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13章 ジークフリート・イェルザレム -2/4 [WE NEED A HERO 1989刊]

13章 ベル・カント ヘルデンテノール:
ルネ・コロとジークフリート・イェルザレム
ジークフリート・イェルザレム-2

 見事な朗唱法と迫力のある演技によって、イェルザレムは、ある人物を完璧に表現する才能がある。彼はオペラの非音楽的次元の重要性を把握し強調するべきだと考えている。そして、およそ十年にわたる舞台生活で、歌う役者として高く評価されている。
 イェルザレムの演劇様式は、ジェス・トーマスや戦後のオペラの演技を心理学的に追求するグループの流れをくんでいる。人物の内面を探ろうとする意図に、この新しい時代の主要な特性である柔軟性が加わる。イェルザレムはコロ以上に、自分の役に没入し、各人物表現をしっかりと区別して描き出すことができる。最近のローゲ役を見るとこの点がよくわかる。メーキャップも動作も、彼が常々演じているハンサムで敏捷な英雄の姿はほとんど影も形もなかった。前屈みに歩き、滑って転び、ぴょんぴょん跳びはね、舞台狭しと這い回った。激しい皮肉から、胸を突き刺す悲しみ、侮蔑、そそのかしに対する気紛れな後悔まで、幅広い感情を表現した。声に、そして、快活な身体表現に、そういうもの全てが具現されていた。アンチ・ヒーローのローゲだろうが、大成功だったジークムントだろうが、イェルザレムは、カリスマ的な魅力ausstrahlungを発散して、その公演に興奮をもたらす。同時に、彼は、スター的態度をとることがなく、非常に熱心で一貫性のある行動とり、仲間と協力することができる。
 このテノールのすらりとした体型、順応性に富んだ性格、精力的な抑制力こそが、長年にわたって、そして今なお、彼の英雄的魅力を確実にし続けている。特に、表現の豊かさと身体的自然さは現代的俳優としての彼の財産でああり(イェルザレムには定型化したオペラ的動作はない!)歌を支えるために、総合的なボディ・ランゲージを利用するのが上手い。
 最近のインタビューでイェルザレムは、舞台のもつ人を夢中にさせる性質について語った。続けて、彼は歌っている時も歌っていない時も同じレベルで関わっているのだと話した。彼は、歌うことに完全性を求めるのと同じように、耳を傾けることにも大切だと考えているのだ。すなわち、彼にとって、オペラの上演は全他として没頭することなのである。当然ながらイェルザレムはだれに強制されたわけでもなく自ら喜んで自分の芸術に夢中になっているわけだが、これこそが、彼をこれほどまでに注目される歌役者にしていると言えよう。
 
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 ドイツ・オペラ以外の役の依頼がもっとあってもいいのじゃないかというイェルザレムの願いにもかかわらず、オペラの企画運営側はあえて彼をドイツ系テノールと見なしてきた。こういうわけで、彼の実像は、歌曲Lieder、オペレッタ、オペラにわたる幅広い音楽分野のレパートリーの中にある。
 芸術歌曲に対するテノールの才能を示す好例はフィリップスで録音されたシュトラウス・リサイタルである。イェルザレムは、スレザクSlezakの持つ詩情には欠けるかもしれないが、彼はこの分野に率直さと音楽性によって取り組み、直裁的な伝え方をする。彼の歌には清潔感と、巧みに設計されたニュアンスがある。極めて印象的なのは、彼の歌い回し(phrasing)である。例えば、それは、森の幸福(Waldseligkeit)のような歌の、旋律線の持続にあらわれている。もっと歌詞に変化を持たせてほしいものも多いが、例えば、誘惑(Verfuehrung)、愛を抱いて〜5つの歌曲, op.32 (Ich trage meine Minne)などのいくつかの歌は、小さなドラマになっている。もっともすばらしいのは、どのフレーズもまるで無重力の中で躍っているかのように歌われるセレナーデ(Staendchen)の軽やかな優雅さである。繊細につむがれる頭声は男性的でありながら、美しく、全体として、この分野における最良のイェルザレムである。
 ごく最近、テノールはオペレッタも歌って、この分野で多くの表現豊かな録音を完成している。その中にヘレン・ドナートHelen Donathとの微笑みの国Das Land des Laechelns(1980)がある。彼のレハールへの取り組み方は、スレザクやコロと非常に異なるが、十分な存在価値がある。イェルザレムがこの感傷的な甘い物語を歌うとき、それは、スレザクやコロに比べて、洗練されておらず、優雅でもないが、より個性的でもある。彼の音色はより充実しており、より男性的に響く。彼の歌い方はいくつかの側面でより劇的であり、全体としてよりエネルギーにあふれており、より説得力がある。イェルザレムのスー・チョン王子を聴く時、音階がもっと柔軟ならいいのにとか、高音域の音色に圧迫的な角がもう少し少なければいいのにとか思うかもしれないが、これ以上に男性的な、あるいは、ロマンチックな主人公を思い描くことはできないと思う。彼は感傷(Schmalz)を適度に配合して、この情緒あふれる曲にある真実味を保ちながら、このステレオタイプ的人物に悲劇的品格を付与し、この中国の王子を、通常より、繊細で聡明な人物にしている。Dein ist mein ganzes Herz 私の心は貴女のもの は、当然ながら、この曲の頂点である。テノールは情熱的な愛と挑戦的な態度、そして苦悩を含む音色で長く持続するスタイリッシュな歌い回しを示している。絶対に感動させなければならない朗唱によって、イェルザレムはスー王子に潜む恐ろしい怒りと、妻への怒りから自分自身の汚さに対する嘆きへ移行する気分の変化を非常によく伝えている(Ihr Goetter sagt was ist mir gescheh'n!  神々よ、私に一体何がおこったのか!)彼は、多少ともいい加減な歌詞に確かさを与えている。最後の場面は皮肉と諦めの入り交じった感じで崇高に歌われる。イェルザレムの優れた朗唱は、感動的なIch weine nicht/Sie verstehen nicht unser Herz (私は泣かない。彼らに私の気持ちはわからない) を経て、優しく消えていく Immer vergnuegt . . . (いつも微笑んで・・・)に至り、Doch wie's da drin aussieht/geht niemand was an (心の中にあるものは、誰もしらない)で終る。コロのオペレッタと違って、イェルザレムのは本来的なオペレッタスタイルではなく、実際のところ、よりオペラ的で、類をみない劇的かつ音楽的効果が高いため、このジャンルにある甘さのようなものを排除し、私の好みに合う、より内容のあるものに変換されている。
 イェルザレムは定型化したオペレッタに自分自身の流儀で果敢に取り組むと同時に、ヴィオランタViolantaシバの女王Die Koenigin von Sabaといったオペラに好んで実験的に取り組んでいる。後者はレオ・スレザクを大いに連想させるが、イェルザレムは独自性を示すことに成功している。
 イェルザレムはコルンゴルトの絢爛豪華な情熱の激しくも抒情的な物語であるヴィオランタViolantaを1980年にエヴァ・マルトン、ワルター・ベリーをも含むそうそうたるキャストとの共演で録音した。貞淑なヴィオランタと運命的な恋に落ち、嫉妬に狂った彼女の夫シモーネの手にかかって死ぬことになる若き誘惑者アルフォンソの役を、イェルザレムは全然優雅には歌っていないが、これは正しい。時に彼の音色は荒く耳障りであり、旋律線は荒削りであるが、これはアルフォンソの素朴な性質に適している。いくつかの高音には無理があるが、情熱的な抒情性や彼の歌唱の説得力を減じるほどのものではない。いつものようにテノールはその知性と芸術性によって小さな声楽的不完全性を最小限におさえている。
 しかし、これもまた1980年にすばらしいハンガリー的な音で録音された、ゴルトマルク GOLDMARK, Karl (1830-1915, ハンガリー) のDie Koenigin von Saba シバの女王 1875では、実際にどんな不完全性も聞かれない。このオペラは、今世紀の初頭に非常に有名だったが、最近では忘れ去られようとしていた。だから、アダム・フィッシャー指揮によるハンガリー国立歌劇場の録音は大歓迎というところだ。スラミトSulamithの若き婚約者であるアッサドAssadは、彼女ではなくシバの女王を愛している。イェルザレムは官能の嵐と清い憧れの両方に駆り立てられる男を、味わい深く、確信に満ちた人物像として描き出した。退屈な台本に生命を吹き込むイェルザレムの能力は、このオペラの焦点をアッサドに据えることによって発揮される。しかし、彼はこの主人公を演劇的な意味でより立体的にしているばかりでなく、繊細な色合いを持つ音楽的人物像をも構築している。
 第一幕、Mein Herr und koenig(王よ)は、デモーニッシュな力が彼をとらえていることを示す暗い色調で英雄的告白として歌われ、Erloese mich(私を救い出してください)と、胸を刺し貫くような弱音の嘆願で終る。テノールの音色は終始通常の場合よりずっとあたたかさと甘さがあるが、それでも、スレザクのとても明るく澄んだ音色とは違う暗めの響きは失われていない。彼は、この曲に要求される微妙なダイナミックなニュアンスづけが特に巧みで、彼の頭声と高音域の歌唱には、この役の抒情性から派生する満ち足りた満足感がある。(ワーグナーの場合と同じ迫力を示す必要はない)音色の純粋さはアッサドを囲む神秘的な強烈なオーラを放射するのを助けている。有名な神秘の音色Magische Toeneを出すとき、彼はめったにないような優雅なレガートと音色で歌う。彼は裏声falsetto(スレザクは使った)の使用を避けているが、wo die Quelle sich lockend verlor heiland und mild (泉が神秘のうちに消えてなくなる所)の部分を、最後の言葉が忘れられないほど魅力的に、そして非常に強烈に広がっていくように歌っている。二重唱では、ドン・ホセの激しさを思わせる嫉妬に狂った激情を示す(Willst du wieder mich beruecken Daemon mit den suessen Blicken 悪魔よ、お前はその甘い瞳で私を誘惑するつもりか)が、第四幕までに、このアッサドは赦しと死に憧れるようになる。最終場面では、厚いオーケストラに抗して、イェルザレムは活力と確信で自分自身を支えている。終りのアッサドが息絶えるところは実に感動的である。絶望し、駆り立てられ、愛しつつ、絶妙の美しさで最後の旋律Ich darf sie sterben wiedersehn (死の世界で再び貴女に会えるだろう)を歌い、Erloesung, Sulamith (救済・・スラミト)の部分は三倍の弱音にしている。完璧な演奏のうっとりとさせられる終り方である。
 あまり知られていないドイツ・オペラにおけるイェルザレムの成功は、演奏されることが少ないグルックやウェーバーの作品の探究につながった。ウェーバーの百戦錬磨のオペラ、魔弾の射手Freischutzは当然歌っている。1979年のテノールの独唱デビュー録音は、彼のこの作曲家たちに対する姿勢をよく示している。グルックのトーリドのイフィジェニー Iphigenie en TaurideからNur einen Wunschは、グルックの旋律に要求される彫刻的構造に対する確固とした感覚と音楽性を示している。高音は全く無理なく出ているわけではないが、それでもなおイェルザレムの洗練された抑制のきかせ具合は説得力がある。ウェーバーのオベロンOberonからの歌は、ユオンHuonの役に必要な朗唱的英雄性は際立っている。Ja, was auch Rings umher mir probt は明快に明るい音色が均整のとれた発声で響く。祈りの歌は速いテンポで機敏に歌われ、正確な音価にこだわるテノールの気遣いを強調している。スヴァンホルム Svanholmの歌と同じように、イェルザレムの歌にもその音楽的才能を聴くことができる。
 ごく最近の1988年2月、バルセロナで歌って大喝采を博したウェーバーの魔弾の射手、で、イェルザレムはマックスを沈思黙考型の魅力的な若者として表現した。コロより悲しそうで、繊細で、コロほど少年っぽくなく、声も輝かしくない。ホフマンほど向こう見ずでなく、切迫感もない。しかし、抒情性と英雄性においては、いずれも優るとも劣らない。1979年にEurodisc のリサイタル・レコードに、Durch die Waelderのレシタティーヴォを含むアリアで彼の魔弾の射手のサンプルを聴くことができる。彼は弾むような軽快な発声で、特に中音域は温かく甘い感じで歌っている。そして、昔のテノールの慣習的な歌い方に比べて、高音はずっと安定している。まさにベル・カント的唱法である。だれもがイェルザレムの歌に、サザーランド的、音価、音階、流れ、華麗な音楽、まろやかな音色の豊かな弾力性などを聴く。(これに対して、例えば、ホフマンの場合はカラス的な、より歌詞に基づいた鋭い劇的な強さを感じる)このマックスの場合と同じ様に、モーツァルトのイドメネオにも同様の声楽的旋律線が要求されるが、こういう場合における音楽的才能は貴重である。エリザベス・フォーブスElizabeth Forbes は、1984年3月23日のジュネーブの公演におけるこのモーツァルトの役について、はじめは大袈裟な演技にもかかわらず人物像が見えてこなかったが、次第に高貴さが際立って、その結果、彼の退位は感動的であると同時に劇的に満足できるものになったと評した。しかし、1987年4月8日のお同じ役でのカナダ・オペラ客演の批評は、テノールの入れ込みようを賞賛しながらも、緊張していたかもしれないと付け加えた。モーツァルトのこの役に関しては、様々な批評があるにしても、彼の見事なタミーノ(魔笛)に関しては概してすばらしく好評である。1978年3月ベルリンでの15公演の後でJames Helme Sutcliffeジェームズ・ヘルメ・ストクリッフはイェルザレムは、私が今まで体験した中で、並外れた発見である。魅力的な憂いのある舞台姿にぴったりの豊かな色調の声の持ち主であると評した。
 1981年、タミーノ役を、ベルナルド・ハイティンクBernard Haitink の指揮で、ルチア・ポップ、エディタ・グルベローヴァ、ベルント・ヴァイクル(ベルント・ヴァイクルは配役表にありません。なんらかのミスだと思われます。ヴァイクルではなく、ペーター・ホフマンが武装した男の役で参加しています。この録音の経緯についてはホフマンの伝記にも記述がありませんが、ディスコグラフィには載っています)との共演で録音した。イェルザレムは、厳格に抒情的な歌唱法を採っており(タミーノは他のモーツァルトのテノール役よりも、劇的に唱われることが多い)、例えば、ペーター・ホフマンに比べると、より甘く、非英雄的である。この行き方は、ハイティンクの室内楽的音楽によく合っている。このレコードを通して、オーケストラ演奏の正確さを声楽技術に応用する、イェルザレムの明解な音楽性に気づかされる。ダイナミックな起伏を伴いつつ、非常にやわらかな歌い方をし、そして、全体として、柔和で辛抱強い、神を恐れる主人公を声で演劇的に表現している。
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