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14章 ペーター・ホフマン -2/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター

  1972年、ホフマンは、リューベックでついにリリックテノールとして2年間の最初の契約を結び、家族もそこへ引越し、タミーノ(魔笛として印象的なデビューを果たした。リューベックでの短い滞在の中で、彼はアイーダの伝令(伝記には、こういう小さい役の経験はないとあります。誤読でなければ・・・)からドン・ホセ、こうもりのアルフレード、ファウスト、イドメネオポッペアの戴冠のネロなどの大小さまざまな役を歌った。また、客演もこなした。バーゼルでのヴォツェックの鼓手長、ヴッパータールやローエンでのジークムント(ワルキューレ)、これは彼の初めての大きなワーグナー役での成功だった。ホフマンのキャリアにおける地方でのこの時期は、レパートリーを築き、声の多様な可能性を訓練し、実際の舞台経験を積むうえで、非常に役立った。

 リューベックでデビューする前は、プロとしては一度だけ1972年に、カールスルーエ州立劇場のノアの大洪水のプロダクションでセム役を演じただけであった。舞台に立った最初の年は、自力で舞台上の存在感と演技力を生み出すための実験場であった。彼は、この存在感と演技力によって高く評価されるに至ったのである。彼はリューベック専属時代の価値を認めながらも、リューベック時代が彼に実際的な経験を積ませてくれた以上に、田舎とは永遠におさらばして、成功しようという彼の決心を強めさせたとも断言している。

 ワーグナーの諸役でのいくつかの客演が、この夢を現実へと導いた。1974年、ホフマンはヴッパータールでのジークムントで、大いに注目され、そして再び、1975年2月25日、ヴィスバーデンでヴェルズングの双児の一方として大評判を呼んだが、これらは、ロルフ・リーバーマン(当時のパリの監督)やヴォルフガング・ワーグナーのバイロイトのスカウトたちが証人になっている。そのわずか数日前の1975年2月22日に、彼はドルトムントのローゲ(ラインの黄金で、鋭い演技力と、力のこもった歌唱により、賞賛された。1974年9月9日、ヴッパータールでのワルキューレの後、朝刊には夜半にヴォルフガング・ヴィントガッセンが死亡したという、悲劇のニュースが報じられていた。同時に、見出しにはヴィントガッセンの後継者として、正にペーター・ホフマンが掲載された。こうして、ホフマンは間もなくシュツットガルトと、5年間の重要な契約を結び、来たる1976年のシーズンにバイロイトへ招かれた。

 1976年3月、彼は今まで以上の注目を集めた、最初のシーズンに、ゲッツ・フリードリヒ演出のパルジファルを歌い、家族をシュツットガルトに呼び寄せた。1975〜76年のシーズンには、シング作の戯曲「西国の伊達男」を基にしたという、ギーゼルヘル・クレーベ作曲のDer Wahrer Held 真の勇者という(1975年10月・ヴッパータール)新作オペラのタイトルロール、魔弾の射手や、トゥールーズやボルドーでのワルキューレ、ローエンのラインの黄金などを歌い、歌唱力とドラマティックな演技力で、再び素晴らしい注目を集めた。1976年の早春、数週間の間に、三つの大掛かりな、異なるプロダクションのパルジファルのオープニングを務めた。マスコミは彼を「西独のパルジファル」と書きたてた。つまり、その年の春には、シュツットガルトでのフリードリヒのプロダクションの他、ヴッパータールとハンブルクで成功を収め、彼の三つの微妙に異なるコンセプトを伝える能力、そして彼の声と容姿で、賞賛を浴びた。:彼のワーグナーテノールとしてのすばらしいキャリアは、もはや止められない と、ハンブルカーアーベントブラット紙は熱狂的に書きたてた。

 フリードリヒは、シュツットガルトでのパルジファルの結果に大いに満足し、ホフマンをバイロイトでの彼の演出に使いたいと思った。

 こうしてホフマンは、シェローのジークムント(1976年7月25日)とフリードリヒ(ヴォルフガング・ワーグナー演出の間違いだと思います)のパルジファル(1976年7月31日)の両方で、音楽祭の目玉としてデビューシーズンを迎えた。シェローのリングはもの凄い反響があった。残念なことに、ずっと音楽を愛し続けたホフマンの父マックス・ペーターは1974年に他界しており、息子が国際的なスターになったことを知ることはできなかったが、ペーターの初期の頃の成功を分かち合ったことで、大変満足していた。

 スキャンダルはバイロイトの芸術的風土の根幹のように見えるが、シェローリングも、当初は、同様の一大スキャンダルとなった。後には騒動は静まり、この演出は1980年の最終シーズンには、音楽祭史上最も長いカーテンコールを達成した。

 ホフマンにとって、ビジョンを持った演出家と一緒に仕事をし、既に卓越していた性格表現を完全にすることは、変容の大きなチャンスだった。更に、シェローのリングは、オペラ演出に対する彼の考え方を完全に変え、また、それは、監督との対話による、まさに協力的創造活動としてのオペラにおける演技の可能性を彼に提示した。そして、ホフマン自身の歌と演技が既に目指していた方向性を具体化させた。それは、オペラの現代化 すなわち、豊かな感情表現と、微妙なニュアンスを有する、完全に写実的な演劇を目指すということである。

 シェローは私に、自分が今までに演じてきたなかで最高のジークムントを創り出すことを可能にしたと彼は1983年に明言している。

 しかしリハーサルの課程は、いつも完全に合意のもとで進んだわけではなかったし、シェローの要求は、対価=犠牲を支払わずに済むものでもなかった。

 私たちは何という体力的に無謀なことをしたのだろうか。2日後には、私たちの膝は激しい動きで傷だらけになった。そのまた2日後には立っているのがやっとなくらい、傷だらけになった。私たちは、正にゴールキーパーがつけるような膝あてをつけて、再び激しく動いた。

と、ホフマンは語っている。そして、シェローのやり方の持つ根源的な力について次のように力説した。

 シェローは、すべての瞬間における真実性を獲得することを大前提として事にあたったと思う。彼は、自分自身と歌手たちに力の極限まで出し切らせた。彼の要求が少なければ、少ないほど、かえって、私たちは虚栄心を刺激された。私たちは内心、求められる以上のことを、いつもしていた。

 ホフマンはシェロー演出を巡る論争からは無傷だった。彼のジークムントとして、そしてその2日後の初めてのバイロイトでのパルジファル(音楽祭史上最も若いテノール歌手)でのデビューは、どちらも熱狂的に歓迎された。世界の主だったオペラハウスが、先を争って彼の出演を求めた。ジークムントとしてのデビューは1976年コヴェントガーデンとパリ・オペラ座、1977年にはサンフランシスコでの演奏会形式のワルキューレが初めてのアメリカ公演を飾った。舞台デビュー後わずか4年で、ホフマンは国際的スタートしての名声を獲得した。

 彼のキャリアの進行は、同時に彼の私生活にいくつかの変化をもたらした。1976年夏のバイロイトでの大成功のすぐ後、彼とアンネカトリンは静かに、そして穏やかに別れた。ホフマンがバイロイトへ引っ越した後も、彼女はシュツットガルトに残り、2人の息子達を寄宿学校へ送り出した。13年間の結婚生活は、育児、軍隊生活、オペラ歌手になる為に音楽の勉強を完璧なものにすることなど、緊張との闘いの連続だった。ホフマンが精力的にキャリアへのチャンスを追求している間、彼女は倹約し、もがきながら数年間、子供たちと家に残っていた。この状況について、記者達から質問を受けたとき、彼女は穏やかに答えた。どんな人でも私の夫のように、一躍脚光をあび、名声を得れば、特殊な生活にならざるを得ないでしょう。 しかし、彼女もまた、自分の目標を持っていた。二人の間では、彼女こそが最初に歌手への憧れを抱いていたのだ。数年後、アンネカトリンは西シュツットガルト劇場のキャバレーの一員として、自分の夢を実現した。ペーターは、この結婚が静かに終焉を迎えたことに、ずっと心の痛みを感じ続けるだろう。

 私はいつも彼女に対して、悪いことをしていると思いながら眠った。私は勉強しなければならなかったし、客演のために家を離れて、歌わなければならなかった。そして彼女は、とりわけ舞台に立ちたいと望んでいた彼女は、子供たちと一緒に家に居たのだった。

 バイロイトの二年目のリハーサルが始まる数日前の1977年6月11日、ホフマンの怒濤の如きキャリアは、オートバイの大事故で、突然、そして、ほぼ致命的に、中断された。一台のパトカーが一方通行の道を逆送してきて、彼のオートバイに衝突した。ホフマンは左足に複雑骨折を被った。治療には8ヶ月以上かかり、脚の損傷を治すために10回もの手術を受けた。この事故の時期、つまり<タイミング>がバイロイトデビューの前だったら、はるかに悲劇的だっただろうとホフマンは述べている。が、それでも、試練は長く苦痛なものだった。それ(このきびしい試練)を彼は信じられないほどの意志力と肉体的勇気だけで乗り越えた。後に医者の一人が、彼の奇跡に近い回復は、(人は)自分の限界を極める覚悟があれば、目標を達成できるものだという事実によるところが大きいのだろうと述べた。

 ホフマンはまだ足に器具をつけていて、彼はその器具を後退ギアとからかうように呼んでいたのだが、1978年3月13日、復帰凱旋舞台では、仕事に対する愛が(事故の)以前に増して強まっていた。彼はコヴェントガーデンで魔弾の射手を歌ったが、その時は狼谷へ飛び降りるパントマイムのスタントが必要だった。彼の舞台は、歌と演技の両方で熱烈な賞賛を勝ち取り、ロンドンの批評家は、彼の舞台復帰をロンドンで迎えることができたのは名誉なことだと言った。6月にはハンブルクでのローエングリンが続き、その年の夏にはジークムントとパルジファルとしてバイロイトに見事に復帰した。オルフェウス誌は、彼が歴史的な大喝采を受け、それは全く彼に相応しいものだったと書いた。ホフマンはさらに新たなエネルギーと情熱をこめて役を演じた。彼の演技における写実主義は、ワルキューレでの登場場面では、見ていた医者たちをはらはらさせた。彼が強い印象を与える為、舞台で故意に転んだ時、みんな青くなったと彼の主治医は述べた。

 1978〜1979年には、ホフマンはレコード録音とテレビ放送に進出した。アラン・ロンバールとバークレイ・レコード社が1978年にタミーノ(魔笛として彼を起用した。1979年には、サー・ゲオルク・ショルティ指揮のフロレスタン(フィデリオを録音した。その時はレコーディングの間じゅう、気管支炎に悩まされ、コンサートの結果も彼にとっては完全に満足のいくものではなかった。
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