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病気と共に生きる [2003年刊伝記]

「この病気は私には似合わない」
パーキンソン病の診断 ~病気と共に生きる

 「1991年に録音したエルヴィス・ソングのあと、もうひとつの夢を是非ともかなえたいと思った。今度は、カントリー・ミュージックのために、相当期間、ナシュヴィルのスタジオを予約してあった。 私はすでに数年来、『バイエルンのカウボーイ』と呼ばれていた上に、アメリカ西部でたびたび乗馬をしたことがあったり、アメリカ・インディアンと友情を結んでいたこともあって、実際にカントリー・ミュージックは身近な存在だった。カントリー・ミュージックになじんでいるその地で、ゴーサインを出したこと、そして私の歌い方が受け入れられた結果、bl593ctry.jpgアルバム『カントリー・ロード』が生まれたのはうれしいことだった。アメリカでは、クラシック音楽と娯楽音楽の区別がなかったことがよかった。アメリカでは何であれ、為せば成るだった。このCDは、私の50歳の誕生日だった1994年8月22日にぴったり合わせて発売された。
 カントリー・ミュージックもとにかく舞台で歌わなくてはというので、次のツアーを計画した。そのころは、すでに相当前から健康を害しているように感じていたにもかかわらず、この計画に熱中し、没頭していた。ある日のこと、あくびをするたびに右手がふるえるのに気がついた。もっとも、この関連性を初めて意識したのは、相当あとのことだ。とても奇妙な感じだった。そのほかにも、何だか変な感じがしていた。何か説明できない衰弱感があった。『スポーツマンとして、自分の身体はちゃんとコントロールできるのだから、弱さは克服するものだ』と、あのころは思っていた。だから、おかしな感じなどは、さっさと頭から追い払って、気にしないことにした。時々、めまいがしてふらつくような感じがしたり、あくびをした時に手がふるえるのに気がついたりしていたのは、すでに何かの前兆だったのだ。しかし、私はそういうことを深刻に考えず、医者に行って「『あくびをする度に、右手がふるえるんです』なんて言えるものか。そんなことが言えるのだったら、『足を二回踏みならしたら、しゃっくりが出ます』と言い張ってもいいわけだ。気にすることはない。 無視し続ければ、そのうちにおさまるさ」と思っていた。けれども、すでにカントリー・ツアーの練習期間中に、症状は前よりひどくなっていた。動きのぎこちなさが進行しているのは確かだったし、背中がむずむずするような奇妙な感覚があった。その上、時々平衡感覚に変調をきたすようになり、この障害は、身体の動きに重大な影響を与えた。形成外科医に相談したところ、あのオートバイ事故の後遺症で、神経が圧迫されているのかもしれないと言う。確かにそうかもしれないと思った。一応治療はしてくれたが、効果はなかった。 カイロプラクティックの鍼治療のほか、いろいろやってみたが、どれも一時的に症状を緩和するにとどまった。パーキンソン症候群ではないかという話も出ていて、詳しい検査をしたのだが、診断がつかなかった。症状はどんどん悪化していたにもかかわらず、ツアーを中止することは考えられなかった。 およそ50回のコンサートをする予定で、チケットは完売、ホテルは予約済み・・・やるしかない』

 観客はもちろん何の予兆も感じていなかった。しかし、ショーが始まると、 一瞬にして楽しい気分は消え去り、会場中に困惑が広がった。ペーター・ホフマンは仮面をつけたようなこわばった表情をして、ぎこちない姿勢で、しゃちごばって、手の震えを抑えようと、肩からかけたギターにしっかりと押し付けて、舞台に立っていた。可能な限り変わったそぶりを見せず、同時にコンサートの進行に集中するには、ものすごい努力が必要だった。ファンは、いつも、無造作そのものだった、すばらしいスターに、一体何が起ったというのだろうかとあれこれ思い巡らせた。居合わせたマスコミ関係者も歌手に問題があることに気がつかないわけがなかった。これはコンサート後のこんな批評からも明らかだ。身体が衰弱してやつれたスターの恐怖の小部屋からは、アルコール中毒から麻薬中毒といった、まあ月並みなものしか出てこないわけで、この辺が、コンサートにおけるペーター・ホフマンの状態の説明としてふさわしい。悪意に満ちた言葉が滝のように浴びせられた。これは、背骨の 神経が圧迫されたことが、歌手の普通ではない状態の原因だと知らされたあとも、終わることはなかった。結局のところ、マスコミは、またしても話題を手にしたのだった。
 鉄のような意志で身体を律し、ペーター・ホフマンは全てのツアーをやり遂げた。出演中にもずっと医者の世話になっていたが、最終的な診断はつかなかった。 形成外科や、神経科、その他の専門医にもかかったが、無駄だった。ツアー終了後、何が何でもしなければならないことは唯一、この苦しみの原因を明らかにすることだけだった。

 「1994年の『ミュージカル・クラシック・ツアー』のときにはすでに、手が相当にふるえていて、隠せないこともあった。集中するのが困難だった。腕が何となく自分のものではないような感じが続いて、それに対して為す術がなかった。でも、1年後のカントリー・ツアーのときに比べれば、たいていはうまくごまかして、まだ完璧にコントロールできていた。しかし病気はさらにエスカレートした。ほとんど動けなくなったうえ、震えはますますひどくなった。手をギターに強く押し付けたら、手を静かにさせられると思った。時々、ギターを押しつぶしてしまいそうな感じがした。それから、発作的な脱力がおこるようになった。全ての感覚がすこしずつゆっくりと麻痺していって、ただ舞台に上がるだけのためにも、全力を尽くさなければならなかった。こういった身体の問題を把握してコントロールするためには全精神を集中する必要があった。私自身でさえ、一体何が起っているのかわからなかったのだから、コンサートの客は当然なおさらのこと理解に苦しんだに違いない。『何故、彼は動かないのだろうか。何故、彼はこわばったような顔をしているのだろうか。何故、サインしないのだろうか』その通りだった。手が震えて書くことができなかったのだが、このことは特に誤解を招いた。そして、ますますうわさと憶測が広がっていった・・・

 もうそのころには、大勢の医者に診てもらっていたし、可能なかぎり、ありとあらゆる自然療法も試してみた。アトランタではアパッチのまじない師のところで数週間以上過ごした。 彼のところでやったことと言えば、完全に彼と生活を共にして、二回ほど一緒に彼らの和解の儀式である平和のパイプを吸っただけで、他には何をしたわけでもなかった。彼は蒸し風呂による発汗治療で有名だったが、私に対してはその方法を使わなかった。数回、その治療法を頼んだが、その都度はぐらかされてしまった。ところが、驚いたことに、家に戻ったときには、苦痛がすっかり消えていた。あれは錯覚だったのか、転地効果だったのか、私にはわからない。残念なことに、それも長くは続かなかった。
 病気の診断がついても、そのあとも、仕事はきちんとやりたかったし、早々にあきらめたくなかった。私はアメリカへ行って、評判のよい全ての病院で診てもらうことにした。それでも、はじめは全く成果がなかった。色とりどりの様々な形のビタミン剤やら何やらの錠剤をやたらに処方されたが、当然のように効果はなかった。最後に有名なエムロイ病院のワッツ教授に診てもらった。教授は全ての検査結果を再チェックしてから、動作と反応の検査を実施した。手の動きを再チェックして、私に円と線を描かせた。 全ての検査結果をまとめてはっきりと診断がくだされた。教授は見るからに言いにくそうに『ホフマンさん、残念ながら、パーキンソンです』と診断結果を伝えた。
 この告知はもちろんショックだったが、同時に信じられないほどの解放感があった。私の中でおこっていることが、やっとはっきりと分かったのだ。わけのわからない時期が終わったことで、大きな荷物をおろせたのだった。 私はひどく幸せな気分になって、診察室から廊下に走り出て感極まって『パーキンソンだったんだ』と叫んだ。ワッツ教授はあきれてドアのところに立って見ていた。きっとこんな反応は予想していなかったにちがいない。私は教授のそばに戻って、私の身体に起っていることが何なのかがやっとわかったことがとにかくうれしいのだと説明した。 ワッツ教授は、薬に関して必要不可欠な組み合わせを教えてくれ、ドイツのパーキンソン病の専門医に連絡をつけてくれた。教授は私がこの病気とうまくつき合っていることに何度も驚いていた。ほとんど天才的だと教授は言った。こんなふうにパーキンソン病とつきあった患者にいまだかって会ったことがないということだった。これには、私のスポーツ経験が、大きな役割を果していると思う。スポーツマンというものは、自分の身体に対して究極の能力を出すことを要求することが可能だし、敗北や困難な状況とのつき合い方も知っている。スポーツをするたびに、自分にとってより効果的なやり方を発見したものだ。 ところで、自転車で数キロ行けば、その結果、健康な人でもだれでも同じように、当然疲れる。しかし、そのあと、肉体的苦痛がほとんど消えるという感覚がある。できれば、私は、毎日、乗馬やジョギングやゴルフをしたい。スポーツや、身体を使うことなら、とにかく何でもいい。主治医はこの点について私を支持して、『あなたができると思うことなら、とにかくなんでもしなさい』と勧めた。スポーツをしていなかったら、病気はもっとずっと進行していたにちがいないと確信している。
 薬の服用を開始したとき、最初は何の効き目も感じなかった。とにかく何の変化もなかったので、ほんとうにがっかりした。そして、およそ3週間後、突然、ほとんど苦痛がないことに気がついた。時々、別の薬にしたり、薬の量を変えたりするのだが、そういう場合には、また同じような現象がよくおこった。もちろんこの薬には、30分以内に苦痛が軽減されるといった鎮痛剤のような効果はない。これについては、繰返し思い知らされたものだ。時間厳守で薬をのむのをたまに忘れると、たちまちその報いがきた。定められた時間を過ぎたら、薬の効果は、分単位で時間きっかりに弱まった。いつだったか愛馬のサニーに乗って外出したとき、森の真ん中でこういうことが起った。私はまるで酔っぱらいのようだった。自分の身体さえ固定できず、馬の動きをコントロールすることは、ほとんどできなかった。サニーはこのことをただちにさとった。サニーは、好き勝手にあちこち走りまわった。実際、行ってはいけないところだろうが、好きなようにした。その時はまだ一瞬強く手綱を引くためには、十分な力があった。幸いなことに、サニーはすぐにまた私の言うことをきいたが、大変なことになり兼ねないところだった。『二度とこういうことが起らないように、時間通りにきちんと薬をのむことを考えなければならない』と猛反省した。
 コンサートの仕事に際しては正確な服用計画を作成した。綿密に練り上げ、完璧に実行した。もっとも時には、舞台に出る直前に全く動けなくなって、切羽詰まってしまったこともある。 足は、まるで百キロの石を載せられているような、感じだった。片方の足を前に出すことさえ不可能に思えた。ところが、運のいいことに、時間ぎりぎりになったとたん、動いたのだった。」 
 ペーター・ホフマンは、あの大変だったカントリー・ツアー、そして、その後のパーキンソン病の診断後も、可能な限り、普通の生活を続けようと頑張った。病気のことを知っていたのは一部の消息通だけで、世間に発表するつもりはなかった。芸術活動も、できる範囲で、やめずに続けるつもりだった。1996年には、新しいCDを録音した。『ロック・クラシック、ラブ・ソング』で、『この素晴らしき世界』や『オンリー・ユー』から、『プリティ・ウーマン』や『ブルー・アイズ』までのすばらしく美しい歌が入っている。制作は、映画音楽作曲家のハロルド・フォルトマイヤーで、彼のスタジオで録音された。
 その後、ペーター・ホフマンに対して、バート・ゼーゲベルクから、1997年のカール・マイ劇kmf.jpgオールド・ファイアハント役の依頼があった。毎年一人か二人の舞台か映画で知られている『スター』と契約するのがバート・ゼーゲベルクの伝統だった。馬マニアのペーター・ホフマンとしては、『馬に乗って台詞をしゃべる役』は、楽しみでもあり、挑戦のしがいがあった。8319.jpg馬は、かなり以前からすでに彼の生活において重要な部分を占めていた。自由時間は全部乗馬に費やし、興味をそそる馬に出会うたびに買ったので、しばらくすると、馬小屋では、11頭の馬がはしゃぎまわることになった。しかし、とにかく膨大な経費がかかったので、次第に数を減らさざるをえなかった。今では、ペーター・ホフマンの馬小屋には、サニーとグリンゴの2頭しかいない。

 「毎晩のように馬の夢を見たのがきっかけで、乗馬をはじめた。それは、馬に乗って、遠乗りに出かける夢で、その馬が私とは非常に深い結びつきあるのだと話しかけた。これがある意味で前兆だったにちがいない。 そして、ある日のこと、私は電話帳で厩舎を探し出して、数カ所に電話をかけた。幸運なことに、三番目のところで、乗馬のレッスンが受けられると言う。馬術教師が『とにかく来週にでも一度お立ち寄りください』と言った。彼は、私が何かをしようと決意したら、待てないということを、知るはずもなかった。『喜んで伺います。でも、来週なんかじゃなくて、今すぐにです』と宣言した。彼は了解し、すぐに練習を開始したというわけだ。
 最初のレッスンは、どうということもなかった。牧草地の囲いの中を、ちょっと跳ねまわっただけだったので、私は、ぜひとももっとやりたいと思った、しかし、教師は引き続き二時間目のレッスンをすることは、『明朝には、ひどい筋肉痛で動けなくなること請け合いだ。きょうはこれで十分だ』と拒否した。彼の言うことは間違っていなかった。それでも、翌日にはまた出かけていった。三時間目のレッスンのときにはもうどうしても囲いの外へ出たいと言った。それで、もしかしたら落馬するかもしれないとしてもかまわなかった。先生は仕方ないなという様子であきれながらも、私の馬にくくりつけた長い細引きを握って馬に乗り、私の前に立って、先導してくれた。彼は優秀な騎手で、信頼できたが、やはり怖かった。それでも、この遠乗りの間に細引きを外して、その後は、もう乗馬のレッスンに行かなかった。 その代わり、手に入る限りの馬に関する専門文献、特にウェスタンライディングに関するものを読んだ。 こういうことに詳しい人々とのおしゃべりを楽しんだり、短期間牧場で過ごすためにアメリカへ行ったりした。故郷では、ウェスタンスタイルで馬に乗って、『森を過ぎ野を越えて』辺りの風景の中を駆け抜けて行ったのは、多分私が最初で、そのころは、まだ私だけだったと思う。 農家の人たちは仕事の手を休めて、『ホフマンだよ。バイエルンのカウボーイだ』と見送っていた。
 興味をひく馬に出会うと、買いたいという気持ちをなかなか抑えられなかった。シェーンロイトの自分の地所に、馬小屋を建てて、乗馬用の円形広場には、まるで王冠のように照明設備をつけて、夜遅くなっても乗馬ができるようにした。そのころは、母が『あなたはいったい何のために家が必要なのかしら。いっそのこと牧草地のそばに小屋を建てたらどう』と勧めたほどだった。私は時に度を越すことがあったから、母がこう言うのももっともだった。しかし、熱意は報われた。1988年に、ミュンヘンでウェスタンライディングの準ヨーロッパ・チャンピオンになった。その後、この世界からはすっかり身を引いてしまった。なぜかといえば、馬の査定、飼育、子馬の売買等々を含めて、要するにこれはお金の問題でしかないということに気がついたからだ。馬と人間の交流は二次的なものにすぎない。しかし、私にとってはそうではなかった。牧草地に行くと、馬たちが遠くから私を見つけて喜んで私の方に駆け寄ってくるのがうれしかった。馬はたまにちょっとなでてやるだけで、喜んでくれる。アメリカでサニーを見つけたときのことを懐かしく思い出す。サニーは個性的で、注意深い雄馬で、裏庭から顔をのぞかせていた。見たとたん、すぐに、私の馬だということがわかった。バート・ゼーゲベルクから連れてきたエル・グリンゴも同じだった。数週間一緒に過ごして、サニーを慣れさせた。部分的にだが、調教もした。もはやサニーを手放す気にはなれない。」

 バート・ゼーゲベルクのカール・マイ劇は、もちろん高尚な文化的イベントとは言えない。しかし、ペーター・ホフマンにとって、そんなことは問題ではなかった。要するに今度もまた、今までとは違う場所で自分の限界を探るため、新たな事を試すチャンスだった。それに、練り上げられた演出コンセプトという重荷を背負わずに演じられる役であるということや、無造作な西部劇の英雄を馬に乗って演じること、インディアンとカウボーイの芝居をすること、それを子どもたちが目をまるくし、目を輝かせて見つめてくれることなどが、彼には途方もなく楽しかった。ある子どもが『とってもすごいオペラ歌手がヴィネトウをやってるんだね』と言ったときにはうれしい気持ちがした。加えて、病気の身でありながら、身体全体を使う役、それどころか難しい本物のスタントをやることは、挑戦的だった。彼の病気に関してはまだほとんどだれも知らなかった。2年後、パーキンソン病にかかっていることを公表したとき、この時の共演者たちは、まさに吃驚仰天した。なにしろ、だれ一人そんなことは毛ほども気付いていなかったのだ。正確に薬を服用することによってのみ可能だったのは言うまでもないことだが、身体は機能していた。毎日、燃えるような夏の暑さの中、ゼーゲベルク中を移動しながら、共演者たちと共に、ほこりっぽい野外劇場で自分の役を演じつづけ、小さな『オールド・ファイアハント』ファンたちの求めに応じて、飽きることなく、サインをし続けた。常に規律を保ち、全身全霊を尽くして自分の仕事に没頭した。
 もっともマスコミは別の見方をした。 カール・マイ劇と契約した俳優にしろ、選ばれたその他の著名人にしろ、「円形劇場のスター」として登場する際は、非の打ちどころがないと思わせるメーキャップをして、完全な美を見せつけながら、近寄り難い雰囲気で、映画のスクリーンやテレビスタジオの中に存在するのではなくて、砂埃の中 おがくずの上を巧みな身のこなしで動き回る、なによりも「まったく気のおけない」存在であるべきなのだ。あの時のペーター・ホフマンについては、世界的スターの転落した姿にすぎないと言われたものだ。
 「馬に乗った」役と言えば、テレビでではあるが、すでに一度やったことがあった。ナミビアが舞台の『道中ご無事で』という連続ドラマの中で、ハンターが角や毛皮を求めて狩りをするのをやめさせようとする農場主の役をやった。馬に乗って息をのむようなスピードで犯罪者を追跡するのだ。
 このように芝居の世界をちょっと旅したあと、ペーター・ホフマンは再び音楽に戻った。1998年に、『ラブ・ソング』の成功に続いて同じハロルド・フォルトマイヤー制作による『ロック・クラシック、ユア・ソング』を録音した。これにはエルトン・ジョンからビートルズまでの古典的なポピュラー・ソングが含まれている。健康状態に対する憶測が鎮静化しないため、ペーター・ホフマンは、 1999年8月パーキンソン病にかかっていることを、大手の大衆紙に公表した。

 「そのあと、とても気持ちが楽になった。どこでもいかに徹底的に観察されているかということにずっと以前から気がついていた。こういうことに対しては、時がたつうちに非常に鋭敏な勘が養われるものだ。本音を言えば、自分の病気について話したくなかった。同情されたりするのが嫌だったからだ。とにかく徐々に世間から身を引いていきたかった。幸運なことに多くの人々がこうした『撤退』をよしとして受け入れている。ところで、 病気の公表に対する反応は、すごくよくて、相当沢山の好意的な手紙を受け取った。私のことを今こそもっとよく理解できるだろうし、あらゆる催しへの出演が喜びだったと書いてくれたファンの手紙もあれば、同じようにパーキンソン病にかかった人からの連帯を表明する手紙もあった。大勢の人にとって私はいわば見本的役割を果していたのだ。ということは 私の心配は全く根拠がなかったわけだ。
 今日パーキンソン病の原因はまだわかっていない。私の主治医は、遺伝ということはほとんどありえないと考えている。頭をひどく打ったことが原因ではないかとの推測も可能かもしれない。原因だったかもしれない時は過ぎ去っている。発病する前、どのぐらい長い間、この病気を抱えてやってきたのか、だれにもわからないのだから。子どものとき一度相当ひどく転落したことがあるから、ひょっとしたらこれが原因かもしれない。それとも、あのオートバイ事故も原因の可能性がある。あらゆる可能性があるが、確かなことはわからない。例えば、ボクサーのモハメド・アリのような人がこの病気にかかっているのだから、頭を強打したことが原因である可能性も、当然あると言えるだろう。

 私は可能な限り普通の生活を続けようとしている。すでに述べたように、スポーツはそのために非常に役立っている。十種競技では何度も切り抜けるべき困難に遭遇したものだ。このことがこの数年とても役に立った。十種競技によって自分の身体に全力を出させることと、自分の身体をコントロールすることを学んだ。どん底の状態に陥った場合も、比較的早く回復できる。 私はある程度まで病気に抵抗できると思っているが、どんどんひどくなっていく病気に対抗するためには、時がたつにつれてスポーツマンとしての能力をさらに高めることが必要になってくるようだ。もちろんそんなことは不可能だ。能力訓練のために、すでにやっていることをとにかくやろうとしている。うまくいくこともあれば、必ずしもそうはいかないこともある。その成果は、例えば、パーキンソン病の患者が定期的に行っているテストでわかる。長時間、片足で立っていること、腕を高くあげること、バランス状態を保つことなどは、たいていのパーキンソン病患者にとって不可能なだけでなく、多くの健康な人にとっても不可能である。私はこういうことはずっと問題なくできた。まるでアルコールテストのように、線の上を歩いたり、目を閉じて指で鼻の頭を触ったりすることも問題なくできる。時がたつにつれて、次第に困難になってきているという自覚は、はっきりとある。もっとも一方向に連続的に進行するのではなく、進んだり、後退したりする。時々薬を変えたり、薬の量を調節したりして、最大限効果的な投薬をしなくてはならない。今のところ回復の可能性はない。症状をおさえるよう試みることができるだけだ。つまり、できるのは、症状を緩和すること、病気の進行を遅らせることだけだ。しかし、希望もある。希望を持つだけの根拠もある。研究が進めば、近い将来新しい治療法や手術の方法が発見されると確信している。そいうわけで1999年以来、ペーター・ホフマン・パーキンソン研究プロジェクトを設立し、医者の研究プロジェクトに対して経済的援助を続けている。中でも幹細胞の研究がまず第一にあげられる。これは大いに期待できる。遺伝子研究においても、多くの成果が上がっている。そして、国外ではすでに個々の臓器の複製が考えられている。 いつの日か、主治医が何か新しい事を試してみる機会を得たら、私を自由につかってもらえるようにしてある。こんな病気はとにかく私には似合わない。私は強い意志と全エネルギーでもって、この病気と闘い、将来勝利することを確信している。」

 1999年8月にパーキンソン病であることを公表したあとは、この病気のことを、世の中に知らせることも、ペーター・ホフマンの仕事になった。そして、ペーター・ホフマン・パーキンソン研究プロジェクトの設立によって、パーキンソン病研究を積極的に援助している。この財団は、寄付金を、この悪性の病気の克服に貢献する学問的プロジェクトに対する助成金として提供し続けている。だが、寄付だけではなく、例えば『ベスト・オブ・ロック・クラシック』のようなCDの発売も基金として役に立っている。病気に妨害されながらも、ペーター・ホフマンは引き続き音楽活動に対して積極的だった。というわけで、1999年の10月と11月には自信を持って、新たなツアーに出かけた。『オペラ座の怪人』で相手役だったアンナ・マリア・カウフマンと共に、20以上の都市で、『ミュージカルとポップスからのハイライト』を歌った。彼は自分の肉体的な苦痛の扱い方をよく心得ていたため、舞台上の彼を見た人は、病気についてほとんど何も感じなかった。観客は彼の勇気に感嘆し、このような困難な状況においても完璧なショーを催してくれたことと、そのすばらしい成功に対して敬意を表した。そして、とりわけ、ファンは、かつてと変わらず美しい、独特な声を楽しんだ。
 しかし、このツアーのあと、最終的に歌手活動からは引退して、よりプライベートな生活をするようになった。病気の悪化を可能な限り先に延ばすために自分の体力を節約したかったのだ。スポーツは引き続き規則正しく行っている。自転車に乗ったり、乗馬をしたり、ゴルフをしたり。これは彼にとってとても重要なことだ。ゴルフは『オペラ座の怪人』でハンブルクに滞在したときに新たにはじめたのだが、それ以来、ずっと夢中だ。「イーグルズ・ヒャーリッツ・ゴルフ・クラブ」のメンバーとして、以前同様、このスポーツを積極的にやっている。そして、このクラブでは、大勢の著名人が、慈善の目的のために尽力してくれている。この方面では、自分の財団のために、ゴルフ・トーナメントを組織することさえできた。

mitjaenn.jpg 2000年のバイロイト音楽祭の練習期間中に、1970年代と1980年代を通して、たくさんの公演でジークリンデやイゾルデとして、ペーター・ホフマンの相手役だったジャニーヌ・アルトマイヤーが、ひさしぶりにバイロイトを再訪した。最初の心のこもった出会いで、二人は間近に迫った『神々の黄昏』のゲネプロに一緒に行くことに決めた。フリッツ・ホフマンは、兄に、サインカードを何枚か持って行くように助言した。ペーター・ホフマンとしては、さしあたりそんなことは全く余計なことだと思っていたのだが、それでも、結局のところ、弟の忠告に従った。十倍のカードを持ったほうがよかったかもしれなかった。というのは、昔の『ウェルズング・ペア』は、祝祭劇場に入るや否や、感激した大勢の人々に取り囲まれ、地元の新聞は、大見出しでこの出来事を伝えないわけにはいかないと感じたほどだったからだ。この二人のペアはオペラの歴史に残っている。シェロー演出のリングは、とっくの昔に『歴史的演出』のレッテルを貼られていて、このころにはバイロイト音楽祭開始に続く『はじめの』百年の里程標としての評価がすっかり定着していたにちがいなかった。南ドイツ新聞に載ったある『ワルキューレ』公演に関する記事を以下に紹介しよう。
 「この『ワルキューレ』に、音楽的にも演劇的にも、全体的雰囲気として、欠けているのは、興奮である。抱擁の陶酔もなければ、身振りやしぐさと感情の混沌として分かち難い結びつきもない。そう感じた瞬間、シェロー演出の天才的な『リング』におけるジャニーヌ・アルトマイヤーとペーター・ホフマンの記憶が、我知らず、強烈に甦る」
 ジャニーヌ・アルトマイヤーは、バイロイト音楽祭での再会のあと、ペーター・ホフマンとの感動に満ちた共演について、次のように語ってくれた。
 「ペーターと私は、いっしょにすばらしい仕事をしてきました。私たちはものすごく調和がとれていました。いつもよく理解しあっていました。だから、あのころはすばらしかったです。私たちは二人ともまだとても若かったけど、あんなに素敵な共演は二度と経験できませんでした。ぺーターは今でも私にとって最愛の同僚です」
 2000年の12月、ペーター・ホフマンは、ソフィア・ラジオ・シンフォニーオーケストラと共に『2000年、聖夜』のクリスマス・ツアー を行って、再び舞台に立った。彼のクリスマスの歌をはさんで、コンサートのはじめと、終わりには、喜びにあふれながらも瞑想的なクリスマスの物語が、彼の友人である俳優のアーサー・ブラウスによって、朗読された。その日の新聞には、ペーター・ホフマンに関することが載っていたが、さらにたいていはパーキンソン病関連の記事が載っていた。マイケル・J・フォックスや、モハメド・アリや、ローマ教皇に関する、数えきれないほどの記事のすみにペーター・ホフマンも「運命の仲間」として名前が出ていたが、ひとりの人物として、芸術家として扱った記事はほとんどなかった。ジャーナリストのアクセル・ブリェッゲマンが2001年10月の『日曜日の世界』誌に書いた記事は賞賛に値する例外と言えよう。ブリェッゲマンは『ペーター・ホフマン  英雄の人生』と題して、客観的に、しかし同時に、思いやりを持って、歌手の引退生活を、感情を交えず伝えている。

 「ペーター・ホフマンは、何度も繰り返し、こんな夢を見ている。大勢の人々から逃げて、高層ビルのてっぺんに向っている。大勢の人の群れが彼を追いかけてくる。ビルの上に到着し、立ち止まって、『止まれ』と叫ぶ。そのあと『見るがいい。私に何ができるか』と叫んで、そこから飛ぶ。それでおしまいだ。そのあと、目が覚める。
 並はずれた才能を持つヘルデンテノール。その彼が、レザー・ルックのジークムントとして、甲冑に身をかためたローエングリンとして、オペラ座の怪人として、その上、カントリー・コンサートでは、自信に満ちたエルビス・プレスリー歌手として、舞台に立っていたその時は、昔のまま、色褪せることはない。
 2年前ペーター・ホフマンはパーキンソン病であることを公表した。モハメド・アリと同じ病気である。ホフマンはバイロイトの近くの村の古い学校の校舎を買って、改装して住んでいる。今はインタビューもない。新聞もない。トークショーもない。(略)しかし、今もなおその瞳にはユーモアの喜びが揺らめいている。それは、かつて圧倒的な紋切り型のワーグナーの枠からはみだした時と同じユーモアの感覚である。庭の二羽の白鳥にターザンとイゾルデと皮肉っぽく名付けている。何よりも愛したワーグナーをユーモアいっぱいにたたき壊そうというわけだ。それは、マスコミが彼をおおげさに祭り上げようとした、青い目で金髪の体格のよい『メイド・イン・ジャーマニー、ドイツ製』のジークムントといった、くそまじめなステレオタイプに抵抗したのと全く同じだった。
 実際のところ彼は今はもう自分の昔の録音を聴きたいとは思わないが、『そうは言っても、やっぱり時には誘われて、思いがけず部屋の入口に立ちどまって、往時を思い、すばらしかった時をもう一度味合う』と語った。彼は依然として現代的なジークムントのままだ。病気にもかかわらず、今も馬に鞍を置く。オーバープファルツ地方の静けさの中で、思い出を整理しようとしているのだ。そして、閉じた幕のうしろで、病気と闘っている。ビリヤード台の前で、ゴルフ・トーナメントの会場で、あるいは、朝霧の中を草原を越えて馬を駆けさせながら。そんな時、年はとっていても、また昔通りの飛び抜けた奴のように見える。まるで、夢の中で迫りくる人々の群れを逃れて高層ビルから飛び去るときのように、軽やかに見える。」註:
カール・マイ劇:毎夏ドイツのバート・ゼーゲベルクで行われる野外劇。子供向けの人気西部劇物語の作者がカール・マイで、この人の物語が、バート・ゼーゲベルクという温泉地で、毎夏野外劇として演じられているとのこと。この野外劇では、毎年一人か二人の舞台か映画で知られている『スター』と契約するのが伝統だそうです。
•カール・マイ(1842-1912)ドイツの作家「カール・マイの冒険小説はドイツの少年に愛されています。ネイティヴインディアン、インカ帝国、クルド(現在、トルコで独立運動をしている)地域など様々なドイツ人にとってエキゾチックな場所を題材に書かれています。」
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