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13章 ジークフリート・イェルザレム -3/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-3

   最初の登場で、イェルザレムは魅力的な素朴さと若さを示す。ひとりよがりの無邪気さで、自分の父が王であることを告げる。そして、冒険を熱望しているようにみえる。この絵姿Diese Bildnis は甘く、内省的に歌われ、Doch fuehl' ich's hier wie Feuer brennen  心が燃えるのを感じるのようなフレーズも、情熱の炎を伝えるというよりは、むしろいとおしむような感じである。このタミーノは少年らしい性急さでパミーナ救出の要請を受諾し(Kommt, Maedchen, fuehrt mich さあ、私を案内してくれ)、無気味な抑揚で発せられる弁者のZurueck!(さがれ!)という言葉にひるむタミーノがまだ完全な大人でないことを強調する。この場面では、もう少し決然としたものを望む人もいるかもしれないが、イェルザレムの考えの妥当性も納得できる。というのは、このタミーノは第二幕のフリーメーソンの試練を経てこそ、決断力と知恵を獲得するのである。このテノールの最もすばらしい歌唱の幾つかは、たくさんの弱音のある O ew'ge Nacht の部分や、フルートのアリアの魅力的なしなやかな流れにある。台詞の発音も巧みで、自然で率直な感じがする。そして、彼の合唱での歌唱は、すばらしい調和を示している。
   ジークフリート・イェルザレムはタミーノを彼の十八番のひとつとすることに成功している。なめらかな抒情性、知性、人を引付ける力をもった音楽劇の人物を創造している。先輩のヴィントガッセンや、コロとホフマンが、英雄的な歌唱の可能性をもった声が、軽めのモーツァルトのレパートリーに対する能力を捨て去っていない、そのキャリアの初期にやったのと同じだ。実際、ジークフリート・イェルザレムをモーツァルトとワーグナーの両方で体験しさえすれば、彼のスタイルの幅がわかることは間違いない。
   年を経て、声が成熟すると、ジークフリート・イェルザレムは徐々にワーグナーの役を付け加えていった。コロがフロー(ラインの黄金)からはじめたのと同じように、彼はワルター・フォン・フォーゲルヴァイデ(タンホイザー)、エリック(さまよえるオランダ人)、シュトルツィング、ローエングリン、パルジファル、ローゲ、ジークムント、そして、若きジークフリート(それから、神々の黄昏のジークフリートを1989年にバイロイトで歌う予定だ)と進んできて、配役リストの相当部分を完全に制覇している。
   リエンツィはコロがすでに舞台で演じたようには、まだ舞台ではやっていないが、イェルザレムは1979年のリサイタル・レコードで有名な祈りの歌を録音した。全体的な印象は、抑制と優雅さである。明らかにベル・カントの歌い方で、マックス・ローレンツやセット・スヴァンホルムの全力を傾けたわくわくするような響きと共通するところは少ない。リエンツィの伝統的な歌い方であるトランペットのような響きはイェルザレムの得意とするところではないから、おそらくこのオペラ全曲をやることはないと思われる。
   一方、抒情性が大いに要求されるワーグナーのjugendlicher Heldの役は、イェルザレムの本領である。例えば、1987年2月、サン・ディエゴでのエリック(さまよえるオランダ人)は、某批評家をして、彼の声質は彼の演技同様美しかったと言わしめた。1985年の録音で、タンホイザーではなく、吟遊歌人ワルター・フォン・フォーゲルヴァイデという軽めの役を選んだ、彼の賢明な選択はイェルザレムのセンスの良さを示している。声が暗くなれば、キャリアの後半にジークフリートが可能な選択肢に、トリスタン、そしておそらくタンホイザーも射程距離に入るだろうが、1980年代には、それほど長時間歌わない抒情的な役を選択するのが賢明だ。イェルザレムは第二幕のワルターのアリア、Den bronnen, den uns Wolfram nannteを、感情豊かに、音楽的に、そして、この役にふさわしいと思われるより、さらに高潔に率直に歌っている。
 他にはシュトルツィングを歌い、年を追うごとに成長しているようだ。1986年のバイロイト公演は素晴らしい上演で、ワルターとエヴァの身体的魅力が強調されており、二人の若い情熱に深く共感できた。1979年にイェルザレムは優勝の歌 Preisliedを再び録音したが、彼のシュトルツィングの初々しさと性急さを示している。このアリアは非常に甘く表現力豊かに歌われているので、これだけでこのテノールの全体的歌唱の優れた証明となっている。
   このテノールが成長し続けているもうひとつのワーグナーの役はパルジファルである。彼の歌唱は確実にすばらしさを増していると1980年に評された。1986年3月15日に不調のWarren Ellsworth ウォーレン、エルズワース(1950.10.28-1993.02.25 [アメリカ])に代わって、イングリッシュ・ナショナル・オペラに出演したとき、オペラ誌 Opera彼はこの役を熟練者らしい巧みさと美しさで歌ったと評した。1987年のバイロイトの公演はどれもがその成長ぶりが絶賛された。G.Knopf は、1987年9月のオペラグラス誌 Operanglasでこう評した。
   アンフォルタスの救済者として、今こそ、ジークフリート・イェルザレムは、その召命をいっそうよく遂行した・・・イェルザレムはすばらしく美しいパルジファルを歌い、この役に要求されるものを雄々しくも成し遂げた・・・'Amfortas! Die Wunde!' (アンフォルタス! あの傷! )や、'Nur eine Waffe taugt! (ひとつの武器だけが役に立つ! )には、もっとメタリックな響きが欲しいと思われるところだが、さらにすばらしい人を望むのはほとんど無理な話である。
   そして、イェルザレムが1988年のバイロイト音楽祭をこの役で開幕した後、ヨアヒム・カイザー Joachim Kaiser は、彼は今や現代の偉大なワーグナー・テノールの一人である と評した。
 第二幕の大部分の正規盤が、このテノールのキャリアの初期、1979年に録音された。アンフォルタスの叫びのところで、彼は美しくむらのない響きを示している。この感情がひどく高まる瞬間を、彼はストレートに表現しているが、その部分が展開していくにつれて、より大きな感情のうねりと朗唱的激しさが構築されていく。1987年と1988年のバイロイトからの放送は、この曲にたいするより深い洞察を示していた。すなわち、より深い精神性を示し、この役の苦悩と神秘に対する理解が伝わってきた。
 イェルザレムのパルジファルが成長したのと同様に、彼のローエングリンも成長した。ワーグナーのオペラの中で一番イタリア的なこのオペラはイェルザレムの声質によく合っているから、彼は現代オペラ界の三人の代表的白鳥の騎士のひとりである。彼のこの役の歌い方は、多くの抒情的な部分においては楽々と歌っており 劇的に歌わねばならない部分では力を出すことが可能であり、騎士的冷静さを醸していると同時に、心地よい銀のような響きと評されている。1978年ミュンヘンでのローエングリンについて、オズボーン Richard Osborne は注目すべき歌手である と評した。イェルザレムの最初のリサイタル・レコードに、遥かな国に In fernam Land が入ってはいるが、残念ながら、この役の全曲録音はまだない。(後にアバド指揮の全曲録音DG1991が出ました)1979年の抜粋にはトーマスの輝きやホフマンの恍惚とさせられる詩情はないが、歌詞に対する共感と旋律の神秘感を示しているし、無理のない音色には力がある。スタジオ録音の気楽さで、最高音さえも優雅で安定している。劇場では、イェルザレムのローエングリンは、現代のローエングリン歌手たちによって提起されている、ローエングリンはそもそも神なのか人間なのかという論争に対してどんな立場もとっていないいわゆる物語の登場人物にすぎないと評されることがよくある。つまり、彼はコロとホフマンという、この役の二つの柱の間に立って、現代の多様なローエングリン像の完成に貢献していると言える。
   イェルザレムは jugendlicher Helden としてワーグナー歌手としての初期の評判を築く一方、徐々に、より重い役 schwerer Helden をレパートリーに加えていった。彼のニーベルングの指環における仕事の進め方もまさにそうであった。彼のはじめてのローゲ役は、1987年10月のメトのラインの黄金新演出で、マスコミと観衆の両方から絶賛を浴びた。メトのリングに対して概して冷めた態度をとっていたニューヨークタイムズの Donal Henahan が熱狂した。
   ジークフリート・イェルザレムは、神々の悪徳弁護士、抜け道探し人としてのローゲのイメージを過不足なく保っていた。たいていのローゲほどいやらしさを前面に出すことなく、媚びへつらいぶりを優雅に歌い上げ、その裏にあるローゲの退廃的な本性を強調していた。
オペラ世界誌 Opernwelt の批評:
   ジークフリート・イェルザレムがローゲを見事に描き出したことこそ、この公演の驚きであった。確信的な冷笑家の知識人ではなく、むしろ機知に富み、ある種の魅力をもったアウトサイダーだった・・・ それにもかかわらず、声楽的にも演劇的にも知的に表現された。
私自身のオペラ・インターナショナルに書いた批評も これらの見解のちょっとした変形である。
   最後に、ジークフリート・イェルザレムのローゲこそ、この公演の勝利者だった。わくわくするような人物表現であり、声楽的にも充実しており、演劇的にも深いものだった。なんと辛辣で冷笑的な火の神だったことか!  いかなる状況にあってもモラルを尊重しようと決意しているのだが。多くのローゲたちほど、滑稽な感じではなく、真の策略家である。公演の後、劇場を後にする観客の脳裏には、お手上げだ!と、手のひらを上に向けるジェスチャーのシルエットを伴う、彼のイメージが強烈に焼き付いてしまった。
   イェルザレムの火の神としての成功は、彼の解釈の独自性に多くの部分を負っていた。誠実な道徳の代弁者としての演じられるローゲ(私としてはHenahan氏のローゲを退廃的と捉える見解には賛成しない)は、本気でラインの乙女たちに黄金を返そうと思っており、神々、巨人たち、そして地底の小人たちとその運命を共有するものという思いを持っている。テノールは、この太古の気まぐれなトリックスターを、新しい、説得力のある見方で再創造した。ペーター・ホフマンのとらえどころのないローゲに比べると、その感情と忠告は明快であり、ペーター・シュライヤーやハインツ・ツェドニクほどずるがしこくない。イェルザレムはローゲの気分の変化を驚くほど率直に伝えている。
 彼の歌唱スタイルは、キャラクター・テノールとヘルデンテノールが結合しているが、これもまた独自のやり方である。そして、彼は叫びすぎたり、卑屈になりすぎたり、怒りをあらわにしすぎたり、ヒステリックになりすぎたりすることがない。むしろ、Ihrem Ende eilen sie zu の旋律的な箇所は、魅力的なレガートと、まろやかな音色で歌う。このオペラのクライマックスは Undank ist Loges Lohn ローゲは常に報われることがない というローゲの長い語りの中にあるが、これをイェルザレムは怒りを持って表現する。小人に対する嫌悪感と同時に自己嫌悪でいっぱいになりながら、窮地の陥ったアルベリッヒを酷くからかう。そして、最後の場面で、ローゲは、ヴォータンの選択に対する落胆と孤独と不安のうちに、一人離れて座っている。彼のトウモロコシが並んだような金髪のかつらをつけた姿は親しみやすいし、彼のスリムなスポーツマン体型と、強力な朗唱には、わくわくさせられる。ジークフリート・イェルザレムは、この役に生き生きとした新しい解釈を持ち込んでいる。
   イェルザレムが緊密に関わり、全曲録音をしたニーベルングの指環のなかの二つ目のオペラはワルキューレである。1986年のバイロイト公演で、テノールは、抒情的かつ英雄的、悲痛かつ感動的な、比類のないジークムントであると評された。1985年のヤノウスキ  Marek Janowski 指揮、ドレスデン・シュターツカペレの録音はよい批評を得て成功だった。イェルザレムの声は、この役を歌う他の多くのヘルデンテノールに比べれば多少軽いが、彼の強力な中音域と低音域は、この重いテノールschwer Tenor役に対する要求を満たすに充分な響きと音色を持っている。彼のジークムントは、冒頭から全然官能的ではないが、詩的な音楽性がある。そして、けっして強烈とは言えないにしても、劇的な朗唱は説得力がある。実際のところ、彼のジークムントは水準を保っており、けっこう魅力的なので、生の舞台でなければ、完全には把握できないに違いない、ある種の興奮が欠如していることに関して不満を持つのは失礼な感じがしてしまう。
   イェルザレムは登場場面のジークムントを落ち着きがない、神経質な人物にしている。話しをするごとに自信を持った人物へと成長していく。各物語は、率直で前向きに楽々と歌われる。母親の死を物語るとき、彼は辛辣かつ冷笑的な音をゆっくりと、Den Vater fand ich nicht(父を見つけなかった)という
悲しい事実の朗唱へと溶け込ませていく。彼のジークリンデの質問に対する悲しげな答えには、腹立たしいげな自己憐憫(Waffenlos fand ich  私には武器がなかった)が少々と、悲しい憧れ(Warum ich Friedmund nicht heisse フリートムントと名乗らない理由)が含まれている。Maennern und Frauenに向かって、正しいdiminuendo(ディミヌエンド 漸次弱音化)で歌われるこれらの語りは感受性豊かで、ダイナミックである。Ein Schwert verhiess mir der Vater 父が約束してくれた剣 で、イェルザレムは、最初のフレーズ Ein Schwertで大きくクレッシェンド crescendo し、ヤノウスキの指揮のゆったりとしたテンポ tempiを守りながら、ヴェルゼの叫びを(多少濁った響きではあるが)長く保って、感情とエネルギーを高揚させる。愛の二重唱のはじまりに限って言えば、テノールがオーケストラを乗り越えて聴かせるのに苦労していることを感じさせられる。だが、イェルザレムは、この発声の困難を、heisse in die Brust, brennt in die Arme . . . 胸を熱くし、腕の中で燃える・・・のような部分に重点的に朗唱的アクセントを置くことによって緩和している。テノールが冬の嵐 Winterstuermeを多少フルヴォイスの大声すぎるのは、この困難から抜け出した結果なのかもしれない。ほとんど叫んでいるようなフレーズも少しだがある。例えば、zu seiner Schwester schwang ihr 彼は妹のところに飛び込んだのところ。それにしても、彼には、長いフレーズを英雄的に保つ能力があるのは間違いがないところだ。第一幕の終わり、木の幹から剣を引き抜き、ウェルズング族の繁栄を宣言するときには再び、耳障りな無理のある声が強く感じられる。しかし、テノールは、堅実に締めくくる。最後のA音は、安定しており、英雄的である。戦士ジークムントの印象が確実に浮かび上がる。
   イェルザレムは、死の告知 Todesverkuendigungを知的に扱う。ホフマンに比べると、ずっとナイーブで、ワルハラを拒否するところは、疑いに陥るのがもっと遅いように感じる。ここには後悔の気持ちが多少存在するが、それはGruesse mir Waelse ヴェルゼによろしく でのトレモロと、柔らかく、甘いWunschesmaedchen 希望の乙女たち によって感じ取れる。これは、ホフマンのジークムントの激しく勇ましい反抗ではない。そうはしたくないが、愛が彼を縛るが故の、
むしろ非常に人間的な英雄の高潔な選択である。ジークリンデとの別れは穏やかである。フンディングを呼ぶ声は、命懸けの愛故に不本意にも宿命の決闘をせざるを得ない人間の怒りの異議申し立てである。
   1988年バイロイトのクプファー・バレンボイム・プロダクションの若きジークフリートで、テノールは、リングでの試みを一歩進めた。彼の役作りは、主要な声楽的かつ演劇的人物描写、彼の十八番の役 Glanzrolle として賞賛された。実際に舞台を見ての批評は全員一致の賞賛に満ちていた。例えば、南ドイツ新聞で、ヨアヒム・カイザー Joachim Kaiser は、こう評した。
   外見がよく、演劇的で、非常に強い声のジークフリート、-- すなわち、そのままのジークフリート・イェルザレムに見えてしまうのだが、 を目の当たりにするという幸運にはめったに出会えるものではない。(たとえ、強烈で輝かしい存在感が絶対的に欠如しているにしても)
 ジークフリート・イェルザレムは、この成功は、五年にわたる準備と、身体的適合性を維持する努力、そして、彼から身体的、演劇的表現をしっかりと引き出す演出をしたクプファーとの協力関係のお陰だと考えている。曰く、クプファーの下で、私はダンサーのような気がした。 一回目のジークフリートの放送録音をきけば、イェルザレムが生み出したセンセーションが実際どんなものだったかがよくわかる。
   イェルザレムは、史上最もわくわくするジークフリートの一人である。ヴィントガッセン〜トーマス路線の英雄であり、スヴァンホルムを受け継ぐ演劇的に説得力のある人物像を創造している。彼の基本的な真のテノール echt Tenorの音色は以前より深い色調を帯び、確かなイントネーションを伴って、男らしく、たくましい響き、驚くべきスタミナで殺人的なこの役を無傷でやり遂げる。カリスマ的な魅力を持つ英雄を、彼は具象化する。彼の声楽的かつヴィジュアル的(スリムでスポーツマンタイプ)存在感が、役に対する共感を増す。このジークフリートは、はじめは問題児で、知識を求める過程で成長するが、その傷つきやすい脆さという点では子供っぽいままである。第一幕では、野蛮な衝動をなんとか理性でコントロールしようとして、ミーメに対する嫌悪感を一生懸命説明しようとしているジークフリートの気持ちが伝わってくる。スヴァンホルムよりは詩的で内省的であるが、スヴァンホルムほど知的ではない分析性は、その真の男らしさの魅力と相まって、この人物の軽薄さを緩和している。その出自に対して思いを巡らすときのイェルザレムは、すばらしく抒情的で、甘い憧れの響きに満たされている。つがいの動物を見て性の営みに興味を持つときは、暗い、のどがからからになるような、挑発的な官能性を持つ。イェルザレムは、剣を作り直そうという考えを持つにいたるまで、想像力たくましくしなくてもとても非常に若い男に見える。そこで、イェルザレム演ずるところの英雄は、嵐のように熱狂的な歌に突入する。その非常に感情的な本性が理性的なコントロールを圧倒して、希望と情熱と幻想を伴って奔放に駆け抜ける。あまりの興奮にミーメに対して衝動的に残酷になる。剣を鍛え直す場面は非常に魅力的に歌われる。安定しており、響きは美しく、力強い。もうすこしメタリックな響きや、笑い声のところ、それから、ホッ、ホーホッホー Ho hoという有頂天の叫び にはもう少し軽いタッチを好む人もいるかもしれないが、イェルザレムの歌には強い意志が感じられる。彼は神々しくも超人的な激情にとらわれながらも、運命に従うという冷静な気持ちに支配されている。彼の決意はその歌の根源的なエネルギーのうちに鳴り響き、So schneidet Siegfrieds Schwert!  ジークフリートの剣の切れ味を見よ! の劇的結末へと突き進む。
   森のささやきの場面で、ジークフリートは哀愁に満ちた音色を採用している。これはこのヒーローの成熟への兆しの証明である。その声は自分を父と母から引き裂いた運命の残酷さに心底怒りを感じているように響くが、事の次第が明らかになるにつれて、むしろ冷静になり、ほっとして、自分の孤独を楽しんでいるようでもある。人の心を魅了する素朴な勇敢さでファーフナーに呼びかけるとき、戦いを挑むことを楽しみ、勝利を宣言する(Notung schmeckst du ノートゥングの味を知れ) 運命が成就されることを、冷静に認識しているのだ。竜の姿をしたファーフナーが息を引き取るとき、このジークフリートはどんな良心の呵責も示さない。ファーフナーが名前を尋ねるまで、彼はあくまで平静を保っている。そして、彼はまるで彼の名前に重大な意味があることを確かめるかのように、Siegfried bein ich gennant (私の名はジークフリート)とためらいがちに答える。
   森の小鳥に続いてミーメに遭遇したことは、彼をして、新たな存在としての自己認識のレベルに達したことに気づかせる。今やジークフリートは運命的対決の対話を押し進めようと言う情熱に駆り立てられているように見える。彼は何のためらいもなく一撃のもとにミーメを殺害する。強い意志と、行為の冷静な目的性が、人殺しの精神的ショックを和らげる。長い間待たれていたこの瞬間には、盲目的な直観が存在する。そして、イェルザレムのジークフリートをトラウマからの解放し、その偉大な使命を果たす準備をさせる。ブリュンヒルデのことを森の小鳥にきかされたとき、漠然とした憧れが突然ひとつの形をとる。彼は情熱的で輝かしい目的意識をもって生まれ変わり、運命のふところへと一直線に飛び込む。この瞬間こそがイェルザレムの人物描写の転換点となっている。つまり、この瞬間に、不安定さと障害を乗り越えて、大人になる。
   第三幕、さすらい人との対立では、テノールの声には高慢さはなく、ひたむきな決断があるだけだ。彼が強引に炎を越え、岩山の頂きに達するとき、彼の響き渡る音色はまさに英雄的である。長い Selige Oede のモノローグはダイナミックな多様性がいい。mezza forte 以上に繊細な感じになることはないし、もっとなめらかなレガートのほうがいいかもしれないが、それでもイェルザレムの演奏には説得力がある。Das ist kein Mann! 男ではない! は、スヴァンホルムに見られる恐怖の険しい叫びであり、Mutter, Mutter  は、一人の女性に対するエディプス・コンプレックス的優しさを示す感嘆の声だ。彼は、無力なこの瞬間、一人の女性の愛を必死に求めている。このジークフリートは、乙女を発見したとき、再び子どもへと退行し、ゆっくりとその本来の自己を確立していくが、今度はその自己中心的な愛に対する欲求を抑えることを知っている。フィナーレの二重唱は、イェルザレムの没入的歌唱とその人物表現の情熱的な男らしい力強さから、輝きが生まれる。最後の恍惚のフレーズを耐え抜いて、彼の声はこのオペラの終わりの言葉、lachender Tod! で、消え入ることなく、勝ち誇った調子で鳴り響く。
   イェルザレムのジークムントとジークフリートは、彼のすべてのワーグナーの主人公役同様、彼の男らしく、人間的な歌い方をはっきりと刻印している。これらも、そして他の人物描写もけっして抽象的な観念ではなく、言葉と歌によって現実的な人物のイメージを描き出している。
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