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オペラ歌手でロック歌手-3 [2003年刊伝記]

オペラ歌手でロック歌手に、矛盾なし ・・・3

meistersinger.jpg 「 私の好きなシュトルツィング役を、バイロイトで歌うことができたということは、すばらしいことだった。この役は、ヴォルフガング・ワーグナーの演出で、私は、ライナー・ゴールドベルクとジークフリート・イエルザレムが歌った後を引き継いで、全く新しいものを作り上げようと試みた。すべての練習をやり遂げるためには、もちろん とても厳しい規律に従って仕事をしなければならなかったし、綿密な計画を立てる必要があった。結局、パルジファルに加えて、クプファーの新演出でのジークムントも歌うことになったので、この年のバイロイトの夏は実に挑戦的であった。 私は祝祭劇場でずいぶん長時間過ごしたので、それなら結局のところ劇場に泊まってもさしつかえないほどだった。多くの練習によって声に過大な要求をしたくなかったので、部分的には声を出さずに歌うふりだけをしようと決心した。これはイタリア・オペラのテノールたちはまったく普通にやっていることだが、ドイツ物ではめったにないことだった。しかし、朝から晩まで、しかも、別々の指揮者と演出家と共に非常に異なる三つの役を練習する場合、一日にせいぜい一つの役しか感情をこめて歌い切ることはできない。そこで、パルジファルとジークムントは交互にフル・ヴォイスで歌い、私にとって一番軽い役であるシュトルツィングはもっぱら歌うふりをするだけに決めた。しかし、マイスタージンガーの指揮者だったマエストロ・ショーンバットはこれが全く気に入らなかった。彼はそのことに注文をつけて、『ホフマンさん、あなたのシュトルツィングが心配です』と言った。私は『ご心配にはおよびません。この役は私にとても合っていますから、自然にやれます』と答えた。ショーンバットは『そうかもしれないが、とにかく一度聴かせてもらいたいものだ』と応じ、私は『初日か、もしかしたら、その前にゲネプロで全部お聴きになれます』と返事をした。彼は満足しなかったが、私は態度を変えなかった。結局のところこれは私の声の問題であって、私としては絶対に危険を冒したくなかった。三つの難しい大きな役で最高の業績をあげることができるように、自分の力をどのようにうまく配分するべきかは、結局、ひとり私しか判断できないことだった。彼は数回にわたって、せめて一度か二度ちゃんと感情を込めて歌うように説得しようとしたが、私は自分の考えを貫いた。 ゲネプロが近付いてきたころには、私は相当いらいらしていた。というのは、毎日6時間の練習をしていたにもかかわらず、役を演技面で再構築するためには、とにかく時間が足りなかったからだった。要するに 何かをなんとか考え出さなければならなかった。私は演出で予定されていたのと全く違うことをしようと決意し、実行した。私は、全く失礼な態度でマイスターたちの前に現れた反抗的で、強情で、生意気な若い騎士を演じた。声に関しては絶好調だった。だからマエストロ・ショーンバットはもうそのことを心配することはなかった。譜面台の前の彼がどんどんリラックスしていくのに気が付いて、とにかくすごくいい気分だった。靴屋の居間での夢物語は実にかっこよく、優勝の歌は、大喜びで歌った。舞台の同僚はみんな、拍手喝采どころか、足を踏みならしさえし、観客は熱狂した。翌日、ヴォルフガング・ワーグナーと会う約束になっていた。今回は大目玉を食らうぞ、何もかも計画と違うことをやったのだから、きっと首だな、なんだか具合の悪いことになったな、などと考えていた。会議室では、ワーグナーのアシスタントであるティゲラー氏が、山のように積み上げられた書類を持って、すでに待っていた。彼は、演出計画から逸脱したことについて、何もかも書き留めているに違いなかった。恐ろしいことが起こりそうな予感がした。その時、ヴォルフガング・ワーグナーがやってきた。彼は書類の山をつかむと、机の上に投げ出して、 『ティゲラーさん、こんな紙屑は全部捨ててしまってください』 と、言った。それから、私を抱き締めて、『とてもよくやってくれました。みんなとても喜んでいます。これからもぜひともこの調子で続けてください。見事な舞台でした。声もすばらしかったです』と、褒めてくれた。議論して戦おうと身構えていたのだが・・・無用なことだったわけだ。
 このようにして、ついにバイロイトにおける『私の』ワルター・フォン・シュトルツィングを作り上げることができた。ワーグナーのオペラを相互比較した場合、『マイスタージンガー』をやっているときが、一番快適な気分だったと言わざるをえない。何よりも、すばらしい喜びにあふれたハ長調の響きを楽しんだものだ。 シュトルツィング役はとても歌いやすい。音域は相当高くて、非常に難しい役と見なされているが、私にとって、全く問題なかった。 同僚たちがとても苦労している一方で、私はすばらしい音楽を歌うのを楽しんだ。『マイスタージンガー』の上演予定が立てられたころは、全然調子が悪くなくて、若くて、生意気で、自信満々のショトルツィングを演じるのがとても楽しかった。最後の音が消えて、幕が降りたとき、もう一度全幕通して歌えればいいのにと思うほど気分が高揚していた。
 1984年、チューリッヒでのシュトルツィング・デビューの大成功以来、この役に関して、上手く歌うだけでなく、この若い騎士に、演劇的にも全く新しいニュアンスを与えることを常に追求してきた。 自信満々で、どこか高慢な若い貴族を表現したいと思った。彼は自分の生まれに対して強い自負心を抱いており、実際貴族社会で暮らしてきたのだが、しかし、エーファに対する愛から、下層階級である手工業者の親方社会に入り、自分の歌の芸術とそれと結びついているしきたりを喜んで放棄しようと思いながらも、挑発的な態度をとったり、エーファに露骨に色目をつかったりするのだ。一方、親方たちは非常に礼儀正しいので、このような不作法な振るまいは決してしない。この『傍若無人』こそがこの若者の本質なのだということを、私は表現したかった。そして、観客も評論家も私の解釈に賛成してくれた。

 騎士、ワルター・フォン・シュトルツィングは、教養と社会階級という点において、手工業者をはるかに下の階級として見下していたし、その親方であるマイスターにも全く魅力を感じていなかった。そもそも彼の考えでは、彼がエーファに求婚した場合、彼女こそがそのことを光栄に思うべきなのだ。しかし、マイスターたちもまた健全な自負心を有しており、彼らにとって、マイスターであって、その上、マイスタージンガー・コンクールで勝利を得た者だけが、エーファの手を取るに値するということは決定事項であるから、そうは問屋がおろさないというわけだ。ま、仕方ないなと、ワルターは考えるのだが、そういうことなら、私がこの『マイスタージンガー』という芝居に参加するのは全く難しいなんてことはあり得ない。シュトルツィングは靴屋の徒弟、ダビットに、歌唱芸術について『少々』と、その規則を手ほどきしてもらいたいと頼んだ。それで、残りはもちろん自分でするつもりなのだ。他の徒弟たちの監督に加えて、歌手の基礎としきたりの紹介もダビッドの務めになった。ダビッドが『騎士さんは、この務めがどんなに大事かということを、何もおわかりでない』と言ったとき、シュトルツィングは徒弟のもったいぶった態度を嘲笑する。
 次々とマイスターたちがやってくる。シュトルツィングは、反抗的かつ無礼な態度で彼らと顔をあわせた。彼はマイスターたちに紹介され、自由で恥ずかしくない立派な生まれかどうかなどという言語道断な質問をされて、さっそく剣に手をかけるのだった。なんという侮辱か。彼の知り合いで、彼の保証人を自認しているポーグナー親方が仲裁に乗り出して、彼を落ち着かせ、他のマイスターたちに、コンクールに参加してマイスタージンガーになりたいというシュトルツィングの希望を説明した。その結果、シュトルツィングは『どのマイスターのお弟子でしたか』という質問を甘受せざるをえなかった。彼は尊大な態度で、はるか昔の物語を歌った。
      
冬のさなかの静かな炉端で、
私の城も館も雪に包まれるころ
かつて、春がいかにやさしく笑い、
また、やがていかに新しく目覚めたか、
いくども私に教えてくれたのは、
先祖から伝わった一冊の古い書物。
ワルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデこそ
私の先生でした。
      
 ハンス・ザックスは、『立派な先生だ』と感嘆し、ベックメッサーは、『だが、もうとっくに死んでいる。その人が、一体どうやって歌の規則を教えたのかね』と異論を唱えた。コートナーが『しかし、あなたはどこの学校で歌の技術を身につけることができたのですか』と質問を続けた。ワルターは反抗的にその先を歌った。
      
野原から雪や霜が消え、
夏の季節が戻ってくると、
かつて、長い冬の夜に
昔の書物が私に語った情景が、
緑あざやかな森に響き渡り、
その明るい響きを聞きながら、
森の鳥たちの楽園で、
私は歌も習ったのです。
      
 すばらしい作品だった。ベックメッサーはすぐさま高飛車に『おやまあ。アトリやシジュウカラからあなたはマイスターの調べを習ったのですか。それならどうせその程度のものでしょう』と言った。
 ワルターはさらに自信満々で歌った。それはマイスターたちをいらいらさせたが、それにもかかわらず、マイスターたちは、彼の歌に耳を傾けるのにやぶさかではなかった。 彼は規則を教えられ、彼の歌を披露するために、歌手の席に座るように求められた。またまた無理強いだ。彼は『あなたのためだ。愛しい人よ。やるぞ』とつぶやいて、不承不承にしろ、強制に屈っするしかなかった。
 それから、教養と詩情にあふれた歌を歌ったが、ハンス・ザックスを例外として、マイスターたちはそれを理解しなかった。『騎士殿の歌も節回しもたしかに珍しいが、混乱しているとは、思えなかった』と、ザックスは言った。そして、マイスターたちが、歌の新しい流儀にひどく憤慨している間に、ワルターは誇り高く、軽蔑的な態度で席をたった。彼はもちろん怒っていたが、あきらめてはいなかった。蹄鉄工や鋳掛け屋ごとき者のために、エーファを断念するもりなどさらさらなかった。翌日の夜には、とにかく彼女と駆け落ちしようと思い巡らせていたが、ベックメッサーのセレナーデのせいで隣近所が目を覚したために、この計画は挫折した。しかし、彼にとって、コンクールの結果がどうであれ、エーファを連れて行くことは決定事項であった。彼は引き続き起こるあらゆる問題に、揺るぎない冷静さと優越感で、確信をもって取り組んだ。靴屋の居間での夢物語では、この優越感を表現に加味した。そのために、ベンチに『だらしなく座って』リラックスしていることを誇示した。そのあと、同じように気楽に、自信満々で、何度も、エーファにめくばせしようとしながら、お祭りの草地に行くのだった。こういう態度をとってこそ、優勝の歌を軽々と確信を持って歌うことができた。あちこちの大きなオペラハウスで、シュトルツィングを歌う機会がたくさんあったが、何度でも繰返し歌いたいと思っている。いつも楽しかった。私の解釈に対する観客の熱狂こそが私を納得させてくれたと言える」

 その年の後半、ペーター・ホフマンには、たくさんのオペラの上演予定が残っていた。その中には、バルセロナでの『パルジファル』やウィーンでの『ワルキューレ』の深い感銘を与えた上演があった。彼の活動におけるこのようなハイライトが彼を元気づけ、たとえば5321m.jpg『モニュメント』と題する新しいレコードの録音といった将来の新たな計画のための力を与えた。これは軽い編曲のクラシック・アルバムで、『リゴレット』の『女心の歌』からバッハとグノーの『アヴェ・マリア』にいたるまでの作品が含まれ、ロンドン・シンフォニー・オーケストラの伴奏で録音された。これは、1989年の春にはもう『ゴールド』レコードを達成した。
 同年、ペーター・ホフマンは米国と日本での国外公演を行った。バイロイト音楽祭では、13年前に彼を世界に認めさせた役、ジークムントを再び歌った。クリスマスのCD『聖しこの夜』の録音にあたって、しばらくロンドンに滞在していたとき、はじめて、ミュージカル『オペラ座の怪人』を聴く機会を得たが、これは、1990年代のはじめに彼のキャリアに新たな転換を加えることになる体験だった。だが、この時期はオペラの舞台で活躍していて、1992年の春にはマンハイム国立劇場で『パルジファル』を歌った。秋には『魔弾の射手』のマックスとしてボンに出演することが予定されていたが、演奏旅行のためにキャンセルせざるをえなかった。1990年代はじめのレコード録音と公演に関しては、要するにポピュラー音楽とミュージカルが中心になっていたことは明らかだったにもかかわらず、ペーター・ホフマンはクラシック音楽に対してもそれまで同様に忠実だった。

 「ウィーン国立歌劇場での数回にわたる『ワルキューレ』の公演のあと、1989年には全く特別な客演に参加させてもらえた。ベルリン・ドイツ・オペラのメンバーと共に、ドイツ連邦共和国存続40周年にちなんでワシントンのケネディ・センターに出演したのだ。そのあと引き続いて日本をまわるコンサート旅行に出発した。この演奏旅行はずっと前から予定されていて、東京の主催者によって物凄く詳細な計画が立てられていた。1年前にはもう、我々の感覚では、もしできるとしても、出演者到着のまさに直前になってはじめて明らかになるようなことに関していろいろな問い合わせがあった。空港まで私を迎えに行くリムジンの色や、ホテルの部屋に置くグランドピアノの種類や、コンサートの合間に私に提供されるはずの自由行動計画等々が公式に決定された。日本人は綿密でこれ以上はないほど完璧であるが、私が確実にひとりになれる時間をほしがっているなどとは夢にも思っていなかった。信じられないことだった。
 日本人のメンタリティーは以前にすでに一度体験して知っていた。ソニーの創業者である盛田昭夫氏がバイロイト音楽祭でバイロイトに来たときだ。礼儀正しくて、あらゆることに対して好奇心旺盛で、精力的にバイロイトとその周辺を見てまわった。私の家では専門家として音楽の装置を鑑定し、自分は純粋な技術マニアなのだという話をしてくれた。たとえば、彼はスピード狂でもあるが、日本では猛スピードで飛ばすチャンスはほとんどないということだった。そういうことなら、私は彼にあるものを提供してもいいなと思った。それに、なにしろその名も何と言うか日本語だ。
 というのは、私はがっしりとした大きなモーターバイク、ホンダの1200ccを所有していた。日本ではまさに手に入らないものだった。盛田氏は自分では運転したくないということで、私の後ろに乗って、最高瞬間時速220キロを楽しんだ。盛田氏は飛行機操縦免許も持っているというので、アクロバット飛行の世界選手権保持者で、私が飛行機操縦をならっていたマンフレート・シュテッセンロイターに紹介しようかと申し出たところ、とても喜んでくれた。シュテッセンロイターはきっとよろこんで盛田氏と一緒に宙返り飛行をしてくれるにちがいないと、私は太鼓判を押した。盛田氏は感激しながら、勇敢に飛行機に乗り込んだが、しかし、30分後、着陸したときには、膝がふるえて、吐き気を催しているようにみえた。盛田氏も、このときの話を後に彼の著書『メイド・イン・ジャパン』に書いている。
 それはそうと、私はといえば、飛行機操縦免許を取得しないまま、練習をやめてしまった。マンフレート・シュテッセンロイターが飛行中の事故で死んだため、当然ながらひどいショックを受けて、その後も飛行機の操縦に取り組もうという気持ちがもはやなくなってしまったのだった。
51RBcNX1m5L.jpg ロンドンのアビー・ロード・スタジオで、クリスマスのCD『聖しこの夜』を録音したが、このスタジオで録音するということは、それだけで、ひとつの事件だった。私はノスタルジックな気分になった。部屋には、ここでビートルズが演奏していたままの昔のバンドマシーンが今も展示してあり、『マジカル・ミステリー・ツアー』の録音で使用されたシンセサイザーの一種でその原形であるメロトロンも見ることができた。そして、ビートルズと一緒に仕事をしていた年配の録音技師が当時のことを話してくれた。クリスマス・アルバム『聖しこの夜』もロングセラーになった。このことに対して、聴衆に心から感謝している。
 ロンドンでは、まず先に、アンドリュー・ロイド・ウェッバーのミュージカル『オペラ座の怪人』を見た。プロデューサーのフリードリヒ・クルツが私に怪人役を勧めていたので、ハンブルクでドイツ語上演が予定されていることは知っていた。私はミュージカルを歌うつもりはなかったので、当然断っていた。私にとって、ミュージカルと言えば、ただただ盛大なショーであるダンスシーンに結びつくので、私にはまったく似合わないもののように思っていた。ところが、『オペラ座の怪人』を見て、すっかり感動してしまった。怪人役もこの音楽も、オペラを彷佛とさせるものだった。こういうものを歌うこともまあ考えられると思った。再度ドイツ語によるこの役をやってほしいという、芸術的にも、金銭的にも非常に魅力的な申し出があったので、それではということになった。ただし9か月間のみということで、契約にサインした。そのとたん、予想通りマスコミが金切り声をあげた。『ペーター・ホフマンはいったいどうしたというのだ。彼の声はこんどこそ完全にだめになったのか。オペラとロックのあとは、今度はミュージカルなどという低レベルに転落せざるを得ないということか』等々と、ものすごかった。私はこの年にはまだバイロイトで成果をあげており、他の複数のオペラハウスでも歌っていたのだが、そんなことはどうやら全く意味がないようだった。マスコミにとっては、ミュージカルをやることは、新たな『降格』でしかなかった。私がバイロイトを去ったことも、誇張されて、ヴォルフガング・ワーグナーはもはや私をバイロイトに望まない。なぜなら、私はもはや歌えないからであるなどと、書かれたが、事実ではなかった。ヴォルフガング・ワーグナーからの翌年の出演依頼は、すでに机の上にあった。私は変化を求めて努力する人間だった。13年にわたるバイロイトのあと、とにかく違う仕事に没頭したかった。ヴォルフガング・ワーグナーはこのことを理解してくれて、私たちは、互いに友情を損なうことなく、別の道をいくことにしたのだ。
 さて、オペラ座の怪人は、パリ・オペラ座の地下に住み、その醜く歪んだ顔を仮面に隠しているのだが、バレリーナのクリスティーンに夢中になり、彼女を立派な歌手に育てる。だが、最後には敗者となっておわる。怪人役のこの最後に、非常に心をひかれた。それまでは、いつも舞台の上では英雄だったが、今度は新しい状況だった。毎日歌わなくてはならないというのも新しい経験だった。そもそもオペラでは、少なくともそんなに長い期間にわたっては、そういうことはなかった。phantom.jpgこのミュージカルのために、そこに集まって知り合った人たちとのチーム・ワークはとても楽しかった。とりわけ、クリスティーンを演じた相手役のアンナ・マリア・カウフマンとの仕事は快適だった。私たちは『オペラ座の怪人』のあとも一緒にコンサートをした。ノイエ・フローラ劇場建設反対のデモ騒ぎにひっきりなしに邪魔されて、苦労の多かった練習期間と上出来の初日のあと、私はおよそ300回の公演で怪人役を歌った。この間に、200万人以上の観客がこの舞台を見た。関連のCDは『ダブル・プラチナ』として表彰された。ついでに言えば、これはミュージカルの分野では比類のないことだった。更にこのミュージカルでRTLの『ゴールデン獅子賞』を受けた。
 たくさんの公演が実現したのは、契約を半年間延長したからだ。だが、これで、もう十分だった。新たに取り組みたい別の計画がいくつもあった。結局、練習期間を含めて1年半、ハンブルクに滞在していた。経営上、私の決心はあまり歓迎されなかった。フリードリヒ・クルツは、この間にステッラに株式会社を売却してしまっており、新しい所有者は、契約によって私がこの役を降りたあともなお収益に関与するのは、全く気に入らないと主張した。残念なことに、私は自分の権利請求のためには、補償金の支払いに対する契約を破棄されたことを、告訴せざるを得なかった。このことはまたまたマスコミにとっては当然最高にすばらしいストーリーをでっちあげるチャンスだった。
memo46.jpg ハンブルク滞在中に、『ワイルド・アンド・ロンリー・ハート』と題する私にとってことさらに特筆すべき、美しく、どことなく憂愁にみちた歌を集めたアルバムが生まれた。情感あふれる歌詞は大勢の人々に、このレコードと私の離婚との関連性を思わせた。1990年の秋、私は妻のデビーと別れた。私たちの結婚解消は、マスコミにとって、7年前の結婚とほとんど同じくらい大きな事件だったが、もちろん今度は、はるかに否定的な観点から報道された。
 『オペラ座の怪人』終了のすぐあとで長い間の夢をかなえるためにアメリカに飛んだ。elvis.jpgロサンゼルスのキャピトル・スタジオで、エルヴィス・プレスリーの歌を集めたCDを録音したのだ。これは『ゴールド』を獲得しただけでなく、チャートでは15位に届いた。あるジャーナリストは『オペラ歌手が今度はエルヴィスのまねまでもした』とヒステリックに叫んだ。彼が一度でもこのアルバムに耳を傾ける労をとったならば、模倣云々ではなく、演奏こそが重要なのだということにすぐに気がついただろう。この音楽は私にとってとても楽しかったので、また大演奏旅行を計画していた。その前の1992年2月には、マンハイム国立劇場との契約を果したのはもちろんだ。マンハイムではパルジファルだった。私は2年振りのオペラの仕事に以前にも増して熱心に取り組んだ。私の出演に対して あらゆる悲観的な予測が先行していたにもかかわらず、成功だったので、評論家は私の声がまだだめになっていないことに驚いた。」

 このことは、数年来飽きもせずに些細なミスを、ペーター・ホフマンはロックを歌って声をだめにしているという先入観を正当化するために利用している評論家の偏狭さをまたもや証明した。1980年代末以降のマスコミの論調を概観すれば、相変わらず、ペーター・ホフマンという現象が世間を怒らせていたのがよくわかる。ホフマンが娯楽音楽とクラシック音楽を区別する一般的な図式、そして、それと結びついている『高級な文化』対『大衆文化』という価値づけを拒絶したことが許せなかったのだ。ポピュラー音楽の分野におけるレコード発売とライブ演奏の成功、魅力的な外見、俳優としてのマスメディアへの出演などは、現代的なポップ・スターとしてのすべての基準を満たしていた。こういう点で、他のどのポップ・スターにも先んじていたのはもちろん、同時にすばらしいオペラ歌手だったことも事実である。彼の場合、オペラの勉強に挫折して、ポピュラー音楽に転向した歌手と違って、両分野を互いに侵害することなく、むしろ互いに関連を持たせたつつ、プロとして、二つの道を突き進んだ。ポップスの分野において自らのクラシックの背景を隠そうとして強いて声の『サイズ』を縮小することもなく、多くのファンにとって、ポップ・スターのオーラにはヘルデンテノールとしてのイメージが分かち難く結びついていることも気にしなかった。クラッシク音楽評論家の中の純粋主義者を怒らせたのは、彼らが言い立てる何らかの声に関する欠点などではなく、むしろ、自分の微妙な立場を気にかけるどころか楽しんでいた、彼の無頓着さのほうだったのではないだろうか。彼のオペラ歌手としての業績を批判した人は、もっぱら誤った思い込みによる『劣悪な』大衆文化に対する憤りだけに導かれていたことが極端に多く、彼らの目にはペーター・ホフマンこそが、その代表者として映っていた可能性があるのではないかという疑惑が当然生じる。もう一方の陣営の『狂信的な』評論家もやはり、ホフマンは、反逆的かつ非協調主義者的ロックミュージックの『純粋な教義』を信奉していないとして、彼を非難した。彼らに言わせれば、ホフマンは商業主義が生んだまがいものだった。このように、彼はどこにも居場所がなかった。そして、それにもかかわらずか、あるいは、まさにそれ故にか、成功したのだった。
 1992年のポップス・ツアーにおいて、ペーター・ホフマンは、ミュージカルからロックミュージックにいたる全領域を、ポピュラー音楽の演奏家として自由に扱えるということを示す機会を持った。

 「マンハイムの仕事は、短い幕間劇にすぎなかった。というのは、前に話したツアーが9月には始まる予定で、準備しなければならないことが山のようにあった。 私たちはすばらしいバンドを編成した。多分、今までのポップス・ツアーのなかで最高だった。プログラムは、第一部が、ポップ・ソング、『オペラ座の怪人』からの抜粋、バラードで、第二部が、エルヴィスだった。 バンドのメンバーは、歌もとてもうまかった。そこで、私たちはアンコール曲として、アカペラの歌を練習した。このコンサートは、びっくり仰天するような雰囲気だった。私のオペラ・ファンが大勢やってきていて、反応は抜群だった。ツアーのチケットはあっという間に完売したので、最小限の変更で、1993年の春には再演することに決めた。圧倒的な成功だった。ミュージシャンたちのプロ意識とハーモニーもまたこのコンサートに確かな貢献をした。彼らのうち二人はもう私たちのところにいないということがいまだに信じられない。ポール・サイモン、デビッド・ボーイ、それからマドンナなどと共演していて、とりわけすばらしいバスだった、私が大好きな歌手のブリッツは、このツアーのあとしばらくして心筋梗塞で亡くなった。私たちの音楽ディレクターでキーボード奏者兼歌手のグレン・モッロウは特にクリス・デ・ブルッフとの共演で、人気のあったスタジオ・ミュージシャンでありツアー・ミュージシャンだったが、残念なことに、白血病で亡くなった。
 人気というものは両刃の剣だ。 一方ではファンから途方もなくたくさんの励ましの言葉を受け取り、クラシック音楽と娯楽音楽の両方の感激が交じりあうのに気が付くことができた。他方ではこの状況の陰の部分にも直面させられた。 ボンで、コンサートの後、ホテルに戻ったときのことだ。上階には暗証カードが必要なエレベーターでしか行けなかった。部屋に着いて、問題がないかチェックするために、いつものように弟が先に部屋に入ったのだが、戻ってきてこう言った。『兄さんのベットにだれか寝ている』たしかに、泥酔状態の『ご婦人』が、どうやって入ったものか、そこにいた。呼ばれてやってきたホテルの支配人は、このようなことが起こった理由を説明できなかったが、招かれざる客を即刻排除した。この女性は、シェーンロイトで、やはり泥酔して、ある晩垣根をよじ登って入り込んで、朝まで庭のベンチで寝ていたのと同一人物だった。 彼女はそのあと新聞記事になった頭のおかしい婦人の話は私と弟がでっちあげたのだと言って、私をゆすろうとした。こんなことはとにかく無視するしかない。
 もう一人の熱狂的な女性ファンは毎年、4、5週間の夏休み中ずっと私の家の前で過ごしているようだった。私は家でゆっくり楽しみたかったが、彼女はそうやって相当多くの時間を全くだいなしにしてしまった。彼女は、 私が 外出するたびに、薮から飛び出したし、遠乗りに出かけるたびに、手を伸ばして手綱をつかもうとしたが、これは絶対に危険なことだった。それから、畑をこえて私を追いかけて走った。
 夜、だれかが垣根をよじ登ったり、少なくともそれを試みたりすることは、もっと頻繁にあった。そこで、夕方には家に入れていた犬たちを、外につないでおいたら、それとほとんど同時に彼らはもう現れなくなった。もっと幸せなことに、投光照明設備を設置してからは、そういう騒ぎはおさまった。
 いつだったか弟のフリッツが門の扉を開けたまま、芝刈機を使っていたら、数人のカメラを持った人々が敷地内に入ってきて、遠慮なくぱちぱちと写真を撮った。弟がその人たちに一体どういうつもりかと尋ねたところ、『どういうつもりって。あなたのほうこそ一体どういうつもりなんですか。見ての通り、ここで写真をとりたいんですよ』という答えが返ってきた。弟が立ち去るように要求すると、彼らはきわめて非友好的になったので、フリッツはこう言った。『もう門を閉めますから、どうぞここから出てください。それに、もうひとつすることがありますから。警察を呼ぶんですよ。あなたたちが、出て行かなかったら、そのときはね』彼らは悪態をついて、去っていった。
 こういうことは、もちろん極端な場合で、ありがたいことに、たまにしか起らなかった。ほとんどのファンは、特に私生活に関しては、概して思いやりがあった。彼らはとてもすばらしい手紙を書いてくれたり、コンサートのあと花や小さなプレゼントを持ってきたてくれりする。ファンの存在はとにかく純粋な喜びである。ジャーナリストや評論家も同様だ。多くは公平かつ客観的で、専門知識がある。しかし、違うタイプも存在する。この人たちは、もしかしたら、ねたみからか、悪意からか、キャリアを積んだ歌手をぐうの音も出ないほど徹底的にたたく。要するに、こういう人たちは、ロック・コンサートの前にインタビューにやってきて、『ホフマンさん、私はジョー・コッカーだけが好きなんですよ』と、あいさつした、いつかの『ジャーナリスト』のようだ。 私は『それはすばらしい。私も好きです。ところで、あなたは一体何をしにいらっしゃったんですか』と答えた。すると、またもや『ジョー・コッカーが好きです』という言葉が戻ってきた。実際もう少しのところで我慢できなくなるところだった。こんな男をインタビューによこすとは、編集長は一体何を考えているのだろうと思った。それで、私はちょっと無愛想になって、『あなたのジョー・コッカーのために、大きな音をたてて、かみそりの刃を食べるつもりはありませんよ。私の声も駄目になりますからね。それで、何をお聞きになりたいんですか』と言ったところ、インタビューはあっという間に終わった。
 こんな話もこのくらいで十分だろう。 いくつかのクラシックのコンサートやガラのあと、musicaltur.jpg1993 年の秋に、『オペラ座の怪人』でクリスティーン役だったアンナ・マリア・カウフマンと、北ドイツ放送交響管弦楽団と共に、ミュージカルのレパートリーだけを集めた『ミュージカル・クラシック』ツアーに出かけた。プログラムの内容は、ウェスト・サイド・ストーリーから、南大平洋、キャンディード、更に言うまでもなくオペラ座の怪人までのミュージカルで、その中から、最高に美しい曲を歌った。 チケットは瞬く間に売り切れたので、このツアーも、翌年の春に続行することになった。そして、さらにビデオの形で記録が残された。」
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