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13章 ジークフリート・イェルザレム -4/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-4

   イェルザレムの主要な競争相手、コロとホフマンと同様、マスコミではイェルザレムのキャリアを巡って一定の論争があった。尤も、イェルザレムの場合は、彼の二人の仲間に比べてそれほどセンセーショナルではなかった。マスコミが異論を唱えた主な理由は(コロの場合と同様)イェルザレムの本来的に抒情的な声質にあった。
   事実、彼は真の意味でヘルデンテノールではなく、非常に好ましい抒情的なテノールである
、とハロルド・ローゼンタール Harold Rosenthal は評した。彼がローエングリンはおろか、ジークフリートにまでも需要があるという事実は、ジークフリート・イェルザレムがこのほとんど消滅寸前の声種の特質を備えているというよりは、むしろワーグナーの英雄的テノール不足を示すものであると考えるほうが妥当である。
   ロベルト・ヤコブソン Robert Jacobson は、彼のメト・デビュー後、このテノールの可能性に対する意見を述べた。
   今回デビューしたジークフリート・イェルザレムのこじんまりしたテノールと舞台上での存在感の欠如は核心的な欠陥だった。基本的に、彼の声は別種の抒情的な声であり、英雄的なレパートリーをやるために誇張されたものである。
   一方、英雄的テノールの芸術に対する抒情的アプローチを肯定的に受け入れる傾向の強い評者の場合は、もっと平衡感覚のある言葉でイェルザレムを評することになるだろう。例えば、
   彼は、軽く抒情的なテノール声の最良の姿を示した。ほとんど全音域を通して柔軟で、技術的に安定した声だった。クライマックスで非常にかすかな緊張の兆しが感じられたのみである。
   そして、マスコミには、1978年のローエングリンに対する、この騎士は真の、完璧なヘルデンテノールをいかに輝かせるべきかを知っているというミュンヘンの評者に賛意を示すものもあった。
   コロに対するように、評者たちは、イェルザレムの1978年ローエングリンをこの音楽が要求する声として「正当」であるという前提を認めるにやぶさかでなかった。そして、彼らは、懐疑的になっても、こじんまりとした軽い声が音楽的才能とスタミナ、優れた演劇的才能と結びつけばこの分野で成功できるはずだと確信していた。初期の主要な批評家であるハロルド・ローゼンタールのような人たちはイェルザレムの芸術が声が成熟すると共にますます魅力的になっていることに気がついた。彼のより重い役への参入に異議を唱えた人々でさえ、彼の知性、音楽的才能、あるいは参加度に疑問を呈する人はほとんどないだろう。実際、イェルザレムの芸術的事柄における、堅実さ、気遣い、知恵は、基本的にバランス感覚を備えた、穏健なマスコミを確保する結果となった。
   このテノールのマスコミや出版界に対する控えめな態度も、時にコロを悩ましたような出来事 contretempsを回避する助けになった。控えめなライフスタイルと歌唱に対する完璧な職業的態度に、器楽経験と声楽経験の結合によって深められた音楽的基盤が相まって、(楽器を演奏するように歌うと、かつて彼は言った)イェルザレムをまさに歌手の中の歌手となし、オペラ界を通じて大きな尊敬をもたらした。


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   ルネ・コロとジークフリート・イェルザレムの残したものについて語るのは、ある意味、時期尚早である。イェルザレムは40歳後半、コロは50歳代であり、二人ともまだ何年も歌えるし、新しいことに挑戦し、征服することは間違いない。だが、中間地点での評価であるにしても、この二人の歌手が英雄的歌唱の歴史の中に一定の位置を占めてきたことは明白である。
   両テノールとも、声楽的、演劇的、そして身体的な意味で、現代のヘルデンテノール理解を再定義するのに貢献した。二人の伝説的先駆者、ヴォルフガング・ヴィントガッセン同様、コロとイェルザレムは、大きな体から出る大きな声だけが、暗い響きを伴ってトランペットのように鳴り響くことができる声だけが、ヘルデンテノールのレパートリーに取り組めるのだという概念を変えるのに大いに貢献した。ヘルデンテノールの伝統に多くの種類の生来の声が存在しており、抒情性の強調やベルカント bel canto が伝統に対する反逆ではなく、むしろ、19世紀から20世紀初頭にかけてのシュノールやそのすぐ後の後継者たちのスタイルに戻る動きなのだということを、ヘルデンテノールの分野を見たがり、聴きたがる人々に明らかにして見せたのである。20世紀の声楽の歴史の文脈の中で、19世紀の価値観を追求しようとするユニークさは彼らの芸術に、過去にさかのぼりりつつ未来を指し示すという、ヤヌス的特有のイメージを付与している。
   スレザクの才能を彷彿とさせるコロの悠然としたのびやかな美しさ、輝かしい声、大きく広がる優雅さは、英雄的音楽作品で長い間無視されてきた美の表現を効果的にしている。イェルザレムの魅力的な音楽的才能と声楽的柔軟性も隠されてきた価値をスコアに復活させるよう促した。
   この二人の芸術家の多才さは、ヘルデンテノールの声のイメージと幅を広げ、英雄的なテノールだけがワーグナーを歌うのだという一般的な誤解に挑むための、決定的な強みだった。コロは殊に熱心なスタジオ芸術家で、現代の録音技術をより広範な聴衆を獲得する好機と認識しており、その軽めの声に、理想的な音響効果を付与し、そのレパートリーに忘れがたい解釈を残した。
   両歌手は、演技に大きな価値をおき、演出上のコンセプトに応じる音楽劇の確立に貢献している。二人とも、先輩のスヴァンホルム、トーマス、ヴィッカーズ、ヴィントガッセンたちのように、オペラが現代に存在するためには、演劇的に発展しなければならないということを示している。そして、彼らの身体的魅力と完璧に現代的な融通性といった、個人的な魅力や影響力を発散し(ausstrahlung)、信じることができるイメージの涵養を推進してきた。
   コロとイェルザレムは現代的歌手世代の一員として、普遍的、一般的な意味で、聴衆にとって、もっと魅力的で、もっと近づきやすく、もっと理解しやすい新世代歌手の出現を促した。
* * * * * ch.13 おわり * * * * *


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