SSブログ

14章 ペーター・ホフマン -3/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

  ホフマンはまた、ドイツの音楽バラエティ番組 Musik ist Trumpfに出演した。ヨーロッパのテレビ局と、ハンサムで素晴らしい声のテノールとの蜜月のはじまりだった。オペラでは1979年はワルキューレ、ラインの黄金、パルジファルとローエングリンの年となった。ローエングリンでは1979年12月にウィーンでのデビューを飾った。その年の夏にはすでにゲッツ・フリードリヒ演出のバイロイトで輝くばかりに美しい白鳥騎士を創り上げていた。オルフェウス誌はこのローエングリンについて ペーター・ホフマンは初日から理想のローエングリンであった と書いた。この演出がやがて1981年にテレビ用に録画された時には、彼はその演技に対してフランスの映像の賞であるバンビ賞を受賞した。ホフマンはまた、新しい役柄であるバッカスR.シュトラウス:ナクソスのアリアドネ)にも1979年10月にハンブルクで取り組んだ。

 桁外れの決定的な成功は、ホフマンに経済的な報酬をもたらした。1979年夏には、牧歌的な、16世紀の狩猟用山荘と地所を購入した。シェーンロイト城はバイロイトの近郊にあり、修復後は、彼の献身的なマネージャーとなった弟のフリッツ氏と一緒にそこへ引っ越した。兄弟はオペラの予定を組み、もっと驚くべきことにはロックへの冒険をも計画していた。

 1980年1月24日、ホフマンはメトロポリタン歌劇場にローエングリンとしてデビューを果たした。このエファーディングのプロダクションは、既にコロとイェルザレムがデビューの時に使用したものと同じである。ニューヨークタイムズのドナール・ヘナハンは、彼のいつもながらの紋切り型の紹介文を書いた。

 ホフマン氏は理想的なローエングリンが持つべき声よりも軽い声だが、素晴らしいローエングリンを演じた。彼の新鮮な声は、決して粗くならずに容易に大きなオペラハウス中に届いたし、別れの挨拶(グラール語り)まで疲れを見せなかった。彼は細部まで賞賛に値する劇的演唱を繰り広げた。ホフマン氏は、演劇的なやり方を心得ていた。

 ホフマンはニューヨークのオペラハウスの卓越したヘルデンテノールとなり、人気者になった。

 この年のいくつかの他の重大なプロダクションを強調しておこう。ウィーンでは彼はフロレスタン(ベートーベン:フィデリオ)を、非常に感情豊かに歌った。ザルツブルグ復活祭では、カラヤンの指揮の下、パルジファルを歌い、録音した。1980年6月には、コヴェントガーデンに招かれ、前衛演出の旗手であるテリー・ハンズのプロダクションで 純粋な愚か者パルジファル を演じた。批評家は、彼のパルジファルを喜びと呼び、彼を将来最も有望なヘルデンテノールであると位置づけた。バイロイトでは、シェローの最終年度のジークムントを演じ、彼の破壊的な演技歌唱が後世の為に録画された。批評はこのテノールの肖像を記念碑的に記録し続けた。彼は最高水準の歌唱を提供し、それは限られた空間での、思わず息を呑むような演技を伴っていた。

ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会) (Wagner : Tristan und Isolde / Leonard Bernstein | Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks) [Blu-ray] [Live] [輸入盤] [日本語帯・解説付] 1981年、ホフマンは難しい役柄であるトリスタンに、初めて挑戦した。レナード・バーンスタイン指揮の下、多角的演奏会形式であったバーンスタイン指揮での演奏に接した結果、ぜひとも全幕を普通の舞台でホフマンを見たいという強烈な熱意を目覚めさせた、マルチビジョンコンサート形式であった。

 1月の始めにハンブルクでローエングリンを歌い、バイロイトでは、ローエングリンを録音した。その年のハンブルクでの契約は、彼にとって公私共に重要なものであった。ハンブルク歌劇場のアンサンブルメンバーの中に、ウエストサイド物語のマリア役として、アメリカ人の若いソプラノ歌手、デボラ・サッソンがいた。ホフマンはバーンスタインのこのオペラを見て、そのヒロインに恋をした。デボラの言によると彼は、心のこもった言葉でいっぱいの素敵な手紙を書いたが、彼女はまだ指揮者である夫と離婚してなかったので、返事をしなかった。二人が真に出会い、愛を確かめあうまでには、おおかた一年の歳月を要した。二人が、マスコミにはじめて目撃されたのは、パリのガルニエ宮でのローエングリンのオープニングの時だった。この頃からデボラ・サッソンは彼の生活のあらゆる面で、重要な役を演じるようになった。

 その年彼は、モスクワボリジョイ劇場で、ハンブルク州立歌劇場の一員としてローエングリンを歌うという、珍しい栄誉を引き受けた。そして、バイロイトではゲッツ・フリードリヒとジェームス・レヴァインの百年祭記念プロダクションにあたるパルジファルを演じた。かつてパルジファルにおいて、このようにすばらしい喝采を受けた歌手は、誰もいなかった。北バイエルン・クリーア誌のエーリッヒ・ラップルは、極めて肯定的にまとめた。

 ぺーター・ホフマンは、夢のパルジファルである。彼の声と役柄の精密な掘り下げ方は素晴らしい!(声に)陰影つまりニュアンスをもたせる才能、及び、発声をコントロールすることよって、一息の中で、フォルテからピアニッシモまで、声を落とすことができる。

 しかし1982年は、演奏を完璧にするためだけに費やしたのではなかった。彼は、危険をおかし、成功した。つまり、グルックのオルフェオとエウリディーチェの、珍しいヘルデンテノール版を録音した。

また、 カメラのクローズアップテストにすばらしい印象を与えて通った結果、ぴったりのキャスティングとして、リチャード・バートン主演の映画ワーグナーで、シュノール・フォン・カロルスフェルト役を演じた。

 彼のための特別テレビ番組リングを巡るロックの録画撮りも始まった。これは1983年に収録が終了し、放送された。それから1982年11月21日、ZDFはホフマンの夢という、彼自身が台本を書き、デボラ・サッソンと一緒に司会をする、一時間の特別番組を放送した。

 ホフマンの夢は、放送と同時に大きな論争を引き起こした。理由は、この番組はロックとオペラを意識的に並列し、奇抜で独創的な音楽劇の混成として作られたものだったからである。批評家の大げさな不評に対して、一般の人々は熱狂的に支持した。放送は単発ものだったが、番組批評の投稿をある地方紙が載せたため、二回目の放送を求める声が大きかった。そのため、ZDFは40分編成に変えて再放送するように、予定を組んだ。

 ホフマンの夢は、彼のキャリアの中で、いくつかの理由で分岐点となった。一般の人々にとっては、ワルキューレ朝日のあたるThe House of The Rising Sun家の両方において、音楽的妥当性を確信させたロック歌手ホフマンに近づく最初の機会となった。放送局は、彼が長い間夢見ていた最高のレコードである、初めてのポップスレコードロック・クラシックスを同時に発表した。わずかな期間で、アルバムチャートに載り、それが15ヶ月間(5週間連続で第一位!)続いた。最終的には、このアルバムはプラチナディスクとなり、120万枚以上の売り上げがあり、彼はこの年のポップス歌手のタイトルを手にした。ホフマンにとって、テレビのプロジェクトは、今や彼の婚約者であるデボラ・サッソンとの生産的な音楽的共同活動を始めることでもあり、多少婉曲な表現をすれば、二人の関係の深さと情熱を表していた。ホフマンの夢はロマンチストで繊細なテノールの恋の成就で大団円を迎えた。すなわち、アンネカトリンとの、友好的な離婚の確定後、翌年の1983年8月23日、シェーンロイトで、デボラ・サッソンと結婚したとき、ホフマンは幸せなことに、おとぎ話を、彼個人の現実に変えたのだ。

 1983年の初め、ホフマンは、イタリアの聴衆の心を奪った。2月には、ワーグナー没後100年(ワーグナーはこの街で亡くなった)を記念した、ヴェニチアのフェニーチェ歌劇場での『パルジファル』、4月14日にはローエングリンで、スカラ座へのデビューを果たした。イタリア人は、ワーグナーには特別な愛情を持ち続けており、彼らはホフマンのすばらしく説得力のある、現代的な解釈に、すぐに心を打たれた。(最近のトリノでのワルキューレで、あるイタリア人の批評家がこんにち、[ペーター・ホフマン]は大変に卓越した、ワーグナーテノールであると書いた)他に、この年での目立った業績には、2月にゲッツ・フリードリヒの演出で行われた、ベルリンでの堂に入ったフィデリオ、アメリカの聴衆のために、ジークムント役を練り直した、ニコラウス・レーンホフ初演の、サンフランシスコでの『リング』、そしてバイロイトにはパルジファルで戻ったこと等が含まれた。彼は同様に、スタジオ録音にも積極的で、ワーグナーのアリアを録音し、2つのイタリアオペラでのデュエットで、彼の妻はクラシックの分野でのデビューを果たした。彼はまた、日常的な思い出を集めた、マリールイーズ・ミュラー著歌うことは、飛ぶことのようだで、彼女のインタビューに答えて、語った。さらに、彼は熱心に、彼のロック歌手としてのキャリアを追求し続けた。

 1984年4月25日、彼はドイツ中を周遊する、初の大掛かりなロックコンサートに乗り出した。これは彼がポピュラー音楽を演奏し、独自の創作であるロックカンタータ、アイボリーマン(録音したペーター・ホフマン2も同様)—これは、平和と友愛のメッセージが強く表現された、デボラ・サッソンの詩と、ローランド・ヘックーゲルト・ケートの作曲の初演であった。コンサート会場で、ロック歌手としてのホフマンへの反応は、ビックリするほど好意的であった。今、その時のことを、彼はさらっとユーモアを交えて回想する:

 最初、私たちがこれらのコンサートを始めたとき、聴衆はイブニングドレスや、タキシードを着て、聴きに来ていた。彼らは私が、オペラのアリアを歌うと思っていたのだ・・そうしたらこれだ!歌が始まると、彼らは立ち上がって、ドアの向こうへ消えていった!

 しかし、様々な種類の人々から成る大多数の人々は、このように軽音楽とクラシック音楽との境界線をこえて、2つの音楽の世界を彷徨うことに対して賛成の意を表す為に、留まった。ホフマンは、自分自身の芸域が広がっていくことを嬉しく思った。ロックツアーを終えると、サンフランシスコで、彼としては珍しいオペレッタのレパートリーであるこうもりのアイゼンシュタイン(彼の妻がアデーレとして、一緒に仕事をするよい機会であった)を演じ、それから全く違った環境の中で、バイロイトのパルジファルに没頭した。彼の初めてのシュトルツィングは、1984年12月初頭にチューリッヒにて予定されていたが、リハーサル中の事故で、足にギブスをしたので、その時点で彼のデビューは遅くなった。彼はもう一度、1985年2月にメトでシュトルツィングを演じ、またその冬にはワルキューレ1幕の演奏会形式録音で、ニューヨークフィルハーモニーへデビューした。それから、デボラ・サッソンと一緒に6月のサンフランシスコのリングへ戻った。彼女はラインの乙女を歌った。ホフマンは、ジークムントをこの全サイクルで繰り返し歌った。そしてまた2人はバイロイトへ戻り、パルジファルを演じた。(サッソンは花の乙女として)フィリップスがこのプロダクションのライブ録音をした。2人の仕事上の共同作業によって、2人の親密度はますます増し、サッソンの妹・ジャッキーの死の悲劇をも乗り切った。そして、2人一緒の録音の一環として、名高いバーンスタイン・オン・ブロードウェイを発表した。その年の終わりに、彼は意欲的に新しく編み出したロック音楽・全て彼の母国語で新しく作った俺達の時代 unsre Zeitを発売した。

 ロック・コンサート開催が著しく目立つようになったのが原因で、一部のマスコミ関係者は離れていった。その中には恐らく、ニューヨークタイムズ社のドナルド・へナハン氏も含まれているだろう。彼はホフマンの、12月20日のメトでのローエングリン復帰に対し、声の疲労について、辛辣な批評で応えた。ペーター・ホフマンは、三幕では、ぼろぼろの声でとりあえずなんとかおさめた・・と、彼は書いた。しかし、一般のニューヨークの人々や、独立系のマスコミは、ホフマンの白鳥騎士としての高潔さを、引き続き褒め称えた。(彼は、こんにちのローエングリン歌手のうちで、一、二を争う主導的歌手という地位を、確かなものにした)1986年1月のメトでの公演は、テレビ用に録画された。

 メトでのローエングリンとパルジファルに挟まれて、ドイツ20都市を周遊する大ロックツアーは、2月に始まった。彼はカリスマ的な魅力と、信じられないほどのエネルギーで、観客を虜にした、とライン・ネッカー新聞社は彼のコンサートの様子を描写した。夏には大切な舞台デビューがあった。バイロイトで、ダニエル・バレンボイム指揮、ジャン・ピエール・ポネル演出の下、トリスタンを演じた。予想されたようにホフマンは、演劇的にも圧倒的で、かつ声楽的にも強い印象を与え、この殺人的な大役に対する、際立った解釈者であることを立証した。

 彼は、一幕では言葉をはっきりと打ち立て、説得力をもたせることに比重を置き、二幕では『愛の二重唱』ですばらしく、熱く、情熱的に美しく歌った。彼はまた、三幕の異様な感情の高まりをも、充分に余裕をもっていた。このように、彼がこの役にピタリとはまったことは言うまでもなく明らかである。彼の舞台は説得力があり、深い感動を与える。

 1986年9月、ホフマンはメトのオープニングガラコンサートと、新演出のワルキューレのためにニューヨークへ戻った。敵意むき出しの権威主義的なマスコミに迎えられたが、それにもかかわらずアンドリュー・ポーター、ビル・ザカリアサン、ウィリアム・ウェルズ(その他大勢)の賞賛の批評を勝ち取り、またニューヨークの聴衆の絶大な支持を得た。

 彼は1987年前半には、パルジファル、ジークムント、トリスタンに専念した。ウィーンではウィーンの人々が自分達の新しい座付き歌手である彼に喝采をあびせ、トリノでの彼のリング公演はお祭り騒ぎだった。
 バイロイトで、ホフマンは世界的水準のトリスタンを演じた、円熟して、深みを増しており、さらに、三幕では、すさまじい没入と、強烈さを示していた。このことは、ホフマンが初日をひどいインフルエンザと発熱を抱えて歌ったあと、彼の評判を落とそうとした、あのマスコミのスキャンダル・メーカーたちはうそつきだということを証明していた。ポピュラーの分野では、その年のツアーと新しいLP、彼の大きな成功の中心的なディスクであるロック・クラシック2の発売に先駆けて、1986年ツアーのライブビデオを発売した。これは、10週間、ヨーロッパ24都市を周遊し、東ドイツで始まり、12月のハンブルクにて、締めくくった、総公演42のツアーである。その年の録音は、年の瀬に、ホリデーソング、魅力的なクリスマス音楽を、デボラ・サッソンと一緒にアメリカで発表した。

 1988年、ホフマンはオペラに専念した。これにはメトロポリタン歌劇場のリングジークフリートで、ジークフリートとしてデビューするという予定も含まれていた。このデビューは大いに待たれていたものである。不運なことに、ちょうど「ジークフリート」の初日の2月12日を前にして、テノールは酷い気管支炎にかかり、この仕事は延期せざるをえなくなった。同時に、神々の黄昏のジークフリート・デビューは「ジークフリート」のあとにするのがベストであるという慎重な決断がなされた。
 その後、一連のヨーロッパ公演にゲスト出演した。4月2日、ウィーンでの「パルジファル」は17回のカーテンコールを受けた。ボンでの一連のシュトルツィング(マイスタージンガー)では徹夜でチケットを求める人の列ができた。六月、ジエノヴァでジークムントを数回、ホフマンは、(三幕で)靴屋による詩作指導とその後の優勝の歌では、最高音でさえうっとりするほど魅惑的だった。声にはつややかな光沢の輝きがあり、超人的な持久力を備えていると批評家が書いたマンハイムでのシュトルツィング。

 バイロイト・デビューから12年後、8回の公演で、クプファー演出、バレンボイム指揮の新演出のリングのジークムント、シュトルツィング、パルジファルの、三つの主要な役を歌うという、ヴォルフガング・ヴィントガッセン時代以来のめったにない名誉を与えられた。ドイツのある新聞の表現によれば、彼は、バイロイトの無冠の王であり、彼にとって輝かしいシーズンとなった。シュトルツィングとしては、絶好調の歌で、ヴォルフガング・ワーグナー演出でバイロイトの喜びにあふれた祝祭を盛り上げた。一方、「リング」の新演出は、ホフマンに、1976年彼をバイロイトにデビューさせた同じ役で、記念碑的成功をもたらした。ジークムントの衝撃的に人を引き付ける描写が賞賛され、その声の持続力の強さが証明された。ヴォルフガング・サンドナーは、もっとも重要なことは、安定した輝かしいテノールのペーター・ホフマンが存在したということだと、書いた。ニューヨークタイムズのジョン・ロックウェルでさえ、ホフマンはこの役を巧みにこなしたとしぶしぶ認めざるを得なかった。それでも、彼は、但し、緻密ではなかったと評したが、ロックウェルに賛同した新聞はほとんどなかった。この放送は、ワルキューレを何百回も歌ったホフマンは、それでもまだジークムントに新たな微妙な違いを表現することができるのだということ、この役に対する彼自身の何ものにも侵されないアイデンティティーを犠牲にすることなくクプファーの悲観的な見方を取り入れることができるということを明らかにしていた。

 その年はトリノでのリング、バルセロナでの一連のパルジファル、ベルリンのリングの再演のジークムント、11月6日の公演が特にすばらしかったマンハイムのシュトルツィングの再演、ORFがその年のはじめに録画したウィーンのワルキューレの再演、新しいポピュラー・アルバム モニュメント の発売で終った。トリノでのジークムントについて、La Stampa は、彼のこの役と、ワーグナーのレパートリー全般対する自信と、特に役にぴったりの彼の身体的外見があいまって、彼が注目にあたいするジークムントを創造することを可能にしている と書いた。

 1989年、重要な予定が待っている。その一部を挙げると、ウィーンで、ジークムントと魔弾の射手のマックスの再演、再びバイロイトでクプファー演出のジークムント、ワシントンでフリードリヒのリングそれから、ロック・ツァー。

 44歳の今、極めて独特のキャリアの半ばにあってちょっと立ち止まってみると、ペーター・ホフマンの芸術の進む道は多様である。もちろん、ワーグナーがある。新演出ともしかしたら、リエンチも含む、タンホイザー、ジークフリートといった新しい役を歌う。それに、イタリア・オペラのドラマティック・テノールの役柄(力強いホフマン、カラフ、シェニエ、カヴァラドッシ、そして、当然のことながら、オテロ)に取り組む可能性もある。それから、オペラ以外にも、もっと多様なチャンスがある。つまり、ミュージカル(例えば、ウェスト サイド ストーリーで説得力満点のトニー、キャンディード、あるいは、ブリガドゥーン( Brigadoon)のトミー)、ロックもたくさん(CBSとさらに5年の契約を結んでいるし、1989年には大ツァーを計画している)、テレビ、そして映画だってあり得る。そして、舞台での仕事をさらに先にすすめれば、将来、新たな役割も見えてくる。新しいアイデアがない限り、やろうとは思わないと言うことではあるが、オペラ演出家としてのホフマンも可能性があるだろう。カウボーイのホフマンもありかもしれない(馬を飼育するという夢を持っているということだし、シェーンロイトの乗馬クラブの会長になっている。それに、ウェスタン・ライディング大会で、成功をおさめた) 彼は、型にはまったヘルデンテノールであることに抵抗を示したように、こういういろいろな可能性に対しては、積極的な興味と芸術性を示している。才能豊かな歌手として、天賦の才能に恵まれた多才な演技者として、その立場を確立したペーター・ホフマンの将来は、様々な可能性に満ちており、選択の自由がある。彼が賢明な選択をするのは、間違いない。
*****************************************************


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。