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論評集-7 [1983年刊伝記]

アンチ・タイプ
 ペーター・ホフマンがまだショー・ビジネス界に深く関わらないうちから、重量級のヘルデンテノールやオペラの定型化した芸術形式といったものから逸脱したアンチ・タイプが理想的に結合した存在としての彼は、年を追うごとに、マスコミの注目するところとなっていった。1981年のシュテルン誌の記事の「ローエングリン、上品なロッカー」という見出しは、相反することをやることができることの魅力を強調している。この記事の序文は、「長年の夢の英雄的」テノールと始まり、対照的なイメージを強調している。「大西洋で、『グリーンピース』の人たちと共に、捕鯨反対の行動をしたいところです。これは、私が抱いている理想のイメージです。でも、たぶん実行するほど断固としたものではないのでしょう」 この雑誌は、一回の出演につき18,000マルクという市場価値と、同時に、このテノールにとって好まれ,そのまま残ることになった見解と認識に基づいて書かれている。
 「今までずっと、ホフマンは、彼が作った19のロックンロール・ミュージックについて、彼が歌っている37のアリアより、はるかに真剣にとらえている。今に至るまで、ホフマンは『ブラシをかけてもらう』人種やそういう生活形態とかかわり合いになるのは好まないようだ。その点では、彼はヘルマン・ヘッセの『Steppenwolf (荒野のおおかみ)』を好んでいる。この小説に、<ベルリンの貴族の邸宅で、あまりにもぴかぴかに磨かれ、ブラシをかけたようにちりひとつ落ちていない、廊下を通り抜けたとき、無気味な戦慄が彼を襲った> という一節があるが、この『ブラシをかけられた』という言葉が、彼にとっては、満ち足りた市民階級のキーワードとなった」

 彼自身気楽にやっているわけではなく、「公開された」会話の中で、彼の職業を巡る困難や懸念に言及している。「全ワーグナーの英雄たちのうちで最も若い歌手、ペーター・ホフマンは、オペラで、孤立させられていると感じることが多い。その理由は、『私たち歌手は、オペラにとってその上演までは、全く重要でない』からだ。指揮者、演出家、劇場監督にとっては、偉大な歌手も、時にはとても良い、時にはとても悪い、声の素材でしかない。『若い人たちがほとんとオペラに行かないという理由』でも、ホフマンは孤立を感じている」
 彼には、オペラの若い観客層がこの仕事に感じている難しさがわかる。「ローエングリンは当然今日的ではありません。ローエングリンを現代に置き換えることはできません。そこにいきなり現れて、お前は私に決して尋ねてはならないなどと、言うのです。でも、そんなとき、彼はやましいことがあるのだ、魚料理店のお抱えダンサーだったのだと今の若い女性は思うでしょう」しかし、どうすれば、ほかならぬ一見今日的でないようにしか見えないテーマに向き合う若い人たちをこそ、オペラに取り込めるかということも、彼は知っている。「でも、やはり、メルヘンには、だれもが心を開きます。メルヘンには人それぞれの憧れが含まれています。『そこの中央にはこの地上では知る人のない、いとも尊い輝く寺院が建っている』とこんなふうに歌われる、善である聖杯が存在すればいいのにと思っているということです。これはやはりすばらしいことではないでしょうか。どこかに超自然の力が存在してほしいと憧れ、切望する気持ちを、メルヘンはこういう具合にちょっと後押しするわけです。そして、こういう憧れの気持ちは四十歳の人より十七歳の人のほうがより強く持っています。四十歳の人はこういう気持ちを再び発掘するわけです」

 1981年、いくつかの専門誌が、よりによって一年後にこの歌手のキャリアにおいて最高の逸品になるパルジファルに関して疑念をはさみはじめる。「ペーター・ホフマンは、まだ題名役の英雄に留まっている。二度のセンセーショナルなプレミエのキャンセルは、デジタル録音技術が情け容赦なく明らかにしているものを暗示している。ペーター・ホフマンは自身の並外れたキャリアに、もはやこれ以上耐えられない。その声は、低音域においても中音域においても輝かしくは響かないばかりか、ただとにかく完璧にかすれて響くだけだ。そして、弱音はどうか。そう、今では、オーケストラは、同僚としての友情を示して、それを取り繕うように演奏しているのだ」(「パルジファル」のレコードに対して、ドイツ舞台)

 ベルリンのハンス・ヨッヘン・カッフサックとバイロイトのエーリッヒ・ラップルも、ミュンヘン・ヘラクレスザールで、それぞれ通信社と地方紙のための批評で、バーンスタイン指揮下、コンサート形式の「トリスタン」に関して「大きな幸福感に対する懐疑心」を述べた。
「加えて、若いヘルデンテノール、ペーター・ホフマンは、バーンスタインの厳しいリハーサルで、ついに自分の力以上のことをしようとしたが、それでもその傑出した能力によって賞賛された」(ハンス・ヨッヘン・カッフサック)
 「すでに数カ月前の第二幕の公演で、ペーター・ホフマンは、歌詞とリズムに関して、何度も間違えた。そして、第三幕、ホフマンは、確かに、その英雄的で、バリトン的な声がトリスタン役にも運命づけられているように思われるが、彼はまだこの役を決して完璧にはマスターしていないということを証明した。(耳に聞こえる証拠に対して、その目に見える証拠が彼の前に置かれた譜面台だったということだ)・・・そして、汗まみれのペーター・ホフマンの大写しはいったいどんな幻想を与えるのだろうか。・・・とりわけ、彼が、強烈な感情の爆発に際して、何度も両手をはにかんだ感じで両頬に押し付けていたのは、優れた演出家が彼と共に演出すれば、彼が舞台で演じ、動き回ることが許されれば、彼が、歌手としても、まさしく音楽と情景の統一体としてのドラマが最終的に要求しているように、更に徹底的に役に没入するのに役立っただろうということを、立証していたように思われた」(エーリッヒ・ラップル)
 一方で、ペーター・ホフマンに関するレナード・バーンスタインの言葉が、ドイツ連邦のマスコミを駆け巡る。「レナード・バーンスタインとって、暗く、セクシーな声をしたこの大男こそ、世界一のワーグナー・テノールなのだ」(1981年7月25日付け AZ ミュンヘン)

 現在、ペーター・ホフマンは、最初のロック・レコードの正式な予告をしている。「可塑的な時代は終り、新しいものが到来しなければならない。私は創造的でありたいのであって、オペラだけを歌いたいとは思わない」(同上)もちろん彼のスケジュールは1981年にはすでに1986年まで予約でいっぱいだったにもかかわらず、「二つ目の音楽生活」のための時間を何がなんでも手に入れようとし始める。彼自身これに関してどう見ているかについて、1981年8月3日付けのハンブルクの夕刊の「月曜に・・・」というコラムに彼はこう書いた。
 「芸術家とその私生活については、好んで多くのゴシップが語られがちなものだということに慣れるのは、この仕事で成功しているにもかかわらず、今でもなかなか難しい。伝統的な模倣で自分を満たそうとは思っていないときに、人々が、私のようなワーグナー・テノールを、とにかく絶対的に、そして、ただひたすら、崇高な芸術の寺院の司祭と見なそうとするのが、特に厄介だ。だから、成功している歌手の私が、あえて『異種の』リズムを持つ音楽と『浮気をしている』といって、しばしば非難される。
 しかし、120回、ジークムントを歌ったら、時には、やはり何か完全に自分のものをやりたいと思う。そういうわけで、私は自分の歌詞で自分自身の歌を書いている。歌詞は英語。理由は、絶対に『リンデンバーグの二番煎じ』や『上品なマッファイ』といったカテゴリーに分類されたくないからだ。もちろんのことだが、この音楽は私が気にいっているスターたち、ピンク・フロイド、ロッド・スチュワート、スティーヴィー・ワンダーなどの影響を受けている。成し遂げたことで本当に満足なのかどうかということを直視するために、それを繰り返し、疑問視することが重要だと思う。ローエングリンやパルジファルとしての私のイメージが私の生き方によって損なわれるとは思わない。そういうことは、ただ単に出来栄の悪さの結果起こりうることで、出来の悪さは、安易な妥協同様、大嫌いだ」
 「ドイツの最も素晴らしい歌手」は、どの新聞にも等しく、正直に思うままに答えている。そして、それが、彼自身が予想した以上に、協調性のない厄介なオペラ歌手という彼のイメージを強調している。彼は、翌年、彼の出演したショーに対する肯定的な反応が証明しているように、幅広い視聴者層に存在している需要に合致している。
 「ペーター・ホフマンは、風船みたいに膨らんで、絶えずコホコホ軽い咳をしている、古臭いオペラ流派に属するヘルデンテノールの定石を断固として払いのける。彼はどちらかと言えば、まさしく、『ワーグナー・スーパースター』といった様子であり、たとえ彼がハイイロガラスみたいな声をしていたとしても、女性たちは彼に夢中になるだろう」(ブント 1981年)

 「このワーグナー物の『客演歌手』が危機に瀕しているのは間違いない。八年にわたるヘルデンテノール業。『なんとなく憂うつな気分に襲われています。そこから抜け出さなければらないと感じています』」 彼は「余暇レビュー」誌に、このように正直に告白している。「それが、声のために、一番いいことだからといって、そのために全てを犠牲するべきでしょうか」  一人のヘルデンテノールが、しっかり変装して長時間散歩していたり、公演前は面会謝絶で一日中ベットに横になっていたりするのは、彼にひどい挫折感を味わわせる公演に対する反応だ。「要するに、最高にすばらしいことは、声にとって、最高に悪いことなのです。何もしないで毎晩七時に寝るなんてことは、私にはできないです」こういう会話の中で、歌手を怒らせていることがある。それはこういうことだ。「私はもともとはポップス歌手で、たまたまオペラに行き着いたのだというのです」つまり、ドイツでは型にはまることを強制されるということだ。「長期間お金をつぎこんでクラシック音楽を専門的に勉強した者が、娯楽音楽をするはずがないのです」でも、「ずっとひとつのことだけをするには、人生はあまりにも長すぎます。人々が人生真っ盛りじゃないかと言う時に降りることはすばらしいと思います」
 彼は交友関係における困難も告白している。こういう生活によって、「関係を築くのが難しい」ため、友情が中途半端に頓挫してしまうということだ。彼はパーティーにはめったに行かない。「それはいつだってある種、力の見本市のようなものだ」からだ。ホテルの部屋に退散して、いつもひとりというわけではないが、ロック・ソングを書いたりするほうが好きなのだ。どんどん上昇する出演料のせいで、彼は以前に増してひんぱんに、彼の功績がその収入を得る権利があるかどうかということを問われるが、強烈な反撃方法を心得ている。
 「年に50公演歌っていますが、すべての公演に関して何としても成功したいという気持ちでやっています。皆はひたすら歌手が音を外すのを待っているのですからね。これはとてつもなく厳しい仕事です。生で見せる職業は最高に困難なものです。それに、一人のオペラ歌手以上にすばらしい感動や幸福感を与えられる者はまずいないということを忘れてほしくないものです」(余暇レビュー 1981年)

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