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論評集-3 [1983年刊伝記]

息をのむほどの掘り出し物:1976年 ジークムント
  1976年バイロイトの夏が迫っていた。そして、それは若い歌手にとっては大事件になった。1976年のバイロイト百年記念音楽祭に際して、彼はパトリス・シェローの百年記念『リング』のジークムントとして、そしてまた、パルジファルとして、マスコミと観客に歓呼して迎えられた。かつてこの緑の丘で、新人がこのような歓迎を受けることはなんとも珍しいことだっだ。(世界 die Welt 誌) そして、およそ評論家という評論家が、彼を唯一無二の掘り出し物として賞賛した。1976年バイロイトの夏のドイツ連邦共和国のマスコミは、なんとも珍しいことに、彼については意見が一致していた。

 「・・・そして、我々は圧倒的に同意してそれを受け入れる。なぜなら、若く、美しいジークムントのペーター・ホフマンは、第一幕ではかなりおぼつかない発声(初日の気後れか?)だったものの、その後は、格段に改善され、一段と説得力あふれ、輝かしく、力強かったからだ」(南ドイツ新聞)

 「歌手の水準に関しては、何も言うことはない。『ワルキューレ』の最もうれしい驚きは、31歳の若手テノール、ジークムントのペーター・ホフマンだった。すばらしい外見が、大きく豊かなテノールの声と緊密に結びついている・・・ ヴェルゼへの呼び掛けが上昇していく様は、あたかもホフマンは苦もなく5度上の音でも歌えるかのようだった。水準を同じ高さに保つためには、いっそうの声の節約管理を要するだろうということはその後の経過の中で明らかになったにすぎない。バイロイトにとって新たな劇場付きのテノールがここに確保できたと言えよう」(ニュルンベルク新聞)

 「ジークリンデのハネローレ・ボーデとジークムントのバイロイトの新人、ペーター・ホフマンが、感動的な激しさのウェルズング・ペアを演じている。ホフマンの、大きく、バリトン的で、土台がしっかりした、輝かしく、強靱で力強い、テノールは、アンサンブルにとって、まさに掘り出し物である」(北バイエルン・クリーア バイロイト)
 「演出家に加えて、彼と同い年、31歳のテノール、ペーター・ホフマンが、かたくなに強情を張る若い反逆者としてのジークムント役で息をのむようなバイロイト・デビューをしている」(ドイツ通信社 dpa)
 「非常に若い、挑発的で軽率で熱しやすいジークムントとジークリンデは反対の性格だ。(ペーター・ホフマンは、そのそれ自体バリトン的だがよく補強されたテノールをさえ、非常に慎重さを欠いた扱いをしている。愛の二重唱で、その将来が不安になるほどに、絶頂に達している)」(tz ミュンヘン)

 「比類ないハネローレ・ボーデ8380.jpg、そして、とりわけ、新たなジークムント、ペーター・ホフマンは納得できた。まばゆいばかりにみえる若い男性の中に、暗い音色の金属的な重量級の声の、知的な演奏振りと強烈な存在感を放つ、真のワーグナー・テノールを見いだした。ホフマンはまさにこの公演の掘り出し物だった。だれもがついに再び若い英雄を目の当たりにしている。そして、それは単なる英雄の代用品ではないのだ」(ウィーン・クリーエ)

 「ペーター・ホフマン、若いドイツ人歌手、真のヘルデンテノールとしての百年記念音楽祭の掘り出し物は、暗い音色、極めて充実し、安定した中音域を備えた非常に理想的なジークムントである。今後さらに響きを洗練し、伸ばすべき自然の声だ」(北バイエルン・ニュース)

 「ジークムントとしてペーター・ホフマンのデビューを体験して、なんという陶酔感を味わっていることか。すらりとした若者、オペラ界のジェームズ・ディーン、彼こそは、極めて入念に訓練された声帯によって八十年代のジークフリートになり得る」(夕刊)

 「この掘り出し物は、ペーター・ホフマンといい、まだ32歳になったばかりだ。その嵐のように激しく、若々しい柔軟性、そのバリトン的色彩に彩られた声の力、そして、その演劇的存在感は、ジークムント役に新たな興味と関心を喚起させた。この深い感銘を与える歌役者は観客の熱狂的な賞賛を受けた」(ハノーヴァー・アルゲマイン紙)

 「このプレミエは、デビューした新しい若いテノール、ペーター・ホフマンにとって、大勝利となった。熟練の極みの完全無欠ではなく、感情を込めて歌われた新鮮なジークムントに、この公演の最長の拍手喝采が与えられた」(シュツットガルト新聞)  「とりわけ、ジークリンデとジークムントの、ハネローレ・ボーデと32歳のバイロイトの新人、ペーター・ホフマンが熱狂的に迎えられた。少年のような輝きと完全に自由な情熱を持つ人間的な英雄」(新フランクフルト新聞)

 ここに引用した抜粋はたまたま目について集めたものであるが、1976年に、いかに論争のない熱狂的な声が評論界全体に渡って、鳴り響いていたかということを証明している。更に、外国のマスコミでも同時に同様な歓声が聞かれる。
 この成功の波によって、新聞・雑誌界は、このテノールの私生活に対する興味をも持つようになる。観客は、このホフマンとは実際のところどんな人なのか知りたがる。インタビューはまずは捕らえどころのない玉虫色の結果をもたらし、大衆紙の市場は急速な出世という事実に注目をあつめるセンセーショナルな出来事のにおいをかぎつける。
 例えば、「世界」の記事。すでに最初の行が、俗受けする見出しで、大上段に構えている。「すらりとした、金髪碧眼の、ペーター・ホフマンは、観客を魅了した。かつてパルジファルは十種競技におけるヘッセン州記録保持者だった」という具合だ。インタビューアーは、オペラでにしろ、自宅でにしろ、舞台裏で起こっていることを知りたがる。そして、はじめから、だれもが「これこそホフマン」と呼べる、つくろわないありのままの答えを手に入れる。すなわち、次のような記事がそれだ。「復活祭の月曜日にハンブルクで普段通りの高性能を維持できず、二幕は最高ではなかったことをホフマンは自覚している。彼はこう言った。<言い訳をするつもりはありませんが、一幕の後、ひどく空腹だったので、しこたま食べたところ、今度は物凄い腹痛に襲われたのです> パルジファルも、みなさんや私と同じ人間なのだ」(世界 Die Welt 1976年4月21日付け)

 世間は声だけでなく、もっと多くの事を知りたがる。軍隊時代、十種競技、ロックミュージック、妻のアンネカトリン、至る所で「すでに」と強調されているこの時には「すでに」十歳と十二歳だった二人の息子、等々が浮かび上がる。
 「はじめはジャズ・シンガー兼ギタリストだったワーグナー・テノールや、勉強資金を得るために、国防軍で七年間、落下傘部隊員兼十種競技選手として、頑張り抜いたワーグナー・テノールは、恐らく未だかつていなかっただろう」(同、世界 Die Welt)   ホフマンは、自分の声に関しては、金もうけの種にさせないという立場を守っている。

 「今や世界中がこの『重い』テノールの声域を持つ陸上競技選手を争って手に入れようとしている。劇場総監督たちは、仕事の申し出に際しては、トリスタンだろうが、タンホイザーだろうが、ひるみはしない。しかし、ペーター・ホフマンはスポーツの場合と同じように、そこで、自制する。<私は自分を酷使して消耗させることはしない> 彼は、ジークムント、パルジファル、ローゲ(彼の一番最近のウィーンで大成功の役)で<満足>している」(同上)
 だが、ペーター・ホフマンは気がついている。彼は言う、「良い成果をあげることだけでは充分ではないのです。どこへ行っても注目を集めるものとして売られ、世界的スター並みの存在でなくてはならないのです」(同上)

 「今やスポーツをする時間も本を読む時間もないということは、突然の名声や度を越した要求ほどには、彼の気を滅入らせてはいない」とレポーターは思っている。

 ホフマンの最初のバイロイト年は、もちろんワーグナー年だったのだが、それでも、バイロイトでの夏の後は、再び、モーツァルトがプログラムに載った。「悪い蛇がなかなか現れないので、タミーノが死にもの狂いで助けを呼んでいる理由が初めはわからないが、そのあと、三人の婦人が悠々と怪物を片付ける。この際、ペーター・ホフマンはそのことについて責任がない。こういう古色蒼然の『魔笛』では、すでにずいぶん長い間、演出はもはや行われていないので、だれもが自分でとにかくなんとかするしかない。ペーター・ホフマンはこれをその生来の演技力と少年のような魅力でやり遂げる。そして、一幕のフィナーレで、動きの重い宮廷歌手ではなく、モーツァルトを貫く愛のモチーフによって互いに引かれ合う美しい若い二人(パミーナのノルマ・シャープと)を見るのは、オペラではめったにない一服の清涼剤であるのは間違いのないところだ」(1976年11月15日付け シュツットガルト・ニュース)

 シュツットガルトのヘルデンテノールは、モーツァルト歌手としても賞賛されている。「彼は、そこでは、ヴォルフガング・ヴィントガッセンの後継者でもある。ヴィントガッセンはすでに非常に有名なトリスタンやジークフリートだった頃、少なくとも最初に、タミーノで、彼の喉が充分な柔軟性を保っているかどうかを検証していた。ペーター・ホフマンもそうなのだ・・・ モーツァルト歌手としても、ホフマンは精神的表現と身体的表現の一致と調和で人を魅了する。そして、もうひとつ、彼がやはりヴィントガッセンの足跡を追っていることがある。つまり、いつか喜劇的な役で、彼を見、聴くことができたら、どんなにすばらしいだろうということだ。ひょっとしたら、こういう配役の回り道は、やはりまた『こうもり』の舞台で、起こるのではないだろうか」(同上)

 パリでの二つのインタビューは、歌手自身が、その成功、シェローの演出、自分の職業などについてどう思っているかを明らかにしている。
 1975年にすでに、ルーアンでのジークムントとしての客演後、ある評論家はもうだいぶ前から各音符、各音節を、同程度以上の強度で、やり遂げる歌手を聴いたことがないとオーロラ誌に書いた。パリでのジークムント・デビューの前、1976年12月に、この新聞が彼にインタビューした。歌手は他のテノール声との関わりを説明した。
 「私の声はルートヴィッヒ・ズートハウスの声に少し似ていると言われます。でも、他の声と比較したいとは思わないし、ましてや、だれかの声をまねしたいとは思いません。ある役を勉強するときには、ワーグナーのレコードは聴きません。けれど、私が好きな声は、暗い声です。私にとって、明るいテノール声はそれ自体何かあまりにも女性的すぎるものがあります」
 ペーター・ホフマンは、フランスの雑誌、リリカで、ジークムント役について語った。シェローのコンセプトに同意するかどうかという質問に対して、非常に同感であると答えた。

8378.jpg 「シェローによって、私がこれまでに演じてきたジークムントのうちで、最高のジークムントを演じることが出来ました。『ワルキューレ』は、バイロイト以前にもう40回も歌っていたのです。でも、あのときは、すべてが違っていました。衣装からして初めてでした。ジークムントの死の残酷さを測り知れないほど効果的なものにするには、彼をできるだけ感じ良く見せるべきだというシェローの考えは、完全に成功しました。フンディングが私を武器で傷つけた瞬間、人々が叫び声を上げたのが聞こえました」  1977年、ミュンヘンで、彼はウィーンでのローゲの成功を繰り返した。「ペーター・ホフマンは最高のすばらしい成果をあげた。彼のローゲは、ヴォータンの宮廷の、皮肉でよそよそしいアウトサイダー、道化である。注目すべき役者としての才能に加えて、この若い歌手は、高音では輝かしい響きを持つ暗い音色の力強い声という、極上のヘルデンテノールの素質を備えている。最良の昔ながらの指導による、彼のレガートでなめらかに歌う技術は感嘆すべきだ」(1977年1月6日付け ミュンヘン・メルクーア)

 1977年はペーター・ホフマンにとって、歌手としては短い年になった。だが、彼のオートバイによる大事故はセンセーションを熱望する人々を勢いづけた。負傷、手術、事故の経緯などは驚くほど変化に富んだ伝えられ方をした。今度は、人の心を引き付ける魅力的な悲劇性がテノールを包むことになる。ペーター・ホフマンは、翌1978年に、タミーノ、マックス、パルジファル、ローエングリン、そしてジークムントとして舞台に復帰しているが、彼は、「なお一層の仕事への愛着」を持って戻ることを宣言し、ヴォーグ誌のロンドン版で、「ドイツ最愛のヘルデンテノール」と呼ばれているが、これによって、ホフマンのイメージははっきりとした形をとりはじめる。そして、それは、白い絹のマフラーをして、いつも軽く咳払いしている、そして、どんなものであれ別の音楽には目もくれないオペラ歌手のイメージではないという点においてのみということなら、全く正しい。

 「彼の予定表が推測させるほどに、また、彼に熱烈なラブレターを書く各年齢層の婦人たちが思っているほどには、ホフマンは個人的に、徹頭徹尾オペラに捕われているわけでは決してない。彼は、<私としては、『ノルマ』のような、古色蒼然とした大舞台より、ウード・リンデンベルクのコンサートへ行くほうが好きです>と、正直に告白している。彼はオットーとウードに魅了されており、<ウードは創造的です。私たちは彼を追いかけて創作するだけです> と語る。しかし、ハンブルクの『こうもり』の新演出初日後、『燕尾服を着込んだ』オペラに関して、このパニック・ロッカーがある娯楽雑誌で発言したことに、ペーター・ホフマンは同意しない。ウード・リンデンベルクは、自分のコラムで、今どき、だれもオペラの登場人物に惚れたりしないだろうと気の毒がった。ペーター・ホフマンに言わせれば、<ウードは、『こうもり』の三幕のうち一幕ではなくて、さっさと二幕に行ったらいいと思う。そうすれば、オルロフスキーに惚れ込んでしまったはずだから>ということだ。ペーター・ホフマンは、オルロフスキーを食事をしないで待たせるなどということをしないために、急いでいるわけだが、それはひとえにこういった愛のせいなのだ」(1978年6月16日付け 世界 Die Welt)

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