15)FCヴァルハラ:サッカー [2012年刊:フリッツ・ホフマン著]
p.83ー87
バイロイト音楽祭のソリストたちは当時彼らが呼んでいたところの「本部」つまり、ヴァイエンシュテファンホテル(Hotel Weihenstephan)に集まるのが好きだった。ある日、そこのソリストたちの指定席で、バイロイト音楽祭の歌手たちでチャリティーサッカー試合をやろうという話になった。
その結果、バイロイト音楽祭の歌手や音楽家たちがリハーサルや公演の後、各自の都合に合わせて集まって話し合った。重要なことも全然重要じゃないおしゃべりもあった。このリラックスした雰囲気の中で、議論はたびたび夜まで続いた。
たいていは女性だったが、ほんの一部の人を除けば、ソリストたちは全員、サッカーの大ファンだったから、バイロイト市役所選抜チーム対著名サッカー選手で強化された「ソリストイレブン」で、チャリティサッカー試合をやろうということになった。この計画はみんなを夢中にさせて、あっという間に1984年の音楽祭で大チャリティー試合を計画するという段階になった。
当時のバイロイト市長ハンス・ワルター・ヴィルドを説得するのは容易だった。市長はこのサッカー試合の意義を確信した。彼は自発的に市のスタジアムを無料で提供してくれた。ちなみに、今日このスタジアムには彼の名前がつけられている。みんながこの計画に夢中だった。ペーターが大のサッカーファンとして、直ちにチーム結成を始めたのは言うまでもない。この計画の実行には長い準備期間が必要だった。私は喜んで手伝った。
ソリストたちは「本部」で頻繁にチームミーティングをしながら、ほとんど毎日、祝祭劇場の舞台でその難しい役を歌っていた。すごいサッカー選手たち、もしくは、すごい歌手たちから成るこのすばらしい世界的選抜チームにふさわしい名前がすぐに見つかった。FCヴァルハラの誕生だ!
スポーツ用品メーカーのアディダスとの良好な関係があったペーターと私は私たちのチームのジャージーを作ろうと提案した。アディダスは喜んで新品の赤いFCヴァルハラの身支度一切のスポンサーになってくれた。そして、この緑の丘のヒーローたちは突如、数ポンドの体重オーバーまで含めて、まるで本物のサッカー選手のようになった。ペーターは天才的な提案をした。国際的に活躍していた、パウル・ブライトナー(Paul Breitner)、ゼップ・マイアー(Sepp Meier)、「我らがウーヴェ」ゼーラー(Uwe Seeler)のようなプロの元サッカー選手にFCヴァルハラを強化してもらおうというのだ。彼らはすぐに承諾してくれた。
ハンブルクのウーヴェに電話をかけたら、喜んで来てくれることを約束してくれたときのことはよく覚えている。試合当日、バイロイトの小さな空港に彼を迎えに行って、すぐに駅前通りの「本部」に案内した。ヴァイエンシュテファンホテルの向かい側の通りに車を止めて、ウーヴェ・ゼーラーと一緒に道を渡っていたら、小さなビアガーデンにいた数人のファンが同時にこちらに向かって叫んだ。「やあ、我らがウーヴェ!」そこで、彼は私にこう言った。「わかるだろ? こういう馬鹿はなかなか忘れてもらえないんだ」このチャリティ試合の全収益は善意の寄付にあてられるので、選手たちにも全く支払うことができないが、もちろん納得してくれた。
私たちの計画に対して祝祭劇場は常に肯定的だった。休憩時間にプログラムを売ったり、客を席に案内したりする「ブルーガール(訳註:バイロイト音楽祭では1952年以来このように呼ばれるアルバイトの女子学生が案内係をしているそうです)」 が、試合中に相当額の寄付を集めた。
音楽祭監督のヴォルフガング・ワーグナーも観客席を買った。妻のグドルン夫人がキックオフを行った。スタジアムのスピーカーから「アンフォルタスからウーヴェ・ゼーラーへのパス。パルジファルへの素早いパス。16メートル飛んで左コーナーへ!シュート・・・ゴール!」という放送が鳴り響いたとき、バイロイト市営スタジアムのおよそ5000人以上の観客は大喜びだった。その跳躍力から「アンツィングの猫」と呼ばれたゼップ・マイアーも終始上機嫌だった。彼はペーターのシュートに大喜びしてペーターに突進して、彼を突き倒して、キスを浴びせた。観衆は大喜びで大笑いした。90分後、負けた選手たちは全員地面に倒れ込んだが、実にフェアな試合だった。ソリストのひとりでも、怪我のために、緑の丘の次の公演をキャンセルなんてことになった場合を想像してみてください。でも、幸運なことに何も問題なかった。
このように、多くの観衆にとってだけでなく、もちろん選手たちにとっても、とても楽しいサッカー試合だった。FCヴァルハラがチャリティー試合に負けたことはどうでもよいことだった。良い目的のためのすばらしいアイデアこそが重要だった。その夜は「本部」でたっぷりの食べ物と冷たいビールで成功を祝った。
「全て私の意のままだ!(Alles hört auf mein Kommando!はドイツで1985年公開のトム・ハンクス主演のアメリカの喜劇映画の題)」との「バイロイトの北バイエルンクーリール新聞の「見出し」特に注目に値するレポーターはパウル・ブライトナー自身だった。彼は歯に衣を着せず思ったことを率直に言っているが、「彼のチームにはいわば一種の尊敬」があった。
「全て私の意のままだ!」FCヴァルハラのキャプテン、ペーター・ホフマンがイニシアチブをとった。それは舞台の上ではなかった。パウル・ブライトナー自身現役時代どちらかとえいば、ひとの言うことに従うというよりはひとに言うことを聞かせていたが、彼のチーム内にはある種の尊敬があった。そして、市役所の対戦相手にも尊敬をもって接した。
目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド
ナミビア:楽しい旅行
ペーター・ホフマンの部屋
ゲストブックから
表紙と目次
バイロイト音楽祭のソリストたちは当時彼らが呼んでいたところの「本部」つまり、ヴァイエンシュテファンホテル(Hotel Weihenstephan)に集まるのが好きだった。ある日、そこのソリストたちの指定席で、バイロイト音楽祭の歌手たちでチャリティーサッカー試合をやろうという話になった。
その結果、バイロイト音楽祭の歌手や音楽家たちがリハーサルや公演の後、各自の都合に合わせて集まって話し合った。重要なことも全然重要じゃないおしゃべりもあった。このリラックスした雰囲気の中で、議論はたびたび夜まで続いた。
たいていは女性だったが、ほんの一部の人を除けば、ソリストたちは全員、サッカーの大ファンだったから、バイロイト市役所選抜チーム対著名サッカー選手で強化された「ソリストイレブン」で、チャリティサッカー試合をやろうということになった。この計画はみんなを夢中にさせて、あっという間に1984年の音楽祭で大チャリティー試合を計画するという段階になった。
当時のバイロイト市長ハンス・ワルター・ヴィルドを説得するのは容易だった。市長はこのサッカー試合の意義を確信した。彼は自発的に市のスタジアムを無料で提供してくれた。ちなみに、今日このスタジアムには彼の名前がつけられている。みんながこの計画に夢中だった。ペーターが大のサッカーファンとして、直ちにチーム結成を始めたのは言うまでもない。この計画の実行には長い準備期間が必要だった。私は喜んで手伝った。
ソリストたちは「本部」で頻繁にチームミーティングをしながら、ほとんど毎日、祝祭劇場の舞台でその難しい役を歌っていた。すごいサッカー選手たち、もしくは、すごい歌手たちから成るこのすばらしい世界的選抜チームにふさわしい名前がすぐに見つかった。FCヴァルハラの誕生だ!
スポーツ用品メーカーのアディダスとの良好な関係があったペーターと私は私たちのチームのジャージーを作ろうと提案した。アディダスは喜んで新品の赤いFCヴァルハラの身支度一切のスポンサーになってくれた。そして、この緑の丘のヒーローたちは突如、数ポンドの体重オーバーまで含めて、まるで本物のサッカー選手のようになった。ペーターは天才的な提案をした。国際的に活躍していた、パウル・ブライトナー(Paul Breitner)、ゼップ・マイアー(Sepp Meier)、「我らがウーヴェ」ゼーラー(Uwe Seeler)のようなプロの元サッカー選手にFCヴァルハラを強化してもらおうというのだ。彼らはすぐに承諾してくれた。
ハンブルクのウーヴェに電話をかけたら、喜んで来てくれることを約束してくれたときのことはよく覚えている。試合当日、バイロイトの小さな空港に彼を迎えに行って、すぐに駅前通りの「本部」に案内した。ヴァイエンシュテファンホテルの向かい側の通りに車を止めて、ウーヴェ・ゼーラーと一緒に道を渡っていたら、小さなビアガーデンにいた数人のファンが同時にこちらに向かって叫んだ。「やあ、我らがウーヴェ!」そこで、彼は私にこう言った。「わかるだろ? こういう馬鹿はなかなか忘れてもらえないんだ」このチャリティ試合の全収益は善意の寄付にあてられるので、選手たちにも全く支払うことができないが、もちろん納得してくれた。
私たちの計画に対して祝祭劇場は常に肯定的だった。休憩時間にプログラムを売ったり、客を席に案内したりする「ブルーガール(訳註:バイロイト音楽祭では1952年以来このように呼ばれるアルバイトの女子学生が案内係をしているそうです)」 が、試合中に相当額の寄付を集めた。
音楽祭監督のヴォルフガング・ワーグナーも観客席を買った。妻のグドルン夫人がキックオフを行った。スタジアムのスピーカーから「アンフォルタスからウーヴェ・ゼーラーへのパス。パルジファルへの素早いパス。16メートル飛んで左コーナーへ!シュート・・・ゴール!」という放送が鳴り響いたとき、バイロイト市営スタジアムのおよそ5000人以上の観客は大喜びだった。その跳躍力から「アンツィングの猫」と呼ばれたゼップ・マイアーも終始上機嫌だった。彼はペーターのシュートに大喜びしてペーターに突進して、彼を突き倒して、キスを浴びせた。観衆は大喜びで大笑いした。90分後、負けた選手たちは全員地面に倒れ込んだが、実にフェアな試合だった。ソリストのひとりでも、怪我のために、緑の丘の次の公演をキャンセルなんてことになった場合を想像してみてください。でも、幸運なことに何も問題なかった。
このように、多くの観衆にとってだけでなく、もちろん選手たちにとっても、とても楽しいサッカー試合だった。FCヴァルハラがチャリティー試合に負けたことはどうでもよいことだった。良い目的のためのすばらしいアイデアこそが重要だった。その夜は「本部」でたっぷりの食べ物と冷たいビールで成功を祝った。
「全て私の意のままだ!(Alles hört auf mein Kommando!はドイツで1985年公開のトム・ハンクス主演のアメリカの喜劇映画の題)」との「バイロイトの北バイエルンクーリール新聞の「見出し」特に注目に値するレポーターはパウル・ブライトナー自身だった。彼は歯に衣を着せず思ったことを率直に言っているが、「彼のチームにはいわば一種の尊敬」があった。
「全て私の意のままだ!」FCヴァルハラのキャプテン、ペーター・ホフマンがイニシアチブをとった。それは舞台の上ではなかった。パウル・ブライトナー自身現役時代どちらかとえいば、ひとの言うことに従うというよりはひとに言うことを聞かせていたが、彼のチーム内にはある種の尊敬があった。そして、市役所の対戦相手にも尊敬をもって接した。
目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン
ロック・クラシック:大成功
バイロイト:ノートゥング
ゆすり
FCヴァルハラ:サッカー
ドイツ:ツアー
パリ:ジェシー・ノーマン
ニューヨーク:デイヴィッド・ロックフェラー
ボルドー:大地の歌
アリゾナ:タンクヴェルデ牧場
ペーターのボリス:真っ白
ミスター・ソニー:アキオ・モリタ(盛田 昭夫)
ロサンゼルス:キャピトル・スタジオ
ハンブルク:オペラ座の怪人
ナッシュビル&グレイスランド
ナミビア:楽しい旅行
ペーター・ホフマンの部屋
ゲストブックから
表紙と目次
こんばんは。
楽しいエピソードですね!
30年も前、日本ではサッカーの人気ってそれほどじゃなかったのではと思うのですが、ドイツはさすがですね。
バイロイトのソリスト中心にチームを作ってしまうなんて凄い!
元プロまで加わって本格的ですね。
ペーターは強力なストライカーだったのですね。(写真の太ももの筋肉に目が釘付けです)
ドイツのプロサッカー選手というとGKのカーン選手くらいしか私は知らないのですが。
けが人が出なくて本当によかったです^^
by ななこ (2014-05-25 23:38)
ななこさん、こんにちは〜
ヨーロッパはサッカーなんでしょうね。
元プロ選手たち、みんなネット検索するとちゃんと出てきます。
確かに国際的有名選手なんですね。
けがの危険もあるのに、こういうの積極的にやってしまうって
ある意味文化の違いというか民族性の違いがあるような気もします。
おおらかというかのびのびした感じがします。
by euridice (2014-05-27 07:51)