジーンズをはき、馬やオートバイに乗り、社会に対して革新的な考えを持ち、ロックミュージックをやるテノールは、スレザークのような歌手たちが不滅にした(ヘルデンテノールの)戯画的セルフ・イメージとは程遠い。ホフマンのリラックスした、気取らない現代性と、スカーフを巻き付けて、召使と家族と旅行カバン、おまけにあやしげな取り巻きの連中を従え、消毒薬の入った吸入器を携えた妻に先導されている、そんな芸術家の様子を対照してみるがよい。ホフマンの個人的及び職業的スタイルでの伝統からの過激にみえる逸脱は、保守的な通気取り、あるいは、熱愛ゆえに、物議をかもすことが多かった。だが、このテノールに対する個々の反応がどうであれ、ペーター・ホフマンがヘルデンテノールのイメージを現代化したということ、それどころか、オペラ歌手のイメージを変えたことは明らかな事実である。このようにして、彼はオペラのために、新たな、幅広いファン層を獲得したのである。
 ホフマンほど、外見的魅力を、あるいは、エロチックな声の響きを発散しているヘルデンテノールは皆無だったし、オペラ界を通じてもそんな歌手はわずかしか存在しない。最もハンサムなヘルデンテノールの、すばらしい金髪碧眼の筋骨たくましい外見の良さは、ワーグナーの主人公たちの視覚的定義を書き換えてしまった。あっという間に彼を頂点に押し上げ有名にしたその豊かな声、その住まい、車、馬、そして、何よりもそのおとぎ話的二度目の結婚、こういうもの全てが絡み合って、舞台上のテノール、そして、世間の人々の目に映るテノールは、おとき話的なオーラに包まれている。ひとつのおとぎ話だが、このおとぎ話の持つさまざまな現実を、ペーター・ホフマンは痛いほど知っており、謙虚に感謝している。全てのことがもの凄いスピードで進みました。いつか目が覚めたら、全部夢だったということになるのではないかという気がします。
 本当に、ホフマンはわざとらしいところのないスターである。身構えないし、意図的なイメージ操作も、神話創作もない、何よりも、気取ったところや自己中心的なところがない。私たちが出会うのは、気取ったスターではなく、穏やかで、率直で、気のおけない、自我の確立した、一人の人間であり、その思いやりのある機知に富んだ知性は非常に魅力的で人を惹き付けずにはおかない。ホフマンの物腰には、否定しがたいセックス・アピールだけでなく、情熱とはにかみが入り交じった独特の雰囲気がある。彼は楽しい話上手(raconteur)で、彼の話ぶりは、おおらかな魅力で人を引き込む。彼の、笑いの才能と、何にもまさる、ユーモアのセンスを知るためには、魔弾の射手での災難のとてもこっけいな、劇的な音響効果を創り出したという話を彼がするのを聞きさえすればよい。このような災難を切り抜けられれば、劇場で最高に運がいいということで・・・劇場の楽しい側面の一つだ。不意を打たれれば、いくら備えがあっても、安全ということはないから・・・

 劇場でのハプニングに対するのと同じように、ホフマンには、マスコミ関係者と、殊に世間の人々に対して、バランス感覚を維持できる才能がある。自身のスターの座ついて語る彼は屈託がない。ずっと、自分の職業をあまり深刻にとらえすぎないように努めてきました・・・ 演じる舞台上の人物の気分に包まれて、自分の人生を過ごしたくないのです。そうならないために、ユーモアと皮肉をこめて、自分自身を見つめるようにしています。彼は歌手仲間に対して思いやりがあり、有意義な競争を歓迎する。コロは偉大だが、私も同じだ。マスメディア的敵対関係をでっちあげようとするマスコミの努力に対して、私たちは二重唱はしません。どうしてお互いに反目する必要があるのでしょうか。と、ユーモラスにとぼけて見せる。批評を読むときは、なるべく冷静に落ち着いて、神経をとがらせずにユーモアを保つようにしている。今はもう書かれたものに左右されることはありません。今の私にとって批評は二番目に重要なものにすぎません。

 しかし、観衆に対しては、心を込めて、実に楽しそうに接する。公演の後、サインを求める長い列がないなどということはめったにないのだが、こういう時、彼は、まさに特別に持って生まれた恵みとも言えるような忍耐力と礼儀正しさ、親しみやすさを発揮する。ホフマンにとって、観客のメッセージに耳を傾けたり、ファンレターを読んだり、互いに共感したり、観客が彼を好きだと思い、熱狂してくれる気持ちに対するお返しとして多少とも感謝の気持ちを表したりするといった、観衆との交流は芸術家の当然の義務なのだ。公の場に出れば、彼とデボラ・サッソンには、のんきにしてはいられないことが多いわけだが、彼はこういったことを、名声の対価としてひたすら謙虚に受け止める。私たちは大勢の人に取り囲まれるのには慣れています。こういう人気は、成功の外面的な証拠です。ファンというものは厄介なものだなどと言う人がいるとすれば、そういう人はうそをついているのです。もう相手にされなくなったら、最悪じゃないでしょうか。
   ペーター・ホフマンに会うと、だれもがその素早い行動力に目を見張る。Singen ist wie Fliegen を著わすために三年間にわたってインタビューを行ったマリールイーズ・ミューラーは、彼の性格特性を示す二つの言葉に注目している。つまり、彼の好むのが、 to do[zu tun] と I feel[ich fuehle] という表現だということである。彼が「私は感じる」と言うとき、距離感を含むことなく、彼の全自我をその感情に込めているのだ。 私は彼のさわやかな率直さ、その心を開いてコミュニケーションを図ろうとする姿勢、説得力のある人間性に惹かれる。だれもが、目的意識の確かさと同時に自己を批判的に捉える、彼の自己認識を即座に感じ取る。肉体的かつ精神的な勇敢さ、そのダイナミックな心。抑えがたい個性が輝いているのと同じくらい、彼はまさにそのモットーとする、自分が望むことを、私もまた創造する  をはっきりと証明しているようだ。
ペーター・ホフマンは、ペーター・ホフマン以外の何者でもないのだ。彼の見解の独自性が彼の個性を特徴づけ、彼の芸術性を形作っている。ペーター・ホフマンの哲学的、芸術的主義主張は多くの保守的な人々を落ち着かない気分にさせる。政治的、社会的にリベラルで、例えば、戦争反対や自己防衛といった解決困難な問題を伴う、非核武装や世界平和に関わることをためらわない。家族を生命の危険から守ることができるとすれば、私は間違いなくそうする。それは殺すことを望むということではない。そういう選択をする羽目ならないように神に祈っている。と、以前、プレイボーイ誌のインタビューで臆することなく語った。この正直な告白の通り、彼は変わることなく、1984年の Ivory Man のツアーにおいて、争いうことなく、調和して、国々が手を取り合って一体となって働くすばらしい世界を創造しようと、聴衆に熱心に訴えかけている。
   緑の党に対する支持を表明することにためらいはないし、グリーンピースにも賛同すると同時に、西ドイツ人としての誇りを隠さない。彼このように望んでいる。
   利己的で情けない市民にはなりたくない・・・ 自分の庭にしか関心がないなどということはできない。その上で、全体主義国家に自分の庭を没収されるようなことがあったとしたら、抗議する。そういう事に対しては、行動するべきだ。この国に生きるか死ぬかといった苦しみが二度と再び到来するようなことは、断固として阻止すべきだ。
この自覚的で意見をはっきりと述べる芸術家は、1984年に、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー大統領に会って直接、非武装に関する見解について話すことに何ら良心的呵責はないと公言している。また、翌年には、ボンで行われた戦争終結四十周年を記念する公式な式典に積極的に参加した。はじめてベルリンを訪れた時に、ベルリンの壁における、全体主義者の犯罪に対して嫌悪感と苦悩に苛まれた経験を持つ彼は、1987年10月、はじめて東側で歌うべく、その憎むべき壁を超えた。マスコミや音楽界の中には共産党はボイコットするべきだと批判するグループもあったが、ホフマンは非教条的論理をもって反論した。
   私は今は積極的な行動のほうがより価値があると考えている。コンサートをするだけでなく、人々と話す機会が持てるのだ。そして、そのことは、音楽よりはるかに重要なことだと思う。
同様に宗教的見解も型にとらわれない。彼は、魂のよみがえりと霊魂の存在に関する信仰を素直に述べる。人類と宇宙に対する霊的信仰を表明している。この世の存在だけがすべてだとは全然思えません。同時に、その会話や作曲においては、根深い不可知論を口にしている。神が人類に関心を示さないなら、存在する権利はない。
   職業に対する考え方も非保守的でないなどということはない。オペラハウスでロックを演奏するとか、オペラにジーンズで行くとか、相当「過激な」考えの持ち主である。彼は、古くさい歌手神話に、身をもって反旗を翻し、自己主張してきた。例えば、 セックスは声を損なうというルネ・コロの言葉をきっぱりと否定している。セックスが声を損なうなどということはありえない。とんでもない作り話だ。舞台では全人格をかけて演じたい。自分の人生を完全に生きたい。つまり、他の人に影響を与えたい。 彼は、オートバイに乗り、スピードの出る車を運転し、馬に乗る。「壊れ物扱いの歌手」を演じることを意識的に拒否して、自分の人生を楽しんでいる。しかし、そういうことも、自分自身の限界に関する確かな感覚のもとで、判断し規律を持って、行っている。人間には自己認識力が備わっており、自分にとって何が良くて、何が悪いかは自ずとわかるものだ。 彼は他人に自分の職業を分類整理してもらおうとは思わない。だれでも自分がやりたいことをやるべきで、他の人々が言うであろうことを聞くために立ち止まることはできない。 彼は、全体的で健康的な洞察力をもって、映画、テレビ、オペラ、ロックをやっている。過去及び現在の他のどのヘルデンテノールとも違って、音楽の保守主義に挑戦し、より広範囲の鑑賞者とより幅広い聴衆を求め、その成功によって、それを勝ち取っている。何度も、彼は挑戦を繰り返している。
   すばらしいポップ・ミュージックもあれば、あまりよくないオペラもある。同様に、単純でつまらないポップ・ミュージックもあれば、壮大なクラシック音楽作品もある。しかし、ロック・ミュージックが我々の時代の一大事件であることは疑う余地がない。
   保守主義者の中には恐れをなす人たちもいるかもしれないが、ペーター・ホフマンはこういう修辞を楽しんでいる。芸術家の技術で、彼は全然違う糸を一緒に織り上げ、独自の思想を持った、どこにもない冒険的なデザインの、深い内容を持った、見事な織物を完成する。これこそが、人と芸術家の基礎を形成している生命の本質の深さであり、霊的で、情熱的で、規律ある感性そのものなのだ。
   ホフマンの本質は、自分で芝刈りをし、馬小屋を掃除し、柵の修理について隣人と相談する、都会から遠く離れたこの小さな村、シェーンロイトの一住人なのだ。この村に住む人々と心を通わせ合う一個人なのだ。そして、また、水泳、乗馬、サイクリング、運動など、精力的に日課をこなしているテノールでもある。だが、土臭さこそがまさにペーター・ホフマンの本質である。彼を突き動かしている根本的な力は、一連の献身的な愛につながる。
   彼の愛の範疇の中でも彼がもっとも大切にしているのが、家族である。デボラ・サッソンとの二度目の結婚によって、ロマンスと強いパートナーシップの二つを手に入れた。職業的にも個人的にも興味と関心を共有し、協力して創造活動をしたり、お互いにそのキャリアを支え合っている。二人の成人に達した息子たちも父親と親しくしており、継母ともうまくいっている。ホフマンは息子たちがその能力を伸ばせるよう努力をおしまない。特にヨハンネスには音楽の才能がある。シェーンロイトではしっかりした家庭生活を営んでいる。それは、弟のフリッツ、両親のウェーバー夫妻を含めた大家族だ。プライバシーを大事にするため、ホフマンは個人的な事柄に関しては、慎重に振る舞ってきた。私的な事柄に関しては、マスコミには沈黙を守っている。とても大切なことに関しては断固として詮索されることを拒否して来た。
   しかし、このような近しい人々への愛情を超えたところで、彼は、人生そのものに対して、包括的な愛情を示している。彼はそれをあらゆる行為の中で精力的に表現しようとする。例えば、歌うことを決心したのと同等の熱心さで乗馬を習うといった具合だ。デボラ・サッソンは夫の新たな経験への欲求について、ペーターは常に、出来る事よりも、さらに一歩先へ進もうとします と説明する。こういうダイナミックな生き方が周囲にも影響する。他者と強力にかかわり合おうとする。エイズ問題、心臓病の子ども、飢餓に瀕した子どもたちなどへの関心が深く、公的に慈善事業に関わると同時に、世界の恵まれない人たちのために、匿名での私的な支援を積極的に行っている。困難に直面する世界における、自分の音楽活動の正当性について葛藤を感じているのだ。
いつだったかどこかだったか、ロンドンか、シカゴのホテルで、小さな子どもたちの心臓手術をする一人の医者の話をテレビでやっていた。その医者はスーパーマンに見えた。彼は生命を与える力を持っている。私がやっていることことなど、ほんとに全く最低の必要性しかないと感じた。
それでも、彼は結局はこう考えることにする。自分が何人かの人たちに本当の喜びをもたらすなら、それはそれで良しとするべきだ。その時、おそらく、違う次元ではあるが、あの医者と同等の仕事をしていると言えるだろう。
   こういう、音楽を、喜びを他の人々と分かち合う手段として使いたいという願望こそが、ペーター・ホフマンの芸術的信念の中心をなしている。1987年のロック・クラシックス2で、彼はジョン・ミルンズの美しい詩を確信を持って歌っている。
Music was my first love/And it will be my last./Music of the future and music of the past/ To live without my music/Would be imposiible to do/In this world of troubles/My music pulls me through.
ペーター・ホフマンからあふれるイメージは、自分の音楽と自分の生活に満足だけではなく深い内的平和を見出すのが人間であるというものだ。彼は気難しい人間ではないし、その芸術はまさにその自意識の延長上にある。ペーター・ホフマンにとって、音楽をすることは、感情をもち、社会に貢献する人間としての責任を果たす方法の核心なのだ。その生活様式とその歌唱によって、彼は、勇気、知性、感性、自制心、誠実さ、上品な優しさ、妥協しない厳しさ、愛情深い包容力を示している。
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   ペーター・ホフマンの音楽観は非常に独特なので、極めて詳細な検証に耐える。思っていることを言う人だから、音楽的な事柄における好き嫌いは公になっている。シャンパンと燕尾服のオペレッタの世界は彼としてはパスしたいものだ。トラヴィアータのような台本は退屈で、うんざりだ。伝統的なドイツの流行歌 Schlaeger は好きじゃない。好きなのは、ワーグナー、モーツァルト、プッチーニ、それから、古典的なポピューラー音楽だ。     
   ホフマンの音楽に対する普遍的な好み、つまり、質の高いポップスとクラシック音楽を区別することを拒否する態度は、大いに議論の的になってきた。    テノールとしての彼は、ロックは彼の声を損なうと、繰り返しマスコミに非難されている。超保守的なワーグナー狂信者は、ロックシンガーが聖堂を汚しているのを知って、苦労して手に入れたチケットを返却した。しかし、このような少数派の声は、ホフマンの発するものに熱狂する国際的観客の拍手喝采に圧倒され、かき消された。 ロックに関わる主な理由のひとつとして、テノールはロックが本来的に有している創造へのきっかけを挙げている。すなわち、作曲したり、編曲したりする、創造的な自由があり、クラシック音楽でかなえられない仕事の形がある。 ポピュラー音楽のレパートリーを選ぶ根拠は、質の高い旋律、楽器の扱いの複雑さ、ヴォーカル面でのやりがい、心に訴えるドラマ性である。よどみない様式感をもって
このような歌を扱うところが、いわゆるクロスオーバー歌手とは一線を画している。歌詞の面でも音楽的な面でもその微妙な陰影に富んだ扱い方は様式的に完璧である。ポピュラー音楽をオペラ的に歌うというよくある間違いをおかしていない。二つのテクニック、あるいは、二つの異なる声を使っているということではない。確固として維持している良い発声法が全ての歌唱に応用されているのだが、それぞれに要求されるスタイルの微妙な違いを際立たせているのだ。マスコミによって二つの世界の間のさすらい人というレッテルを貼られたペーター・ホフマンは、実際、両表現形式にしっかりと根をおろした芸術家だ。ロック・シンガーとして芸術的にも商業的にも成功し続けているにしても、ロック・シンガーは大勢いるのに対して、大物といえるヘルデンテノールは二人しか存在しない、だから、彼としては、クラシック歌唱に対して厚い忠誠心を持っており、クラシック歌唱から離れるつもりのないことを明言している。この研究論文が主として焦点を当てるのはホフマンのオペラ・キャリアであり、彼がヘルデンテノールの歴史に衝撃を与えたこと、そして、これからも衝撃を与え続けるであろうことは間違いない。
   ホフマンは、キャリアの初期には、様々な役を歌った、つまり、劇的な役と同様に抒情的な役もたくさん歌ったが、1976年から先はワーグナー専門になってきた。こういう道をとるようになったのは、好み、需要、そして、生まれつきの才能によっていることは疑いようがない。ホフマンは他の作曲家も好きだし、他の様々な役、主として、カラフ(プッチーニ、トゥーランドット)、シェニエ(ジョルダーノ、アンドレア・シェニエ)、オテロ(ヴェルディ、オテロ)といったイタリアの劇的な役で冒険してみたい気持ちもあると発言してはいるが、やはりワーグナーの英雄役が好きなのは間違いない。ワーグナーのすばらしい音楽は単なる音を超えて、一人一人が内容を追求するように作られている。ワーグナーは特殊な歌手を要求する。英雄、騎士、理想主義者等々、ワーグナーの役柄は、歌手にとことん関わることを要求する。ワーグナーの魅力を、ホフマンはこう説明している。
   ホフマンの声はマリオ・デル・モナコが賞賛したように、イタリア的な性質を有していることは明らかで、彼がこういうレパートリーをめったに歌わないのは、じらされている気持ちがするが、彼がレパートリーを制限していることは、オペラ歌手の中でもめったにないほどのレベルで役を完成する機会を与えている。ほとんどが今日のワーグナー上演の重要指標である仕事によって、彼独自の人物描写を深め、磨き上げることを可能にした。
   ホフマンはオペラを演劇と考えて、接するがゆえに、そして、音楽と歌詞を同等の真剣さで表現するがゆえに、フリードリヒ、シェロー、ポネル、クプファー、シェンク、ヴォルフガング・ワーグナーなどを含む、今日の多くの卓越したオペラ演出家たちに好まれている。ホフマンは、コロ同様、リハーサルの過程で、歌手と協力しようと努力をする演出家を好む。歌手は、ある役を創り上げるよう求められており、歌手はそうする責任があるからだ。そして、彼は常に模範的な共演者であるけれど、役の性格づけや演技のスタイルが合わないと思われる演出(例えば、1983年バイロイト音楽祭のピーター・ホール演出のニーベルンクの指環)を拒否する姿勢を崩さない。ホフマンは先見性があって、挑戦しがいのある演出を好む。そして、歌うことは、身体と精神の両方で関わる活動だと考えるがゆえに、音楽を写実的で大胆な舞台劇と結びつけるのを歓迎する。私にとって、芸術的に歌うということは、正しい音を出すことではない。これは当たり前の前提であって、声によって感情を表現することのほうがむしろ重要であるということだ。
   彼は、歌唱と演技の融合を重視するが、これは、批評家たちは折に触れて、そういう批判しているが、歌唱技術を軽視するということではない。つまり、その意味するところは、要するに、この両者を分離することはできないということなのだ。今日において、歌手は舞台のしみみたいにつったって、ただ歌うなどということはできないのだ。彼が声楽の基本を重視し、マスターしていることは、彼の芸術家としての手腕を見れば一目瞭然である。歌唱技術に関する彼の考えはもの凄く規律正しいものであり、健康な声を維持するために必要な身体的持久力と体力調整について、陸上競技にたとえて説明している。
   スポーツで学んだことだが、肝心のときに適切であるべきだと彼は主張する。つまり、リラックスした状態で歌うには、スポーツの場合同様、力が必要だということだ。彼はこう付け加える。しかし、歌うためには、体力だけではだめで、内面的にもよく準備していなければならない。
   ホフマンにとって、テクニックとは抽象概念ではない。エミー・ザイバーリッヒは、彼に最初に教えたとき、気がついたことをこう語っている。
   彼は若くて、活動的。声があることだけにこだわっている種類でもなく、ただ機械的に演奏したがる種類でもない。彼はそれ以上のものを求めています。オペラに自分なりの何かをもたらしたいと思っているのです。
    彼は音楽劇への有機的アプローチを重視している。私は歌う機械でないということをはっきりさせたい。私にとって音楽の目的は感情、考えうる限りの種類の感情を解放することだ。彼は歌うことは、生きることと分離できないと主張する。声はその人間の経験する能力を映す鏡だというわけだ。彼は、この職業の非常に抽象的でわかりにくい側面について度々語っている。彼は演じるということを、色彩豊かなイメージで説明する。曰く、アドレナリンを待つ、あるいは、喜びをもって仕事に行く、それからまた、振動があまりにも強烈に自分に帰ってくると、私はそれを身体で感じる、とか、最高の幸福感を観客に共有してもらいたい等々。ホフマンにとって、歌うことは、あらゆる障害を突き抜ける双方向的な体験のうちに、音によって魂に火をつけ、普遍的な理解に至る橋を架けることだ。彼にとって音楽は神秘的な至上の力、情熱と自己認識と共に行使される力、絶対不可欠で、魅惑的で、救いなのだ。音楽は興奮剤だと彼は断言する。麻薬というなら、オペラこそ麻薬だ。と、彼は大胆にも言う。ホフマンにとって歌うことは、未知のものを探ること、隠された心理を探究すること、そして、一人一人の真実を外在化して普遍的な形にすることなのだ。賛成する人は少ないことを認めつつ、ホフマンは、声は性欲を映す鏡だ。オルフェウスは、その声を力に変えたと主張する。
   ホフマンにとって、オルフェウスは好みの典型だ。彼は、神話の世界の祖先である彼と、大胆さ、勇敢さ、人生を肯定する官能的で精神的な音楽を作る喜び、そして、その芸術で他者を深く感動させる特別の才能を共有している。
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