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ただ単に•••12 [1983年刊伝記]

小さくて重要でない新聞に
 私はもはや書かれたことによって左右されない。それは私にとって大して重要ではなくなってしまった。はじめには、批評は奇妙なものだった。なぜなら、それらを整理できなかったからだ。それに、良い批評なら、重要だと思いたいものだ。自分が思っていることと、批評家の意見が一致することは、ほとんどない。起こったことをありのまま書く人がいたら、かえってびっくりしてしまう。大新聞にくだらない長談義が書いてあり、小さな重要でない新聞に私を極めて正確に認識している人がいて、弱い瞬間に気づいているということをはっきりと体験した。
 当然ながら、普通、書き手はうらやむような状況にはない。私は想像してみる。「パルジファル」を百回見たら、「パルジファル」について何を書くべきなのだろうか。こういうことだから、何であれ全く違うことをはじめる何人かの演出家は、要するに山師だが、頂点にのぼりつめて、批評家が慣れ親しんだ薄暗がりではなく、変化に富んだ色彩をついに目の当たりにして退屈が破られたという理由だけで褒めちぎられるのだと思う。そんなものは取るに足りない。だが、私は批評家のために、自分が良いと思っていることを、何であれ変えようとは思わない。はじめは、そうするべきだと思った。しかし、そうこうするうちに・・・
 批評というものは、巧妙に操ることができるものだ。期待外れの時に、よい扱いをうける仲間がいる。同じへまでも私の場合はこっぴどく非難されるということがとてもよくわかる。おかしな話だ。しかし、こういうことには慣れるしかない。
 批評をよく見ると、いくつかの批評で、終りのところに、:歌った という具合にコロン(:)がある。そういうとき、私はこのように思う。幾人かの歌手は病気の割にはなんとかがんばってやり抜いたが、新聞では、こういう具合に、名前が落ちてしまったわけだ。歌手が王様で、演出家については批評でも、劇場のポスターでも、触れられることもなかったのは、まだ百年も前のことではない。なんともひどい極端だ。今日、一般的に歌手としてまだ言及されていれば、喜ばしい。これはもちろん極端だが、あまりにもいろいろな批評を読むと・・・六段の長さの記事で、すべてを書くとして、「気の毒な批評家」は作品の知識や基礎知識を示したうえに、さらに終りには歌手の名前まで載せなければならない。私としては、全ての批評家を十把一絡げに扱うつもりはない。ただ、時々、ばかげたことに出くわすが、こういうことは、専門知識がないために悪化している。仕事においてほんとうに知っているべき事が、完全にねじ曲げられている。物凄く難しい箇所で、それでも弱音演奏を聴くことができたということは、ほとんど奇跡と言ってもいいほどのことなのに、翌日、新聞に、弱音演奏以上のものはなかったと書いてある。あきれて物が言えない。
 批評家が、教育的な効果を及ぼしたいということをそのように理解しているのなら、むしろ歌手に、楽譜に「弱く」と書いてあれば、そこはやはり弱音で歌うべきだと、提案するべきだ。こうしてこそ、批評は建設的だろう。あの「さあ、エルザ  Heil dir , Elsa」のところで、上のイ音(A)を出すのは、非常にむずかしいと思う。フォルテで歌うほうがはるかに簡単にうまくいくのだから、だれもあえて危険なことはしない。私は一度メトロポリタン歌劇場で試したことがある。その後、私がそんなにも小さい声だったことは、どこの劇場にしろ、なかった。この部分の正しい歌い方は、ちょっとインサイダー向けの話だ。しかし、批評家は、自分はまさにインサイダーだと思い込んでいる。彼らのうちのだれかが、音符がどのように並んでいて、それはどう歌われるべきか知っている者だということを私に示してくれれば、そのときこそ、彼が私にとって対等の「相手」であることは、すばらしいと思うだろう。それにしても、批評家は書き間違いに鉄槌を下されることはない。今、批評家は、邪魔されず、コントロールされることのない痛烈さで、辛らつに、悪意を持って書くことができるのだ。しかも、歌手というものは自分がこの職業に求めていることを、論評によって、よく考えることができるにちがいないと思うより、むしろ、自分が最高のコンディションではなかったという記事を読みたがるのだ。

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