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14章 ペーター・ホフマン -1/16 [WE NEED A HERO 1989刊]

14章 おじいちゃんのオペラは死んだ:
ペーター・ホフマンと総合芸術の仕事

おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている。
ペーター・ホフマン :ワーグナーテノール そしてポップスター


  歌手は歌う機械ではないということをわかってもらいたい・・・
  私にとって、音楽の目的は、感情を解放することだ。
  感情とは、考えうる限りのあらゆる種類の感情である。
  心と魂を開く感覚である。
  声は、まさに、その人間の経験の豊かさを映す鏡である。

  自由落下の中で飛ぶこと、これが飛ぶということ、
  この、人間には本質的に不可能なことをすること。
  すなわち、地球の引力から完全に自由に、鳥のように超然としていることだ。
  何物にも束縛されない状態、そして、同時に、
  頭のてっぺんからつまさきまでコントロールされている状態。
  落ちて行くこと、飛ぶこと、完全な解放。
  歌うことも、うまくいった瞬間は、この体験と似ている、
                  ペーター・ホフマン 歌うことは、飛ぶこと


 おじいちゃんのオペラは死んだ;ペーター・ホフマンは生きている!

 詩的だが、頭でっかちに誇張されたこの新聞の決まり文句、それにもかかわらず、ヘルデンテノール界へのペーター・ホフマンの出現に関して、70年代の経験豊かなオペラファンは、発見の感覚を正確に捉える。英雄的に歌うことの大変動は新しい歌手世代によってもたらされたが、ペーター・ホフマン以上の、第一級の成功者はこれまでにいなかった。


 ペーター・ホフマン、ドイツ人の若い歌手、真のヘルデンテノールはバイロイト100年記念祭の発見であった・・・

 ペーター・ホフマンのジークムント・デビューによって、人々は陶酔感を味わった。
すらりとした若者、オペラ界のジェームス・ディーン、声を慎重に扱えば、80年代のジークフリートになれるだろう。

 その新人は名前をペーター・ホフマンと言い、彼はたった32歳である。彼の激しい、若さに溢れた跳躍、彼のバリトンの声質を備えた力強い声、そして彼の演技力の醸し出す存在感によって、ジークムント役が新たな注目を集めた。この印象的な歌う役者は、聴衆に熱狂的に歓迎された。
ここで、ドイツと、それ以外の国における1976年のバイロイトのセンセーショナルなワルキューレの初日についての寸評を読んでみよう。

   シェローのリングは、現代的なワーグナー演出の画期的な事件として注目された。ワーグナーの楽劇を、大胆に勢い良く、現代に生々しくよみがえらせた。そしてそれは、新しい歌手世代が、ただ単に移動して行く声の連続から、コミュニケーションが取れる言葉による歌へ、また大げさな記念碑的演劇から、映画的にと変容させ、国際的に高い評価を得たとして紹介された。これらの中で、ペーター・ホフマン以上に、強い印象を与えた者はいない。彼の声には本物のヘルデンテノールの音色と、それに加えて同時に斬新な美しさがバランスよくある。彼の演技は白熱して、ヘルデンテノール芸術を未来へと推進した。マリア・カラスがベル・カント・オペラの為に成したことを、ペーター・ホフマンは英雄歌唱の伝統の為にやった。エルケ・ブレーベス Elke Brevesの表現を引用すると、この非凡なテノールが刺激したことは音楽的にも、劇的にも価値が高いことを証明しており、彼が成し遂げたひとつの公演にとどまらず、広範囲で重要な大変革をもたらした。
 ペーター・ホフマンは、クラシック音楽とポピュラー音楽という、普遍的な音楽への興味に捧げられたそのキャリアにおいて、聴衆の楽しみに対する抑制や制限を消し去ることに関与し、聴き手の好みを拡大し、世代間ギャップを埋めるという形で、古くから追求されながら未だ完成されることのなかった総合芸術の最高の理想の姿を具現した。 
 150年のヘルデンテノールの伝統のなかで、音楽と劇の完全な融合が実現した。一人の批評家は英雄たちを創造したとき、ワーグナーは、ペーター・ホフマンの姿を思い描いていたに違いないと書いている。映画でワーグナーを演じたリチャード・バートンがホフマンについてリヒャルト・ワーグナーがホフマンを見たら、これこそが私の考えていた人物だと言うにちがいないと言ったように、ワーグナーが、ホフマンを、自分の理想が視覚的にも声楽的にも具現された姿だと思うだろうと容易に想像できる。

 1944年8月22日、戦争が最後の破局の時期を迎えていた頃、ペーター・ホフマンはマリエンバードで生まれた。 彼の両親は、このボヘミアの町の小さなドイツ人コミュニティーに属し、演劇愛好者だった。 ボヘミア出身の彼の母親である、インゲボルグ・ホフマンの実家は、旅回り芸人一座であり、彼女は少女時代を、この家族経営の一座で、芝居やオペレッタを演じながら過ごした。 戦後の貧窮の中で、ペーターの父親、マックス・ホフマンも劇場に関わらざるを得なかった。 家族写真の一枚に、敗戦直後の混乱期に安全な場所を求めて留まっていたダルムシュタット近郊の学校や会社でオペレッタなどを演じていたときの、白い薔薇というオペレッタの衣装を着た、両親の写真がある。 彼の母親は、パンの間に挟むわずかな肉の一切れを手にする為に働いた。 非ナチ化の初期の困難な時代の後、ホフマンの父親は彼の仕事を再開した。(父の実家は、香水工場経営者であった。)弟のフリッツは1946年(伝記には1948年とあります、この本は伝記を参照していますから、ミスタイプの可能性が高いと思います)に生まれ、既に家族の一員になっていた。そして、二人共、ダルムシュタットのゲオルグ・ビュヒナー校に通った。

 テノールにとって、スポーツが、学校時代、一番の関心事だった。彼自身の告白によれば、彼はその時学業では面白いと思えるものが見つからなかった。私は奥手だったのだと思う。 彼は、大人になってからは知識欲と、明確な探究心をもった熱心な読書家になった。学校と、地元のスポーツクラブでは、棒高跳び、ランニング、そして砲丸投げに秀でていた。彼はヘッセンの10種競技のユース・チャンピオンシップ・タイトルを数回勝ち取り、おしなべてオリンピック選手向きの人材だと考えられていた。
 しかし、早くから陸上競技に匹敵するほど好きだった別の物があった。音楽である。彼は、家庭で義務的にピアノのレッスンを受けたが、すぐに自分の音楽の好みがギターに向いていることがわかった。家族をがっかりさせたことに、彼はピアノのレッスンを止めた。それからギターを独習して、ちょっといんちきっぽかったが、友だちに教えることさえした。初めてのアコースティックギターを買うために、いくつかの新聞配達の仕事をした。すぐに彼と何人かの学校友達がロックバンドを作り、 再び親の反対を押し切って、 新しい音楽を演奏し、歌うことを学ぶ為に、全ての自由時間を費やした。このロックへの熱い思いは、ペーター・ホフマンの創造感覚を形成する力として残った。しかし他にも同じように子供時代の音楽的影響があった。かつてマックス・ペーターは指揮者になりたいと思っていて、彼もペーターの父方の祖父も熱烈なオペラ愛好家だった。マックス・ペーターのレコード蒐集は、彼の息子の小さい頃のクラシック嗜好を形成した:ヴェルディ、ビゼー、そして何よりもワーグナー。
 それに、彼の少年時代の恋人であり、最初の妻であるアンネカトリンの両親はオペラ歌手であった。彼らは義理の息子の才能を完全にクラシックの方向へ導こうと試み、彼にロックを演奏し歌うことを諦めさせ、本気で声楽の勉強をするように勧めていた。
 ポップス音楽に対するペーター・ホフマンの熱い思いを犠牲にするようにとの助言を彼は全く受け入れる気がなかったし、彼の青春時代と同じように後の人生においても、強い意志をもってロックを作り出すことに執着している。若い頃、それは創造的な願望を満たすための錨だった。彼が12歳の時の、両親の離婚の衝撃を切り抜ける為の助けになり、学校や、ますます窮屈になった家庭環境から離れて、個人的な楽しみを作り出す為の助けになった。家族間の対立は最高潮に高まった。インゲボルグ・ホフマンは、ペーターとわずか10歳程度しか離れていないウェーバー氏と再婚した。
 継父と継子の初期の対立は解消され、後には、お互いに相手を尊敬しあう暖かい関係を築くことになった。(今日では、ウェーバー氏はホフマンの地所や事務的な管理を手伝っている)しかしその時は、母親と義理の父親は、若いホフマンの、数学とフランス語の出来の悪さ、いわゆる反抗期に悩まされていたのであって、彼がロックに夢中になっているのが、特に困ることだと考えていたわけではなかった。1960年から1963年まで、テノールと彼の学校友達何人かで、アメリカンクラブを回るロックバンドを結成した。ホフマンはギターを弾き、リードヴォーカルとして歌った。そしてエルビスの物真似として、かなりの評判を得た。この時代に、彼の声に非凡な可能性があることを確信させる出来事があった。クラブのマイクが壊れて、ホフマンが声の力と質を全く落とさずに歌い続けていたとき、あとで仲間たちは、ホフマンはオペラティックな声を持っていると言った。
 高校の卒業試験のすぐ前に、ホフマンは学校を退学し、学校友達のアンネカトリンと結婚し、自分自身の家庭生活を始めるつもりだと告げたことによって、彼の母親と義理の父親を驚かせ、がっかりさせた。この決心に関する彼自身の回想をマリールイーズ・ミュラーに次のように語っている:
 いずれにせよ誰かが学校を途中で退学する時には、その人の人生に暗い部分を残すだろう。そして私にとっても、それはぽっかりと開いた穴だった。大きな口をあけたその穴を埋めるほどの創造的なことをしたいと思った・・・皆放蕩息子とか、彼の人生は台無しだと口々に言っている。しかし私自身は表面的にだけでなく、自信満々だった。
(ホフマンの自立心、独立心のに対する誇りは、彼の二人の息子の正式な高等教育に関しても似通った決心を支援させた)

 けれども、アンネカトリンとの結婚生活を始める前に、1962年ホフマンはドイツ軍に徴兵された。そこで彼は空挺部隊を選択した。それは挑戦と、体を鍛えることを意味していた。1963年についにアンネカトリンと結婚し、二人の息子、ペーターは1964年に、ヨハンネスは1965年に、生まれた。
 軍隊は、若いホフマンにとって極めて重要な経験だったことは明らかだった。およそ20年後に、そのころを振り返って語っている:

 それから私は自分自身で行動し、義務をこなすことができることを証明したかった。自分に差し出された軍隊を受け入れたときの気持ちは、心理学的には、きわめて単純に一番良い逃げ道であり拠り所であるという思いだった。
 彼は陸上競技への挑戦は強靭な肉体と精神の素晴らしい訓練になると思った:

 私にとって、それは冒険—政治的ではなく、肉体的な冒険だった。

 彼が軍隊で考えていたことは、自分の力でどこまでできるかということだけだった、加えて、長期間軍務についたことと、彼の基本的信条である非暴力との関わりについて説明している。
 
 当時は軍隊について深く考えなかった。それは、考えれば自分自身を葛藤に陥れる可能性があったからである。そういう葛藤は自分にとって何の役にもたたないということを無意識に感じていた。

 彼は家族に対する責任が経済的障害になることに気が付いた。しかし、歌手になる決心をしたとき、軍隊勤務を延長することでその機会を得た。何十年も前のスレザクのように、ホフマンは、音楽学校での勉強と、(ホフマンの場合は)家族を養う為に、軍隊の給料と後には退職金を使った。そして、彼はカールスルーエのエミー・ザイバーリッヒ教授の下で声楽を学んでいる7年間、空挺部隊員として所属し続けた。ザイバーリッヒ教授は、彼の熱心な教え子から、授業料を取らなかった。彼女は彼の勉強する為の、全てを焼き尽くすような情熱と、彼の強固な意志に動かされたのだった。およそ15年後、彼女は回想している:

 ペーター・ホフマンは全く魅力的な生徒でした。運動神経に優れ、若くて、信じられないくらい活動的で、でも同時にとてもロマンティックでした。それはすでに、彼の初めてのオーディションの時にわかりました。 目の前にいるのが(何もしないで、)ただ待っている奴じゃないってこと、やり遂げる男だってことは、すぐわかりました。 そういうことはわかるものです。

 彼が除隊通知を受け取り、カールスルーエ音楽大学で勉強を始めた1969年までの生活は、相当のエネルギーと献身を要求した。軍事演習、空挺部隊員としての厳しさと、若き父親、夫としての責任感の間で、ホフマンは彼の声を作り上げる為に、可能な限り、オペラの実演を見に行き、より多くのレパートリーを自分のものにしようとした。同様の勉強が3年間の音楽学校時代も続いた。その間もザイバーリッヒ夫人は彼の教師だった。

 多くのヘルデンテノール達同様に、ホフマンもバリトンとして勉強を始め、ジェス・トーマスとの運命的な出会いの後、彼の声にテノールとしての可能性があることを、まさに発見したのだった。1967年のあるレッスンの日、トーマスの先生でもあったザイバーリッヒ教授が急にトーマスがちょうどローエングリンをやっていたバイロイトへ車を出して欲しいと、ホフマンに頼んだ。彼女は憧れのテノールを前に感動しているホフマンをトーマスに紹介し、トーマスはすぐにこの歌手の卵に興味を持った。

 トーマスの回想によると、終演後ホフマンはトーマスの楽屋に、熱烈な賞賛と共に挨拶に訪れ、剣に触ってもいいかと尋ねた。トーマスはホフマンの訪問を延長させ、この若者が歌うのを聴いた。そして、その声にはテノールの特性があると助言した。ザイバーリッヒも当然同じ意見だった。彼女は声域の変更を成し遂げるべく教え子と共に慎重に事を進めており、それは、その変更が完成したときのホフマンの喜びによって、報われたのだった。
 ジェス・トーマスは、初めての出会いの時からホフマンの可能性を信じ(彼はバイロイトの秘書にこの若者はいつかここで私と共に歌うだろう・・と言った)親友として、よき相談相手としての関係を保った。ホフマンが金銭の苦労をしていた、音楽学校を終え、最初の契約を始めるまでの時期、トーマスはホフマン親子4人に、毎月送金した。

 トーマスは、自分が信じたことが報われるのを見るという喜びを得た。1972年、彼はウィーンの声楽コンクールの審査員として座っていた。他にはマックス・ローレンツ,エリザベート・シュヴァルツコップ、アントン・デルモータなどの著名人がいた。彼はペーター・ホフマンが創り出した、眩しいほどの印象に感銘を受けると同時に誇らしく思った。ホフマンはそのコンクールで優勝できなかったが、彼の名前は有名なエージェントや批評家に知れ渡った。オーディションの依頼が殺到し始めた。
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