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論評集-6 [1983年刊伝記]

「新たな本命」
 ペーター・ホフマンは、1980年のニューヨーク、メトロポリタン歌劇場にローエングリンで、デビューし、マスコミによって、「メトの歴史上、最高のローエングリン歌手」と呼ばれた。1980年1月25日付けのニューヨーク・ポストには「彼は夢の騎士だった」と書いてあり、デイリー・ニュースは、その翌日、次のように書いた。「ホフマンが、全体として、今日、オペラの舞台で、最も騎士にふさわしい男であることは間違いない(若いころのエロール・フリンみたいなものだ)ところで、その最高の気品と劇的効果を引き出すために、その圧倒的な身体的存在を利用している。彼は、だれもが長い間夢見てきたワーグナーの演じ方を具現した」
 同年、ペーター・ホフマンは、ウィーン国立歌劇場で、強烈な印象を与えるフロレスタン・デビューで、ウィーンの批評家を征服した。
 「ホフマンはすでに全力投入でカラヤンのパルジファルの録音に携ったようだ。彼がフロレスタン役の難しさを非の打ち所のないテクニックで克服していたということは、ホフマンがバイロイトのローエングリン以来、相当に研鑽を積んだ証拠だからだ。フロレスタンが非常に繊細に描かれた人物だということが再び明らかになったのだから、声までも伴っていれば、感謝するほかないところだ。ホフマンのフロレスタンは、優れて叙情的な強さが特徴である」(Der Merker 1980年3月号)

 1979年も暮れようとするころ、ドイツの雑誌の関心の高まり第一陣は収束に向った。プレーボーイ誌は、1979年11月号にこの歌手をこう紹介した。「実際、この百年、少なくとも高いC(ハ音)に届くヘルデン役では、有名なドイツ人テノールは、マックス・ローレンツとヴォルフガング・ヴィントガッセンの二人しかいない。そして、その後継者としてふさわしいのは、ルネ・コロのように思われていた。新たな本命はペーター・ホフマンだ。彼は、高度の能力を要求される競技スポーツの訓練を受けた、肩幅63センチの青年で、音響的な能力に加えて、テレビ画面に登場するのに必要な身体表現ができる素質をも備えている」
 雑誌「オーディオ」で、ペーター・ホフマンは、年末にあたって、クリスマスと大みそかをどう祝うかという質問を受けた。「大みそかは一晩中羽目を外してやりたいことをやるべきでしょう。王様みたいに飲んだり食べたり。こういうのが、望みうる最高の休暇じゃないですか。みんながこういうふうにすれば、その翌年は精神科医は、暇なんじゃないでしょうか」と、テノールは思っている。そして、降誕祭については次のように考えている。
 「この日は、隣人愛の祝日と呼ばれていますが、本当にひどい生活を送っている人たちのことは、だれも考えません。クリスマスには、キリスト降誕の馬屋の飼い葉桶で眠っている幼子キリストのために、沢山のすばらしい歌が歌われますが、時を同じくして、世界のどこかで、何らかの戦争で、罪のない子どもたちが大勢死んでいます。そういうわけで、この日には、それ相当の額を寄付するべきです。でも、どうかたったの数マルクで良心を安心させようとしないでください」
 彼の三番目のバイロイトでの役、ローエングリンの後も、なるほど相変わらずこのテノールに詳しかったのはオペラファンだけだったが、今や、娯楽雑誌の編集者たちも彼に注目するようになった。このころの典型的なインタビュー記事を、マルチェッロ・サンティが、オーディオ誌、1979年11月号に書いている。彼は、「このテノールに最高の美しい響きを浴びせられれば、オペラ・ファンはめろめろになる」ということ、しかも、有名な女性ショー歌手が、「ワルキューレ」の休憩時間に、「ローベルト・ホフマン」という人に面会を求めたということを確認している。ペーター・ホフマンは、時期尚早の名声についてまずこんなふうに感じている。「時々全部眠っている間に起こったことのような、まったく不確かな感じがします」ロックをやった過去が話題にのぼっている。「<何と言うか、発情期のシカみたいに鳴いていました> と、この時代を振り返るとき、今日のオペラのテノールは言う。加えて、その過去が彼に示してくれているのは、<正しい声が駄目になるなんてばかなことはない>ということだ」 ウード・リンデンベルクが話題になる。彼に比べて自分は「おおよそ創造力が欠如している」と感じている。「なぜならば、私たちオペラ歌手は、舞台の上ではオーケストラから、演出までの、非常によく機能する組織の糸に、まるで操り人形のように、とにかくぶら下がっているだけだからだ」

 評価が上昇しはじめる。「そして、同じ声域仲間は、若い仲間に折に触れて、高々と響きわたる高音を形成するこつを教えてくれる、まるで教皇猊下のようなマリオ・デル・モナコでさえ、『ほんとうに優れた声』を単に将来のオテロと見なすだけでなく、『相当やり続ければ、ひょっとしたら自分の正統的な後継者になるかもしれない者』と見なす」 それから、ペーター・ホフマンは主張する。「私としては、ただ単にお金になるからという理由で、どんなものにしろ、オペレッタやセンチメンタルな流行歌をやるつもりはない。声のための声、自己目的としての声そのものとそれを知ることが、唯一私の心をひきつける。その声で、昔のオルフェウスのように、私は全ての望みをかなえることができる」
 この記事は、事実となるべき、ひとつの推測で締めくくられている。「そこで、テレビ関係者が、ホフマンという名前を耳にし、歌手のさらに加わるべき才能に気付けば、テレビの力が目覚めるところだが、これだけはまだ実現していないのはさびしいことだ。というのは、つまり、彼はある意味、生まれながらの俳優で、ほんの小さなきっかけを、完全に整合性のある世界に変え、演劇畑の俳優が嫉妬のあまり思わず青ざめてしまったほどに、ジークムントという役を巧みにこなす。それに、かつてボヘミヤで小さな移動劇団を経営していた祖父母にとって、今や孫である彼は、すばらしい喜びだろうということだ」

 1980年、「ペーター・ホフマンの相反性」が中心的テーマとして、マスコミに取上げられている。彼は、舞台では「気高い英雄」として、家では「ひそかなロッカー」として描写される。ロック・ミュージックを、芝生を越えて湖の上に120フォンの大音量で、鳴り響かせる。そこで完全なバンドのように鳴り響いているものは、正体を暴けば、二人の男の大騒ぎだ。弟のフリッツが打楽器の前に座り、テノールは、自ら作曲したものを検証するために、エレキ・ギターの弦をかき鳴らしているというわけだ。
 当時は、最初のLPの計画は、まだちょっと別なふうに考えられていた。「ワーグナー歌手、ペーター・ホフマンは、クラシックの響きだけが好きなのではない。高名なオペラのテノールが、家では、猛烈に荒っぽいロックミュージシャンにすっかり変身してしまうのだ。<来年、アメリカでLPを出したい。五つの歌の、歌詞と曲がすでに完成している> と、彼は自信たっぷりに語っている」(テレビ番組 見る+聞く、1980年8月) 二年後、この計画は、CBSレコードが、ロック分野の古典を集めたものとして、ベルリンで録音することになった。

 この時期、テノールは、将来ずっとただ歌うだけということに、満足できるかどうかということに、疑いの念を抱いているということを公言している。「私にとって、音楽とは、感情を発生させる手段である。だから、私は演出したいと思う。そして、これはすぐにもしたい。人々がこう言うようになる前に。彼はもう声が出ない」(1980年4月5日付け ウィーン・クリーア)
 彼のオペラとロックミュージックに対する姿勢は明確である。「私は実際のところロックの世界の出身で、『ピンク・フロイド』の音楽は、私には、リヒャルト・ワーグナーと同じぐらい重要である。そして、私が、レオンハルト・コーエンやウード・リンデンベルクに耳を傾けるとき、その歌詞は、例えば『刀鍛冶の歌』の歌詞以上のものを私に与える」そして、「ロルツィングの場合、実際のところ何も言うことはない。ローリング・ストーンの歌のほうがより訴えるものがあるということだ」

 広告業界は、宣伝効果のある金髪男に気づく。彼は時計の広告に出、企業はその潜在的な買い手に彼のことを知らせる。「彼は、1980年の復活祭、聖金曜日にカラヤンの指揮下、ザルツブルクでパルジファルを歌い、復活の主日にはシュツットガルトで、そして、聖月曜日には再びザルツブルクで同じ役を歌った。いくらワーグナーでも、これほどのオペラへの情熱が、この一個人に取り付いて離れないなどということは信じ難い。過剰な成功は無意識の思い上がりにつながらないだろうか。ペーター・ホフマンの場合はそんなことはない・・・彼は自分の芸術を極めて真剣に受け止めている。彼は、ひとつの役から、最高のものを引き出すべく、まさに狂信的な携り方をする。酷い事故の後、彼の意志の強さとかつての競技スポーツ選手のコンディションの良さが実証された。脚が粉々になったにもかかわらず、四ヶ月後にはもう、再び舞台に立っていた。揺るぎないローレックスが非常によく似合う男だ。彼は数年前にすでにひとつ手に入れた」

 センセーショナルに書きたてる大衆紙も、もう遅れをとってはいなかった。ペントハウス誌は、「客演で移動する」歌手のごく私的な生活がどんなものかを暴露する。知るべきことは、「ここはどこか。パルジファル、それとも、何か他のものを歌うのか」という、二つの問題しかないように見える、都市間を移動する生活の中で、余った時間を、彼が女性たちとどんなふうに過ごしているかということだ。テノールがニューヨークでの華々しいプレミエの後、実際何をするのかということが、ペントハウス誌の人物紹介者であるミヒャエル・P・ウィンクラーの興味をそそる。「招待で、『スタジオ54』のちょっとしたパーティーに行きます。同じホテルに滞在していたフランツ・ベッケンバウアーの心遣いです」
 「こういう仕事の場合、女の子に出会うのは難しいことではないということは、だれにでも想像がつく。それに、成功というものは、今までずっと、何かしらエロチックのものだった」と、テノールは思う。そして、その時に彼がとらえた自分の個人的な立場をこう説明する。「だれにしろ、自分と何の関係もない都市にいれば、ことさら悪くなれるかもしれない。歌手というものは、数千人の人間を歓声をあげ、拍手し、足を踏みならすという状態に至らせる。そのとき、今からホテルに戻って、テレビを見るなんてことは、まさか本当のはずがないと考えてしまう。やっぱりまだ何かやらなければならないことがあるんじゃないか。こういう状況で、非常に硬直した恋愛願望が完成する。そして、その時何かが起これば、なんとなく自分はそういうことにも当然の権利があると思ってしまうものだ」 現在、客演旅行には、たいてい妻のデボラが同行している。註:
キリスト降誕の馬屋:他の宗派については知りませんが、カトリックでは、待降節にはいると、キリストが馬小屋で生まれたことを記念して、小さな馬小屋(プレゼピオ)が聖堂などに飾られます。馬小屋のなかのマリアとヨセフの前の幼子キリストの場所は空いています。クリスマス・イブのミサの際に司祭によって幼子キリストの人形が馬小屋に置かれます。これは、アッシジの聖フランチェスコによって始められた習慣だそうです。写真は、上智大学の馬小屋、毎年、待降節から新年、御公現の祝日まで飾られます。クリスマスの馬小屋
umagoya.jpg
こちらはスノーグローブになった馬小屋
snowglobe.jpg snowglobe2.jpg snowglobe4.jpg

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