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論評集-1 [1983年刊伝記]

論評集
ある歌手のキャリアにおける諸段階
ペーター・ホフマンという名の新人
8341.jpg ペーター・ホフマンの舞台歴は、1972年、リューベックの「魔笛」でのタミーノではじまっている。この北ドイツでの2シーズンのあと、ヴッパータールで2年契約を結んだ。1974年に、ここで、初めてワーグナーを、彼を有名にすることになる役、「ワルキューレ」のジークムントを初めて歌っている。彼は注目され、『若い芸術家に対するノーザン・ウェストファーレン州奨励賞』を与えられている。「ペーター・ホフマンはすばらしい才能をもったヘルデン・テノール、そして、このめったにない声域の素質がある。みごとな発声技術が完璧にマスターされた役と結合し、歌唱的にも、演劇的にも、同じように 深い感銘を与える芸術的な表現を実現している。現在の業績は、芸術家としてのホフマン氏の成功ととりわけその声域における成長につながることに大きな期待がもたれることを証明している」 審査委員会の認定理由にはこのように書かれている。彼らははるかに先を見通していた。
 ジークムントとしてのペーター・ホフマンを、批評は歓呼してむかえた。「ワーグナー・テノール、ヴォルフガン・ヴィントガッセンの死の知らせの後、ヴィントガッセンの後継者たりうる者を観客は大喝采で賞賛した。ペーター・ホフマンという名の新人がヴッパータールでジークムントとしてみごとに受け入れられたのだ。上演予定案内には、まだ28歳のリリック・テノールが載っていた。だが、その声は、たくましい基礎を持ち、全声域において極めて安定しており、まさに鋼のようなほのかなきらめきを持ち、弱音部分において微妙なニュアンスに富んでいる故、彼の中に、すでに将来のジークフリート・テノールを見ることができる」(ライン・ポスト紙 1974年9月11日付)

 ペーター・ホフマン「今は、ジークフリート、あるいはタンホイザーを歌うことはないでしょう。理由はできないと思うからです。たとえば、ジークフリートとかを、ひょっとしたら、八年ぐらいのうちに、できればいいのですが、どうでしょう。ジークムントは、今、歌えます。自分の声のことは分かっていますから、危険を感じればすぐに止めます。ですから、それはつまり活動を控えめにするということです。公演を減らします。技術的な過誤に気がついたら、為すべきことはひとつしかありません。つまり、即座に修正することです」(オペラワールド誌 Opernwelt 1975年4月号)

 音楽評論家、ハンリッヒ・フォン・リュッツヴィッツ(ライン・ポスト紙 1974年9月11日付)は、ヴッパータールの「ワルキューレ」の後、すでにこのことについていろいろと考えを巡らせている。「若い人のこのような出演はその将来にひどい酷使をもたらし兼ねない。反論として挙げられるのは、ホフマンがその役の勉強に、並外れて慎重に、徹底的に取り組んできたにちがいないということだ」六年後、ホフマンはこの評論家の推測が正しいことを認めている。「初めて、ワルキューレのジークムントを歌う機会を得たときには、すでにその四年前にこの役の勉強をはじめており、繰り返し磨きをかけていました」
  1975年に、オペラワールド誌で、ケート・フラムが質問している。「オペラの舞台に立って三年で、このように注目されるのはどんな感じですか」 これに対する、ホフマンの答えはこうだ。「あまりにも性急にことが進むのは、ちょっと不安を感じます。時々目が覚めたら全部夢だったということになるのではないかと思います。学生時代シュツットガルト歌劇場の周りをぶらついたり、公演を見て、感動したりしたものです。いつかここで歌えたら!と思いました。いよいよそこでパルジファルに取り組むことになったわけです。パルジファルは私が希望した役です。それが現実になるなんて、すばらしことではありませんか」
 シュツットガルト歌劇場での「仕事初め」の前に、「魔笛」のタミーノとジークムントの他にも多数の様々な役を経験している。
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「ポッペアの戴冠」のネロ、「こうもり」のアルフレート、ファウスト、イドメネオ、「ヴォッツェック」の鼓手長、「フィデリオ」のフロレスタン、「カルメン」のドン・ホセ、「魔弾の射手」のマックス、「ラインの黄金」のローゲ。デュッセルドルフではじめてジークムントとして舞台に立ったときは、ウルスラ・シュレーダー・ファイネン、カール・リーダーブッシュという著名な歌手たちとの共演だった。その後、シュツットガルトでは同じ役でビルギット・ニルソンと共演した。「その時は興奮のあまり膝ががくがくしました!」
 膝ががくがくしていたにもかかわらず、その頃も、自分がやりたいことを正確に把握している。「舞台では演じなければならない。立って、歩いて、それ以外何もしない歌手は物凄く退屈だ。演出家が作品全体の正確なイメージを持っているのに加えて、歌手が役の正確なイメージをもっているときしか舞台はうまくいかない。だから、このイメージを一致させることが共同作業の課題だ」(オペラワールド誌 Opernwelt 1975年4月号)

 1975年以降、ワーグナーが彼のレパートリーの中心になる。以下は、ケート・フラムによる記事。「パルジファル、いつもパルジファル。何よりもワーグナー。彼はワーグナーが気に入っている。ローエングリンの話に熱中し、シュトルツィングをやりたいと望んでいる。イタリア物はなし? 彼はイタリア物はあまり好きじゃない。そして、彼を刺激することができるものは、『ひょっとして、カルロス(*ドン・カルロ?)』だが、目下、かかわっている役のことを考えると、今は歌いたくない。経験の浅い歌手はさまざまな役をあれこれ歌うべきではないからというのがその理由だ。それに、原則的に、『私はどっちみちイタリアン・テノールではない』ということだ。彼はドイツのテノールだから、ワーグナーのほかには、フロレスタン、マックス、ボヘミアのハンス、ファウスト(たとえフランス人でも)、イドメネオといった役に、律儀に留まっている。バッカスはやりたいと思っているし、クレーベの「真の勇者」は楽しみにしている。そして、タミーノ役に対しては、居心地がよくて特に好きだという気持ちを持ち続けている。『その通りです。タミーノは、また歌いたいと思っています。タミーノは声のためにいいのです!』」
 ドルトムントでの最初のローゲはこの頃だ。オペラワールド誌に、女性批評家が意見を述べている。「この『ラインの黄金』のローゲには驚かされた。ペーター・ホフマンは言ってみれば一夜にして翌日のセンセーションを巻き起こせた。雄大な声と輝かしいテクニック(わずか30歳にして、ローゲとしては初舞台)をもったユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールである彼はこわいほどの悠然とした態度と抜け目のなさを備えたこの役を究極の微妙なニュアンスをもって演じきった」
 シュツットガルト歌劇場の五年契約の申し出は、すでに机の上に置かれていた。とりあえず、客演のジークムントとして、彼の将来の観客に紹介されている。シュツットガルト・ニュースの批評(1975年9月30日)には次のように書かれている。「次のシーズンの開始と共に、ここで、ドラマティック・テノール、つまり、主としてワーグナー・テノールとして専属契約を結んだペーター・ホフマンは、シュツットガルトではまだ未知の人だった。彼のこの地でのジークムントとしてのデビューは非常にすばらしかったので、彼が徐々にヴォルフガング・ヴィントガッセンの遺産を引き継ぐことができるだろうという期待は的外れではない」 クルト・ホノルカは「ワルキューレ」の公演後、理由を次のように述べている。「すらりとした体格、陸上競技で鍛えたたくましさ、見れば若い英雄であると信じることができる。彼は40年代のヴォルフガング・ヴィントガッセンを彷佛とさせるが、かつての偉大な先輩より、今日すでに、演技的な動きははるかに達者である。彼のテノールとしての声はまぶしいほどの輝きはないが、声域のバランスとその暗く低く柔らかい響きは抜きん出ている。これはワーグナー歌手にとっては非常に重要である。彼の初パルジファルに加えて、次の3月にここでまた同じ役を歌うことになっているが、今から楽しみである。 そして今度は、アンサンブルの中にまさに生まれながらのマックスがそこいるわけだ。『魔弾の射手』もまたいつか劇場のレパートリーに入れるべきときが来ることが期待される」 註:
ボヘミアのハンス:詳しいお友だちからの情報によると、スメタナ作曲「売られた花嫁」の主役テノール役ではないかということです。このオペラの舞台はボヘミアですし、主役のテノール役、イェニークは、ドイツ語では『ハンス』になるのだそうです。ヒロインのマジェンカはマリーになるとか。このオペラは、本来チェコ語ですが、ドイツ語圏ではドイツ語上演が普通のようですし。
クレーベの「真の勇者」:Klebe, Giselher Wolfgang (ギーゼルヘル・クレーベ、1925年6月28日 マンハイム生まれ) 作曲のオペラ、Ein wahrer Held (1975年) ~ 原作は、アイルランド劇作家シング;John Millington Synge(1871-1909) の  "The Playboy of the western World" (山本修二訳、西国の伊達男 岩波文庫)
イドメネオ:モーツァルト「イドメネオ」
写真の頁から
•「きょうはミラノ、あしたはハンブルク:私のセカンドハウスは旅行かばんの中だ」ベートーベン『フィデリオ』フロレスタン、1980年、ハンブルク
•ベートーベン『フィデリオ』フロレスタン、1984年、ベルリン・ドイル・オペラ
カタリーナ・リゲンツァと
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•「オペラを歌うことは、連続的なストレスだ。なぜなら、常に直前の公演のと同じくらい良くて当たり前なのだから」リヒャルト・シュトラウス『ナクソスのアリアドネ』バッカス、1979年、ハンブルク
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•「舞台で自分自身と自分の声にあまりにも没入すると、観客がこちらに何を期待しているのかということにもはや気づかない。この能力を利用できれば、自信がない時に少しは役に立つだろう」『ラインの黄金』のローゲ、ドルトムント1975年、ヴォータン:リヒャルト・クロス、フリッカ:リンダ・カレン
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